京都府生まれ。写真は「あすなろ園(心身障害児通園施設)」に勤務の頃の勇姿。24歳から44歳まで交野市。この園で関わった子どもたち、母親、先生たちから、人生で大事なことのすべてを学んだ。
45歳から、同志社女子大学、児童文化研究室へ。学生たちの苦悩の深さを知る。物語が人を支えるところを日々実感。70歳、退職。下は古希の写真。若き面影がなくなる老いも良いものだと思う。
アニメ映画視聴室から
『おそい・はやい』ジャパンマシニスト社・連載
目次
『アナと雪の女王』 (『おそい・はやい』91号)
『進撃の巨人』 (『おそい・はやい』92号)
『インサイド・ヘッド』 (『おそい・はやい』93号)
『シン・ゴジラ』 (『おそい・はやい』94号)
『君の名は。』 (『おそい・はやい』95号)
『この世界の片隅に』 (『おそい・はやい』96号)
『ズートピア』 (『おそい・はやい』97号)
『おおかみこどもの雨と雪』(『おそい・はやい』98号)
『トイ・ストーリー』 (『おそい・はやい』99号)
『聲の形』 (『おそい・はやい』100号)
『思い出のマーニー』論 ーもう一つの「アンネの日記」体験へー
『アナと雪の女王』
『アナと雪の女王』は、2013年公開のディズニー製作3Dコンピュータアニメーションでした。このアニメは大ヒットして、2013年度アカデミー長編アニメ映画賞受賞作品に選ばれました。日本では映画はもとより、主題歌「レット・イット・ゴー
」も大ヒットし、映画がよかったのか、歌がよかったのか、と言われるほどでした。
あらすじは、よくご存じだと思いますので、詳しくは述べませんが、物語の設定は、触る物を凍らせてしまう「異能の手」を持って生まれた姉・エルサと、その姉をしたう妹・アナの姉妹の物語でした。映画は幼い二人が仲良く遊んでいるところから始まりますが、ちょっとしたことで、姉の「異能の手」が妹を傷付けてしまいます。それで両親は、姉の手にてぶくろをさせて、宮殿の一室に「隔離」してしまいます。妹が一緒に遊んで欲しくて姉の部屋の前に行くのですが、とうとう開けてもらえませんでした。
そして月日は流れ、両親は海で遭難して亡くなり、姉妹だけが残されます。やがて、姉が国の君主となる年頃になり、戴冠式が催されます。その時に、ようやくエルサがみんなの前に出てきます。でも、てぶくろを外した手は「異能」を発揮し、家臣や市民はそれを見て驚きます。エルサは、そんな手を持つ自分に苦しんだあげく、宮殿を捨てて、一人雪山に登ります。そこで主題歌の「ありのままで生きるの」が歌われ、観客は、そうよそうよ、ありのままで生きなくちゃ、ということを教えられたように感じて、思うように生きていない自分とエルサを重ねて、エルサを応援することになります。
あらすじの半分をたどれば、そういうことになるでしょうか。雪の宮殿で、激しくも華麗に歌われるこのエルサの歌によって、観客は一種の催眠に掛かったようになってエルサとの一体感を覚え、「ありのまま」がいいのだという心情にひたります。物語は残り半分続くのですが、映画館を出るときには、この主題歌が頭のカに鳴り響いていて、物語をそっちのけにして「ありのままに生きようとしたエルサが素敵だった」という感想が多くの観客の心に残ってゆくことになりました。
映画から、「ありのままの自分を認める」メッセージを受け取ることは、もちろんいいと思います。映画製作者達も、そういうことを望んでいると思います。
しかし、そのことを前提においた上で、改めて物語を振り返ってみると、多くの観客が「感動した」ということの中身と、物語が見せているストーリーに、なにやら妙なちぐはぐさがあるのが見えてきます。この物語は、本当に人々が感動したような「ありのままに生きるのがいい」というような展開になっているのかと思われるからです。
そもそも「異能の手」を持った姉は、その手の力が危険だからというので、戴冠式(成人式と見ていいでしょう)まで、周りの人との関わりを断たれて暮らしているのです。よくそんなひどい設定をディズニーは考えたものだと思うのですが、そういう設定になっています。触れる物を凍らせてしまうその手は、自分でコントロールする訓練をすればできないわけではないし、手袋をはめているときはその力が過剰には出てこないということになっています。だとしたら、妹やみんなの中で暮らす工夫はいくらでもできたはずなのに、両親は「みんなとの隔離」という選択をしてしまいます。あまりにも愚かでひどい選択なのですが、おあつらえむきに両親が亡くなってしまうので、両親の判断を非難する前に、姉妹の可哀相な境遇に同情がいくように仕向けられていて、ディズニー特有の、大事な問題を回避させるテクニックに乗せられてしまいます。
そんな、「みんな」とかけ離れた場所で生きてきたエルサが、戴冠式にいきなり出てきます。そして「てぶくろ」を外すと、案の定「異能」が発揮され、触れる物を凍らせることになり、「みんな」は「化け物」を見るようにエルサを見てしまいます。そこでしかたなくエルサは、宮殿や町を後にして、雪山に登り、「ありのまま」を謳歌する歌を歌うことになるわけです。観客はその時、「みんなと違う手」を持ったがために長い間閉じ込められ、やっと出てきたら「みんな」から「化け物」扱いされるという、エルサの不幸に感情移入して、エルサを我が事のように感じて応援する事になってしまいます。しかし、もしそんなエルサを応援するなら、宮殿や町の人々の暮らしをどんどんと凍らせることを応援してしまうことに観客は気がつかないのです。エルサの「ありのまま」を応援すればするほど、町は氷と雪に閉ざされ、人々の暮らしを最悪のものにしてゆくことを応援することになっているにもかかわらず。
そんなことで良いわけがないのです。何を考えないといけないのでしょうか。おろらくエルサは、極端な主人公に作られすぎているのです。「異能」を、全面的に「封印」されたり、逆にありのままに、全面的に開花させられすぎたりしているのです。映画の製作者は、封印され閉じ込められた主人公が、自分を解放するのを観客が見ると、きっと共感するだろうと思っているのです。そして、確かに映画は大ヒットしてゆきました。
でも、物語は、エルサの「ありのまま」を通せば、周りの世界はどんどんと「冬」になることは観客もよく分かっています。なんとかして、そこからエルサを、呼び戻す必要があるのです。ありのままに生きるのではなくて、「異能」をコントロールする自分を創るように促さないといけないのです。
物語の後半では、妹のアナが、姉にそのことを気づかせます。そして、少しづつエルサは自分の力をコントロールできるようになり、凍ってしまった町に「春」を戻すようになってゆきます。
この映画は、確かにいろんな複雑な筋が入り組んで展開されているのですが、エルサの「異能」にかぎって考えれば、そういう「異能」は誰もが持っているものだと思わないわけにはゆきません。でも、そういう「異能」を極端に封じたり、極端に開放したりするだけでは、その「異能」は決して生かさせることはないんですね。もしディズニーが、そういう「異能」を生かすテーマを見据えて、この映画を作っていたのだとしたら、それは敬意を払わなくてはいけないだろうなと思います。
『進撃の巨人』
私がこの作品に出会ったのは、夜中にニュースでも見ようと思ってテレビを付けた時でした。まさに「人を食いちぎりながら歩く巨人」のアニメが飛び込んできたのです。エエッ! 嘘だろうと思いましたね。そんな映像をテレビで流していいのか! たとえアニメであろうと「人を食う」などという場面を描いていいのかと。
『進撃の巨人』の作者、諫山創(いさやまはじめ)は1986年生まれで、19歳のデビューだというから、とんでもない異才です。こんな人を喰ったような作品を誰が見るのだろうと思っていたら、漫画本の売り上げが、2015年で5000万部を突破していたというから、そのインパクトは私だけではなかったんですね。
物語のあらすじは、といってもまだ物語は終わっていなくて、謎が一杯残されたままなのですが、そんなことを言えばいつまでも論じられないので、まずは漫画本での大まかな概略を説明いたします。その概要は実写映画三本にも踏まえられていますから。
あるときに人を喰う巨人が出現し、彼らから身を守るために、人々は高い城壁を三重に巡らせた都市を築き、その内側で100年平穏に過ごしてきました。しかし、突如、その城壁を越える巨人が出現し、壁の一部が破られ、そこから大小様々な巨人たちが城壁の中に入り込み、人々を食べ始めます。その巨人達に対して、兵団が組織され、若い兵団たちが立体機動という、空中を自在に飛び回れる装置を使い、巨人の弱点であるうなじを攻撃し次々に巨人を倒してゆきます。しかし、なぜ、巨人たちが現れるのか、なぜ彼らは人間を捕食するのか、皆目分からない。そうこうこうしているうちに、兵団に中に巨人化するものが現れる、巨人は「外」からやってくるだけではなく、「仲間」の中からも現れてきた。いったいどうなっているのか。普通の人間にも巨人化する仕組みがあるのか。こうして謎が謎を呼ぶようになり、読者は目が離せなくなる・・・。
しかし、なぜ巨人が生まれたのかとか、なぜ巨人は人を食うのかとか、なぜ人間の中に巨人化する者が現れるのか、などということを「理屈」で考えてもらちがあきません。いずれは「理屈」で「説明」されるのでしょうが、でも「お話」というか「物語」なんですから。先ずは「物語」として味わうのが大事かと思います。
「物語」として考えれば、この「人を食う巨人」というのは、これがはじめの話ではありません。日本で言えば「一寸法師」にも鬼に人が食べられる場面が出てくるからです。そして、飲み込まれた一寸法師が胃袋の中で消化されず、針の刀で、ちくちくと腹を刺したので、鬼は痛がって法師を口から吐き出します。そして鬼は逃げ、投げ出していった打出の小槌を振ると一寸法師がずんずん大きくなりましたと、絵本や「まんが日本昔ばなし」には、絵入りで必ず描いてあります。こういう、「人を食う鬼」や打出の小槌で「巨人化する一寸法師」というのは、ある意味では、「進撃の巨人」の設定にとてもよく似ていることがわかります。
そして、そういう比較を考えることはとても大事だと私は思っています。大人になると「一寸法師」などという話は、頭から馬鹿にしてしまうものですが、でも研究者にとっては、「鬼」や「打出の小槌」とは何かは、永遠のテーマでもあり続けています。そのテーマが、老いた国文学から若い漫画家に引き継がれていると考えるべきかも知れません。
もちろん巨人化するテーマは、ウルトラマンでも描かれてきていますし、『ジャックと豆の木』や『ガリバー旅行記』にも描かれてきたもんです。『進撃の巨人』で巨人を倒すために発明された立体機動装置という空を自在に飛ぶ装置も、映画好きの人なら、映画の「スパイダーマン」が、クモの糸をぴゅとビルの壁に飛ばして、空中を飛んで行くのに似ているなあときっと思われたと思います。
しかし、そうはいっても、ウルトラマンやガリバーの話に「人が食われる」話は出てきません。そこは『進撃の巨人』のオリジナルなところです。そこはどう考えたらいいのかということです。物語が、完結していないのだから、なんとも言えないのではないかという意見もあるかと思いますが、ここは一つ勇み足覚悟で、大事なところは考えておきたいと思います。
それは、作品において、「外側」にいる巨人が、城壁の破れから、城壁の中に入ってきて人間を食ったり、また「内側」にいて仲間だと思っていた者が、「巨人化」して人を襲ったり、味方を助けたりする設定についてです。それをどう考えたらいいのかということです。絵柄や映像を見ているだけは、異様な設定ですから、嫌悪したり興奮するしかないのですが、少し冷静に考えてみたら、こういうことは全くあり得えないわけではないことに気がつきます。
この三重に構築された城壁を、人間の体そのものと考えてみるとどうなるかということです。その城壁は人間の体を守る皮膚や細胞壁のようなものだと考えてみると、そのしっかりと体を守っているはずの皮膚や細胞壁の一部が破れると、そこからウィルスなどの病原菌が侵入してきます。その菌は人間の細胞を食べながら増殖してゆき、ついには三重にも守られているはずの中枢部へ到達する・・・。あるいは体の内部の細胞が癌化して巨大化して、内部から体を崩壊させることが起こる・・。
そういう惨事を「物語」として早くに描いたのが、デフォー『ペスト』やカミュ『ペスト』でした。デフォーは1665年のロンドンで起こったペスト大流行(14世紀には1億人がなくなったと言われています)を物語にし、カミュはその不条理さをかみしめながらも、ペスト菌と戦う人間の姿を描いていました。ウィルスや最近は、人間にとっては昔も今もまさに「小さな巨人」なんですね。
そういう風に見れば『進撃の巨人』は歴史的にも、文学的にも長い歴史を持つテーマを扱っているところが見えてきます。また、最近のニュースでは、世界の富の約半分を1%の富裕層が所持してる、といった胸くその悪くなるような統計が話題を誘っていますが、これなどは、本当に「人を食い物」にしている者が世界にいるということなんですね。ひょっとしたら、そういう仕組みに若い人たちが気づくように、この漫画がなっているのかもしれません。中国では、まさにこの漫画は禁止アニメになっているものですから。
『インサイド・ヘッド』
主人公は、11歳の女の子ライリー。ミネソタの田舎から大都会のサンフランシスコに引っ越してきたところから物語は始まります。そのライリーの不安を、映画は、5つの感情たち、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、のやりとりとして描いています。確かに、喜び、悲しみ、怒り、むかつき、恐れ、といった感情で人は動いているのですが、その感情が擬人化されたキャラクターとして動き回り、それがライリーの心の中で起こっていることとして、「理解」することは、11歳の子どもたちには「むずかしい」というか、大人でも難しいと思われます。でも映画を見るということは「理屈」で見るわけではなく、「感覚」で見るわけですから、その「感覚」を大事にたどってみたいと思います。
映画を見ていてはっきり分かることは、ライリーが元気なときは、ヨロコビが活躍している時だということです。そして、ヨロコビはいつも元気なんですから、彼女がいるかぎり「心」も元気でいられるはずなのですが、そうはならないのです。というのも、ヨロコビの近くには、いつもおどおどしたカナシミがいて、触ってはいけないといわれている「心のボタン」をなぜか不用意に触ってしまって、ライリーを悲しくさせてしまうのです。映画では、そういうカナシミの行動が、どんどんと波紋を広げ、ライリーと家族全体を淋しく暗いものにしてゆきます。その崩壊寸前の心を、ヨロコビたちが何とかくい止めようと頑張る、という展開になっています。映画を見ていてはがゆいのは、なんでヨロコビのそばにカナシミがいって、不用意なことをするのかということです。カナシミにうろうろさせなければ、物語はもっと楽しい展開になるはずなのですから。
観客がそんなふうなはがゆさを感じるのは、感情の5つのキャラクターが、自由に動ける物語の主人公たちのように感じているからです。でも「心」というのは、物語のキャラクターのようには、動いていないんですね。
実際には、ではどういうことが起こっているんでしょうか。
物語の一番大事なところは。ライリー一家の「引っ越し」にあります。そこを忘れるわけにはゆきません。「引っ越し」というのはいつでも不安なものです。慣れ親しんだ友だちや自然とお別れし、見ず知らずの、友だちや町並みに出会わなくてはなりません(『千と千尋の神隠し』も10歳の千尋の「引っ越し」の場面から始まっておりました)。
「引っ越し」と一言で言ってしまうと、大事なことが見落とされます。というのも、そこには、引っ越す前には持っていたものの大きな「喪失」というテーマがあったからです。両親には新しい土地での忙しい生活が待っているのでしょうが、ライリーには、「失われたもの」があまりにも大きいので、新しい世界になじむことができません。
ここで大事なことは、この「失われたもの」を避けて、新しい世界に出会おうとしても無理があるということです。たとえば、東北大震災で、愛しい人を失った人、原発の事故で故郷を失った人、を考えてもわかります。「失ったもの」を簡単に忘れることはできないからです。
そこで始まるのが「グリーフワーク」といわれる過程です。「グリーフ」とは「悲しむ」ということで、しっかりと悲しむことが、「グリーフワーク」の大事なところです。「悲しむ」とは、失ったものに向き合い、話しかける作業です。「話す」とは「離す」ことで、「失ったもの」と話をすることで、少しずつ、それを自分から離してゆくのです。
ライリーは、そういう意味では、失ったものがあり、悲しみでいっぱいであるにもかかわらず、感情のキャラクターたちは、ライリーを喜ばせることばかり考えて、「カナシミ」に仕事をさせないように振る舞います。その結果、ライリーはますます失ったもの(過去・思い出)から離れられず、身動きがとれなくなっていたのです。
映画では、その状況を、「カナシミ」のおろおろする姿として描いています。そして映画を見ている人たちも、このおどおどしながらも、迷惑なことしかしない「カナシミ」を見て、この子さえいなかったら、ライリーはちゃんと元気でいられるのに、とか、この映画はもっと楽しくなるはずなのに、とか、きっと思うのではないかと思われます。でも、「カナシミ」にしっかりと仕事をさせないようにしていること自体が、ライリーをどんどん悪くしていっていることには、観客も気がつかないのです。
そのことを考えると、実は映画の主人公は「カナシミ」であることがわかります。でもみんなは「カナシミ」に出番を与えないように、ライリーから「カナシミ」を遠ざけようとしていました。その結果、ライリーはどんどんと、調子が悪くなってゆきました。
「喪失」感というのは、「失った」とか、「無くしてしまった」とか、「消えてしまった」と思う気持ちです。でも「失ったもの」と話をし続けることで、それは「無くなった」のではなく、「どこかに離れて在る」というふうに思えるまでに到ります。それが「悲しむという仕事(グリーフワーク)」の成果です。
ライリーは、思い悩んだ末に、ミネソタに一人で帰ろうと思います。そしてお母さんの財布から拝借したクレジットカードでバスの切符を買い、出発します。この「罪」を犯す展開で、5つの感情キャラクターはさらに大混乱に陥るのですが、でもライリーは「罪」を犯してまで、はっきりと故郷と向かい合おうとしたことで、実は大事なことをしていたのです。映画では、その後、バスを降りることで、再び新しいサンフランシスコと両親の元へ帰る決心をしたライリーを描いています。ちょっと早い展開ですが、それでもいいと私は思いました。ライリーは、一人で「グリーフワーク」をしていたんですね。
映画の日本の題は、『インサイド・ヘッド』(2015年7月日本公開)ですが、映画の原題は「Inside Out」で「内側を表に」とか「裏返しに」という意味でした。なので「ヘッド」という言葉を意識しすぎてはいけません。映画は、ライリーの「ヘッド」の中で起こっているということではなく、「胸の内」「心の中」で起こっている事を映像化しようとしている作品だったのです。
「シン・ゴジラ」
2016年夏公開の『シン・ゴジラ』は、絶賛する人たちであふれていました。日本版CG映画としての意気込みも半端ではなく、俳優陣も豪華絢爛でしたし、何よりも『エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明が作った映画としても宣伝され、注目されました。
監督は1954年に制作された第一作目の『ゴジラ』のあり方に近づけるように制作したと語っていました。初代のゴジラと、その他のゴジラの違いは、ゴジラの敵対する怪獣がいるかいないか、というところにあります。初代のゴジラには、戦う相手はいませんでした。そして今回の『シン・ゴジラ』も、怪獣同士の戦う映画にはならず、初回ゴジラと同じように、たった「一匹」で、ひたすら東京に進撃し、大都会を壊して歩く存在として描かれていました。
「敵対する怪獣」がいない「一匹としてのゴジラ」を描くとなると、当然、何のために「やつ」はやってくるのかという、ことになります。その意味や意図を巡って、いろいろと憶測が広がります。第一作目の『ゴジラ』は、南海の海底に生息していた古代の恐竜が、度重なるアメリカの水爆実験の放射能を浴びて巨大化して、日本へやってきたという設定でした。放射能の被害に腹を立ているのなら、アメリカへ向かえば良いのに、なぜか日本の東京へやってくるのです。そういう設定を、今度の『シン・ゴジラ』も踏まえていて、海底に沈められていた放射能廃棄物を食べて強大化した生物が東京へやってくるというふうになっていました。
『シン・ゴジラ』が第一作目の『ゴジラ』と違うところは、2011年3月に起きた、大津波や福島原発事故を背景に踏まえているように見える所です。あの時の「津波」や「原発事故」のようにして現れた「ゴジラの進撃」に対して、国会や政府機関の議員、役人達が、その対応、対策を巡って右往左往する様子が描かれ、いかにも「東日本大震災」を彷彿させるものが映画では描かれていました。だから『シン・ゴジラ』は怪獣対怪獣の映画ではなく、怪獣対日本国政府の映画なのだという「説明」もなされてきました。
そういう映画説明に、ことさらに異論があるわけではありませんが、それにしても、この進撃する「シン・ゴジラ」に対して、「日本政府」は、国連や多国籍軍の協力を取り付け、ミサイル攻撃をし、それが効かないので、原爆を落として殺す決定をする、というアメリカ映画のような無茶な設定をしています。もちろんその決定の実行には猶予期間が設けられるわけで、その間に民間の研究所を総動員して「血液凝固剤」のようなものを開発して、ゴジラに注入し、ゴジラを「倒す」ことに成功します。まるで、福島原発事故の処理の映像を見ているかのような展開でした。
しかし、振り返ってみて、ゴジラ映画を観に行く人は,そんな国家や政府の右往左往の様子を見るために出かけていったのだろうかと私は思います。確かに「ゴジラ」は、戦争、災害、破壊、暴力、怒り、病気、敵、死などなどのマイナスの象徴ではあったのですが、日本でたくさん創られてきたゴジラ映画には,悪い怪獣と戦って地球を守ってくれるものでもありました。だから、子どもたちは怪獣のオモチャをよく買ってもらっていたものです。無敵のゴジラは、子どもたちにとって、どこか自分を守ってくれるように感じられる所があったからです。父母や兄弟から危害を加えられて育ってきた子どもが、心理治療として使われる箱庭にオモチャを並べて、最後にゴジラを取りだして、家や父母や兄弟のミニチュアを足で踏みつぶす作業をすることがしばしば報告されてきました。
子どもが「ゴジラ」に託す思いは複雑なものでした。恐ろしいゴジラでありつつも、そこに「癒しとしてのゴジラ」を見てきた子どもたちはたくさんいたからです。そもそも子どもにとって「大人」は「嫌な怪獣」のようにしか見えないときがあるものです。そういう「怪獣」から自分を守ってくれるのは「ゴジラ」しかいないという子どももいたものです。
そういう意味では、今回の『シン・ゴジラ』の「ゴジラ」を、震災の象徴や,原発事故の象徴と見なして、それに対応できない政府の右往左往を描いているというふうな映画鑑賞をするだけでは、往来のゴジラファンには納得のできないものがあると思います。無敵の破壊神のような存在でも、子どもには「救い」と感じられる側面もあるからです。
わたしには最初の『ゴジラ』1954年版に忘れられない言葉があります。それは「ゴジラ」をなんとしても倒そうとする人々に向かって、山根博士が「放射能をあびても死なないゴジラの不思議さをなぜ研究しようとしないのか」と言い放つ場面です。「ゴジラ」が引き起こす目の前の大惨事に対して、今それを一刻も早くくい止めなければならないときに、のんびりとそんなゴジラを研究すべきだというのは、お目出度い学者の発想だと当時も冷笑されたものでした。
でも、そういう山根博士のようなことをいう人が『シン・ゴジラ』の中で描けていないところが,この映画の物足りないところだとわたしには感じるところがありました。巨大なチェルノブイリや福島の原発事故のときにも、大量の放射能を浴びながら、それでも生き延びる多くの動植物がいて、それを真っ先に研究する人たちがいました。自然災害や原子力の災害に立ち向かうには、その本体の発生の仕組みをどうしても調べる必要があるのと同じように,「ゴジラ」に立ち向かうためには,「ゴジラ」を調べるという視点がどうしても必要なんですね。そういうメッセージを初代の映画『ゴジラ』は与えてくれていたのですが、『シン・ゴジラ』は、どこからともやってくる『エヴァンゲリオン』の「使徒」のようなゴジラを、どうやって倒すのかばかりに焦点が合わされていたように、わたしは感じました。
かつて、どこからかやってきて、ヨーロッパの人々を実際に何千万人も無慈悲に殺した「怪獣」がおりました。ペストです。そのペストとの戦いを描いたのがデフォーの『ペスト』中公文庫や、カミュの『ペスト』新潮文庫なのですが、この凶暴で無慈悲な殺戮者を本当に倒せるようになるのは、ペスト菌の研究によってでした。
世界で起こるあらゆる「不幸な対立」は、「対立する相手」を深く知るという「相互の研究」によってでしか取り除けないことを、わたしたちは映画を通してでももっと学べたらいいのにと思っています。
『君の名は。』
『君の名は』は、よく工夫されて作られたアニメで、映画観では近くに座っていた中学生や高校生風の女の子達がしきりに泣いているのが印象的でした。おそらく「大人」では泣かない場面で、泣いていたような気がしています。興業収入は1ヶ月で100億円を突破したというようなニュースも流れていて、その後の快進撃を考えると、恐ろしい興行収入を上げるモンスター級の特大ヒットになっています。毎日新聞には、「もう一本他の映画も見てみよう」という異例の記事(2016.11.2)が出たほどでした。
映画の表向きの「工夫」というのは、「思春期の男女の入れ替え」という設定だったので、男女、両方の観客を取り込むことができた、ということもいえるでしょうが、でも、そういう設定だからといって、どんな映画でも特大ヒットするわけでもないので、当然中身の「工夫」が優れていたということです。
映画の特徴は確かに「男女の入れ替わり」にあるのですが、そこにテーマがあるわけではありません。丁寧に言えば、入れ替わった二人が、お互いを知ろうとし合う「探し求め」にあると思います。でも一時期は流行った「自分探し」というような「内向き」のものを探すという話ではなく、見ず知らずのものに見つけた自分との「接点」をたどって、歴史や地理にでてゆく、そんな「外に旅する」物語なのです。この映画を見た人が、舞台となった岐阜や諏訪湖に押し寄せたというのも、そのことを示している新しい現象でした。観客も「外への旅」をしなくてはと思ったのです。
映画の大事な所は、入れ替わった二人が、なんとかしてその奇妙な出来事を記録に残して、その「手がかり」を元に「相手」を見つけようと試みるところです。おそらく若い観客の多くは、そんなふうにどこまでも「相手を知ろうとする努力」に共感を示していたのではないでしょうか。この映画では、「届かない相手」「合えない相手」との間に、さまざまな「手がかり」を残します。ノートや、スマホや、スケッチブックや、手や、顔への落書きといったものを含めて。
私が特に面白いと思ったのは、都会に住む瀧が、夢の中で見た山と湖と洋風建築のスケッチを「手がかり」に、山岳図鑑や建築雑誌などを調べ、そのスケッチに似た場所、地名の目星をつけてゆくところです。そしてとうとう、そういう山と湖と洋風建築のあるところを見つけます。そこが糸守湖のある糸守町でした。彼はそこでやっと三葉に会えると思っていたのに、そのスケッチの場所は、無残にも彗星の欠片が落ちて、村や町や湖が、跡形もなく破壊されていました。そして町の図書館で、その時の災害で亡くなった人たちの名簿の中に、三葉の名前を見つけたのでした。映画を見ていた人は、その時一斉にびっくりしたと思います。三葉はもう死んでいたのか、と。
本来なら、話はそこで「終わっている」はずなのですが、そうならないところがこの映画の見せ所でした。瀧は三葉の造った口噛み酒を飲んで、3年前の三葉に入れ替わり、彗星の衝突から町の人を避難させることを訴えます。そしてまた山の上の「黄昏時(たそがれどき)」という特別な時間帯の短い間に、なんとか出会うことを試みます。でも、「黄昏時」は短すぎて、二人はお互いの名前をしっかりと確認し合わないままに離れていってしまいます。
結果的には、この瀧の行動が実を結んで、町の人々の避難は成功し、映画では死者は誰もでなかった事になっていました。でも、そうなったかどうかは、元の東京に戻った瀧にはわからず、その後もう入れ替わりも起こらず、再びいろんなことが記憶から消えてゆく日々を送っている中で、二人はまた偶然に出会う機会を得ることになります。映画の大まかな展開はこういうところでしょうか。
もちろん映画ですから、つじつまの合わないところや、無理矢理な展開があるわけですが、若い人たちに向けてはっきりしたメッセージは伝えていたと思います。それは「終わったように見えるものでも終わっていない」というメッセージです。
私たちは日々「大事な歴史」をたくさん忘れています。映画では3年前に怒った隕石に衝突といった大事件を主人公の瀧は覚えていないのです。そんな大事件をなぜ、と思うのですが、東日本大震災でも、広島の原爆投下でも、多くの人は忘れているのですから、主人公を責めるわけにはゆきません。そういう大震災でも、ちょっとでも自分に関わる「接点」に気づけば、それを「手がかり」に、そこに向かってゆくことができるようになるものです。
私はこの映画全体を振り返って、この映画の仕組みそのものが、実は私たちが物事を「理解」するということの仕組みを見せているかのように感じたものです。それは「理解」するとは「探し求め」なのだということについてです。そして人は「大事」だと思ったものだけを「探し求める」のではないか、ということについてです。「大事」なことというのは「自分との接点」があることに気がつくということです。そしてこの「接点」は「探し求め」の中で「見つかる」ということについてです。
映画では、糸守町にある宮水神社の巫女の舞や、言い伝えや、口噛み酒や、組紐や結びのことが出てきます。若い人たちには新鮮に映ったかも知れない、こうした田舎の伝統や古いしきたりは、いくら大事だと言っても、自分との「接点」がないと「理解」の対象にはなってゆかないのです。事実、三葉自身が、この古い町伝統を嫌がっていたのですから。
映画監督の新海誠は、若者の中で切れてゆく、「伝統」と「現代」の間の結び方を探していたのだろうと思います。そういう問題意識を持っているところが、この若い監督の、新しさであり、優秀さだったと思います。そして、その問題意識が若い人に必要であることが共有され、映画の大ヒットにつながっていたのではないかと私は思います。私は個人的には組紐や結びの映像を出していったところに、この監督の繊細さをよく感じることができました。
最後に思うことですが、実はこの優れた映画は若い新海誠監督が一人で創り出せたものではないというところです。というのも、この映画の作画監督をつとめた安藤雅司という人は、『千と千尋の神隠し』の作画監督をつとめた人でもあったからです。『千と千尋の神隠し』ではハクが「私の名がわからない」という場面がありました。安藤氏を通してジブリの培ってきた深い知恵が、新海誠の映画に注ぎ込まれていたところは無視できないと私も思っています。優れたアニメの「伝統」が、ここで継承されていたんですね。
『この世界の片隅に』
戦時下に生きた主人公すずの描き方
「うちゃ、ただでさえ、ぼおっーとしとるもんで」。
映画が終わっても、この言葉がずっと頭のなかに鳴り響いていたもんです。不思議な映画を見たもんです。映画の背景には、戦争や原爆投下の悲惨な時代が描かれているのに、見終わったあとには、「ぼぉーとしとるもんで」といいながら生きていたすずさんが、いまもどこか、すぐそばに生きているような、妙な感覚に浸されていたからです。
この主人公すずさん、誰なんでしょうか。画面上では、しばしば幼すぎるように描かれている顔立ちや体つきのすずさんですが、家事のやりくり、嫁ぎ先の気の滅入る人間関係にユーモラスに対応していて、見かけによらず「しっかり」していると誰もが感じたと思います。でも、結婚後、円形はげができているといわれます。すずさん、ものすごく気を遣って生きていたのです。そのことを観客に悟られないように、明るく、めげないたちふるまいをするようにすずさんを描いていたところが、この映画のすごいところだったと私は思います。
「わろうて、くらさにゃ、いけん」と、たしかすずさんはつぶやいていたと思います。食べるものも着るものも、なにもかもが不足しつづける戦時下の暮らしのなかで、なにを「笑う」ことがあるのかとふつうは思うのですが、この映画には戦時下に「笑う」暮らしがあったことを描こうとしていたところにも注目すべきです。
もちろん、主人公に「笑う」要素が設定されているからといって、すずさんが常に明るく描かれているわけではありません。夫・周作さんとの結婚とは別に「意中の人」がいたことも描かれ、その「意中の人」が厚かましくも結婚しているすずの家に押しかけてきて、すずと夫婦漫才のようなやりとりをするような場面も描かれ、はらはらさせられます。
さらにその男(水原さん)に、すずの夫が一晩家の離れに泊まるようにすすめ、その離れに暖房用の足コタツを持って行くようにすずに促す場面が出てきます。そこまでしなくてもと、思うのですが、周作の煮えきらない優しさが見える一コマです。その結果、すずはそこで長年の思いを吐き出すところも描かれます。
そりゃそうですよね。戦時中でも、「ぼおっーとしとる」ように見える人にも、さまざまな出会いがあったわけで、結婚するまでに、好きになる人などいるわけですから、そういう微妙に複雑な心のあり方もこの映画はちゃんと描いています。すずさんは「聖女」のようには描かれていないのです。
もう一人、ハラハラさせられる人に、夫の姉の、徑子(けいこ)さんがいます。周作さんと、目の細いところがよく似ています。映画では夫と死に別れ、長男を夫の実家に跡とりとしてひきとられ、自分は妹の晴美を連れて実家にもどってきます。
映画の大部分は、この径子さんが、ことごとくすずさんにつらくあたる、意地悪な人のように描かれますが、ただ意地悪な人でもないんですね。彼女は戦争前に流行った最先端のモダンガールを生きていた人で、その考えからすれば、すずの着る服や立ちふるまいのすべてが、田舎くさく、目障りに見えていただけで、心根までが意地悪なわけではありません。そしてこの径子さんがいなければ、すずのもつ「おっとり」の特徴も観客にうまく見えてこないところもあるのです。
右手を失ったその先にある希望
先に、すずさんとは誰かとたずねました。「絵を描く人」というのがストレートな答えかと思います。鉛筆がちびるほどに絵を描くことが好きな人。映画のなかでは、小学生のとき、水原君の代わりに描いた絵、呉の遊郭の女性リンさんに描いてあげる絵、ふだんの食事で食べられる雑草をスケッチしたもの、ハガキに描いた絵など、さまざまな絵が出てきます。これはどういう意味をもっていたんでしょうか。
おそらく、すずは「言葉を操る」のは苦手で、だから言葉を使わないぶん「おっとり」と見られていたのだと思いますが、でも言葉の代わりに「絵を操る」人として登場し、この「絵」が気持ちを伝えるもうひとつ重要な役割をはたしていました。文字が読めない人でも、「絵」ならわかることもあるからです。
すずが鉛筆のちびるほどに絵を描いているのは、言葉にならないものを「伝えたい」気持ちがあるからです。まわりの人もそれがわかっていて、すずに鉛筆やノートをあげて、めげそうになるすずの心を支える役割をはたしています。もちろん、呉の軍港を描いたことで憲兵にしょっぴかれるシーンもあるのですが、それを「大笑い」のネタにしているのも見事な展開でした。「絵」が、スパイの伝達手段でもあったことがわかる場面です。
そして、この「絵」が、アニメ『この世界の片隅に』として、多くの観客に、忘れ去られようとする大事なものを「伝える」役割をはたしていたことを思うと、この映画の主人公が「絵を描く人」として設定されていることの重要性は、いくら強調してもしすぎることはないように思います。
『この世界の片隅に』は戦争映画ではない、戦時下の人々の暮らしを描いた映画なのだと片渕須直監督もくり返し語っていました。物資のない、空襲下での三度の食事と日々の日常生活は、創意と工夫できりぬけるしかなかったわけで、そういう生活が笑いとともにあったことが庶民の底力のであったことを監督は、しっかりした時代考証を踏まえて描いています。
だからといって、戦争が笑いのなかで薄められているかといえばそうではなく、映画の最後には、すずは自分の右手とともに、まさに「聖女」のように生きていた晴美を、不発爆弾でなくしてしまいます。半狂乱になるかと思われるような母・径子の怒りと悲しみ。すずを「人殺し」と責める径子。母でもない私たちでも、晴美まで奪うのかと、見ていて思います。
そして、同時にすずの絵を描く唯一の右手も失われたことを知らされて、そんな不幸まで描くのかと思います。この救いのない気持ちどこにもっていけばよいのか、誰にぶつければよいのかわからない怒りと悲しみが、観客を襲います。
でも、最後の最後に、広島の焼け跡のなかにおきざりにされた少女を、周作とすずが、おぶって帰る場面が描かれます。まるで落ちていたリンゴを拾うかのようにして、なんのためらいもなく少女をおぶって二人が帰ります。なにかしら言葉にできない希望がパァーと広がってゆくようでした。周作におんぶされて寝ている少女のうしろ姿を見て、うれしい場面なのにしっかりと泣いてしまいました。
映画は昨年の11月、全国でたった六〇箇所の上映から始まったのに、今年の1月に入って観客数が増え、上映映画観も一八〇箇所に増え、第九〇回キネマ旬報日本映画一位、第四〇回日本アカデミー賞優秀アニメーション賞を受賞することになりました。うれしいかぎりです。
すずさんの声(能年玲奈、芸名改めのんが声優を務め、「奇跡の演技」とまでいわれた声の演出をしています)がまたひとつ聞こえてきそうです。
「ほいでも、あしたの食事は、まかせてつかあさい」。
「ズートピア」
「ズートピア」とは、草食動物(90%)と肉食動物(10%)とが共存して仲良く暮らすことになった理想の都市につけられた名前で、「ユートピア」のもじったものでした。その理想の都市に、草食系と肉食系の仲を裂くような一大事件が起こります。映画はこの事件の謎を解くために奮闘する、警察官に採用されたばかりのうさぎのジュディと、ひょんなことから知り合いになった詐欺師のきつねとのニックとの「相棒」の物語です。
映画のストーリーは、少し手が込んでいて、丁寧にまとめないと大事な所が伝わらないので、できるだけ、映画に即して物語りをまとめてみます。
事件は、動物が次々に行方不明になるところからはじまります。警官になりたてのジュディも、花屋の夫人から、おとなしいカワウソの主人の行方不明についての捜査をお願いされます。それでニックと調べてゆくと意外なことがわかってきます。おとなしかったはずのカワウソの主人がある日凶暴化して、他の動物に襲いかかり、その後ゆくえがわからなくなっていたというのです。どうもただの行方不明事件ではなさそうでした。その時に「夜の遠吠え」というようなことを言っていたらしいことがわかってきます。そういう事件が立て続けに14件も起こってきています。さらに調べてゆくと、この凶暴化して市民を襲っていたのは、みんな肉食系の動物たちであることがわかってきます。何かおかしい。「夜の遠吠え」とは「狼の遠吠え」のことかもしれない。ジュディは、そこで、これは動物の先祖返り、野獣化ではないかと推測し始めるようになります。
そして、とうとうニックと二人で、狼の警官達の警備する建物の中に「14名の行方不明者」を発見します。しかしそこにいたのは、何と市長のライオンハートだったのです。何とかそこを脱出した二人は、警察署長にそのことを訴え、市長は逮捕される事になります。これで事件は、めでたく解決したかのように見えたのですが、市長はこれは誤解だと主張します。でも、ジュディは事件解決の功労者として、記者達を前に、事件の背後にあるものを説明しなくてはならなくなります。そしてそこで、前に感じていた「肉食動物の先祖返り、野獣化の可能性」のことを不用意に喋ってしまいます。「何らかの原因で昔の野獣の本能が戻って来たのではないか」と。
それを聞いたニックは、ジュディに失望してしまいます。慌ててジュディは「ニックはあんな連中とは違うわ」と言い訳するのですが、逆にニックから「あんな連中」とはどういうことだと批判されます。「きみも俺がいつか凶暴化すると思っているんだろう」と言われます。ジュディもニックの言葉を聞いてショックを受けます。記者達は、ジュディに「これからは、肉食系の動物とは友だちにはなれないのか」「肉食動物はみんな凶暴化するのか」というような質問をされ、自分の発言が意外な騒動を巻き起こしつつあることに気がつき、怖くなってゆきます。
しかしこのジュディの発言は、すでにニュースとして町中に流れて出し、町が不安定になってゆきます。そこにライオンハート市長に代わって、羊のベルウェザーが新市長として登場することになり、ジュディは新市長からさらなる活躍をお願いされてしまいます。
しかし事件の真相が分かるのはその後からでした。失意の元に家に帰ったジュディは、「夜の遠吠え」が、毒をもった植物の名前であることを知らされます。この植物を食べると、誰でもどう猛になるので昔から恐れられていたという話を。そしてジュディはひらめきます。誰かがこの毒の花を使って肉食動物をわざと凶暴化させていたのではないかと。そして自分は何かしら事実ではない、間違ったことをみんなに伝えていたのかもしれないと。
そこで再び捜査を開始して、ある研究所の地下にたどり着きます。そこは実験室になっていて、「毒を持つ植物=夜の遠吠え」から毒を取り出し、それを鉄砲の玉に詰める者たちがいたのです。その鉄砲で撃たれたものは、どんなやさしい動物でも凶暴化してしまうのです。そしてそんな実験室を管理していたのが、かつての副市長のベルウェザーであったことがわかってしまいました。
結局、新市長は逮捕されるのですが、問題は、なぜ一蕃弱々しく見える羊の彼女が、そんな恐ろしい事件を計画したのかということです。彼女は肉食動物との共存を恐れるあまりに、人工的に凶暴化させる薬を使って、肉食動物を凶暴化させ、彼らとの共存はもともと無理だったのだというイメージを広げ、ズートピアから肉食系の動物を追い出し、ズートピアを草食系の動物だけの楽園にしょうと企んでいたのです。
この映画『ズートピア』は、2016年の春に日本で公開され、人種のるつぼと言われるアメリカならではの映画として私もその時は見ていました。それから半年後、まさかアラブやアフリカ、メキシコに入国の壁を造り、白人優位の国としてアメリカを作り直す公約のの大統領が当選するとは、その時夢にも思いませんでした。今からみれば、その後のアメリカを予言したかのような展開の映画になっていました。
でも、冷静に映画を振り返ると、この作品は未来を予言していたのではなかったとも思えます。アメリカは、いかにも多民族共存のような旗印を抱えながらも、キリスト教や白人の系列に属さない人々は、ずっと優遇されずにきた国でした。イスラム教はいつか凶暴化すると思い込んでいる人たちもいます。なので、できたらアメリカは、キリスト教と白人だけの世界であって欲しいと思っている人がたくさんいました。その人達が、トランプ大統領を当選させたわけで、彼が勝手に当選したわけではありませんでした。
「ズートピア」はアメリカの未来を予言していたのではなく、アメリカの現状を描いていただけなのでしょう。事実、理想の都市であるにもかかわらず、狐のニックの悲しい過去も語られていました。ニックがアイスを買うのも拒否されたり、小さい時に草食系の子どもたちばかりいるジュニア・スカウトに入団したら、肉食系の子どもはニックひとりで、それでみんなから押さえつけられ口にくつわをはめるいじめに遭っていたようなことも。
それでもアメリカは、こういう多民族共存のための映画を作り続けなくてならないのだと思います。かつてのディズニー映画『ライオンキング』1994は、いろんな種類の動物が一緒に暮らせる動物王国を造るというテーマ(「サークル・オブ・ライフ(生命の連環)」と呼ばれていた)を掲げていて、『ズートピア』もその延長につながるものでした。しかし時代はいつもベルウェザーのような排他主義者を出現させては、押さえ込んできたものです。この映画は、そういう歴史のくり返しを、子どもたちが学べるようにできているのへないかと思っています。
「おおかみこどもの雨と雪」
『おおかみこどもの雨と雪』に、雪が転向してきたばかりの草平から、「おまえんち、犬飼ってるだろう」「けもののにおいがする」と言われてしまう印象的な場面があります。雪は、表情を変え、とっさに草平から離れ、トイレに駆け込み、手を洗い、服の臭いを嗅いでみる。観客としての私でさえ、心臓がドキドキするシーンです。その後、雪は、草平の居るところには近づかないようにするのですが、草平は、雪がなぜ自分を避けているのかわからないので、「何かお前に悪いことをしたのか」と憤慨しつつ、接近しようとします。雪は、接近されて、再び臭いを嗅がれるのが嫌で、どこまでも離れようとします。恐ろしく悲しい場面です。こんな悲しいシーンをアニメで見るのははじめてでした。
そのあと、逃げ惑う雪は校舎の隅まで追い詰められ、そこで本能的に身を守ろうとして草平を突き飛ばしつつ、彼の耳に詰めを立ててしまいます。狼の形相をする雪。狼の爪を出した左手に血が付いています。雪が本性を現した一瞬です。あれほど小さいときから、狼を見せてはいけないと言われ、そういう訓練をしてきたはずなのに、その努力が一瞬にして消えてしまうシーンです。
案の定、草平の母親がエライ剣幕で学校にやってきて、雪の母、花はひたすらに謝ります。でも雪は、なかなか謝れない。追い詰められ、自分を守ろうとしただけであることは私たち観客にはわかっている。でもそれが雪に「説明」できないこともわかっている。か細い声で謝る雪。「おおかみにやられた」とぽつりという草平。本性がみんなに知れ渡ると、もう学校には入れてもらえないと、帰りの車の中で泣きじゃくる雪。一緒になって泣いてしまいたくなる場面です。
こういう場面を描いて一体、その後、どういう物語の展開があるだろうと、つい思います。でも物語では、草平がいい立ち回りをしてくれます。学校を休む雪に対して、草平は毎日のように学校新聞のようなものを届けてくれるからです。どこかしら雪のことが気になっている草平。同じような「傷」を持っているのを感覚的にわかっているかのように。そして、あのとき「おおかみがやった」と言った時の理由を、雪の母に次のように話していました。自分の耳が引っ掻かれたときに、一瞬狼が見えた。だから怪我をさせたのはその狼で、だから「雪は悪くないんです」と。
草平の「勘違い」というべきか、「優しさ」と言うべきか。わかることは、それをネタにいじめをするように草平が描かれていかないというところです。そこにこの映画の「豊かさ」があると私には感じられました。
映画『おおかみこどもの雨と雪』は、いかにも「狼」と「人間」が結婚して、生まれた「おおかみこども」の話のように見えているのですが、ここには、「出自(ルビ:しゅつじ)」の違う人間同士の共生の難しさがよく分かる映画として出来上がっています。「出自」とは、生まれたときに帰属していた民族や宗教や言語や階級などをいいます。その「出自」を隠したい人もいます。映画の二人の子どもは、自分の出自が狼であることを知られないようにと育てられてきて、その努力がうまく実りつつあるように思われていたときに、姉の雪は「獣の臭い」を嗅ぎつけられ、弟の「雨」の方は、「先生」と呼ぶ「野生の狼」に出会い、その生に魅せられてゆくことになります。「出自」は、なかったことにはできないんですね。人は誰でも、いつか自分の出自と、何らかの形で向き合わないといけなくなる時がくる、そういうことをこの映画は描いているようにも見えます。
雪と草平との出会いは、二人それぞれがもつ乗り越えるべきものを、二人で探せている感じがするのですが、弟の「雨」の旅立ちは、孤独で親にも共有できないようなものとして描かれています。一見すると、「狼に成る」ことを選択するなんて非現実的な設定だ、アニメだからできる設定だと思われるかも知れません。でもそんなことはないんですね。2017年6月3日ロンドンで起こったIS犯行のテロ事件で、8人が死亡し、48人が負傷した事件で、犯人の若者の父親は、とてもおとなしかった息子が、最近急に髭を生やし、別人のようになっていったとテレビで語っていました。自分の「出自」をどのように教わるかによって、人は思いも寄らない人格へと急変貌をとげることが起こります。アラブやイスラムの例を持ち出さなくても、日本でも、1970年代に起こった爆破テロ事件で実行犯の若者たちは、自分たちを「狼」と名乗っていたものです。
映画の主人公「雨」を、そういうテロリストとの比較で論じるのはよくないのですが、子育てをする親にとっては、10歳頃を境に子どもが変わり始めるということ、そして誰に、どんな思想に出会うかによって、心身共に大きく変貌してゆくということを、この映画を通して実感として感じ取ることができてゆくのではと思います。
ちなみに、この映画を見て号泣したという自閉症の子どもを持つ親御さんがおられました。家の中や庭先を四つ足で走り回り、障子や襖や花壇をめちゃめちゃにしてしまう雪と雨のあり方は、まるで自分の子育てを見ているようだったというのです。そういう見方もあると思います。また母親・花の生きかたが好きだと言った学生もいました。「いつも笑っていなさい」と教えられて、実践している花に、「何を笑っているんだ」と韮﨑のおやじさんに叱られてしまいます。笑っていてはいけないときがあるのかもしれませんが、そんな時こそ微笑むことをしなさいと教えていたのは『幸福論』を書いたアランという哲学者でした。
微笑むとは「肯定」することです。花が、どんなときでも微笑もうと心に決めていたのは、雪の雨の出自がとても厳しいもので、まず自分がそれを「肯定」してあげなければ、誰も続いて二人を肯定していってはくれないだろうことを、母親としてよく分かっていたからだろうと思います。その「肯定」は、狼の彼氏を結婚の相手に選んだところから始まっていました。おそらくこの彼の「狼性」というのは、彼が外国籍で、イスラム教で、・・・というような日本になじみの薄い出自を持っているようなことの象徴として描かれていたんだと思います。その出自の違いを「肯定」し花は結婚した。その意志を花はきっと微笑むことで貫こうとしているんだと私は思いました。
『トイ・ストーリー』
■ 今回紹介する『トイ・ストーリー』1995は、手描きのアニメから、コンピュータで描くCGアニメーションに転換させることになった最初の偉大な作品です。世界でも大ヒットし、続編の2・3は、1999年、2010年に公開されました。それでも、今となれば少し古いと言われるかもしれないこの作品を、今ごろ紹介するのには、理由があります。
『トイ・ストーリー』は、いかにも、おもちゃが夜中に楽しげにお喋りしあって遊ぶ様子を描いたアニメのように思われていますが、それだけのアニメなら、これほどまでに世界的なヒットになるとは思えません。
この「おもちゃ」の世界の主人公は、「ウッディ」というカウボーイの保安官です。「保安官」という設定が大事です。おもちゃの持ち主のアンディ少年は、この保安官が大好きで、彼を使って悪者退治をして毎日遊んでいました。保安官は人々を守ってくれる人で、どこかしら古代からの守護神のイメージにつながっています。
■ おもちゃの原型は、人々の命を守る守護神的なものにありました。縄文時代の遺跡からも、マスコットのような小さな人形の土偶がたくさん出てきています。小さな守り神だったのではといわれています。幼児に与える「ガラガラ」も、元は神に知らせる音を出す神具でした。振って音を鳴らせば、動物も警戒して近づかないわけで、神具の多くは、身を守るための実用的な道具でもあり、それがのちのおもちゃになってゆきました。
武器を持って自らを守れない子どもたちには、おもちゃを与えることで、世の親たちは身を守らせようと工夫してきたのだと思われます。ひな人形の起源も、女の子のお祝いものというのではなく、人々を守る神を「人形(ひとがた)」に似せて作ってきたものでした。仏像や十字架のイエス像も、そういう意味で人々を守る神の似姿でした。ちなみにひな人形の「ひな」とは、ひな鳥の「ひな」と同じで、「小さなもの」といういみですが、西洋でおもちゃを表す「toy(トイ)」という言葉にも、「小さな」という意味があります。「小さな」ということがとても大事です。中高生が、カバンに、小さなさまざまなマスコットをぶら下げているのも、どこかしら無意識に小さな神に守ってもらおうとしているところがあるのでしょう。
■ 西洋では「鉛の兵隊さん」のおもちゃが昔から人気がありました。アンデルセンの童話にも「鉛の兵隊」というちょっと哀しい童話がありましたが、なぜ兵隊さんのおもちゃに人気があったのかは、彼らが「守る者」だったからでした。映画「トイ・ストーリー」では、子ども部屋から人間の子どもがいなくなると、おもちゃたちが動き出し、おしゃべりをして遊び始めるわけですが、そのおもちゃの仲間を守るために保安官の「ウッディ」は頑張ろうとします。子どもの遊びの中では「悪役」にされたりするおもちゃがあっても、子どもが居なくなれば、「みんな同じおもちゃ仲間」だというわけです。
この「保安官」がおもちゃの仲間達を守ろうと大活躍するという設定は、シリーズの1.2.3ともに共通しています。そして、それぞれの作品で「大事件」は起こります。第一作目ではアンディ少年の一家が引っ越しをすることになり、おもちゃも捨てられるのではないかという心配がみんなの間に出てきます。「ウッディ」は、みんなの不安に気遣いながらも、みんながばらばらにならないように仲間として守ろうとします。そんなときに、ウッディと新米のパズ(彼は宇宙保安官という設定のおもちゃ)は、運悪く隣の家の「おもちゃ殺し」とあだ名されるシド少年に捕まります。シド少年の部屋にはノコギリや金づちなどの大工道具が揃えてあって、彼はお医者さんの格好をし、「手術」をすると称して、おもちゃの首を切って違うおもちゃの首とすげかえたりするような「改造」をおもしろがっています。そんなシド少年は、バズの背中にロケット花火を付けて空中に飛ばそうとします。
このシド少年の描き方は恐ろしいので、その場面を見て怖くなり、このアニメを見ないという子どもも出てくるくらいですが、そこをガマンして最後まで見ると、見てよかったということになります。何が「よかった」ということになるのでしょうか。
■ このアニメのもっとも大事な所は、それぞれのおもちゃに「説明書き」があって、少年アンディは、その通りにおもちゃを扱おうとしているところです。ところが、隣の家のシド少年は、好き勝手におもちゃを「改造」してしまいます。たかがおもちゃなんだから、子どもが好きなように改造したり解体しても、おかしくはないのではと、大人は思うかも知れません。
けれども映画を見る子どもたちは、アンディ少年は、「説明書き」どおりにおもちゃを扱っているのを見て、この「説明書き」が、ある意味での人間の「基本的人権」のようになっているところをちゃんと感じています。一方のシド少年は、「基本的人権」を無視するかのようにおもちゃを扱うので、「虐待」や「暴力」を振るっているように受けとめて観ています。そして、世界の中には、アンディ少年のように、「人権」に添う人と、シド少年のように平然と「人権」を無視する人たちのいることにも、映画を観ながら気がついてゆきます。
■ 映画の最後は、離ればなれになりそうなおもちゃの仲間が、ウッディの努力とバズの機転を生かした発想で、みんなと合流することができて終わります。
この映画の優れたところは、アンディ少年が、おもちゃの保安官を大事にするのと同じように、保安官ウッディも、おもちゃの仲間を大事にするところです。アンディはみんなを見捨てない、だから自分もみんなを見捨てないと。その強い信念が、映画の最後に実を結ぶことになるので、映画を見終わった人は、ただのおもちゃの映画を見たのではなく、人間同士においても最も大事なことを、映画を通して見せてもらったような感じになるのです。映画が訴えてくるのは、「仲間を守る」思いや、ひとりひとり「大事にされる権利」がある、ということについてです。
今回このちょっと古い作品を取り上げたのは、分断と人権軽視の風潮が世界で広がり始めているからで、この作品が、現代求められているものを、子どもにもよくわかるように映画化されているところを改めて伝えられたらと思いました。
『聲の形』
小学校の6年生のクラス。いかにも悪そうな風貌の石田将也が、転校してきたばかりの耳の聞こえない西宮硝子の補聴器を取って悪ふざけをしています。耳から無理矢理取って、「きたねえ」と言って窓から放り投げたり、足で踏みつぶしたり・・。その描写は、悪ふざけというより、悪質な傷害事件のように見えて、見ていても気持ちが悪くなるほどです。障害者の団体から抗議があったというのもよく分かります。
ところが、その補聴器の破損の金額が170万円にもなることが校長から説明され、その主犯が石田将也であることがクラスのみんなから指摘され、事態が一転してゆきます。将也が、みんなから仲間はずれにされてゆくのもその日からでした。悪ふざけをしていたときには「親しい友だち」で、大なり小なり、彼らも将也のすることに面白がって荷担していたのに、今度は手のひらを返したように彼から遠ざかります。彼の靴はひんぱんに捨てられ、机には「死ね」とか落書きされる日々が続きます。
硝子はその後転校し、将也はのけ者にされたままで、中学、高校と進みます。そして高校生になったある日、硝子の居るところを探し当て、将也は謝罪しょうと出かけますが、硝子の妹に邪魔をされ合わせてもらえません。そんな中で、すれ違いながらも、少しづつ家族同士のつきあいが始まります。
作品の一つの見所は、西宮硝子が何をされても「ごめんなさい」としか言わない(筆記でも、口話でも)ところです。それは、見ているものを歯がゆくさせます。そして実は、この硝子の「常に謝る態度」に、クラスの子どもたちは、しだいに反感を持つように描かれていくのでした。というのも、硝子は謝りながらも、常に筆談用ノートを出し、それに誰かが書いてあげないと事態が進行していかなかったからです。初めは、進んでそういうことをしてあげていたクラスメイトも、段々めんどくさくなってきます。筆談するしかない硝子と、それに負担を感じ始める子どもたち。見ていてどちらのつらさも伝わってきます。
高校生になった将也は、かつての硝子のつらさがわかってきたのか、悪ふざけで校庭の池に投げ込んだ筆談ノートを、返そうとします。映画を見ていて、気になるのは、あれだけ面白半分に、度を超したいじめをしていた将也が、心を入れ替えたかのように、硝子を探し当て、硝子に謝ろうとするようになった、そのいきさつ、その理由です。面向きは、将也がみんなからのけ者にされて、その時になってはじめてのけ者にさたものの気持ちが分かるようになった、というものですが、でも、のけ者にされたものが、みんながみんなそんな気持ちになるかといえば、そうではないだろうと思われるからです。(ヤクザの中には、子どもの頃のいじめられ体験があって、今度は腕力を付けていじめる方に回っていったという人もいますから)。なので将也が「心を入れ替える」ように見える、その理由はぜひ知りたいものだとまず率直に思いました。
しかしこの作品のテーマは、もっと違うところにありそうな気もしました。それは、耳の聞こえにくい人との「話す」ことの難しさだけではなく、「話ができないと思い込んでしまう」ものたち同士の「話す」ことの難しさです。「話し」をしようと思えば、どんな手段だって考えることができるのに、早々と、「話ができない」と「思い込んで」しまうことの問題。
将也は、おそらく「心を入れ替えた」のではなく、誰とも話ができなくなった状況下で、せめて一人とでも「話す」ことができるようになりたいと思ったからではないかと、映画を最後まで見て思いました。彼が、「手話」を学んだのは、西宮のためではなく、自分が「話す人になる」にはどうすればいいのかを考えた結果ではなかったか。作品では、将也が、どこでどのように手話を習ったのかは描かれていないのですが、高校生になった将也は、すでに手話を使える人として登場しています。作者が、将也の手話を学ぶ過程を描かなかったのは、「手話の学び」そのものに主題があったわけではなかったからで、大事なことは、「話ができない」と思い込んでしまうことから、どうしたら一歩進めるのかという事であったように思われるからです。
再会した級友たちは、大なり小なり「話す」ことは当たり前になっていて、でもそれは「気持ちを伝える話し」になっていないと将也はいつからか思うようになっています。それでも、そのことで級友を責めることは出来ません、自分自身がそうなのですから。だからせめて自分は、「手話」を通して「気持ちを伝える話し」をしようと決心してゆきます。
「話し」ができないと思い込んでいるのは、お互いに共通する手段を求めて歩み寄りをしないからではないか。その作者の思いは、硝子にも向けられます。なぜ硝子は、「書いてください」とばかり人に頼むのか。書いてあげている人は、その時間、そのことに気を取られ、自分のことができなくなるではないか。硝子ももっと、共通のものを持つ努力をすべきであり、教師も授業の形態として、一部の生徒に負担を掛けるような進め方は早急に改善しなくてはならなかったのではないか。そういうことがなされないうちに、みんなの「めんどくささ」だけが膨れあがり、将也の「仕打ち」を後押ししていたのではないか。
映画の後半では、かつて硝子をいじめていたクラスメートが、高校生になって再び出会うところを描いています。一人一人の変化は微妙です。変わっていないと思える者もいます。その結果、再びみんながお互いを非難し罵り合う場面が描かれます。「話し」をすればわかるという言い方がありますが、「話し」をするということが、この作品では最後までうまくいかないのです。作者がなぜそんな状況を描こうとしたのかはとても気になります。
みんなのすれ違い。「話し」をすれば「わかる」というものでもない。でも、「話し」をしようとし続ければ、少なくともお互いが「歩み寄ろう」としている気持ちだけでも伝えられるのではないか。みんなと違って将也だけは硝子に「話そう」とすることを諦めないように描かれています。
それでも、学校で「話す」すべを見失っている将吾は、クラスの生徒の顔も直視できずに下を向いたまま過ごしています。級友の顔にはすべて×印が付けられています。視線恐怖や対人恐怖のような「症状」に見えます。でもその×印が取れる日が来ます。学園祭の日、硝子が将也の「そば」で一緒に歩いてくれたからです。誰かが自分の方に確かに「歩み寄ってくれている」という実感が持てれば、その人がたった一人でも、「力」になる、そういうことを作者は描いているのかもしれないと思います。が、映画と漫画ではラストシーンが違います。その違いの意味を考えるためには、もう少し時間をかけた方がいいように私は感じています。
『かぐや姫の物語』の「罪」について
村瀬 学
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』2013を観ました。「♪まわれ、まわれ、まわれ。水車、まわれ♪」というわらべ唄が、なぜかいつまでも口について出てきます。原作に忠実にという監督の初心がよく貫かれて、そこに独特なオリジナルな部分が付け加えられている作品です。かつて、日本の子どもたちは、西洋の児童文学をアニメ化させた「ハイジ」を皮切りに、「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「小公女セーラ」と続く「子ども名作劇場」を観ていた時代がありました。そういう時代に育った子どもたちは、日本の「名作」などは「日本まんが昔話」という15分もので観るしかありませんでした。この力の入れ用の差を、当時は誰も不思議には思わなかったものです。原作が長いのだからしょうがないではないかと思わていたかもしれませんが、それは違います。「母をたずねて三千里」の原作などは、ものすごく短いものなのに、それを1年間の脚本に引き延ばしていたからです。要は原作の長さではなく、「西洋の物語」の方が、日本の子どもたちに受けると判断されていた時代があったということです。
そして2013年になって、ようやく「竹取物語」が「原作に忠実に」という意図の元に作られました。この「原作に忠実に」というところがとても大事だと思います。高畑監督は、特にそのことを意識し、映画のパンフレットでも強調されています。その意図が成功しているかどうかは観た人の判断によるでしょうが、少なくともそういう意図でもってこの映画が作られたことは、注意しておかなくてはいけないと思います。だから、もしそういう所が大事な所なのだとしたら、監督の創造性や独創性やオリジナリティーを疑問視する人も出てくるかも知れません。ここではそういう「議論」にはかかわりませんが、ただ私が素直な感想として思ったことは、これからの日本の子どもたちは、掛け値無しに日本の名作をじっくりと1時間半かけて観ることができる作品を手に入れたという実感でした。
それも、日本の「名作中の名作」を「原作に忠実」に映像で観ることができるようになったといううれしい実感です。このことの持つ意味は、大変に大きいと私は思っています。むしろ大きすぎるものを子どもたちは手に入れることができたと私は思っています。ですから、おそらくこの「日本の名作中の名作」を、これからの日本の子どもたちは、学校の推薦などを受けながら、子ども時代に必ず一度は観ることになると思われますし、「日本の名作」は?とたずねられて、「かぐや姫」と日本中の子どもたちが答えられる日がやってきます。かつては名作と言えば「ハイジ」とか、ディズニーの「シンデレラ」というふうにしか答えられなかった日本の子どもたちが、「かぐや姫」を知っていることになるというのは、やはり「大きなもの」を手に入れたということになるからです。
もちろん『かぐや姫』から「大きいもの手に入れた」のは、子どもたちだけではないと思います。この映画を観た日本の大人たちも、実はある「大きなもの」に直面することができていたからです。その「大きなもの」とは、二つあると思います。一つは、「光る存在」としてのかぐや姫に出会ったというところ。もう一つは、そのかぐや姫が「罪」を犯して竹取の翁のところにやってきたというところ、です。この二つの謎が気になって観客は、映画のどこかでこの「謎」が解き明かされるのではないかと期待して観ているのですが、残念ながら映画が終わっても、その「謎」が解き明かされたようには感じられないのが実情です。もちろん、高畑監督なりに、その「謎」の解明への糸口を残しておこうとはされていますが、それでも観客は謎が解けたとは感じなかっただろうと思われます。それは「原作」がそうなっており、「原作」に忠実に描こうとすればそうならざるを得ないところがあったので、監督としてはきっとはっきりした「謎解き」は意図的にされなかったのではないかと思われます。
でも、その「謎」を考えさせるのが実は『竹取物語』のテーマであり、この映画を観たものに残される「大きなもの」だったのだと私は思います。この映画を観た人は必ず問うことになります、かぐや姫はなぜ光っていたのか、なぜ竹の中にいたのか、なぜその竹藪に「黄金」があったのか、というようなことを。そして、最後の方で唐突に出てくる「月で罪を犯して地上にやってきた」というかぐや姫の「説明」の不思議さ、です。えっ、あの「光る姫」が「月」で一体どんな悪いことをしたの?という興味。子どもたちも気になるし、大人たちも知りたいと思うことになるでしょう。そういう問いの前に立たせること自体が、実は『かぐや姫』を観ることの大きな意味になっていることを、高畑監督もよくおわかりだったと思います。というのも、こうした「かぐや姫」の抱える「謎」を問うことは、実は「日本」というものの「謎」を問うことに真っ直ぐにつながっているところがあったからです。
それはどういうことかというと、「日本」という「文化」の根幹を支えるものに、「光るもの」がいたからです。その一番大きな「光るもの」は「アマテラス」でした。この「光るもの=アマテラス」の存在を使って、日本の文化的統一、軍事的な統一がなされてきたことは、特に明治維新以降の日本の歴史をたどる方はおわかりかと思います。近代の歴史の中では「光るもの」は想像以上に大きな役割を果たしてきていました。でも、この「光るもの」が「なぜ光るのか」と問うことは、戦時中の軍国主義の風潮の中では許されないことでもありました。「アマテラス」は最初から「光る神」であり、「太陽」のような「絶対光源」として光っていて、それを疑うようなことはとうてい許されないことでした。でも、「アマテラス」は本当に「太陽のように光っているのか」と問うことができる時代がやってきました。
そして、この「アマテラス」のように「光るもの」として、その次に現れるのが実はこの「かぐや姫」だったのです。かぐや姫は「小さなアマテラス」のように存在しているところが見られるからです。だから私たちは、「なぜかぐや姫は光っているのか」と問う必要もでてきています。その問いの答えを知りたいと思う人は、結局は「アマテラス」の光り方を問うことにもつながり、それは日本の文化の根本にある「古事記」と向かい合うことにもつながってゆきます。
そういう意味で、かぐや姫の「謎」に向かい合う日本の子どもたち(私たちも含めてですが)は、実は日本の根源に向かい合うことになっていて、高畑監督の仕事の射程は実はそこまで届いているので、私は「大きすぎるもの」に直面していると書かなくてなりませんでした。
そのことを踏まえて、先に少し「アマテラス」のことに触れておきたいと思います。アマテラスは元々は「火の神」であり、「火」である限りは「灯りの神」なのですが、その「灯りの神」が「世を照らす太陽の神」のように演出されているのが古事記の特徴であることを私はすでに明らかにしてます(『徹底検証 古事記』)。この「火」が、古代の歴史に中で「罪」になるときがやってきます。それは「火」が「灯りの火」ではなく、「鉄を溶かす鍛冶の火」となる時です。そういう意味で、「アマテラス」が古代の歴史の中で絶大な権力を手にしていくのは、「灯り」のような「光る神」であったからではなく、「鉄を溶かす火の神」として「金属の鏡の光」を手に入れる神になっていったからでした。そして「鉄を作る火の神」は同時に「武器」を生む神にもなり、それが戦いで多くの屍を作る「罪」をも生み出すことになってきていたのです。
そのことを踏まえて『竹取物語』を観てみると、「竹取の翁」は炭焼き系の物語を下敷きにしていて(映画でも炭焼きの人々がきちんと描かれていました)、炭焼き系の物語はどこかで鍛冶屋系の物語とリンクしていて(そのことの重要性はすでに柳田国男が「炭焼小五郎の事」で指摘していました)、そのことを踏まえるとかぐや姫は、いかにも「竹取の家」に下ったかのように見えて、実は鍛冶屋系の家に下っていた可能性が見て取れるのです。つまり、鍛冶系の元に、「鍛冶の火」としてやってきていた可能性がかぐや姫にはあるのです。竹取の根元に「黄金」が出てくるという話も、それが「鉄」であることは、すでに柳田國男が「炭焼き長者」の話として取り上げていて、そこには炭焼きー鍛冶ー鉄(黄金のこと)の連鎖のあることがすでに読み取られていました。
そして「かぐや姫」の「かぐ」も「香具山」の「かぐ」が連想され、その「香具山」は「鍛冶」に関わる山でしたから、かぐや姫というのは、その出自の仕方から「鉄を生む火の姫」として登場していたことが見えてきます。そして、物語のハイライトで、求婚にやってくる殿方に言いつける難題も、、「石作」や「白銀の根を持つ枝」や「火鼠の皮」や「竜の首の珠」や「燕の子安貝」など、「鍛冶」でできるようなものばかりになっていることの意味も見えてきます。「燕の子安貝」は、「ホト(火処)」に関わるものなのでしょう。
そういうふうにみれば、かぐや姫の本性は、ただの「光る姫」というだけではなく「火の姫」という側面を持ち、その火も「鉄を生む特別な鍛冶の火の姫」としての性質を持っていたところが見えてきます。そして実はかぐや姫の「罪」の問題というのも、この「鍛冶の火」に関わるものであったことも見えてきます。
つまり、このかぐや姫の「罪」の問題というのは、「鍛冶の火」が「武器」を作る火になっていたところの問題です。そしてこの物語が、単なる昔話に収まらずに「日本の名作」になるのは、このかぐや姫の話が、鍛冶の火を欲しがる私たちの「罪」の問題になっていたからです。そこのところを理解することがとても大事なのだと私は思います。
「鉄」を生み出す「鍛冶の火」を手に入れた人類は、鉄の文明を築くとともに、大量殺戮を生む鉄の武器を生みだし、その「鍛冶の火」の極限に「原子力の火」を生んできた経過があります。この最初の「鍛冶の神」が「アマテラス」であり、その「アマテラス」が「光の神」とすり替えられることで、「光る神」の信仰が、多くの鉄の戦争を支える原動力にもなってきたことを見えなくさせてきていたのです。そして、その鉄を生む「鍛冶の火」の極限に「原子力の火」が作り出されてきました。アマテラスの問題は、じつは原子力の問題につながっていたのです。そのことについては、私はすでに私の古事記論で明らかにしていますが、かぐや姫の最後の場面は、そういう視点をよく意識させるものになっていてとても興味深いものです。
この、かぐや姫の光(小さなアマテラスの光)が、その背後に武力を隠し持っていることは、最後の場面を見るとよくわかります。竹取の翁は、かぐや姫を地上に留めおこうとして兵士を配置させるのですが、夜にもかかわらず「あたりは昼の明るさ以上になって」、兵士の弓矢は役に立たなくなります。こういう「昼間以上の閃光」に見舞われた場面をわたしたちは広島と長崎の歴史の中で知っています。地上の一切の武力が無化される光景です。そういう恐ろしい「光の力」を持った姫が、自分の力を天皇にも預けないで、地上に留めておかないように計らうのが、この最後の場面です。
人情的に受け止めれば悲しい別れの場面ですが、『竹取物語』の作者は、もっと違うとこを見据えていたと思われます。結局、古事記は「鍛冶の火」として生まれている「アマテラス」の「罪」を明らかにさせないように仕組まれてゆく物語なのですが、『竹取物語』の「小さなアマテラス=かぐや姫」は、「罪」を負ったものとしてきちんと登場することになっています。なんという聡明な発想の物語が構想されたものだと驚かないわけにはゆきません。しかしこのかぐや姫の背負っている「罪」は、くり返して言えば、「鍛冶の火」を欲しがる私たちの「罪」でもあるもので、その「罪の正体」を考えようとさせるところにこの物語の存在する優れた位置があったわけです。そういう位置をもった作品の重要性を誰よりも直感されていた高畑勲監督の作品を、私はよく味わって受けとめてゆけたらと思っています。(ちなみ言えば、ジブリ作品の中で、かぐや姫のように「光る存在」が描かれるのは『もののけ姫』の「シシ神」です。そしてこの「神」も、最後には「鍛冶の頭領=エボシ御前」と対峙することになります。こうした、似たテーマを持つ二つの作品の比較は、別なお楽しみです。)
『思い出のマーニー』論 ーもう一つの「アンネの日記」体験へー
村瀬 学
1 「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね」という理解の批判
「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね、ネットにネタばらし注意!って書いてあったわ」と学生が話をしているのを聞きながら、『思い出のマーニー』2014が、そんなふうな理解のされ方で広がっているのかと思うと、とてももったいない気がしたものだ。損をしていると思った。私が原作を読んだときの驚きは、ちょっと言葉には出来ないものだった。「マーニー」は本当に不思議な存在で、最後になるまで、その正体が分からずに、やっとこさ「わかった」感じになったときに、深い感動を覚えたものだった。こんな複雑なしくみを持った作品がアニメに出来るのだろうか、とその時思ったものだ。そしてアニメを見たときは、原作を読んでいた者にだけわかる、「期待が裏切られていない」感覚を味わうことができていた。原作の不思議さがとてもうまく再現されていたからだ。しかし、その感動は「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね」というような単純なものではなかったのに、ネットでそういうことが「作品の結末」であるかのように見なされ流されていることには、とても残念な思いをしたのである。そういう感想は、作品をただ推理小説のように読んだ感想にすぎない。「犯人は○○だった」という話の落ち。だから「犯人」を知ってしまえば、もう作品を知ってしまったも同然のような理解になる。しかし『思い出のマーニー』は、そんな推理小説ではなかった。
もしこの作品の落ちが「マーニーって杏奈のおばあさんだったのよ」というところにあったのだとしたら、この作品は、ただただラッキーな女の子の、シンデレラストーリーになってしまうだろう。杏奈のように親を亡くした子どもたちはたくさんいるわけだが(『秘密の花園』のメアリもそうだった)、その苦しい生い立ちから救い出してくれたのは、かつて裕福に暮らしていた祖母だったというのであれば、そういう「裕福な祖母」を持たない多くの親の居ない子ども達は、こういう作品を自分には関係の無い、ただのラッキ-な女の子の話に見えるのではないか。そんな「お金持ちのおばあちゃん」がいる子ってうらやましいわ、で終わってしまうのではないか。しかし実は物語はそんなふうに読まれるようには出来ていないのである。
2 「窓」があった
杏奈とマーニーの最初の出会いは、杏奈が「湿っち屋敷」の「窓」にマーニーの姿を見たところから始まっている。印象的なのは、実はマーニーの方もこの「窓」から杏奈を見ていたことが明かされるところである。二人は、この「窓」を通して、「お互いを見ていた」のである。それは、この「窓」を通して、今までに見たこともないものを意識的に見ようとする努力に中で見えてきたものである。その「窓」とは何かがまず「問題」にならなければならないだろう。
問題はその見ようとする努力が、人に見られないようにする努力の中で実践されていたので、二人はそれを、人には言わない(見せない)「秘密」にすることになる。原作でもアニメでも、二人は誓い合う。
「おねがい。約束して。あなたも、あたしのこと、だれにも話さないって。ね、永久に、話さないって。」(松野正子訳)
こういう風にはじまる物語を、原作でもアニメでも、ほぼ本当に「二人」が出会ったかのように感じさせられる。アニメでもその出会いは不自然にならないように注意深く描かれている。しかし「二人」は「現実」には出会っていないことがのちにわかる。では、この「二人」の出会いは杏奈一人の空想だったのかということになる。そう理解してしまえば、この長いお話が、杏奈の一人芝をというか、杏奈の幻想におつきあいをさせられていたということになる。しかし原作を読み終わった後も、そんな感じが残る物語にはなっていなかった。そこがこの物語の不思議なところなのだ。いったい読者や観客の中に、何が起こっていたのか。
物語の展開で、はっきりとわかることは、両親を亡くした杏奈が、頼子(よりこ)おばさんに引き取らせ育てられていたのだが、打ち解け合えずにきていたというところである(養母なのに「おばさん」と杏奈は呼んでいる)。それはおばさんが、気を遣いすぎて、腫れ物に触るようにしていたとか、養育費を国から支給されていたことを隠していたとか(無理に隠していたわけではないのに)、杏奈にしては「口も聞きたくない」ようなことが続いていたからかもしれないが、思春期の少女にしては、実の親とでも「口も聞きたくない」ことが起こるのだから、それを特別視することはできないだろう。つまり養育してくれているおばさんに「問題」があって、杏奈と打ち解け合えずにいたというふうに考えることは出ないし、アニメでもその辺のデリケートな関係はうまく描いていたと思う。心配性のおばさんと、その気持ちが伝わらずにいる杏奈という、周りから見るとちょっとじれったい関係。でも、それが長引き、硬直状態になってきていたので、杏奈は北海道のセツおばさんの家に旅をすることになる。そのおじさん(清正)、おばさん(セツ)は、養母の頼子おばさんより、屈託のないというか、ざっくばらんな感じの夫婦だったので、変に気を遣い必要がなくて、それはそれで杏奈にとってはありがたいことではあったのであるが、でもだからといって、打ち解け合えるかというと、それはそうではなかったのである。
杏奈には何が欠けていたのか。自分の思いを語れる相手がいないというところなのである。自分を悪く思う気持ちが強いので(それは「私は私が嫌いだ」という台詞によく表されている」)、自分で自分と話をするところまで進めないのである。そんな杏奈が、村はずれの誰も住んでいそうにない「湿っち屋敷」に、誰かのいるのを見てしまったのである。
3 「窓」とは何かーもう一つの『アンネの日記』ー
この「湿っち屋敷」から見えたものは誰か。それはもう一人の自分であった。しかし、それはただの空想の自分というのではなく、いままで誰とも「話」をしないできていた自分が、やっと「話し相手」としての自分を見つけたということなのである。ここが大事なところである。杏奈は誰かと話をしないではすまないところにきていたのである。そんな杏奈が「話し相手」を「窓」に見つけたのである。だから、当然、向こうも「窓」から杏奈を見ていたのである。杏奈と話するものがそこにいなければならなかったのだ。
私は、杏奈が「窓」に見た少女との出会いは、ある意味での『アンネの日記』の杏奈が、「13歳」の誕生日にもらった日記のようなものだと感じた。この日記をもらったことで、アンネは初めて自分の胸の内を「誰かに語る」という体験を持つことになるのである。ここが大事なところである。「自分を語る」というということを通して、ひとは自分に形を与えてゆくことになるからである。アンネはここで「日記」を話し相手にするために「キティ」という名前を「日記」につける。そして名前の付いた「キティ」に向けて誰にも言えなかったことを語り始めるのである。その「会話」は、二人の「秘密」であった。
それと似たようなことが、杏奈にも起こっていた。彼女は「窓」にいる少女が「マーニー」と呼ばれることを知る。そして、お互いの話したことを「秘密」にするように約束する。アンネとキティの関係のように。
そうして、二人の関係は深まってゆく。作品の中で、読者でも、観客でも同じように感じたのではないかと思われる不思議な場面があった。それは、杏奈が自分の今いるおばさんの家のことなどを話しようとすると、あいまいな感じになって記憶がはっきりしなくなるところである。杏奈は何でそんな風になるのだろうときっと思われたのではあるまいか。杏奈は「語る」ことを通して自分の「姿」を見つめようとしているのだが、自分がはっきりしないときに、自分を引き受けてくれているおばさんたちの「姿」もはっきりしないのである。
4 「ノート」が発見される
『思い出のマーニー』と『アンネの日記』を私は偶然に結びつけているように見えるかもしれないが、そうではない。私が原作を読んでいた時も、ものすごく驚いたのは、確かに「湿っち屋敷」の改装の過程で「マーニーおばさんのノート」が発見される下りだった。このノートを通して杏奈は、自分が話していた相手が、実在したアーニーであったことを知るのである。
こうした「隠されていたノート」ということを考えると、隠れ家を発見されて、ゲシュタポに着の身着のままで連行された後、隠れ家の床に散らばっていたノートを拾い集めて保管してくれたミープ・ヒースさんのことを思い出す。彼女がこのノート(「アンネの日記)を隠して保管してくれたことで、私たちは今日アンネのことを知ることになったからである。でも、それはたまたまアンネがそういう境遇で、特別で例外な出来事であったからですよと言われるかもしれないが、しかし、そうではない。というのも、この「隠されたノートの発見」というのは、すでにアンネが父から日記を買ってもらったときに、この日記に「キティ」という名前をつけ、そのキティの存在を家族から隠し秘密にしていたからである。
思春期が「大人」から「秘密」にすることで手に入れてゆくものがあるのだ。アンネは、たまたまナチスから隠れて過ごすことになり、そこでつけられていたノートを、発見者が隠して秘密にせざるを得なかった経過をたどることになったのだが、「思春期の秘密」と「ナチスへの秘密」が重なっていることは、「秘密のノート」というもの運命を考えるときには、偶然とみなしてはいけないところがように私には思われる。
ともあれ、杏奈はマーニーのノートを発見し、その後の歴史はアンネの日記を発見した。だからどうなんだといわれるかもしれないが、でもこの『アンネの日記』を13歳の時によんだ作家・小川洋子の回想録『アンネ・フランクの記憶』を読むと、この日記に出会うことで、自分も「語る」ことができることを知ったことが書かれている。つまりアンネが日記をキティと呼んで話しかけた記録を読んだ日本の少女が、自分もまた「語る」ことで自分に形を与えるすべを学んだわけである。小川洋子もアンネの日記から、語りかける相手を見つけることと、その相手に語りかけることの必要性を学んだわけである。
おそらくそういう仕組みのことが『思い出のマーニー』にも描かれていたのではないだろうか。杏奈は、自分が話をすべき相手を秘密のうちに見つけた。この「秘密」のうちにということがとても大事である。アンネの日記はナチスからの「秘密」の問題と絡んでいるので、ややこしくはなっているけれど、アンネがキティとのことを「秘密」にしないと始まらなかったことは、思春期を生きる若者たちには共通していたはずである。つまり杏奈とも、という意味においてである。
そして、「ノート」が発見された。これはでも物語としてはうまくできすぎではないかと思われるかもしれない。そういう感じがしないわけでもない。確かに杏奈がマーニーのノートの存在を知らなければ、物語全体がただの空想の話として受け止められて終わってしまう可能性が大きいだろうからだ。しかしそういうことにならないことは、アンネにとってのキティが、空想の産物ではあっても、そのやりとりがただの空想の遊びに終わらなかったことは、いまさんざん見てきた通りだからである。思春期には、どうしても「空想の相手」と話をしなければならない時期が誰にでもあったからである。たとえ普段話せる相手が居たとしても、それでもどこかに「もう一人の自分」と話をしなければならない時があったのだ。だから杏奈がノートを見つけなくても、マーニーとの出会いを、ただの空想遊びにしないで終わらせることは作家にはできたと思われる。しかし作家はあえて杏奈がノートを見つける経過を描いたのである。
5 「歴史を知る」ということと、「自分を知る」こと
過去のノートを発見するとはどういうことか。つまり、杏奈がマーニーのノートを読んだり、小川洋子がアンネの日記を読んだりすることはどういうことか、という問いである。それはおそらく、自分以外の「人の人生」を追体験するという事であるように思われる。大きく言えば「歴史」を知るということになるだろうか。「人の人生」を追体験することで、人はそこに自分の姿を重ね合わせたり出来るようになり、それまではっきりしなかった自分の姿に少しずつ形を与えてゆくことができるようになるのである。自分だけが不幸だと思っていたのに、他の人も同じように悩んでいたのかということにも気がつくことになる。
『思い出のマーニー』は、そういう意味で、人は内面で「もう一人の自分」と対話することが始まると同時に、その対話の相手を「人の人生」の物語の中に求めることが出てくることを示唆している。杏奈はそういう意味でマーニーのノートに出会っていたのである。だからそれはマーニーのノートではなくて、「アンネの日記」でも良かったのかも知れない。あるいは「キュリー夫人の伝記」でもよかったのかもしれない。「人の人生」を垣間見る時間を持つこと、それは物語や歴史を体験することなのであるが、そうすることで、自分の嫌なところばかりを見て、硬く口や心を閉ざしていた杏奈が、心を開くようになってゆくのである。
『思い出のマーニー』は、だから二段構えになっていたのである。まず「対話をする相手」を「湿っち屋敷」の「窓」に見つけたということと、さらにその「対話の相手」の「歴史」をノートを通してを知るという二段構えである。そしてたぶん、おそらく私たちは誰でも、物事を深く知るには、その物事について誰かと話をするということと、さらにその物事の成立してきた歴史を学ぶということと、この二つが必要なのではないかという事である。
この映画『思い出のマーニー』が発表されたとき、『アナと雪の女王』と重なっていて、ジブリ発行の冊子「熱風」では、この二つの作品を比較して、「ガール・ミート・ガール」という点で似ているなど言う宣伝をしていた。二つの映画は、ともに少女と少女、女性と女性が出会う話として同じではないかというのである。表面的な理解だと思ったものである。
ちなみいえば、映画では「湿っ地屋敷」に新しく移り住んできて、マーニーのノートを見つけてくれる「彩香」というめがねをかけた少女が出てくるが、その少女は原作でも出てくる重要な存在である。映画では、このノートを見つけたことを「二人の秘密にしようね」と約束し合う。ここにも、少女と少女との出会いがあるではないか、といわれるかも知れない。男の子同士ではそんな約束はしないぞと。「ガール・ミート・ガール」特有の出会いがあるのだと。しかし私は、杏奈とマーニーとの出会いは、ただの「出会い」ではなく、くり返して言えば「歴史に出会う旅」であり、その「旅」が今度は杏奈と彩香の間でも引き継がれたということがここで描かれていたのだと私は思っている。そのことは原作では強く感じることが出来るのだが、アニメになった時の彩香は、「歴史を探す旅」をするには小さく描かれすぎていると感じたことをここで書いておく。映像を見ないで、原作を読んでいた人たちには、二人(アンナとジェインー原作の中でノートを見つける少女ー)は、もっと近いと感じていたはずである。事実原作では「長い茶色の髪の女の子は、アンナより少し年下のようにみえました」と描写されていたからだ。
6 「湿地帯」という舞台
ところで「窓」と共に、「湿地帯」も物語に欠かせない舞台になっている。この「湿地帯」の設定には何か意味があったのだろうか。「湿地帯」というのは、「陸」と「海」の境界線で、一つ間違えば、というか、うかうかすると、「戻る道」を見失ってしまうところである。だから歩いて渡れない時はボートを使う。この「ボート」も物語にとっては重要な役目を果たしている。というのも、二人の大事な会話は、この「ボート」の上でなされているからである。いったい物語にとって「ボート」とは何なのか。実は「ボート」も「湿地帯」も似ているのである。共に「海」でも「陸」でもない不確実な場所で、不確実な二人が、不確実な会話をして、少しずつ近づいてゆくのである。この揺れ動く境界線の上で、不確実な二人が、より確実な語りを求めて出会い続けようとする場所が、「湿地帯」であり「ボート」だったのである。
そうした不確実な場所での出会いの後、杏奈はいつも変なところで寝ていて起こされる。これも重要なシーンである。似たような場面に、『となりのトトロ』のメイが、家の敷地の藪の中で寝ているシーンがあったり、『銀河鉄道の夜』で、最後草むらでジョバンニが目を覚ますシーンがあったりしたが、幻想のような世界から「目覚め」を描くことはとても難しいものが。ただ今回のこのアニメのように、若い娘が、夕方の道ばたで寝ているところを発見されるという場面は、見ていて異様に見えたことは確かである。原作でもそういう情景は描かれるが、映像としてみるわけではないので、その危険な状況はさほど気にならないが、アニメ化されると、危ないところで寝ていて、ほんとどうかしているんじゃないと、若い女子学生たちは感じたと思う。その無防備で危険な状態が、どうしても気になったことは確かである。その辺の演出にはもっと工夫があってもよかったのではないかと思う。
7 「私を見つけて!」ー「内側の人、外側の人」の問題へ
くり返して言うように、『思い出のマーニー』は、原作もアニメも、まれにしかいないラッキーな女の子を描いているわけではなかった。マーニーはくり返し「私を見つけて!」と物語の中で言っている。結果として、かつては「お金持ち」であったおばあちゃんに杏奈が出会うことになのであるが、でも物語は「主人公は、とうとうお金持ちだったおばあちゃんに出会いました」というような話には決してなってはいないのである。というのも、杏奈がそのマーニーを「見つけよう」と「努力」しなければ、見つけられなかったはずだからである。作品の中ではくり返しマーニーは「私を見つけて!」という。そこが一番のポイントになっているはずである。「マーニーを見つける」とはどういうことなのか。それは杏奈が自分を見つける努力をすることそのもののことであった。マーニーのいう「私を見つけて!」というのは、杏奈が自分に向かい合い始めた時に、自分に声かけた言葉だったと私は思う。
作品には、「内側の人、外側の人」という言い回しが出てくる。普通に考えると、両親がいて家族のあるひとは「内側」を生きていて、家族のない人は「外側」にいる人という理解であろう。杏奈はだから自分を、両親も家族も持たない永遠に「外側にいる人」として意識してきていたのだが、マーニーと出会い、話を交わすなかで、マーニーにはお金持ちの両親が居るけれど、その両親はいつも不在で、自分の近くに居るのはいつも意地悪ばかりするお手伝いの女性だと言うことが分かり、マーニーも「外側を生きている人」なんだと言うことが分かってくる。両親がいて家族があるから「内側の人」というわけではないことがわかってくる。そういう認識の深まりが物語にとってのとても大事なところであって、そこを単純に「ガール・ミート・ガール」のように言ってしまってはいけないのだ。
私たちは自分の暮らす国を、「外側」に感じるか「内側」に感じるか、「問題」になるときがある。自分が国の「内側」にいると感じる人は、おそらく「愛国心」をもつだろう。しかし国を「外側」に感じる人は国に敵対心を持ち、国を転覆させようと考えるであろう。そういう判断の基準は、その人が自分の国の歴史をどういうふうに学ぶのかによって左右されると私は思う。「過去」を知ることを通して、自分が「内側にいる」ことを学んでいくからである。『思い出のマーニー』で使われる「内側の人、外側の人」という言い回しが投げかける問題は、そういう意味では、決して私たち読者や観客と無縁なところで問題にされているとは私には思われないのである。
8 米林宏昌監督の課題ー「ハク」が自分を取り戻すようにー
米林宏昌監督は、『思い出のマーニー』の制作開始にあたって、参加するメンバーに「あいさつ」をしているシーンがテレビで流されたことがあった。その時監督は、「今までのジブリのような青い空に白い雲が浮かんでいるというような、そういう感じじゃない世界観で・・・」映画を作りたいと言っていた。ジブリの過去の作品を、そういう「青い空と白い雲が浮かんでいる」というような言葉で総括するのは根本的に間違っていると思うが、宮崎駿さんなら映画に出来なかったところを映画にしたところは高く評価されなくてはならないと思う。宮崎駿さんのやろうとしたことは、これまでの私の説明では「歩行と地球」を結びつける壮大な物語を構想するところにあった。そういうアニメを見てきた人たちにとっては『思い出のマーニー』は、ものすごく物足りないと感じたはずだと私は思う。そこのところは、米林宏昌監督はよく理解しなければならないと思う。しかし宮崎駿監督の映画と比較するだけで、『思い出のマーニー』を「悪く」いうのも、この作品の良さを見のがしてしまうことになるので絶対に良くないと思う。
宮崎駿さんならなぜこの『思い出のマーニー』がアニメ化できなかったのかを考えてみたらよく分かることだ。宮崎さんの場合は「歩行と地球」があまりにも同時進行で描かれるので、話が極端な描写、極端な展開になってゆくのである。何かが不足しているのである。それは「歩行と地球」の間に「歴史に出会う」という仕組みを入れないといけないという課題である。「歩行ー歴史ー地球」という仕組みの物語化である。少なくとも今回、米林宏昌監督は、宮崎駿さんの取り組めなかった仕組み(「歩行ー歴史」)に踏み込んで映画化することが出来ていた。そこはこの映画のとても大きな成果になっているので、公平に評価されなくてはならない。ただ、その評価も、宮崎駿さんの問題意識とは切り離されてはならないのであって、たとえば杏奈がマーニーのノートから自分を再発見してゆく姿は、『千と千尋の神隠し』で「ハク」が千尋の「記憶」を手がかりに自分の過去を際発見してゆく姿と決して別のことではなかったからである。宮崎駿さんは、しかしハク」の過去や、「ハウル」の過去を、「物語」としてしかたどれなかったのに、米林宏昌さんは、「歴史をたどる」過程として描こうとしたことは新しい試みだったのである。それはこんど米林宏昌監督がジブリノ過去を「青い空と白い雲が浮かんでいる」というような言葉ではなく、ちゃんと「歴史の中のジブリ」を再発見してゆく作業と連動しているはずだと私は感じている。
原作
ジョーン・G・ロビンソン
『思い出のマー二―上』『思い出のマー二―下』
松野正子訳 岩波少年文庫2003
アニメ「ゲド戦記」と原作「アースシーの物語」への「案内」
もくじ
Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ
1 「歩く」主人公
2 「二人で歩く」というテーマ
3 「一番手を生きる者」を描かない
4 「二人目の父」「二人目の母」
Ⅱ 原作『アースシーの物語』へ
1 「案内」の問題
2 『アースシー物語』への「案内」
3 「アースシー物語」が「案内」しょうとしていたもの
4 第2巻『アチュアンの墓所』
5 第3巻『さいはての島』 ー「二つの世代」が補い合い、力を合わす姿ー
6 第4巻『テハヌー』
7 原作をアニメ化することの問題点
8 宮崎駿さんは『アースシー物語』をアニメ化できなかったのではないか
9 『アースシー物語』はどこをアニメ化すると原作に近くなるのか
Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ
1 「歩く」主人公
アニメ『ゲド戦記』2006では、主人公はひたすら歩いています。アニメを見た人は、そのことにまず気がつくと思います。いわゆる「戦記もの」のアニメなら、物語がはじまると、主人公たちはすぐに「飛んでしまう」場面に出くわすのですが、このアニメ『ゲド戦記』には、それがありません。主人公たちは、馬の手綱をひきながら、ひらすら砂丘や海辺や荒れ野を歩き、また町の中を歩いてゆきます。そしてこういう「作風」をどう見るのかによって、この作品の評価も違ったものになってきます。
もし、「戦記」という言葉に魅せられ、このアニメ『ゲド戦記』には「戦い」のシーンがいっぱい見られるのだと思って映画館に行かれた方は、そんなに「いっぱい戦い」が描かれていないのを見て「不満」を感じるかも知れません。主人公はひたすら「歩いている」だけなのですから。
この「歩く人」を描くというアニメは、父・宮崎駿さんにはなかったところです。宮崎駿さんのアニメでは、基本的には主人公は「飛ぶ人」であり、描かれるのは「飛ぶアニメ」だからです。ですから宮崎駿さんのアニメには、常に上から物事を見ようとしてるところがあります。「飛ぶ人の目線」から世界を見ているところがあります。そういう意味では、宮崎駿さんが吾朗さんに贈ったといわれる「一枚のゲドの戦記のポスター」は、とても宮崎駿さんらしい挿絵だったと思われます。それは上からポートタウンの街を見おろしている挿絵だったからです。そうした父・駿さんと違って、新監督・吾朗さんのアニメは、決して上から見ようとしないものとしてできあがっていました。ひたすら「歩く人の目線」から見る世界を大事に描こうとしていました。
ですからアニメ『ゲド戦記』では、「風景」はとても大事なものになっています。「風景」は、単なる「背景」ではなく、主人公が立ち止まって見つめたり、座り込んで見つめたりしているもので、まさに「暮らし」の中で出会える大事なひとときとして描かれています。ところが宮崎駿さんのアニメでは、「風景」は、常に「背景」にあったと思います。「飛ぶ主人公」にとっては「風景」は立ち止まって見つめるものではなく、飛ぶ人の背後へと消えてゆくものでした。描かれれるべきものは主人公たちであり、風景は、その主人公のつねに背後にあるものでした。ところが吾朗さんのアニメでは、風景は、主人公の背後にあるものではなく、主人公の前に広がっているものとして描かれていました。その違いは、主人公の設定の仕方の違いからきていると私には思われます。
アニメのはじめの方に、壊れた石橋を少しだけ飛ぶシーンがあります。ほんの少しだけ飛びます。あのシーンを描くことで、吾朗さんは、私の主人公は簡単には飛ばないぞ、という意思表示をしているかのように思われます。(もちろん最後には主人公は「飛ぶ」のですが、それは最後の最後にとっておきの出来事として残されていたものでした。)
2 「二人で歩く」というテーマ
アニメ『ゲド戦記』を見て、もう一つ気がつくことがあります。それは、この「歩く人」が、「二人連れ」だということです。何でもないようなことですが、それはこのアニメにとっての大事な「事実」です。「一人」で歩くのではなく「二人で」ひたすら歩くということ、これは決してどうでもいいことではないのです。
そもそもこの物語は「ゲド戦記」と題されているのですから、映画館に行った人は、まずは「ゲド」が主人公だと思っています。でも映画が始まるのは、父を刺して逃げる少年「アレン」の姿であり、その少年が「アシタカ」と名乗る男に出会い、共に旅をする姿を見ることになります。つまり「二人の旅」です。では『ゲド戦記』の「ゲド」はいつ活躍するのか?
しかし、物語の展開では、「アレン」が引き起こす出来事が多く描かれてゆきます。そして要所要所で「ゲド」が登場し、「アレン」を助けます。そういう作品の流れを見ていると、いつしかこの物語が「アレン」の物語であるかのように見えてきます。
そういう観客の反応は、でも間違っているわけではありません。アニメ『ゲド戦記』は、主人公が「一人」ではなかったからです。「ゲド」が主人公のように見えて、でも「アレン」も主人公のように見える。しかし、では「アレン」が主人公かと決めてしまうと、それはそうではないと感じる。これは「へんな感覚」です。「ゲド戦記」なのに「ゲドの戦記」ではなく「アレン戦記」のように見え、「アレン戦記」かと言えば、最後には「テルー」という娘さんが決定的な役割を果たしたります。最後の「テルー」の活躍ぶりを見ると、これは「テルー戦記」かと思う人もいるかも知れません。そして、あれっと思う人が出てくるかも知れません。「ゲド」はいったいどうしたんだと。「ゲド戦記」らしく、最後の最後は、「ゲド」が勇者になるのではなかったかのかと。
でも、アニメ『ゲド戦記』はそんなふうにはなっていませんし、そんなふうには終わってはいないのです。なぜそうなっているのかは、後で見る「原作・ゲド戦記」の思想に大きく関係しているのですが、原作のことを考えなくても、そもそもアニメの最初の設定で、「ゲド」と「アレン」が、延々と「二人」で歩いてゆく場面を描くことで、実は監督・吾朗さんは、そういうシーンにこのアニメのテーマをさりげなく提示しているところがあったのです。それは繰り返していいますが「二人で」というテーマです。
もちろんこの「二人で」というテーマは、「ゲド」と「アレン」の「二人」というだけではありません。アニメを見られた人はよくわかると思うのですが、「ゲド」と「アレン」の「二人」ではじまった物語は、いつしか「アレン」と「テルー」の「二人」の話を描いていることに気がつきます。そして、そうこうしているうちに、「テルー」と「テナー」の「二人」の話になっていることにも気がつきます。そしてまた「ゲド」と「テナー」の「二人」の話も決定的に重要な鍵をにぎっていることにも気がついてゆきます。
そういうふうに見てゆくと、このアニメ『ゲド戦記』には、さまざまな「二人」の情景がが描かれていることに気がつきます。「二人で」と言ってしまうと、しばしば特定のカップルのことを思い浮かべるわけですが、そういうことではなく、この世界で生きるということは、「一人」で生きるということではなく、つねに「誰かと共に生きる」ことなのだ、ということへの監督の思いがこめられているのです。そのつねに「誰かと共に生きる」ことをここでは今簡単に「二人で」と言っているだけなの、それは「対話の構造」と言い換えてもいいものなのです。そして、実はそのテーマは原作のテーマと深く関係していたのです。
3 「一番手を生きる者」を描かない
そもそも、この「二人で」というテーマは、実は「戦記もの」のアニメにはふさわしくないものなのです。「戦記もの」の物語では、主人公が「二人」というのは、迫力に欠けるところが出てきます。「戦い」が中心のアニメでは、やはり「めっぽう強い主人公」が「一人」いる方が「定番」であり、その方が「かっこいい」ものです。
そういうところから見ると、このアニメは「戦記もの」とくくってしまってはいけない面があります。「戦記もの」とは違った主人公のあり方が描かれているからです。そこのところは、しかと見つめてゆかないといけないところです。そこから見ると、このアニメ『ゲド戦記』には、絶対的に強いヒーローがいないことが、むしろ自然であることに気がつきます。
実際の所、「ゲド」は「魔法使い」でありながら、目を見張るようなすごい「魔法」や「必殺技」を使うわけではありません。一緒に旅をする「アレン」も決して「強い」わけではなく、町の下っ端の兵士に簡単にやられたりしてしまいます。そんな「アレン」を「ゲド」がたくましく支えてあげるのかというと、それはそうでもないのです。確かに「アレン」の危機をなんども救ってくれるのは「ゲド」なんですが、そんなにかっこよく助けるわけではありません。つまり大立ち回りをして「悪い奴ら」をやっつけてくれるわけではありません。そして最後には「ゲド」は「クモ」につかまってしまいます。
でも、最後の最後には、「ゲド」が「クモ」をやっつけるのかというと、それはそうではなく、「テルー」という娘さんが竜になってやっつけるように描かれているのですから、観客はどうなっているのかと思うことも出てきます。「ゲド戦記」というのだから、最後は「ゲド」が華々しい活躍をする「戦記」として終わるのではないかと思っていたのに、そんなふうには終わらないのです。「アレン」も最後の最後には「テルー」に助けられるわけですから、この作品には「一番強いもの」「一番強いヒーロー」がいないのではないか、ということになります。実際に、このアニメには「一番手」がいないのです。いわばみんなが「二番手」のような感じなのです。「二番手の力」を描いている、とでもいえばいいでしょうか(それが「二人で・の力」ということになるのですが)。
振り返ってみると、宮崎駿さんたちが作っていた、1970年代から1980年代までのアニメの多くは、米ソの冷戦構造を背景にもっていることもあり、主人公たちは互いに戦い、誰が一番強いものであるかを競い合うストーリーを持っていました。なんだかんだ言っても、主人公は常に一番強いのです。『あしたのジョー』や『北斗の拳』などは、一番強くなるために、さまざまなものを犠牲にして、常にその「一番」を確保するためにがんばっていました。米ソの冷戦構造と国内の高度成長が背景にある中では、人々はどうしても「一番になる主人公」に共感を示しやすくなり、そこに自分を重ねてみることは自然にできていただろうなと思われます。
ある意味では、それは手塚治虫さん、高畑勲さん、宮崎駿さんら、アニメ界の巨匠たちが、ほとんど家庭を犠牲にして、アニメーターとして「一番の位置」を確保しようとしのぎを削っていたことと関係しているようにも思えます。そういう意味でも、多くのアニメは、「一番になる主人公」を描かざるを得なかったように思われます。
ところが見てきたようにアニメ『ゲド戦記』は、「一番の主人公」を描いているのではないのです。言ってみればあえて「二番手の主人公」を「主人公」にしているところが感じられます。たぶん、監督の吾朗さんは、そういう「二番手の主人公」を意図的に主人公にすえることでアニメを作ろうとされていたと思います。実際、「アレン」という主人公も、「ゲド」という主人公も、「一番強い」わけではありませんでしたから。しかし、そういう主人公の設定は、監督の吾朗さんが意図的に作りだしたものなのかというと、それはそうでもあり、そうでもない部分がありました。というのも、そこには「原作」をどういうふうに読み取るのかということに、大きく関係するところがあったからです。
もし、原作を「戦記もの」として読み取れば、主人公は「一人」にした方がすっきりするわけですが、アニメ監督の吾朗さんはそういうふうには「原作」を読み取らなかったのです。つまり監督は、多くの人が「戦記もの」として読み取ろうとしたのとは違った風に「原作」を読み取ったということなんです。そして実は、ここが大事なところなんですが、もともと原作には、そういうものを読み取らせるものがあり、むしろ「戦記もの」と読めば読み損ねてしまうものがあったということなんです。アニメ『ゲド戦記』を理解するには、そこのところをちゃんと見てゆかなくてはなりません。
4 「二人目の父」「二人目の母」
少し余談になりますが、ずいぶん以前に、柳田國男という民俗学者が「生みの親」と「育ての親」の区別について興味深い日本の風習のあることを紹介していました。昔は成人式を迎えると、それまでとは違った「新しい親子関係」を人工的に作ってゆく風習があったというのです。彼はそういう「新しい親」が、「仮親」とか「成り親」と呼ばれる習俗のあったことを、こんなふうに紹介していました。
「親という漢字をもって代表させているけれども、日本のオヤは以前は今よりもずっと広い内容をもち、これに対してコという語も、また決して児または子だけに限られていなかった」
「現在の日本の考え方によると、オヤははっきりと二通りの種類に分けられる。その一つはむろん生みの親、また実の親ともいっているもので、残りはまだ一括した好い名はないが、通例は義理の親、(略)もっと簡単な別の称呼としてはカリオヤ(仮親)がある。」
「私が前に使ったオヤコナリという言葉なども、現在はもうほとんど耳にせぬようだが、文献の上にはいくらも現われ、また南の島々にはオヤコスルという語もある以上は、これを人間が出生の後に、第二第三のオヤコ関係に立つ場合の全部を引きくるめた名称として差支えない」
『親方子方』(『柳田國男全集12』ちくま文庫)
柳田國男はこの本のなかで、人は「生みの親」「育ての親」とは別に、成人式を迎える頃に新しい「第二の親」(「育ての親」を「第二の親」と呼べば、これは「第三の親」ということになるでしょうが)に出会う仕組みを作っていたというのです。要するに昔の親は、多くの人に「親」になってもらい子どもを育てようとしていたことがあったというのです。こういう発想は現代でも生かしうる大事な発想なのではないかと私には思えます。というのも、「子」を導く「オヤ」は、いつの時代にも「複数」いることが大事であって、そういう「複数のオヤ」がいなくなってきていることが、ある意味での現代の困った所なんだという気がします。
そういう目から見ると、アニメ『ゲド戦記』には、「二人目の親」に出会うというようなテーマが描かれていることに気がつきます。「アレン」は「ゲド」という「二人目の父」に、「テルー」は「テナー」という「二人目の母」に。それはおそらく「二人で」とか「誰かと共に生きる」というテーマと関係しているのですが、この辺もこのアニメ『ゲド戦記』を見るときの興味深いところです。
Ⅱ 原作「アースシーの物語」へ
1 「案内」の問題
「作品」には、視聴者をどこかへ「案内」してくれる人(仕組み)があります。殺人事件を扱う作品であれば、視聴者は最後には「犯人」のところへ「案内」されるわけで、そういう案内役に「探偵」がなったりします。そういう意味では、作品の中で起こった事件や出来事が、なぜ起こったのか、それを「説明」する案内人(仕掛け)がちゃんとある作品では、視聴者は最後には「腑に落ちる」形で、「納得して」作品を見終えるということになります。『名探偵コナン』などは、そういう意味ではとても丁寧に「案内」が仕掛けられていて、見終わると、「よくわかった」というふうな満足感に包まれることになっています。
しかし、「よくわからない」と感じる作品もあります。ピカソの絵などはよくわからない、と感じます。しかし、「わからない」から作品が駄目だということにはなりません。少し見る視点を与えてもらえば、がぜんその作品が「おもしろく」みえてくることはざらにあるからです。その場合の作品の「案内」は、作品の「外」にあるということになります。つまり「批評」や「解説」の中にあったということになります。いい「批評」に出会うということはとても大事なことですし、きちんと「批評」されないと「作品」はちゃんと見えてこないことは多々あるのです。現実には歴史の中で「作品」と呼ばれてきたものは、すべてたくさんな「批評群」と共に歩んできたもので、「作品」が「一人」で歩んできたことはないのです。ここにも当然「二人で」というテーマが潜んでいます。それはともかくとして、この「批評」をここでは「案内」と呼んでおくことにします。
別な例をとれば、英語やフランス語の映画や小説は、そのままでは「わからない」ものですが、翻訳されれば「わかる」ようになります。翻訳もまた「案内」の一つの形です。「作品」と「観客」は、いかにも直接に向かい合っているように見えて、実際にはふだんはあまり自覚はされないけれど、その間に「案内」が入っているものなのです。図式的に書けばこういうふうになるでしょうか。
「作品」-(案内)-「観客」
ですから、どんな「案内」に出会うのかによって、その作品が「おもしろく」なったり、つまらなく感じたりすることがしばしば出てきます。作品と観客の間には、目には見えないけれどいろんな「案内人」がいて、それが「観客」をあちらこちらと「誘導」したり「先導」したりしています。ですから、どういう「案内人」に出会うかによって、うまく「作品」に出会えたり、出会えなかったりすることがでてきます。変な風に作品に「案内」されることもありますからね。だから、いい「案内人」に出会わなかった作品は不幸だと言うことになるでしょうし、いい「案内人」に出会わなかった観客もまた不幸だと言うことになるでしょう。
ここに興味深いエピソードが一つあります。能登路雅子『ディズニーランドといいう聖地』岩波新書の最初に書いてあるエピソードです。それは彼女が夫とはじめて「ディズニーランド」いったときのことでした。彼女の夫は、元オペラ歌手で、大衆文化を軽視、軽蔑しているところがあり、そういう人から見ると「ディズニーランド」は通俗的で軽薄で見るに堪えないものとして映るので、遊園地を回る間、見るもの聴くものすべてを彼はずっとけなし続けていたというのです。そして最後には「これらは全部ニセモノだ」と彼が言ったりしたので、彼女もとうとう「ディズニーランド」の面白さを感じないままに帰ってきてしまったというのです。ところが翌年ブラジルの若い夫妻と三人で再び「ディズニーランド」に行く機会があって、その時は、この若い夫婦が見るも聴くものすべてに感激して園内を回るので、同行している自分も知らぬ間に、人並みに「ディズニーランド」を楽しんでいたというエピソードです。
「人生」にもある意味での「作品」みたいなところがあります。それを前にしてどんな「案内人」に出会うかによって「人生」の見方が大きく左右されることがでてくるからです。「人生」を小馬鹿にし、軽視する「案内人」に出会ったら、そんなふうにしか「人生」を感じなくなることも起こってきます。どんな「案内」に出会うのか、そこんところはけっこう大事なところなんだと私は思っています。
2 『アースシー物語』への「案内」
そのことを踏まえて『ゲド戦記』のことを少し考えてみたいと思います。
「ゲド戦記」と呼ばれているシリーズの物語は、確かに「ゲド」の「戦い」という側面を持つ物語なのですが、原作では「ゲド戦記」と呼ばれているわけではありません。もともとの原作のシリーズ名は「アースシー物語」というもので、「アース(大地)」と「シー(海)」の物語とでもいうべきものでした。でもこの物語が発表された当時(1968年)」、日本国内では大学紛争が激化しはじめていた頃でもあり、翻訳者の清水真砂子さんは、いろいろと考えられた末に、この物語を読者に手にとってもらうために「案内」として「ゲド戦記」というネーミングを考えられたと思います。時代はまさに「大学ー戦記」の時でしたから。そして事実、この「戦記」という言葉のイメージに導かれてこの物語を手にされた方が多かったのではないかと思われます。実際にも、この「ゲド戦記」というネーミングの「案内」はうまく「物語」に人々を導いてくれていたと思います。
確かにこの「アースシーの物語」の1巻では「ゲド」の「戦い」が「見える」物語になっているので、「ゲド戦記」という命名はふさわしいと思います。でも、2巻目からは、予想していたようには「ゲド」の「戦い」は中心になってゆきません。3巻では新たにまた「戦い」が激しく繰り広げられるのですが、「戦記」という言葉から想像されるのとはだいぶ違った「戦い」が展開されてゆきます。
そんな3巻目が1972年にでて、それから18年たった1990年に第4巻が発売されたときは、さらに「ゲド戦記」というシリーズ名は似合わないような物語の展開になってきていました。この巻では「ゲド」はもうすっかり「戦う人」のようには描かれていなかったからです。
しかし、実際には第4巻は、それまでの巻をしのぐ味わい深い物語が展開します。この巻を読まれた方はきっと深い感動を覚えると思います。いい作品を読んだなあときっと満足される事と思います。
そうなると、一つの「問題」が生じてきます。「戦記もの」としてこのシリーズを読もうとしてきた人にとっては、第4巻はおや?と思うしかない物語のようにしか見えなくなってくるからです。ここに「案内」の怖さがあります。はじめは「ゲド戦記」というネーミングが、この物語への格好の「案内」になっていたのに、第4巻では、そのネーミングにつまずいてしまうようなことが起こってくるからです。
しかし、もう一度元に戻ってみる必要があります。そもそもこの物語は「ゲド戦記」ではなく「アースシーの物語」として作られていたので、なにかが途中で大きく変わったわけではないのです。最初から抱えていた作品のテーマが、第4巻でさらに深められ、うんと考えさせられる所に「案内」されるものになっていた、というだけなのです。
3 「アースシーの物語」が「案内」しょうとしていたもの
そこで原作の『アースシーの物語』を振り返ってみて、この作品はそもそもどこへ読者を「案内」しようとしていたのかを考えてみたいと思います。第1巻は、翻訳の題は『影との戦い』ですが、原題は『アースシーの魔法使い』となっています。ここにも翻訳者・清水真砂子さんの苦心が読み取れます。『影との戦い』はまさに内容をよく表した題になっていて、これが『アースシーの魔法使い』と題されていたら、人々はあまり関心を払わなかったかもしれません。「なんだ、魔法ものの、子ども向けのお話しか」ときっと早合点され、見向きもされなかったかも知れません。しかし、第1巻は決してそんな「魔法もの」や「子ども向けの話」ではありませんでした。
この第1巻は、おそらく最もよく知られている巻なので「説明」することもないのかもしれませんが、それでも大事なところを見失しなわないように、少しだけ「案内」をしておきます。
この1巻では、「ダニー」と呼ばれていた少年が、少しまじないの言葉を覚え、タカを呼び寄せる術を手に入れてから、村の子どもたちはその子に「ハイタカ」とあだ名をつけて恐れるようになります。そして彼が「13歳」になったとき成人式が行われ、そこで「ゲド」という「真(まこと)の名」を賢人オジオンからもらうことになります。そしてゲドは、本格的に「魔法」を習うために「ローク島」の「魔法学校」へ入り、修行することになります。そんな彼が19歳になったとき、いつしか禁じられていた死者を呼び出す魔法を使ってしまいます。そして呼び出してしまった「死の影」に追われて、まさに「死に淵」まで追い詰められるのですが、賢人オジオンからその「影」を逆に追うように言われます。最後は、その追い詰めた「影」が、実はもう一人の「自分」であって、それと「合体」することで、より「大きくなった自分」を取り戻すという話の展開になっています。
現実の「13歳」から「19歳」くらいの若者を見てみると、確かにこの物語のように、「死の影」に出会う若者たちがいます。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』や『デミアン』は、まさにこの年代の主人公が「死の影」に直面し、「死の側」に引きづり込まれたり、そこから生還したりする小説として作られていました。「ゲド戦記」の第1巻『影との戦い』は、まさにそういう青春小説のテーマを色濃く持っていて、「死の影」と戦う若者を迫力満点で描がくことに成功しています。いや小説では得られない、物語特有のスリルと感動をもった作品に仕上がってると思います。
原作者はこの作品の中で、主人公が「ダニー」「ハイタカ」「ゲド」と名前を変えながら、「死と向かい合い」、それを克服してゆくところを読者に見てもらうように「案内」しようとしています。その若者の姿には、古代から続く「成人式」を通過してゆく姿が織り込まれています。昔の成人儀式は、死の儀式でもあり、子どもの自分を殺して、新しい大人の自分を立ち上げてゆく儀式としてあったからです。そういう古代から引き継がれてきた青年を育てる知恵に、作者が「案内」しようとしていました。
わたしはこの第1巻で、まず大事なところは、「名前」の仕組みを描いているところだと思います。人々は「名前」を呼ぶことで、その「対象」を呼び寄せてしまいます。そして時には、そのその呼び出したものに取り憑かれてしまうことも起こってきます。そういう「名前」にまつわるさまざまな出来事を描いたところはすごいと思います。
もう一つこの第1巻の大事なところは、「ゲド」が「カラスノエンドウ」と呼ばれる友人と二人で「影を追う旅」をするところです。特に、「ゲド」が一人で「死の影」を克服するのではなく、友人と共に旅をすることで「死」を克服するように描かれているところが大事です。そこのところがとても大事だと思います。この友人は、何を手助けしてくれるというわけではないのですが、一緒に道行くことをしてくれることでゲドを支え、「死」から戻ることを支えてくれているのです。そのことを作者は描いています。
このテーマは第3巻で「ゲド」と「アレン」の二人の旅として、再び描かれ直しされます。人生は「一人で歩む」ことの中に現れるのではなく、誰かと「共に歩む」ことの中にこそ現れるというテーマを、原作者は追究していて、それは「戦記」という戦いのイメージだけでは決して見えてこないものでもありました。そして実は、このテーマ(つまり「共に」というテーマ)こそが第4巻に、想像を絶する形で深められ、表現されているものであって、その第4巻につながってゆくものが、すでに第1巻からあったということなのです。
4 第2巻『アチュアンの墓所』
第二巻の翻訳の題は『こわれた腕輪』ですが、原題は『アチュアンの墓所(ぼしょ)』となっています。「こわれた腕輪」というのは、アースシーの世界に紛争が起こり、その戦いのさなかに割れてしまった腕輪のことで、その割れた腕輪は、世界の割れを象徴しているものでもありました。物語としては確かに、こういう割れた世界が背景にあり、その世界を再び統一するために、割れて分かれてしまった二つの腕輪を一つにするという物語を背後にもっているのですが、物語の大半は実は原題がそうなっているように、「アチュアン」と呼ばれる大きな地下の墓所を守る巫女(みこ)の「テナー」という娘の話が中心に展開しているのです。彼女は、5歳の頃に親から無理矢理引き離され、「アルハ」と名前をつけられ、一生涯、巫女として生きることを強制されています。「アルハ」とは「喰らわれし者」という意味だといいます。不吉な名前です。そして、その強制生活の中で見習いの巫女を14歳までに終え、15歳で成人式を迎え、さらに大巫女としてたち振る舞わなくてはならなくなっています。
そんな中で、しかし「アルハ」の価値観を揺らし続ける友人の巫女がいました。「ベンセ」と呼ばれる幼なじみの巫女です。彼女はアチュアンの巫女の暮らしが嫌で、「外」の世界へ出たいと常に思っていました。そしてその話を「アルハ」にし、「アルハ」も不思議な考えだなと思いながらそれを聞いて育ってきました。しかし、やがて「アルハ」の心の中にも、こんな暗いアチュアンの墓所を守るだけで一生を過ごしていいのだろうかという疑問がでてきます。
そして、大巫女になった「アルハ」は、彼女を監視する年上の巫女「コシル」や、下男の「マナン」の指導の目をくぐり抜け、自分の力で、地下の墓所を探索するようになります。そこは「迷宮」と呼ばれる真っ暗な場所で、一度迷い込むと二度と出てこられないおそろしい場所でした。しかし、「アルハ」は、恐怖心と戦いながら、持ち前の気丈夫さを武器に地下の迷宮の探索を続行してゆきます。
こうした要約をするだけでも、この第2巻が、「ゲド戦記」という「戦記物」とはほど遠いイメージの中で展開していることがわかっていただけるかと思います。そういう展開の中で、この第2巻が「案内」しようとしているところを短く言ってしまうと、「闇を押しつけられている女性」が自ら「闇」を探索し、そこから自分を「解放」する道を見つけ出す物語だと言えると思います。あたかも「ゲド」が恐ろしい「影」を逆に追い詰めることで、そこから「自由」を手にしたように、女性の「アルハ」は地下の「闇」を相手にするということで、そこから脱出する糸口をつかんでゆくのです。その「闇」から出るきっかけを与えてくれるのが、友人の「ベンセ」であり、物語の後半にやってくる「ゲド」であったわけですが、でも、「ゲド」は決して「アルハ」を助ける勇敢な騎士のようにはたち振る舞ってはいません。墓所に迷い込んだ「ゲド」はすでに「魔法」も使えなくなっている弱々しい男に過ぎませんでしたし、むしろ「アルハ」が「ゲド」を助ける役すらしています。そして、しだいにその助ける男に逆に助けられ、自分の元の名前が「テナー」であったことを教えられ、とうとう最後には「迷宮としての墓所」の脱出に成功するという展開を迎えてゆくのです。
そういう意味では、第1巻の『影との戦い』では、「ダニー」という少年が「ハイカタ」や「ゲド」と呼ばれて成人してゆく中で「影」とぶつかる青年の姿を描いていたように、第2巻は、「アルハ」と呼ばれて育った娘が、成人し、「闇」とぶつかる中で、自分の元の姿を見いだしてゆく女性の戦いの姿を描いているものになっていました。
ただし両方の作品に共通しているものがありました。それは主人公が「一人」で道を切り開いてはいないという物語の展開です。つねに誰かと共に道を切り開いてゆく、それが1巻と2巻には共通して描かれているのです。
5 第3巻『さいはての島』 ー「二つの世代」が補い合い、力を合わす姿ー
第3巻『さいはての島』は、おそらく多くの人がもっとも面白いと感じてきた作品ではなかったでしょうか。原題も翻訳名と同じ『さいはての島』でした。この巻ではすでに「世界の均衡」が破れてきて、争いや病気が人々の間に広がり始めていることが語られます。そして、その原因に「ハブナーのクモ」と呼ばれる男が関係していることがわかってきます。そして、その「世界の不均衡」から世界を取り戻すために、エンラッドの王子・アレンとゲドが、「旅」をすることになります。アニメ『ゲド戦記』はいうまでもなく、ここを描いているのですが、もし、原作の第3巻が、「ゲド」と「アレン」が「クモ」をやっつける話でしかないのなら、それはまあよくある冒険物語だとしてすませてしまえるものです。そういう冒険物語は、子ども時代に読むとおもしろものでしょうが、大人が読めばあまりおもしろいとは思えないことが多いものです。
しかし、じっさいに第3巻『さいはての島』を読まれるとわかるのですが、この作品は、ただ「ゲド」と「アレン」が「クモ」をやっつける話にはなっていなのです。もし、そういう冒険物語を作者が描きたいのなら、何も「ゲド」と「アレン」の「二人」を登場させなくてもいいはずです。「ゲド」が「一人」で世界の均衡を乱す「クモ」を探しに行き、そこで勇敢に戦って勝利を収める。そういう展開でもよかったはずなのです。でも、作者はそんなことをしないで、「アレン」という若者を登場させて、彼が「ゲド」と一緒の旅をすると言う設定をあえて描いているのです。これはちょっとへんな設定だとは思われませんか。この物語が「ゲド戦記」なのだとしたら、まさにこの巻は「ゲド」が中心の「戦記」になってもよかったはずなのに、そんなふうにはなっていないのです。
実際に、ここで描かれる「ゲド」は、そんなに強い勇者ではなく、「旅」の途中で「アレン」もしばしばその「強さ」を疑ったりしています。この人にこのままついて行っていいのだろうかと。事実、この巻でも私たちが期待するようには「ゲド」は、勇者として、ヒーローとして活躍するわけではないのです。
とすると、この第3巻『さいはての島』は、何を描いている作品になっているのでしょうか。それはまさに「ゲド」と「アレン」の「二人の旅」そのものなのです。それを描くことが主要なテーマなのです。つまりこの巻でも作者は「ゲドの戦記」を描いているのではなく、「さいはて」に向けて、「ゲド」と「アレン」が「旅」をするその「二人の姿」を描くことが主要なテーマになっているのです。
丁寧に読むとよくわかるのですが、旅の道中で「二人」はお互いの距離感を感じながら、時には疑心暗鬼になりながらも、支え合い、目的を達成するように動いてゆきます。その場合の「二人」とは「若さを持つもの」と「知恵を持つもの」の「二人」です。この「二人」には、お互いにないものがあります。自分にないものを相手が持っているのです。それが「二人」という意味です。それは別の言い方をすれば、「世代の違う二人」といってもいいかもしれません。「若い世代」と「老いの世代」。この「二人」には、ともに無いものが相手にあります。
「世界の均衡を崩すもの」がでてきたというような、そんな世界の大事件に立ち向かうには、実際には「老いの知恵」が必要ですが、それだけでは立ち向かうことができません。そこには「若さという力」も必要なのです。原作者は、「世界を救ったり」「世界を変えてゆく」には、この「異質な力を持つもの同士」が「共に力を合わせて歩まないと」道が開けないことを訴えているところがあるのです。つまり、派手なアクションだけで世界が救えるのではなく、「異質な二人」がお互いにない力を引き出し合う旅をつづけながら、ようやく実現してゆけるものがある、そう訴えているところがあるのです。
6 第4巻『テハヌー』
そして第3巻から18年をへて第4巻が発表されます。衝撃的な内容の物語でした。たぶん、おそらく『アースシー物語』の中では、もっとも興味深い、深みを持った作品になっているのではないかと私は思います。
第4巻は、日本語の題としては「帰還」となっています。この題のつけかたは、最初の「ゲド戦記」というネーミングを生かすために、そのイメージを失わないようにするために、たぶんあえて選ばれてつけられていると思います。つまり第3巻が、「ゲド」が、死の淵から竜の背中に乗って生還してきたというところで終わっているので、そこから始めるために、つまり、この第4巻も「ゲドの物語」であることを意識してもらうためにあえて『帰還』という翻訳名を与えているのです。しかし、実際の第4巻の原作の題は『テハヌー』となっています。「テハヌー」とは、この第4巻で新しく現れる娘の「真の名」です。つまり、この第4巻はすでに「ゲドの物語」つまり「ゲド戦記」ではなく、物語は「ゲド」からはるかに離れたところに重心を移したところで展開される作品にいるものなのです。
だからもし、この第4巻をあえて「ゲド戦記」として読もうとしたら、ずいぶんへんなことになってしまいます。またへんなことになっている物語として読んでしまうことになると思います。つまり1巻や2巻や3巻とはずいぶん違った物語を作者が書くことになってしまったというように。しかし、そういう読み方は間違っているのです。事実第4巻は、『帰還』ではなく、『テハヌー』と題されているのですから、この題の意味するところからこの物語のテーマを読み取ってゆくのが普通の読み方だと私には思われます。そして『テハヌー』こそが、原作者ル・グウィンさんがもっとも訴えたかったことが、よく表されている巻になっているのです。
では第4巻では、どんな話が展開されているのでしょうか。この巻の内容は、一人の重い障害を持った女の子をめぐって展開しているのです。原作では、親に捨てられ、火の中に投げ込まれ、片方の目を失い、片方の手を失った少女が、「テナー」という第2巻の主人公であった女性に助けられ、共に暮らすところがテーマになっています。もちろん「ゲド戦記」というような「戦記もの」とはほとんど無縁な物語の展開です。
そこで「テナー」が繰り返し自問し、「ゲド」に尋ねるのは、こんなにひどい障害をもった子ども、つまり将来にわたって何の展望もを得られないような障害を持った子どもを、いったい引き受けて育てるというのは、どういうことなのかという問いかけです。私たちは、こんなひどい障害を受けてしまった子どもを、いったいどういうふうにしたら引き受けてゆけるのか、という問いかけです。それが実はこの第4巻のとっても重要な問いかけになっているのです。そしてこのことを考えることが世界のバランスを考えるということだということ作者は訴えているようなのです。
この第4巻の核心的な見所は、大賢人オジオンが、この子にはすごい力があるんだと言い残して死んでいったところにあります。その言葉の意味はそのうちわかってくることになります。それは、この「テルー」と呼ばれた娘が実は「竜」の血を引いている娘であったことがわかるというところです。
物語の好きではない人は、こういう話の展開につまづいてしまうかも知れませんが、でも素直に物語を読んでゆけば、こういう話の流れは決して不自然ではないことが読み取れます。現実にも、重い障害をもつ子どもを育てる親たちは、どこかでこういう子どもたちの持つ不思議な生命力に驚かされているところがあるものです。でも医者や学校の先生たちは、こういう子どもたちのことは「障害児」としてしか教えてくれません。ましてや「不思議な生命力」をもっているのだ、などというふうには教えてくれません。
しかし、この第4巻では、この重い障害をもった「テルー」は「真の名」を「テハヌー」と言って、実は「竜の血」を引いているのだと明かされるのです。それ故に大事に引き受けて育ててゆかないといけないのだと。こういうふうに説明されるところを読んで、私は本当にすごいイメージが描かれているなあとびっくりしてしまいます。それまで、誰もこういう子どもたちが「竜」であるなんて言った人はいないからです。
しかし、大事なことは、そういうことだけではないのです。つまり「テルー」が「竜」であることだけが「問題」なのではないのです。この第4巻のすごいところは、「テナー」がづっと「テルー」と共に歩もうとしているところが描かれている所です。「テナー」は何度もこの「テルー」を引き受けるとはどういうことかを問いながら、あるいは、どうしたら「テルー」を引き受けてゆくことができるかを問いながら、でも決して「テルー」を手放さないで共に歩いてゆくのです。ここに、この第4巻の「二人で」のテーマがもっとも深いところで問われて描かれているのを私たちは見ることが出来ます。
つまり、こうした重い障害をもった子どもを、「二人目の母」として「テナー」が引き受ける努力をするなかで、はじめて「テルー」が「竜」であることが感知される道が開けてくるのです。「テナー」が「テルー」を引き受けるということは、「テルー」を次の世代に繋ぐということです。この世代を繋ぐという営みの中に「竜」というものが存在するのではないか。作者はそういうことを考えているみたいです。ということは、その世代をつなぐという営みの根本を担うものは「女性」であり、実はこの「女性」というものの中に「竜」と呼ばれる存在がいるのではないかと。おそらく原作者のいわんとしていることは、そういうところにあったのではないか。そしてそういう「世代をつなぐ」というテーマは、「一人」ではなし得ない営みで、それは必ず「共に歩む」ものたちの中ではぐくまれ、引き継がれてゆくもので、その仕組みをしっかりと見つめることが実はこの『アースシー物語』の巨大なテーマとして最初からあったのではないかと私には思われるのです。しかし、その巨大なテーマがこの物語を男性の物語、つまり「ゲド戦記」として読もうとしてきた人たちにはきっと読み取れなかったところではなかったかと、私は思います。
7 原作をアニメ化することの問題点
以上のことを踏まえて考えると、原作の『アースシー物語』が「案内」しょうとしていたのは、「戦記の物語」だけではなく、最初から「共に生きるものの物語」「世代を繋いでゆくとはどういうことかを問う物語」であったことが見えてきます。
そうなると、この物語を映像化したり、アニメ化したりするということは、何をすることになるのでしょうか。
宮崎駿さんが最初この原作をアニメ化しょうとされたときは、まだ最初の第三巻までしか出ていなかったわけで、「戦記もの」のイメージで物語が読み取られる部分が強くあった時でした。しかし、原作者の許可がおりませんでした。
その結果、作られてゆくのが独創的な『風の谷のナウシカ』であり『天空の城ラピュタ』でした。そして、これらはまさに「戦記もののアニメ」として作られていったものでした。宮崎駿さんは、子どもたちをおもしろがらせるには、まずは「戦記もの」のスタイルを持った作品をつくることが必要だと考えておられたと思います。実際にも、これら「ゲド戦記」やアニメが作られた1970年代や1980年代は、アメリカとソビエトとの冷戦構造のただ中で、社会情勢としても「戦記もの」はリアリティをもたざるを得ないものとしてありました。そんな中に生まれた『アースシー物語』は「ゲド戦記」として紹介されたのでいやおうなく「戦記もの」として受け止められてゆかざるを得ませんでした。
8 宮崎駿さんは『アースシー物語』をアニメ化できなかったのではないか
宮崎駿さんは、原作者の許可がおりなかったから「ゲド戦記」がアニメ化できなかったとされていますが、実際そうだったのでしょうか。今から思えば、宮崎駿さんは「戦記としてのゲドの物語」はアニメ化できても、『アースシー物語』の大部分は、彼にはうまくアニメ化できなかったのではないかという気が私にはします。というのも、原作の大部分は「戦記」として描かれているわけではなかったからです。ですから、「戦記」でない部分をアニメ化することは、宮崎駿さんにとってはとっても難しかったように私は感じます。この困難さに挑むには、この『アースシー物語』を「ゲド戦記」として読む人ではなく、「アースシー物語」として読む人によってしかアニメ化できないようにわたしには感じられました。
そこに新監督・宮崎吾朗さんが現れたというわけです。おろらく課題は無意識のうちに吾朗さんに託されたのだと思われます。父・駿が手がけることの出来なかった領域を、新しい世界観を模索する監督に託されたのではないかと。まさに、ここにいみじくも「二人で」の課題が無意識に出ているのかも知れません。
つまり、この「二人で」のテーマは、「アクション」や「スペクタル」が中心の「戦記」とは対称にあるテーマで、男性の考えやすいテーマではありませんでした。そういう意味でも、宮崎駿さんには扱いにくいテーマだったように思われるのですが、新監督の吾朗さんには、どこか女性的なテーマを扱える素質があったのではないかという気がしています。
原作者が女性であり、格闘技を中心とする戦記ものを描いたわけではない『アースシー物語』は、ある意味での女性的な感覚を総動員して読み取らないといけない部分がたくさんありました。そういう感覚をたぶん吾朗さんの方がたくさん持ち合わせておられてのではないかと。むろん「女性的なテーマ」とか「女性的な感覚」という言い方も、きっと語弊があるとおもいます。「二人で」というテーマは、すでに、言いましたように「対話の構造」とでも呼びうるテーマに関係しているからです。「戦い」でではなく、どこまでも続く「対話」の仕組みで、という意味でもあったからです。「対話の仕組み」を生きない女性もいますからね。
そういう意味で、くりかして言えば、『アースシー物語』は、「戦記もの」ではなかった分宮崎駿さんにはアニメにすることが難しく、逆に、もともとこの原作が持っている性質から、宮崎吾朗さんの方がよりこの作品をアニメ化することができたのではないかと、言えるように私は感じています。
9 『アースシー物語』はどこをアニメ化すると原作に近くなるのか
では『アースシー物語』のどこをアニメ化すると原作に近くなるのでしょうか。
考えられることは、「戦記」的な部分はできるだけさけて、主人公たちを「二人」として描き出し、それぞれがお互いの弱さを補うように活躍するところを描く、というような工夫の中にではないでしょうか。実際にそういうことをしようとすると、「戦い」の場面では、「影」との戦いと「クモ」との戦いを選ぶしかないのですが、「二人で」のテーマの方は、「ゲド」と「アレン」、「テナー」と「テルー」、「アレン」と「テルー」の組み合わせて登場させる、というアイデアを考えることができると思います。でも、そう言うことをすれば、原作の各巻に分けられていた話を一つの話の中に繋いでしまうことになります。原作の物語に忠実な展開を選ぶか、原作のテーマに忠実な展開にするのか・・たぶん吾朗さんはいろいろ思案されたのだろうなと思われます。その結果、後者を選ばれたのでした。
でも、そういう目で見れば、このアニメ『ゲド戦記』は、巧みにこの『アースシーの物語』の大事な部分をつなぎあわせ、なおかつテーマも『アースシーの物語』本来の、「戦記もの」ではない、「二人で」のテーマとしてとらえ直し、それを「歩く」というテンポの中で表現しょうとしたことが見えてきます。もちろん、第1巻から第4巻までを一つにしょうというのですから、うまく「説明」や「案内」ができていない部分が残っているのも事実です。特に最後の「テルー」が「竜」になる「理由」がわかりにくいと思った人は多かっただろうなと思います。「原作」を背景に抱えている時には、しばしば、こういうことが起こります。「原作」を読んでいれば「推測」できることが、それを読んでいない人にはなんでそうなるのかよくわからない、というようなことが。それでも、今回のアニメ『ゲド戦記』は、想像されている以上に「原作」に近づこうとしている作品になっているところはちゃんと「評価」されなくてはいけません。
たしかに、「格闘技」アニメを求めていた人たちは、「ハブナーのクモ」と激しく戦う主人公を期待していたかも知れません。「生と死」の物語を描くという時には、そういう「相手」がやっつけられる展開を求めてしまいがちだからです。しかし、そういう展開は繰り返して言いますが、男の子たちが好んで求めてきた世界です。しかし、そういう「格闘技」の「生と死」ではなくて、一つの死が次の生を生むことにつながるという、そういう「世代をつなぐ」中にあらわれる「生と死」がもっと注目されてもいいはずなのです。そうした「世代」をつないでゆく物語は、男たちのスペクタクルアニメの中では描きにくいものです。それは男と女が共に生み出す「世代交代」の仕組みの中にしか現れ得ないし、そういうところを考えるアニメによってしか表現できないように思われます。「ハブナーのクモ」は「世代交代」しないで、自分だけが生きのびようとするものでした。つまり「一代限り」を永遠に続けようというやからです。それは「滅び」を受け入れないものたちの思考です。ある意味では、それは現代の「美や健康を追及することで滅びを受け入れない女」たちのあり方にも似ています。その底にあるのは、「一代限りの生命観」です。それは「命」を「一人の命」のレベルで考える発想です。つまり「一人」を生きる発想の世界観です。でも、そういう世界観を批判するところに『アースシーの物語』があり、それを引き継ごうとしたところにアニメ『ゲド戦記』の特徴と志しがあったのではないか、私はそう思っています。