上野瞭先生とむすんでひらく小文集

上野瞭先生とむすんでひらく小文集 (2011.6.1)

目次
追悼文
1 もう「イーヨー」 ―上野先生の最後のご様子について
2 上野瞭先生を偲んで
3 ああ仰げばわびし天主閣

作品論
1 さらば、おやじどの』について ー「過去を引き継ぐ」という作業
  1 過去が在るということ
  2 「誰の物語」も、「他の人の物語を含んで成り立つている」
2 老いとあいさつと性 ―『眠れる美女』と『三軒目のドラキュラ』についての覚書」
  はじめに
  1 『三軒目のドラキュラ』 ー岡崎部長の物語ー
  2 『三軒目のドラキュラ』 ー吉元孝治郎の物語ー
  3 良寛だって若い娘に恋心を抱いたじゃないか
  4 川端康成『眠れる美女』
  5 「インフォーム・ド・コンセント」の地平
  6 言い残したこと
3 短編集『グフグフグフフ』小論
  1 『つまり、そういうこと』
  2 『グフグフグフフ』
  3 『ぼくらのラブ・コール』                      4 『きみ知るやクサヤノヒモノ』
4 ひげのはえた天使が見えました、か ー『もしもしこちらメガネ病院』を読んで 
  1 「ナンセンス」と「ユーモア」と
  2 「間違うこと」を「おもしろがる」話
  3 上野瞭にしか書けない「ナンセンス」を求めて
5 『クマのプーさん』異論
  1 ミルンの風刺精神
  2 「生き物のクマ」と「ぬいぐるみのくま」の間で
  3 「ぬいぐるみ」に気がついている「イーヨー」

批評の批評
1 映画『ゴジラ』と映画『ビルマの竪琴』の共通性について
  1 『ゴジラ』と『ビルマの竪琴』は似ている?
  2 何か意図があったに違いない
  3 「爆発物」と「地下資源」の構図
  4 「ゴジラ」はなぜ「破壊」し続けるのか
  5 「ゴジラ」がやってくるわけ
2 『ビルマの竪琴』の論じられ方の奇妙さについて
  1 『ビルマの竪琴』(新潮文庫)の要約
  2 上野瞭さんによる『ビルマの竪琴』の批評
  3 村瀬学は『ビルマの竪琴』をどうみるのか
3 再び『ビルマの竪琴』の論じられ方について
  1 上野先生の言われていることが正しいと思うわ
  2 小説は「事実」を描いているのか
  3 上野瞭『ちょんまげ手まり歌』のこと
4 『ビルマの竪琴』を巡る論争の全体像
5 「残酷」な物語にこだわる視点
  1 上野瞭さんの「境界の文学」(みすず2001.4』)と『バトル.ロワイヤル』
  2 『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(長谷川潮 梨の木舎2000.9)への疑問点
6 新しい時代の「わい談」を求めて ー男「アマノウズメ」はどこへゆくー

あとがき集
 1 『猫の老眼鏡』あとがき
 2 『晩年学通信最後の日記抄・闘病記』あとがき1
 3 『上野瞭遺稿集「晩年学」事始めの頃』あとがき
 4 童話集『蟻』のあとがき

あとがき

 

 

もう「イーヨー」
ー上野先生の最後のご様子についてー
村瀬 学


 上野先生の最後のご様子について、上野ゼミのみなさんにお伝えしておかなくてはならないことがあるのではないかと思いつつ、何をどうお伝えしたらいいのか、わたしもうまくわからないのです。でも、そんなことを言っていてもはじまらないので、少しだけ書いてみます。
 『生活科学学会誌』にも「追悼文」を書いて、その中でも書きましたから見ていただけたらいいと思いますが、わたしが、最後に葬儀委員長のような大役を仰せつかりましたのは、それはわたしが他の誰かより、先生ととっても親しくさせていただいたからではありません。二人でどこかで一杯飲んだということもありませんし、そういうふうに親しくされていた方々は他におられたのではないでしょうか。ただ、わたしは、晩年学フォーラムを足かけ8年間ご一緒させていただいたので、そういうお役目が回ってきたんだと思っています。
 事実、わたしと先生とは、メールでやりとりしたことがありません。フォーラムを発足させられたもう一人の片山先生とはしょっちゅうメールでやりとりするのに、なぜか上野先生とはファックスでのやりとりばかりでした。一度、ワープロで打って、それをプリントして、そこに猫のイラストを入れて、それを送るというめんどくさいことを先生はいつもされていました。ですから、わたしも、同様にファックスでお返しするというありさまでした。これなら電話で喋った方が早いのにと思うこともしばしばでしたけれど。
 でも、そういう「距離感」が、わたしと先生との公認の「距離感」になっていましたし、そういう「距離感」の中でいつも先生の存在を感じてきたようにわたしは思っています。ところが、そういう「距離感」が破れる日がやってきました。先生からメールが来てしまったのです。2002.1.14(月)のことでした。

 突然のメールでごめん。あれこれ考えたのだけれど
 きみにお頼みするしかないな・・・ということが一つ あるんです。
 もうすぐ家の中も歩けなくなると思う。
 毎日が「危ういな」という感じ。
 一度、時間を作って家に寄ってくれませんか。
 メールで都合を知らせてくれてもいいし、ファックスでも構いません。
 電話は、すぐに取れないかもしれない。
 きみの講義が無くて、会議が無くて、午後で、一度学校へ戻れる日がいいのですが・・・。
 先日、妹が寄ってくれて「葬儀」のこと、「事後処理」のことは話し合いました。
 今日は近くの「仏具屋」で仏壇を見てきました。
 もう「こっち側」に残れる時間は少ないのだと思います。 よろしく・・・。
                              上野瞭

 心臓がドキドキするようなことというのは、こういうことなんですね。何か開けてはいけない扉が開けられてしまったような、ヒヤーっとするような感触が走りました。
 次の日にさっそくお伺いしました。酸素吸入のチューブを鼻に入れられていて、息苦しそうでしたが、こんなものを引きずって歩いてるんやでと、口はあいかわらず悪く、お元気そうなご様子でした。いくつか頼まれ事があって、それはさせていただきますとわたしはお返事しました。
 そして1月21日(月)、次のメールがきました。

 ボクは二階の奥で寝ています。昨日から「寝たきり」の状態。
 起きたい・・・そう思うが両足ともダメなんです。
 今日は一種の昏睡でした。今、やっと芋虫のように体を転がして
 衣服を着ました。這うようにしてコンピュータの前に来ました。
 ベルが鳴ったのでカミサンが見に出た時はもう姿が見えなかった
 と言っていました。カミサンはちょっと耳も遠いのです。
 昨日、そこでカミサンは携帯電話を二つ買ってきました。
 同じ屋根の下でボクは隣の部屋のカミサンに寝ながら用事を
 頼むわけです。もうそれしかない・・・そう思いました。
 こういうこと、片山(先生)だけには打っておきたいのですが、
 そのエネルーギーがありません。御伝達ください。容態の悪化は
 日々急激です。チューブをくわえて降りられなくなりました。
 念のため、出来れば一度、ケータイを入れるつもりです。
 これがボクです。(番号)
 これがカミサンです。(番号)
 もう原稿を書くどころではないので、テープ・レコーダーを
 買ってきてもらい、それに「わが遭難記」でも吹き込もうかと
 考えています。
 ああ、シンド。
 もうメールはしないでしょう。
 では、よろしく・・・。
                         上野瞭

 わたしが先生からいただいた、たった二つのメール。それが最後の二つのメールになりました。後から奥様から聞いた話によると、初めて買ったケータイがめずらしかったのか、夜11時くらいに「ムラセ君、起きとるやろか」といってケータイを使いたがっておられたらしいのですが、「こんな夜遅くに迷惑でしょ」とわたしは止めたんですよと奥様が言っておられました。
 このメールをもらった日、わたしも上さんに頼んでケータイを二つペアで買ってきてもらいました。先生と緊急連絡をとるためでした。そして上さんにケータイの手ほどきを受けました。まず、上さんに電話をかけました。「へたくそね、こうするのよ」と叱られながら。きっと先生もそうだったんでしょう。おっさん同士の、まったくはじめてのケータイ体験。
 1月24日、ケータイで先生に電話をかける。朝、先生は何とかして2階から下に降りて、お風呂に入り、往診の点滴を受けられたとのこと。夜に伺っても良いですかと聞くと、ぜひ来て欲しいとのこと。7時前、伺う。
 書斎に置かれた介護用のベッドの中で、先生はだいぶやつれておられたましたが、点滴のせいか、元気そうにも見えました。それから、先生の携帯にわたしの電話番号を打ち込みました。起きあがるとシーツのシミが気になって、奥さんを呼んで拭かせようとされます。これはでもずっと以前のシミなんですよと奥さんの説明。そやけど、こんなシミを人に見られたくない。今日まで、2階でうんことおしっこにまみれていた。でも、他人には介助されたくない。とおっしゃる。
 ご自分は呼吸するのもしんどいのに、コーヒーを飲めとか細かい配慮をされる先生。
 葬儀用の写真をあずかる。
 先生の机の上をかたづけながら、不用なものを聞く。トロッキーの『ロシア革命史』の文庫はそのままでええわと言われた。これを全部読めなかったのが残念だと言われた。「それじゃ、お元気になられて読めるときのために、そのままここへ置いておきましょうか」というと、「そうしてくれるか」と言われた。
 1月25日(金)。一緒に診察の福山先生の話を聞いて欲しいと言われてお伺いする。奥様も寝ないでの看病が続いていて、ダウン。お二人で、並んで点滴をされていた。
 1月26日(土)。4時すぎにおじゃまする。昨日と違ってずいぶんとしんどそうなご様子。夕べは先生が痛がって、二人ともほとんど寝ていないとのこと。酸素量が80に下がる。点滴で90ほどに上がるが、昨日の元気はない。痛い痛いと大声で奥様を呼ばれ、50ミリの大きい座薬を入れてもらう。「胸が痛くてたまらない。この痛みは誰もわかってもらえんやろな」とうらめしそうにいわれる。枕元に山口百恵のいい日旅立ちのCD。この曲を聴いているとのこと。「悲しくてとてもやりきれない」っていう歌があるやろと言われる。あの心境やとも言われる。
 呼吸が苦しいので、起こして欲しいといわれ、抱きあげて、それから近くのソファーに座らせてあげる。「他人の介助を受けるのは、あんたがはじめてやな」と苦笑いされる。「足の甲羅をあんたの足で踏んでくれ」といわれる。足がぱんぱんに腫れていて感覚がなさそう。わたしのおばが癌で亡くなった時に、幹部を手でさすってほしいと言われていたので、先生の膝に手を当てながら話する。「話をしていると気がまぎれていい」といわれる。「でも、ゲーテとエッカーマンのようにはいかんな」と笑われる。「もう書くのを捨てた人間やから、終わりやな」とも言われた。
 それから、しばらくして、「福山先生はあと4・5日と言われるそうやが、ぼくには自分の死期が近いことがはっきりわかる。あと1日かもしれん」と急にいわれた。「それは、ないでしょう、点滴されると、こんなにお元気なんですから」と一蹴する。昨日の様子ではまったくそういう感じだったのだから、それは正直な感想だった。それから、「もう誰にも会いたくないので、来てもらわないようにしてくれるか」といわれた。「では、そうしますから」と返事する。
 「疲れたので、ベットに寝かせてくれ」と言われる。布団の中の足をさすり続ける。しばらくして「つかれたやろ、おれは気持ちええけど、もうええで、あんたのいのちのいぶきを十分感じさせてもらったわ。もう十分や。」と言われたので、手を離す。
 6時過ぎ、だいぶ疲れておられる様子なので、帰りますと告げる。そして、はじめて先生と握手をした。ほんとに先生とのはじめての握手だった。先生は握り返された。「明日はヒロスケさん(息子さん)が帰って来られるし、その時4人でまた話しましょう」とわたしが言うと、先生は淋しそうに笑われた。それからわたしは立ってふすまの所で振り返って先生に手を振った。先生も静かに少しだけ右手を挙げられた。それが最後の別れになりました。
 1月27日(月)
 AM1時すぎ、奥様んから電話。様態が悪くなりましたとのこと。すぐに車で家を出る。でも先生は、その電話のすぐ後の、1時10分頃に亡くなられたらしい。
 わたしは、人気のない、車も全然走っていない真夜中の高速を走っていました。不思議な宙に浮いたような感じでした。カセットをかけると、「精霊流し」「無縁坂」「神田川」「若者たち」などが流れてきた。学生時代に好きだった歌だ。奇妙な気分におちいる。あの若い頃の、大学のキャンパスでの希望や不安が車の中でよみがってきて、そういう時代から、自分がとっても遠くまで来てしまったことをあらためて感じさせられる。そして今、そういう若い時代を懐かしむこともなくなるときの来ることを思うに至って、車の中でとっても不思議な感じになる。
 2時20分頃先生のお宅につく。亡くなられてすぐに主治医の福山先生が来て病死の診断をされていた。わたしはそれから葬儀屋さんに電話をした。すぐに来られた。祭壇の設定とアルコールで先生の身体を拭いてもらい、身の清めをしてもらった。朝の4時30分頃、暗がりの中、上野先生のお宅を出て、また家に向かった。

 以上が、わたしの記録している最後の先生のご様子です。これは、わたしの個人的な記録ですが、上野ゼミのみなさんには、誤解無く伝わるような気がしていますので、そのまま、ありのままお伝えさせていただきます。個人の記録を公表するのはよくないのでしょうが、前回の猫耳通信で、上野先生の日記文学の側面について書いていましたように、記録の公表には、先生は独自の見識をお持ちだったので、きっと今回の今回の公表でもお叱りはならないと思っています。
 日本の文学は「墓参り」からはじまる、と粋なことを誰かが言ったと記憶しています。夏目漱石の『こころ』も、「私」が「先生」の「墓参り」からはじまる作品でした。「先生」の抱えていた「過去の謎」をめぐって作品が展開します。『こころ』は、「先生」が奥さんと結婚するまでに、親友を裏切り、その友人を自殺に追い込んでしまったという話であり、その「罪の意識」を背負う先生の姿を「私」が追うという話でもありました。
 人間の抱える罪深さのようなものと向き合うということ、おそらく上野先生の人柄の特長も、そういう人間の弱点をいつも見つめておられたところにあったように思われます。先生に触れて何かを感じてこられた人はきっと、自分の中にそういう似たような弱点をもっていた人たちではなかったかと私は思います。そういう弱点をわたしは「闇」と呼ぼうとしてきたのですが、それは「光を見るためには闇がいる」という意味での「闇」だったんだと思います。
 先生は「弱点」につぶれそうになりながら、「死にそうや」を連発しながら、ある意味ではそういう「生」から早く解放されたいと思われていた面もあるかもしれません。「もう、いいかい?」と先生は何度も「闇」に向かってたずねられてきたんでしょう。「まあだだよ」と何度も何度も断られ、そしていまようやく「もう「イーヨー」」と言ってもらえたのかも知れません。そう考えることはいけないことかも知れませんが。
 先生、どうぞお元気で!




上野瞭先生を偲んで


 2002年1月27日、上野瞭先生が永眠されました。胆管癌から肝臓癌への転移によるものが原因でした。ご自分の死期の近づいていることは、半年ぐらい前から先生は感じておられました。昨年の秋には、当面の目標は12月はじめに催される今江祥智さんの出版パーティに出席することだと言われていましたが、それがクリアされたので、次は12月末の晩年学フォーラム主催の恒例のクリスマス会に参加することだと言われていました。それも無事に終わった後の年末から、先生の病状は急速に悪化してゆき、自力で呼吸ができなくなって、酸素吸入器を自宅に持ち込んでの療養をされていましたが、その後1ケ月であっという間に逝ってしまわれました。
 私は今、2月3日にこの追悼文を書いています。亡くなられてまだ1週間もたっておりませんが、この学会誌の締め切りのつごうで書かなくてはなりません。先生と長く大学でお仕事をなさってこられた先生がたくさんおられますから、私のようなものがこのような追悼文を書かせていただきますのは不適当なのですが、ただ、私が先生の「晩年」に「晩年学フォーラム」を毎月一回ご一緒にさせていただいてたという経過がありましたから、あえてお引き受けさせていただきました。ですから、先生の半生や業績のことを、今この時点で書く余裕も資格も私にはありませんが、ただ「晩年学」の中のお姿については、ここで少しはここで触れることができるかと思います。
 「晩年学フォーラム」という会については、先生は大学を定年退職される(1995年3月)少し前から構想を練っておられて、その趣旨は「趣意書」(1994年秋)の形で公表されていました。その書き出しはこういうふうになっていました。

 人は生まれると同時に「死」を背負っている。(略)「死」に近い人生の一時期を「晩年」と呼ぶならば、人は年齢に関係なく(また、それを知ることなく)「晩年」と隣り合わせに生きていることになる。このフォーラムは、ひとまず「老年」と呼ばれる立場に達した有志が「呼びかけ人」になっているが、目ざすところは、世代、年齢、性別に関係なく「晩年とは何か」を考え合おうとする場である。

 こうして、このフォーラムははじまり、まったく草の根の市民の会として足かけ8年続いてきました。毎月一回この会を運営することは、端で見られるほど楽なものではありませんでしたが、でも、先生はこの会の維持にとても執念をもち続けられました。アカデミズムな見返りなどなにもない会で、ただ普通の市民の方が集まられ、先生に声を掛けられた方が話題提供され、それで話し合うだけの場作りでしたが、そういう会の運営こそが、先生のある種の深い「思い入れ」に基づいていたように思われます。
 その「思い入れ」は、こういうところに見え隠れしていたと思います。先生が亡くなられる数日前、もう一人で起きあがることもできなくなっておられた先生が、机の上の本の整理を指示されていた際、そこへ残しておいて欲しいと頼まれたのは、トロツキーの『ロシア革命史』の文庫本だけでした。全5冊ある分厚い文庫本をベットから見られて、これを全部読めなかったのが残念だと言われていました。
 いつぞやフォーラムの帰り道で「いま、アフリカ史を読んでいるんや」と言われたこともありました。たぶん『新書アフリカ史』講談社現代新書のことだったかもしれませんが、これも新書の中では最も分厚い本でした。
 晩年学フォーラムにしろ、ロシア革命史にしろ、アフリカ史にしろ、似ているのは、草のように生きる人々の蔭の姿を見つめるという思いだったように思われます。これも、退職されて何年かして言われたことですが、「あんたは、大学で非常勤の先生がどんな待遇で働かされているか考えたことがあるか。大学にいるときにその改善の運動ができなかったことをオレは後悔してるんや」。
 自分だけがいい目をしない、これは先生のデビュー作『ちょんまげ手まり歌』からのテーマでもありました。一国社会主義のような国の悲劇を児童文学の中で描いて、そのあまりの残酷な描写に物議をかもしだしたこの作品は、まさに「一国」や「ひとり」だけで「幸せ」を独占することの非情さを訴えるものでもありました。その思いはその後も先生の姿勢にずっと漂っていたように思われます。
 亡くなられる前日、呼吸困難の痛みに耐えながら「フォークルの『悲しくてやりきれない』という歌、知ってるか、あの気分や」と言われていましたが、でも枕元で聞いておられたのは山口百恵さんの『いい日旅立ち』でした。

 胸にしみる空の輝き、今日も遠くながめ、涙をながす
 悲しくて 悲しくて とてもやりきれない 
 このやるせないもやもやを だれかに告げようか
               『悲しくてやりきれない』

 雪解けまじかの北の空に向かい 過ぎ去りし日々の夢を叫ぶとき
 帰らぬ人たち あつい胸をよぎる せめて今日から一人きり旅に出る
 ああ 日本のどこかにわたしを待っている人がいる
               『いい日旅立ち』

 どちらが、というより、二つとも、先生らしいお別れの歌だったと思います。
「曲がり角を曲がる」としきりに言われていた先生に、今はもう遠くから、どうぞ、お元気で、と言うしかないじゃないですか。

2002.2.3
同志社女子大学  村瀬 学

『生活科学学会』号 2002.3

 

 

ああ 仰げばわびし天主閣
村瀬 学


 何をどういう風に書けばいいのか、まったくわからない。お通夜や告別式がすんで、今日(3月10日)四十九日の法事がすみました。でも、どういうことを書けばいいのかよくわからない。大学の学会誌に「追悼文」も書いたし、新聞社にインタビューも受けた。つまり上野先生が亡くなられたという事実についてなにがしかを、半強制的に書いたり、喋ったりさせられてきたのだが、だからといって、私の中に先生が亡くなられたという感じがまるでない。これはほんとに困ったことだ。今も、先生が亡くなられたことを前提で何かを書こうとしているのに、その実感がないから、書くことができない。締め切りが過ぎて、きっと片山先生はイライラされながら待っておられるのが目に見えているのに、書くことができないでいる。
 一つだけ理由らしきものがわかりそうな気がしている。それは、先生の亡くなられる数日前に、見せていただいた『父と母のいる風景』という写真入りの小冊子を読んだからかも知れない。その冊子は、先生のお父さんが亡くなられたときに、香典を全部つぎ込んで作られたらしい冊子で、父の生涯をたどった、それは実に何とも言えない「壮絶な記録」だった。1970年8月発行とあるから、先生が42歳のときだ。
 なぜ、香典をつぎこんでまで、そんな冊子を作ろうとされたのか、プライバシーに触れるようなことは紹介できないが、その「壮絶な記録」の中味は、まさに「上野瞭」という表現者の核心を作ったものであることはよくわかった。わたしは言葉を失った。
 先生を理解する上で不可欠だと思われる、そのほんの少しだけの紹介をここでお許し願いたい。先生は真ん中あたりでこんなふうなことを書かれていた。

  父に愛する人ができた。父の愛を受け入れる若い娘がいた。この事実は、黙許できる話ではない。戦前、そうしたことがあったかどうか、それは.不明であるが、たぶん、これほどのことはなかっただろう。いつから、いつまで、どんなふうに・・・ということは、当事者だけにしか解らないことだろう。しかし、この小冊子の裏表紙に転載した、父の手帖の一頁は、そのおおよその期間を推測させるだろう。人は、人を愛するものである。愛さずにはおれないものである。それが、だれか別の人間を傷つけ、叩きのめし、アルコール中毒にかりたてるとしても。
  父の場合、その「だれか」とは、母であった。母であり、わたしたち子どもだった。これは、父を責めているのではない。父のかなしさと、やりきれなさ、人間として切なさを語っているのである。
  父は、遅く帰宅し、ほとんど口をきかなくなった。ほんのわずかな二言で、食卓をひっくりかえし、怒鳴りつけ、ごろりと眠るようになった。母の世帯のやりくりがまずいといって、来る日も来る日も、母を責めた。限られた給料で、子ども六人を学校へやり、三度の飯を食わすことは、母でなくても容易ではなかった。父は、それを知っていた。知っていたからこそ、他人と共同で商売もはじめた。しかし、知っていることは、いつの場合でも、人間を救わない。母は、ひそかに知人に金を借りはじめた。知人でだめだとなると、高利貸の金も借りた。はじめは、家計を支えるための借金が、後には、借金を返すための借金になり、その苦しさを忘れるための酒の代金となった。いや、借金の返済のために、金を借りるのか、酒を呑むために金を都合するのか、母自身、解らなくなった。父の恋人のことは、はじめ疑惑の段階から、確認の段階にいたり、そのかなしさが、母を惑乱させた。
(略)
  家は、めちゃくちゃだった。子どもは、理解する人のないまま、飢えていた。長男のわたしが家をとびだし、長女が駆け落ちし、次男が出奔した。これまた、一行ですむ語ではない。屈折しきった子どもは、それでも母とやりきれなさをわかちあうべくだったか。「もちろん・・・」という人は、たぶん幸せな人なのだろう。幸せな人は、不幸せをさえ、幸せな目で眺める。
(略)
  その人は、父から、どのようにして、離れていったのだろう。どうしているのだろう。知りたくもあり、知らない方がいいようにも思う。もし、この人間関係に被害者というものがあるなら、その人も、父も、母ほどではないにしても、被害者のように思える。加害者のない犯罪はない。その意味では、父が、それに該当するだろう。しかし、わたしは、被害者・加害者と人間を規定するつもりはない。まして、父を批難するつもりはない。父を許すとか許さないとかいう前に、一人の人間をそこにみるからである。

 これはプライバシーにかかわることではないかと、気にされる方がおられたら、実はここに書かれていることは、すでに『晴れ、ときどき苦もあり』PHP研究所1992の中の「おふくろの人生」の見出し(p137)で紹介されていることをお知らせしておきます。わたしにわかることは、この家族体験が、くりかえし先生の思考の中で反復されてきているということです。そして作品になぜ『さらば、おやじどの』のように「父と子」のテーマがくりかえし出てくるのかも、こういう体験と無縁ではないことが見えてくる。まるで『カラマーゾフの兄弟』の中の父と子の葛藤みたいに。
 そして先生の「記録」の最後はこういう文章で締めくくられていた。

  父が死んで半月すぎた。この間、父のことで走りまわった。事実だけを・・・と考えて、ぼつぼつ、この小文を書いていった。なんとたくさんのエピソードを切りすてたことだろう。事実の記載どころか、感惰の記載に終ったようにも思う。しかし、これはこれでいい。父も母も死んだ。わたしたちも、この死だけはまぬがれることはできない。人の死の後には、怨みとつらみが、積み重なっている。人は、迷い、怨念を引きづって生きる。母の五十二年の生涯。父の六十六年の生涯。それは共に、怨み多いものだった。安らかに眠ってください・・・など、そらぞらしいことばは記したくはない。美しいことばを並べる人は、勝手に並べるがいい。わたしたちは、悲しく、苦しく、やりきれなく生きた父と母を、そのまま人間であったと語るだけである。父も母も人間であった。それ以上でも、それ以下でもなかった。その迷いを、いつくしみたい。そのやりきれなさを、いつくしみたい。(上野瞭)

 なんという切ない締めくくりの文章であろうか。そんな文章を、先生の亡くなられる数日前に読むことになってしまった者の身になってもらいたいものだ。あと、何を書くことがあるだろう。
 わたしのわかったことは、こういう忌まわしい体験を先生が忘れまいとされていたことであった。忌まわしいけれど、そこに人間の何か大事なものがあったんだと感じてこられたということだった。そしてそういう先生の感性に触れることができた人が、先生に不思議な魅力を感じ続けてきたのではないかとわたしは今思っている。
 おそらく晩年学フォーラムを立ち上げようとされた動機の一つがこういう体験にあったであろうことは今になって少しは想像することができる。というのも、先生はフォーラムで語る人を選ぶときに、必ず厳しい家族体験を経てきた人を選んで来られたからである。そういう「不遇を抱える人」の匂いを嗅ぐ嗅覚の鋭さは、抜群であった。また、そういう体験を原稿にして書くように勧めることのうまさにかけても、ピカ一だった。そして事実、このフォーラム通信から、優れたエッセイがたくさん生まれてきた。今それらのエッセイは少しずつ本になりつつある。
 その通信の最も初期に連載されて、多くの読者をびっくりさせ、同時に深い共感を呼び起こしていた味わい深い玄善允さんのエッセイが、今年1月に『「在日」の言葉』同時代社2000円 として発売された。あとがきで、玄さんは上野先生に勧められて書き始めたことを書いておられる。先生が読れたらさぞかし喜ばれただろう本であることを思うと残念でならない。
こうしたフォーラムの発足に関係するであろうような発想を、わたしはもう一ヶ所この「記録」の文章の中に認めた。それはこの「記録」の一番はじめに置かれた次の文章からである。

  死のうが生きようが、まったくかえりみられない人生がある。その時代の一員でありながら、指のあいだからこぼれ落ちる砂のように、無視され、忘れ去られる人生がある。庶民と呼ばれる多くの人間は、その砂の一粒にひとしい生涯を送ってきた。今も送っているし、これからもそうした生涯を送るだろう。しかし、この名もなき人間の生活が、良いにつけ悪いにつけ、時代をつくり、歴史をきり開いてきた。そして、それは、かけ替えのない一回限りの人間の姿でもある。祝日にも、祭日にもなりえない人生。記念日や行事に背をむけた庶民の生活・・・。わたしたちの父も母も、その意味で、まぎれもなく、下積みの人間だった。砂の一粒だった。「ここに人あり」というには、あまりにも貧しく、あまりにも悲しかった。この貧しさと悲しさが、わたしたちに残された唯一の遺産である。わたしたちは、この、重く、はかない遺産の相続人として、父と母の歩みを、書き記さなければならないと考える。

 おそらく、先生がフォーラムでやろうとされたのは、こういうことだったのではないかと思われる。「こぼれ落ちる砂のように、無視され、忘れ去られる人生」をここで語り合おうじゃないかという試みである。「この、重く、はかない遺産の相続人として」。
 わたしが先生にフォーラムで喋るように言われた最初の時に「丘のある歌謡曲」の話をして、最後に先生にお贈りする歌として『古城』をあげた。すると「なんで、俺が「古城」なんやねん」とその時先生はおっしゃったように思う。「古くさいからか」と思われたのかもしれません。「いや、そうではなくて、矢弾のあとが、ここかしこに見える大手門のようだからですよ」とわたしは答えた記憶がある。その『古城』をここに再度引用して、少しばかりの弔いの言葉に代えさせていただきます。

  『古城』

松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ
栄華の夢を胸に追い ああ 仰げばわびし天主閣

崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉や
矢弾のあとのここかしこ ああ むかしを語る大手門

いらかは青くこけむして 古城よ独り何偲ぶ
たたずみおれば身にしみて ああ空行く雁の声悲し

  (唄・三橋美智也 高橋掬太郎作詩/細川潤一作曲)

 

 

作品論

 

『さらば、おやじどの』について
ー「過去を引き継ぐ」という作業ー
村瀬 学



 この作品は、『現代日本児童文学作家事典』教育出版センター1991 の「上野瞭」の解説では、「衝動殺人、親殺し、火付け、脱獄、逃亡、暗殺・・と事件が事件を呼び、手に汗をにぎるサスペンスと爽やかな愛が交錯する作品。あくまで生きるいまを凝視しつづける作者の想いは、物語構成や語りにおいてますます冴えをみせる」と紹介されていましたが、これではこの作品を正反対に紹介しているように私には思えます。
 この作品の核心の部分は、「いま」にあるのではなく、あくまで「過去を引き継ぐ」というところにあるからです。
 過去が在るということ、過去が存在するということ、そういうものにどこまで知らん顔をして生きてゆくことができるのか。「さらば」という言葉には、「それなら、それでは」というおいとまの意味が含まれ、そこから「去る」や「去ります」の意味を含み、それが「さらば」という言い回しになってきました。歌「仰げば尊し」の最後が「いざ、さらば」となっていたように。
 上野先生が『ひげよ、さらば』1982、『さらば、おやじどの』1985のように、「さらば」を強調するような題をつけておられたのは、きっと理由があったんだと思います。何かからさよならをしたかったんでしょうか。別れや、決別のことを、こういう題にこめて書こうとされていたんでしょうか。おそらく、そういうことではないと思います。「さらば」というのは、ただの「さよなら」というのではなくて、「さらば」することで、そこから何かを「引き継ぐ」ということ、そういう意図が込められているみたいなのです。
そのことがどこでわかるのかというと、それは作品の仕組みによってわかります。
 作品は、主人公の田倉新吾(18才頃)が、今で言う暴走族のようなことをして捕まり、牢屋に入れられるところからはじまります。牢屋にはいるというのは「過去を背負うものになる」ということですが、そういう状況下に置かれることで、新吾は他の「囚人」から「その人の過去の話」も聞くことになります。
 つまり新吾は、「牢屋の中」ではじめて「人の過去を知る」という体験をすることになるわけです(まるで「晩年学フォーラム」で人の話を聞く時のようにね)。そして、新吾自身、現在しか知らなかった新吾(A)から、過去を知る新吾(B)に変わってゆくことになります。生きてゆくということは、B(過去)からA(現在)に変化してゆくことですが、人生を知るということは、逆にA(現在)からB(過去)を知ってゆくという過程でもあるのではないかということを、この作品は訴えているみたいです。
 新吾はそうやって、他の囚人の「過去」を知ることになり、そしてついには自分の父に過去のあったことを知ることになります。どうも、父にも秘められた過去があったらしいのです。そして、息子がある人から聞いた「美作(みまさか)のお裁き頼みます」の意味を父にたずねた時に、父自身が自分の青春時代の忌まわしい事件のことを思い出すことになります。それは当時のゲリラ的な存在とみなされていた美作村の野盗の一団を焼き討ちし、皆殺しにする討伐隊に参加していたという記憶です。
 もちろんこの事件は、当時の城主の命令の中で実行されたものであり、当時の討伐隊の若者はただ手柄を立てるために、先を競って殺戮を実行したにすぎないのですが、それが本当に「野盗の一団」だったのか、そうでもない集団が城主によってただそういうふうに見なされただけなのか、そんなことは当時は考えてもみなかったことでした。
 ところが今、息子がある人物から聞いたという「美作(みまさか)のお裁き頼みます」の一言によって、もう一度自分の過去に向かい合うきっかけを与えられることになります。あの美作村に生き残りがいたことがわかってきたからです。父は結局その生き残りの手によって殺されることになるのですが、その前に父は、自分は命令とは言え、間違ったことをしていたのではないかということにしだいに想いを寄せることになってゆきます。
 しかし、こういう「過去」を問うことは、当時の美作村焼き討ちを直接指揮した「尾形伝右衛門」を問うことになり、ひいてはその伝右衛門に命令を下した「美馬さま」を問うことになり、さらにひいてはその「美馬さま」に命令を下した「御領主」を問うことにつながってゆきます。それはしかし、父にとっては、問うてはならぬ「問い」にもなっていました。
 こうした「美作村焼き討ち皆殺し事件」なるものは、少し近代に引き寄せれば「ユダヤ人収容所虐殺事件」「日本軍による中国・アジアでの虐殺事件」「アメリカ軍によるベトナムソンミ村虐殺事件」などに似ていることがわかります。かつて、そういう「事件」を実行したのも若者たちであり、それをどこかで指示した上層部が当時もいたからです。



 そういう「過去」を、私たちは「忘れながら」生きてきているわけですが、作品はそういう「過去を思い出す」ことをあえて主題にしょうとしているところがあります。
 むろん、そういう風に説明をしてしまえば、何やらこの作品は戦争犯罪の告発作品のように思われるかも知れませんが、もちろんそんな政治的な作品ではありません。
 私たちは誰でもA(過去)からB(現在)に変わってきています。ところが、Bになったということは、かつてAであったということと無縁になったということではありません。今ある私たちが過去の延長にあるんだと言うことは、動かせない事実だからです。しかし、そのことをどういうように考えたらいいのか、私たちはうまくわからないところがあります。そういうところをこの作品は問うているんだと私は感じてきました。つまり、その人はBであるように見えて実はAでもあるんだということ、そのことをどう考えるのかという問いかけです。
 もちろん「過去を振り返らないで、前を向いてプラス思考で」という今流行の助言スタイルもあると思います。やたら「トラウマ」を引っ張り出して商売するいやらしい精神分析のようなものの餌食になるくらいなら、「過去にとらわれずに前を向いて歩みなさい」と言ってあげる方が良いに決まっているからです。
 けれども私がBでありながらAであるということは、それは「私一人の過去」が問題なんだと言うのではありません。ここがとっても大事な所です。「私の過去」というのは、決して「私一人の過去」ではなかったからです。
 「誰の物語」も、その人の物語だけで独立しているのではなく、「他の人の物語を含んで成り立っている」ということがあります。ですから、自分の過去を知るということは、単に自分のことを知るというようなことではなくて、自分に関わる多くの人の過去を知るということにならないとおかしいわけです。
 ですから、こういう作品を読むと、なぜ上野先生が自分の父や母の生涯のことをあれほど知ろうとされてきたのか、また晩年学フォーラムで、自分の過去を喋るようにみんなにうながされてきたのか、少しはわかるような気がします。
 そういう意味からすると、『さらば、おやじどの』は、かつてAであったものが、なぜBのようになってきたのか、の物語であり、Bになったものが、かつてAであったことをどのように再発見してゆくのか、の物語であり、その中でAをBへと創り上げてきたさまざまな指導者、友人、仲間、親、異性、思想、組織、時代背景といった多くの人々に、改めて出会い直す物語にもなっていることが見えてきます。

  そのことを踏まえて『さらば、おやじどの』の「さらば」の意味をもう一度問うてみると、「過去を振り返らなかったかつてのおやじ」や「過去を振り返ることを知らなかったかつての若い自分」そういうものとの「さらば」という意味が込められていたのではないでしょうか。だから「さらば、上野瞭」というふうには簡単にはゆかないんですよね。

 

 

 

  老いとあいさつと性
 ー『眠れる美女』と『三軒目のドラキュラ』についての覚書

はじめに


 二つの作品、『眠れる美女』(川端康成)『三軒目のドラキュラ』(上野瞭)とを比較したいと前から思っていた。なぜこの二つが? 理由はうまくいえない。あえていうなら「ちょっとおそろしい理由から」ということになる。
 テレビドラマにもなった『三軒目のドラキュラ』は、大きく言って二つの物語がからんで進行する。一つはプラットホームで見初めた女子大生に交際を迫る男の物語と、もう一つはボランティアで老人介護をする主婦に強引に性的交際を迫る男の物語である。ともに、歳のいった男が若い女に交際を迫る話である。前者は五十五の男が十八の娘に、後者は七十の男が、五十前の女に。こう書けば、『眠れる美女』との比較の理由も少しは見えてくるかも知れない。ちなみに『眠れる美女』では、眠っている全裸の娘に会いにゆく「江口老人」と呼ばれる人は六十二歳だった。


 1  『三軒目のドラキュラ』ー岡崎部長の物語ー

 五十五歳になる会社部長岡崎清輔は、通勤の途上で会う一人の女子大生(千洋)に目を留めていた。そしてある日、ホームで肩が触れただけのその女子大生に、階段で突き当たって転ばされて怪我をした、なのに君は知らん顔をして行ってしまった、と言い掛かりをつけてて「交際」を迫った。交際といってもたわいもない要求で、ただプラットホームなどで顔を見たら「あいさつ」をしてほしい、というものであった。
 この奇妙な出だしから始まるこの『三軒目のドラキュラ』は、一見するとただの「すけべなおっさんの痴漢話」みたいにはじまるのだが、実はこの最初の情景に、この作品の根本の主題が託されていた、ということに読者は後になって気がつくことになる。
 この物語の出だしはある読み手からしたら「いやらしい」と感じられる。なぜか。いい年をしたオッサンが、若い娘と知り合いになりたいと思うことは、「いやらしい」感じがするからだ。おそらく若い読み手にとっては。もちろん作者は計算ずくだ。そして作者は作品の奥からこう問いかけるだろう。素敵な若い娘を素敵だと思うことは、君らにはそんなにいやらしいと感じられるのか? と。警察に同行を求められた岡崎は、事実こう言っていた。

 「刑事さん。わたしは、変なことなんかしてませんよ。若い娘さんに話しかけることが痴漢になるのですか?」

 その通りである。なのに、この岡崎の行為はなぜか不自然に感じられる。何に不自然さを感じるのか。「交際の迫り方」が「不自然」だからだ。知り合いになるというか、近づきになるというか、そのための進め方があまりにも「不自然」なのだ。そして、因縁をつけ、弱みにつけこむ、そういうやり方が「いやらしい」と感じられる。
 作者はしかしあえてそういう不自然さ描いている。むしろそういう「いやらしさ」を描くために最初の場面を構想しているように見える。なぜなのか。ここには「同意」を巡るやっかいな主題が隠されている。岡崎は千洋にこう言っていた。

 「いいかね、きみ。ぼくは誠意を示してほしいだけだ。きみの誠意を求めているんだ。」
 「簡単なことだよ。(略)明日も明後日も、ぼくらは出会う可能性がある。その時、きみは顔をそむけたり逃げ出したりしないで、挨拶をしてほしい。足はどうですか・・なんてことはいわなくていい。それは気持ちだけでいい。ぼくときみとが、見知らぬ赤の他人ではなく、偶然、不幸な出来事で知り合った同士だということを、言葉をかけることで示してほしい。それが、きみにしてほしい償いだ。約束してくれるね。」

 岡崎が強要したのは、単なる「あいさつ」だというのである。「あいさつ」とは、もともと知り合いになったもの同士がするものである。しかしこの会社部長は「あいさつ」をしてもらうために女子大生と知り合いになろうとしているのである。何かが転倒している? たかが「あいさつ」と考えるべきなのか。しかし作者によって選ばれたこの脅迫のシーンが「あいさつ」であったということは、見逃すわけにはゆかない。ここに、この作品の核心をなす主題がある。

 「(あいさつは)ごらんのとおりきわめて自明なものであるにもかかわらず、またわれわれにとってかくまで一切を包括する日常的なものであるにもかかわらず、いままで一度もしかるべく注意されてこなかった。」
 「おそらく挨拶については、正しく形成された理論など一つもないのではないか。」
  「どのような言語で書かれたものであっても、挨拶を扱ったただ一冊の本すら存在せず、またそれについて特に論点をしぼったわずかな章を含む本すらきわめてわずかだ。」
             (『個人と社会』の中の「挨拶に関する考察」)

 と書いていたのはオルテガであった。オルテガははじめてこの本で「あいさつ」とは何かと問い、この様式のもつ複雑な性格に正確に長い分析を加えていた。社会学的な分析は彼の本にまかせるとして、私は『三軒目のドラキュラ』で、部長職にある岡崎のような「男」の抱いている「あいさつ」のイメージについてまず考えてみたい。おそらく会社という世界では、「あいさつ」は下のものが上のものにするもので、「あいさつ」は服従であり、同意を含むものと見なされている。すでに会社では、この会社に入ったこと自体がおおきな同意を前提にしていることになっている。だから会社での「あいさつ」はすべて合意を踏まえた上でのあいさつということになる。しかしその実体は強制であり、一種の脅迫的にさせられるものである。会社人間はそういうあいさつに慣れている。特に上役であればあるだけ、回りから「あいさつ」をしてもらえるのは当然だと思っている。
 どういう形にしろ「あいさつ」をするためには少なくとも合意がいる。いやいやながらの合意にしろ、あいさつをする時には合意の意識が共有されていなくてはならない。敵対する者同士にはあいさつはないからだ。ところでこの部長岡崎の物語では、何も合意は成立していないのに、「あいさつ」が強要されることになった。物語の展開は、このあと千洋が「にせの合意」をみせ、岡崎をその気にさせて、最後に岡崎の妻も巻き込んで思いっきり突き放すという、「仕返し」の筋立てになっている。岡崎が合意を、言い掛かりや脅迫や一方的な約束からはじめたように、千洋も同意を挑発や媚態(コケットリー)に重ねて見せつけ、相手を手玉に取ってゆくのである。たぶん「おとなになる」ということは、こういう「にせの同意」を生きることなのだ、ということを十八歳の娘が身をもって体験しようとしているところがあるみたいだ。ちなみに岡崎清輔が、千洋の「にせの同意」を受けたときの喜びの描写を掲げておく。

 「信じられないくらい、うれしいよ。そうか、うんといってくれたんだな。」

 もう一つ、岡崎が千洋の「世代」とは異種な世界にいることの自己認識の描写も掲げておく。

  清輔は、千洋とおなじ時代を、同世代として生きることを夢見ていた。そうするには十八歳に戻るしか方法はなかった。想像の中でそうあろうとしても、それを夢見る清輔はどうあがいても五十代半ばの肉体の所有者だった。丘の斜面を這い登ったばかりに、腰や肩にきしみの残る若くない男だった。それがわかっていながら清輔は、立ち戻れない時間を立ち戻ろうとして、尋常でない手段を取った。そこまでして千洋との距離を縮めたが、それは空間上の距離で、時間のそれは少しも縮まっていなかった。

  方法がない?千洋の皮肉が聞こえてきそうである。

 「おじさまとわたしの関係、だったら、何と呼ぶのかしら?」

  同等にならない異種世界がある。清輔のつぶやき。

 本当はそういう出会い方ではなく、かって見た映画の中の出会いのように甘美であればもっとよかった。しかし、人生にややくたびれた五十代の男と、二十そこそこの若い娘に、そういう出会いはありえなかった。現実は、映画や物語からはるかに遠いことを、男は身をもって知っていた。強引な、脅迫に近いやり方でしか、若い娘の意識をじぶんには向けられないのだと思った。それが、どれほど危険にみちた愚かな行為であるかを、男は知っていた。知っていながら、なぜ、そうした方向に足を踏みだすのだろうか。じぶんだけがそうなのか。じぶん以外の男たちもそうなのか。男は、じぶんの行為に自嘲的な苦笑を浮かべた。

 ここを読まれたらわかるように、作者は深い共感をもとに、作品の最初で、岡崎の「おろかさ」「いやらしさ」を描いていた。この「おろかさ」「いやらしさ」は、あんたのものでもあるんじゃ、という作者の声が聞こえてきそうではないか。

2  『三軒目のドラキュラ』ー吉元孝治郎の物語 ー

 もう一つの物語もまた奇妙な展開を見せている。吉元孝治郎という七十歳のオヤジサン、がボランティアの世話に来てくれた主婦恭子に強引に交際を迫るのである。この物語の「いやらしさ」は、岡崎の物語のいやらしさとは比較にならない。彼はまず一方的に交際をせまる手紙を送り付ける。その気があるのなら、身の回りの世話をしてもらっている間に話せばいいのに、そういうふうにはしない。まさに一方的に指定した喫茶店などに呼び付ける。そしてそれに応じない彼女に対して、彼女を誹謗中傷するデタラメの手紙をよそのボランティアに送り付けたりする。たぶん読者としては、こんな非常識なことをする人の「世話」をなぜせにゃならんのだと思ってはがゆくなる。読者でもそうなのだから、そんな失礼な、気味の悪い手紙をもらった恭子はもっと嫌がっているだろうと同情する。ところがそんなオヤジサンにどんどん押し切られて、最後にはとうとう性交渉を受け入れるまでに至るのである。そして性行為中に腹情死してしまう。こういう話の展開を「いやらしい」と言わずして、他にどう表現すればよいのだろうか。
 ここでも感じるのは、必要な「あいさつ」が少しも交わされていないということである。吉元孝治郎は全く強引に一方的に交際を迫る。そして「年寄りが恋をしてはおかしいか」などと啖呵を切る。彼の言っていることがおかしいわけではない。それは最初の物語で、岡崎が若い娘に「あいさつ」をしてくれというのがおかしくなかったように。
 けれども、人を好きになるのは勝手だが、それが進展するためにはしかるべき手順というか段取りというか、礼儀というものがいるのではないか。それを飛ばして近づく者に好意を覚える者はいないだろう。しかし吉元はこういうのである。

 「わしは、変な手紙など一度も書いたことはないぞ。まともな手紙を四度書いただけじゃ。じぶんの気持ちに正直な、いい手紙だった。そう思っている。」
 「心惹かれる人を、心惹かれるといっただけじゃ。それがどうしてあんたにはわからんのかね。それとも何かね。わしが、じぶんの気持ちを正直に話すことは、許されんとでも考えておるのかね。」
 「あんたは、人から、好きだといわれたことがあるかね。若い娘の頃の話じゃないぞ。今の年歳になってからの話じゃ。わし以外の男から、ああいう手紙をもらったことがあるかね。」
 「結婚をしている。亭主や子どもがある。それが何だというのかね。そういう人間は、もう好きとか嫌いとかいうことから、外れて生きねばならんというきまりでもあるのかね。」

 もっともらしい言い分のように聞こえるか? それとも、屁理屈のように聞こえるか? この言い分は世の中に通用するか? しかし作品では、最初の嫌悪とは裏腹に、恭子はホテルでの話し合いに望んだあげく、彼を受け入れることを承諾してしまう。彼女本人が承諾するのだから、読者もそのあとの経過に進まざるを得ない。そしてホテルでの情交に立ち会うことになる。むろんここで読み手としての私に、当然奇妙な事が起こる。感情的には、おかしな筋の展開になってきていると思っているのに、そうなったらそうなったで、ええぃ、ひとつこのおやじさんと嫁さんの情事のゆくへを見てみたいという、のぞき見趣味的な好奇心が出てくる。これが読者側の「いやらしさ」というのでなくてなんだろう。他の読者が、このホテルのシーンをどう読んだかは知らないが、私の場合は気持ちの中でこのシーンを見たいという要求に引き込まれてゆくのである。そして同時にそういう反応を見せる自分を呆れたり、「いやらしい」と感じている。
 つまり読み手としての私にとって、情交が描かれれば、それまでの筋に関係なくたわいもなく興奮し、いやらしい反応を示してしまう、ということを自覚したうえで、私は頭の隅で、でもなぜ恭子はあのときこの介護の老人を受け入れたのかということの疑問をうやむやにすることができない。なぜあの時点で恭子は「合意」したのか、と。読み手としての私の頭の右半分はポルノグラフィにたわいもなく反応しつつ、しかしもう半分では、事に至った合意に、何かしらおかしい、不可解だ、と思う気持ちを感じている。作品としてこの一点が納得できないと、この作品を了解したことにはならないという感じが強くする。
 私の率直な感じでは、どういう理屈をつけても、それまでの話の展開からして、恭子が介護を要する老人に性的関心を示して合意をするなどということは考えられないのである。作者が読者に、この辺でポルノグラフィをサービスすべきだと考えたのなら話は別であるが。(むろん作者自身がここでどうしてもポルノグラフィを書きたいと切実に考えたということはありえる。)ただ、ここで考えられることがあるとしたらとしたら、何と言えばいいのか、「慈悲」のような承諾のイメージである。そういうものが成り立つとしてである。
 かって『アリスの穴の中で』でも、作者はこういう「奇妙な性」を描いたことがあった。私はその性を「娼婦のようなマリア」と呼んだことがあった。この奇妙なイメージは現実には了解できにくいイメージである。が、今回の恭子の突然の変身は「娼婦のようなマリア」あるいは「マリアのような娼婦」としか表現できないものように感じられる。この「マリアのような娼婦」のイメージの出所は、おそらく作者上野瞭の資質の奥深いところに関係しているような気がしてならない。
 このイメージは、たぶんに男につごうのよい性のイメージ(ここに慰安婦のイメージが重なる)になっていると見られてしまう危険性があると私は前にも書いた記憶がある。しかし、作者はそういう「つごうのいい性」を描こうとしているわけではなかった。もしもそういう観念的な理由を想定しないとしたら、恭子がホテルで応じた理由は二つ考えられる。ひとつは介護される者への自然な情の移りであり、ひとつはあの江戸川乱歩の『芋虫』に描かれたような、不具な者をなぐさめものにする性愛か、どちらかである。しかし繰り返して言うように、前者のイメージは成立しにくい。なぜなら情が移るほどに恭子は吉元を世話していないし、むしろ恭子は嫌悪感すら抱き続けていたからである。後者のイメージも唐突であり、極端であろう。こちらも成立しにくい。だから本当のところはよくわからないのである。が、読者にわかっていることは、何らかの形で「合意」が成立したということである。そこが岡崎の物語と決定的に違っているところである。ただ「合意」の内実が読者にうまく読み取れないのである。

4  良寛だって若い娘に恋心を抱いたじゃないか

 作者は、そんな変な分析をしないで、もっとおおらかに文学的に作品を味わってほしいと思うかもしれない。(でも、これだけは言わなくてはならないけれど、作品を楽しんだからこそ、こういう「分析」じみたことをしているわけで、決してその逆ではないということだ。)その「変な分析」とは、吉元孝治郎と恭子の情交を、やたらと不自然がったりしないで、もっとありふれたもの、あるいは介護される年寄りにだってこれくらいの色恋はできるんだ、といったごく当たり前のストーリーとして読めないのか、という作者側の注文だ。私は何も年寄りが恋をし情交をもつことを不自然だなんて思っているわけではない。そんなことは少しも思っていない。
 かの良寛が若く美しい貞心尼に出会ったときは、良寛六十九歳、貞心尼二十九歳だったと言われている。そして七十四歳で亡くなるまで、彼女に恋の歌を書き綴っていたことも私は知らないわけではない。


 「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもふ」貞心尼
 「いついつと待ちにし人は来りけり今は相見て何か思はむ」良寛


 歳の差はなんと四十歳である。しかし、出会いがあり、交わりが深まるならば、どのような情交だって可能であると思う。七十歳代の恋愛や情交の話なんか『日本人の人生案内』(平凡社)を見ればいくらでも読むことができる。ちなみに片方が介護されるものだからといって、その人に情欲がなくなるわけでもないことは、このような相談を読めばわかる。

  「六十代後半の主婦です。この年齢になって、こんな相談をするのは本当に耐え難いことですが、恥をしのんでご相談します。実は主人は九年ほど前に倒れ、半身不随の身です。外にも出られず、一日中することもないせいか、八十歳に近いというのに、朝といわず、昼といわず、私を求め、体を自由にしたがるのです。年とともにだんだん激しくなってきて、相手は病人だし、大抵のことは我慢してきたのですが、もう耐えられず、お尋ねするしだいです。どうしたら主人をなだめることができるでしょうか。ご助言ください。」(『日本人の人生案内』平凡社)

 こうした事例があるのだから吉元孝治郎のような例があってもちっともおかしくないと言われるかも知れない、が、私はそうではないと思う。吉元の物語と私があえて呼ぶものは、「年寄りが恋をしてどこが悪いのだ」というような物語には出来上がっていないからである。吉元孝治郎の言動の数々は、あたかもそういう物語をたどっているかのように見えながら、読者からすればそういうようには展開していないところがわかるのである。そして、実はそこのところが、この作品のとても大事なところなのだと私は感じてきていた。
 つまり吉元は、はじめから「合意」を成立させるように動いていないのである。彼は一方的に好意を伝え、一方的に情交を迫るだけだ。読者はだから吉元に同情することができにくいし、感情移入もしにくい。たとえ彼のみじめな戦争体験がいくら回想されるとしても、である。あるいは、たとえ彼がいままで、あまりにもまわりを気にし過ぎて生きて来て、これからは「それまでのじぶんとはまったく反対の、《いい人》ではないじぶんを生きてみたいと考えた」としても、である。
 というのも、こういう「率直さ」は、ある意味での戦争中の軍隊の、相手の意向を全く顧みない、うむもいわさぬ強制と少しも変わらないのではないか、と思われるからだ。読者としての私は、どこまでいってもこの吉元孝治郎の行動が否定的にしかとらえられないのは、こういうプロセスを無視した合意への突撃をどうしても肯定できないと感じてしまうからである。
 ところが、そういう私の判断が、理屈では正当だとしても、やはり何かを見誤っているのではないかという感想がどうしても残る。それが、恭子の「同意」を前にしたときだ。読者の私は、この吉元の行動は「おかしい」し「いやらしい」と感じていて、恭子もそう感じているはずだと思っているのに、最後に恭子は吉元の願いを受け入れるのである。そこで「同意」するのだ。ここで私の思いは何かにぶつかってしまう。その「何か」というのが問題なのだ。そしてそこにこの作品の秘められて主題があった。
 岡崎の物語も吉元の物語も、言って見れば「合意」の成立しない物語なのである。その「合意」の成立のしにくさこそが作者の見定めたい主題だったのではないか。しかし吉元の物語の最後で、突然恭子が「合意」した。ここには、「合意」への論議をあざ笑うかのような、作者の、ちまたの思惑を越えたものへの問いかけが描かれているように見える。

4  川端康成の『眠れる美女』

 こうした、私の作品の読み取り方が、まったく根拠のないものかどうかを探るために私はここで、川端康成の『眠れる美女』を取り上げてみたいと思う。なぜこの作品が『三軒目のドラキュラ』と比較されるのか。作者の年齢が近いからか。(『眠れる美女』(六十二歳)、『三軒目のドラキュラ』(六十五歳))。あるいは、年齢の「ある高さ」が似ているからなのか。そういうことも、比較の要素にはなるのかも知れないが、私はそういう理由からではなく、この二つの作品が似たような角度からともに人間存在の大変「おそろしい深部」に触れている、と感じるところから比較をしたいと思ってきた。
 ではこの二つの作品は、どこが似ているのか。『眠れる美女』には眠る裸の娘に会いに行く江口老人が描かれる。「眠る裸の娘に会いに行く」とはどういう状況なのか。一言で言えば、まさしく「同意を得ないですむ状況」に向かうということである。相手は眠ったままでいる。ここに描かれた世界は、まさに私の言う「合意」のない世界である。相手にする娘は薬で眠らされている。これは異様な世界である。異様に悪徳の世界である。しかし作品『眠れる美女』を、「合意」というようなモチーフで問題にしようとした批評を私はまだ知らない。それもそのはずで、繰り返して言うように「合意」などという概念は少しも文学的ではないし、魅力的なものではなかった。しかしなぜかここのところを私はしかと考えなければならないという気がしていた。
 『眠れる美女』では「合意」が成立していない。こういう状況をいったい川端康成はなぜ選び、なぜ描かなければならなかったのか。たとえばこういう作品に似た作品に谷崎潤一郎の『鍵』がある。この作品にも合意のない状況が描かれている。老いた主人公には、若くて魅力的な妻がいる。その妻が風呂でのぼせて倒れ、意識を失ったのをいい機会に、主人公(と若い青年)は彼女の裸を電気を照らして眺めたり、写真に撮ったりしょうとするのである。こういう状況はきわめてエロティックである。しかし『鍵』には『眠れる美女』のように全く合意がないか言うとそうではない。奇妙な暗黙の合意というか、「合意がないかに見せかける合意」というか、そういう合意があった。しかし『眠れる美女』にはそういう合意はまったくないのである。『眠れる美女』にはこう書かれていた。

 江口老人にここを紹介した木賀老人が、「秘仏と寝るようだ。」などという。

 木賀老人などは、眠らされた女のそばにいる時だけが、自分で生き生きしていられる、と江口に言っていた。

 老いの絶望にたえられなくなると木賀はその家に行くのだと言った。

 眠らされた娘のそばで自分も永久に眠ってしまうことを、ひそかにねがった老人もあっただろうか。娘の若いからだには老人の死の心を誘う、かなしいものがあるようだ。 いや、江口はこの家へ来る老人どものうちでは感じやすい方で、ただ、眠らされた娘から若さを吸おうとし、目ざめぬ女を楽しもうとする老人が多いのかもしれなかった。

 眠らされている若い女の素肌にふれて横たわる時、胸の底から突きあがって来るのは、近づく死の恐怖、失った青春の哀絶ばかりではないかもしれぬ。おのれがおかして来た背徳の悔恨、成功者にありがちな家庭の不幸もあるかもしれぬ。老人どもはひざまずいて拝む仏をおそらくは持っていない。はだかの美女にひしと抱きついて、冷たい涙を流し、よよと泣きくずれ、わめいたところで、娘は知りもしないし、決して目覚めはしないのである。老人どもは羞恥を感じることもなく、自尊心を傷つけられることもない。まったく自由に悔い、自由にかなしめる。してみれば「眠れる美女」は仏のようなものではないか。そして生き身である。娘の若いはだやにおいは、そういうあわれな老人どもをゆるしなぐさめるようなのであろう。

 ここにはまさに相手の意志を関係ないところでかかわる非人間的な世界が描かれている。ここには関係というものが成立していないのである。三島由紀夫はこの作品に対して「私はかってこれほど反人間的の作品を読んだことがない。」と評した。そしてまた「その執拗綿密な、ネクロフィリー(死体愛好症)的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致と云ってよい。」とも書いていた。ネクロフィリー(死体愛好症)的肉体描写とはうまく言ったものだと思う。というのも、この『眠れる美女』に登場する娘たちは、死んではいないけれど、生きているとも言えない中途半端な状態にいるからである。つまり「人格」や「心」としては彼女たちは存在していないのである。ではどういうふうに存在しているのか。それはまさに「肢体として存在する」というか、「容姿としてしか存在しない」というようにしてしか存在していないのである。
 そして、今回『三軒目のドラキュラ』が、この『眠れる美女』のもつ困難な主題に、ある意味での無意識でもって挑戦しているように感じられたのである。というのも、吉元孝治郎の物語の中の恭子との出会いと情交だけを取り出せば、私はほとんど『眠れる美女』と同じだと感じるところがあったからだ。事実、吉元は一度たりとも恭子との意志とのやりとりを生きていなかったからである。展開はあくまで一方的に進められている。そして最後に恭子が挑発的に吉元を受け入れるのも、あの『眠れる美女』の美女が無条件にかつ挑発的に老人たちを受け入れる物語の基本設定と、ほとんど同質ではないのかと思うのである。そしてあの『眠れる美女』の老人たちが願ったように、女の側で吉元は死んでしまったからである。まさに『眠れる美女』の老人たちなら、眠る娘たちを「仏」のようだと感じたように、私が『三軒目のドラキュラ』には「マリア」が出てくると感じたのもその辺に理由があると思う。
 しかし実際には『三軒目のドラキュラ』は『眠れる美女』のようにはできていない。なぜなら『三軒目のドラキュラ』は本質的に倫理として組み立てられていたからである。だから、恭子は情交中に死んだ男の性器を抜き取って、知り合いに電話をかけ、家族にばれないように努力する過程が、次に描かれなければならなかった。川端康成ならそんな過程は決して描かなかったであろう。そんな過程を描くことは、作品の美的な雰囲気を台なしにするものだったからだ。しかし「倫理」を描くとなるとそういう訳にはいかなくなる。
 そもそも吉元の生涯が描かれるのも、彼を倫理的に理解するためのものである。しかしそうやって描かれた倫理的な生涯も、最後には『眠れる美女』の老人たちのような生き方に切り替わってゆくように描かれるのだとしたら、川端康成はなんと越えられない作品を書いてしまったのだろうと言うことになるのだろうか。
 おそらく読み手の直面する困難さは、倫理的に描かれてきた人物が、年をとるにつれて、だんだん非倫理的な人物になってゆく姿を見て取ることのとまどいである。しかし重ねて言うことになるが、それは「吉元のような人間」を不自然に思うこととは別問題である。
 とくに「老う」側にとっては、自分たちが少なくとも合意を積み重ねて、それで「相手」に応じてもらえるような次元の存在ではないのではないかという、そういうあきらめの感じに見舞われることがある。「合意」なんてもんは、若いもん同士がなしうることであって、「老う」側にとっては、それは空虚な現実だと。だから、いくら理性的(合意をモットーに)に生きてきた人でも、いつかは『眠れる美女』のような、合意抜きの関係を味わいたくなると言う面がでてきても、不思議ではないんだと。そうだとしたら、ここには「やるせない」というしかないような人間存在の深部が口を開いているのではないか。

5 「インフォームド・コンセント」の地平

 さてこういう「合意」を巡る主題は、現代社会の中ではどれだけの射程をもっているのだろうか。それは「インフォームド・コンセント」と呼ばれてしまうような問題の地平である。「インフォームド・コンセント」、この「説明と同意」の問題意識の地平。
 なぜ私は今「インフォームド・コンセント」などという全く非文学的な用語を持ち出すのか。むろんこれは奇を衒うためのものではないし、社会学の用語で文学を裁断しようといったような狙いからでもない。というのも、こういう用語を使わないと、この『三軒目のドラキュラ』のもつ屈折した、すこぶる現代的な主題に「当たり」をつけることができないと思われたからである。さしずめこの言葉しかないと感じられた。むろんもっと文学的に説明できる言葉があるのなら、それでもかまわないし、そのほうがいいのだろうと思う。しかし私には従来の文学の言葉では、どうしてもこの作品の描いている状況は捕らえられないと感じてきた。それはあまりにも「現代的な状況」であり、新しい言葉で指摘するほうがわかりやすくなると思われたのである。その「現代的な状況」というのは、例えば医学の分野では「インフォームド・コンセント」と呼ばれてきていたのである。むろんこれは全く医療界の概念であり、文学とは何の関係もない用語である。が、私は医学が医学なりに直面してきて、こう言うふうにしか表現できていないこの現代的な状況が、実は文学が直面している問題と、少しも無関係ではないのだと私は感じてきていたのである。
 80年代に医療の世界ではじまったこの「インフォームド・コンセント」の思想は、いまでもたかだか医療の世界の話にすぎないと思われている。しかし私はそうは感じてこなかった。医者と患者の間の「説明と同意」、なぜそんなことが、この80年代から問題にされなくてはならなかったのか。医者と患者はかっては異種世界であり(実際にはいまでもそうであるが)、上下隔絶の世界である。それがある時代から「対等」というか「同等」とみなされる視点がでてきた。
 「異種世界の対等性」、おそらく『三軒目のドラキュラ』も無意識ながらこの主題を巡っている。『三軒目のドラキュラ』における異種世界とは何か。それは世代の違い、若さと老いの間の埋められない異種性である。この間にいったい「インフォームド・コンセント」が成り立つものなのか、と。かって階級や階層といったものが実体としと機能していた時代には、合意や同意というものについてあまり考える必要はなかった。学校や病院や軍隊や会社では、指示や命令はいつもただちに相手の合意や同意を意味していなければならなかったからである。しかし今日の時代になって、階級や階層は水平化するとともに、互いの異種性は克服されなければと見なされるようになってきた。しかしそれとともに、克服できない異種世界も見えて来た。若さと老いの不可逆の世界である。この二つの世界が、異種であればあるだけ、本当はこの両世界をつなぐ「インフォームド・コンセント」の流儀が見いだされなくてはならなかった。
 それなのに『三軒目のドラキュラ』の世界では、老いを迎える登場人物たちが「インフォームド・コンセント」をあざ笑うかのように、「いやらしい」醜態を演じる経過が描かれていた。そしてこういう「いやらしさ」を、「いやらしさ」として読者が感じ取れるように作者は、思い切った構成や描写を投じてこの作品を作り上げようとしていた。この作品の、不気味で、新しい主題は、この「いやらしさ」をしっかり関知できる足下からだという気がしている。

6 言い残したこと

 まだ残している課題をメモしておけば、三つはあげておきたい。
 一つは、かっての戦時中の「インフォームドコンセント」を無視した「従軍慰安婦」と呼ばれる問題。
 もう一つは寝たきり老人をヘルパーという名目で世話をし、恩を売り、誘惑し、貯金通帳などをごっそりいただく犯罪の問題。というのも「吉元の物語」を「恭子の物語」としてみれば、じつに危ない話になるからである。老人相手に介護売春もどきのシルバー産業が問題になっているように、そういう話とボランィア恭子の物語は紙一重である、と私は思う。ここに介護者と年寄りとの切実な「インフォームドコンセント」の問題がある。
 三つ目は「老う」という主題。年齢的な老いではなく、精神的な老いの問題。若いと言うことは、かかわりをもとうとすることである。相手との合意や同意や働きかけを断念するような形でかかわりあおうとすることは、精神的な衰え(老い)ではないのか。
 もう一つおまけで、言い残したこと。それはこの『三軒目のドラキュラ』題の意味。
 作者自身は、あとがきの中で伝説の「ドラキュラ譚」にふれながらも、ドラキュラそれ自身の形象は作品の中には出て来ない、と書いていた。しかし私なら、この「ドラキュラ」というイメージこそ、「合意」をしないで相手と交わるものの一番わかりやすいイメージとしてあるのだと説明したいと思う。また作者はあとがきの中で「吸血」というイメージにこだわっていたが、私からみれば、「吸血」のイメージはさほど問題ではない。紳士のくせに「合意」ぬきに相手と交わる(それが血を吸うということになる)イメージそのものが実は作者の手に入れたかったもののように思われるからである。
 確かに「老い」の失うもの、手に入れられないと感じているものは肉、肉体、つまり血である。ドラキュラが若返るために血を求めると言うのもそこからすれば自然であろう。冗談をこめて言えば、血や肉は「内蔵」である。「内蔵」をいただくというのは、「臓器移植」の問題になる。ドラキュラが血を吸うことのイメージは、現代風に言えばまさに「臓器移植」のイメージにつながる。とすれば「臓器移植」の主題は、考えられているほど非文学的なことではないのである。私はそう思っている。そこからみれば「インフォームドコンセント」の主題までは紙一重ではないだろうか。



短編集『グフグフグフフ』小論


 電話が主人公だということ、作者の作品には常に電話という状況がテーマになっているということ、このことを私は何度強調してきたことか。このことを理解することはしかし容易ではない。

1 『つまり、そういうこと』

 二番目の短編『つまり、そういうこと』から取り上げる。この作品は、題の奇妙さ、内容の不思議さにもかかわらず、作品としてはある意味ではわかりやすい構成をもっている。この短編に登場する「吉村さん」は、年輩のフリーターでイラストを書いている。が、彼が仕事を頼まれる会社では、若い女子社員が「気味悪い」と言っていつも彼の陰口をたたいている。特に問題になるのが彼に「電話」をかけたときである。何回かけても出ないし、たまに30回ぐらい待ってかかったときも、受話器の向こうで「今日は、電話のベルが百回鳴ってからでることにしています。ただ今九十二回ですので、あと八回、呼び出し音を続けてください」などと言うものだから、女子社員も頭に来るのである。
 そんな会社に新入社員の「カスミ」がやってきた。先輩の女子社員はいろいろと忠告してくれる。嫌なことをされても、がまんするのよ。しかし、「カスミ」にはそんな「嫌なこと」は何も起こらないのである。むしろ、電話にはやさしい「奥さん」がでて、いろいろと「話」をしてくれる。ある日、いつものように電話をすると「奥さん」が「吉村」と別れようと思っているの、というような話をする。そこで、そのことを「吉村さん」に尋ねると、自分には「奥さん」などいないと言う。そして、ある日「カスミ」が「吉村さんの奥さん」になっていて、彼の部屋を掃除しているところで話が終わるのである。
 なんていう話なんだ、と読者は思うかも知れない。何が「つまり、そういうこと」なんだと。どこが「比較的わかりやすい構成」になっているのだと。中年か、初老か、「オジン」と呼ばれてしまう独身の「おじさん」が、いつの間にやら「若い娘さん」を嫁さんにもらっている、ということで終わる話の、どこがおもしろいのだと。
 私たちはこういう物語の「主人公」を理解するすべをたぶん持っていないと私は思う。この作品の主人公は、決して「吉村さん」ではないし、「カスミ」でもないからである。そういう人物たちがもし主人公なら、この物語はどこがおもしろいのだと文句を言えばいいだろう。しかし、そうではなかったのである。この作品の主人公は「電話」だったのだから。
 少し注意深い読者なら「電話」に出ているのが「猫」であることは、最後になって分かったことと思う。その「猫」は、ふだん「吉村」の悪口を言っている女子社員には「きんきん声の無愛想な女の人」として応対し、仕返しをしていたのだろう。しかし「吉村さん」に妙な先入観をもたない「カスミ」には大変好意的に対応していてくれていたのである。
 ここで問題にされていることは一体何であるのか。単純に考えれば「吉村さん」の「孤独」が問題にされているみたいである。年齢的、職業的に、周りから十分に認められない「吉村さん」に、すでにすすんで関係を持とうとする人はいなくなっている。そんな彼と、先入観を持たない「カスミ」との関係を取り持とうとするのが、「電話」の向こうの「猫」であった・・・。こういうふうに考えれば、こういう作品の設定はファンタジーというのか、おとぎ話というのか、現実離れしている物語だけれど、なんとなくわかるというふうになるかも知れない。
 しかし、そんなファンタジーやおとぎ話を作者が書こうとしたとも私には思えない。ではこういう設定で作者は何を描こうとしていたのだろうか。
問われるべきことは、「電話」の向こうには何があるのか、という問いである。「電話の向こう」、これなのである。ここに上野瞭の常に反復してきた主題がある。
 わかりやすく説明するのは難しいが、上野瞭の「電話の向こう」に一番近いイメージは『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)の中のあの「裏庭のドアの向こう」であろう。そこにあるのは「おとぎの国」なんかではなく、一人のおばさんの過去であった。主人公のトムはある時この「裏庭」でおばさんの過去を共に生きるのである。
 私なりに言えば、この「裏庭のドアの向こう」は、まさに異質を生きる他人の人生そのものである。トムはこのドアの向こうで、異質な人生と交わったのである。この異質の人生と「混じる」というのが、この物語の主題なのだが、この「混じり」は言い方を変えると、ある意味での「性的なイメージ」を含むものであることがわかる。というのも、「性」というのは、異質な者同士が「混じり合う」偉大なシステムだったからである。
 話を『つまり、そういうこと』に戻すと、まず「カスミ」の前に「電話」があらわれ、その電話の向こうの「女の人」と話をした。しかしその相手は実際には異質を生きる「猫」であった。しかし「猫」と話をすることができたおかげで、みんなが「気持ち悪い」と避けていた異質な「吉村さん」と交わる(奥さんになる)ことができていった、のである。そういう結婚が良いのか悪いのかというようなところに作者の関心があるわけではない。「異質が交わる」ということは、大なり小なりこういう手続きを踏むことなのだと作者は言っているみたいなのだ。

2 『グフグフグフフ』

 この作品も「電話」の前に座っている人物の描写から始まっている。ここでもなぜ「電話」からはじまるのかという問いを欠かすわけにはいかない。作品ではこの電話の前の人物が犬であることはすぐに知らされる。犬が電話のベルの鳴るのを待っている、奇妙な設定である。
作品のあらすじはどうなっているのか。
 電話の前の犬(長太郎)は、この家(笹原家)に預けられた年寄りの犬である。何やら親戚に預けられる身寄りのない年寄りの、その老後の寓話かなというような話の始まり方である。事実、笹原家のメンバーは、このよぼよぼの長太郎を毛嫌いし邪魔者扱いする。なんでこんな老いぼれた犬の面倒を見ないといけないんだ、と。もし読者の家にこんな老いた犬を突然預けられたら、誰でもこういう邪険な反応をとるだろうなというようにして話がはじまる。
 ところが話は始まってみると、長太郎に邪険にしているように見える笹原家の家族が、文句を言いながらも結構長太郎を「相手」にしはじめるのである。むろん自分たちに都合のいいように、であるが。そこから話が「老後の生活をおくる老人の寓話」なんかではないのだということが少しずつわかってくる。
 なかでも、夫の啓介さんと奥さんの和子さんの、長太郎への対応が見物になる。二人は共に日頃の仕事の鬱憤を晴らすかのように、長太郎に向かって喋りかける。特に酒の勢いを借りたときなどは、長太郎にいろいろとからみ出すのである。そうなると物語は、何やら犬と飼い主の笑いあり涙ありの「ムツゴロウさん動物王国」のような様相を見ることになる。しかし、読みすすんでゆくと、どうもそういう話の展開でもなさそうであることがわかってくる。長太郎は「相手」にされつつ「人間の言葉」を喋るようになりだすからである。犬が人間の言葉を喋る? これは一体どういう物語なのか。
 作者の関心はたぶん独特なところに置かれている。
 私たちにわかることは、夫の啓介さんや妻の和子さんが、どうしても愚痴をいい、悪態をつかないとおさまらない日常生活を送っており、その愚痴や悪態のはけ口として、その鬱憤晴らしとして、とにかく長太郎を「相手」にしだしたという事実である。しかし、その結果長太郎は、特に奥さんの和子さんの心情がなんとなくわかるようになってゆく。ここがおもしろいところである。
 前の飼い主の石川悠子さんは、確かに礼儀正しくと言うか、紳士的(淑女的)にかわいがってくれていて、今度の預け主の和子さんとは大違いなのだが、しかしこの和子さんに長太郎は、もとの飼い主にないものを今は感じている。それは、お酒を飲んで、悪態をついて、長太郎に自分と同じような境遇の相手として話しかけ、なおかつ酒を飲めと迫ってくる、そういう関わり方である。こんなことは前の飼い主にはなかったことである。

 でも、和子さんを「いやな人間」と思えないのは、ぼくにビールを飲ませ  てくれるからじゃない。酔っぱらうと和子さんは、ぼくが犬であることも忘  れて、なんでも話してくれるからだ。ぼくも和子さんの相手をしていると、  犬だとか人間だとかそういう区別を忘れて、「同じ生きもの同士」という感  じがしてくるから、そこが気にいってるんだ。

 こうして長太郎はある日和子さんから、「電話」にぐらいでなさいよ!といわれてしまうのである。その時から「電話」のことが気になりだした。
 こういう作品構成において、作者は何が描きたかったのだろうか。おそらくこういうことではないのかと私は思う。
 作者(私たち)のなかには、どうしても誰かに「分かってもらえない事情」がある。それを抱えて私たちは生きている。でもこの「分かってもらえない」ことはわかっているのに、心のどこかでかすかに「分かってもらえる」ことを期待しているところがある。この「誰にも分かってもらえない事情」というのを、言葉で説明することはできにくい。この辺の事情については、猫のネリがもっともはっきりした辛辣な見解をもっている。

 あんたって、救いようのないばかな犬ね。犬が人間に手紙書いてどうする  のよ。ここのダンナといっしょだよ。理解されたいなんて、そんな甘ったれ  たこと、どうして考えるのよ。あんたの悠子さんとかいう奴、あんたをかわ  いがっていたか知らないけど、結局は、この家の連中と同じ人間だよ。あた  したち別の生きものはね、ぜったい理解などしあえないんだからね。

 「ぜったいに理解しあえないこと」、それは何なのだろう。ここでは「別の生きもの」などと言われているが、むろんそんなことを作者は言いたいわけではない。私にわかることは、それは私たちの避けようのなかった「過去」の存在であり、その「過去」によって規定されている現在の自分のありようの姿である。私たちはその避けようのなかった「過去」の中の「罪」や「過ち」、「後悔」や「悔悟」に対してほとんどなすすべがなく、「くそったれ」とか「こんちくしょう」とか「バーカ」と言うのがせいいっぱいの時がある。
 ここで私のいう「過去」とは、誤解されるかも知れないが、「私の育った国」「私の育った家族」「私の作った人間関係」のすべてをひっくるめた別名である。
 そういう避けようのない「過去」にとことん苦しんだ人といえば太宰治が思い出されるが、しかし彼は「くそったれ」と言えずに、早くから「グットバイ」と言えれば十分だと思っていた。
 私たちに「悪態論」が必要なのはそこである。
 「悪態」とは単なる悪口のことではない。何かしらどうしても許せないことがあり、それに向かって私たちは悪態をつくのである。ところでその悪態の対象は、しばしば仕事仲間や上役や後輩であったり、親しいはずの家族や知人であったりするのだが、実際にはそういう「相手」に、まるで自分自身の許せないものを見ているように感じている時がある。きっと自分の嫌な面を見たと感じるところがあるのだ。だから、それは切って捨てられないのである。いつの間にやらまた目の前に現れる。だから「悪態」をつくしかないのだ。その「相手」があれこれの「過去」から現れるのだとしたらなおさらである。
 しかし「悪態」にもきっと「効用」があるにちがいない。
 和子さんは、悪態をつくことで長太郎に喋る「相手」を見いだし始めていた。そして逆に長太郎も、そういう和子さん独特のアプローチの中に、しだいに和子さんとの「やりとりの感じ」がわかってくるのを感じていた。そしてついに「人間の言葉」で和子さんに反応するようになり始めるのである。
 ここには人間と動物の「愛情あふれる交流の物語」が描かれているのではない。繰り返して言うことになるが、ここで言う人間と犬の対比は、人生を異にするもの、過去を異にするものの対比である。だからここに見いだされるのは、まさに交われない異質な人生(異質な過去、異質な家族、異質な母国)を生きる者が、何かしら垣根をとっぱらって通じ合うことのできる瞬間の光景である。それは実は「奇跡」みたいな瞬間である。だが確実に、そういう瞬間が人生の中に「いたずら」みたいにして出現するときがあるのだ。事実和子さんの「くだまき」の中にも、そういう「奇跡」みたいな瞬間がいくつもあったにちがいない。だからそういう瞬間を通して、逆に長太郎も「人間の言葉」を瞬間的に喋ることができていたに違いない。
 そしてこの「奇跡の瞬間」を、長太郎はいつしか「電話に出る」ということでもっとはっきりと体験できるのではないかと思い始める。むろんそれは幻想である。「電話」でそんな奇跡が体験できるわけがない。しかし長太郎はいつしかそういう夢想にとりつかれるようになり、ほとんど何もしないで(食事もろくにとらないで)じっと電話の前に寝そべっているようになりだすのである。笹原家の人は心配し始める。医者にも診てもらった。老衰なんだろう、きっと。
 しかし猫のネリだけはその原因を知っていた。物語の最後になって、元気のなくなっている長太郎に、猫のネリが「電話」をかけることになる。粋なシーンである。長太郎は緊張してやっとこさ「もしもし長太郎ですが」と言った。

「長太郎? 長太郎ね?」
「どう? 電話にでた感じ? これであんた、元気にならなくちゃ知らな  いわよ。こら、長太郎。なんとかいいなよ。」

 電話の向こうのネリのぶっきらぼうな声。短い会話だったけれど、長太郎はそれで確認できたと思った。何かが通じたと。「奇跡の瞬間」はあるのだと。そしてその場面で彼は「グフグフグフフ」と笑ったのである。

 おそらく作者は、「誰にもわかってもらえない事情」を抱えつつ、しかしそれでも誰かと通じ合える「奇跡の瞬間」のあることをどこかで頑なに信じている。作品『グフグフグフフ』では、犬の長太郎にその「奇跡の瞬間」を体験させることになるのは、和子というユニークなお酒の好きな奥さんであったが、言うまでもなくこの「和子」は作者の分身である。太宰治もこう書いていた。

  「あれこれと考え出すと、私は酒を飲まずにおられなくなります。酒によっ  て自分の文学観や作品が左右されるとは思いませんが、ただ酒は私の生活を  非常にゆすぶっている。前にも申しましたように、人と会っても満足に話が  できず、後であれを言えばよかった、こうも言えばよかったなどと口惜しく  思います。」

3 『ぼくらのラブ・コール』

 「電話」が、大変不気味に活用される近未来の時代設定の話である。この作品に多言は無用であろう。読まれたとおりである。親と子が授業の一環として携帯電話で「ラブ・コール」し合うことが「採点」の対象になる時代の物語である。むろんあり得ないような話であるが、雰囲気としては何やらG・オーウェルの『1984年』のような作品になっている。
 ところで「携帯電話」は、この作品が書かれた1993年からすれば、すでに格段の違いで普及してきている。特に恋人同士では、たえず連絡を取り合う時代がやってきた。「携帯電話」でしょっちゅう「愛」を確認し合う時代が。そういう「愛の確認」が、授業の一環として義務づけされる時代がこの作品の時代背景なのである。確かにこの空想は荒唐無稽かもしれないが、「携帯電話」の普及がもたらす、変な「確認の時代」が来つつあることは、何となく理解できそうな気がするではないか。

4 『きみ知るやクサヤノヒモノ』

 「災いの元」というようなものがある? 「疫病神」とでもいうべきものが?
一年前の小学校4年の時、信(のぶ)のパパとママは離婚した。そのときからママの小泉由紀は、何か嫌なことがあると「あいつめ!」と言うのだった。「あいつ」のためにいま自分はこんなおかしな目に遭っている! というわけだ。だから、雨が降って洗濯物が濡れても、ママは「やだ、あいつめ!」と言う。「あいつ」とはもちろんパパのこと(みたい)だ。

 だれだって、いやなことがあったときや、自分がめちゃ自信をなくしたと  き、ひとり言、いうと思うんだ。誰か他人のせいにして、気分、変えようと  するもんだ。ママの場合、それはパパをダシに使うことで、いやなことはみ  んな「あいつ」のせいにして頑張ってきた。

 と、信も理解している。でも時々勝手だなと思うときもある。そんなある日、信に「着陸します。そちら、受けいれ能勢いいですか」と言う声が聞こえてきた。「誰かが呼びかけてきたのだ」「でも、いつも声だけで、振りむくと誰もいなかった」。ある時その「声」の主が一匹の「蚊」であることに気がつくのである。「蚊」は信に自分は「蚊星人」であることを名乗った。物語はそうして始まることになる。
 この作品の見所は信がこの蚊星人とおしゃべりするところにあるのだが、こういう架空のおしゃべりができるということ自体が実は、何らかの災いを払いのける儀式みたいなものになっている可能性がある。
 この作品の最初に、信が学校に提出した作文で、ママにしかられる場面がある。信はその作文でありもしないウソの話をいっぱい書いていたからである。

 ぼくには本当のお母さんがいません。今いる母は継母です。近所のおばさ  んは、やさしいおかあさんねといいますが、それは継母のおそろしさを知ら  ないからです。ぼくはこれまで、毒入りトマトをなんべんも食べさせられま  した。

 ぼくのおとうさんは、植物人間です。ぼくが幼稚園にはいった頃、もう病  院にいました。今もまだアメリカの病院にはいっています。

 ぼくには友達がいません。幼稚園の頃は、小森君や和子ちゃんとよく遊び  ましたが、小森君は自動車にひかれてしまいました。和子ちゃんは、一年生  のとき、変なお兄さんに誘拐されました。犯人はつかまったのですが、和子  ちゃんは遺体で見つかりました。ぼくは泣きました。

 ぼくは、いつもひとりで御飯を作ってひとりで食べています。おかあさん  はひとりでレストランへいってフランス料理を食べます。ぼくは、誰も話す  人がいないので、お皿やお鍋と話します。

 こんなことはもちろん「真っ赤なウソ」である。この作文を先生から見せられたとき、「頭にカッと血がのぼったよ」とママが憤慨して言う。そりゃそうだろうと、読者もママに同情して思うだろう。でもこういうことは、けっこう大なり小なり誰もがやっている。
 不利な状況に置かれたら、誰でも自分を有利な状況に持ち込もうとする。むろん不利な状況に置かれなくても、ある状況に居る自分がしんどいとき、私たちはそういう状況にいない自分を夢想してみることがある。要するに「違う自分」を造ってみるわけだ。
 信に「蚊星人」の「声」が聞こえたのはその時なのである。「その時」とは、まさに「もう一人の自分」を造ろうとする瞬間のことである。その時まるで「電話」がかかってきたみたいに、こちらの了解を求める声が聞こえる。

 着陸します。そちら、受けいれ態勢いいですか。ハロー、管制塔。準備OK?

 こうして、こういう「声」に応じることによって、私たちは「もう一人の自分」
を造りはじめる。
 ママもパパと別れる前は、何か嫌なことがあると「クサヤノヒモノ」のせいにしていた。これはムロアジという魚の干したもので、臭くてからい、ママの一番嫌いな食べ物だったみたいである。ところが離婚してからは、嫌なことがあるとなんでも「あいつ」のせいにする習慣に変わった。それから「童話」を書きはじめた。童話が、「クサヤノヒモノ」や「あいつ」の変わりになった(みたいだ。でもまだ「あいつ」って言っている時が多いかも)。ママに、あの例の作文の「ひどい嘘」のことで、えらく叱られ、「どこからこんな恐ろしいことおもいつくのよ」とつめよられたとき、ママから、と言いそうになり、ぐっと思いとどまったことがあった。信はこう感じることができるようになっていたからである。

 ママは、物語の中で、パパやぼくのことを殺したり、めためたに変えたり  して、そうやって自分でも頑張ってきたに違いない。ぼくは作文を書かされ  たとき、そのときはそうとわからなかったけれど、じつはママと同じことを  やっただけなのだ。ママやパパや小森や和子を、紙の上で殺すことによって、  いつもどこかで、ママやパパや小森や和子に頼っている自分を、すこしだけ  違う自分にしょうとしたのだろう。「いやな性格ね。どこからそんなことを」  とママにいわれたとき、「ママから」といいたくなったのは、そういうこと  を考えていたからだ。

 ここにはおそらく作者の創作の秘密が語られている。「声」といい、「電話」といい、そこは、実は「創作の始まる場所」「物語の生まれる場所」の意識だったのである。
 その「声」はどこからくるのか。それは「過去」、正確に言えば「災いとしての過去」いや「過去という災い」からである。それはまさに作者の嫌う「クサヤノヒモノ」なのだ。「君知るやクサヤノヒモノ」とは、何とまた巧妙な題をつけたことか。

 ひげのはえた天使が見えました、か
   ー『もしもしこちらメガネ病院』1985を読んでー

1 「ナンセンス」と「ユーモア」と

 「絵もない会話もないご本なんて何の役にたつのかしら」とぼやくのは『不思議の国のアリス』でした。アリスはその不思議の国で、身長や首がビューとのびてしまって泣き出す場面があります。部屋中がその涙で一杯になり、池みたいになったので、アリスが泳いでゆくというシーンです。ふざけた、馬鹿げたシーンですが、そういうシーンの積み重ねが『不思議の国のアリス』の全体ですから、この本は「ナンセンス」の本とされてきました。「ナンセンス」と「ユーモア」、この二つがこの本の特徴だといわれてきました。
 上野瞭さんの今度作られた『もしもしこちらメガネ病院』にも、美容院でおかしな髪型にされた娘さんが泣き出し、店の中が涙で一杯になるシーンがあって、この物語もそうとう「ナンセンス」な物語としてつくられています。「ピストルを乱射する警官」なんていうのは不謹慎そのものですが、昔大人気だった『がきデカ』というマンガの警官を思い出させるところもあって、どこかしらパロディーじみたものもあるといった感じがします。ナンセンスとギャグとパロディーとをミックスさせた作品・・? とにかくこんなはめを外した、はちゃめちゃな作品は上野瞭さんにとってははじめての作品だと思います。
 といいますのも、上野瞭さんの作品は、なかなか「羽目を外す」ことのできないスタイルでずーと来られたからです。主題の重さ(倫理的だということ)と、文体の堅実さ(話体にしない)が、「羽目を外す」ことを許してくれなかったからです。でも『三軒目のドラキュラ』を書かれてから(この作品は身震いするようなすごい本です)、なにかしら「やってしまった」という思い(譬えは悪いですが、好きな女性の処女を奪ってしまったというか、ととうとう彼女とできてしまったというような感じ)があって、ちょっと肩の力が抜けたと言いますか、もうこういう形で書くこともないのではないか、という思いがしているように感じます。(生身のご本人の感じのことではなく、上野瞭さんの作品史をたどってきた者として、まさにあの壮絶な作品『三軒目のドラキュラ』が書かれた後は、ちょっとそれに類するものは書けないのではないかと感じていました。)
 要するに方向転換する必要がきっとあったんではないかと思います。そこで偶然か、必然かわかりませんが、いま晩年学フォーラムで共通の話題になっている「定年」「退職」というという現実を引き受けられる中で、いままでの作品を支えていた現実性ー社会、会社、地位、学問、権力、闘争・・といった生臭い男社会の仕組みが、どうでもいいようなものとして見えてきたというか、以前ほどリアリティのあるものようには感じられなくなってきたというようなことがあるのではないかという気がします。だからそういう男社会の枠組みを前提とした世界を「足場」として作るような作品は作ることができなくなってきたというか、作る気もしなくなってきたというか、そういう作品の作り方にリアリティを持てなくなってきたというか、そういうことが起こってきていたのではないかと思われます。
 『グフグフグフフ』という作品で、まさにグフグフグフフという不気味で不敵な笑いをこめた作品を、作者の定年後の実質的な最初の作品として作られたのだとしたら、この作品で、「社会的なもの」を笑いものにするようなスタイルをはじめて考え出されたということになるのかもしれません。
 しかし『グフグフグフフ』でも、作者はまだ社会的なものを十分に相対化すること(捨ててしまうこと)ができていないと感じておられたんではないかという気がします。まだまだ社会の枠組みを前提とした作品になっている、この枠組みを何とかとっぱらった作品はできないものだろうか・・。たぶんそういう思いの中で、このはちゃめちゃな『もしもしこちらメガネ病院』が考案され、書かれたのではないでしょうか。といいますのも、この作品には「社会の約束事」に足場を持つような発想が何もないからです。つまり社会的に「正しい」ことを、断固書かないぞというような悪意に支えられているようなところすら感じるからです。

2 「間違うこと」を「おもしろがる」話

 たしかにこの『もしもしこちらメガネ病院』の物語は、言い間違い、聞き間違い、見間違い、書き間違い、ばかりを書き連ねたような作品になっています。間違いばかりが描かれているような物語になっています。間違うことがテーマであり、間違うことばかりを追っかけているような物語です。な、もんですから、この物語から「正しいこと」を読みとることはできません。この物語は「間違うこと」を「おもしろがる」というふうにできているもんですから、「間違うこと」を「よくない」と思っているうちには、この物語は「おもしろく」読めないようになっているんです。でも、なんで、こんな物語、書かはったんやろか。今までの上野瞭さんはこんな物語書かはらへんかったのになあ・・と首をかしげておられる方いませんか。その方はきっと正しく感じていらっしゃいます。
 でも何でこんな、「間違うこと」ばかりを並べ立てた物語を上野さんは書かれたのか、と問うてみることは大事なことです。
 いみじくもこの物語の舞台は「病院」ですから、間違いがあれば「正さ」なくてはならないんですが、この「病院」の経営者自身が間違いを正すどころか、次から次から「間違い」を作り出してゆくんですから、たまったもんじゃありません。そもそもこの「病院」の院長先生は看護婦さんを「バアサン」と言い間違え、看護婦さんは院長先生を「オジイサン」と言い間違え、患者は看護婦さんを「かんごくさん」と呼び間違え、カルテにはとんちんかんなことが書き違えされるというようなところから出発する物語なんですから、最初の一行目の「めがね病院」は3丁目の16番地にあります、という説明からしてたぶんに「間違い」ぽいように思われます。そもそも「正しい」ことはちっとも書かれていないんですから。でも何でこんな「間違いだらけの物語」書かれたのか。
 たぶん、「透明人間」の章がヒントを与えていると思います。声がすれど姿が見えない。これは、上野瞭さんがずーと追いかけてこられたテーマです。ここに「電話」のイメージが重ねられています。電話では声はすれど、姿は見えないからです。だから、人は「間違い」を犯すんです。「聞く」だけのものに「見る」ことをしてしまうんですから。これは「見る」方が悪いんだと言ってしまえば、「め」の問題になるでしょうか。たぶんにそうなんです。この物語が「メガネ病院」というように、「め」を扱う病院になっているのは、実はこのような理由があったんです。しかもこの「め」の病院が「もしもしこちら」という電話のイメージを取り付けているところなんかは、全く持って上野瞭さんの長年のモチーフを隠しながら見せているのがよくわかります。あとがきで作者は、この病院が「メダマ病院」にしないで「メガメ病院」にしたことを書いていますが、それは当然のことなんです。メダマという生理的な見え方の問題ではなく、色メガネというか、掛けるメガネによって見えたり見えなかったりするような、そういうおかしなメガネの世界を作者は問題にしたかったんですから。

3 上野瞭にしか書けない「ナンセンス」を求めて

 そういうおかしな世界のあり方をナンセンスと呼ぶのは、しかしちょっと誤解を招くところがあります。「ナンセンス」というのは、大変むずかいものだと思うからです。『不思議の国のアリス』が「ナンセンス」と呼ばれたのは、この作者がずば抜けた数学者であり、論理学者であり、「計算」しつくした上で、当時の退廃しつつあった末期のビクトリア王朝を思いっきり皮肉るナンセンスの物語を組み立てたからであって、そのナンセンスの謎解きはその後の多くの研究家によってしだいに明らかにされてきました。わたしは、上野瞭さんは、上野瞭さんにしか書けない「ナンセンス」を求めておられるように思います。それは誤解を恐れずに言いましたら『もしもしこちらメガネ病院』の中心におかれた「病院」のパターンではないような気がしています。「治療」をもう一回転させたナンセンスを書きたいと思っていらっしゃるように思います。もう一回転させたというのは変な言い方ですが、笑いながら「毒」をなめさせるようなといえばよいでしょうか、「毒」のない上野瞭なんて、クリープのないなんとか、とご自分でも感じておられることですから。たぶんこの作品で試し切りされた刀でもって、かっての『今昔物語』のような、不思議な倫理と、スケールの大きいナンセンスと、哀愁のある笑いと、不気味な怪異を秘めた新しい世界を切り開くことを夢想されているような感じがしています。
 今は昔、髭の生えた天使を見たと申すものありけり。
 「ひげの生えた天使」なんていうのも「間違い」です。見間違いです。それは「正しく」ありません。「透明人間」だって、「ファックス人間」だってそうです。でも、このメガネ病院にかかわる人は、それを「見た」といってはばかりません。そういう「見方」は、この社会では「治療」されなくてはなりません。でも、「今昔物語」では、そんなものが見えて当たり前の世界ですし、「間違っている」わけでもありません。
 今は昔、京の北区に髭の生えた天使を見たと申すものありけり。
                   『もしもしこちら今昔物語』から
 

 

 

批評の批評

映画『ゴジラ』と映画『ビルマの竪琴』の共通性について
村瀬 学

1 『ゴジラ』と『ビルマの竪琴』は似ている?

 映画『ゴジラ』は1954年、その2年後の1956年に市川崑監督映画『ビルマの竪琴』が公開され、当時から両方とも多くの観客を得ていた。戦争が終わって、まだ10年が立つか立たないかの間に作られたこの二つの映画には、その後、何かを論じる人にとってはきっと試されるものがある。
 まず、二つの映画を並べて論じることに抵抗を覚える人がおられるだろう。『ゴジラ』は子ども向けの娯楽映画で、『ビルマの竪琴』は戦争映画だから、という人もおられるかもしれない。しかし、この二つの映画の一番最後のシーンはとてもよく似ている。ともに太平洋の波間を撮していたからだ。しかし、そんな一番最後のシーンだけが似ているからと言って、娯楽映画と戦争映画を比較してもらっては困ると言われる人もいるかも知れない。でも、私は、この二つの映画はいろんな点で似ていると感じてきた。制作の時期がまず似ているということも、大事なことだが、その他にもたくさん両者は似ていると感じてきた。まるで双子の映画のように。そこのところを今回すこし考えてみたい。
 まず先に、違う点から考えてみる。多くの人が、映画『ビルマの竪琴』は「戦争映画」だと言ってきたのはどういう理由からだろうか。おそらく、映画の中に「兵士」がおり、「戦場」があり、「戦闘のシーン」があるからということになるだろう。しかし、そうだとしたら映画『ゴジラ』にも「戦場」や「戦闘シーン」が出てくる。東京に責めてくる怪獣を自衛隊の戦車が迎え撃つシーンが出てくるからだ。
 それでは、無惨に人が殺されるシーンが描かれるという点ではどうか。「戦争映画」では、確かに多くの人が殺される。しかし、『ゴジラ』でもそういうシーンは描かれる。人々は、ゴジラに破壊された町の中を逃げまどい、壊れた家の下敷きになって死んでしまう。ひどい殺戮が描かれる点では二つの映画は似ている。
 にもかかわらず、『ゴジラ』は娯楽映画で『ビルマの竪琴』は戦争映画だとされてきた。おそらく前者は、ありえない架空の怪獣と闘う絵空物語でしかないが、後者は現実に起こった戦争での殺し合いが描かれているから、と感じられてきたからであろう。

2 何か意図があったに違いない

 実は、上野瞭さんは前回に紹介してきた最初の評論集『戦後児童文学論』にこんな副題をつけておられた。「『ビルマの竪琴』から『ゴジラ』まで」と。事実、この評論集の一番最初には、すでに取り上げてきた「戦後児童文学の不幸なる起点ー『ビルマの竪琴』について」が置かれていた。そして一番最後には、「部分的「怪獣大戦争」論・ゴジラの変貌について」という論考が置かれていたのである。ここには、何か意図があったに違いない。
 上野瞭さんは、最後に置いた論考の中で「怪獣映画がいかなる発想を持っているか」と問うていた。そして、こういう「答え」を書かれていた。
 「ゴジラは、本来、人間に対立し、人間に襲いかかる「罰」そのものであった。いや、そういう発想に支えられたものであった。」
 何に対する「罰」か。「格差ある体制、格差ある秩序、そういう格差ある繁栄と高度成長をとげる」文明への「罰」として、と上野瞭さんは書かれていた。
 こういう風に言ってしまうと『ゴジラ』フアンからは異論がでてくるかもしれないが、私のこの論の流れからしても、少し困ったことになる。『ゴジラ』と『ビルマの竪琴』の共通性を論じようとしているのに、ゴジラが破壊者であったといってしまうだけでは、両方をつなぐ接点が見えなくなってしまうからだ。『ビルマの竪琴』にはそんなモチーフは見あたらないではないかと。
 上野瞭さんの結論を生かすには、まだいくつかの手続きがきっと必要なのだろう。

3 「爆発物」と「地下資源」の構図

 もともとアジアで展開された日本の侵略戦争の根本の動機は何かというと、南方石油の地下資源を手に入れるためであった。そこには軍部と結託した当時の日本の巨大資本の動向があった。アジアの地下に眠る「宝物」、それを手に入れるために「兵士」は「南下」させられていった。
 ところで、地下に眠る膨大な宝物を「掘り出す」には、何が必要なのか。「爆薬」である。ノーベルがダイナマイトを発明(1866年)してから、強力な爆発力を使うことで、岩石を破壊し、石炭や石油を発掘することが可能になり、それが「先進国」を作り、「文明国」を築いていくことになった。そしてこの岩石を破壊する爆薬が、「後進国」の土地の地下資源を手に入れるための「武器」にも転用されてゆき、それが「近代戦争」の出発にもなっていった。「戦争」というものを考えるときには、この「爆発物」と「地下資源」の構図は絶対に抜かすことはできない。
 おそらく『ビルマの竪琴』の背景にあった「ビルマ戦線」も、この「地下資源」を求めて「弾薬」や「兵士」を移動させる戦線であったことは確かである。現に映画の中でも、険しい山道を弾薬を積んだ荷車を必死で引っ張り上げる兵士が描かれていた。そういう「戦争」だからこそ、結局はより強力な「爆発物」を手にした方が勝つことはわかっている。「ビルマ戦線」の壊滅も、「爆発物」保有の差が圧倒的に作用した。
 ほとんどの批評家は評価しないのだが、小説『ビルマの竪琴』の大きなテーマの一つに、「武器」を放棄して投降するという決定的なシーンがある。このシーンがなければ、この小説は成り立たないし、映画もこのシーンをメインの一つに据えている。やむを得ない「降伏」ではなくて、「歌を歌う部隊」ならではの「降伏」、と読み手に判断せるような「降伏」が描かれる。その証拠に、別な部隊は、水島上等兵の説得にもかかわらず「武器」を捨てずに「玉砕」するからである。この、「武器を捨てる部隊」と「武器を捨てない部隊」の対比も、この作品や映画の見せ所なのに、『ビルマの竪琴』を論じる批評家は、取り上げない。そして、水島が僧侶となって個人的に責任を取るかのような行動をとることところばかりに目を向けてきた。これは、不自然な批評だと私はずっと思ってきた。実際に映画を見た人も、きっとこの作品に「武器を捨てる部隊」と「武器を捨てない部隊」の対比を見てきたはずなのに。
 なんで、そういうことを問題するのかというと、「戦争」の本質の一つが「爆発物」を巡っているということを忘れないためである。「ビルマ戦線」で、水島が見た累々と横たわる屍の山は、実は「爆発物」を捨てられなかった部隊の末路であり、捨てさせなかった軍部の末路であった。『ビルマの竪琴』はそういう意味では、「武器よさらば」の物語でもあったはずである。子供たちは、こういう作品や映画を見て、大人のイデオロギー的な図式で見ようとするよりはるかに多様な読み取りをしていると私は思う。

4 「ゴジラ」はなぜ「破壊」し続けるのか

 改めていうと『ビルマの竪琴』は、「北」に住むものが、アジアの地下資源を、「爆発物」と「武器」で手に入れようと「南下」して争う悲劇と、その悲劇に翻弄される「南」の人々の悲劇を描くものになっていた。その主題の達成度は、読み方によって大きく異なるものになるにしろ。
 では映画『ゴジラ』はどうなのか。もともとゴジラは南海の原爆実験で、地下に眠っていた古代の怪獣が放射能を浴びて、突然変異を起こし、巨大化したものと言われている。原爆とは、「爆発物」の最も進化させたもので、いわば「文明」の最先端が産み出したものなのだが、その最先端の「文明」が産み出したのがゴジラであった。別なふうに言えば、この文明の発明がなければ、ゴジラも存在しなかった。
 こうして「南」が実験場にされて、「南」で生まれた「怪獣」が、「北」の侵略国である日本に乗り込んできたのある。「爆発物」が生んだこの巨大怪獣が、今度は爆発物を作り出した文明国に侵攻してきたのである。そして都市を次々に「破壊」し「進撃」する。
 もし『ビルマの竪琴』が「北」で作られたものが「南」に侵攻する物語だったとしたら、『ゴジラ』は「南」で作られたものが「北」に侵攻する物語になっている、ということができる。つまり、方向が逆の物語になっているということである。
 『ゴジラ』では、多くの一般市民、非戦闘員が殺されてしまうのであるが、それはかつての「アジア戦線」でもしばしば起こったことであった。つまり、かつてアジアで起こったことが、今度は東京で起こってしまったのである。
上野瞭さんは、そういうゴジラに「破壊者」を見たのだが、それはゴジラに体現された文明の先端のもたらす破壊であって、ゴジラそのものがもともとから「悪者」だったからでは決してない。ゴジラも文明の被害者だったのだから。
 ではいったい映画『ゴジラ』は何を訴えるものになっていると考えればいいのか。おそらく、この映画を見る子供たちは、「ゴジラ」って何なのだ、なんでこいつは破壊ばかりし続けるのかとという疑問を消すことができない。この疑問が消えないから、また次のゴジラシリーズを見ようとすることになる。でも、こういう「問い」をいつまでも続けさせることがとても大事だと思う。映画『ゴジラ』がこの上なく好きだという人は、ただ破壊する怪獣が好きなのではなく、謎と問いを秘めて歩き続けるこの怪獣の姿に魅せられてきたのだと思う。それは、文明の格差と文明の恩恵を受けて生きている私たち「先進国」の誰でもがどこかで抱えている謎と問いでもあったのだから。
 二つの映画はともに太平洋の波間を撮しながら終わってゆく。それは、太平洋が「太平洋戦争」の象徴だったからだろう。「宝物」の宝庫である「太平洋」、そこから生まれたゴジラ、おそらく「戦争」の始まりと終わりが、きっとこの波間の映像に象徴されていたであろう。

  5 「ゴジラ」がやってくるわけ

 話は少し変わるのだが、アフガニスタンにも地下に眠る巨大な地下資源がある。昨年のアフガニスタンの戦争が終わると、アメリカの石油資本や天然ガス資本の会社が早々と現地に乗り込んできて、今次々に、各地の有力者と提携を結んでいるとか、事実上のアフガニスタンの実権を握ったカルザイ氏が、実はアメリカに長年家族を住まわせていて、実業家としてブッシュ大統領系の資本から多大な援助を受けてきたとかいう話を、久米宏の「ニュース・ステーション」が得意げに放映していた。「ニュース・ステーション」らしいというか、いかにも「ニュース・ステーション」はここまで知ってるんだぞ、といわんばかりの放映だった。あんたには言われたくないよな、というのもあるのだが、これはたぶん大筋正解の報道なのだと私も思う。
 アメリカは、アフガニスタンをタリバンから解放するためという名目の元に、多くの市民を巻き込む激しい無差別空爆を決行したが、それはブッシュ系の資本を投入するためだった、という話の落ちである。いくつかの誇張された話を差し引いても、おそらくこういう話の大筋は事実なのだと私も思う。「テロへの報復」という大義名分からはじまったこの「戦争」が、結果的に完全にアメリカ資本勝利に動いていったことは、NHKの「戦争テクニック」の解説ばかりを見せられてきた私たちにとっては、なかなかわからない部分だった。こういう構図はいずれ腕利きの記者が大部の本にして描いてくれるのだろうが、こういう背後の動きをもっとはっきりと見せつけられたら、きっと腹立たしさを越えて、空しさが沸き上がるに違いない。
 鈴木宗男が強引に進めた北方領土支援、アフリカ支援という大義名分でも、美名の元に、実は地元の有力資本や多額の政治献金をしてくれる資本を、そこへ投入するための施策にすぎなかった、というような利権の構図を今見せつけられるわけで、本当にそうであったのかどうかは、この機会にぜひ徹底して解明してもらいたいものだと思う。文明の恩恵は、もっと広く平等に人々に分け与えられるべきである。上野瞭さんが言っていたように、「格差ある体制、格差ある秩序、そういう格差ある繁栄と高度成長をとげる」文明への「罰」として「ゴジラ」がやってきたのだとしたら、また無差別破壊をする「新しいゴジラ」が、昨年の「9.11事件」を上回る規模でやってくるかも知れない。

 

 

2 『ビルマの竪琴』の論じられ方の奇妙さについて
村瀬 学

1 『ビルマの竪琴』(新潮文庫)の要約

 『ビルマの竪琴』を仮に要約するならこうなるだろうか。ビルマの北部の戦争が舞台である。その戦争で敗走する日本兵の部隊の中に、音楽学校を出た若い隊長がいた。その隊長は、ヒマがあると兵隊たちに合唱を教えていた。そして歌うことで団結したり、時には戦局を切り抜けることもあった。その部隊の中に、水島上等兵がいて、彼は自分でビルマの竪琴に似た楽器を作って器用に伴奏をしていた。そんな敗走の中で、ある日部隊は戦争が終わったことを知らされ、降伏する。しかし、現地にはまだ、終戦を知らずに闘っている部隊がいる。そこで水島上等兵が、無意味な戦死を避けるように説得に派遣されることになる。そして残りの部隊は、南の捕虜収容所に送られることになる。しかし水島の説得工作は失敗し、彼も負傷し、ビルマの僧に助けられる。負傷が直って、水島上等兵はビルマの僧の袈裟を盗んで、僧の格好をしたままで、北から南の収容所まで仲間の部隊に合流するために歩いて出発する。しかし、その途中で、野ざらしになったままの戦死したたくさんの日本兵を目撃する。その日本兵の屍を、敵国のイギリスの看護婦たちが賛美歌を歌って弔ってくれているのを目にする。そこで、彼は捕虜収容所まで行って仲間と顔を合わすのだが、自分が水島上等兵であることを名乗らずに、みんなから一人別れて、野ざらしになった日本兵の屍を弔う旅に出発する。およそ、そういうふうな筋だと言えるだろうか。
 『ビルマの竪琴』が出版されたのは、昭和23年。その年にこの作品は毎日出版文化賞、25年には文部大臣賞を受けている。おそらく、それは妥当な受賞であったと私は思う。のちにその理由は説明することになるが、作品はふつうに読めばたいていの人は感動するように作られており、その感動は、けっこう深い所からくるものであることがわかる。そういう読み手の共通した感じが、いくつかの大きな受賞になってあらわれたのであろう。
 ところが、しばらくして、この作品を批判するような評論が出てきた。そうした批判的な論を見ながら、上野瞭さんが、そうした批判的な論に反批判を加えながら、上野瞭独自の批判を加える論を発表した。それが「戦後児童文学の不幸なる起点ー『ビルマの竪琴』について」という論考であり、彼の最初の批評集である『戦後児童文学論』理論社1967の一番最初に収められた記念すべき論である。この論は、もともとは『日本児童文学』1965年6月号に発表された上野瞭37歳の時の論考である。ではなぜ彼の批評活動の最初に『ビルマの竪琴』の批判を持ってきたのか? その理由を尋ねることは興味がある。

2  上野瞭さんによる『ビルマの竪琴』の批評

 『ビルマの竪琴』から読者が得る共通のイメージは、「戦死者をほったらかしにしないで弔うというテーマ」である。これに尽きると言っても良い。それだけのテーマがなぜ「感動的に」に書かれることになったのかというと、「ビルマ」という異国で戦死した多くの同胞を、そのままにして帰国する仲間とたった一人残って弔う決心をする水島上等兵が対比させられるからである。このわかりやすい対比の中で、仲間と水島の最後の別れがくる。この場面を「感動」して読まないようにすることにむしろ無理がある。
 しかし、上野瞭さんはこの『ビルマの竪琴』を「戦後児童文学の不幸なる起点」と呼んだ。なぜそんなふうに呼ぼうとしたのか。
 上野さんは、この作品の肯定的批評と、批判的批評をまず丁寧に紹介する。肯定的批評が出てくるのは当然であるが、しかしその肯定の仕方にはどこか釈然としないものが多いと上野瞭さんは当時感じていた。「平和の主題」「平和への願いがこめられている」とか「人間の尊厳」が描かれているというような批評の仕方は、肯定的な批評にしてはあまりに観念的すぎるように感じられたからだ。
 その一方で批判的な批評にはもっと注目した。中でも竹内好の批判には注目している。竹内好はこの『ビルマの竪琴』をこう批判していたからである。
 「水島を理想化することによって戦争批判を行っているわけだが、この戦争批判の角度に私は問題を感じる。戦争を宿命的なものとする考え方と、その救済を精神的な方面に求める態度が強調されているのが私には不満なのである」
 そして続けて水島上等兵のとった態度を「解決ではなくて解決の回避」であり、「日本軍を秩序ある集団と描くことからくる物語のリアリティの消失」を指摘し、「人間愛が観念として処理されている」とも言い、「ビルマ人やカチン族に対して一種の蔑視がある」とも指摘する。だから「文章はすぐれているが健康でない」と言い、確かに「少年読み物の秀作であるばかりでなく、戦後文学の代表作の一つであろうと思う。しかし、その根本にひそんでいる人間蔑視と、一種の頽廃思想とは、それとして指摘しておかなくてはならない」と。
 強烈な批判が登場したものである。この批判を境に多くの批判がたくさん出てくることになる。
 そういう批判を見ながら、上野瞭さんは、本当にそうだろうかと疑問を投げかける。この作品はそういうふうに批判されるだけのものだろうかと。上野さんは、鶴見俊輔さんらが書かれた「大衆芸術名作百選・解説」の中に、この作品が鞍馬天狗や宮本武蔵と比べられ「戦争を悔いた元兵士が、戦後に敵味方の死者の苦境をとむらうために、僧侶となって戦場をめぐる話。熊谷次郎直道以来の、日本の大衆芸術の回帰的主題を、東洋との連帯の上にくりひろげた少年教養小説である」と書かれている評価を引用し、そういう見方に共感を示した。
 そしてその上で、上野瞭さん自身の批判を加えることになる。その批判点は4つにまとめられている。要点はこうである。
  1 国家を不動軸にした。
 戦争に駆り立てた国家のあり方を問う視線が希薄である。「戦闘集団としての軍隊」を描きながら、それが「天皇の軍隊」であったことが描かれていない。「歌う部隊」がひたすら歌うのは「埴生の宿」や「からたちの花」であって、決して「軍人勅諭」を歌うところは描かれていない。
  2 戦争責任を天皇制や国家機構ではなく、日本人一般、人間の問題にすりかえた。
 最後の水島の手紙に「わが国は戦争をして、敗けて、苦しんでいます。それはむだな欲を出したからです」という下りを見てもわかるように、「国の苦しみ」のようなイメージと、「ひとびとの苦しみ」があまりにもあっさりと重ねられすぎているところがある。「国の苦しみ」を生んだのは、人々ではなく、国家や国家機構なのに、それが「われわれの欲」のようなものと比較されている。
   3 戦争責任を無力な個人に還元する。
 戦争は「われわれが犯した罪」なのか。国家が犯させた罪なのか。もし、国家や国家機構を問わなければ、戦争で殺したり殺されたりしたことの責任は、そういうことをしてしまった個人の兵士の責任になってしまう。「兵士」は本当に「加害者」なのか。国家エゴイズムの「被害者」でもあるのではないか。どうして兵士たちは、「水島上等兵の言うように、「犯した罪」意識におののく加害者であらねばならないのか」と上野瞭さんは問う。
  4 水島一人で責任をとるやり方。
 上野瞭さんが最も問題にするのは、やはり作品のハイライトの設定である。作品では、戦争の責任を水島上等兵個人の心の葛藤の問題にしてしまい、その責任を水島上等兵がたった一人で引き受けるように描かれていた。それは問題ではないかと上野瞭さんは考え、こう書いていた。
 「作者が、みずから対峙すべき国家の問題を、水島上等兵の内面での自己対決に置きかえたことによって、読者に、一つの欺瞞の善を提示したことにもなるのだ。すなわち、読者は、一身に責任をかぶった水島上等兵の言動に感動し、共鳴し、さらに、そうした生き方に同化しようと考えて、そして、そのことが、ヒューマニズムであり、戦争を憎み、平和を祈念し、意志することになるという考えに行きつくこと、これは真の戦争責任の果たし方でもなく、一つの錯誤にみちた「戦後」の出発の仕方だったと言えるのである。」
 上野瞭さんのこの長編評論が「戦後児童文学の不幸なる起点ー『ビルマの竪琴』について」と題された理由は、これで少しはおわかりいただけただろうか。

3  村瀬学は『ビルマの竪琴』をどうみるのか

 私が今頃になってこの『ビルマの竪琴』を考えようと思ったのは、上野瞭さんの最初の批評活動をとらえ返すという課題もあったが、もう一つ動機があった。それは『現場の学問・学問の現場』世界思想社2000.12をペラペラめくっていたら、その中に偶然、山中速人「ポスト・コロニアリズムと映像批判ー映画「『ビルマの竪琴』と大衆のまなざし」ー」という論が目に入り、立ち読みしているうちにめらめらと気持ち悪さが出てくる体験をしていたからである。
 山中速人さんは映画『ビルマの竪琴』を取り上げ、この映画がいかに現地を無視した、日本人のご都合主義でできているかを指摘し、相手のミャンマー(当時のビルマ)の人にどう見られるのかを考慮していないと批判する論考を書いていた。つまり今流行の「植民地主義の後を考える(それを「ポスト・コロニアリズム」と呼んでいる)」発想の批評である。彼はその論考で、この映画『ビルマの竪琴』のいい加減さを指摘するために、現地の人たちにこの映画を直接に見せて、その反応をインタビュー形式で聞いたものを紹介している。現地の人は、ミャンマーの僧侶はあんなふうではないとか、当時の日本兵はあんなふうじゃなかったとか、そんなことを口々に言い合い、それを山中さんは拾い集めている。そういう「現地の人の批判の声」を集めて、だからこの映画は日本人が勝手に作った「ビルマの映画」であり、「ミャンマーの事実」からかけ離れている。そういう追求がいままでなされてこなかったというのである。
 私はあまりのばかばかしい論に、本当に気持ちが悪くなってしまった。一つはこの今流行の「ポスト・コロニアリズム」と呼ばれている批評の横柄さへの気持ち悪さである。やたらとかつての植民地の問題を取り出し、さまざまな現象をそういう問題にむすびつけてゆく。そして、そういうことに気が付いていない君らは、何も問題を見ていないというような態度の批評を展開する。こういう批評家の、いかにも自分は「正義の味方」なんだというポジションに立って物を言うあり方はホント気味が悪くてしょうがない。
 具体的に山中さんの論で、気味の悪い所を言えば、映画『ビルマの竪琴』を「現地の人」に見せるのに、全体は長すぎるというので、「現地の人」にかかわるところを5カ所だけ選んで見せて感想を聞く下りである。映画の全体も見せもせずに、部分だけを見せて感想を聞くなんて、まるで映倫が、裸のシーンだけを見てその映画の善し悪しを言うようなものじゃないかと思ったものだ。
 なによりも気味が悪かったのは、映画をドキュメンタリーというか記録映画のように見ようとしていることだった。そして「日本人」は「現地」をちゃんと見ていないし、ちゃんと紹介できていないと批判する。いかにも「現地」の立場に立った「ポスト・コロニアリズム」風の視点。しかし、こんな視点がちゃんちゃらおかしいのは、映画が映画として見られていないところにある。
 そもそも「現地」とは何なのか。映画や作品にとって「現地」とは何なのか。もし地理的に離れた場所が「現地」だとしたら、時間的に離れた場所も「現地」である。今の「ミャンマーの現地」と「50年前のビルマの現地」が違っているように、「現地」などというものが、そんなにわかりやすく存在しているわけではない。
 もし、つねに「作品」の「現地」が「問題」になるとするのなら、たとえばまず身近な日曜日の大河ドラマの設定から「問題」にしてもらいたいものだ。本当に「現地の信長の時代」ではあんなふうなしゃべり方や立ち振る舞いをしていたのか、そういうことを「問題」にしてみろと思うのだ。映画『山椒大夫』は、かつての人身売買をちゃんと反映させていたのか、風習や風俗は間違いがなかったのか。しかし、いくら時代考証に注意を払っても、誰も織田信長の時代を見たものはいないわけで、そこには憶測や想像が当然入ってしまうものだ。映画や創作ものは、いつでも「史実」に対しては「間違いだらけ」なのだ。
 だからこそ『七人の侍』や『ゴジラ』や『ビルマの竪琴』は映画であることを忘れてはならないのではないか。映画の中で起こったことを史実のように語ることには何か倒錯があるのではないか。子どもにしろ、大人にしろ、映画に見るものは「映画の現実」でしかないはずなのだ。
 そこで私の『ビルマの竪琴』の感想を言わなくてはならないのだが、私の感想はいたって簡単だ。『ビルマの竪琴』は創作物だし、創作物としてみればとてもうまくできている、という当たり前の評価だ。「合唱をする兵隊」なんか不自然だとか、「肩にオウムを乗せた僧侶」などいないとか、「ビルマ」という名称の国は存在しないとか、そういうことを言われれば言われるほど、だから「創作物」でそういう状況が作られるのではないかと私なら思う。『宝島』のジョン・シルバーの肩にオウムが止まっているのはおかしいなどと言った批評家を私は見たことがないが、僧侶の肩にオウムが止まっているのはおかしいなどという批評を目にすると、批評というのはそういうことをあげつらうものなのかとがっかりする。
 ベトナム反戦運動の時、フォークソングや恋の歌がよく歌われた。かつての日本の軍隊が合唱しなかったとしても、どうして創作物の軍隊が歌を歌ってはダメなのか。そんなことを言えば、ミッキーマウスやドナルドダックが人の言葉を喋る話もすべて非現実的で「おかしい」として批判されなくてはならない。
 かつて上野瞭さんは、しきりに「文学というのは真っ赤なウソをつくことだ」とくりかえし言っておられたものだ。もし、それが本当にそうなら、上野瞭さんが『ビルマの竪琴』に向けられた4つの批判軸は、どこか作品を歴史の記述のように見なして批判されているところを感じるのは、私だけではないだろう。もし、また上野瞭さんと話し合える時がもてたら、「いやあ、『ビルマの竪琴』はおもしろかったよ、せやけど、あれを史実みたいに考えるんなら、あんな水島上等兵みたいなことはしたらあかんと言いたいな、仲間の弔いは、もっと国と仲間みんなが分け合ってしないといかんものやからな。そやけど、あれは物語なんやから、あれはあれでええんや」というふうに言い直してほしいなと私はと思う。
「真っ赤なウソ」としての文学のレベルで言えば、この『ビルマの竪琴』という作品は、まず「戦争で死んだ人々を弔うということを忘れちゃならんぞ」というメッセージを、他のどんな作品よりもはっきりと単純に伝わるように作られていたと、私なら思います。

 

 

3 再び『ビルマの竪琴』の論じられ方について
村瀬 学

1 上野先生の言われていることが正しいと思うわ

 前回「『ビルマの竪琴』の論じられ方の奇妙さ」という文章を書いたのですが、岡部ベアトリスさんから「『ビルマの竪琴』批判では、上野先生の言われていることが正しいと思うわ。やっぱり、ビルマの話はおかしいもん」というような趣旨(ちょっとまとめすぎですけど)の指摘を受けて、話が盛り上がりました。ベアトリスさんは、「以前から、戦争の伝えられ方のこと(ナチスとユダヤ人と関係のことや、中国での虐殺というような伝えられ方のこと)を調べていると、どう考えてもビルマの戦争の伝えられ方では、上野先生の言われていることが正しいと思うよ」と言われるのでした。
 どうもベアトリスさんには、前回の私の論が「上野批判」のように見えていたのかもしれません。だから「村瀬さんは上野先生が生きておられたら、あの文章を書かれたのかしら」とニッコリ笑いながら聞かれるのです。ムム、このニッコリには、何とかしてお答えせにゃなりません。
 でも、事実は、ちょっと違うんですね。確かに、ベアトリスさんの最後の疑問から言えば、上野先生が亡くなられたから、『ビルマの竪琴』の批評を取り上げてみようとしたのかということでは、まさにそのとおりです、ということなんですね。亡くなられてはじめて、初期の評論を読み返す作業を始めたからです。ということは、先生が、もしまだ生きておられたら、いつでも話が出来るからと思って、わざわざ先生の出発点になる初期の批評を改めて読み返したりすることはなかったと思います。改めてそんなことをしなくても、喋りかければ目の前に先生がおられたんですから、疑問があれば、いつでもぶつけることができたんです。でも、亡くなられてはじめて、「ああ、もう、先生と話ができなくなってしまったんだなあ」と実感するようになってきました。そして、今になって、ああいうことも、こういうことも、もっとちゃんと聞いておくべきだったんだ、と感じるようになりました。
 そうなると、私にできることは、紙面の上で「対話」することしかありません。それで、できるだけ、初期の作品をみなさんに客観的に紹介するともに、それとの「対話」として私の疑問を最後に付け加えるという「工夫」をすることを考えたわけです。それが、私にできる精一杯のことだったからです。前回は、ですから、『ビルマの竪琴』が出版された当時の肯定、否定の論に対して、上野先生の立場がはっきり対置されるように、みなさんにご紹介できたんじゃないかと思っています。そこを読めば、上野先生の言われていることがとっても納得いくものであることがわかるように、私はまとめることができたと思っています。
 もちろん、そこで終えれば、それはそれでよかったわけです。『ビルマの竪琴』への上野批判の「正しさ」だけがみなさんに伝えられて、話はとてもすっきりしてよかったことは確かです。でも、それでは、先生への弔いにはならないんじゃないかと、私は感じていたんです。私は、あることにとってもこだわっていたからです。

2 小説は「事実」を描いているのか

 くりかえしはしませんけど、上野先生の『ビルマの竪琴』批判の要点は、とっても明瞭に整理されていました。この批判には先生は自信というか愛着をもっておられたと思います。といいますのも、この批判はのちに「「献身」と「楽しさ」の系譜ー戦後児童文学史の考え方」1974(『われらの時代のピーターパン』晶文社1978に収録)というとても長い論考の中で、再度取り上げられていたからです。この論考のことは、前回のフォーラム通信で、片山先生も取り上げられておられました。
 そういう経過がわかっていて、私はあえて上野先生の『ビルマの竪琴』批判の要点に対して、批判のように見えることを書いたというわけです。でも、あれはただの「上野批判」というような性格のものではないのです。私の前回言いたかったことは、とってもはっきりしているのですから。
例を出せば、もっとはっきりわかると思います。たとえば上野瞭作『アリスの穴の中で』という作品があります。もし、どこかの批評家が、「そもそも「男が妊娠する話」などあり得ないじゃないか。こんな「事実」に反するようなことを書いた作品を評価するのはおかしい。もし子どもが読んで、そんこともあるのかと思ったりしたら、大事だ。断固、こんな作品は批判しなければならない」と言ったとしたら、みなさんはどう思われますか。
 そういう批評が出てきたら、逆に私は断固そういう批評に反論すると思います。作品に「事実」が書かれているのかどうかという視点だけで批判されるんだとしたら、この『アリスの穴の中で』はとってもおかしな、批判されるべき作品になってしまうでしょう。
 そこで前回の議論を思い出していただきたいのですが、『ビルマの竪琴』は、ある批評家たちから、「日本の軍隊で歌を歌う部隊があったなんてあり得ない」「僧侶になった水島上等兵の肩にオオムがとまっているなんてあり得ない」「ビルマの僧侶がぞうりをはいているのはおかしい」などという批判を受けていたのです。そして極めつけは、そういう作品だから、ここには当時のビルマの戦争や軍隊や僧侶や民衆の「事実」が描かれていないと言う批判になっていたのわけです。
 そして、実は、この作品に対してそういう言い方を上野先生もされていたのだといいうことを前回私は指摘しようとしたわけです。でもそれは、「上野批判」のためではなく、むしろ「上野作品の擁護」をするためだったということが、うまく伝わっていなかったんですね。というのも、もしここで、上野瞭作『アリスの穴の中で』が、「事実を描いていない」ということで批判されるとして、でもそこで『アリスの穴の中で』を断固弁護する観点があるとしたら、同時にその観点でもって『ビルマの竪琴』の弁護も、なされなくてはならないのではないかと、いうことだったからです。

3  上野瞭『ちょんまげ手まり歌』のこと

 というのも、この『ビルマの竪琴』にあびせられた批判のことを考えたときに、私が真っ先に思ったのは、上野瞭『ちょんまげ手まり歌』のことだったからです。この作品は絶品です。こんな名作はちょっと他にないでしょう。とっても心に残る、不思議な作品です。ところが、この作品は、『ビルマの竪琴』と同じように、出版されてから、評価が賛否両論まっぷたつに分かれてしまったのです。その辺の経過を、新村徹さんが作品の解説の中で、こういうふうに回想されていました。

 「この『ちょんまげ手まり歌』は、たいへん「こわい」物語です。なにか、うす気味悪い印象を受けるでしょう。なにしろ、冒頭の手まり歌から、ころりころころ首がころがるのですから。そのためでしょうか、この作品が出版された当時、これが児童文学かどうか、疑問視されて、ある子ども文庫の本棚から追放されさえしたといわれています。」
フォア文庫『ちょんまげ手まり歌』の新村徹氏の解説から

 確かに、この作品には、首を切られる侍がでてきますし、それ以上に、6歳になった子どもの男の子は片足のすじを、女の子は両足のすじを切られて、歩けなくさせられるある国の話が語られるます。これはある意味では異様な国の話です。
 だから、出版当時から、こんな残酷な話を子どもに読ませるのは害があると考えた人たちがいたのでしょう。「子ども文庫の本棚から追放されさえした」のですから。今で言えば、「R指定」とか、「有害図書」にリストアップされるというようなことでしょうか。
 私はいつか、この『ちょんまげ手まり歌』が出版された当時の書評の一覧を作成したいと思っているのですが、今回はそれはパスさせていただいて、なぜこの作品がそういう「有害図書」風の評価を受けたのか、少し想像できるところに触れてみたいと思います。
 一つは、やはり作品に描かれた「子どもの足の筋を切る」というような「残酷な設定」が、「事実」として読みとられることへの懸念が大人側に働いたからでしょう。子どもたちは、この作品を読んで、それを「事実」と勘違いして、おかしな感想をもつことになるのではないかという懸念です。
 もう一つは、こんな「子どもの足の筋を切る国」なんか「事実」として存在しないだろう、という視点からの批判です。もっと、「事実」にそった作品を書くべきではないかと。
 結局こういう批判は、振り返ってみると、『ビルマの竪琴』に向けられた批判でもあったことがわかります。つまり、「作品の中の現実」をあまりにも「実際に起こる出来事」のようにして論じるという批評の仕方です。こういう批評でもって論じられると、「作品が独自に創り出す現実」が論じられずに、「実際の出来事」を論じる論じ方で作品が割り切られて終わりになってしまいます。誰しも、そんな批評の仕方はおかしいと思われるのではないでしょうか。
 上野先生は、ご自分の作品をそういう視点で批判されたくないと一番願ってこられたはずの作家なのに、実は『ビルマの竪琴』については、ご自分がそういう批判を『ビルマの竪琴』に対してされていたのではないかと、ということを私は先生にお尋ねしたかったということなのです。
 実際は、もうそういうふうに「お尋ねする」ことができなくなってしまったので、紙上を借りてしか「語りかけ」ができなくなってしまいました。実際に話を聞けば、30分ほどで答えていただけることが、もう永遠にできなくなってしまっているのです。なんということでしょう。なんということなんだと、いま私は思っているのです。

 

 

『ビルマの竪琴』を巡る論争の全体像
2002.4.16

1 作品『ビルマの竪琴』

「歌」のテーマ。歌を歌う兵隊。歌と兵隊。
「うたう部隊」。そんなものがあり得るのか。
戦争最中の歌、という設定。
ベトナム戦争と反戦歌。ジョンレノンの「イマジン」。
映画「独立少年合唱団」
戦争責任を問う。

2 映画の問題

『ビルマの竪琴』1965
『ビルマの竪琴』1985
現地のミャンマーの現実や史実に合わない、という批判。
ポストコロニアルからの批判。
では、鎌倉時代の映画は、誰がどう考証するのか。
    それを見た物はだまされているのか。
    『山椒大夫』『羅生門』は史実が問われるのか。

3 上野瞭「戦後児童文学の不幸なる起点ー『ビルマの竪琴』論ー」『戦後児童文学論』理論社1967
   (初出『日本児童文学』1965年6月号)
 4つの批判点
  1 国家を不動軸にした。
  2 戦争責任を天皇制や国家機構ではなく、日本人一般にすりかえた。
  3 戦争責任を無力な個人に還元する。
  4 水島一人で責任をとるやり方。

4 作品の重層構造の中で見ること

『かわいそうなぞう』の批判が、作品をドキュメントのように計算していた。
『ビルマの竪琴』も同じ発想で批判される。

 

5 「残酷」な物語にこだわる視点
村瀬 学


1 上野瞭さんの「境界の文学」(みすず2001.4)に、『バトルロワイヤル』

 上野瞭さんの「境界の文学」(みすず2001.4)に、『バトルロワイヤル』のことが丁寧に語られている。とっても力のこもった論考で、引き込まれて読んだ。『バトルロワイヤル』は、中学生の殺し合いを描いた不気味な話で、昨年は映画にもなり話題を誘ったが、私自身は、この物語を読んでいないし、映画も見ていない。でも、上野さんの論考には引かれた。それは、上野さんの語り口に妙な迫力があったからだ。
 「中学生同士が殺し合いをする」、そういうふうに要約される物語を、いったい誰が好んで読もうとするだろうか。ここには、「共に生きる」というようなテーマは全く現れない。とにかく仲間を殺して自分が生き残ること、そういうことのみが延々と描かれている、と上野さんの説明。でも上野さんは、この残酷な物語に他の読者なら見せないようなこだわりを示して読みすすめる。私はこの上野さんのこだわりの徹底ぶりになぜかひどく興味が向いた。いったいこういう不気味な物語のどこに上野さんは注目しているのか。この問いは、実は上野さん自身が作品に投げかけている問いでもあった。いったい作者はなんでこんなおぞましく残酷な物語を書こうとしていたのかと。
 すでに上野さんは今までにくり返し「こういうテーマ」にこだわってきている。「「児童文学における「国境」と「越境」」(『日本児童文学史を問い直す』東京書籍1995.8でも、ある種の「境界」を越えてしまうことの危なさの問題を取り上げていた。それよりか、上野さんの文学の出発点になった『ちょんまげ手まり歌』1981においてすでに、「残酷」を描いて当時の読者を震撼させていたのだから。この『ちょんまげ手まり歌』には、ある意味での『バトルロワイヤル』のような世界が描かれていたからである。
 この作品での「手まり歌」ではこう歌われていた。

ちょんちょ ちょんまげ まげ ちょんちょ/
おなさけぶかい殿さまは ころりころころ 首きれぬ
首が五十じゃむりじゃいな それが二十じゃ どうじゃいな/
二十 ころころ 首切れば おまけ四十の首も泣く/
人のいのちは一度でござる 役にたつ首 ころりときらぬ
 役にたたたぬは ころりときろう それじゃどこからどうじゃいな

 そして実際にこの作品の国では、人口の増えすぎた年には口減らしのために「お花畑に入る」という美しい言い方の元に、小さな子どもたちを選別して殺してゆくことが描かれる。その残酷な内容さ故に、当時はそうとう物議をかもしたのだった。こういう物語を子どもに読ませていいのだろうかと。「児童文学用R指定」に推薦されかねない向きもあったのだろう。でも実際は理論社のフォア文庫の「学校図書館協議会選定」の一冊に加えられていったのだから、良識ある人達は当時まだたくさんおられたのであろう。こうしてこの本は、子どもに読まれることを承認された。でも、おそらく、日本で書かれた子ども向きの物語で、こんなに悲しく残酷な物語は、この本が最初で最後であることは間違いない。
 いったいこの物語のどこが悲しく残酷なのかというと、じつは物語で殺される子どもたちが、その国を出られないというところにあった。つまり「国境を越える」ということができないので、その国の残酷な定めに従うしかなかったのだ。ここに「境界のテーマ」が出てくる。「国境」を越えることができれば、子どもたちはただ黙って殺されることはないのではないか。こうして『ちょんまげ手まり歌』では最後に「おみよ」がこの国境越えに挑戦する。それを許さじと追っ手が追いかけてくる・・・。

 おそらく『ちょんまげ手まり歌』にしろ『バトルロワイヤル』にしろ、それはただの悪趣味な空想話だっと思われる面もあるだろうが、そういうことを感じるのは、私たちの国が不思議な「安全保障条約」で守られてきたからである。その証拠に、5月始め頃アフリカのある国で、難民キャンプの子どもたち60人がバス1台に乗せられて拉致されたというニュースが流れた。そのニュースを思い出していただくとわかることがある。反政府武装勢力のゲリラに誘拐されたのである。何の目的でか。それは子どもに銃を持たせて殺しの訓練をさせるためである。ある意味において、バス1台の生徒を拉致して、孤島に連れて行き、殺し合いの指示をすることになる『バトルロワイヤル』の設定に似ていないわけでもない。この手の、子どもを誘拐して殺人兵器に仕立て上げることは、「チャイルドソルジャー(子ども兵士)」と呼ばれて近年とても問題になってきている。大人が生き延びるために子どもを殺戮兵器として使うのである。こういう状況下では「思いやりも優しさも、死を招くだけ・・・」と上野さんは書いていた。
 だからこそ、「安全保障条約」が必要なのだという人がいるだろう。しかし、一方的に守られるだけの「安全保障条約」ではなく、自国を自力で守る「安全保障」を主張する小泉内閣が出来てから、「日米安全保障条約」も、「ブッシュー小泉」のもと、急激にその排他的な性格をあらわにしはじめてきている。自衛隊がPKO(国連の平和維持活動)の名目で「兵士」として出立する日はきっと近いうちにおとずれることになるだろう。戦後の日本人の若者が正規の兵士になるのはもうすぐである。そうして「兵士」という「孤島」に連れ出された若者を待っているのは、まさに『バトルロワイヤル』である。
 この物語が、ただの残酷で悪趣味な物語で終わらないのはそのためであり、上野さんがこだわっているのも実は、この物語に、これからの日本がたどるかも知れない運命がすかし見えるところがあるような、その妙なリアリティについてなのである。この物語を読者が嫌がることはとっても簡単だ。誰もこんな物語を好んで取り上げたりするわけではない。やさしさや思いやりや支え合いを追求するような物語が読んでいて快いのは言うまでもない。けれども、その国が「バトル(戦闘)」を担う兵士を作る憲法を持てば、「やさしさや思いやり」を生きられる人々が、「バトル=残酷と無慈悲」を生きる兵士にしっかりと支えられる構図はもっとはっきりと見えてくるようになるのは自然なことだ。

2 『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(長谷川潮 梨の木舎2000.9)への疑問点

 話は少しだけ変わることになるが、この間『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(長谷川潮 梨の木舎2000.9)を読んだ。その評論の最初に置かれた「ぞうも かわいそう」1981.9という批評に興味がむいた。この批評は、戦時中に動物園の「猛獣たち」が意図的に殺された出来事を題材にした児童文学(たとえば『かわいそうな ぞう』土家由岐雄1962.5など)を批判した批評である。戦時中に動物園の「猛獣が殺された」という話はどういう話なのか。
 それは、戦争が本土決戦になるかもしれないという終戦間近の時期、もし東京が空襲になって動物園に爆弾が落ちて、動物園が壊れたときに、「猛獣や毒蛇など」が町に出てしまったら人々が被害をこうむるということで、そういう事態にならない前に「象やライオンや蛇など」を殺すことになったという、そういう実際にあった動物園の動物殺しを題材にして書かれた児童文学群である。当時の動物園側は、動物の疎開を考えたらしいが、それは手間がかかるというので、結局殺すことになるのだが、銃殺をすると住民が不安に思うので、毒殺をすることになる。けれども、象だけは体重が重いので毒殺ができず、餓死させることになったらしい。そういう状況の中で「かわいそうな、ぞう」が描かれる。
 つまり、こういう状況を前に、児童文学は、何をどういふうに描いたのかというと、戦争というものがあるがために罪もない動物がこうして殺されなくてはいけなくなった、ということを描いたのである。戦争がいけないのだ、と。戦争さえなければこういう悲劇は起こらなかったのに、と。わかりやすい。しかし長谷川潮さんは、そういう児童文学を読みながら、腑に落ちないものを感じていた。こういう児童文学ははたして「事実」を描いていたのかと。そして長谷川さんが調べてわかったことは、実は、動物園の動物が殺されたのは、本格的に空襲が始まるようなとき(1944年11月)ではなくて、その前の1943年の夏に殺されていたという「事実」だった。
 そこで「史実」をたどると、動物を殺したのは、児童文学が描いているような、当時の日本の指導者が人々のためを思って、心を痛めながら、しかたがなく動物園の動物を殺したというような美談ではなくて、実は軍部が、動物を殺すことで戦局がこんなにも切迫しているという印象を国民にイメージづけ、国民総決起の心構えを作るために、わざと動物を殺したことが見えてきたというのである。だとするなら、そこから見えてくることは、「空襲があるから、人々のためにやむ得なく殺した」というような構図ではなくて、軍部が、爆弾を落としに来る英米への鬼畜感情を煽り、そういう鬼畜に立ち向かう人々を戦争にかりたてるために動物を殺したという構図が見えてくる、というのである。人々の命を大事にする目に動物を殺したというのではなく、むしろ人々を戦争に駆り立てるために動物を殺したというのである。
 しかし、多くの児童文学は、そういう軍部の動きにはいっさい注意を払わずに、ただ戦争の犠牲になった可愛そうな動物たちという観点だけからこの種の動物園物語を描き、だから戦争がいけないのだという、お涙頂戴の物語を作ってしまっている。そういうことでいいのだろうか、というのが長谷川さんは疑問を投げかけていた。
 私は、長谷川さんの批評は面白いと思った。でも、いくつかの点が気になった。それはもし長谷川さんが、動物園の「猛獣たち」の殺されたのが、「1944年11月ではなくて、その前の1943年の夏だった」という「事実」を知らなかったら、こういう批評は書けなかったのではないかということだった。だから、それがいいんだよ、という人もいるかもしれない。そういう「史実」を発掘できたから、あの批評が可能になったのだから、と。でも、私は、文学を批評するのに、「史実」を持ち出してきて、「事実と違うじゃないか」というのは、フェアではないのではないかという気がする。上野瞭さんの口癖を借りれば「文学って真っ赤な嘘」なのに、そんな「嘘」が「史実」と比較されるだけなら、文学の書き手は「ただの嘘つき」にされて終わるだけになるのではないのかと思うからだ。
 というのも、ではもし、実際に空襲がはじまりかけてから、動物園の動物が殺されていたとしたら(事実、ベルリンなどの動物園には空襲の爆弾が何発も命中し、その時点で猛獣たちを射殺したらしい)、長谷川さんの批評は成立しなくなる。「史実」に基ずく批評の弱点がそこにある。私は、長谷川さんの批評の論点は面白いと思っているので、「史実」がいかなるものであっても、やはり、「戦争のために罪もない動物が殺されてかわいそう」ということだけを描いて、「戦争反対」「平和の尊さ」を描いたすぐれた作品とみなされるのは、批判されなくてならないのではないかと思う。
 というのも、命を守るためには、どこかで命を殺さなければならない、という「事実」を、そういうお涙頂戴の文学は描いてくれていないないのではないか、と感じるからだ。人間は、人間の命を守るために、日々どれだけの動物を殺しているか。「動物園の動物」は殺しては可愛そう、といいながら、安くておいしい「養豚場の豚」なら、殺されるのを私たちは毎日心待ちにしている。そういう「生きのびる」ことと「殺すこと」が、環のように連動しているところを描かないと、「真実」を描いたことにならないのではないかと。
 上野瞭さんがづっとこだわって来られたのも、実はそういうところにあったように私は感じてきた。今回、あまり人が批評したがらない『バトルロワイヤル』に上野さんがこだわっておられるのも、上野さんならではの批評眼が働いているからだ。こういう作品には、「生きのびる」ことが「殺すこと」に連動している、そういう両方の側面をみすえようという企みがある。そんなことを書く人は特異な人だと思われるかも知れないが、日本には、宮澤賢治のように、うんと早くからそういう残酷な真実を直視し、それを物語にする優れた伝統も流れている。『フランドン農学校の豚』はまさに、屠殺される豚の心境(豚境?)をこれでもかと訴えた文学であるし、『注文の多い料理店』は、まさに食べようとする者が、同時に食べられるものでもある、という恐ろしさを描いた童話であった。この伝統の系譜は、まだまだ受け継がれている。

 

 

新しい時代の「わい談」を求めて
ー男「アマノウズメ」はどこへゆくー
  村瀬 学

 上野先生の仕事はいくつかの系に分けられます。注目されてきたのは小説系と批評系ですけれど、他にも、映画鑑賞系、猫まんが系、講演系、宴会もりあげ系など、いろいろあります。そんな中でも、密かに読者の楽しみを誘ってきたものに日記系の分野があります。そして実はこの日記系が、先生のとっても重要な仕事分野の一つであったことを、ここで少し書いておきたいと思います。
 ここでいう日記系はずいぶん早くからはじまっています。大きくは「一人称の日記系」と「イーヨーの日記系」とに分けられますが、ここでは一括して紹介しておきます。
 「贋金づくり日記妙Ⅰ・Ⅱ」(『わたしの児童文学ノート』理論社1970に収録)
 「イーヨーの灰色の思い」(『われらの時代のピーター・パン』晶文社1978に収録)
 「灰色ろばの日記抄」(『アリスたちの麦わら帽子』理論社1984に収録)
とくに、『日本のプー横町』光村図書1985、『晴れ、ときどき苦もあり』PHP1992の二冊は、全編これ「日記」と呼んで良いようなスタイルで書かれています。ということになると、それら「日記系」と呼ぶ文章だけでも集めると、それだけでけっこうな分量になることに気が付きます。いったい「日記」あるいは「日記系」というのは、上野先生にとってどういう「仕事」になっているのでしょうか。
 もちろんそのことを、ここで大上段に論じようと言うのではありません。ここでは、ささやかなこと、その「日記系」に関係するある文章を手がかりに、ちょっとしたことを考えてみたいと思っています。その文章とは「映像の中の人間関係」(『ネバーランドの発想』すばる書房1974収録)と「映像の中の「夫婦」」(『子どもの国の太鼓たたき』すばる書房1976収録)の二つです。この二つは何を書いているのかというと、テレビではじまった視聴者参加番組の考察なんです。
 「映像の中の人間関係」の方は、ずいぶん古く1965年に書かれたもので、でも長文の力作です。内容は「ミヤコ蝶々・南都雄二『夫婦善哉』論」とでも言えるものです。もう一つの「映像の中の「夫婦」」の方は、それから9年後の論考ですから、取り上げている番組はもっと多いです。「仁鶴・たか子の夫婦往来」「パンチDEデート」「プロポーズ大作戦」「ただいま恋愛中」「新婚さん いらっしゃーい」「おもろい夫婦」などなど。
 そもそも、天下の児童文学者がこういう「低俗番組」を大真面目に批評するなんて、と思いながら、こういう文章を読んでおられた人もいるかもしれませんし、こういう論考は、本業の余芸のようにみなされて、あまりちゃんと読まれなかったかも知れません。けれども、こういう論考に、上野先生ならではのもっとも豊かな感性が書き込まれていたことを、ちゃんと言っておかなくてはいけません。
上野先生は、これらの番組について
 ●そこに人間の「生きざま」があるように思えるから「おもしろい」・・・でもこの「おもしろさ」とはなんだろう。視聴者としてのわたしは、何をおもしろがっているのだろう。
 ●いったいこれら出場者夫婦は、われわれに何を与えてくれるのだろうか。
と問いかけ、その「理由」をいろんな角度から考えようとされていました。最初に書かれていることは、それは「のぞき見」の楽しみではないかというものでした。(以下は「映像の中の「夫婦」」から)。

 ●「戦前」ならば、他人にいうをはばかる体の内容である。それを「公開」の席上で堂々と披れきする夫婦。それを「笑い」ながら見るわたしたち。
 ●相当に勇気を要するハレンチな行為が、「公認」された形で「茶の間」に登場する。きわめて猥雑な話、また恥部的な他人の「私生活」を、わたしたちは今日楽しむことになんらたあめらいもなくなっている。
 ●この「見せる側」と「見る側」には、暗黙のうちに猥雑を楽しむ関係ができあがっている。もし、そういういい方が許されるなら、「恥部をのぞかせる楽しみ」と、「恥部をのぞく楽しみ」といいなおしてもいい。これは、わたしたち現代人が、多少なりとも「解放」されたことのあかしだろうか。それとも反対に、わたしたしたちの人間感覚が下降したことのしるしだろうか。

 お茶の間に「猥雑の楽しみ」を届ける番組。そういう感覚がまず好意的に分析される。その感性がとっても面白い。そして、そういう「猥雑」は「笑い」を誘う。

 ●臨場者も視聴者も、そんな夫婦関係は異常だと、批難の声をあげない。反対に、多少ひんしゅくする顔をしても、それを笑いながら受け入れる。「笑い」を誘うということ、「笑われる」ということ、これこそ出場者夫婦にとって、じぶんたちの人間(ないし人間関係の組み方)を承認されたことになる。こうした番組では、「笑い」こそ視聴者の了承のサインである。出場者夫婦は、じぶんたちの「生きざま」が笑われたことによって安心する。社会内で承認されたと思う。極端ないい方をすれば、「見られる側」(「見せる側」)は、じぶんの「恥部」をさらけることによって、じぶんたちの「生存理由」を確保しているわけである。
 ●そうした「滑稽」な夫婦を「見る側」はどうなのだろう。それら異質の(?)生活を「のぞき見」することによって、何を入手しているのだろうか。いうまでもなく、「見る側」にもまた、「見せる側」とは別の意味で「合槌」の発想があるのだ。その「合槌」は、じぶんとは異質の「生きざま」をする夫婦の承認ということだけではなく、じぶん自身への承認の意味がこめられている。
 ●視聴者側の「合槌」は他人の愚かさを承認するとことによって、同時に、じぶんの愚かさの承認につながっているということだ。

 あれから「新婚さんいらっしゃーい」はお化け番組のように続いているし、類似番組も、若いカップルの「あっけらかんとしたチョー過激なわい談」と「爆弾的な告白」を目玉にエスカレートさせながら続いている。中でも島田伸助の『Kissだけじゃイヤッ!』は、夜の「新婚さんいらっしゃーい」版として人気があるが、それは桂三枝のような外からのつっこみではなくて、若者の気持ちに立ったつっこみとして冴えを見せていて、人気が出るのは当然だなと私なんかも思う。さらにロンドンブーツの登場は、若者と同世代の、ある意味での同伴者としての司会者として、そのクールな容赦のない色恋の裁き方を発揮していて、こっちも見ていてとっても気持ちがいい。
 ついでに言うのですが、何年か前に同女の学生が島田伸助の『Kissイヤッ!』に出演して、同棲相手との「チョーHな話を連発してした」というので「問題」になったことがありました。同女の品位が疑われるから学生諸君、低俗番組に出るのはどうか謹んでくださいというような。学生課の心配もわからないではありませんが、そういう「学校側の心配」と、ああいう番組の人気の秘密を探ることが、別な話になることはちと淋しいもんです。
 ところで、上野先生は、ああいう番組には「猥雑」と「笑い」と「相づち」と「愚かさの承認」があるんだと言われていました。確かに、そんなにあっけらかんに「夜の話」を披露して、明日の職場でどんな顔をして出勤するんやとか、わざわざ全国のみなさんの前で自分の浮気の告白をして、いったい明日からの生活どないするつもりなんや、とか、信じられないような馬鹿馬鹿しいことが毎回毎回、何年も何年も続いているのに、視聴者は、それにさほど目くじらをたてない(品位のある同女の学生課は別でしたけれど)。
 何故なんでしょうね。なぜ、人はああいう番組を、いつまでたってもおもしろがって見るんでしょうか。そうして上野先生の最初に発せられた疑問に立ち返ることになるわけです。
 結局、こういう疑問に答えることはとってもむずかしいと私には思われます。というのも、きれい事の答えではすまないからです。「わいせつの心」をきれいな言葉で語ることに矛盾があるからです。そんな中で、おそらく上野先生の書かれてきたことは、他の人の追従を許さない、とっても豊かな答えを出されていたように私には感じられます。
 かつて哲学者の鶴見俊輔さんが「わい談について」(『鶴見俊輔集10日常生活の思想』筑摩書房1992収録)というエッセイの中で、自分が戦時中に「わい談」でどれだけ救われてきたかという例をあげられていて、その「わい談」の大切さを強調されていました。でも「わい談はむずかしいのです」とも書かれていました。「人を傷つけるようなわい談でないものがいい。そういうのになかなかあたらず、そうかといって、自分にもできない、それだけの器量がない」のですと。
 でも鶴見俊輔さんはのちに、『アマノウズメ伝』平凡社1991というスケールの大きい、いわば巨大なわい談の本を書かれました。ここで鶴見さんご自身が有能なわい談語り部であることを証明されました。ここには天の岩戸に隠れた天照大神の前で、性器もあらわにストリップショウを展開した「アマノウズメ」の、現代に至るその秘められた力をあきらかにされたすごい本です。私がこの本を「巨大なわい談」というのはそのためです。
 でもこの『アマノウズメ伝』をここで紹介したのは、わけがあります。それは上野先生がじつはこのアマノウズメの末裔として、いわば「男アマノウズメ」として生きてこられたということをここでいいたいがためです。上野先生が「男アマノウズメ」だったからこそ、あれだけ秘部であるはずの「日記」を公開しつづけ、猥雑な番組に共感を寄せ続けてこられたのではないでしょうか。そういうことを言うときっと先生はこういわれると思います。
 「なあおまえ、たのむからそんなええかげんなこと、ゼミ生さんらだけにはいいふらさんといてや。うーん、せやけど、あたっとらんこともないかな」。