京都府生まれ。写真は「あすなろ園(心身障害児通園施設)」に勤務の頃の勇姿。24歳から44歳まで交野市。この園で関わった子どもたち、母親、先生たちから、人生で大事なことのすべてを学んだ。
45歳から、同志社女子大学、児童文化研究室へ。学生たちの苦悩の深さを知る。物語が人を支えるところを日々実感。70歳、退職。下は古希の写真。若き面影がなくなる老いも良いものだと思う。
目次一覧
山本覚馬の『百一新論』出版の不思議
2014.05.13
八重は家で射撃の練習ができたのだろうか
2014.05.09
山本覚馬の「管見(かんけん)」の序文とクリミア戦争
(同志社女子大学HP「時事コラム」4月)
2014.04.10
蘆花と久栄の禁じられた恋と小説『黒い眼と茶色い目』の深み
(同志社女子大学HP「時事コラム」11月)
2013.11.18
八重の持っていた「銃」について
2013.02.19
八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」なのか
2013.01.07
鉄砲を撃つ八重を「かっこいい」と思わせるところを考える
―戦争の映画・ドラマの効果の考察①―
2012.12.24
聡明なる交渉人・山本覚馬の「管見」の冊子化を
2012.12.16
「ならぬことはならぬ」という二重の否定を越えてゆくために
2012.12.15
八重のドレスはいくらしたのだろうか? ―八重の金銭感覚―
2012.12.12
八重の撃った弾は誰にあたったのだろうか
( 同志社女子大学HP「時事コラム」12月)
2012.12.05
ならぬことは、本当に「ならぬ」のでしょうか
2012.11.27
レクイエム2012年 ―戦争と殺人と―
2012.11.24
ハーディ氏の船は何を積んでいたのだろうか?
( 同志社女子大学HP「時事コラム」3月)
2007.04.01
新島七五三太の「土人」の表記について
(同志社女子大学HP「時事コラム7月」)
2005.07.01
沖田総司と新島襄の「1864年6月」
2004.06.10
沖田総司と新島襄の「1864年6月」
2013.5.6
NHKの大河ドラマ「新選組」は、若い女性たちに人気があります。人気のお目当ては、もちろん近藤勇役の香取真吾、土方歳三役の山本耕史、沖田総司役の藤原竜也、斎藤一役のオダギリジョーなどの配役陣にあります。脚本が三谷幸喜だというのも大きな理由です。三谷だからというので私も見ています。京都の観光地も、久々に「新選組巡り」をする若い人たちでにぎわっているらしいです。だからというのでしょうか、ケチもいっぱいつけられています。あんな、新選組は新選組じゃねえよ、と。実際には誰も見たことのない近藤勇や土方歳三などをめぐって、俺は見てきたんだぞと言わんばかりの議論はにぎやかです。脚本が三谷幸喜なんですから、目くじらを立てて見る方が間違っているんですよ。
ところで、新選組の大きな山場は、元治元年(1864)6月5日の池田屋事変です。この池田屋の襲撃事件で、後の明治政府の重要な担い手になるはずだった勤王の志士たちが惨殺されています(死傷者の総数は20数名といわれます)。この時、池田屋に切り込んだのは、新選組のたった7人とも言われていますが、そこで先陣を切ったのが近藤勇と当時21歳の沖田総司の二人でした。沖田は新選組の中でも突出した剣の使い手で、新選組一番隊隊長に任命されています。彼は若くして何人の人を切ったのでしょうか。
ところで、この沖田総司と同い年の若者を私たちはよく知っています。それは新島襄です。沖田総司は天保13年(1942)年生まれ(月日は不明)で、新島襄は天保14年1月14日(1843年2月12日)生まれですから、ほぼ同い年です。この二人は、ただ同い年というだけにとどまらずに、元治元年(1864)の6月に、それぞれに大きな出来事を起こしています。沖田は池田屋への襲撃事件ですが、新島は幕府のご禁制を破って函館を脱出し、米船ベルリン号に乗り込んだことです。池田屋事件のわずか10日のち、元治元年(1864)6月14日のことでした。二人の若者の運命がこの6月に分かれました。
新選組は貧しい百姓のせがれ達が「剣」を学んで「武士」になろうとした集団でしたが、新島は「武士」でありながら「剣」を捨て、「武士」を捨てる道を選びました。同い年の若者でありながら、こうも生きる道を違えていったのはどういう理由なのか、とても気になります。
話は飛びますが、新島は乗船した二番目の船のテイラー船長から「Joe」と呼ばれることになります。のちに「Joe」は「襄」という字を当てられてゆくのですが、この「襄」という漢字は、まさに新選組の登場した時代のキーワード「尊皇攘夷」の「攘」に似ています。もちろん偶然なんですが、「襄」と「攘」を比べてみるのも面白いものです。もともと「襄」という字は、「衣」の上に「口」二つを置いた図形なんですが、「口」二つは女性の乳房とも、祝いの容器とも言われ、豊饒のシンボルとか、その豊饒力を使っての邪気を追い払う呪器のようなイメージで受け止められてきています(白川静の説)。「お嬢さん」というときの「嬢」が「女」に「襄」と書くのも、もともと「襄」が豊満な胸をもった女(巫女)の力の形象から来ているからでしょうし、その力で邪気を払うところから「攘」という漢字が生まれ、それが「尊皇攘夷」の「攘」に使われていったという推移も、たどってゆけば興味深いものです。
ハーディ氏の船は何を積んでいたのだろうか?
2007.4.01
高校生の世界史の未履修問題が昨年「問題」になった。世界史を学ぶとは、一体どういうことなんだろうか。学生の頃私も、歴史を学ぶとは、日本史とか世界史と書かれた教科書をひたすら覚えることだと思っていた。でも成人してから改めて学んだ歴史は違っていた。特に世界史を意識的に学ぶことで私の得た最も大きな変化は、ヨーロッパやアメリカ、日本といった先進国の近代文明が、実はアフリカやアジア、南アメリカの長い植民地支配から得た収益で形成されてきたという当たり前の認識だった。世界史を学ばなかったら、でもこんな大事なことを今でも全く意識せずに世界を見てしまっていただろうなと思う。
このことを改めて思ったのは、同志社の「ブランド」を考える動きに接したことからであった。「ブランド」とは、「商標。銘柄。特に、名の通った銘柄」(『広辞苑』)と説明されていて、名が通るくらいの時間・歴史がもともと背景にあるものである。そういう意味では、同志社が「ブランド」になるためには、明治に新島襄が英学校を創立したときからの長い時間、歴史が必要であった。長い歴史をもつということは、並大抵のことではなかったのである。
でも、そこで一つ気になることがあった。受験生の世界史の未履修問題も気になるが、実は私を含め、同志社に勤めるものが、同志社の歴史に結構「未履修」であることについてのことである。それは同志社の現実的な「はじまり」をどこに見いだすのかということへの認識にもかかわることであった。
同志社の「はじまり」を考える時に、誰もが同志社は「寄付」によって生まれてきたことに注目してきた。それは当然のことであって、同志社設立の直接の資金になったものがハーディ氏からの寄付やアメリカンボード(アメリカ外国伝道教会)の寄付であったからだ。私は以前は、こういう「寄付」については、何も疑問には思わなかった。ハーディ氏は「お金持ち」だったので同志社に寄付をしてくれたのだと単純に思っていた。以前はその「お金」をハーディ氏がどうやって手に入れていたのか、気にすることもなかった。しかしある時に、ハーディ氏が「商船十数隻を保有する船会社のオーナーであった」という記述が目にとまった。そういう記述はなんべんも読んでいたはずなのに「目にはとまらなかった」のである。彼はなんでそんなにたくさんな船を所有することができていたのか?
そして、考えることがはじまった。ハーディ氏が「資本家」になったのは、そのたくさんな船で商売をしているからではないかと。当たり前の推理である。でも問題は、その先にあった。では、ハーディ氏のたくさんな船はいったい何を積んでいたのかと。たぶんハーディ氏のことをもっとも詳しく書いているように感じた井上勝也『新島襄 人と思想』晃洋書房によると、彼の船は地中海、東インド、中国、南アメリカの方まで行き、「穀物」を扱っていたようである。というのもハーディ氏は「ボストン穀物取引所の初代会長」になっていたからである。その他にも、彼は造船所を持ち、銀行の頭取にもなり、マサチューセッツ州の上院議員をしていた。
そういう経歴の中で、彼の手元に集まった「資金」を大学や教会に「寄付」をしていたのである。同志社がその礎を築くことができた「寄付」もこの「資金」からである。しかし、この「資金」が実際にはどのように調達されたのかは、井上勝也氏の本を読んでもわからなかった。私にわかったことは、この当時の「地中海、東インド、中国、南アメリカ」へ出かけていった貿易船の多くは「植民地貿易」を行っていたということである。それはこの時代の世界史を履修したものならおよそ察しがつくところである。
もしもそうだとしたら、ハーディ氏の元に集められた「資金」は、当時の第三世界の人々が教育の機会を奪われる形で手に入れられていったものではないかということが推測される。もちろん、そんなことは「推測」にすぎず、実際のハーディ氏はそんな植民地主義と関係なくちゃんと第三世界の人々の過酷な労働に見合うだけの賃金を公平に支払って貿易していたのだと考えることもできる。しかし、世界史を履修した者は、後者の可能性を考えることはだいぶ難しい。
私はこういうことを言って、ハーディ氏の名誉を傷つけようというのは全くない。当時の、熱心なキリスト者たちは、商売で儲けた資金を自分のためではなく惜しげなもなくキリスト教の布教のために使うことを使命のように考えていたからである。ハーディ氏はそういう意味では当時もっとも熱心なキリスト者であったことは言うまでもないことである。(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1920はそういうキリスト者たちの生き方をよく描いている)
私たちは、今、ハーディ氏のことをうんぬんというのではない。そうではなくて、彼の得た「資金」の出所を世界史にそって公平に理解することと、その「資金」からの「寄付」によって作られたところに同志社の「もう一つのはじまり」があるということを謙虚に理解することを考えたいのである。もし第三世界の人々の教育機会を奪う形で「資金」が調達され、その「資金」の「寄付」で同志社という教育機関が成立していったのだとしたら、今度は逆にそうした第三世界への「お返し」をすることを考える必要性が出てくるのではないか、そのことを考えたいのである。そういう歴史について考え、「お返し」について考えることが、同志社の言う「良心」であり「品位」であり、それを考え続ける長い歴史が、同志社特有の「ブランド」を形成してゆくのではないか。今回、「同志社ブランド」を見直す動きが出てきた中で、そういうことを少しだけ考えてみた。
(私は「ハーディ氏の船の積荷」のことが知りたくて、同志社の歴史の生き字引であるような宮澤正典先生におたずねしました。先生はすぐさまたくさんなハーディ氏にまつわる文献を書き出して紹介してくださいました。ありがとうございました。その時に、宮澤先生も言われました。「ハーディ氏の船の積荷を調べるのは難しいですね」。)
新島七五三太の「土人」の表記について
2005.7.1
新島七五三太が19歳の時に、洋式帆船「快風丸」に便乗し、江戸から玉島(現在の倉敷市)に航海したことは周知のとおりである。実際には文久二年(18629の11月12日に乗船し、翌年の1月14日に江戸に帰っている。ほぼ二ヶ月の旅であった。江戸と倉敷の間を往復するのに、二ヶ月を要したこの旅が、若き新島七五三太に決定的な役割を果たしたことは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。
ところで、この重要な「玉島への航海」という「事実」を、私が今までどのようにして知っていたのかというと、それは「伝記」を通してのことであった。「伝記」にそう書いてあったから、私もこの「航海」を「重要」な旅だと考えていた。そしてその「伝記」の元になっていたのは、新島自身が書き残している「私の青春時代」という手記によるものであることは言うまでもない。
しかし、ある時にこの「玉島への初航海」の日誌が残されていることを知った。『新島襄全集5巻』に「玉島兵庫紀行」と題された日誌がそれである。実際には江戸を出航した後の、12月1日から14日までの二週間分しか残されていない日誌であったが、これは実に興味深い日誌であった。多くの「伝記」で書かれている「重要な旅」であったとのとは少し違った意味で、この日誌が重要な意味を持っていることに私はふと気がついた。その中のいくつかを紹介したいのだが、今回はこの日誌のまさに書き始めの数行だけに目をとめてみたい。その書き始めはこんな風になっていた。
此日備中玉島に至る可に、潮悪しく風逆にして何分舟を進め難故、午後二時三十分に備前の霜露(下津井のこと)と申港に入りしに、土人未西洋船を見さる故か、男女如雲端舟に乗り拝見せんを請へり。
倉敷の下津井港に入港したときに、そこの住民がこんな西洋帆船を見たことがないので、見せてくれと押しかけてきたことを書いている下りである。この後に男女3百か4百人はやってきたのでしかたなく甲板だけに乗せて見学をさせたことが書かれている。もちろん、「玉島兵庫紀行」の原文は、早くから新島襄の研究者たちには周知の文献であったし、この下りも多くの「伝記」で紹介されているところであったのだが、私は「原文」を読むまでは、ここに「土人未西洋船を見さる故か」と書かれていることを知らなかった。私が今まで読んできた新島襄の「伝記」で、ここに「土人」と書いてあると「説明」してくれているものを読んだことがなかったので、はっと思ってしまったのである。
ここで表記される「土人」とは、倉敷の一般の人々のことであろうと思われる。「その土地の民」を「土人」と呼ぶことは『広辞苑五版』にも「説明」されているから、たぶん新島は、そういう意味で倉敷の土地の人を「土人」と表記したのかもしれない。ただ、実際はどういう意味で新島がこの「土人」という言葉をここで使ったのは、今の私にはよくわからないのである。事実、「玉島兵庫紀行」の最後にまた「土人」という表記が二カ所出てくる。
私は、この表記に出会って、江戸から明治にかけての知識人の間で「土人」という表記がどれくらい一般的に使われていたのか、知りたいと思うようになっていった。新島はその後、函館から日本を脱出するのだが、その航海でつけていた「航海日誌」でも、「土人」という表記を再三使っている。「土人此斉根川(サイゴン川)に毒を流し」というふうに。
私自身は、子どもの頃、手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んでいて、そこで黒人を「土人」と表記しているのを読んでいて、「土人」というのがいるのだとずっと思っていたことがあった。そういう自分の意識と照らし合わす意味で、この新島の「土人」表記の持つ位置を調べられたらと思う。
私が今少し想像しうるのは、この「土人」の表記は「快風丸」という帆船に乗ったことと深く関係しているのではないかということである。そもそもこの船がいかなる目的で備中松山藩によって購入したのかもまだ明らかにされていないところがある。新島は後日、同じ「快風丸」に乗って「函館」へ行き、それが日本脱出の大きな糸口を作るのであるが、なぜ「快風丸」は函館へ行くのかも、歴史の中で問題になるようでいて、問題にはされてこなかったと私は思う。「快風丸」は実は「蝦夷」と深く交わった船だったのである。この蝦夷に「北海道旧土人保護法」が制定されるのは明治三十二年であった。
山本覚馬の「管見(かんけん)」の序文とクリミア戦争
2014.4.10
昨年、NHK「八重の桜」が始まったときに、山本覚馬の「管見」(ネットで「山本覚馬建白」で検索すれば原本が見られます)をどうしても学生に紹介してあげたくて、全文を私訳して希望する学生に配って見せてあげたことがありました。全くの私訳なので、正確さには欠けるものではあったのですが、『改訂増補 山本覚馬伝』京都ライトハウス版の古風な文章ではどうしても、学生は読めないので、読むための手助けくらいにはなるかもと思って、私訳しておきました。その時に、「序文」に当たる部分で、よくわからないカタカナがありました。その時は、気になりながらも、そのままにして私訳に中に入れておきました。一年前ならそれでよかったのですが、今年の2月3月からの、激動する東ヨーロッパの世界情勢を、はらはらしながら見ているときに、ふと山本覚馬の序文の不明だと思っていた
カタカナに重大な意味があったのではないかと思いつきました。それで早速調べてみました。不明だったカタカナとは「セバステボル」という文字なのです。一年前も調べてはいたのですが、よくわかりませんでした。というよりか、当時の幕末の世界情勢が切実には感じられていなかったのです。ところが、今年の2月3月に、世界が大きく動いて、今回、はっきりとわかったのです。覚馬の書いていた「セバステボル」とは「セヴァストポリ」というクリミアの一部だったことが。そうして、改めてこの「管見」の序文を読み直したときに、この文章が今の東ヨーロッパで起こっているとぴったりと重なることに気がつきました。びっくりしました。その「序文」の私訳を、ここでそのまま紹介します。「セバステボル」を「セヴァストポリ」と置き換えて読んでみてください。
私見への手引き
日本をとりまく外国の通信(状況)を聞くと、ロシア等は強大になり、北蝦夷地(カラフト)を開拓し、昨年には幕府の関わる境界にまで及んできている。そこは不毛の地なので、お互い好きなように自分の領地にするとしても、「天地の道理」には問題はないという議論をへて、先年、箱館に番兵を置いた。これは碁に例えれば、先手を下すようなものである。ある人が、かつてロシア人と話をした時に、ロシア人は地球儀を指さしてこう言ったという。「日本もいよいよ黄地(アジアの一部)になりなさい」と。ロシアも元は黄地に属していたものである。この事から考えてみると、ロシアはアジアの一つとして日本を吸収しようと考えているのかとも思える。三年前に、ロシアが対馬に侵攻した時、イギリス人の力にて、対馬を取り戻したが、イギリス人は上海を根拠にして、友好国、日本と貿易をしていたので、対馬がロシアに属することになるとイギリスが不利になるので、ロシアもイギリスもフランスも日本の隙を窺ってはいたが、それを軍事力でもってしようとするわけではなく、日本の内戦をにらみながら、その動乱に便乗して日本に入り込もうとしていた。元来、フランスは、策略をもって徳川幕府と親しくなり、又、イギリスは薩長に同じようにして近づいていた。そういう思いを持ってイギリスは関西に、フランスは関東に拠点を置こうとしていた。フランスの「ナポレオン」は、前「ナポレオン」の甥であって、一時は共和政治を主張して、皇帝を追放し、自分がその位を奪った訳だから、誠実であるわけではない。かつて、ロシアが「トルコ」を侵略し、「セバステボル」で戦った時に、イギリスとフランスは、「トルコ」を支援したが、それは自分達の国に利益があるからである。日本がこうした三国(イギリス・フランス・ロシア)と交際する時には、そういう事情をよく理解すべきである。ここで我が国が不利益になるのを防ぐには、国の指針をしっかりと立て、富国強兵することである。日本のこの騒乱の時にこそ、そういうふうに変化しようと思えば、しやすい時である。このように、文明における政治やその実施のありかたについて考えましたが、愚かな考えでもあり、また私の両眼も見えませんもので、人に頼んで口述筆記をしてもらいました。抜け落ちているところも多いのですが、識者ある方々の良きご判断をお待ちするのみです。
慶応四年戊辰五月 山本覚馬
いかがでしたでしょうか。恐ろしいほどの、先見の明のある文章です。これが目の見えなくなってきた会津の武士によって幕末に書かれたとは、想像することもできません。私にできることは、彼が当時知り合っていた赤松小三郎や西周らとどこまで交流を深めていて、どこまで彼らの世界観の影響を受けて、こういう「管見」を構想するに至ったかを調べることです。もちろん福沢諭吉の『西洋事情』からも情報を得ていたと思います。それは、現在のクリミア問題を考えることにもつながることを思うと、歴史を学ぶことの大切さを感じると共に、幕末と現在のあまりにも近さに不思議な思いを感じないわけにはゆきません。
ちなみに言いますと、新島八重は「日本のナイチンゲール」と誰かが呼んできたのですが、このナイチンゲールが最初に38名の看護婦と共にロンドンを出発して、おもむいたのが1854年に始まったクリミア戦争でした。ナイチンゲール34歳の時でした。(この年に、日本では江戸幕府が「日米和親条約」に調印しています。)その戦争の最前線が「セヴァストポリ」で、トルコ、イギリス、フランス、イタリアの連合軍とロシアがそこで激しく戦いました。
世界で初めて「タイムズ」紙が従軍記者を派遣し、戦争の様子を刻々と英国に知らせたのもこのクリミア戦争からで、その時に戦争の惨事とともに、負傷兵を看護するナイチンゲールたちの活動が本国に報告され、看護婦の仕事の大事さが多くの人々に知られるところとなりました。「クリミアの天使」という呼び方も、この時生まれました。
こうした幕末のヨーロッパの動きがいち早く日本に伝えられ、クリミアと同じように、ロシアの蝦夷への進出が日本でも警戒され、それが山本覚馬の「管見」に反映されることになるのですが、当時の幕末の動乱期に、こうした世界情勢まで視野を広げることはとうていできることではありませんでした。現代でも、クリミアへのロシアの進出を、覚馬のように我が国に係わる出来事としてとらえることがむずかしいのと同じようにです。
聡明なる交渉人・山本覚馬の「管見」の冊子化を
2012.12.16
たくさん出版されてきた八重のいくつかを読まれるとすぐに気がつかれることがあると思う。それは「兄」の「山本覚馬」の存在が尋常ではないのでは、ということに気がつかされるところである。ちなみに、山本覚馬の存在の大きさを感じられなかった八重本は、おそらく出来は良くないというだけではなく、八重や明治維新のことを理解しそこねているといえるかもしれない。
山本覚馬を扱った本は、同志社が支援した 青山霞村著・田村敬男編集『改訂増補 山本覚馬伝』京都ライトハウス1976が基本図書で、その他に福本武久・高橋哲夫『会津武士 山本覚馬・丹羽五郎』歴史春秋社1991 や鈴木由紀子『ラストサムライ山本覚馬』NHK出版があるが、これまでは、知る人ぞ知るだけで、新島襄や八重の陰に隠れて注目されてこなかった。が、ここに来て安価な八重本を通して一気に山本覚馬の名が、一般の人にも知られるようになってきたと私は思う。さらにNHKの大河ドラマの脚本家・山本むつみの『八重の桜(一)』NHK出版2012を読んでも、兄の山本覚馬はとても丁寧に、重要な存在として描かれているのがわかる。
そもそも、こうした八重本や山本覚馬伝を知らなくても、同志社に勤めるものであるなら、一度ならず不思議に思ったことがいくつかあると思う。
その一番大きな疑問は、なぜ天皇の住まいであった御所の真北に、さらに相国寺という大きなお寺の横に、キリスト教をモットーにする同志社大学がどうして設立を許されたのか、という疑問である。普通に考えれば、とうてい許されるはずのない立地条件下での大学設立である。なぜそんな場所での大学設置が認められたのか。
もう一つは、会津戦争で幕府の兵士として戦った女性・八重が、どうしてキリスト教徒の新島襄と京都で結婚するというようなことが起こったのか、という疑問である。百歩譲って考えても、そんなことは普通には起こりえない話である。
こういう疑問を解くには、山本覚馬の思想と歴史を知らなくてはとうてい理解できない。とくに一番大きな謎、なぜ今出川に大学を建てることが出来たのかということについてであるが、その表向きの答えは、もちろんそこに薩摩藩屋敷があったから、ということになる。その薩摩藩に、鳥羽伏見の戦いの最中に山本覚馬が薩摩軍に捕らえられ、今出川にあった薩摩藩屋敷にほぼ一年幽閉されることになってしまっていたからである。事実としては、このことはよく知られたことではあるのだが、しかし、この一年の幽閉の持つ重みは、伝記をたどるだけではとうてい推し量れないものがある。というのも、この「幽閉」と呼ばれる奇跡のような一年がなければ、彼は当然、会津の武士として鳥羽伏見の戦いに破れ、藩主・松平容保と共に会津へ撤退し、そのまま鶴が城で最後を迎えたかもしれないからだ。そこで仮に生き伸びたとしても、北海道開拓へ送られ、再び日の目を見ることはできなかった可能性の方が大きい。そうなれば、新島襄と出会うこともないし、今出川の薩摩藩屋敷を新島に誘致することもなかったし、もちろん妹・八重を紹介することもなかったのである。そのことを考えただけでも、新島襄にとっても、同志社にとっても、八重にとっても、山本覚馬はなくてはならない存在だったのである。
そういうふうにいってしまうと、少し覚馬のことが見えてきそうな感じがするのであるが、しかし、彼が幽閉されていた奇跡の一年を理解するのは、そう簡単にはゆかない。というのも、薩摩藩に幽閉された会津の兵士たちの待遇は決して良くなかったからである。それなのに、覚馬だけは薩摩藩からも一目置かれていて特別待遇を受けていたのである。宿敵であるはずの会津藩の武士を、なぜ薩摩藩は特別に待遇しようとしたのか。そしてその幽閉の時点では、すでに覚馬は失明の状態にあり、その状態でも薩摩は覚馬を優遇していたのである。
このことを理解するには、それまでの彼のたどってきた、蘭学の勉強とそれを通じて知り合った広い人脈のことが、理解されていなければならない。それは彼の伝記を丁寧に読むことではじめて見えてくるものであるが、特に、蘭学を通して彼の知り合った人脈への理解が必要になる。その人脈には、勝海舟、佐久間象山、横井小楠、西周、などがいたからである。この名前を見ると、当時の会津の閉ざされた武士の社会からは想像も出来ない、開国派の広い人脈と彼が通じていたことがわかる。それは、覚馬がそういう人びとと交流できるだけの高い交渉術を養い続けていたということなのである。
鳥羽伏見の戦いで囚われの身になったときには、すでに薩摩側に、この覚馬という人材の優れたところが知れ渡っていたのであろう。それで特別扱いをされたのである。しかしその特別扱いは、単なる優遇のことではない。目の見えなくなっている彼に、これからの日本のあり方についての考え方を尋ねるという特別待遇なのである。彼はその要請を受けて、口述筆記させて、自分の考える未来図を描き、薩摩藩に提出していた。それが「管見」と呼ばれる漢文の文書である。「管見(かんけん)」とは、自分の見識や見解を謙遜していう言葉である。口述筆記したのは、同じく幽閉されていた会津藩士の野沢?一で、当時17歳の若者であった。
ではその「管見」の中身とはどのようなものであったのか。要点を一行にして以下に紹介するが、本文はもっと具体的である。
「管見小引」 ロシアやイギリス、フランスなど西洋諸国のことを説明し、それらの国による侵略にそなえる国づくりをまず説いている。
「政体」 天皇制の下、三権分立を説く。
「議事院」 国会を二院制にして、諸侯会議で国政を決定する。
「学校」 人材教育を政治の中心にすえる。教育が何よりも急務と説く。
「変制」 法の改正を、民を束縛しないようにすすめる。帯刀も無益と説く。
「国体」 封建制の改革。幕藩体制を支えた世襲制を否定する。
「建国術」 国家の基本を農業より商業におく、とする。
「製鉄法」 日本の近代化にはまず鉄が必要。熔鉱炉の設置を説く。
「貨幣」 紙幣の発行を説く。
「衣食」 「肉食」も良し、衣服の改善も必要と説く。
「女学」 男子と同じように女子教育が必要と説く。賢い女性から賢い子どもが育つのであるから、女性を賢く育てる教育が大事と説く。女子教育の大切さをこの時点で説いた画期的な提案。
「平均法」 長男相統ではなく、男女の子供の平等相続を説く。
「醸酒法」 米を使う日本酒ばかりでなく、麦やブドウや芋を使ったビールやワインの製造も説く。
「条約」 外国軍艦の出入港の規制を説く。
「軍艦国律」 軍艦は藩で持つことを禁止。
「港制」横浜・神戸を外国に開港するときの注意。
「救民」 種痘や性病の対策を説く。
「髪制」 経費節約のためにも長髪をなくすように説く。
「変仏法」 全国四十五万の寺を小学校にして一般農民・商人・職人らの学校をつくれと説く。
などなど。もちろん現代語訳されないととうてい私たちは読むことが出来ないのであるが、そうやって訳された「管見」を見ると、坂本龍馬の「船中八策」などと比較しても、優れていると、のちには評価される卓見が書き込まれている。一体、この時代にどうしてそんな優れた未来図を描くことができたのか。それは蘭学や多くの開国論者たちとの交流を経ることで、はじめて封建制度を廃止してゆく覚馬独自の未来図を描けるようになっていったのである。その卓見を薩摩藩も聞きたくて幽閉しながらも優遇していたのである。
このようなことを振り返ってみると、同志社が新島襄を大学の父とし、女子大が八重を大学の母とするだけでは、決して十分ではないことが見えてくると私は思う。とくに、「ならぬものはならぬ」というような没交渉的なキャッチフレーズを八重に託するような発想の校祖感覚は、本当に考え直してもらいたいと思う。山本覚馬の思考は、まさに「ならぬものはならぬ」とするような没交渉の思考法の対極にある、深い交渉術を生きるものだったからである。
そこでもし八重を大学の母にするのであれば、その八重を、新島襄の妻に導いた兄・覚馬と共に女子大の礎にしっかりと据えてもいいのではないかと思われる。そのためにも、このNHKの大河ドラマが広がりを見せる中で、山本覚馬の「管見」が伝記と共に、現代語訳され、多くの人に見てもらえるように、女子大が中心になって冊子を作り発刊できれば、八重も本望と考えるのではないかと私は思う。
山本覚馬の『百一新論』の出版の不思議
2014.5.13
山本覚馬が最も影響を受けたのは、幕府から二年間、オランダ、フランスに派遣され帰ってきた西周(にしあまね)でした。彼は江戸の横浜に1865(慶応元年12月)着き、翌年1866には、京都に移った将軍、慶喜に招かれ京都市内に移り、『万国公法』を訳します。そして慶喜にそれを講義することになります。次の年1867(慶応3)、2月四条大宮に洋学の塾を開きます。西周39歳。この時に山本覚馬は西周に出会います。覚馬40歳。彼はこの時、「万国公法」という国際法の話を聞き、きっと天地がひっくり返るほどびっくりしたのではないかと思われます。この塾には、会津藩、桑名藩、福井藩、松山藩など、500名ほどの藩士が集まったとされています。
この年の11月に塾生が集団で40人前後塾を辞めると言い出し、覚馬が仲介に入って塾生を戻したことが、西周の夫人の日記に、次のように記録されています。
11月29日 天気
今朝御登城前、山本覚馬様御出にて、塾生の事聞きおよびし故、かれらの所へ参り、いろいろ承りしに、誠に取るにたらぬ事故、よくよく自分が申ました所、先生のおゆるしがあれば帰るとのこと事故、不都合段ゆるしくれと御申にて聞すこととなりたり。
晦日 晴たり
今日塾生またまたがらがらと帰り来りたり
「翻刻 西升子日記(下の一)」『學苑717号』昭和女子大学 近代文化研究所2000
なぜ塾生がそんなことをしたのか、理由ははっきりはわかりませんが、西周の世話をする米という女性に対して塾生が不満を持ったことが原因だったと川嶋保良『西周夫人 升子の日記』青蛙房2001に説明があります。ともあれ、西周の夫人は、わざわざ日記に山本覚馬の名前を記して、いざこざを収めてもらったことを書いているわけですから、覚馬はこの時に西周家と通常以上の関わりを持っていたのではないかと思われます。
問題は、ここからですが、この出来事の二週間後の12月12日に将軍は京都を離れ大阪へ向かいます。そして西周も12月22日に大阪へ向かいます。この時覚馬は京都にとどまります。そしてわずか1週間後、つまり翌年の1868年(慶応4)1月3日、鳥羽伏見の戦いがはじまり、覚馬は捕らえられ、薩摩藩邸に幽閉されることになります。西周と別れて数週間後のことでした。
こういう経過を踏まえると、西周が京都へ来て洋塾を開いたのが2月でしたので、わずか10ヶ月ほどの間のつきあいだったことが分かります。しかしその間に「万国公法」の講義を受け、そして何よりも問題となる『百一新論』の話を聞くことになるのです。問題は、この『百一新論』の講義を、塾生達はどうしたのかということです。日本で最初に「哲学」という言葉を使ったとされる最も有名な『百一新論』は、この京都で講義されたことははっきりしています。その事実ははっきりしているのですが、この書物は山本覚馬によって明治7年にはじめて出版されることになります。それも事実としてはっきりしているのですが、でもそのいきさつが、何とも言えず不可思議なのです。
私たちは西周のこの『百一新論』を、『日本の名著 西周・加藤弘之』中央公論社1984で早くから読むことが出来ていました。しかし、そこには、この本の成立事情については何も書かれてはいませんでした。ですから、中央公論社版で『百一新論』を読んだ人は、こういう本を西周が自分で書いて出版していたのだときっと思っていただろうと思われます。しかし、今ではもちろんよく知られていることなのですが、西周の自筆原稿として残されている『百一新論』は存在しないのです。元会津藩士であった山本覚馬が序文を書き、南摩綱紀(なんまつなのり)と共に、西周に出版許可を貰いに行って出版の運びとなったもの、とまでは理解されてきています。
しかし、日本の哲学の出発点となったこの有名な出版物が、誠に不明瞭な形で出版されることになったいきさつは、決して誰もまだ解き明かしているわけではないのです。覚馬の序文付きの『百一新論』は、松本健一『山本覚馬 付・西周『百一新論』』中公文庫2013で見ることができます。しかし松本健一氏は、明治になってこの本が覚馬の手によって京都で出版されたことは指摘していても、なぜこの本が覚馬の手元にあったのかをうまく説明できているわけではありません。彼は、「おそらく、山本覚馬は幕末における西周との交流を通して、その『百一新論』の稿本をゆずり受けた」と書いていました。おそらく、と書いているので憶測です。
鈴木由紀子氏も『ラストサムライ山本覚馬』NHK出版2012で、「西は大政奉還した慶喜にしたがって大阪に退去する祭に、稿本を覚馬にたくした。幕末の動乱にのさなかにあって、覚馬はそれを片時も離さず大切に保管していたのである」と書いていました。何を根拠にそういうことを言っておられるのか分かりませんが、もしもそうだとしたら、二つのことが疑問に残ります。一つは自筆の稿本が少なくとも、幕末の京都にはあったという事です。西周が
そういう原稿を作っていたという事になります。しかし実際には、原稿はもとより、草稿すらも残っているわけではないのです。もう一つは、西周と別れた覚馬は、12月の年明けには薩摩藩にすでに捕らえられ幽閉されているわけで、そんなときに幕府側の重要な人物であった西周の本を牢屋の中でどうして「片時も離さず大切に保管していた」といえるのか、ということです。
清水多吉『西周』ミネルヴァ書房2010では、この辺の事情についてこう書いていました。
「洋学塾では、おそらく蘭語、英語が教えられ、その上で西欧の諸学の基礎が講じられたのであろう。わずか数ヶ月ではあったが、西周助のここでの授業内容の一つが『百一新論』であった。ただし、慶応三年のこの時の西周助自身の講義録は、以後の鳥羽伏見の戦いの中で散逸してしまったらしい。この時の受講生の中にかなり目の不自由な会津藩士山本覚馬と山本よりやや年長の南摩羽峰(名は綱紀)という人物がいた。彼らは、明治六年になって東京の西宅を訪ね、自分たちの速記録を西に提示し、手を入れてもらい、山本の場合はみずから序文を書いて出版した。これが現存する『百一新論』である。」
つまり『百一新論』は、山本覚馬や南摩綱紀、他にも会津藩の聴講生がいたでしょうから、その者たちによる「速記録」を作っていて、それを明治6年に西周に見せて出版許可を貰っていたというのです。「自筆の稿本」と「速記録」とではえらい違いがあります。しかし、清水多吉氏が言われる「速記録」だったという根拠も、どこにあるのかよくはわかりません。もし清水氏の言われるような「速記録」が覚馬たち受講生に残されていて、それを持って明治6年に上京し、西周に見せたとしたら、西はそれにきっと手を入れたはずなのです。でも、そんな校正本も残されていないのです。
森鴎外の『西周伝』岩波書店1954にも、この本の出版事情については何も記されてはいません。『西周全集 第一巻』宗高書房1960の「解説」にも、覚馬が何度も上京し西に会っていたことは書かれてはいますし、、自筆原稿が存在しないことや山本覚馬覚が出版することになった事実は書かれてはいても、原稿の存在しないことへの追求はなされていないのです。
何ともまか不思議な書物が残されたものです。そして書物の内容というか、文体がこれまた、何とも言えず不思議な「ござる」調の文体で出来ています。もしこの文体が「速記」であれば、あるだけ、それだけで研究の対象になりますし(哲学の本で「ござる」調の本などはこの本が最初で最後でしょうし)、本人がもし書いたのだとしたら、なぜ幕末の動乱期にそんな文体で書けたのかが、これまた大きな研究の対象になるでしょう。
そしてさらには「内容」の問題です。ここには覚馬が惚れ込んだある思想的な境地が書かれているからです。それは「法」と「教」をはっきりと分けて考えようとする西洋独特の考え方への関心、そして「百」という「百科全書」的な全方位視点への関心、そういうものに身近に覚馬は触れてしまったのです。大事な事は、もしこの思想を記録した自筆の稿本なり、塾生の速記本等があったとして、それを持って山本覚馬が薩摩屋敷に幽閉されたとしたら、その薩摩屋敷で書かれることになる(といっても口述筆記ですが)覚馬の「建白」が、まさに「百科全書」的なものであることを思えば、『百一新論』と『建白』との深い関係を考えてみないわけにはゆかなくなります。しかし、そういう研究もまだはじまりの位置にすら立っていないような感じもします。
ちなみにいえば、知識を広く自由に学ぶ分野を「百科全書」的なものと考える(西周はそれを「百学連環」と呼んでいます)と、そういう広い知識の学びを「リベラル・アーツ」と同志社は考えてきて、教育の柱の一つに据えてきていますが、そもそも、この「リベラル・アーツ」をとても大事なものと考え、それに日本語の「藝術」という訳語を考えたのも西周でした(『日本近代思想大系 科学と技術』岩波書店1989に西の「百学連環」が収められています)。
このようにこの『百一新論』には、覚馬が新島襄と出会うための、思想的な準備をしてくれていたところがあったのですが、なぜか同志社でもこの本への言及は十分なされてされてきたわけではありません。おそらく、正面からこの『百一新論』を扱っているのは、桑木厳翼『日本哲学の黎明期』書肆心水2008や、蓮沼啓介『西周に於ける哲学の成立』有斐閣1987でしょうが、『百一新論』の成立過程の解明は不明のままです。蓮沼啓介氏は、この本は弟子によって初めて残されるような性質を持った本なのだという独特な主張をされていますが、しかしもしどこからか自筆の原稿やメモが発見されるようなことが起これば、覆ってしまう説にもなっています。
蛇足になりますが、もう一つだけ奇妙なことを書いておかなくてはなりません。それははじめて『西周哲学著作集』岩波書店1933を刊行した麻生義輝氏が、のちに『近世日本哲学史』1942を書いていて、その中で「明治6年8月官許、明治7年3月彫成、安藤覚馬の蔵刊にて刊行せられた。安藤覚馬なる者は会津藩の人であった。(略)安藤覚馬の取りなしで(略)」という奇妙な文章を書いているところに出くわしたときでした。誤記とも考えられるのですが、著作集を刊行した編者なのですから、単純な誤記をしているとも思えませんし、三箇所とも同じ間違いをして、校正の時もそのままで通しているというのは、確信を持って、山本覚馬を安藤覚馬と書いているとしか思われないところがみられるのです。それを見たときはエエッと絶句してしまいました。ひょっとしたら、安藤覚馬とサインされた稿本があって、それを麻生義輝氏が見ていたのではないかというくらい気持ち悪くなる誤字?の文章でした。これが簡単に誤字で済ますことが出来ないほどに、この本の成立事情は謎に包まれているということなんだと考えるべきなのかもしれません。
鉄砲を撃つ八重を「かっこいい」と思わせるところを考える
―戦争の映画・ドラマの効果の考察①―
2012.12.24
いよいよ新年度から大河ドラマ「八重の桜」がはじまるんだなと実感してきたのは、最近、宣伝用の予告編が放映され始めたのを目にしたからです。これはでも、気にもなる予告編でもあります。というのも、その予告編には、小さい女の子が「うちにも鉄砲の撃ち方をおしえてけろ」(ドラマでは会津弁で言っているので、これでは間違った表現をしていると思いますのでお許しを)と何度も頼むシーンが描かれているからです。ダイジェストなので、そういうシーンばかりを切り取って繋いでいると思われるので、あまりその場面だけにこだわるのは良くないとは思うのですが、そういうダイジェストは見ていて異様に感じます。小さい女の子が、目をきらきらさせて鉄砲の撃ち方に興味を持ち、女はそんなことをしなくてもいいと、突っぱねられながらも、何度も何度も頼み込んで、ようやく鉄砲の撃ち方を教わるという光景は、なぜか見ていて気味が悪いのです。予告編では、小さな女の子は、成人した綾瀬はるかさんになり、鉄砲を撃つ娘にかわってゆきます。
なぜ、そういうダイジェストに気味悪さを感じるのかというと、人を殺すための鉄砲に、どうしてそんなに小さいときから興味を持つのか、感覚的に納得がゆかないからです。17歳年の離れた兄、覚馬が、弟子の侍たちに伝授する様子を見て育ち、自分にも教えてもらいたいと思うようになっていったというのが、短いダイジェストから読み取れる筋書きですが、それにしても、「銃の撃ち方を習いたがる娘」という設定が、どうしてもうまく理解できないのです。それはダイジェストではなく、本番のドラマを見続けていったらわかるようになるということなのか、そもそも、そんなことに疑問を持つ村瀬の感覚に、「女はそんなことをするもんじゃない」という古くさい男の論理があって、「八重の桜」というドラマは、まさにそんな古くさい男の論理を打ち砕く女の姿を描くことになる、画期的なドラマなんだから、よく心して見てゆきなさいということなのか・・・。
私は、男だからとか、女だからとかいうのではなく、子どもが銃の撃ち方を習っている場面を見るのは、気持ち悪いし不幸なことだと感じます。とくに「少年兵」を取材したNHK「BSドキュメンタリー」を長年にわたって見てきているものですから、アフリカや南米や東南アジアで、「少年兵」として訓練させられている子どもたちの実体をつい思い浮かべてしまいます。小さい頃から銃で人を撃つことを教わって育つ子どもたちの未来は不幸なものばかりです。その銃の恐怖心をなくすために子どもたちは麻薬を使い、廃人のようになってゆくものもたくさんいるからです。
しかし、そんな銃を撃つことを教わった八重を、「男と同等に戦うことを学んだ日本で最初の女性」だと持ち上げる八重本もあるのですが、そんな評価の仕方は、女性の評価の仕方を間違えている、と私には思えてなりません。このことについては、回を改めて何度も考察を重ねてゆきたいと思います。
今回は1回目の考察として「女性が銃を取る」ことの受け止められ方のいくつかを紹介しておきます。
私の記憶に残っているテレビドラマに『アニーよ銃を取れ』というのがありました。アメリカから輸入されたドラマで、1950年代の作品です。これは男以上に射撃のうまい女性アニーのドラマでした。当時は「ララミー牧場」とか「ローハイド」とか「拳銃無宿」とか、西部劇まっさかりの拳銃ドラマがアメリカから輸入されていました。その大半は男のガンマンでしたが、この「アニーよ銃を取れ」は、男勝りの凄腕の拳銃使いだったので、子ども心に私も「かっこいい」と思って見ていたと思います。
私の次に記憶に残っているのは、当然ながら『エイリアン』1979です。この映画の主人公リピリーを演じるシガニー・ウィーヴァーは、次々に倒される男たちに負けず、最後の一人になるまでエイリアンと壮絶な戦いを繰り広げます。「戦う女」のすごさをこれほど見せつける映画は他になかったように思います。
『アニーよ銃を取れ』も『エイリアン』も見ていて「かっこいい」と思えたのは、やはり銃を撃つ相手がはっきりと「悪いやつ」とわかっていたからです。悪いやつをやっつけるために銃を撃つ、という設定。これはとてもわかりやすく「かっこいい」と感じられるものです。
しかし、銃で撃ち殺してもいいほどの「悪い奴ら」がいる、という設定は、いつのまにかネタが尽きてしまいます。現実の「相手」は、一方的に「殺してもいいやつ」というふうに決めつけることが出来ないからです。だから、かつての西部劇の時代のように、単純に「悪い奴ら」を銃で撃つ映画やドラマは、制作できなくなり、だんだんと「銃で撃つ」相手を、人間から宇宙人へ、ゾンビや、吸血鬼や、怪獣のようなものへとすり替えていって、映画作りをしてきています。そういう「やつら」ならいくら銃で撃り殺してもいいし、見ていてスカッとするのも間違いないからです。そして、そういう映画で「銃を撃つ姿」は「かっこいい」と思わせるものがいっぱいありました。
ここに映画の問題、とくに戦争映画の問題、つまり「銃で敵を撃ち殺す場面を映画を使ってみせる」ことの問題がでてきます。そこに「銃を扱うこと」を「かっこいい」と思わせる場面がいろいろと工夫されることになっているからです。そして「八重の桜」にも、そういうふうに描かれしまい、「銃を撃つ八重」をみて「アニーよ銃を取れ」を見るように「かっこいいなあ」と見てしまう視聴者が出てくるのかどうか、来年は注視して見て行きたいと私は思っています。なぜなら、明治の時代の鉄砲に向こうには、「エイリアン」ではなく「人間」がいたからです。しかし、その「人間」を撃つには、自分の中で「悪い奴ら」だから撃つのだという心構えがなければなりません。そこのところをNHKのドラマがどういうふうに描いているのか注目したいと思います。
最後に、八重が銃の撃ち方を習うことへの別な見方を紹介しておきます。
それは、たとえば子どもたちが小さい頃から「空手」を習ったりするようなことを考えてみる場合です。そういう「空手」の習得は、いわば人を殺す技を習うことになっているのですが認められています。そういうことを考えると、八重が銃の撃ち方を習いたいというのも、おかしなことではないのではないかと考えることもできます。さらに言えば、オリンピックには「射撃」や「フェンシング」といった武器を使った競技も認められているわけですから、女子が娘時代から「射撃」のクラブに入って練習することはなにもおかしなことではなく、八重の銃の撃ち方を習いたいという動機も、そのように見てみたら何ら問題にはならないのではないか、と考えることもできます。むしろ、オリンピックに出るためには、子ども時代から「射撃」の訓練をすることがあってもいいのではないかと。
もう一つ、別な見方は、人間も動物であり、狩りをして獲物を捕る本能を持っているし、また持っていなくてはならないと、考えるところにあります。動物は、自分の身は自分で守り、自分の食べものは自分で獲るという訓練を、早い時期に親から教えられ、身に着ける訓練をしています。それは人間も同じ事で、人間だって自分の身は自分で守り、自分の食べものは自分で獲るという訓練ができていないと生きてゆくことは出来ないはずではないか。しかし現代では、そういうふうに「戦い獲る」ことを教えなくなってきているし、とくに女性に対しては男の後ろにいて「戦わないで生きる」ことを教え続けてきたのではないか。そういう意味では、「戦う女性」を描くことになったNHK大河ドラマ「八重の桜」は、多くの女性に見て欲しいものになっているはずだと・・と考える見方もあり得るということです。
八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」なのか
2013.1.7
八重本の帯に「幕末のジャンヌ・ダルク」とうたっている本がたくさんあります。NHK出版の『大河ドラマ 歴史ハンドブック 八重の桜』も「ドキュメント 八重の生涯」となっていて「第一部 幕末のジャンヌ・ダルク」となっています。誰がいつから言い出したのか知りませんが、女が男の先頭に立って戦ったというようなイメージだけをとらえて、八重を「幕末のジャンヌ・ダルク」とみなすことが、何の検証もされないままに、当たり前のように使われているのを見るのは、恥ずかしいことです。ただちょっとしたかっこよさのために使われているのだとしたら、それは八重の理解にとっても不自然だし、ジャンヌ・ダルクの理解にとっても迷惑なことになるからです。
ジャンヌ・ダルクについての本はたくさん出ています。貴重な裁判記録も翻訳で読むことができます。そこに見えるジャンヌ・ダルクは、今ブームになっている会津の八重とほとんど重なるところがありません。エンターテインメントというか、大衆娯楽としての映画やドラマのキャッチフレーズに「●●のジャンヌ・ダルク」という言い回しが使われるのは、使ったもん勝ちでしょうが、研究本のようなものまで、こういう宣伝文句が使われるのはほんと恥ずかしいもんです。関心のある方は、必ず自分で調べる必要があるでしょう。
そもそもジャンヌダルクの生涯は、次のような時代のものでした。
1412年 フランスの東北部の田舎の村に産まれる。(日本では室町時代)
フランスの北部はイギリスの支配下にあった。
1425年 13歳の頃「フランス国王を救いに行け」という「神の声」を聴く。
1429年 17歳。2月、フランス国王に会いに行く。4月、戦闘司令官として認められ、甲冑に
身を固めオルレアンに出陣。5月、オルレアンをイギリスから奪還する。
1430年 18歳。5月、コンピエーニュで城に退却中に城門を閉ざされ、敵に捕まる(味方の
裏切り説が多い)。
1431年 19歳。ルーアンで裁判が始まる。1月から3月まで予備審理、5月まで普通審理、
5月28、29日異端審問を受け、30日火刑に処せられる。
その後、フランス王はイギリス軍を追い詰め、フランス全土をとりもどすことになる。
この裁判の審理には、約40人の陪席判事が出席し、その中には大学関係者、修道士、教会参事会員など、のべ130人が関わったとされています。裁判の経過は、この時代にしては克明に記録され、その中でのジャンヌ・ダルクの受け答えは堂々としたものとして記録されています。
なかでも甲冑に身を包んで戦闘に参加したことについて、裁判の中で「敵に突撃する際、私は自分の手に旗を持ち、人を殺さないようにしました。私は誰も殺していません。」と答えています。それが本当だったのかどうかはわかりませんが、もしそうだったのだとしたら、八重本の中で「八重のスペンサー銃の腕前は百発百中だった」などと書いている姿とは似ても似つかぬものになっているのではないでしょうか。比較するのも、おかしな事なのですが、しかしそれでも、ジャンヌ・ダルクと八重に「似ている」ところが感じられるところもあると思います。それは、「祖国」が危機にされされたとき、身を挺して戦ったものがいたということを知るというところです。ジャンヌ・ダルク伝が聖者伝説化することに批判的だったジュール・ミシュレは、それでも『フランス史』のジャンヌ・ダルクの章で次のように書いていました。(彼は晩年、ルイ・ナポレオン帝政に反対し教授職を追われています)
ジャンヌの物語にはカがある。それは、うむを言わさずひとの心を捉え、心ならずも涙を流させるほどのカなのだ。巧みに話そうと下手に物語ろうと、読み手が若かろうと年をとっていようと、あるいは人生体験をへてどれほど成熟したひとであろうと、実生活に鍛えられたひとであろうと、とにかく彼女には泣かされることになる。男たちよ、泣いたからといって顔を赤らめることはない。男であることを隠すことはない。この場合、涙のもとになったものは美しいのだから。どんなひとが死んだばかりだといったところで、いかなる個人的な出来事であれ、美しく品位のある心をこれ以上に感動させるに価するものはない。
真理にも、信仰にもまた祖国にも、それに殉じた人々がいた。しかも数多くいた。英雄たちはそれぞれ何かに献身したし、聖人たちにはそれぞれの〈受難〉があった。世間は英雄を崇拝し、教会は聖人に祈った。しかし、この場合は話は別である。列聖もされない、礼拝もない、祭壇もない。誰も彼女には祈らなかった。しかし、ひとは涙を流すのだ。
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真訳 中公文庫1987
ジャンヌ・ダルクの伝記を読めば、「うら若き処女の乙女が、甲冑に身を包み、男の先頭に立って戦った」というような単純な話ではないことがよく分かります。それはイギリスとフランスの領土を巡る英仏百年戦争の話であると共に、フランスの貴族同士の領地の奪い合い、だまし合いの歴史であり、魔女狩りの様相を示す異端審問を巡るキリスト教の醜く暗い側面をあぶり出す、教会や信仰を巡る物語でもあるという、すさまじい内容を持った事件であり出来事であったからです。(それはある意味で、日本の幕末が、幕府と朝廷のそれぞれが、それぞれの内部において、尊皇と攘夷の両方を考えを抱え、駆け引きや陰謀を巡らし戦った歴史にも似ていて、歴史はそんな簡単に敵味方が分かれて争うようなものにはなっていないのです。)
そうしたことを踏まえると、同志社の中で八重を「ジャンヌ・ダルク」に重ねてみたいという人がいるのなら、彼女が13歳の時に聴いたという「神の声」の問題をどう受け止めるのか、彼女の信仰の内実をきっと考えざるを得なくなるはずですし、そういう問いかけを抜きに「幕末のジャンヌ・ダルク」という比喩を使うのは、ジャンヌ・ダルクを誤解し、八重を誤解することにつながると私には思われます。
ジャンヌ・ダルクのことを知りたい人のためには、次の文献があります。
まずはこの新書から読まれると良いでしょう。次はミシュレ。
高山一彦『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』岩波新書、2005
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真・田代葆訳、<中公文庫>、1987年
あとは興味しだいです。
アンドレ・ボシュア 『ジャンヌ・ダルク』新倉俊一訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1969
高山一彦『ジャンヌ・ダルクの神話』 講談社現代新書、1982
堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、1984
堀越孝一 『ジャンヌ=ダルク』 朝日新聞社、1991
レジーヌ・ペルヌー 『ジャンヌ・ダルク』福本直之訳、東京書籍、1992
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』 高山一彦訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1995
レジーヌ・ペルヌー『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2002
高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、2002
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルク復権裁判』高山一彦訳、白水社、2002
映画では『ジャンヌ・ダルク』(The Messenger: The Story of Joan of Arc)1999年が、フランス・アメリカ合作映画が有名です。リュック・ベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演で、ジャンヌ・ダルクの生まれから処刑までを描いています。レンタルで見られますがR12指定です。
R-12指定映画とは、小学生以下は保護者の人と一緒に見てくださいというものです。
八重の持っていた「銃」について
2013.2.19
NHKの大河ドラマでは、八重が銃を撃つと同時に薬きょうが、くるくるとスローモーションで銃から飛び出す印象的な光景が映し出されていました。ハイスピードカメラで撮っているのか、CGで合成して人工的に作っているのか、わかりませんが、印象的な場面でした。女子大生でも、あの場面が「かっこいい」と言っていたのがおりました。
八重が持っていた銃については、八重の回想録から二種類あったことが分かります。一つは「ゲベール銃」、もう一つは「七発の元込め銃」です。「ゲベール銃」は、丸い弾丸と火薬を紙に包んだものを、銃の先から棒をつかって押し込む手間のかかる旧式の銃でした。大河ドラマでも、八重が紙に包んだ弾を銃に押し込んでいる姿が何度か映されていました。この銃は当時の徳川幕府がフランスから大量に購入し続けていたもので、八重たちの籠城で使われていた銃の多くも、この銃でした。ちなみに鶴ヶ城が陥落したときに、城内から提出された小銃の数は2845挺と大山柏『補訂戊辰役戦史下巻』には記録されていますが、落城して投降した老弱男女の総数が5235人と同書ではなっているので、単純に計算すると二人に一丁の銃があったという事になります。付け加えていうとゲベールとはオランダ語で小銃という意味でした。
しかし、銃の先から弾を込めるこの面倒な鉄砲は、当時の戊辰戦争では実践的にはもはや古いものになっていました。そのことに触れる前に、八重が持って城に入ったと回想されているもう一つの「七発の元込め銃」のことに触れておきます。これはいくつかの八重本のサブタイトルに使われている「スペンサー銃」であっただろうと思われます。この銃は1860年にアメリカで発明されたライフル銃で、南北戦争で使われ、日本には佐賀藩が最初に購入したとされています。なぜ佐賀藩だったのかということが、とても重要なことなのですが(横道にそれるのでここでは触れませんが)、戊辰戦争下ではこの銃は八重が回想しているような言い方で、つまり「元込め七連発銃」と呼ばれ大変有名になっていました。しかしあまりにも高価な銃で、当時の金額で一丁37ドル80セントで佐賀藩は購入したとされていて(所荘吉『新版図解古銃事典』)、誰もが持てる銃ではなかったのです。ですから、この銃を八重が持っていたという事は、それ自体もっと研究してみる必要があります。
ところでこの銃の特徴は、すでに知られているように銃尾から七発の弾を込める床尾弾倉式の銃で、連続して七発撃つことができました。一回一回銃の先から弾を込める「ゲベール銃」との差は歴然としています。しかし一番の違いは、連続して撃てる弾の数ではなく、銃の作り方の根本的な違いにありました。それは「元込め七連発銃ライフル銃」とも呼ばれているように「ライフル」という様式の作りになっていたからです。「ライフル」とは、銃身内部に施した螺旋(らせん)条溝のことで、弾丸にくるくると回転を与えて弾道を安定させて飛ばせるように発明された画期的な銃身のことでした。この螺旋(らせん)条溝を持った銃を、その後「ライフル銃」と一般的に呼ぶことになります。そして、この銃には、実はもう一つ大事なところがありました。それは弾薬の形状です。つまり弾薬もライフルという螺旋(らせん)条溝に食い込むような形状を持った弾でないと使えないということだったのです。おそらく、このあとの大河ドラマで、籠城する八重たちが川崎尚之助の指導の下に鉄砲の弾を作るシーンが出てくるかと思われます。2万発ほどみんなで作ったとされているので、いわば簡単に作れる弾があったのです。しかしそれは鉛を溶かして球状にしたゲベール銃にのみ使える弾でした。
ライフルの形状の弾を作ることは、銃身にライフル条溝を作り出すのと同じように、当時の日本の技術ではむずかしいものでしたから、当然そのような弾を鶴ヶ城で作ることはできませんでした。八重が籠城の時に家から「元込め七連発銃」と「百発の弾」をもってきたと回想しているのですが、それはだから特殊な弾丸をもってきたということを意味しています。ですから、百発しか持ってこなかったという事は、百発撃ってしまえば、もうこのライフル銃は、他の球状の弾では使用できなかったということなのです。
こういうことをなぜわざわざ言うのかというと、ライフル銃は発射された弾丸が回転して進むので、軌道は安定してまっすぐに飛ぶのですが、ゲベール銃では、普通に狙って撃っただけでは、弾がまっすぐに飛ぶとは限らないので、命中率はとても悪かったということを指摘するためです。でも大河ドラマでは、八重は家の中の射撃場(こういう射撃場が当時の個人の家に作ることが可能だったのかは私は疑問だと思うのですが)で、ゲベール銃をつかって的に命中させているシーンが何度も放映されていたではないかと言われるかも知れません。確かに、じっと狙って撃てば、火縄銃でも命中する度合いは高かったといわれていますから、命中はしたと思われます。しかしそれは射撃場のような落ち着いた場でのことであって、実際の戦場で、攻めてくる敵を前に、一回一回銃の先から慌てて弾を込めながら、発砲するという「ゲベール銃」では、落ち着いた狙いは実際にはできなかったとされています。ですからどこに飛んでゆくのかわからないままに前に向かって撃つしかないようなところがゲベール銃にはあったのです。
そんな鉄砲の考察などして何になるんだと思われるかも知れません。もっと八重の武士の心意気のようなものを考察する方がいいのではないかと。しかしそれは違うと私は思います。大河ドラマの中でも描かれましたが、兄の覚馬が江戸で西洋の砲術を習い、それを会津藩に帰って伝授しようとして、藩から反対されるシーンがありました。これは事実です。そしてこういうことは、会津藩だけではなく当時の幕藩体制の多くの藩で起こっていた出来事だったのです。当時の幕府は、1855(安政2年)に、旗本御家人に対して西洋流砲術調練を命じ、湯島製造所を設けて洋式銃砲の製造を開始しています。覚馬はその命令を受けて翌年に会津へ帰り蘭学所と銃の指導をしようとしたのですが、江戸の幕府の新しい動きが読み取れない会津藩の老中たちは、この動きに反対したのです。そして私の今回の小文もこの反対の意味について、しかと考える必要があると思って書いているところがあるのです。
というのも、日新館というような日本でも有数の学問所を、藩士の子弟のために作った会津藩にとって、鉄砲は武士道と相容れないものに映っていたからで、それは他の藩でもそうでした。どういうことかというと、武士道は戦う相手を目の前に見据えることで成り立つ武術であるのに対して、鉄砲は、相手が誰なのか確認もできない遠くに居るものに向って発砲する技術であって、何も武道のような心の鍛錬を必要としなくても成り立つものだったからです。現に幕府は鉄砲を訓練させるものに農民を採用してもいいと指示していました。現に長州藩の高杉晋作の作った騎兵隊は、農民や町人が混じって結成されていました。
しかし、多くの幕府の武士たちは、「刀」が武士道の基本であり、「銃」は武士道ではないと考えていたのです。ここにきて、八重の持っている銃について考えることが、実は武士道とは何かを考えることにつながることに気がつくのです。新渡戸稲造は『武士道』岩波文庫のなかで「13章 刀・武士の魂」という章を設けて、「武士道は刀をその力と勇気の象徴となした」とその章を書き始めています。そういう「刀」と、その対極にある「銃」の確執が、実は会津藩でも起こっていて、この武士道へのこだわりと、近代兵器の銃の問題を軽視する延長で、会津の大きな悲劇も起こっていたことに、私たちはもっと注意を払わなければなりません。
綾瀬はるかさんの演じる銃を持った八重のポスターがあり、そこに「会津の武士道を生きた八重の姿」などと書いている本もありました。そういうひとは「刀」と「銃」の本当の区別について、十分に考えることをしていないと言わざるをえません。八重は徳冨蘆花たちから「ぬえ」と呼ばれ、頭は西洋で、体は東洋で、と揶揄されていたのですが、実は八重が「ぬえ」の宿命を生きることになるのは、京都へきて新島襄と結婚して始まったのではなく、幕末に「刀」(東洋)を持つ武士の家に生まれながら「銃」(西洋)を持たなくてはならなかったところから始まっているのです。
そして、この「銃」を持って戦うことが近代日本の富国強兵につながり、日清日露戦争へとつながってゆくところとは、私たちの問題としてしかと見つめてゆかなくてはならないところなのです。
八重は家で射撃の練習ができたのだろうか
2014.5.9
ドラマなんだから、歴史として見てはいけない、と思いながら、NHK「八重の桜」を見ていたのですが、それでも、どうしても気になることがありました。それは、八重が家で射撃の練習をしている場面についてでした。確かに、八重は「懐古談」の中で次のように話していました。
八重子刀自白虎隊の伊東に射撃を教ふ
妾(わたし)の兄覚馬は御承知の通り砲術を専門に研究して居ましたので、妾も兄に一通り習ひました。当時白虎隊は仏国式教練をやつて居ましたので、射撃の方法はよく知つて居ますが、それでも時々射撃の事で遊びに来ました隣家の悌次郎は十五才のため白虎隊に編入されぬのを、始終残念がつて居ましたが、よく熱心に毎日来ました。そこで妾は「ゲベール銃」を貸して機を織りながら教ましたが、最初の五六回は引鉄(ひきがね)を引く毎に雷管の音にて眼を閉つるので、其都度臆病々々と妾に叱られ案外早く会得しました。
吉海直人『新島八重』角川選書2012
ドラマ「八重の桜」では、時代考証を指導される方々の元に、これなら大丈夫だろうということで、八重の家の射撃用の庭先を設定されていたのだろうと思います。もちろん誰も見たことのない八重の実家ですから、想像するしかないわけで、そこはデタラメにならないようには最大限の考慮をされて、実家の再現はされていたと思います。
そうした八重の回想や、時代考証の専門家の苦心されていたことを踏まえての上でいうことになるのですが、それでも実際に、八重の実家でドラマで描かれていたような射撃訓練が行われていたということを、どう考えたら良いのか、よくわからない思いがずっとしてきていました。
『詳解 会津若松城下絵図』歴史春秋社2011を見ると、山本覚馬の実家は、若松城の堀のすぐ近くにあって、決して大きな家ではありません。地図で見る限り、隣同士、同じような大きさの家でした。隣は確かに銃を教えたとされる「伊藤悌次郎」の家になっています。西郷頼母や梶原平馬などの家老の屋敷に比べたら、ほぼ五分の一ほどの大きさです。
そんな大きくもない家の庭で、射撃の練習をするというのはどういうことなのかを想像することが、うまくできないのです。まず何よりも、銃の発射音のことを考えると、その音が隣の家との関係でどうなのか、ということがずっと気になっていました。たとえば「隣の悌次郎」がその音で目をつぶってしまうという音のことを、現代の私たちはピンときませんが、たとえばその発射音については、古式銃の保存会の人たちの活動から知ることが可能です。
たとえば YouTubeで「会津藩鉄砲隊演武」とか「江戸幕府鉄砲組百人隊」と検索すると、現在でも火縄銃の発射音のすさまじさを知ることができます。しかし、その発射音が、毎日隣の家から聞こえてくるとしたら、隣に住むものは大変だったのではないかと思われます。近所中に鳴り響く音だからです。映像を見られたらわかるように、だいぶ離れて見学している人たちにとってもびっくりするような音になっています。
そして、その発射音も気になるのですが、さらに気になるのは、銃が狙い撃つ「的」の遠さです。実弾の射撃をしているわけではないのですが、古式銃の保存会の「的」も実戦用の位置に置かれています。当然のことながら、「遠い的」をめがけて撃つことで鉄砲の威力や効果があるわけですが、八重の家の庭先の的は、そういう古式銃の保存会の人たちの立てている「的」の遠さとは比べものにならない「近い」ものでした。家の庭の大きさそのものが、そもそも長くないわけですからです。そんな短い距離で、轟音のする火縄銃の練習をして、隣の家からは苦情が来なかったのだろうかという疑問がおこります。
それこそ余計なお世話だよ、と言われるかも知れません。そもそも山本家は八重の回想にもあるように「砲術師範」として認められているのですから、隣近所の家々も、山本家で鉄砲の音がするのは当然だと認めていたのだと考えられるからです。狭い庭先で実際に鉄砲の射撃訓練になるのかは別にしても、射撃の練習をするのが「山本家の仕事」なのだと近所では容認されていたことが考えられます。だから疑問視するのは当たらないということは言えるかも知れません。
そこはそうだとしておいて、気になるのは、日新館が近くにあることでした。おそらく山本家から歩いても五分もかからないところに日新館がありました。その一角に、「放銃場」と名づけられた場所が用意されています。本来はそこで多くの「砲術師範」の武士達も射撃の訓練をしたのだろうと思われます。そういう公の訓練場とは別に、たとえ「砲術師範」とはいえ、個人の家で全く自由に射撃の訓練が許されていたと考えることができるのか、そこはどうしても疑問に思えるからです。あれほど銃の規制に厳しかった徳川幕府が、いくらお役目であろうと、個人の家での射撃訓練をどこまで認めていたのかは気になるところです。
各藩に置かれていた「砲術師範」(会津藩では武士の四つ階級の一番下に当たる)の家柄の当初の目的は、百姓一揆などの鎮圧のためでした。会津でも近世を通じて56件の百姓一揆が知られていて、「鉄砲隊が発砲して農民側に死者を出す」とか「首謀者を鉄砲で処刑」というふうにも記録されているところです(『資料が語る会津の歴史』歴史春秋社1996)。私たちは山本家のような「砲術師範」の家柄を、現代のフィーリングだけで受け取ってはいけないところです。さらに幕府は銃の広がりを恐れていたので、自由に個人が射撃練習ができたとは思えないのです。
ちなみにNHKのBS歴史館『新島八重 逆境を生きるハンサム・ウーマン』で中村彰彦氏がしきりに八重の射撃の腕前を褒め称え、さらには小田山から官軍が打ち込んでくる大砲にめがけて、反撃の大砲を八重の指揮の下にやり返したというような、見てきたようなことを熱心に言われていました。官軍相手の手柄は、まるで八重一人にあったかのような説明のされ方でした。しかし、このことが事実であるのかどうかを考えるには、いったい八重が大砲の実践をどこで習得できただろうかを考えてみたら分かると思います。
百歩譲って、家の庭先で射撃の練習ができたとしておいても、しかし大砲の練習などは家では出来ません。できるのは「日新館」の「放銃場」、あるいは野外の広い訓練場だけだと思われるのですが、そんな男の武士ばかりが訓練する「放銃場」に、武士でもない女の八重が入っていって練習をするようなことができたのかと考えると、それは不可能であったと思います。
大砲の砲弾の仕組みは、兄、覚馬から聞いていたと思います。というよりか、「砲術師範」の家では、爆音を鳴らす射撃の練習よりか、銃の分解、掃除、組み立て、火薬の調合などなど、鍛冶や化学的な仕事を普段は丁寧にやっていたのではないかと思われます。その中には大砲の砲弾の分解、組み立てもあったと思われます。
しかし、会津若松城から、官軍が陣を引く小田山へ、正確に大砲を撃ちこむには、放物線を描いて飛ぶ大砲の弾の、その放物線の距離のはかり方などの実践的な知識がいるはずで、そんな実践を八重がどこでできていただろうかと思うのです。もちろんぶっつけ本番で、覚馬から教わっていた大砲の撃ち方を、実践したという事は考えられます。考えられますが、しかし、立て籠もる会津若松城で、射撃の名手として活躍しながら、なおかつ大砲の指南役つとして男勝りの活躍を八重がしていたとイメージするのは、あまりにも根拠が薄そうに思えます。
BS歴史館で話をされていた、松本健一氏、鈴木由紀子氏、島田雅彦氏らが、口々に若松城の籠城の八重の戦いぶりを褒めていたのを聞きながら、その時に歴史の見方の違いを感じるなあと思っていたことを思い出します。中村彰彦氏を含め、八重がすばらしい狙撃手(スナイパーでとみんなが言われていました)だったということ、そういう彼女がいたためにお城は一ヶ月持ったのだという言い方を、参加者の方々がいわれていました。そういう「説明」を聞くと、逆に八重が狙撃手として居なかったら、若松城は一ヶ月前には終わっていて、非業の死を遂げる人もたくさん出なかったはずではないのか私なら思うところがあります。早く降参をすれは、それだけ助かる人たちもたくさんいたはずなのです。しかし歴史をそんな風に考えないで、狙撃手として八重ががんばったがために「城は一ヶ月持った」という評価をするわけです。そういう「がんばり」を評価する根拠というのは一体どこにあるのか、ドラマが終わったあとでこそ、冷静に尋ねてみる必要があるのではないかと私は思います。
本当は八重たちはお城で自分たちの出来ることをやっていただけで、後世の人が言うように八重一人で、会津城陥落をくい止めていたわけでもないのはわかりきったことなのに、なぜ歴史をそういう個人の動きで説明しょうとするのか、そこはもっと歴史に即して会津城を巡る攻防戦の深層を考えてゆかなくてはと思います。
注 宇田川武久『江戸の砲術師たち』p89の「星場」という射撃場のことが出てくる。
蘆花と久栄の禁じられた恋と小説『黒い眼と茶色い目』の深み
2013.11.18
徳冨蘆花(当時は徳富健次郎)と山本久栄の間に、禁じられた恋がはじまります。明治19年、蘆花19歳、久栄15歳。久栄は、山本覚馬と時栄の娘でした。大河ドラマでも描かれたように、覚馬の妻・時栄の「不義の疑惑」が元で離縁され家を追われ、残された久栄が熊本から来た若き徳冨蘆花と恋に陥るという展開になっています。「不義」の出来事は、おおむねは「事実」のようにされていますが、それは戸籍の上で「離縁」という「事実」が残されてきているので、「離縁」という一大事が起こるためには、きっとそれ相当の出来事があったからだろうということになるわけで、そこに母・時栄の「不義」説の出てくる理由があります。しかし現在の私たちには、本当のところは「わからない」というのが「事実」です。では「わからない」のに大河ドラマでも、時栄に「不義」があったかのように描いていたではないかと言われるかも知れませんが、それは徳冨蘆花の小説『黒い眼と茶色い目』にそのように読み取れる描写がなされているからでした。この小説をどのように理解すれば良いのかは、後で述べるように本当はとてもむずかしいのです。
この小説は初期の同志社を内側から描いたスキャンダル・ドキュメントのように読まれてきたのですが、丸本志郎氏の執念の追跡調査(『新島研究』71号)で、「事実」ではない記述がいくつも指摘されてきました。中野好夫氏も丸本志郎氏の批判を受けて、大部の伝記となる『蘆花徳富健次郎』筑摩書房を後日訂正しています。丸本志郎氏は時栄の身の潔白を主張し、中野好夫はそれでも「不義」は疑えないような書き方をしています。当然私たちは、そのどちらも確証するすべをもちません。「謎」としておくしかありません。
大河ドラマでは、山本家を追われた時栄が、すぐに神戸に行ったようにされていますが、これも丸本氏の追跡で、離縁は明治19年で、実際には明治26年にまず堺に移り、明治28年に神戸に移ったということがわかっています。ということは堺に移るまでは京都にいた可能性があります。そして蘆花と恋に落ちて、婚約を破棄された久栄が、若くして亡なるのが明治26年7月20日、時栄が京都を離れたのがその前日の19日となっています。この悲劇の親子に、離縁後どれだけの交流があったのかは分かりませんが、おそらく娘、久栄の死を知って、母・時栄が京都を離れたと考えるのが筋が通るように思われます。もちろん、これも憶測に過ぎませんが。
今回この一文を書いていますのは、何かしら漠然と「歴史」に関心があるからではありません。幕末から明治にかけて生きる女性たちを描くドラマ「八重の桜」を通して、はじめて丁寧に描かれた山本時栄という女性に、もっと関心を寄せても良いのではないかと思えるところがあったからです。八重という女性の生き方は、丁寧に論じられるのに、20年も彼の兄を支え続けてきた時栄という京都の女性をもっと知ろうというふうにならないのは、様々な生き方をしてきた女性を知るためにも残念に思えます。
丸本志郎氏は、会津からやってきた武士に出自をもつ山本覚馬ファミリーと、新島ファミリーと、熊本からやってきた横井小楠の一族のファミリーの狭間で、何の後ろ盾ももたずにひたすら覚馬に寄り添ってしか生きざるを得なかった京都の時栄の苦悩があったはずだと丸本氏は真っ当な主張をされ、彼女を弁護されています。彼の主張が、京都人による京都人の時栄擁護のように見えるのかは、私たちの関心の持ち方次第です。
それでも「離縁」され、その原因に「不義」を疑われるような女性の生き方などに、共感も関心も持つことはできないわと思われるかも知れません。百歩譲ってもし「不義」があった女性として時栄がいたとしたら、そういう女性の生き方には何も見るものはないのでしょうか。英文学の先生達は、下半身が不自由な夫を支える妻の前に現れた男と「不義」を重ねる「チャタレー夫人」の意味を熱っぽく論じる時代があったことを知っておられます。それはそれ、でも時栄はだめ、ということなのか・・・。私にはよくわからないところです。
話は最初に戻しますが、蘆花と久栄の恋がありました。熊本からやってきた秀才の兄、徳富蘇峰の弟、健次郎(蘆花)が、久栄と恋に陥り、婚約をし、破棄をします。その6年後に久栄は亡くなります。若者の恋の話ということなら、当時も今も掃いて捨てるほどあるわけですが、この恋の出来事が『黒い眼と茶色い目』という小説になったので、後世の人が知ることになりました。もちろん、小説になった恋の話なども星の数ほどあるわけで、蘆花が小説にしたからどうだということは何も無いのです。ただ、この小説は「問題」を起こしてきました。その「問題」とは、表向きは、初期同志社の内幕を暴露したスキャンダル小説として登場していたからというようなところにあります。また、丸本志郎氏が強烈に批判したように、モデル問題に重大な作為があったということもあります。しかし、この小説の「問題」は、そういう所とは別なところにあったように私は感じてきています。
この小説の恐ろしさ、その深淵の一端を明らかにしたのは、伊藤彌彦「うじうじした恋ー徳冨蘆花『黒い眼と茶色い目』を読む」(『明治思想史の一断面』)だったと私は思うのですが、そこで伊藤氏は、蘆花が子どもの頃に乳母から受けた性的なもてあそびが原因で、深く傷つき、彼の人格形成やその後の女性との関係の形成に決定的な影響を与えていることを論じておられます。そこは大変興味深く大事な所です。私はこの事実を踏まえてこの小説は読まれるべきだと思うのですが、それでも伊藤氏の触れていないところにも言及しなければなりません。それは蘆花が『黒い眼と茶色い目』の中の二箇所で、二葉亭四迷の『浮雲』を読んでいることに言及し、その小説の主人公「文三」にまざまざと自分の姿を見ていることを書いているところです。この『浮雲』も別の意味で空恐ろしい小説です。こんなものを書ける人がいたのかと思うような小説ですが、若き蘆花が読んでびっくりし、自分のことが書かれていると感じたのはとてもよく分かる気がします。
「問題」は、蘆花がこの『浮雲』のどこに自分を見たのかということなのですが、それは蘆花の『黒い眼と茶色い目』がどんな風な経過で書かれたのかの理解に関わってきます。久栄との恋は、19歳、20歳の頃の恋でしかないものですが、それを蘆花は何度か記録に残し、そのつど破棄しています。そして思い立ったように47歳という歳になって、改めて一気に書き上げています。そしてその原稿を妻の愛子に清書させたりしています。ここがこの小説の成り立ちの異様なところです。なぜこの歳になって若気の至りですむような恋の話を、妻を巻き込んで小説にしなければならなかったのか、という疑問。
そこには彼の特有のキリスト教の理解が関わっていると思われます。私がこの小説を恐ろしいと感じるのはそこに理由があります。当時の彼は、彼特有のキリスト教観に基づき悔い改めて再出発をしようと考えていたところがあります。キリスト教に出てくる「懺悔(ざんげ)」という発想です。トルストイに会いにロシアまで行った蘆花ですが、トルストイにも『懺悔』という作品がありました。蘆花は、47歳になって「懺悔」のような発想で、若かりし頃の自分を洗いざらい書こうとしていたのです。
慶應義塾や早稲田大学など名門校の成り立ちにスキャンダルなところは取沙汰されないのに、同志社だけになぜそんなスキャンダルが小説として書かれるものが残っているのかと嘆かれた方がありました。『黒い眼と茶色い目』を同志社が読むことを禁じているなどといったデマが出たこともあったらしいです。しかし、この小説の理解は、思われているほど簡単なものではないのです。たまたま同志社の初期に、たまたま小説家がいて、彼がたまたま初期同志社を小説に書いたので、同志社の内情が一般に知られることになったという理解は、わかりやすいですが皮相な理解です。
この小説の恐ろしさは、初期同志社のスキャンダルを書き残したり、モデルを勝手に改ざんしたりしたところにあるのではなく、実は彼がキリスト者であろうとし続けたところに唯一の理由があったと私には思われてなりません。
彼が同志社で育ったという事、そしてキリスト教を深く理解しようとし続けたこと、その結果自分の犯したであろう様々なことを「懺悔」すべきだと考えていたこと、だから、とっくに過ぎ去って時効になっているはずの出来事を、まだ進行しているかのような感覚で「告白」しなければ収まらなかったところがあり、こういう発想は他の大学では起こりえないことだとも考えられるのです。同志社だけでなぜスキャンダル小説が書かれたのかというのではないのです、同志社という学校で学んだ学生が、自分なりにキリスト者としての自覚を深めていった結果、生んだ「告白小説」が『黒い眼と茶色い目』になっていて、この小説は、そもそもの同志社の成り立ちの問題と別のところにあるわけではなかったのです。
そのことは、明治の末期、デンマークの若き哲学者キルケゴールが、婚約者のレギーネとの婚約破棄をしたことを、自分の一生の後悔にして、膨大な著作集を書き続けたところに似ているように私には思われます。そこにはキリスト者であろうとし続けるものの言いしれぬ苦悩と不安があって、それがだから『黒い眼と茶色い目』を大変恐ろしい小説にしているのではないかと私には感じられています。そのキリストの存在の確信への疑いを、キリスト教抜きに描けば、実は『浮雲』になるのです。若き蘆花がこの小説に深く思いを寄せるのは、『浮雲』の下宿屋の娘「お勢」の本意の確実性をつかめないままに、揺れ動く「文三」の気持ちが、キリスト教の確実性をつかめずにいる自分の気持ちと重なって読んでいたからであろうと私には思われていて、なんとかそんな不安定だった頃の自分に決着を付けようと『黒い眼と茶色い目』を書くのですが、結局自分のもつ不確実性を、あいての久栄(作中では「寿代」)を悪い女と描くことで、かばうような操作をしてしまっている結果になっているのです。そこは悲しい人間の性(さが)をみるようで、それゆえに私はこの『黒い眼と茶色い目』に恐ろしさを感じないわけにはゆきません。
ちなみに言えば、『黒い眼と茶色い目』の「黒い眼」とは、絶対慈悲の眼をもつキリストの眼のことで、小説の中では新島襄が唯一この眼をしているように描かれています。「茶色い目」は罪人の目で、久栄がその目で表されますが、それは蘆花自身の目でもありました。
レクイエム2012年―戦争と殺人と―
2012.11.24
「千人殺してみなさい、そうしたら往生できる」と親鸞が言ったとき、弟子はそんなことできませんといったので、「往生のために千人殺せと言われても一人も殺せない。それは自分の心が良くて殺さないのではない。殺すべき業縁(ごうえん)が備わっていないからだ。でも、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえある」と親鸞はいった。(歎異抄第十三条)
2012年、NHK大河ドラマに「八重の桜」が決まったことへの喜びではじまった女子大に、突如残忍な同僚殺害事件が起こったとき、なぜかこの親鸞の言葉を思い浮べていた。「良心を手腕に運用する」校風の大学で、なぜこんな残虐な出来事が起こったのか。この事件は当初から、例外で、特異な事件としてみなすしかないように私にも感じられていた。でもその一方で、自分には関係のない出来事なのだろうかという思いもあり、もう少し広げて、「大河ドラマ決定」と「事件」の間にも、何のつながりもないのかどうか、できる限り考えてみたいと思うようになった。
もちろん、「八重」のことも「事件」のことも、何かがよく分かっているわけではない。よく分かっていないのなら考えるべきではないという事もあり得るが、でも少なくとも分かっている共通項がある。NHKは何を思って八重のドラマを作ろうとしたのかはわからないが、制作者側にあるのはまずは「狙撃兵としての八重」の姿であることは間違いないであろう。「女でありながら鉄砲を撃って戦った」というイメージ。それが八重自身の語った「武勇伝」の中から紡ぎ出される。しかしそこにあるのは、親鸞の言う意味での「人を殺す」という事情である。私に考えたいのは、その親鸞の言う「殺すべき業縁」の,自分に引き寄せられる限りの理解である。
考えられるのはこうである。利害のぶつかるもの同士に「交渉」の余地が残されていれば、対立する両者にはまだ双方とも「立つ瀬」が残される。しかし「交渉」の余地がなくなれば、力ずくで、それぞれの言い分を通すしかなくなる。その力ずくの対応が集団で行われれば戦争であり、個人で行われれば暴力や殺人という事になる。「交渉」の余地がなくなればなくなるほど、「相手」はもはや「ひと」ではなく「敵」にしかすぎなくなる。それは「語る相手」ではなく「消滅させる相手」でしかなくなる。
江戸幕府が終わりを迎えるとき、追い詰められ、打算をもくろんだにしろ「交渉」を選んだのは徳川慶喜(当時31歳)だった。そのために江戸も江戸城も戦場と化すことはなかった。しかし、徳川を支えてきた会津藩は、藩政の腐敗や財政難を抱えつつ、「妥協」の道を選ぶことができず、当時の会津藩主・松平容保(当時32歳)は「戦争」に踏み切ることになる。もちろん、新政府に赦免嘆願書を提出するも認められず、新政府側の勝者の理不尽な対応もあったのだが、「交渉」は成立しなかった。その結果、日本史最悪の、老弱男女を含む会津城下町内での殺戮、鶴が城内の惨劇、白虎隊の悲劇が起こる。八重たちの「果敢な行動」も、この会津藩主・松平容保の「開戦の判断」の上でのみ成り立つものであり、すべて、この藩主の「開戦の判断」を共有することで起こった惨劇である。ここに「八重の武勇伝」と呼ばれるものが出てくるのだが、しかしこの異様な戦場下で起こった出来事を「武勇伝」というのは本当はよくないのではないかと私は思う。
吉海直人氏が1998年に発掘された「新島八重刀自懐古談」は本当に貴重な資料で、ここに「随分戦と云うものは面白いものでございまして」という有名な一文があるのだが、こういう一分のもつ「闇」をどう読み解くのかは,私たちの「会津戦争の深層」を見る力量にかかっている。
八重や白虎隊の「果敢」にみえる行動の数々は、決して彼ら個人の判断に基づく行動ではない。会津藩主らの武士の意地と無謀な戦争判断を自らの判断にして実行されているものである。つまり「交渉」の不可能性と、「相手を人間ではなく敵とみなす」という判断の上ではじめて成り立つ行動の数々である。結局はこの後手後手に回る藩主らの判断のせいで、醜悪な惨劇が積み重ねられていったのである。これは第二次世界大戦で繰り広げられた惨劇にも似ている。なぜもっと早くに軍部は終戦を決意できなかったのか。なぜ原爆を落とされるまで「交渉」に応じることをしなかったのか・・。そして私は自分が結婚した当時、妻の父親から戦時中のインパール作戦の話を何度も聞いた時のことを思い出す。インパールはインドの東北部にあって日本の大部隊が全滅した恐ろしい戦闘の舞台であるが、その戦闘の場面で敵兵を迎え撃つ光景を図で描きながら武勇伝のように語る義父の話に、どうしても相づちを打てずに困った記憶がある。全く他人の話になら、それは「戦争の語り」として興味深く聞くこともできたかも知れないが、「身内」となると、それは「人ごと」のようには聞けずに、相づちを打てば「自分がしているかのように」感じて気持ちが悪くなったことを私はよく覚えている。指導部の命じた愚かな作戦の中で、語り継がれる個人の「美談」や「武勇伝」を、冷静に聞くのは本当につらい。
「交渉」の余地を残さないところで起こる出来事は、「相手の死」や「自分の死」である。八重がそういう惨劇を体験してきたことを、私は「武勇伝」にどうしても引き寄せられない。そういうことをすると、2012年10月に起こった「同僚殺害事件」との接点が見いだせなくなる。人は「交渉」する思考法を失うと、「強引」で「果敢」な行動に出てしまい、「相手を見失う」判断をしてしまうのであり、それは誰でもそういうことをしてしまう、ということになるものではないかと私は思う。
同志社の校祖は新島襄で、女子大の校祖にはもう一人新島八重がいるという言い方をするときは、同志社はそういう戦争という名の下の「人殺し」をしなくても済んだ人を校祖にもち、女子大は戦争という惨劇を生きた人を校祖に持つということにもなっている、ことになる。ということは、おそらく女子大は同志社以上に「人を殺す」ことの意味を、より深く考えることのできる位置にある大学なのだと考えることも本当はできるのではないだろうか。八重の深層には、おそらくおぞましい会津戦争を知らない人たちには共有できないものがあったと私は思う。同志社からの「孤立」。それは「会津戦争の傷」の深みが同志社側とは共有できない深みにあったからだと私は思う。その八重の深層は、新島襄が亡った3ヶ月後の篤志看護婦志願の動きとして現れる。狙撃兵としての八重から篤志看護婦への道のりは、おそらく新島襄の軌跡からは見えてこないものがある様に私には思われる。
私は、このエッセイの題にレクイエムとつけたのは、モーツアルトを意識してのことではない。そうではなくて岡林信康が2010年に発表した「レクイエム~麦畑のひばり~」の歌を意識してのことである。生前の美空ひばりが岡林に宛てた手紙の中で「自分は飛び続けるが、でも結末はバラ色の幸せなのではない。降りたい、やめたい、という自分がいた」と書いていたのを元に、岡林が作ったのだという。死へ向かう姿を歌う、不思議な歌である。「YouTubeでこの歌の発表時のステージがそのまま見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=f4iv6ZkxiE4
バックの山下洋輔のピアノ演奏も素晴らしい。私は、「悲劇」として殺したり殺されたりした人びとのすべてが「ひばり」と呼ばれ、この「レクイエム」が歌われていると思ってこの歌を聴いています。
ならぬことは、本当に「ならぬ」のでしょうか
2012.11.27
自分もその時が来たら人を殺すのではないかという思いがあり、その場合の「その時」を巡って少し考えたことを、時事コラムに「レクイエム2012ー戦争と殺人-」と題して投稿したのですが、掲載は認めらなかったので、同じテーマを巡って違う角度からまた少し考えてみました。
前の一文でもふれましたが、吉海先生が発掘された「新島八重子刀自懐古談」はとても大事な資料です。(ちなみに「刀自(とじ)」とは年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語です)。ここに八重がどのような教育を受けてきたのか、まとまって話をされています。この資料は八重のなくなる直前に語られたもので、87歳の時の記録です。この歳になっても昨日のことのように語られる会津戦争は、やはり八重にとっては、忘れようにも忘れられない、八重の深層を形作るものであったと思われます。その本文はしっかり読み込んで、十分に多面的に理解されるべき資料だと私は思います。今回はその中の大事なエピソードについて考えてみます。
そのエピソードは、会津の少年たちを語っている場面にみられます。これはただの回想録ではないのです。八重の苦悩の記録として読まれるべきものだろうなと思います。
そもそも会津の武士の少年たちは、「汁の掟」や「日新館童子訓」を唱和しながら、会津の少年兵としての精神構造をつくっていったわけで、それが「妥協」や「交渉」の活路を模索する思考を拒み、「自害」という惨劇の道を選ばせることになってゆきました。そして、その悲劇は「美談」でもないし、「勇敢な行動」でもない、ということを私たちは歴史から学ばなくてなりません。この、「妥協」や「交渉」の活路を見い出してゆこうという思考法ではなく、あくまで藩主の言うとおりに生きる思考法が、会津の掟では「ならぬものはならぬ」という言い回しで伝えられてきているものでした。そうした「武士の教え」が、今度同志社女子大学発行の『同志社の母 新島八重』という本の帯にすり込まれているのを見て、この言葉は武士を統制するための特別な条件下で作り出された言葉であったはずなのに、それが注釈抜きに現代の女子大の学生にも通用するかのようなお薦めの言葉としてよみがえってきた印象を受けたのは、私だけだったのでしょうか。
聖書には右のほほをぶたれたら左のほほを、という教えがあります。これは、ならぬことはならぬの教えとは違います。また日本の庶民の知恵としては「ならぬかんにん、するがかんにん」ということわざがあります。これは、社会で生きてゆくには、ならぬことをならぬと言い切らずに考えるという思考法のお薦めです。そこに本当の意味の我慢があるとことわざは教えてきたものです。ここでの「ならぬことをならぬと言い切らない」ことは、ただの我慢ではなくて、近いうちに訪れるであろう交渉の余地を見据えた上での、人人との関係を円滑にやってゆくためのの知恵つくりのことでした。
しかし武士たちは「ならぬものはならぬ」といって相手の価値観を認めない思考法、交渉の余地を作らない教えを武士の子どもに教えてきました。その武士のモットーが端的に「ならぬものはならぬのです」というコピーにされてきています。
私がこのことを実感的に思ったのは、「新島八重子刀自懐古談」を読んだ時でした。八重自身がこういう「武士の教え」を受けて育ち、それをさらに年下の子どもに教えていったことが、結局「白虎隊」の惨劇を生むことになり、歳を重ねるごとに、それでよかったのだろうか、という自問をあの会津落城の日から自分に投げかけていたように思われたからです。その苦渋の思いが、この「懐古談」に読み取れるから、この記録はとても大事な資料だと私は感じるのです。
そこには、会津戦場下で十二三の子どもが、八重さんが進撃するのなら連れて行ってくれと言うのを聞いて、その子どもたちのことを思い出すと未だに涙がこぼれます、といって涙を拭きながら語っている八重の姿が記録されています。さらに具体的には、鉄砲の音に怖がる少年を叱咤し、結局砲術を教えた子のことについて、こう話をしています。
「それでは教ヘてやらうと云つた。その教ヘた子が死にました時は、実に可哀相てございました。一昨年も国へ行つて墓へ行きますと、自分が砲術を教ヘた子供の石碑が一番先に眼につきます。」
本来であれば、武士の心得通りよくやったと言えば済むところであるが、八重の心には、武士の心得を教えたことが、その少年を死に導いたことになり、それで本当に良かったのかという、言葉にならない思いが、この87歳の年になってでてきているところが、こういう回想から読み取れるのです。この武士として生きねばならなかったことと、その武士の教えを生きる事が導いてしまった悲劇への思いの、その相矛盾する心の葛藤の中で八重は生きていたのだということが、この記録からはよく読み取れます。
それなのに、現在になって、また「ならぬことはならぬのです」という武士の価値観だけを生きたかのようにみなされるキャッチコピーを本の帯につけるのは、八重の深層が共有できていないのではないかという気が私にはいたします。そこを強調すると、同志社のキリスト教の精神や国際主義の精神と、どういう風に関係するのかうまく理解しにくくなります。国際主義で「ならぬものはならぬ」といってしまえば、異文化との交流は決別してしまうでしょうから。それでも女子大生に「ならぬものはならぬのです」を伝えたいのなら、もう少し深く八重の深層に降りた理解を踏まえなくてはならないのではないだろうかと思います。
八重の撃った弾は誰に当たったのだろうか
2012.12.5
八重に関する本がすでに50冊以上出ています。これらの本で共通しているのは、会津戦争の描かれ方です。八重が女性でありながら、銃を持って男も顔負けの勇敢な立ち振る舞いで会津戦争を戦い抜いたという、武士のような女性の姿です。そして気がつくのは、八重本の多くが、会津鶴が城の攻防戦の八重の姿を、同じような視点から、同じように描いているというところです。なぜそうなるのかというと、八重の語った回想録のようなものがどうしても種本になっていて、そこに想像力をつけて話を膨らませるような書き方になってしまっているからです。もし描き手を従軍記者だと考えると、八重を描くために、常に八重の側にいて、八重の動きにだけスポットライトを当てて描いているようになっているからです。
例えばマンガのイラストを添えた子ども向けに書かれた国松俊英・文、十々夜・絵の『新島八重 会津と京都に咲いた大輪の花』フォア文庫2012.11をみると、その戦いの場面はこういうふうに描かれています。
八重は、銃眼からのぞいて、堀の向こうにいる敵軍の隊長らしい男を指さした。男は背が高く、朱色の鉢巻をしている。指揮する旗を持っていた。「いまから、あの鉢巻の男をねらって撃ちます。見ていて下さい」八重は、胴乱から銃弾を取りだすと、スペンサー銃にこめた。そして前の銃眼に、銃を射し入れてしっかり構えた。大きく息を吸ってから止め、引鉄を引いた。ダーン。朱の鉢巻の男が、一瞬飛びあがりどつとたおれた。銃眼からのぞいていた三人の兵が、おどろきの声を上げた。そして、八重の銃が敵の隊長らしき男を一発でたおした、とまわりにいる者に大声で告げていた。兵たちの態度ががらりと変わった。兵たちはその後は、八重の指揮通りにどんどん動いてくれた。
八重の回想録に想像力を付けるとこういうふうな描写になるのかもしれない。女性のライターである石川麻理子『新島八重 武士の女はまつげを濡らさない』PHP 2012.10は次のように描写しています。
八重は北出丸に駆けつけると、すかさずスペンサー銃を構え狙撃をはじめました。(略)城の造りにも助けられました。敵方には砲弾を遮るものがなく、近づけば撃たれるほかなかったのです。土佐兵の名だたる隊長連が次々と撃ち倒され、ついに板垣退助は後方の薩摩兵に援護を乞うために後退します。(略)八重は大山を重要な指揮官と見て狙いを定めました。薩摩兵がいよいよ砲撃を開始しようとしたまさにその時、八重は引き金を引きました。弾は大山の右大腿部を貫きました。大山はその場にくず折れたかと思うと、数人の兵士に抱き上げられ姿を消しました。とても采配をとることができなかったのです。
こういう描写に史実の裏付けがあるのかどうかわかりません。ただわかるのは、書き手が、スペンサー銃で敵兵を狙い撃ちして倒したという出来事が「武勇伝」のように語られているというところです。もしも、こういう場面の描き方に真実があるのだとしたら、ここで八重はたくさんな「敵兵」を殺したという事になります。射撃の腕前が誰よりも正確だったと書いてある本もあります。「射撃の腕が正確」だということは、狙った敵は必ず殺したということでもあるでしょう。戦争なんだから敵を殺すのは当然であるといえば、当然であるでしょうが、しかしここで「殺す」という言い方をするのはよくないと思われるかも知れません。「敵を倒す」という言い方に書き換えてくださいと言われるかも知れません。というのも、「敵を倒す」ことはしても「敵を殺す」ことはしていなかったかもしれないからです。ここでも八重の行動を描写するのに、まちまちな書き方がされているのがわかります。その描写の二つの典型を先ほど示しました。
けれども八重本が描く鶴が城の描写には、だいたい三つのパターンがあるのがわかります。
① 八重の撃った銃が、「敵を殺した」ことをはっきりと書くもの。(最初の引用の文章)
② 八重の撃った銃は、「敵を傷つけた」ことは書くが、「殺した」という描写は避けるもの。(二つ目の引用の文章)
③ 八重が銃を撃って男勝りに戦ったということを書くが、その「戦った」という中身をあえて具体的には書かないという描き方をするもの。(殺したのか、負傷させただけなのか、ただただ敵兵を驚かせていただけなのか、わからないようにしている)
そういう所は比べて読まれて自分で確かめてみられるといいと思います。ただ私が気になるのは、そうした八重の戦い方とは別に、多くの八重本には、戦った相手の敵兵がどういう存在であったのかへの想像力が少ないのを感じることです。八重の「武勇伝」を肯定しようとすると、相手の「敵」は撃たれて当然のようにどうしてもみなされることが起こります。当時の会津を攻めた「官軍」とよばれた兵士たちにも、遠く九州から派遣された若い兵士たちが多くいたはずで、誰一人好きこのんで、会津で戦おうと思っていたものはいなかったはずです。少年兵もいたと思います。武士の少年たちで結成された白虎隊だけが悲劇の少年兵なのではなく、「西軍」「東軍」それぞれに多くの少年兵が参加させられて、悲劇の死を遂げています。東北の庄内藩では、1121名の兵士の内43名が農民の少年兵士で、最小年は14歳だったと記録されています(千葉徳爾『負けいくさの構造』平凡社1994)。アカデミズムとは縁の無いところで書かれた林洋海『十二歳の戊辰戦争』現代書館2011も、大事なところを問題にしています。
ただ八重の回想の視点でのみ会津戦争、鶴が城の激戦を見てしまうのは公平な歴史の見方とは言えません。それは「武勇伝」にしかすぎなくなります。戦争には戦う者同士の惨劇があり、片方に悲劇があれば、必ず相手方にも悲劇があるわけで、そのどちらにも思いをはせるのが、歴史を後から学ぶものの心得であると思います。片方だけの勇敢さや、悲劇を讃えたりするのは、歴史を「講談」のように見てしまうことになります。戦いの「武勇伝」は、戦いで「人を殺すことをあっぱれと見なすこと」ですから、そこは注意をしなければいけないと思います。特に、なぜ官軍が会津を攻めることになったのか、なぜ会津城下で歴史にまれな非情な戦いが行われたのか、最悪の状況を避ける交渉は本当にできなかったのか、最終的な戦いを誰がどうして決定していったのか・・・最近「歴女」と呼ばれる歴史を学ぶ若い女性が増えていると聞きますが、同女の歴女たちも、そこは冷静かつ公平に歴史を見つめて学んでいって欲しいと思います。
八重のドレスはいくらしたのだろうか?
―八重の金銭感覚について―
2012.12.12
八重について書かれた本の表紙の多くに、八重がドレスを着た写真が使われている。しかし、表紙に使っていても、この写真について、踏み込んで言及している本はまだでていない。踏み込んでと言うのは、当時このドレスの値段は一体いくらしたんだろうというようなことを尋ねてみることである。写真のドレスに近いものを再現する試みはなされているが、その場合でも当時の費用のことに言及されるわけではない。ドレスの再現と、ドレスの値段を問うことは、おのずから関心の向け方が違うからだろう。特に服の値段を聞いたりすることは、今でもはしたないというか、下品だとみなされることが多いので、八重の研究でもそういうことには極力触れたがらないのかも知れない。
八重の研究が、「幕末のジャンヌ・ダルク」や「ハンサム・ウーマン」というような聞こえのいいところで、雰囲気を追うだけのようになってしまいがちな研究から、実証的な八重研究になかなか進めないのは、八重の実態の把握を避けてきているところがあるのではないかと私には思えるところがある。
この洋風のドレスを着た八重の写真を見ただけで、衣服には全く素人の私でも、明治のある時期にこのドレスを買うというのはどういうことなんだろうと思い、また買うとしたら、かなり高かったのではないかと、思ってしまうのである。(この写真は1888年明治21年11月3日、京都市寺町の堀真澄写真館で撮られたとされている)。でも、そういうドレスの値段や、いつどこでこういう服を着たのだろうか、というようなことを、学生に聞かれても、私は答えられない。なぜ答えられないのか、そんなところに関心を持って見るのは失礼だと思っているところがあるからだし、八重の外見に関心を持つのではなく、八重の中身に関心を持つべきだといわれそうだからである。
ところで、明治20年2月に、徳冨蘇峰が『国民之友』で、当時流行りだした「バッスルスタイル」(八重の写真のドレスはまさにこのバッスルスタイルのドレスであった)などの洋風の婦人服に異を唱え、平民的欧化主義を訴え、一般国民の生活から浮き上がった貴族的欧風模倣に非難を加えていた。この明治20年前後の婦人洋装の流行は、それなりにきちんと分析されないといけないのであるが、徳富蘇峰ら平民主義からすると、許せないものがあったに違いない。
この辺のことが知りたくて資料を探していたら家永三郎『増補改訂 日本人の洋服観の変遷』ドメス出版1976があることを知らされた。そこでは当時の新聞が紹介され、洋風の婦人服の値段が書かれていた。貴重な紹介である。そこには「婦人洋服が男子洋服に比べていちじるしく高価であるばかりでなく、当時の国民一般の所得や物価水準に照らしてもきわめて高額である」と指摘されて、次のように具体的に書かれていた。
子供服 金60銭より1円40銭
大人服 金1円50銭より2円50銭
女服縮緬更紗(ちりめんさらさ) 四つ揃金9円50銭
これだけみても、婦人服は普通の大人の服の4倍の値段がし、それが凝ったドレスに仕立てられるためには、いかほどの料金が追加されたのか、想像が出来ないものがある。家永三郎は先ほどの本の中で、ある論者の言葉を引用している。
「論者は「西洋は富裕なり。我国の境遇に比しては天壌の相違なり。日本中等人士にして洋服を夫人に着用せしむる程の富裕のもの幾何あるや」と疑い、また洋服地と付属品輸入のために莫大の輸出をしなければならず、「国家経済の為に計るに、患ふべき事なり」と言っている」
この明治20年頃はまさに「鹿鳴館の時代」なのであろうから、この時代に八重がバッスルドレスを着たという事はわかるし、どんなドレスを着たのかは写真を見て復元することも可能だが、そういう服は「富裕」のものが着たわけであるから、八重でなくても「富裕」の人はこういう服を着ていたということまではわかる。ということは、今のこの現代の時点から、この写真のドレスに注目するという意味は一体どこにあるのかと言うことになるだろう。
一つには、こういう高価な洋風の婦人服がどのように作られていたのか細かく再現してみるという関心の持ち方がある。その場合は、そのドレスが誰が着ていたのかは問わない、という前提である。
次には、そういうドレスを着ることで、ある時代をニーズを生きた女性の姿を考えることである。それは「鹿鳴館の女性」を考えることである。文学の方からは三島由紀夫『鹿鳴館』新潮社1984や磯田光一『鹿鳴館の系譜』文藝春秋1983があるし、八重と鶴が城で籠城した山川さき(当時8歳)が後に留学し大山捨松となる波瀾万丈の女性を描いた久野明子『鹿鳴館の貴婦人』中公文庫1993がある。
そして三つ目は、そのドレスを八重が着ていたものとして考えることである。そうなると、そこに深く関わる「富裕層」の問題を度外視して、「八重のドレス」を語るわけにはゆかなくなる。つまり八重は「富裕層」だったから、あの写真のドレスを作り、着ることができたのかという問題である。そして私はここに来て、本当にそうであったのかとここで問いたいと思っているのである。つまり、当時の八重は「バッスルドレス」を仕立てることが出来るほど「裕福」だったのかという問いかけである。
そのことを問えば、八重の服代がどこから出ていたのかを調べなくてはならなくなる。普通に考えればそれはそれは襄の給料から、ということになるだろう。そうなると当時の襄の給料の中身と突き合わせをしなくてはならなくなる。八重の研究が実証的に行われないのは、実はそういう所を考えることを避けてきているところに原因があるような気がする。私がここでドレスの購入価格のことを問題にするのは、値段が知りたいが為だけではなく、その支払いを一体誰がしたのかということを気にしなくてもいいのかということを問題にしたいがためである。もちろん、その支払いは、夫の新島襄ですよ、という答えになるのであろうが、貴族や華族ではない新島の給料は、普通に考えれば学生の学費からまかなわれているはずだから、八重のドレス代は、学生の学費からまかなわれていることになってくる。(アメリカンボードなどから支援があったにしても、そういう支援をドレス代に当てればそれはおかしな事になるだろう)。もしも、八重のドレスが、高価なものなければそんなドレス代を「問題」にすることなどはないのだが、もしも庶民の給料では支払えないような高額のドレス代だったとしたら、そういうものを購入する八重の暮らしぶりを、もっと具体的、実証的に調べる必要があるのではないか、と私は思わざるをえないのである。そういうことが従来の八重研究に欠けているのではないかと。
なぜ私がそういうことに言及するのかというと、何も八重さんに「文句」をいいたいがためではない。この私の疑問は、八重の生きていた時代から、八重の回りで感じられていた疑問であり、八重を研究するのであれば本当はこういうところはもっときちんと調べなくてはならないのである。その「当時の回りの反応」で有名なのは、徳冨蘆花の書いた『黒い眼と茶色の目』(「豪華日本現代文学全集5 徳冨蘆花集」講談社1969)で次のように描かれている。
「夫人がお洒落で、かわった浴衣ばかり一夏に20枚も作ったの、大きな体にみなぎる血の狂いを抑えかねてのっぺりした養子の前を湯上がりの一糸をかけぬ赤裸で通ったのといようないかがわしい噂は、敬二の耳に入っていた。」
浴衣を一夏に20枚も作るというのは、ただの噂話なのか、本当のことなのか、そんなことはどうでも良いことなのか。徳冨蘆花が、ふだんの暮らしで八重との衝突があったので、わざと話を誇張させて書いているだけなのか・・もちろん真相はわからない。このことを調べるには、どこかに家計簿の記録が残っていて、それが公表されていないだけなのか、調べてみないといけないだろう。そこは実証的な研究がなされていないものだから、確かめようがないのが現状である。
ではなんでそんな、噂のような、確かめられそうにもないような小説の一節を私は引用し、それにこだわるのかのということである。それは八重を悪意を持って見ることになるのではないかと。もちろん、八重の買い物癖が、小説の一節にすぎないことであるのなら、私も無視するのであるが、晩年の茶道へののめり込みの中で、高価な茶器を次々に購入する姿への周りの人の証言を知るにつけて、やはりこの八重の金銭感覚はもっと丁寧に調べた方がよいのではないかと私は思うようになったからである。その晩年の有名な証言は、武間冨貴の懐古で、次のように述べられている。
「おばさまは明治40年ころ、寺町の新島家の土地と家屋とを同志社に全部寄付をなさいましたので、同志社は感謝してそれを頂き、おばさまには金600円を年々差し上げることにされましたが。ところが、おばさまはそれを頂かれるとすぐお茶道具を買ってしまわれたので、お小遣いには相変わらず不自由をしておられたらしく、父(大沢徳太郎)によくねだりに来ておられました」。
当時の600円がどのようなもので、当時の一般的な人の生活水準がどのようなものであったのかは、これまた実証的に調べてみないとわからないのがだ、八重はこのお金を茶道具の購入に充てて、不自由をしていたというのである。
私は本当に八重のことを知りたいと思うなら、襄と暮らしていたときの家計簿、襄の亡き後の八重の家計簿がもっと明らかにならないのいけないのではないかと思っている。けれども、はじめにも述べたように、そういう所に関心を持つのは、下品で、なおかつ大河ドラマの八重の桜のイメージに真っ向から逆らうような感じで受け止められそうに感じて、そんなことは言わない方が良いのかも知れないと思っていた。
ところが調べものをしているうちに、女子大に中ですでに「家計簿」のことに言及されているすぐれた先行研究のあることに、はじめて気がついたのである。そして、こんな研究がづっと前にあったんだとうれしくなった。それは坂本清音「新島襄の人となりー八重書簡を通してみた」『新島全集を読む』晃洋書房2002である。この論文は、八重の研究としても優れた研究で、今のNHKの流れに迎合するような柔な研究にはない硬派のものであって、ぜひ一読されることをお勧めします。
その中で坂本先生は、襄が「武士の心ばかりにては足らず、真の信者の心をもって共に日々歩み・・」と八重に書簡を送っていたこと紹介されていた。八重は「家計」にあまり関わることがなく「武士の心」で豪快に欲しいものを買うことが出来ていて、その金銭感覚には、襄も自分の死後のことが気になっていたのではないか。そんなことを考えさせることが、坂本論文に書かれている。とくに襄が一人で金銭の出入簿を記帳していたのではないかという可能性にも触れ、そういうことを、もし一人でしていたとしたらその労力は大変なものであったはずだと書かれていた。そこのところは、本当に共感する。
すでに10年も前に、襄と八重の関係を「家計簿」の視点から考察されていた先生がおられたことを知って、改めて八重のドレスの値段のことを問うのは、おかしなことではないのではないかという思いがしている。
「ならぬことはならぬ」という 二重の否定を越えてゆくために
2012.12.15
会津藩の武士の子どもへの教え「什(じゅう)の掟」の最後に「ならぬものはならぬものです」がある。この「什の掟」が、どこかの現代の小学校にも掲げてあるらしい。それというのも、この「什の掟」は次のようになっていて、五つ目が「いじめ」をなくす現代の運動に関係すると思われているからだという。
一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三つ、虚言を言うことはなりませぬ。
四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。
六つ、戸外でものを食べてはなりませぬ。
七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬものはならぬものです
ベストセラーになった藤原正彦『国家の品格』新潮社2005にも引用され、持ち上げられているのだが、彼はその理由を次のように書いていた。
「武士道精神に深く帰依(きえ)している私には非常に納得できるものです。七つ目を除いて。(略)要するにこれは<問答無用><いけないことはいけない>と言っている。これが最も重要です。すべてを論理で説明しようとすることはできない。だからこそ、<ならぬものはならぬ>と、価値観を押しつけたのです。本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。」
引用するのも恥ずかしいが、そういうことを藤原は言っている。確信的に、大まじめに言っているので、議論の余地のない語りになっているのだが、それは、藤原の言い分のなかに自分も「武士道精神に深く帰依している」からわかる、という一行によく現れている。確かにそうなのである。この「什の掟」は、「武士の教え」なのである。そのことを踏まえている藤原は、それはそれで確信的な肯定ををするのは当然なのであろう。しかし、どこかの小学校がいじめの対策に、と思ってこの「什の掟」を教室に貼り付けたりしているのだとしたら、そこは大事なところを間違えていると私は思う。
「武士道」については、もちろん新渡戸稲造『武士道』も踏まえて好意的に考察されていいと思う。ただここでは「武士道」と呼ばれてきた精神的な「道」のことではなく、実体としての徳川時代の士農工商に分けられた「身分制度としての武士」のことを念頭において私は考える。こうした不平等な身分制度の中の「武士」という階層の中だけで通用するのが「什の掟」だからである。それを勘違いして、現代の小学校で、「みんな=万民」に通用するかのような「掟」のように「什の掟」を受け止めると、歴史を間違って理解してしまうことになる。ここでの「什」とは、中国で生まれた「10人」ほどを束に「掟」を守らせる共同責任、団体行動の考え方から来ている。『広辞苑』にも「什」は「軍隊で十人一組の編成単位。隣組編成の単位である十家」と説明されている。「什の掟」という字の形も、人に十がくっついた文字形になっている。こうした10人単位で守り会う「掟」は、グループの結束をはかり、そこから抜けることも許されない強い拘束力を発揮することになる。
会津藩の示したこの「什の掟」が、もし「子どもみんな」に通用するものだとしたら、この「五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。」の「弱いもの」というのは、どう受け止めることになるだろうか。身分制度的には最も「弱いもの」は「百姓」である。あるいは「百姓」以下に定められている人びとである。そういう「弱いもの」を本当に「いじめ」てはいけないのだとしたら、そもそも徳川の幕藩体制を支える「士農工商」の身分制度そのもの否定してゆくように思考回路を作らなければならないはずである。しかし、身分制度的に「弱いもの」を肯定しておきながら、「弱いものをいじめてはなりませぬ」というとしたら、おかしなことになってくる。「弱いもの」を作ること自体が「弱いものいじめ」になっているはずなのに、その制度そのものは温存させて「弱いものいじめ」をするなという。ここには「みんな」のことを考えての「弱いもの対策」ではなく、「武士」という特権階級だけで通用する「強いものー弱いもの」の違いを問題にする発想があるだけなのである。
新島襄が徳川幕府から脱出してゆくのは、こうした「武士」という身分制度の存在する社会からの脱出であり、その結果、武士の魂となる「刀」を途中で売るのである。新島襄の方向は、そういう意味で身分社会の否定であり、それは会津藩の求めるような「什の掟」の否定であったはずである。あるいは、本当に「弱いものをいじめてはなりませぬ」を貫くと、こうした身分社会そのものを否定する方向に向かわざるを得なくなるのである。ところが、今回、こんな「武士の掟」が、女子大のお薦めの冊子に堂々と刷られて配付されているのをみると、新島襄の方向と、この「武士の掟」との兼ね合いはどうなっているのだろうと思わないわけにはゆかない。
もちろん、そんなに目くじらを立てることもないのではないか、と言われるかもしれない。「ならぬことはならぬのです」を何も「武士の掟」などと堅苦しくとらえなくても良いではないか。軽く、一般的に、好意的に受け止めても、差し支えないのではないか、と。藤原正彦のように、子どもは理屈では分からないときがあるのだから、無理やりに「掟」を守らせるときがあっていいのだという考えにも、一理あるのではないか、と。
もし百歩譲って、そういうことも考え得るとして、では19歳も20歳にもなった女子大生に、「ならぬことはならぬのです」というのはいったいどういう理由によることになるのだろうか。考えられることは、藤原のように、女子大生も理屈の分からない子どもなんだから、むりやりにでもいいから、「ならぬことはならぬのです」ということを教えるべきだと考えることである。しかし、いい年をした女子大生に「ならぬことはならぬのです」という家父長的な決め事を押しつけるようなキャッチフレーズを、どうしてお薦めすることが出来るだろうか。むしろ、女子大では、世界の女性たちが、この「ならぬことはならぬ」の論理の元にいかに拘束され、女性自身の地位や発言権を奪われてきたか、それを学んできたはずではなかったのか。そんな女子大で、またもやこういう「ならぬことはならぬ」を掲げて、女子大生にどういう説明をしようというのだろうか。
ここで少し「ならぬことはならぬ」の論理を見ておくことにする。まず、「ならぬことはならぬ」の言い回しの最初の「ならぬ」について。当然ながら、ここにはまず何かについて「ならぬ」という禁止や否定の判断をする者がいる。その最初の禁止や否定の判断を受けて、それをそのまま追従して、さらに「ならぬ」と否定の判断を肯定するのが、「ならぬものはならぬのです」という二重の否定の判断をするものである。問題は、だから最初の否定判断の中身による。この最初の否定判断が正しい判断であれば、続けて追認するものの否定判断も正しいものになるであろう。しかし、最初の否定判断が間違っておれば、それを追従し、追認する否定判断は間違ったものになる。当然のことであるが。
そうなると、どういうことを考えないといけないことになるのかということになる。それは間違った先行者の判断に、いかにしたら間違って追従、追認しないでもすむのか、という思考法を立てることである。その思考法は、「ならぬ」の後にただちに「ならぬ」を持ち出すような思考をするのではなく、「ならぬ」のあとに、なぜそれが「ならぬ」なのか、その理由を尋ねる思考法を学ぶことである。つまり、「ならぬことはならぬ」のではなく、「ならぬことーは本当にならぬことなのか、本当にならぬことならー私もならぬを認める」という「否定ー見直しー再認」の過程にならないといけないのではないか。私はそう考える。しかしそこで「ならぬものはならぬ」といってしまうと、途中の「見直し」の過程が飛んでしまい、最初の「否定」の判断を、間違っていようがそのまま「容認」することになる。そういう思考法を取りなさいと女子大は学生に決して教えているわけではない。
結局こうした「ならぬことはならぬ」という盲従の思考法が、会津戦争の城下町で、歴史上まれな、自分の家族を殺す集団自決という惨劇を生むことになる。そういう判断をするに至る過程に、この「見直し」を許さない「ならぬものはならぬ」の「武士の掟」があり、そういう思考法を女子大が「盲従」しているかのような誤解を与えるあの冊子の帯は、早めに改めて頂きたいと私は思う。
なお、この会津固有の「ならぬことはならぬ」に思考法を、会津から乗り越えていった人たちはいないのかどうかが、これからの女子大生の勉強のしどころである。そういう人は何人もいたのである。その一人に八重の兄、山本覚馬がいた。この巨大な交渉人については、女子大はもっと学習し、その思考する交渉力のスケールの大きさについてはもっと深く共有しなければならないであろう。彼がいなければ、その後の新島襄はあり得なかったはずし、その妻・八重もあり得なかったはずだからである。