日々の小径1

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プラットフォームの草

奇妙な柿の形

街路樹の樹皮

松ぼっくりの変化

落葉の光景

りんごとミカンの「違い」

 

 

 

プラットフォームの草


近鉄奈良線の新田辺駅、京都行きのプラットホームの写真です。4月のはじめ、こんな乗客の乗り降りするところに、ちょっとした草が芽を出しているのに気がついて写真に撮りました。多くの人が、ここを踏んで乗り降りするのだから、すぐにつぶされてしまうだろうと思っていました。ところが、踏まれているにもかかわらず、枯れもしないで、少しずつ大きくなってゆくのがわかりました。10日ほどのちには、だいぶ大きくなりました。それを拡大したのが、下の写真です。たくさん人のいるプラットホームにしゃがみ込んで写真を撮ってるのは、ちょっと恥ずかしいものでした。ただ不思議なのは、ほとんどコンクリートで、土のないところなのに、どうやって根を張っているのかということと、毎日清掃に来られる方に、「除草」されずにいたというところです。清掃の方も、心配して見守っておられたのでしょうか。でもこの草の名前が分かりません。どなたか、分かる人がおられましたら教えてください。

 

 

奇妙な柿の形

家の柿の木に、今年(2019年)ちょっと奇妙な柿の実がなりました。なぜこういう形ができるのか、とても気になります。横に置いたり、縦に置いたり、裏返したり・・うーん、わかりません。考えられるのは、本来なら、別々に、三つの柿ができるはずのところ、初期の段階で、うまく分かれることができずに、融合したままで「ひとつ」として生まれて来たのではないか・・・という憶測です。本当のところを教えてくださる方がおられたらありがたいです。

街路樹の樹皮

普段自転車で通り過ぎる街路樹ですが、冬の剪定(せんてい)をしたあとの樹皮が目立つものがあります。対称的な二つの樹木を紹介します。ひとつめは、肌がつるつるの百日紅(サルスベリ)です。触ってみればわかりますが、サルでもすべって登れないほどのツルツルの肌をしています。夏にはピンク色のキレイな花を咲かします。下二枚は、アキニレの木。「ニレの木通り」という名称の通りに並んで植えられています。舟木一夫の「高校三年生」という歌に「♪ニレの木陰に弾む声♪」という歌詞があったそのニレの木です。ですが、写真のように、ごつごつした凸凹の樹肌の街路樹です。なぜこんなにグロテスクに・・と思うのですが、きっと理由があってこういう肌になっているんだと思います。樹皮は、その樹木を守るための防御の形です。樹木を包む、大事な衣装だといってもいいものです。その樹皮が木々によって一様でないのはとても不思議です。

 

松ぼっくりの変化

松ぼっくりは、誰もがご存じなのですが、でも実際に手に取って、しげしげと眺めて見られた方は少ないのではないでしょうか。クリスマスデコレーション用に、50個入り袋が1000円ほどで売ってあったりします。街の子どもたちは、松ぼっくりとはそういうものだと思っているかも知れません。そういうものというのは、しっかりと傘が開ききった姿です。その開ききったたくさんの松傘に色を塗って、飾り物にするわけです。でも、しっかりと傘の開いた松ぼっくりは、松ぼっくりの「終わった姿」です。道ばたに転がっている姿です。ところが、松ぼっくりは、本当はそういうものではないんです。写真は、松の木になっている実を、登って取って、しばらく置いておいたものです。木から取った松の実は、まるで石のようにカチカチの堅い実です。これが植物かと思うような堅い実です。それを置いておくと、少しずつ傘が開いてきます。それも上の方からです。そうして、順番に傘が開いてゆく実を並べたのが下の写真です。大事なことは、その開く傘の隙間に、写真の下に置いた薄く小さな種が大切に包まれていて、傘が開いてゆくと、その薄い羽の付いた種が、実を離れて風に乗り飛んで行くようになっているところです。固い石のような傘で守られていた種が、天女の羽衣のような薄い羽を回しながら、遠くへ飛んでいくんですね。なんと不思議な仕組みを松は考えているんだろうと、思います。

 

落葉の光景

落葉というと、「枯葉よ~♪」という歌が、思い浮かびます。イブ・モンタンの愁いに満ちた回想と歌。でも鼻歌になるのは、岩谷時子が訳して越路吹雪が歌った名曲「枯葉」。「光りみちたあの頃/時は去りて静かに/降りつむ落葉よ♪」。落葉はこのように、哀愁や回想、失恋や愛の終わりとセットでうたわれてきたのですが、本来の「落葉」は、もろん、そんなものではありません。秋に青葉から葉緑体が抜け、茶色になる葉。しかしそれが落ちることで、地面の生き物の栄養になる。上三枚の写真は、哀愁の落葉の姿ではなく、渋い色に変身した学研公園に棲む妖精たちの羽の姿です。樹木は、天空からの光りや空気から養分を得ていますが、大地の下からの養分も得て生きています。「落葉」は、天空からの恵みを得る器官を、今度は大地の栄養にするために創り出された偉大な知恵なんですね。その点、4枚目の写真は、大地に帰り、次の役目を果たさないといけないのに、それができない悲しい落葉たちの姿です。

 

 

 

りんごとミカンの「違い」

 

 りんごとミカンの「違い」についてふだんあまり考えたこともないと思います。そんな「違い」は、幼稚園の子でも知っているようなことですから。でも、改めて問われるとどういう風に答えれば良いのでしょうか。ときどき、りんごとミカンはどちらが栄養価が高いのか、というようなことを調べて、その「違い」を分かろうとしている人も見かけます。くだものをビタミンや糖分や脂質‎のようなものに分解して理解できたように思うのは、学校的発想です。りんごとミカンの違いは、誰でも知っているように、りんごは切って、ミカンは皮を剥いて、食べるところです。その結果はっきりと分かるのは、りんごの中身は「一つ」なのに、ミカンの中身は、「たくさんな袋」に分かれているところです。そして、その「袋」の皮をとると、「さらに細い袋」に分かれているというところです。問題は、なぜミカンはそんなふうにたくさんな袋に分かれているのかということです。細い袋を半円のお月さん状に包んで、さらにそのお月さん状の袋をぐるりと満月状に並べ包んでいるのがミカンです。なぜミカンがそうなふうに出来上がっているのか、理由は分かりません。でも皿に並べた、りんごをみてもらうと、切ったりんごはもう、半分中身が熟しているのが分かります。こうしてりんごはいったん、中身に変化が起こると、ほぼ一気に中身全体が変化してゆきます。台風の被害を受けたりんご農園では、強風で落ちたりんごは、一気に中身が傷んでゆき、売り物にならなくなります。中身が「一つ」なものですから、落ちてどこかを強打したら。そこから全体に傷みが広がってゆくのです。ところがミカンは、たくさんな小袋に分かれ、さらに大きな袋に守られていますから、どこかの袋が傷んでも、それだけで一気に全体が傷むことはないのです。興味深いのは、ミカンの小さな細い袋はどうやって出来ていったのかということです。それは、もともとミカンの実が出来るときに、細い毛がたくさん生まれていて、細い風船に空気を入れるように、その細い糸に果汁が溜まっていって、それが一粒づつの袋になり、それをさらに大事に半円の袋に包んで・・という、とても手の込んだことをして「実」を作り上げているのです。それがミカンだったのです。そういう仕組みの不思議さに驚かないで、ビタミンや糖分などの成分ばかりに、気がいくのは、本当によろしくないと思います。