まどみちお論

目次

1 「リンゴ」の詩異論ー日本と台湾の間で

2 「ぞうさん」の詩異論

3 「やぎさんゆうびん」の詩異論

4 『てんぷらぴりぴり』論

5 「けしつぶ」考 ―この小さな抵抗の詩学―

6 私の好きな六つの詩

7 「たんぽぽ」の詩

8 「落葉」の詩 (未定)

9 ランプとチューリップをめぐって―ベンヤミンとまど・みちおの接点についてー

10 『まど・みちお詩集④ 物のうた』(1974)考

 

 

 

「リンゴ」の詩異論 ー日本と台湾の間で 

    村瀬 学


1「リンゴ」の詩―佐々木幹郎の問いかけ

 「リンゴ」(一九七二)の詩は、一読して読者を驚かす、飛び抜けて優れた詩である。おそらく日本の100名詩の一つに残るものである。しかし、やさしい日本語で書かれているにもかかわらず、実際は異様な詩である。その異様さは、多くの読み手に、比類の無い「深み」を感知させてきた。

  リンゴ


 リンゴを ひとつ
 ここに おくと

 リンゴの
 この 大きさは
 この リンゴだけで
 いっぱいだ

 リンゴが ひとつ
 ここに ある
 ほかには
 なんにも ない

 ああ ここで
 あることと
 ないことが
 まぶしいように
 ぴったりだ

  (一九七二、六十三歳)

 現代詩人でまど・みちおに深く言及した人は数少ないのだが、佐々木幹郎はその少ない中の一人で、優れた指摘をしてきていた。彼は、若い詩人との鼎談の中で、この「リンゴ」を取り上げて「短いけれど谷川さん(谷川俊太郎の「リンゴへの固執」の詩と比較して――村瀬注)とは別の方法で「リンゴ」の存在感を浮き上がらせています。哲学としての存在論の領域にも踏み込んでいる」(佐々木幹郎・蜂飼耳・久谷雉「詩がそこに立っている」「現代詩手帖」〔二〇〇八年四月〕と語り、まど・みちおが亡くなった年の追悼文でも「リンゴ」の詩について次のように語っていた(「地球の用事」「現代詩手帖」二〇一四年五月)。少し長いけれど大事な指摘なので引用してみる。

 「まるでソクラテスの対話篇のように、一挙に哲学的領域に転げ落ちる。(略)実は、わたしはこの第四連がよくわからないのである。よくわからないのに魅力的だ。どのようにも解釈できるが、わたしの仮説を書いておこう。(略)第四連では、「リンゴ」という名称を持つ「もの」が、その名称を剥がされている。つまり、「リンゴ」という言葉は登場しないで、「ここ」で、「あること」=存在と、「ないこと」=無とが、空間として「ぴったり」重なっているという提示。(略)いや、わたしはうまく説明できずに、もどかしく書く以外にないのだが(そういうことをこの詩は促してくる!)、それはどうしても生命の本質に近づけないもどかしさに似ていて、それがまど・みちおの詩の底の深さとリンクしているのだ。感嘆する以外にないのは、「ウルサイ! リンゴはリンゴだ!」と愚かしく叫ぶ人がいるとして、その人にもうむをいわせずに説得する力を持ったものとして第四連があることだ。
 「あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」。その「まぶしさ」に目を奪われて、わたしたちの誰もが、一個の「リンゴ」がこの世に存在することの、力強く、思いがけない魅力を知るのである。

 大事な指摘がされている。大事な、というのは、「第四連がよくわからない」、けれども「よくわからないのに魅力的だ」という指摘である。確かに、この詩を哲学的、存在論的という形容で感想を述べてきた人はたくさんいる。それでも「第四連」にこだわって佐々木のように「わからない」と書いた人はいない。
 この「リンゴ」の詩が、いろいろに解釈されることを知っていて、まど・みちお自身は、早くからこの詩についての自分の想いをインタビューなどで語ってきていた。例えば次のように。

 「テーブルの上に置かれていたリンゴを見て、その美しさにハッとし、私の中の何かが震えた。なぜハッとしたんだろう、美しいと思ったんだろうと追求していったら、そのうち「リンゴが占めている空問は、ほかの何ものも占めることができない」ということに気がついて、またハッとしたんですね。(略)ひとつのものがあるとき、そこにはほかのものはあり得ない。そういう「ものの存在のしかた」っちゅうものが、すごく美しく荘厳に思えて、その素晴らしさを言わずにおれなくなったんです。」(『いわずにおれない』集英社文庫、二〇〇五)

 似たような説明は何度も語られている。だから、そういう「説明」の中に、作品を解く手がかりがあるはずだと誰もが思うに違いない。一見すると、この「説明」の中に、すっかり理解できてしまうような「解釈」が提出されているように見える。こんな「みごとな」自作解釈というか、自作説明があるのに、なぜ佐々木幹郎のような、優れた詩人に「第四連はわたしにはわからない」というような疑問を出させてきたのか。そこがどうしても気になる。まど・みちお自身の「説明」は、あまりにも、うまく説明過ぎていて、詩を読んだときの「わかりにくさ」が、どこかへいってしまいそうになるからだ。
 というのも、この詩には、作者自身の「解釈」では、「説明」のつかないところがどうしても感じられるのである。それは作者自身によって避けられてきた部分なのかも知れず、そこに佐々木が反応しているからかもしれないのだ。だから、この「リンゴ」の詩がとび抜けて優れていると人々に感じさせてきた裏には、何かもっと別な理由があったのではないかと、どうしても感じてしまうのである。というのも、この詩は、一気にできたのではなく、年月を経て、練り込まれて出現してきたもので、その結果、余計な字句をそぎ落として、禅問答のような抽象性(佐々木のいう「まるでソクラテスの対話篇のように」)を獲得する詩に昇華させられてきていたのである。その歴史的に練り込まれてきた思いは、見ようと思えば透けて見えてくるのである。その「思い」を先に指摘して、その後で、なぜそのようなことがこの詩から読み取れるのか、先行する詩をたどることで証明してゆけたらと思う。
 つまり私は、まど・みちお自身の自作説明に「異論」を唱えて、佐々木の疑問を、もう少し粘って先まで継続させてみたいのである。もう一度、詩をみていただきたい。

 2 「りんご」の詩 日本と台湾の間で


  この詩の仕掛けは最初の二行にある。この二行にこの詩の「異様さ」が、さりげなく示されている。
 この最初の二行を、多くの人は、リンゴの描写だと思ってきた。セザンヌのリンゴの絵のような場面を作者が詩として書いているのだと。作者もそういう「説明」をしているので、それは確実なことのように思える。しかし、もしもそうだとしたら、この二行に示された、「ここ」というのは、テーブルのようなものになる。作者はテーブルの上にリンゴを一つ置いたというのである。
 しかし、そういう場面を想定すると、その後の思いがけない詩句の提示に、なに?と思うしかない。「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」となっているからだ。そこで、「哲学的だ」というふうに感じる人もでてくる。最初の二行を「風景」や「抒情」として受け取ればそうなるのだが、後に考察するように、作者は、そういう抒情詩に対抗して自らの「詩」を鍛えてきた詩人なので、それはないと考えなくてはいけない。
 となると、この最初の二行詩に戻って、そこで提示されている「リンゴ」と「ここ」について、思いを新たにして向かい合わなくてはならない。この「リンゴ」と「ここ」が、風景や抒情ではないとしたら、いったい何かということである。
 私の理解し得たことを先に言わせてもらえば、この「リンゴ」は「日本」であり、「ここ」とは「台湾」のことである。「ここ」に「リンゴ」を置くという、というのは、台湾の上に日本を置くという戦時中の「原風景」である。その光景は自然の風景ではない。人工の光景である。その光景を感性をまど・みちおは、三十年の台湾生活の中で、常に見続けてきていた。
 だから、「リンゴ」の詩は、次に「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」と書くのである。「リンゴの大きさ」というイメージが不意に出てくるので、読者は面食らってしまう。セザンヌように、テーブルの上のリンゴをイメージしていた人にとっては、いきなり「リンゴの大きさ」といわれても、普通は「リンゴ」を「大きさ」というような物差しでは測らないからだ。リンゴを、赤や球形の形やおいしさで表現するのならわかるけれど、「大きさ」で表現するというのは、どこか不自然だからである。何かしら「詩的な発想」がなされているのではないかと感じる人もいるかもしれないが、しかし風景描写としてこの詩をみている間は、「リンゴの大きさ」の意味が見えてこない。
 作者は、この時点で、「リンゴ」を「ここ」に置いたけれど、「リンゴ」が大きすぎて、その「大きさ」で「いっぱい」だと言っているのである。なにが「いっぱい」なのか。なぜ「ここ」が「いっぱい」になっているのか。言われていることは、ひとつである。つまり「ここ(台湾)」の上に置かれた「リンゴ(日本)」が大きすぎて、その大きさで「ここ(台湾)」がいっぱいになっている、ということなのだ。
 この「大きさ」という感覚について、台湾時代の1938年にこういう詩が「昆虫列車」八冊で書かれていた。

    大きいんだよ

 「大きいんだよ でかいんだ」
 「ほーう そうかい でかいんか」
 「でかいんだとも 大きいんさ」
 「ふーん、そんなに 大きいんか」
 「大きいのって、ほら こうだ」
 「へーえ でかいな ほんとうかい」
 「ううん もっとさ こんなにさ」
 「おっどろいたね そんなにか」
 「なーに まだだよ こうなのさ」
 「そんなに でかくて そりゃ なにさ」
 「なにだか しるかい でかいんさ」(一九三八、二十九歳)

 説明はいらないほど分かりやすい詩だが、でもこの詩が台湾時代に書かれたことを思えば、不気味な詩である。誰が何を自慢しているのかはわからないが、ここには「大きさ」だけを自慢するものがいて、その自慢を冷ややかに聞いているものがいる構図が描かれている。せっかく「大きい」ということを自慢しているのに、相手が全く驚いてくれない。だから、つぎつぎに「大きさ」の度合いを広げなくてはならなくなっている。ここでは「大きさ」を見せびらかす発想そのものが揶揄され描かれている。最後には「そんなに でかくて そりゃ なにさ」と小馬鹿にされて、それでも引っ込みが付かなくて「なにだか しるかい でかいんさ」という居直りが描かれている。
 「リンゴ」の詩の「大きさ」というイメージも、当たり前のように、というか、わかりきったもののように受けとめないで、「大きさ」そのものが実は問題であることにも注意を払うべきなのである。
 さらに続けて詩は次のように語る。
 「リンゴが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにも ない」
ここにも「ここ」という表記がでてくる。読者は、ここにきて、この「ここ」という表記が何を指示しているのか、はっきりさせなくてはならない。この詩に自然描写を見て取りたい人は、ここに来ても、この詩はテーブルの上に置かれたリンゴを描写していて、テーブルの上にはリンゴの他には何もないということを言っているのだと考えるかもしれない。昨日は、このテーブルに、バナナやパイナップルもあったのに、今日は、このテーブルにはリンゴしかない、というようなことを。
 しかし、そう考えるにしては、「ほかには/なんにも ない」という言い方は、きつい言い方である。「リンゴ」が「ここに ある」という説明と、「ほかには/なんにも ない」という説明が、対比としては極端でありすぎる。テーブルの上に、リンゴが一つあるということをいいたいのなら、「ひとつある」というだけで十分である。わざわざ「ほかには/なんにも ない」と言う必要もない。あえて「ほかには/なんにも ない」ということの可能性は、この場面がとても貧しい家の居間で、リンゴの他には何もないというようなことを強調するような場合である。しかしこの詩を読む人が、「ほかには/なんにも ない」を「極度の貧しさ」のようなイメージで読むとは考えられない。となると、「ほかには/なんにも ない」は、もっと違った意図が込められたものとして読むしかなくなるはずである。そうなると、私の理解の続きが生きてくることになる。
 ここには「ここ(台湾)」に持ち込まれた「リンゴ(日本)ひとつ」によって、「ここ(台湾)」には、「リンゴ(日本)」以外のものは「なんにも ない」かのようになってしまっている、という理解である。「ない」というのは、台湾のことである。台湾には台湾があったはずなのに、そこに「リンゴ(日本)」が置かれてしまってからは、その存在があまりにも大きくなって、その「大きさは/この リンゴだけで/いっぱい」になってしまい、「ほかには/なんにも ない」かのようになってきている……。
 そういう理解を踏まえると、多くの人にとって「謎」のように見えていて最後の詩句の意味が、もう少し見えてくることになる。
「ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」
ここにも「ここ」という表記が出てくることに注意を払いたい。「ここ」で「ある」といわれているのは「リンゴ(日本)」のことである。そして「ない」といわれているのは「台湾」のことである。しかし、日本と台湾は、「ひとつ」と見なさる時代があった。だから、この詩は「ここで/あることと/ないことが/ぴったりだ」と書いている、ようにみえる。しかしそれは、正確な理解ではない。本文は、「ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」と書いていたからである。
 「まぶしいように」とは何か、という問いを最後に問わなくてはならない。
 かつての植民地統治者にとっては、日本と台湾は、「日本=台湾」として、ぴったりだと思っている時があっただろう。だから、この詩も、そういう人工的な光景を描いているかのように見えるかもしれないが、この詩はそうではない。この詩を読む人の多くが、気にはなるけれど説明できないものとして、この最後の「まぶしいように」という形容詞を意識してきた。この形容詞は、従来の発想ではうまく説明できないのである。「まぶしいように/ぴったりだ」というのはどういうことなのか。
 問題は「まぶしい」とはどういうことかということだろう。「まぶしい」というのは、まぶしすぎてよく見えないという意味が強いものだ。だから、「まぶしいように/ぴったりだ」というのは、そこに目くらましのようなものがあって、それが原因でまぶしすぎてよく見えない、という意味に受け取れる。
 かつての、お殿様や天皇は、直視してはいけないというので、庶民はひれ伏したものである。まぶしいように感じて、よく見えないし、よく見ないのである。でもひれ伏した人は、その向こうにいる人が、まぶしさのなかで「お殿様」や「天皇」と呼ばれる存在とぴったり一致していると感じものだ。でもそれは正確に言えば、「ぴったりだ」というのではなく、「まぶしいように/ぴったりだ」ということだった。
 そういうふうにみてみると、最終の詩句で言われていたことは、「まぶしさ」の中で「あることと/ないこと」が「ぴったり」しているということだった。そうなると、「リンゴ」という詩は、「リンゴ」の存在を、哲学的、存在論的に考察して、禅問答のような聴き手を煙に巻くようなことを言っている詩、というだけではなくて、「ある(日本)ことと/ない(台湾)こと」を「ぴったりだ」と感じさせてきたものへの問いかけを表現しようとしている詩であることが見えてくるのである。ここで最大限に注意を払うべきところは、「ぴったりだ」といっているのではなく「まぶしいように/ぴったりだ」といわれているところである。つまり、まぶしすぎてよく見えない中で「ぴったり」だと感じている状況についてである。

 3 年代順に重ねられていった抽象化 


 以上の説明は、私の恣意的なこじつけの解釈ではないかと思われる人がいるかもしれない。この「リンゴ」の詩は、1972年の詩で、作者の台湾時代とはずいぶん離れているではないかと。だから、日本と台湾というような関係にわざわざ結びつけなくても、もっと自由に解釈しても良いのではないかと。むろん構わないし、そうされるべきだと私も思う。しかしそういう自由な発想で読み解こうとしてきた人たちの多くが、自由に読み解くにしては、どうしても「哲学的だ」とか「存在論的だ」というような言い方で言うしかない部分が残ってきて、実際の詩句の有り様をうまく説明することができてこなかったのである。ということは、この詩には、「自由な読み解き」を許さない、もっとまど・みちおに寄り添って理解しないと解けない発想が込められていたのではないかということなのである。
 それでも、「リンゴ」を「日本」とイメージするのが気に入らない人は、「リンゴ」を「中国」とイメージしてもらっても構わないだろう。今でも同じような事情が、中国と台湾の間で起こっていることは、誰もがわかるからだ。中国と台湾が、「ぴったり」していると誰も思っているわけではない。ただ「まぶしいように/ぴったりだ」と言うのなら、それはそうだと嘲笑的に言う人がいるだけのことだ。
 しかし「りんご」を「中国」に置き換えたところで、それも私の恣意的で勝手な解釈にすぎないといわれるかもしれない。このような詩に「国」のイメージを持ち込むのは、こじつけすぎると。そう思う人には次の「じゅくし」という詩を見てもらうといいだろう。「リンゴ」と同じ『まど・みちお少年詩集 まめつぶうた』に収録されている。ほぼ同時期に書かれたものである。

  じゅくし


 おやつの おさらに
 じゅくしが ひとつ
 つめたい きれいな顔で
 ゆったりと
 ぼくに 向かいあっている

 ようやっと いま
 そこから たどりついた
 だれも知らない はるかな国の
 だいひょうのように

 この ぼくを
 にんげんの国の
 だいひょうに して

 熟し柿を扱っている詩にしては、なんと大袈裟な中身であることかと、誰もが思うのではないか。というのも「じゅくし」を「はるかな国」の代表として、そして「ぼく」を「にんげんの国」の代表として向かい合わせているからだ。ここに「国」のイメージがだされている。「じゅくし」に「国」があり、「ぼく」にも「国」があり、その二つの国は違った国なのである。
 そして、この詩の出だしを見てみると「おやつの おさらに/じゅくしが ひとつ」となっている。「リンゴ」の出だしと比べてみてもらいたい。
「リンゴを ひとつ/ここに おくと」
 詩的状況が似ていることが、おわかりいただけるであろう。ということは「じゅくし」も「リンゴ」も、ともに「国」のイメージを背後に持って描かれているということなのである。「国」と「国」の向かい合いとして「柿」と「ぼく」がとらえられているのである。ちなみに言うと、まど・みちおは『全集』1992にそれまでの詩集を収録する際に、少なからず手を加えている。この「じゅくし」も手が加えられている。その箇所は「はるかな国の」を「はるかなかきの国の」とするのと、「にんげんの国の」を「まちがいなく 人間の国の」に修正している。「国」のイメージにこだわっていることがわかる修正である。それでも、この解釈が気に入らない人がいるかもしれない。その人のために、この詩が台湾時代のまど・みちおの感性を下敷きにしてできていると考える根拠を、彼の書いた詩を年代順にたどりながら述べておこうと思う。
 次の「林檎のまわり」という詩は、まど・みちおが台湾時代に同人誌「昆虫列車」の1輯(ルビ:しゅう)1937.3.1発行に発表したものである。彼、28歳の時の作品である。すでに台湾で十八年間過ごしていた中で書かれた詩である。

  林檎のまわり


 林檎のまわり、
 林檎のまわり、
  空気か何かが
  ぞわぞわしてる、
  「林檎に 触ろ」と
  押し合いしてる。

 林檎のまわり、
 林檎のまわり、
  空気か何かが
  ひそひそしてる、
  「あんまり 赤い」と
  耳うちしてる。(一九三七、二十八歳)

 この「林檎のまわり」という詩を、自然描写、風景描写として受け取る人はいないだろう。28歳の作者が「林檎」というイメージを、自分なりに何かに置き換えて書いていることは誰にもわかる。では何に置き換えているのかということだ。先にも触れたように、ふつうに「林檎」を対象にするのなら、「赤い」ところとか、「球形」の形とか、甘酸っぱい「味や香り」というものについて触れるはずなのに、この詩では、「林檎」そのもののことより、その「林檎」をとりまくもの、「林檎」の周りにあるものを描いているのである。だからこの詩の題は、林檎ではなく、「林檎のまわり」と題されている。この題の付け方に不思議を感じないと、おそらくこの「林檎」の詩は理解できなくなる。
 作者は、この「林檎」の「まわり」にいるものを「空気か何かが」と表記している。林檎のまわりに空気があるという事なら、それは自然描写である。不思議なことは何もない。しかし、そんなことを書くのは陳腐である。林檎に限らず、コップにも、雨傘にも、その「まわり」には空気があるからだ。
 しかし作者はそんな自然描写として「空気」を描いているわけではなく、「林檎」の「まわり」にあるものが、「空気か何か」のようにしか見られていない存在であるところを表現している。教室の中で、会社の中で「空気のように」存在していると言えば、その存在の仕方の特異さはよく分かるはずである。
 事実、この詩では「空気」のように形容されているものが、「ぞわぞわ」して「「林檎に 触ろ」と/押し合いしてる」というのである。ただの「空気」ではなかったのだ。でもこれだけでは、よくわかない。何が起こっているのかはわからない。ここまでの詩句で分かることは、「林檎」の「まわり」に、「押し合い」して寄ってくる者がいるという光景である。
 詩の二連となると、今度はこの「空気」が「ひそひそ」話をしているという光景が描かれる。そして「空気」たちは、自分たちの目にしている「林檎」に対して、大きな声では言えないらしく「あんまり 赤い」とそれぞれに「耳打ち」しあっている、というのである。
 ここまで読み解けば、この「林檎」が台湾の中の日本人に見立てられていることは、一目瞭然であろう。日本人にとっては台湾の人は「空気か何か」でしかないように扱われているところがあったからだ。でも台湾の人は、日本人に押し合いしながら、寄ってくる。生活のすべは日本が握っていたからだ。その統治に大きな声で不服を言うことは認められない。「あんまりだ」だなんて口が裂けても言えないのである。だから「林檎」に対して「あんまり 赤い」というしかないのである。それも「耳打ち」のようにしてである。
 こうしてみると、「林檎のまわり」という詩も、一筋縄ではゆかない詩であることが見えてくる。それにしても、「林檎」が、ここでもなぜ「日本」の象徴になるのかということだろう。おそらく、「りんご」は、寒い地方の産物で、暑い台湾では山岳部は別にして取れなかった。現代の台湾でも、市場に流通している林檎の多くが日本の東北産である。戦時中も、きっと台湾の統治する日本人向けに、日本から東北産のリンゴが運ばれていたと思われる。事実、終戦直後に流行った歌が「♪私は真っ赤な林檎です、お国は寒い北の国♪」だったからだ。そんな北の日本から、南の台湾へ、日本の象徴のようにして「リンゴ」が運ばれていた。その「林檎」を陰で「あんまり 赤い」とひそひそ話をしている「空気」がいたというのである。
 この詩を踏まえると、私が先の「リンゴ」という詩に「日本」を読み取ったのは、決して恣意的で勝手な解釈ではなかったことがわかってもらえるのではないかと思う。それでも、私の解釈の恣意性が気になる人には、次の作品を見て貰いたい。「林檎のまわり」の2年前に「動物文学」第9輯1935.9に発表されたもので、すでにこの作品において、「周囲(まわり)を廻る」という表現が出てきている。

  この土地の人たち

 道をゆく人の背に
 小さな日溜(ルビ●ひだまり)がある

 日溜の中に
 誰にも知られない蝿がいる

 蝿は時にそこを離れ
 ぐるりと人の周囲(ルビ●まわり)を廻る

 そして又もとに帰り
 じっと動かない

 道をゆく人のゆく先は
 又 蝿のゆく先であるのに

 ろくろく蝿の面(ルビ●かお)知らずに
 この土地の人たちは
 日毎生きている 蝿と共に(一九三五、二十六歳)

 理解の難しい作品である。作者はこの時「台湾」にいるのだから、「この土地の人たち」という「この土地」とは、「台湾」のことでなくてはならないだろう。しかし作品を読むと、今、道を行く人がいて、その人の背中の日だまりに、「蠅」がいると描写されている。それもわざわざ「誰にも知られない蝿」と形容された「蠅」である。その「蠅」は、時々持ち場(日だまり)を離れて、「人」の周囲を廻って、また元に戻ってゆくのだという。そしてそこにじっとしている。作者は、その「蠅」を見て、次のように書く。
「道をゆく人のゆく先は/又 蝿のゆく先であるのに」
と。「人」と「蠅」の「ゆく先」は「おなじ」だというのだ。それなのに、
「ろくろく蝿の面(かお)知らずに/この土地の人たちは/日毎生きている 蝿と共に」
と書いて作品は終わっている。何か奇妙な書き方だとは思われないだろうか。ここまで「人の周囲を回る蠅」を書いてきたのであるから、最後はこの「蠅」が、ぐるぐる回っている割には、その「人」の面(かお)を「知らない」と書くべきではなかったのか。
  しかし、作者は、そういうふうには書かず、「ろくろく蝿の面(かお)知らずに/この土地の人たちは/日毎生きている 蝿と共に」と書いていたのである。となると、ここに書かれている「この土地の人たち」とは誰のことを言っているのかということになる。作者は、台湾にいるのだから、「この土地」とは「台湾」のことであり、「この土地のひとたち」とは「台湾の人たち」にならなくてはならない。しかし、そう読めば、台湾の人が道を歩いていて、その人の周りを「蠅」がぐるぐる回っていて、台湾の人はその蠅の面も知らずに歩いているという、という詩になる。別にそう読むことも可能ではあるが、そうすると最後の一行はあまりにも、大袈裟な詩句に見えてくるであろう。蝿と共に、日毎生きている、と書かれているからだ。いくら詩だからといって、蠅と毎日共に生きている、などというようなことを書いてもらいたくないと。そういう意味で、この作品も、普通に読めばヘンなことが書かれているのだ。
 しかし、その詩に書かれている「この土地」を「日本に統治されている台湾」と考えれば、この詩の題の「この土地の人たち」というのは「日本人」のことになる。その「日本人」の歩くまわりに「蠅」が廻っているというのである。しかし、「歩く日本人」にとっては「蠅の面」もよく知らないのである。歩く方向が同じで、それも毎日日々と共に暮らしているにもかかわらず。
  そういうふうに読めば、この詩が意外にも当時の台湾の置かれていた厳しい現実を詩にしているかが分かってくるのではないか。そしてこの詩の感性が、「林檎のまわり」という詩につながり、戦後の名作「リンゴ」につながっていたのである。

 それでもまだ、私の解釈が、気に入らない、恣意的なものだと言う人には、「林檎のまわり」と同じ年に書かれた、もう一つの詩を紹介しておく。それは「そんや」という詩である。「そんや」とは、マンゴーのことだが、台湾語で「様仔(ルビ●ツオンヤ)」と呼ばれているので、その呼び方を日本語ふうに発音して「そんや」と呼んでいるのである。
 すでに説明したように、「りんご」は日本産であるが、「そんや」は台湾産であるということだ。詩の題にわざわざ台湾語で表記しているというのは、「りんご」とは違った愛着を持って見ているということである。詩を見ていただこう。

  そんや


 そんや
 机におくと
 なんだか裸のよう
 着物でも着せたいよう

 そんや
 手のひらにとれば
 ミルクの匂いがする
 頬ずりでもしたいよう

 そんや
 皮をむいたら
 ランプのように黄ない
 真黄な雫(ルビ:しずく)もしそう

 そんや
 そろり食べれば
 手指の股も濡れる
 びっしょりとずぶ濡れる

 そんや
 種を捨てれば
 捨てた手のひらが広い
 ああ手のひらが広い(一九三五、二十六歳)

 注
 そんや 熱帯果実マンゴーのこと。台湾語で「様仔(ルビ:ツオンヤ)」。
 黄ない 黄色い。

 最初の四行などは、「リンゴ」(一九七二)の詩の書き出しと、とどこか似ている感じがする。でも、この「そんや」は「リンゴ」と違って、まだ抒情的に書かれている。対象は台湾産のマンゴーで、愛着もあったからであろう。だから、作者は、「机におくと/なんだか裸のよう/着物でも着せたいよう」と書く。マンゴーが裸のように見えるなんてあり得ない発想である。しかし、作者にとっては、この台湾産の食べ物は、「裸のよう」だと表現されるのである。何かしら、かばってあげたいもののように見ているのである。
 見かけは、そんなふうにか弱く見えているが、見えない中身は、実はとてもよく熟れている、と作者は描写する。作者はそのことが何としても言いたいのだ。
「ミルクの匂い」がし、「しずくがしそう」で、食べたら甘い汁で手のひらも「びっしょりとずぶ濡れ」になるという。何と豊満な果物の描写であろうか。「りんご」の描写とはだいぶ違っている。
 そのそんやの種は、ものすごく大きい。手のひらいっぱいの大きさになるだろうか。問題は、この種を捨てる人のイメージを作者がどう見ているのかということである。ふつうなら、日本のスーパーで買ったマンゴーを日本人が食べるイメージになり、種を捨てる人も日本人になる。しかしこのそんやを食べる人が台湾の人であるとしたら、種を捨てる人も台湾の人だということになる。そうすると最後の四行の意味も全く変わって読み取れるようになる。
「そんや/種を捨てれば/捨てた手のひらが広い/ああ手のひらが広い」
つまり、そんやを食べて生きる台湾の人の、その大きな種を捨てる台湾の人の手のひらも、その種のように広いといっているのである。この「広い」という言い方が「大きい」という言い方に言い換えられると、「リンゴ」のあの、有名な詩句、

 リンゴの
 この 大きさは
 この リンゴだけで
 いっぱいだ

という詩になってゆく。

 4 「りんご」を現在の位置で読む 「存在」と「存在承認」の違いへの感覚

 以上の考察を踏まえて、最後に、この「リンゴ」の詩を、現代の位置で読み直せばどうなるのか考えておきたい。つまり、作者の台湾の体験を意識しないで、この詩を読む場合である。まど・みちおの故郷・周南市の高校生が「リンゴ」の詩について語っていたことを、ここで引用しておこう。
 「私がリンゴの詩が好きなのは、リンゴの詩のりんごというのを私におきかえる時に、自分の存在をすごく認められた気がして、すごく好きなんですけど、自分の存在を認めたあとに、まわりにいる友だちとかの存在も一緒に認められることができるので、すごい好きです。」(NHKスペシャル「ふしぎがりーまど・みちお百歳の詩」二〇一〇年十一月三日)
 こういう理解も現代風の受け取り方でいいと思う。現代風というのは、「リンゴ」を「わたし」に置き換えるという受け止め方である。そういうふうに受けとめると、確かに、自分がそこに居るということで、そこがいっぱいなのだ、という思いが詩から感じ取れ、そんなふうにそこに居るというだけで自分が認められている感じがしてくる、と。
 そういう理解はそれでいいと思う。ところが、この詩はもう一つのことを言っているところがあって、その理解がむずかしいのである。それは、この詩によると、あるものがそこに存在するということは、他の者がそこに同時に存在することを許さない、と指摘しているところである。「ここ」に置かれた「リンゴ」はその「大きさ」さゆえに「この リンゴだけで/いっぱいだ」と表現されているからだ。
 この表現を、高校生を例にとって考えてみる。そうすると、ある高校生のいる教室が見えてくる。そこに机と椅子のある。そして、その机と椅子に、ある高校生の居場所がある、ということがわかる。しかし、そこには、その高校生しか座ることが許されていない。だから、そこは、その高校生の存在が認められている無比の場所である。その高校生からしたらそうであり、そこに「実存」と呼ばれてきた、かけがえのない存在の「場所」が感じられるところがある。
 しかし、その「思い」が通用するのは、その高校生がその高校に入学することを許されていたからで、もし、許されてもいない者が、その高校のその教室のその椅子に座って、ここが自分の居場所だと言っても、それは認められない。ある人がそこに「ある」ということは、他の人はそこにいられ「ない」ということなのだ。ここに「ある」ことと「ない」ことがぴったりと一致しているのである。教室でなくてもいい。バスの座席でも、プラットホームのベンチでも、公園のブランコでも、自分がそこに座れば、他の人はそこには座れない。つまり、その人がそこに居るというところの「そこ」とは、その人の存在でいっぱいになるとしても、それは「そこ」にいることが認められている限りにおいてなのである。そこに「存在」とは別に「存在」が承認されなければならない「存在承認」の問題があったのである。
 現在、世界的規模において移民や難民や不法滞在ということが問題視され、そういう人たちに締め出しや強制送還というようなことが求められてきているのは、「国家」という椅子に座るには、認められる条件がいるということなのだ。「リンゴ」が置かれる「場所」によって、「リンゴ」の存在が許されるかどうかが決まっていたからである。まど・みちおの「リンゴ」の詩が、たんなる「リンゴ」の存在の詩なのではなく、「リンゴ(存在)」と「ここ(場所)」の関係の詩だと私が指摘してきたのは、そこに「存在」と「存在承認」との違いの問題があったからである。
 そのことに注意を払えば、何も「リンゴ」を日本に、「ここ」を台湾に置き換えなくてもよくなる。この詩がもっとも心を注いでいるのは、まさに「存在」と「存在承認」が別であること、そのことについてなのである。そしてそのことが、現在世界中で問題になってきている、移民や難民や不法滞在の問題であり、それにまつわる締め出しや入国禁止、強制送還などの問題なのである。この「リンゴ」の詩が、いかにも「存在論的」な様相を感じさせてきたのは、この詩が、その「存在」と「存在承認」が別であることに、深く切りこんでいるところがあったからである。
 しかしその視点は、多くの人が想像するような机上の哲学的思索から生まれて来たのではなく、彼が30年間生きてきた台湾の経験から感じ取られ、見てきたように長い年月を経て詩の形に練り上げられてきたものなのである。

 最後に、七十八歳になったまど・みちおが書いた詩は、取り上げておいた方がよいだろう。「リンゴ」の詩に似ているところと似ていないところがあるからだ。

  ぼくがここに


 ぼくが ここに いるとき
 ほかの どんなものも
 ぼくに かさなって
 ここに いることは できない

 もしも ゾウが ここに いるならば
 そのゾウだけ
 マメが いるならば
 その一つぶの マメだけ
 しか ここに いることは できない

 ああ このちきゅうの うえでは
 こんなに だいじに
 まもられているのだ
 どんなものが どんなところに
 いるときにも

 その「いること」こそが
 なににも まして
 すばらしいこと として(一九八七、七十八歳)

 くり返し見てきたように、物理的には、私の座っているイスに別な人が重なって座ることはできない。しかし、そのことをもって、私がそこに「いる」ことができていると考えることはできないのである。「不法移民」であるとみなされれば、そこに「いる」にもかかわらず、そこに「いる」ことは許されない。
 私たちは、そこに存在しているだけでは、そこに居場所があるとは認めてはもらえない。何度も言うように、「存在」と「存在承認」は違っているのである。「存在」は決して、「そこにいる」だけで「大事に」守られているわけではない。「法的な承認」が得られないと、「そこにいる」ことが不当になり、強制立ち退き、強制排除、をされてしまうのである。そのことを踏まえて、この「ぼくがここに」を読まなくてはいけない時代にきている。にもかかわらず、この詩は「ああ このちきゅうの うえでは/こんなに だいじにまもられているのだ/どんなものが どんなところにいるときにも」という。なぜそのようなことがいえるのか、あるいは、なぜあえてそのようなことを作者は言おうとしているのかということであろう。「リンゴ」の詩から、訴えていることは「後退」しているのではないかと。
 もし、私の理解が正しければの話であるが、作者はここで、「存在」と「存在承認」を分離し、分離した上で「存在そのものの」に「存在守護」を認めたいと思っているのではないかということだ。作者は、「いる」ということはすでに「守られている」ということだ、と言っているからだ。それは法的に守られる「存在承認」とは違った守られ方である。そういう存在の仕方を「存在守護」と呼べば、それは「存在承認」がなくても成り立っているあり方なのだということになる。法学者や社会学者によれば、「存在そのもの」などというものはあり得ない。いかなる存在も「存在承認」なしには世界の中には存在し得ない、といわれるだろう。しかし作者は、それでも……と思っているところがある。たとえ「存在」には弱肉強食がついて回っているとしても……。
 問題は、まど・みちおがなぜ植民地時代にさかのぼって、「林檎」や「この土地のひと」のような作品をつくり、それを「リンゴ」の詩まで、作りかえてゆくことができたのかということである。それはただ台湾で三十年過ごしていたというだけでは説明がつかない。そのこと理解するには、私が「対比の詩学」と呼ぶ創作の技法にまで思いをよせる必要がある。それは別な論考で見てもらうことができる。
          『現代詩手帖 2017.10月号 11月号』に掲載

 

 

   「ぞうさん」の詩 異論

 

 1 「愛唱歌」としての「ぞうさん」

 「ぞうさん」は不思議な歌である。歌いやすい三拍子のメロディーと、目に浮かぶほほえましい母子の光景。この歌を歌えない子どもはいないのではないか。保育園、幼稚園で教えられるのだから当然でしょと言われるかも知れないが、でもそこで教わった歌で、今でも歌える歌がそんなあるわけではない。「不思議」というのは、しかしそこにあるわけではない。
 この国民的な人気の童謡は、1952(昭和27)12月に、團伊玖磨(だんいくま)が作曲しNHKで歌われた、團が28歳の作曲である。この可愛らしく、いつまでも歌い継がれる歌が、どうやって生まれたのか、気になる人はたくさんいた。ある新聞記者が、これは作者が、子どもと動物園でゾウを見た時に作った詩だと書いたものだから、それを信じていた坂田寛夫がそのことをたずねると「私は象を書くために動物園へ見に行くようなことはしません」ときっぱりいわれた、という有名なエピソードが残っている(『まどさん』ちくま文庫1993p26)。つまり、この歌は「写生」するようにして生まれたものではない事を、作者ははっきりと指摘していたのである。写生、つまり現実の光景を描いたものではないとしたら、どういう光景を描いていたのだろうか。

ぞうさん

ぞうさん
ぞうさん
おはながながいのね
そうよ
かあさんもながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だれがすきなの
あのね
かあさんがすきなのよ

 ふつうにこの歌をうたえば、誰かが子象に、「おはなが長いのね」と聞いて、子象が「そうよ、かあさんだって長いんだよ」と答えている光景が浮かんでくる。いってみれば、それだけの光景なのであるが、少し考える人なら、何かしらにひっかかるのである。つまり、この子象は、自分に「おはなが長いのね」と聞かれたのだから、「でしょう、すごいでしょう、ぼくのお鼻は!」と答えてもよかったのに、なぜか「自分の鼻」についての感想を返さないで、「そうよ/かあさんもながいのよ」と返事をしているのである。たとえば、子どもに、「かわいいお洋服だね」とたずねて、「そうよ、かあさんの服もすてきなのよ」とは答えないことを思えば、この子象の答え方は、ちょっとヘンなのである。「そうよ」という返事の仕方が、なにを肯定して「そうよ」といっているのか、よくわからないからだ。
 もちろん、この4行を見るだけでは、その疑問を解く手がかりはないが、次のように問うてみることは可能である。そもそも、「鼻の長い子象」に「なぜ鼻が長いの?」と聞いているのかと。象の「鼻の長さ」が気になるのなら、聴き手の父親か母親にたずねるのではないか。「どうして象さんの鼻ってあんなに長いの?」と。そういうことをしないで、なぜ直接、子象に鼻のことを聞いているのかと。
 そういう「ひっかかり」があるものだから、かつて吉野弘もこういうことを書いていた。

 多くの人々に愛唱されている、この傑作の中で私が感嘆するのは〈そうよかあさんもながいのよ〉という箇所である。この詩に関して、少しばかり変った読み方をするのを許していただくと、冒頭の〈ぞうさん/ぞうさん/おはながながいのね〉は、象の鼻の長すぎることを、いくらかからかつた者の意地悪と読めないこともない。ところが、そういう意地悪をすら〈そうよかあさんもながいのよ〉が、見事に肩すかしを食わせるのである。得意になって答える子象に、意地悪なからかいも、微笑して同調せざるを得なくなる。
吉野弘「まど・みちおの詩」1979(『まど・みちお』河出書房新社2000

 鋭い詩人ならではの「読み方」の提示であった。吉野は、この子象の「鼻の長さ」を、ある意味での「障害を持った子ども」のように見られるところを意識していたのである。それは「いじめ」の対象になる。本当に「鼻の長さ」のことを聞きたいのなら、親や先生に聞くだろうが、「いじめ」とならば、直接にその相手に、「お前の鼻はなんでそんなに長いんだ」と言ってからかうからである。確かにそのように読み取れることもわかるだろう。この吉野弘の一文を意識していたのであろう。作者も、次のように書いていた。

世の中で一ばん鼻の長いのが象で、象のように鼻の長い動物は他にいません。バクが幾らか長いといってもゾウの比ではありません。この地球上の動物はみんな鼻は長くないのです。そういう状況の中で「お前は鼻が長いね」と言われたとしたら、それは「お前はへ
んだね」と言われたように受け取るのが普通だと思います。しかるにこのゾウは、いかにも嬉しそうに「そうよ、母さんも長いのよ」と答えます。長いねと言ってくれたのが嬉しくてたまらないように、褒められたかのように。自分も長いだけでなく自分の一番大好き
なこの世で一番尊敬しているお母さんも長いのよと、答えます。
p261 『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

まど・みちおも、実は吉野弘のように意識していたのである。でも、吉野は、後半の歌詞を「肩すかし」として独特な肯定の感覚で説明していたのに対して、まど・みちおは、もっと積極的に、子象と母象の関係を強調する独特の肯定感でこの詩を「説明」して、次のように言っていた。

 このゾウがこのように答えることが出来たのはなぜかといえば、それはこの象がかねがねゾウとして生かされていることを素晴らしいことだと思い幸せに思い有難がっているからです。誇りに思っているからです。本当にこの世にゾウがゾウとして生かされていることはなんという素晴らしいことでしょう。ゾウに限りません。ウサギでも蝶でも鰯でも雀でも、いいえ菊でも竹でも松の木でも数かぎりない生き物がみんな夫々の個性を持たされて違う生き物として生かされていることはなんとも素晴らしいことです。
p261 谷悦子『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

 でも、これは「優等生」の答え方のような気がする。この文章は1979年の講演に手をいれたもの(『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995の「付記」p269参照)なので、童謡「ぞうさん」1952が出てから、30年近く経ったのちの「説明」である。なので、私には、書かれた当時の心境とはだいぶ違ったところを強調して「説明」がなされているように思われる。そのことを理解するためには、もう少しまど・みちおの「母」のことにふれなくてはならない。

 2 「鼻」について

 まど・みちおの「母」についての詳細は、のちに触れることになるので、ここでは童謡「ぞうさん」に描かれた「かあさん」にかかわるところで「説明」をして見たい。大事なことは、吉野弘が指摘して、まど・みちおも認めていること、つまり、子象は誰かに何か「悪口」をいわれているのではないかという指摘である。私もそう思う。では、なぜ子象は、何のために「悪口」をいわれなくてはならなかったのか、という疑問が次に出てくる。吉野弘は、みんなと違う鼻を持った子象を「からかう」ためと考えのだが、それは「鼻」を何かしらの「欠点」とまわりから見なされたためであると考えていた。それに対して、まど自身は、「象のように鼻の長い動物は他にいません。」「この地球上の動物はみんな鼻は長くないのです。そういう状況の中で「お前は鼻が長いね」と言われたとしたら、それは「お前はへんだね」と言われたように受け取るのが普通だと思います。」とはっきりと認めつつも、その「鼻」は、象だけが持つすばらしいもので、それをもつことを子象は誇りに思っている、と「説明」し直されるのである。「ヘンなもの」が、後に「すばらしいもの」にすり替えられて「説明」されている感じがするのである。
 だからここでは、立ち止まって、吉野もまども認めたこと、つまり子象は「へんなもの」もっているという見方を今一度再考してみたいのである。子象は、確かに「ヘンなもの」をもっている、歌われているのである。
この「ヘンなもの」が、「鼻」だとされるのである。なぜ「鼻」なのか。なぜ「耳」ではいけないのか。
 この問いをを考えるなら、芥川龍之介の「鼻」や、ゴーゴリの「鼻」にも、注意を向けておく必要がある。ピノキオの鼻や、クレオパトラの鼻も気になる人がいるかもしれないが、なぜ「鼻」が問題になるのか、ということのヒントが、こういう作品にもあるように思われるからだ。とりあえずは芥川龍之介の「鼻」を少し考えておく。
 主人公、禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻は、べろんとあごの下まで垂れている。だから食事の時は横から弟子に、細長い板で鼻を持ち上げてもらわないといけない。尊敬されるべき弟子からして、この鼻のことで毎日笑われている気がして苦痛でならない。軽蔑されるために生まれて来たのかとも思い悩む。それで鼻に効果のあると聞いた治療は、こっそりとなんでもやってみるのだが効き目はない。でもある時、弟子のが勧めてくれた治療をやってみると、鼻が縮んだのである。その後の顛末は、物語を読んでもらえばいいのだが、鼻が縮めば縮んだで、また悩みが出てきたのである。
 問題は、この「鼻」が顔の中央にあり、出会うものから「隠す」ことができないというところにある。ゴーゴリの「鼻」は、逆にある日、「鼻」がなくなってしまう話である。これも気味の悪い話である。まだ鼻の長い話の方が受け入れやすい、と思わされる話である(『ハリー・ポッターと死の秘宝』の「ヴォルデモート」の顔には鼻がなかった)。どちらにしても、鼻は目立つ位置にあるので、大きさや、高さや、形は昔から大いに注目されてきた。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう」などと言った逸話が残されるのも「鼻」ならではの話である。「鼻っぱしを折る」とは「鼻っ柱を折る」という意味で、意志が「柱」のように尖って出ている人のことを指し、その出た鼻を折るという意味である。クレオパトラの鼻も、そういう意味で、敵国と張り合って負けまいとする意気を示す「高い鼻」だったのだろう。「鼻」の大きさが性的な強さを示すと言われてきたのも、鼻と意志の連動が、そういう俗信を生んできていた。そういう意味では、芥川龍之介の「鼻」の主人公、内供の鼻は、だらんと垂れていて、いかにも性的不能の感じがする。そして同時に、その垂れた鼻は、意志の弱さや、自信喪失のイメージを喚起させるものになっていた。
 そことを踏まえると、童謡「ぞうさん」の子象の鼻に、「ヘンなもの」を認める吉野弘やまど・みちおは、そこに何かしらの「マイナス」を認めていたはずなのである。「鼻」を問題にするというのは、そういう事情がなければならないのである。そういう「マイナス」をもった「鼻」が、第二連で、「そうよ/かあさんもながいのよ」というふうに、明るく、「肩すかし」のように、語られるということになると、だいぶ不自然な事になる。もしも、この「鼻」が、二人が認めるような「マイナス」のもであるとしたら、「そうよ」という肯定の言い回しは、その「マイナス」のことを指すことになり、その「マイナス」が、「かあさんにも」あるということを言っていることにならないと不自然になる。
 問題はその「へんなもの」で「マイナスのもの」とは何かである。それは、まど・みちおが、かつて「母に捨てられた」という記憶のことである。それは言うまでもない、彼が6歳の時に、まど・みちお一人を、おじいさんの所の残して、一家(母、兄、妹)が父の居る台湾へ渡っていったという思い出でである。彼は、6歳、7歳、8歳、9歳、10歳までの5年間は、母の居ないひとりぼっちの暮らしを強いられていたのである。それは辛い体験であった。少し想像してみれば分かるであろう。母を必要とする、人生で最も多感な少年時代に、突然何の前触れもなく、自分一人だけ置いて、母がどこかへいったのである。兄弟みんなが残されたというのなら、それはそれで、助け合うことも出てくるのだろうが、兄と妹は連れていったのである。なぜ自分だけがおきざりにされたのか。そのことを考えることの苦しみは、想像のつかないものがあるはずである。その苦しみの考察はまた後にすることになるが、ここでは、この時の苦しみや受けた心の傷が障害癒えなかったことは、100歳になっても、このことを書いていることからもよく分かるのである。彼はこう書いていた。

 祖父と暮らした六歳から九歳の頃の記憶は、私の作品のすべてに影響しています。
『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』新潮社2010

「すべて」という言い回しには誇張があるとしても、おそらくそうなのだろう。そう考えると「ぞうさん」も例外ではない、ということになる。その暮らしとは次のように回想されているものでもある。

徳山で私がじいさんとふたりで住んでおったのには訳があります。父親は私が三歳のころから仕事で台湾に行っておりました。そして、五歳のある日、起きたら、家にはじいさんとばあさんと私だけしかおりませんでした。お母さんと兄弟は私を残して、父のところに行ってしまったのです。じいさんは私に色のついた米粉のお菓子を食べさせてくれました。もちろん喜んで食べはしましたが、涙はどんどんどんどん出るもんです。それはそれはかなしくて、二、三日は泣いておっだと思います。しばらくしてばあさんも死んでからは、じいさんと私のふたり暮らしとなりました。
 じいさんは私を目に入れても痛くないというほどかわいがってくれましたが、いるべき両親がいないことをバカにするやつも友だちの中におるんです。いま考えるとそういうやつも懐かしく思い出すけど、そのころは寂しかった。ほかの友だちにはみんなお母さんがいるのに、自分にはいないというのは、本当にかなしいことでした。
「お母さん」(『百歳日記』)NHK出版生活人新書2010

 ここには考察べき大事なことがいくつもあるのだが、ここでは「いるべき両親がいないことをバカにするやつも友だちの中におる」という指摘だけには触れておきたいと思う。具体的にどんなことを言われたりされたりしたのかは、「幼年遅日抄Ⅰ・Ⅱ」と題された随筆にその悔しい思いが綴られている。

 彼らが、ひそひそ話しているのは、喧嘩に弱くて、誰にも相手にされない私の事らしかった。男の癖に、ご飯を炊いたり、繕いをされたりする、お祖父さんの事らしかった。
(略)
私は、お祖父さんが「毒があるけに、ひがん花の傍で遊んじゃいけんでよ」と、おっしゃるのは、本当は、ひがん花の方が、私たち一家を除け者にしているんではなかろうかと、つくづく思うのだった。そうと言うのは余り惨めなので、それで斯うおっしゃるんではなかろうかと、思うのだった。
実際、私の家には、煤けた土間と、黴(ルビ:かび)た二階と、腰の曲ったお祖父さんと、洟(ルビ:はな)を垂した私の他には、何にもありはしないのだもの。私は私たち一家は、世の凡ゆる美しいものから、見離されねピばならぬ宿命にあるような気がするのだった。
「ひがん花のことなど」p441『続まど・みちお全集』理論社2015 

 子象に「おはなが ながいのね」と聞いているのは、この時の悪ガキたちのイメージと重なっているはずである。家族の中に「隠し事」や「弱み」があっても、それは家族のものが話をしない限り、外のものには「隠されて、見えない」ものである。しかし、この時の石田道雄少年は違っていた。昨日までいたはずの母親がいない、おまけに兄も妹もいない、などいうことは、隠しようがないのである。まるで、芥川龍之介の「鼻」の主人公のように、みんなの見える所にいつもぶら下がっているのである。そしてその目に付きやすい「鼻」をとらえては、みんなで「いじめ」をしていたのである。
 その辺ことは形を変えてかまざまなところでくり返し語られてきた。そしてよほど腹に据えかねていたのか、次のような記憶としても残されている。

私の父は単身で早く台湾に行っていたのですが、母が私の兄と妹をつれて父のもとへ行ったのは、私が五、六歳の頃です。私は故郷に残されて、おじいちゃんと二人で暮らしていたんです。それはもう本当に寂しかったです。何かにつけ、他の人はみな両親がいるのに自分にはいなくて、老人と二人暮らしですからね。 p177
(略)
私は、灯をつけるためにランプのほやを磨いたりしながら、泣きたい気持ちでそれを眺めたりしていましたが、その頃の私の五感が感じ受け取ったものが、いま私に詩らしきものを書かせている美意識の基礎になって'いると思います。どなたでもそうでしょうけど、幼年の頃に外界から受けた刺激というのはじつに強烈で、無意識のうちに私たちの中に蓄積されているのだろうと思います。 p177
(略)
おじいちゃんと二人で非常に長い年月暮らしました。といっても小学校三年生までですから、せいぜい四、五年でしょうが、いまの二、三十年にも相当するような気がします。このごろの私なんか、いまのところへひっこしてきて一八年、戦後まもなく四十年になるんだけど、それよりもあの幼い時の数年間の方が長かったような感じがするんですね。いまなんか一年といったら一ヶ月みたいな感じです。 p179
谷悦子『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

 ここには、「寂しさ」や「悲しみ」だけが語られているが、本当に悔しかったのは「母が自分を捨てた」ということへの思いなのである。そこには、母への怒りや憎悪がきっと渦巻いていたはずである。次のような記憶にはその一端が語られているように思える。

 ごく幼い時に仔猫がいたんですが、それをかわいさのあまり投げつけたことがあるんです。その記憶はいまでも鮮明に私の深いところに残っているんです。何ていうんでしょうね。理性的に考えたらそれはかわいいのですから、いたわってミルクを飲ませてやるとかしなくちゃならないんだけど、投げつけたりするというのはどういうことだか、私にはよくわかりませんけどね。自分の中に残忍残酷な何かがあるんじゃないかという気がするんです。だから逆に、頭では立派なことを考えたりするんではないかという感じがあります。それで、きれいなことを書いているのが、本当は恥ずかしいのです。
p174 谷悦子『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

 晩年のおだやかで紳士的なまど・みちお殻は、想像ができないかもしれないが、日本に一人おきざりにされた石田道雄少年にとって、その無念な呪いの怒りをどこかにぶつけなくていられなかったはずである。この「子猫を投げつけた」という思い出は、その恨みの発露して当時の石田道雄少年の心境をよく表していたと思う。「自分の中に残忍残酷な何かがあるんじゃないか」という発言の裏はそういうことだと思う。
 そのことを踏まえて考えると、「おはなが ながいのね」に込められた少年期の嘲笑は、吉野指摘したように、聴き手にちゃんと感じ取られるものになっていたのである。問題はくり返して言うように、その後の詩句の展開の理解の仕方である。つまり、「そうよ/かあさんもながいのよ」という詩句の理解である。今までの理解を踏まえると、こうなるはずである。
 自分の中の、母に捨てられ、それがみんなに見える「鼻」になっていた時期の苦しみは、そうよ、かあさんにもあるんだよ、という解釈である。つまり、ぼくのも体験した苦しみの傷=鼻は、かあさんももっているんだ!という理解である。「そうよ/かあさんもながいのよ」と。「「ぞうさん」の作品が、おそろしい。」と書いたのは宗左近であった。彼の直観は、決して大袈裟ではなかったのだ。
 そして歌は第二連に続く。「子象の鼻」の話から始まっているのに、なぜか「母さんの鼻」の話になって終わっている第一連の歌。それを受けているはずなのに、今度は象の話ではなく、「誰が好きなのか」という話になっている。そういう問いかけなら、別にぞうさんでなくても、カバ君でも、きつねさんでも、よかったはずである。でもこの二連は、普通の意味で、誰が好きなのかと聞いているわけではなかった。第一連では、すでに、自分と同じ傷=鼻をもった母親のことを言っている訳なので、それを前提にして子象に、誰が好きなのかとたずねているのである。そこで、子象は、自分と同じ花を抱えている母親が大嫌いだとか、憎くてたまらない、といってもよかったのである。しかし、そういうふうにはならずに、同じような鼻を持った母親の象が好きだといっているのである。

ぞうさん
ぞうさん
だれがすきなの
あのね
かあさんがすきなのよ

 考えられることは、おそらく10歳になって台湾に渡り、母と再会したときに、涙ながらに彼に母は謝ったのだろうと思う。その時に。子ども心に、母も自分をおきざりにしたことで毎日苦しんでいたことを知ったのではないかと思われるのだ。おきざりにされた過去の苦しみは100歳になっても消えないけれど、母も苦しんでいた(鼻を持っていた)ということはよくわかり、許してあげようとおもったのであろう。その思いがきっと第二連の詩句になって結実したのだと思われる。そう考えないと、第一連から、第二連への展開は、その問いかけがあまりにも突拍子もないように見えていたからである。
このまど・みちおが許すことになる母のことは、このあと章をかりて、もう少し丁寧に見てゆくことになるだろう。

  3 「の」を削除された「ぞうさん」の意味について

 さてここに来て、もう一つの不思議について考えたいと思う。それは、もともとの「ぞうさん」の詩句は、次のようになっていたという問題である。

ぞうさん
ぞうさん
おはながながいね
そうよ
かあさんもながいのよ

 歌ってみればすぐに分かることだが、私たちの知っている「おはながながいのね」という歌詞を、三拍子で「おはながながいね」と歌うことはできない。だから作曲の過程で「の」が付け加えられてしまった。この辺の事情についてまど・みちお自身は次のように語っていた。

 最初はSさんという人が二拍子に作曲したのですが、佐藤義美さんがこれでは勿体ないといってNHKに持って行きました。そしてNHKが團伊玖磨さんにお願いしていま歌われている三拍子の美しい歌になったんです。第一連は初め「ぞうさん/ぞうさん/おはながながいね」だったんですが、その時佐藤さんが「おはながながいのね」と、「の」を入れたのです。「の」を入れるとやさしい感じで女の子のイメージに近くなりますが、とにかく佐藤さんと團さんとそれにNHKのおかげでこの名曲は生まれたのですね。
p201 『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

 だから「これは明らかに改作がすぐれている」と佐藤通雅も『詩人まど・みちお』北冬舎で書いていた。誰が歌っても、「おはながながいね」では歌えないのだから、歌いやすさを考えれば「改作」の方が良いということになるだろう。歌謡曲の世界でも、作曲家は曲に合わせて、歌いやすいように歌詞を変更することもあるのだから、「の」の一字を付け加えたことは、そんなに問題にすることもないように思われる。それはそうだとしても、ではなぜまど・みちおは最初は「おはながながいね」と書いていたのか、ということについては「歌いやすさ」の視点からでは、説明はできない。そして、この「付け加えられた「の」の問題」は、実は今まで延々と述べてきたことの中に理由があることを、私たちは知ることになるだろう。
 最初に、たかが「の」の一つぐらい、と思われていることについて言っておきたい。「たかが「の」一つ、と思われるのは、実は日本語では「の」がひんぱんに使われてきたからである。あってもなくてもいいようなところでも使われている、という感じがするものだから、一つ減っても、一つ付け加えられても、たいしたことはないのでは、と思われてきたかも知れない。しかしはじめに言っておかなくてはならないのは、日本語の至る所で「の」が使われるているということは、それだけ「の」には多くの役割を使いこなせる優秀な性質があったということなのである。野球で、一人の選手が、ピッチャーもバッターもできる、一塁も三塁も守れる、さらにはキャッチャーもできるとなれば、なんてやつだ!ということになるだろう。「の」というのは、そういう「選手」なのだ。
 そのことを意識してもらって「ぞうさん」全体を見ると、すでにこの短い歌の中に歌の中だけで5つ使われている。そして、やかいなことに、ここに使われている5つの「の」だけでも、説明をするのはむずかしい、ということなのだ。しかし、せめてこの歌に現れた5つの「の」についての理解ができないと、付け加えられた「の」のもつ重要な意味がうまく見えてこないのである。」

① ぞうさん/ぞうさん
② おはながながいのね
③ そうよ
④ かあさんもながいのよ

⑤ ぞうさん/ぞうさん
⑥ だれがすきなの
⑦ あのね
⑧ かあさんがすきなのよ

 少し本題からずれる「の」から先に取り上げてみたい。それは⑦の「あのね」の「の」である。もともとは、何かはっきりと指し示すわけではないが、遠回しに何かを指示するときに「あの」と使ってきた言い回しがベースにある。「あの本をとってくださいな」「あの方がいらしたみたいよ」と。つまり「あ(向こうの方=彼方)」の方向にあるものを「の」として指示し、「あの本」とか「あの人」とか言ってきたのである。「あの野郎」というのも、直接に名指ししないで、ぼやけさせて指示しているところがある。そういう少しぼんやりさせた「あの」が、さらに親しい人の間で「ね」という「同意を求める」言葉がつけられて、「あのね」という、ふんわり、ぼんやりした、それでいて同意を求める言い回しができていったのである。童謡「ないしょばなし」1939で、「ないしょ、ないしょ、ないしょの話は あのねのね」と歌われて有名になってきた「の」も、このぼやけさせながら、同意を求める子どもの気持ちがよく表されていた。
その次に見るのは⑥の「だれがすきなの」の「の」である。この「の」は、わかりやすくみえる。質問や疑問の時に、最後につけられるものだからだ。
「これ、もらっていいの?」「行ってもいいの?」「どこにいるの?」
 これらは質問や疑問文である。最後に「の」がつけば、たずねていることがわかるようになっている。とすれば、「だれがすきなの」も、たずねているのだという理解になる。それはそれでいいのだが、ただ「好きなの」と「な」を入れて言えば、「私はあの人が好きなの」と意味にも使う事があり、「の」が着くから疑問形になるとは限らないことはいっておかなくてはならない。言葉は「一字」だけで、その意味を言い当てることはできないからだ。
このことをいうのは、次に⑧の「かあさんがすきなのよ」の「の」を取り上げるときにもいえる。ここにも「の」がある。しかし、ここでの「の」は、「かあさんがすきなのよ」というふうに、「なの」としてひとまとめに考える方がいいはずである。「好き」というきもちをさらに「なの」で強調し、もうひとつ「よ」でだめ押しをする表現になっているからである。
ここから④の「かあさんもながいのよ」の「の」を考えるとどうなるだろうか。この「の」は、⑧の「かあさんがすきなのよ」に似ている感じがする。⑧では「好き」を受けて、それを強調する「なのだ」を略した「なの」が付け加えられていたのであるが、④でも「ながい」を受けて、それを強調する「の」をつけて、「かあさんもながいのよ」と言っていたからである。

 以上のことを踏まえて、いよいよ②の「おはながながいのね」の「の」を見てみるとどういうことが考えられるだろうか。すでに指摘してきたように、ここでの「の」は「長い」という状態の鼻を受けて、それを強調するかのように見えているが、「かあさんもながいのよ」として使われている強調の「の」と、ちょっと違うことに気がつく。「おはながながいのね」と言われている場合の「の」は、「おはながながい」と同格の意味で用いられているからだ。「おはながながい」=「の」という感じなのだ。もう少し言えば、前に言ったことと「似たようなこと」ことを「の」と言っている感じがするのだ。
 なぜ、そんなことを指摘するのかというと、ここで本題に一気に入ることになるのだが、もともとまど・みちおは、ここでの詩句を
 「おはながながいね」
 と書いていたのである。その「の」の入らない詩句の意味を知ろうとするがために、延々と「の」の入った詩句の意味をここまで考えてきたのである。そして、ここに来てわかることは、
A「おはながながいね」
B「おはながながいのね」
の違いは、ただ「の」という一字が入っただけではないということの認識についてなのである。端的に言えば、Aの方は「「おはながながい」という事実を、そのままストレートに相手に伝える表現になっていることが分かる。しかし、一方のBの方は「の」が入ったがために、「おはながながい」という事実が、いったん同格の「の」に持ち変えられて、間接的に表現されている感じがするのである。このことの意味の違いを分かってもらうために、こんな場面を比較する意味で紹介してみる。それはアニメ映画『となりのトトロ』で二人の姉妹が、バス停で父の帰りを待つ有名な場面である。そこで来たバスにお父さんが乗っていなくて、がっかりしたメイがサツキに次のように言う画面である。
C メイ:「お父さん 乗ってないね」
 もしこのセリフに「の」を付けるとどうなるだろうか。
D 「お父さん 乗ってないのね」」
 Cの方は、メイがサツキに、直接に確認しているセリフである。お父さんが「乗っていない」ということを「ね」で確認しているのである。それに対してDのように言うとなると、メイが言うセリフとしては不自然になる。サツキが言っても不自然である。このセリフが自然に聞こえる光景を考えるとしたら、さつきとめいの二人の他に、誰かもう一人よその人がバス停にいて、その人が、がっかりしている二人に話しかける場面である。その場面なら、「お父さん 乗ってないのね」と話しかけることがありえるからだ。「乗ってない」という事実を、「の」で、もう一度確認をして、相手に伝えているからだ。そうすると、Cの方は、父が「乗ってない」ということに対して「直接的な位置」にいるのに対して、Dの方は立場が「間接的な位置」のいることがわかる。別な風に言えば、Cでは、「乗っていない」という事実をつらく、否定的にとらえている表現になっているのに対して、「乗ってないのね」と「の」をつければ、なにか、よそ事で、自分には関係のないこととして言っていることが分かるはずである。「乗ってないのね、残念だったわね」というふうに。あるいは「乗ってないのね、かわいそうに」というふうに。
そのことを踏まえて、もう一度
A「おはながながいね」
B「おはながながいのね」
を比べてみると、Aの方が「おはながながい」を直接に、ストレートに、事実としてたずねていることが分かる。そして一方のBの「おはながながいのね」は事実を、間接的に受けとめているので、柔らかい、どこかよそごとのようにたずねている感じがする。とすると、まど・みちおがなぜこの「ぞうさん」で、最初Aの「おはながながいね」と書いていたのかの意味も見えてくるのである。まど・みちおは、「はながながい」という事実を直接にたずねたかったのである。つまり「鼻のながい特別な象」に直接問い尋ねたかったのである。ところが、曲のリズムのつごうで、「の」が入れられてしまい、その結果、その子象は、どこにでもいる「一般的な象」のようになり、その「一般的な象のながい鼻」が「の」に置き換えられて、ふんわりと、柔らかく、間接的に、「象一般」をたずねる詩句に変えられてしまったのである。

 このことを踏まえて、美智子妃の優れた英訳を見てみると「おはなが ながいのね」が次のように英訳されているのが分かる。
“Little elephant, Little elephant, What a long nose you have.”
“Sure it’s long. So is my mommy’s.”
 ここで美智子妃は「まあなんて長いお鼻をしているんでしょう」というような感嘆の形で訳されているのである。それはとても優れた訳だと思われるが、見てきたようにこの「おはなが ながいのね」の詩句は、感嘆ではないのである。だからといって、どう訳せば良いのかということになると、美智子妃の訳以上に、訳せるのかは疑問である。「の」の有無のニュアンスを、英語で伝えることの難しさがここにある。



「やぎさんゆうびん」の詩異論

   『路上146号』2020.3 掲載

「やぎさん ゆうびん」異論



1 「やぎさん ゆうびん」の自作自注から

 童謡としての「やぎさん ゆうびん」は、今でも子どもたちの口ずさむ、有名な歌だ。しろやぎさんと、くろやぎさんが、お互いの出した手紙を食べ合うので、いつまでも手紙が届かないという歌である。この歌をめぐっては、阪田寛夫が『まどさん』の中で、「無限反復」というような高等な用語で説明したものだから、のちに、そういう詩であるかのように追従して説明する人たちも出てきていた。本当にそんな詩なのだろうか。


やぎさん ゆうびん

しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
―さっきの おてがみ
ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
―さっきの おてがみ
ごようじ なあに
  1951

 この有名になった童謡について、まど・みちおは尋ねられることがよくあったのだろう。自作自注として次のような説明を残していた。

この歌は戦前に書いて戦後に手を入れて團伊玖磨さんに作曲して頂いたものです。白ヤギからきた手紙を黒ヤギがこりゃあいいご馳走がきたというように食べてしまいます。食べてしまったあとで気がついて、「さっきの手紙の用事は何だったか」という手紙を白ヤギに出します。その手紙を貰った白ヤギも「こりゃいいご馳走だ」というように食べてしまって、そのあとで気がついて、「さっきの手紙の用事は何だったか」という手紙を黒ヤギに出します。つまり白ヤギと黒ヤギの間を「手紙の用事は何だったか」という手紙が無限に往復します。ことほど左様に白ヤギ黒ヤギは、どうしようもない食いしんぼうです。私はこの歌が生き物は食いしん坊だということをうたったのだと思われたら幸せです。すべての生き物が食いしん坊なのです。
  「まど・みちお自作自注」(谷悦子『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995) 

 ここに「無限に往復します」というようないいまわしがあるものだから、阪田寛夫の説明の根拠にもなっているのかも知れない。あるいは、阪田寛夫が、そんな風な説明をしているので、まども、その言い方を借りて説明していたのかもしれない。が、どちらにしても、その「説明」は正しくないと私は思ってきた。詩の内容を正確に説明できていないからだ。
 とくにまど・みちおのいう「私はこの歌が生き物は食いしん坊だということをうたったのだと思われたら幸せです。」という言い方には大いに異論を申し上げたいと思ってきた。
 普通に読んでもこの詩は「くいしんぼう」の詩ではない。この詩は、どこからどう読んでも「てがみ」の詩である。事実、「しろやぎさんから おてがみ ついた」と一行目に書かれている。「お手紙」が届いたとちゃんと書かれている。なのに「くろやぎさんたら よまずに たべた」というのである。手紙とわかっているのに、くろやぎは食べてしまったのである。そしてその後が、問題の箇所である。「しかたがないので」と書かれてある。何が「しがたない」のか。手紙を食べてしまったことを言っているのか。そうかもしれない。続けて「しかたがないので おてがみ かいた」と。誰が書いたのか。手紙を食べたくろやぎさんである。彼はさっき食べたのが手紙であることを知っていたので、しろやぎさんに改めてたずねてみたのである「さっきの おてがみ/ごようじ なあに」。
 この詩が、変な展開になっていることは、誰にでもわかるのではないか。やぎさん同士が、手紙を食べたことがヘンなのではない。やぎさん同士が、「紙切れ」を出し合ったのなら、それを食べ合うことがあっても何もおかしくはない。けれども、やぎさん同士は、はっきりと「手紙」を出したと書かれているのである。「手紙」を出したのに、それを食べてしまって、そして「手紙」を食べたことが自分でもわかっているので、わざわざ「さっきの おてがみ」の書いてあった「ごようじ」はなんでしたかという手紙を書いてまた送っているのである。
 しろやぎさんも、くろやぎさんも、相手からきたのが「手紙」であり、その「手紙」に書かれている「用事」が気になっている。そんな気になっている「手紙」をなぜかお互いに食べてしまって、あわててまた尋ね返しているのである。
 こういう詩が、まど・みちおの自作自注でいう「生き物は食いしん坊だということをうたったのだと思われたら幸せ」というような理解ですますことが出来るのかということだ。大事なことはお互いに「お手紙」を送っているという事である。「手紙」は、お互いにちゃんと届いているのに、なぜか「手紙」として「読まれずに、食べられて」、手紙の役割を果たすことができないまま、また一から手紙を書くことになってしまっているのである。なぜそんなことになっているのか、そういう展開に注目すべきではないのか。
 おそらく考えられる問題は「しろやぎさん」と「くろやぎさん」は、「色」が違うだけなのか、おなじ「やぎ」なのに、すでに「言葉」が通じなくなっているのか、というようなテーマである。
 例えばまど・みちおの暮らしていた植民地下の台湾では、大まかに言っても、中国語(北京語)と台湾語(台湾中国語)、原住民語、日本語など多様な言語が使われていた。だから、伝えたいことがあるのに、うまく意志の伝わらないことはしばしばあったに違いない。とくに、日本語で話すまど・みちおたちにとって、台湾の人たちから受け取る「手紙=伝えたい気持ち」があっても、「さっきのご用事なあに」と尋ね返さないといけないことが多々あったに違いない。
 だからこの場合の「しろやぎさん」と「くろやぎさん」は、童謡らしさを求めてただ「色」を分けされたものではない事がわかるだろう。ましてや「無限循環」とか「無限反復」というような、おぞましい学問言葉で呼ばれるような観念的なことを扱ったものではなく、暮らしに切実な背景をふまえて書かれた作品であることがわかるのではないか。
 そのことを理解するには、まど・みちおの自作自注に頼るのではなく、それまでの詩作を丁寧にたどってみることである。

 
 2  伝わらない「お手紙」のゆくへ

 まど・みちおが「やぎさん ゆうびん」1951の原型を書いたのは「ヤギサン ユウビン」1939である。12年前ということになるだろうか。しばしば、対にして紹介されるので、よく知られているものと見て良いだろう。阪田寛夫は、この詩を「これは昭和十四年六月初出の原型だ。「無限反復」の要素がまだ希薄で、母と子の互いのほほえましい早合点のやりとりに終わっている」(『まどさん』ちくま文庫1993p102)と書いていた。

ヤギサン ユウビン

オヤヤギ カラ キタオテガミ ヲ
コヤギ ハ メエメエ タベテ カラ

「ゴハン ジャナクテ オテガミ モ
クダサリャ イイノニ カアサン ハ」

コヤギ カラ キタ オテガミ ヲ
オヤヤギ メエメエ タベテ カラ

「ゴハン ジャナクテ オテガミ モ
クレレバ イイノニ ウチノコ ハ」
   1939(30歳)

 もちろん阪田寛夫はこの詩を誤解して理解している。この詩をふつうに読めば、確かに親ヤギから来た手紙を、子ヤギは、ご飯だと思って食べてしまったという光景が目に浮かぶ。それだけなら、阪田寛夫のいっている「ほほえましい早合点のやりとり」という解釈が正しいことになる。しかし、子ヤギは決して「早合点」をしているわけではない。というのも、子ヤギは、親ヤギからの「手紙」を心待ちにしていることがこの詩には描かれているからだ。「オテガミ モ/クダサリャ イイノニ カアサン ハ」と。そんなに心待ちにしている母ヤギからもらった「手紙」を、どうして子ヤギが「早合点」して、「ご飯」と間違えて食べてしまうなどということが起こるのだろうか。
たぶん、ここではちょっと変なことが起こっているのである。親ヤギが出した手紙が、「手紙」としては認識されずに、また子ヤギから出した手紙も、親ヤギには「手紙」として認知されていないという状況である。
もしこの状況を、まど・みちおの暮らしていた台湾の情況において見ると、いくつかのことが見えてくる。それは例えば次のような情況である。台湾人の「子ヤギ」たちは、小学校で「日本語」を教わっている。「日本語の文字」も読める。しかし、台湾人の「親ヤギ」たちは、「会話の日本語」はなんとかわかるようになっても、「日本語の文字」は読めないとしてみる。すると、「親ヤギ」の出す「手紙」は「中国語」で書かれ、「子ヤギ」の書く手紙は「日本語」だということもあり得る。そうすると、お互いに「手紙」を出しているのに、そして「手紙」をもらうことを心待ちにしているのに、お互いにそれを「手紙」として、認知できないということが起こりえるのである。それは阪田寛夫のいうような「ほほえましい早合点のやりとり」という理解ではすまない、厳しい植民地の現実が可能性として見えてくる。
 まど・みちお自身は「手紙」というモチーフにとてもこだわっていた。それは、「気持ちを伝える」ための大事な象徴として意識されていたからであるが、戦争に向かう時代の中で「手紙=ハガキ」に寄せる彼の思いが変化してきているのを見のがすわけにはゆかない。というのも、この「ヤギサン ユウビン」の前に、「ハガキ」という詩が書かれていたからである。
時系列をたどっておくと、「ハガキ」は同人誌「昆虫列車」(注1)第2輯1937年5月1日に掲載され、「ヤギサン ユウビン」は同人誌「昆虫列車」第13号1939年6月10日に掲載されていた。ほぼ3年の年月がたっていた。その3年前の「ハガキ」を見ていただこう。

ハガキ

ンーダイ。

ウラガエシテ ミタッテ、
ヤッパリ ハガキジャナイカ。

ンーダイ。

スカシテ ミタッテモ、
ヤッパリ、イチマイジャナイカ。

ンーダイ。

ポケット ナンカハ、
イッコモ、ナインジャナイカ。

ンーダイ。
  1937(28歳)

 ここには、ハガキではなく、ポケットを欲しがる子どもの姿が描かれている。子どもたちのほしいのは、文字の書かれたハガキなんかではなく、何かの入った「ポケット」である。「ポケット」には、何かを入れたり、何かを取り出したりできるものがある。のちに「ふしぎなポケット」につながる発想がここにあるが、その「ポケット」にはビスケットなどの「食べ物」があるだけと思ってはいけない。子どもたちは、「ポケット」に「夢想」を求めていたからである。「夢想」があれば「ハガキ」なんかなくったっていい、という年代がある。ちなみに「囝仔(ルビ:ギヌァ)」1937という素敵な詩には

私の好きな台湾の
ポケット何がある
「脚(あし)の千切れた蟋蟀(こおろぎ)が。

と書かれていた。子どもの求める「ポケット」にはそういうものが入っている。まど・みちおはこの詩を書いた1937年の時点では、まだ大人が大事にするものと、子どもの大事にするものを、分けて書くことができていたのである。次の「お日さま ゆうびん」も同人誌「昆虫列車」第9冊1938年8月20日に掲載されたもので、ここでの「ゆうびん」のイメージはまだ明るいものであった。

お日さま ゆうびん

ゆうびんですよ。
ゆうびんですよ。
呼ばれた けれども
しずかな 雨戸、
すき間へ ひなたを
はさまれた。

ゆうびんですよ。
ゆうびんですよ。
のぞいて 見られて
土蔵の 格子
木馬へ ひなたを
ほうられた。

ゆうびんですよ。
ゆうびんですよ。
たのしそにして
朝ねの 家へ、、
ひなたの ゆうびん
くばられた。
  1938(29歳)

 お日さまの「日光」を「お届け物」というか、「ゆうびん」に見立てている詩である。この発想は戦後のまど・みちおに改めて出てくるものである。遠くからやってくる「お届け物」の発想である。だが、まだこの時点では、まど・みちおの置かれている状況の中に、「ゆうびん」が「届かない」という危機感は描かれていないのがわかる。
しかし、次第に事情は変わってきていたようなのだ。戦争が近づいてきていたからか、まど・みちおの周辺も変化が訪れてきていたことが詩の中に感じられる。
 「ヤギサン ユウビン」が掲載された同人誌「昆虫列車」第13号1939年6月10日には、「カタカナ  ドウブツエン」という大きな見出しの中に、「ヤギサン ユウビン」と共に7篇の詩が載せられていた(クダサイナ/コドモノゾウサン/ヤギサン ユウビン/ヘビサントクマサン/ダレナノダーレ/オケラサントアリサン)。その7篇の詩の中に、次の「ヘビサントクマサン」が書かれていた。意味深長な詩である。

ヘビサント クマサン

タイクツマギレニ ヘビサン ガ、
カラダデ エイゴヲ カキマシタ。

Sトイウジハ コウナンダ。
0トイウジハ コウナンダ。

ソレヲ ミツケテ クマサンガ、
イイワガ オチテ イルコトト、

ソノママ ヒロッテ イキマシタ。
グルグル マワシテ イキマシタ。
   1939(30歳)

 ここに描かれているのは、英語の字になろうとしたヘビの情景である。ヘビはあえて「字」になることで、誰かに何かを伝えたかったのかもしれない。はじめにSという字を、次にOという字に、その次はひょっとしてSだったかもしれない。続けるとSOSだったかも・・・。けれども、それを見つけた「クマサン」は「字」が読めないものだから、Oになった「ヘビサン」を「輪になったひも」のように見てしまった。そしてその「輪」を拾い上げて、ぐるぐる回しながら歩いて行ったというのである。
 おもしろおかしくは描かれているが、ここには「言葉=文字」の通じ合わない者同士の悲哀が描かれいるのがおわかりいただけるであろう。「しろやぎさん」と「くろやぎさん」の対比は、この詩では「ヘビさん」と「クマサン」になっていたのである。このあたりから、まど・みちおの「手紙」観は変わってきていたように思える。

3 「鳥愁」という詩について

彼は「えはがき台湾」1939という総題を付けた上で、六篇の詩(ハダカンボノギナ/スイギュウオジイサン/祭りの近い日/あけの朝/日向に話ほける/冬の午後)を、同人誌「昆虫列車」第12冊1939年5月1日に載せていた。彼はまだ台湾の光景を詩にして伝えるのに、この時点でもあえて「はがき」という言葉を使っていたのである。しかし現実の「手紙」はだんだんと届かないもの」になりつつあった。そのことを歌った次の「鳥愁(ルビ:ちょうしゅう)」という詩は、意味深長な詩である。意味が取りにくいのは、テーマのせいなのか、詩が未完成のためなのか、それとも、近づく戦争のことにわざとぼかして書かなくてはならなかったからか、それはわからない。ただ、ここにきてもなおまど・みちおが、異様に「手紙―はがき」にこだわっていることだけはみておきたい。そして、ここにきて「手紙」は伝わらないようなものとして意識されつつあるところも。(ちなみにこの詩が『まど・みちお詩集』岩波文庫2017に収録され、身近に読めるようになったことがうれしい)。

鳥愁(ルビ:ちょうしゅう)

人あって、空ゆく鳥に、旅の愁いを覚え、エハガキしたためて遠い友へおくる。指おり指おり、かなしみを数えて。
一、あの鳥は、なんであろう。何億鳥分の、一鳥か。
一、何億人分の、一人である自分と共に。
一、この時は、なんであろう。永劫分の、一瞬か。
一、あるいは、一生涯分の、→時か。あの鳥に、この自分に。
一、この処は、なんであろう。大宇宙分の、一地球か。
一、あるいは、一地球分の 一台湾の、一台湾分の、一水郷か。
一、あの鳥と、この自分と。この時に、この処に。いったいこれは、どんなに大変な事なのか。
一、―――解らないからこそ、したためるこのエハガキも、吁(ああ)―――、あの鳥に、無断であるほかないではないか。
一、友は読むであろう。あの鳥の切抜かれた、ただ一片の歴史を。
一、それは、はじめもなく、おわりもなく、はたはた、はたはた、際限ない羽ばたきであろう。友の胸に。
一、それは、そうであろう。が、ついにエハガキは、見失われよう。日のぬくい、或日とでもいいたい遠い日に。
一、そして、忘れてしまうであろう。自分さえ、いつか。あの鳥も、この時も、この処も、この今の自分も。
一、そうした時、なお誰か知っている、これらのすべてを。それは知っていて貰(もら)わるべきである。と言わない事に、言わない事に。
一、とにかく、指も足りない。もういい事に、もういい事に。
人あって、空ゆく鳥に、旅の愁いを覚え、エハガキしたためて遠い友へおくる。指おり指おり、かなしみを数えて。
    1940 31歳

 この詩は、「文芸台湾」創刊号1940年1月1日に石田道雄という本名で発表されている。本名で書いたということは、何かしら特に訴えたいことがあったとみるべきであろう。
 描かれている大きな情景は、「空ゆく鳥」に「エハガキ」をしたためて、「遠い友」に送るというものである。この「エハガキ」とはどういうものか。いわゆる一般的な「絵はがき」のことなのか、前年に終刊した「昆虫列車」に載せた「えはがき台湾」という六篇の詩のことなのか、それはわからない。ただ19号まで続いた同人誌「昆虫列車」が1939年12月で終わったということは、まど・みちおにとっては、いろいろと思うことがあったのではないか。どうして終刊を迎えたのか、その辺の事情はわからないが、ここでは何かしら「鳥愁(ルビ:ちょうしゅう)」という詩の内容に反映されているのではないかという憶測だけを書いておく。
 作品は、「手紙」を託した「鳥」のことにまず触れている。何億分の一匹にすぎない鳥に、何億分の一人にすぎない自分が、地球の、台湾という所の一水郷にいる鳥に「えはがき」を託している。それも無断で。
 でも、というか、だから、というか、「えはがき」は「捨てられる」かもしれない。いや、「捨てられよう」と。そしていつか、「忘れてしまうであろう」。「えはがき」を書いた自分も、えはがき」を託した「鳥」のことも、「この処」も。
 けれども、なお誰かは知っている、いや、知っていてもらわないと困る。知っていてもらうべきである、と。でもそういうことは、大きな声ではいえない。だから「言わない事に」してもらおう。
 とにかく、時間が足りない。だからもう「いい事」にしないといけないのかもしれない。無かったかのようなことにしないと。
 私が読み取れるのはそこまでだ。そこからわかることは、いくつかのことである。
 最も大きなことは、やはり同人誌「昆虫列車」の終刊であるように私には思われる。終刊の原因は戦争を間近に控えた物不足の中の、印刷用の紙不足にあったのではないかと谷悦子は推測していた(注1)が、私もその理由が最も現実的だと思う。ただし、その同人誌の終刊にまど・みちおが感じていた「かなしみ」には、相当なものがあったのではないかと私は思う。
 まど・みちおの台湾時代の精力的な作品の発表の場が「昆虫列車」であり、その場は他の人から見たら、ただの百億分の一にすぎない場所、「ただの同人誌」「世界の片隅の小さな同人誌」にすぎない場所であったかも知れない。が、そこから発信できたものは、まど・みちおにとっては、言いようのない大きなものとして感じられていたのだと思う。その場が、失われる。そして戦争に入ってゆく。そうすると、この同人誌で考えてきたことはすべて、忘れ去られてゆくことになる。誰かに知っておいてもらう必要はないのだろうか・・・。知っておいてもらいたい!。でも、そんなことは「大きな声」では言えないし、言ってはいけないのかもしれない。「言わない事」にするしかない・・。時間は無い・・。
 そして、その2年後にまど・みちおは召集され出兵することになる。(注2)
 この同人誌「昆虫列車」について、貴重な証言が残されている。

これ(「ポン博士」という詩―村瀬注)はただの同人誌に書いたんですよね。誰の反対も受けずに済む所に。だけど、広い社会の目の前で何かをするのだったら、たぶん戦争賛美も協力もしたと思います。弱い人間ですから。『昆虫列車』も社会的でないとは言えませんけれど、片隅の小さな同人誌ですから、勝手なこと、自分の本当の書きたいこと、好きなことを書いたんだと思いますね。そこにまで御上の眼が光っているような感じはうけなかったんでしょうね。
谷悦子「まど・みちお氏に聞く」(『まど・みちお 研究と資料』和泉書院1995

ここでまど・みちおは「勝手なこと、自分の本当の書きたいこと、好きなこと」が書けた場だと語っていた。そして何よりも印象的なことは、「そこにまで御上の眼が光っているような感じはうけなかった」と語っていたところである。同人たちはそういう「御上の眼」を気にしながら、紙不足の中にもかかわらず、毎月精力的に作品を発表し合い、そして終刊を余儀なくされ、まもなく戦争に投入されていったのである。「時間は足りない」というのは確かだった。戦争に行けば、生きて帰れるとは思えない時代だったのだから。

 戦後になって、早い時期に次のような短詩が書かれている。

はがき

もじが
こぼれて
おっこちそう
  1951

 ここでも「手紙」としての機能が不安定であるさまが描かれている。文字がはがきから落っこちそうなのだから。こういう表現をユーモアとかいうふうに見ない方がいいと私は思う。むしろ「ペーソス(哀愁)」と言うのがいいかも。続けて、次のような詩も発表されていた。

おちばの ゆうびん

りすさん りすさん
はい ゆうびん
かぜが おちばを
くばります

くまさん しかさん
はい うさちゃん
ゆうびん ゆうびん
くばります

えはがき ゆうびん
ほう きれい
みんな よむ まね
して みます
  1952

 戦後、まだそんなに時間が経っているわけではない。それでもゆうびんへの思いは続いている。ここでは「落葉」が「ゆうびん」に見立てられ、「落葉」の下を通るすべての動物に届けられる光景が描かれている。それも「えはきゆうびん」と呼ばれている。でもそれを動物たちは誰も読むことはできない。読むことはできないけれど、「ゆうびん」であることはどの動物も知っている。それなら「やぎさん ゆうびん」に似ているじゃないかと思われるかも知れないが、そうではない。むしろ似ているのは、「お日さま ゆうびん」の方である。この詩では、届けられる「ゆうびん」は「ひなた」であった。このゆうびんは毎朝こっそりと届けられる。でもこの「お日さま」の書いた文字を誰も読み取ることはできない。それなのに、誰もがその「ひなた」の届くのを心待ちにしている。
 「おちばの ゆうびん」もきっとそういう種類の「ゆうびん」である。森の動物たちが読めないのは、彼らが「無学」だからではない。あらゆる生き物がその恩恵を受けている「草木」の文字を、誰もまだ読み取ることはできないのである。だたこの詩に描かれた動物たちのすぐれているのは、「みんな」がその「おちば」を「ゆうびんだ」とわかっているところである。「ゆうびんだ」とわかっているから「よむまね」をしているのである。

(注1) 同人誌「昆虫列車」については、谷悦子『まど・みちお』和泉書院2013に「同人誌『昆虫列車』の意義と細目」と題された紹介がある。同人は10人で、日本、朝鮮、上海、台湾とばらばらで、それなのに、よく18号まで続いたと思う。この同人誌を、谷がまど・みちおから拝借し、同人達の経歴と、雑誌の細目を紹介している。大変貴重な紹介であるが、この同人誌は国立国会図書館でも見ることができないので、多くの研究者に公的な図書館で閲覧できるような配慮をしていただけることをぜひ希望したい。

(注2) まど・みちお自身が書いたもので、この「鳥愁」の最も解説に近いものは、「一方性の痛み」1971というエッセイ(『まど・みちお詩集』岩波文庫2017に収録)である。彼自身は、このエッセイを「鳥愁」の解説のように見なしているわけではないが、このエッセイの出だしは、「鳥愁」の自己解説のように思わせられるところがある。にもかかわらず、私は、このエッセイを借りて「鳥愁」を説明するのを避けておいた。1971年という、30年も経って試みられたエッセイは、「説明」としてはまとまりすぎているように思われたからだ。「わかりにくくても」、当時の時代背景のなかにこの詩を置いて読み解かれることが大事だと私には思われたからである。




『てんぷらぴりぴり』論     1968年59歳



 絵画制作(1961-63)を踏まえ、童謡の批判(『雑作 まど・みちお子どもの歌100曲集』フレーベル館1963の「あとがき」)をへて、満を期して第一詩集『てんぷら ぴりぴり』大日本図書1968 が出版された。まど・みちお59歳の遅い第一詩集であった。この詩集が出るまで過程で、彼は「童謡」や「短詩」から自由になり、彼独特の詩の世界を切り開くことになる。
 ここで絵画制作のお復習いをしておくと、彼はその活動を通して、台湾時代の「日本/台湾」の上下関係の体験を彼なりに精算して、その対比の関係を新たな関係に受け止め直ししようとしていた。台湾での上下関係は「抑圧」の関係であったが、その負の遺産を、日本に戻ってきて、今度は「重力(落下)」の関係として受けとめ直すのである。「重力(落下)」とは「落ちる」という体験。倫理的な「墜ち」の体験である。そうすることによって、台湾時代の負の体験を失わずに、それを戦後の日本の状況にも読み取れるように置き換えて「詩」にできると彼は考えた可能性がある。
 彼の激しい「童謡」批判は、単なる童謡への攻撃ではなく、一見易しく見える「童謡」や「短詩」の言葉に辛い時代のメタファーが読み取れるように工夫されていないことへの疑問が表明されていたのである。
 「少年詩集」にカムフラージュされているので、そういう風に読めば、なんとなく「おもしろい」ように読めるが、きちんと読めば、相当難しい詩集である。


  クジャク

ひろげた はねの
まんなかで
クジャクが ふんすいに
なりました
さらさらさらと
まわりに まいて すてた
ほうせきを 見てください
いま
やさしい こころの ほかには
なんにも もたないで
うつくしく
やせて 立っています
     (1964)

 この詩は、詩人宣言の詩、である。「クジャク」は、詩人としてのまど・みちおであろう。さらさらとまわりにまいた「宝石」とは「詩」のことである。「詩」は「宝石」なのだ。となると、「ふんすい」は「詩人」の底力というか、心の内から湧き上がる意志ということになる。しかしその「詩」は「まいて すてた」と厳しい表現がなされている。「宝石」なのに「すてた」と自覚されている。
「やさしいこころ」とは、きっと詩を書く人の心のことをいっている。「やさしい」とか「うつくしく」とか「やせて」というのは、心身の描写ではない。詩人としての意志の形のことである。
 「詩人」は「噴水」なのだから、「詩」を「宝石」として噴き上げる。しかし「詩」は「落ちる」。噴水のように「落ちる」。世界には「重力(倫理としての奴隷化)」があるからだ。でもその落ちた「宝石」を見てくださいと詩人は言う。
 「やせて立っている」という最後の一行は、だから「風景描写」ではない。「立つ」という重力に抗する観念の姿を描いている。「落ちる宝石=詩」と、そこに「立とうとする詩人」。「詩人」をそういう姿として自覚できたときに、この詩が詩人宣言の詩として第一詩集の巻頭に置かれることになったのである。

 ところで、この詩は、「クジャク」に「噴水」を見、そこにさらに「宝石」を見るという、手の込んだ連想をしている。この「クジャク」「噴水」「宝石」の連想には、「生物」「液体」「鉱物」の異分野のイメージの包括がある。「生き物」「軟体」「硬体」が、一つになったイメージ。そこに「やさしいこころ」が「やせて立っている」というのである。
 「生物」と「液体」と「鉱物」という、異質な三つの世界は、それですでに「詩的世界の全体」を表象している。まど・みちおは、この詩集の後、全六巻に渡る詩集を発刊するのだが、その全六巻は「植物」「動物」「人間」「物」「ことば」「宇宙」と分けられていた。この区分けでもって、彼は「詩的世界の全体」を「詩」に出来ると考えたからである。そして実はこの世界の分類と把握の核心の部分が、この第一詩集の巻頭詩「クジャク」に描かれていたのである。

注:阪田寛夫は、このクジャクをまど・みちおの母だと指摘していた。「やさしい」と「母」を直線で結びつけた簡単な理解だが、それは「詩」の読み方ではない。母のやさしさを言いたいのなら、わざわ「クジャク」「噴水」「宝石」のようなものを持ち出さなくてもいいからだ。そして「母」が「やさしい」というのも、後に見るように、たぶん違っている。


  ヒバリ

あの 青い
空の かがみの

どこかに あたしが
うつって いるかしら

あ あんな 遠くに
こめつぶのように

ここで しずかな
あたしの うたが

あそこからは
にぎやかそうに ひびくこと
      (1968)

 この詩は「雲雀(ひばり)」の詩ではない。描かれているのは、「上/下」の情景である。「倫理的な上/下」の意識が透かし入れられている。そこに「鏡のような青空」に映っているかどうかを気にする「あたし」がいる。その「あたし」が「ヒバリ」と呼ばれている、

 詩のポイントは、「青空」が同時に「鏡」としても見られているところにある。でも、この「鏡」は通常の鏡のことではない。
 大事なことは「ここ」での「しずかなあたしのうた」が、「あそこ」では「にぎやかそう」に響くことが願われている、というところにある。「ここ」での「しずか」と、「あそこ」での「にぎやか」さが対比されている。この比較は一体何なのか。
 おそらく、この謎めいた詩を解く鍵は「こめつぶのように」と形容されたものにある。「「こめつぶ」とは、まど・みちおが、これまでくり返しこだわってきた「短詩」に付けてきた形容だからだ。その「こめつぶ」のような「うた」は、「ここ」では「しずか」なものでしかない。しかし、「あそこ」からは「きぎやか」に響いているという。「あそこ」とはどこなのか。詩では、「青い空」のどこかにある「かがみ」のようなものとイメージされている。でもそれは普通にイメージされる鏡ではない。では何なのか。
 この鏡とは、「メタファー」のことである。「まめつぶ」のようにしかみえず、「ここ」では何の「にぎやかさ」も見せないものが、「メタファー」の中では、一気ににぎやかにその存在を発揮させるというように。そのことを思えば、この「ヒバリ=あたし」が「あたしのうた」と呼ぶものは、自分しか知らない「台湾の体験」のことになる。その体験を「うた」は「こめつぶ」のようなものなので、「ここ」では、聞こえないほどの静かなものであるが、いったん「あそこ=メタファー」の鏡に映されれば、爆発的な賑やかさといて聞こえてくるものなのだと。この詩は語っている。
 そのことを照明するかのように「ひばり」の詩の後に、こめつぶのような短詩「シマウマ」が置かれている。


  シマウマ

手製の
おりに
はいっている
   (1951)

 この詩を、作られた1951年の時点にたって読むのか、戦後のこの詩集1968年の時点で読むのかでは、読み方が違ってくる。時代によって「メタファー」の見え方が違ってくるからだ。1951年にたって読めば、すでに「けしつぶうた」考のところで説明したように、この詩にはしっかりと「台湾」の姿が透かし見える。
 この詩では、「台湾」が「檻」に入っているものとして表象されている。それも「手製の檻」に。「手製」とは何か。誰の作った「手製」なのか。日本が手作りで作った「檻」のことなのか、それとも、台湾が自分で作った「手製」の檻に、自分から入っている、とい意味なのか。
 戦争中の日本が作った「檻」に台湾が入っている、ということなら、「シマウマ」は誰かという、ことになるだろう。 日本軍は去った。戦争は終わった。でも、読者には見えている。まだ台湾には「檻」が作られ、その中に入ろうとする人たちや、その「柵」を無効にしようとする人たちのいることが。
詩では、「手製の檻」と言っている。きっと頑丈な檻のことではないのだろう。仮の一時しのぎの檻なのだろうか。そう考えれば、壊せば壊せそうなものなのに、そういうこともなく、「シマウマ」はそこに入っている。
 1968年の立場に立ってこの詩を読めば、メタファーはまた違って見えてくる。荒れた戦後の日本で生きてきた貧しい自分たちが「シマウマ」のように見えるところがあるからだ。そこにも「手製の檻」が、見えている。にわか作りの雑な手製の檻。でも、そんな手製の檻にしら、いったん捕らわれてしまえば、出ることができない作に檻になっている。
 もちろん、この詩のメタファーは、もっと広がったイメージを与えてくれている。詩人として生きる事を宣言した作者にとって、「檻」とはきっと「言葉」そのものの様に見えているところもあったからだ。普通の人たちは、その「手製」の言葉の「おり」にはいっているとこを気にしない。でも「詩人」は、その「おり」の存在そのものを見つめていると。短歌や俳句を作る人たちは、あえて自分たちの言葉を「五七五七七」や「五七五」のような「檻」にあえて入ろうとしているところもあるからだ。
 1951年の立場で読もうが、1968年の立場で読もうが、どちらにしろ、その中にいるものは「シマウマ」でいい、「シマウマ」でしかないだろう、と作者は感じ取っている。
 付け加えていっておけば、まど・みちおはこの処女詩集『てんぷらぴりぴり』に、昔書いたこの一篇ともう一篇「かいだん」の二篇だけを、再録した。その意味は、十分に受けとめる必要がある。彼は、多くの詩人がするように、昔の詩を「思い出」のように再録しようとしていたのではない。彼が台湾時代に意識していたメタファーが、戦後の詩人として生きる自分にも通用することの再発見があって、特にこの二篇を選んで再録しようとしていたからである。

  二本足の ノミ

あきれたことに
ぼくの ほっぺたにきて
テントウムシが のこのこ
歩きはじめた

おいおい ひとの顔で
ハイキングするなよ
あれ はなの 富士山にまで
のぼりはじめたぞ

とんまな虫だなあ
こんなに動くぼくを
なんで 人間だと 気がつかないんだ
ぼくが きみにとって
あんまり あんまり 大きすぎるからか

まてよ
もし そうなら
ぼくの 何億 何兆ばいも 大きな
なにかが
いま 天から
ぼくを 見おろしてはいないだろうか
 「おや わしの 足に
  二本足の ノミが いるぞ……」
        (1968)

 人間の顔にとまったテントウムシ。鼻を富士山と間違えて登っているのか、とんまだなあと、ある人が思う。「大きい者」と「小さい者」が、その計る尺度の違いで「とんま」に見えることがある。人間だって、「天」の巨人から見たら、足にとまった二本足のノミくらいにしか見えているんじゃないか。そういう風に読めば、わかりやすいといえば、わかりやすい詩だ。けれども、そういう風に理解すると、「少年」向けに書かれた詩のようにしか読み取れなくなる。
 この「顔の上のテントウムシ」と「巨人の足のノミ」のメタファーは、ただの尺度の違いではない。その「大きさ」や「小ささ」」をどう理解すればいいのかを問うている詩になっているからだ。「とんまだなあ」というのはわかりやすい言い分だ。別の尺度で生きる者から見たら、「とんま」といっていたものが「とんま」と見なされる。
 この詩に「大きすぎるもの(日本)」と、「小さすぎるもの(台湾)」の透かしを見ることは可能であるが、すでに作者にとって時代は台湾時代ではない。とすると、最後に作者が、「天からみおろす」視点を登場させているのをどう考えるのか。
 「大きすぎる」ものを「天」とか「神」とか考えることは可能だが、作者はつねに「大きいものの眼差し」と、「小さいものの眼差し」の交差点に自分たちが居る、というところを描こうとしていたのではないか。「大きいもの」と「小さいもの」との関係はどうあるべきなのか。「大きいもの」がそれだけで、「神のような目に」になれば、そこには「見下ろされる」宗教的と言えばいいのか、強迫的と言えばいいのか、まど・みちおが生涯意識し続ける「悩み」も生じてくる。

 
  イヌが歩く

イヌが歩く
四つの足で

どの足のつぎに
どの足が動くのか
どんなに見ていても わからない

音のちがうすずを
どの足にも
一つずつ

ちりん
ころん
からん
ぼろん

むすんでやったら
わかるかな
     (1948)

 いったいイヌの4本の足が、どのように動いているのか、という疑問を持つことに意味があるのか、と思う人がいるだろう。そんなこと、どうでもいいではないかと。どうでもいいと思えば、この詩全体がどうでもいい詩に見えてくる。
 確かに「動物の足の歩き方」というのなら、それは、生物学の本を読めばいいわけで、わざわざ「詩」で読むようなことではない。
 「イヌ」とは当然メタファーである。何のメタファーか。どういう風に考えてもいいが、仮にこの「イヌ」を「台湾」だと考えると、4つの足は、「台湾」が歩くための「足」ということになる。たとえば、戦時中の台湾であれば、「日本」「中国(漢人)」「台湾漢人」「台湾原住民」という4つの足を持っていた、と言える。いくもの言語やいくつもの民族を抱えてきた「台湾」にとって、歩んできた「足」はいくつもある。「台湾はひとつ」といっても、どの「足」が、どのように動いてきたのかは、なかなかわからない。
 「動くもの」には「足」があると言わざるを得ないところがあるのだ。その動くものが「国」であれば、その国の歩くための「足」が必ずある、ということにある。どの「足」で、どのように歩けばいいのか。戦争を遂行してきた国々は、どの「足」でそういう「道をすすんでいったのか、必ず追求されることが出てくるだろう。
 この詩は「イヌが歩く」という当たり前の指摘から始まっているので、そのあとの「四つの足で」という一行がさらに、当たり前の陳腐な表現に見えることだろう。しかし、「足」とはそのものを動かすもので、足がなければ、そのものは「蹴って」動かすしかないことになる。その「石」のことは、この後見ることになるだろう。
 この詩は、詩人としての提言をしている。それぞれの「足」に「音の違うすず」を付けるとわかるかもしれないと。しかし「音の違うすず」とは何なのか、誰がその「すず」を、どこへ、どのように付けるのか、。おそらく、「足」と呼ばれてきたものは、それぞれ独自の動きをもっている。そのことが、「詩」として、わかることが大事なのではないか。どんなもので、動くものであれば「複数の足」を持っている事がわかることが、「詩」として大事なのではないか。


  イナゴ

はっぱにとまった
イナゴの目に
一てん
もえている夕やけ

でも イナゴは
ぼくしか見ていないのだ
エンジンをかけたまま
いつでもにげられるしせいで…

ああ 強い生きものと
よわい生きもののあいだを
川のように流れる
イネのにおい!
   (1968)

 かつて北原白秋が台湾訪問をしたときに、異国情緒あふれる「台湾の美しさ」をことさらに求めていたことがあった。観光客のようにやってくる人々にとっては、台湾の美しい自然しか見ようとしないことがある。が、そんなふうに見ている日本人を、戦時中の日本に占領されていた台湾の人は、強い警戒心でいつも見ていた。その実情を、25年間そこに暮らしていたまどはよく見ていた。「ああ 強い生きものと/よわい生きものの」というたとえは、そういう時代を映している。
 しかし、時代は変わってきた。戦時中のメタファーを詩に読み取るだけではいけないだろう。ここには時代を超えた「トライアングル」が描かれているからだ。美しい夕焼けを映すイナゴと、その美しさ見ているわたしと、その私を警戒しながら見ているイナゴ。単純化して言えば、「わたし」が「ある人」に「美しさ」見ていたとしても、その人は、「わたし」に警戒感だけを持って見ている、という関係。美と警戒と捕食とのトライアングル。
 おそらくそこには、耽美者と捕食者のせめぎあい、つまり詩人と生活者のせめぎあいが、見て取れるはずである。そのせめぎ合いの中に立つ、調停者が警戒感と呼ばれてきたものだろう。だから詩は最後に次のように書いている。「ああ 強い生きものと/よわい生きもののあいだを/川のように流れる/イネのにおい!」。「イネのにおい」とはいったい何か。「耽美者」と「捕食者」の間にあって、「川」のように隔てているものか、いや、「川」のようにつないでいるものか。その三者は「トライアングル」としてお互いがなくてはならないものになっている。


  貝の ふえ

ひろった 貝で
つくった ふえ
風に ほろろ
空に ちろろ
空の 遠くは
青い 海
海の あの日の
うたを うたう
ほーろろろ
ちーろろろ

 風に「吠えろ」と読むところを間違えて「ほろろ」と読んでしまったのか。空に「散ろう」というのも「ちろろ」と読んでしまったか。「空」の青さも、「海」の青さと間違えることがある。そんな「空」と「海」の入り混じるはざまで、貝の笛が、「海の歌」を歌っている。「ほーろろろ/ちーろろろ」。「ほー」とは、風に呼びかけているのか、「ちー」とは、空に呼びかけているのか。それにしても「ろろろ」とは何なのか。
 おそらく「ほろほろ」が、詩のどこかに隠されてあるのだろう。「ほーろろろ」も「ちーろろろ」も「ほろほろ」のにおいがする。
 「ほろほろ」とは「散るさま」とか「散り散りになるさま」とか「涙などのこぼれ落ちるさま」などと辞書に書かかれてある。詩には、確かにそういう「ちりじり」になっているものを歌っているような感じがしないでもない。しかし、「ろろろ」という三連音で、離ればなれになったものを繋いでいる感じもする。
 文法にない「ほろろ」や「ちろろ」「ろろろ」。言葉の意味では無く、言葉の律動で世界をつかもうとする実験的な作品だ。一般には「ことば遊びの詩」と分類されてしまう詩であるが、「非文法を味わう詩」と言った方がいいようにも思う。この詩集の最後の作品「ふんすい」で使われた「のぼるる」とか「おちるる」とか「するるぞ」というような非文法の言葉と合わせて読まれるべきものであろう。


  一ばん星

広い 広い 空の なか
一ばん星は どこかしら

一ばん星は もう とうに
あたしを 見つけて まってるのに

一ばん星の まつげは もう
あたしの ほほに さわるのに

広い 広い 空の なか
一ばん星はどこかしら


可愛らしい、幼稚園でも歌われそうな詩にみえる。しかし歌われているのは、自分をいつも「先」見つける「一ばん星」のことである。その星は、自分より「先」に自分を見つけているが、その星を私はまだ見つけたことがないという。
「一ばん星」と名付けられた星に、私は一方的に見られている。向こうには私が見えているのに、私にはその相手が見えない。詩は、可愛らしく歌われているが、歌われている中身は、すごみのある、気味の悪い光景だ。ストーカーのような「一ばん星」。
この詩を信仰の告白と読めば「一ばん星」は「みえない存在」であってもいいのだが、精神病理として読めば、その「星」は自分をいつも「監視」し、「追跡」しているものように見えてくる。


  石ころ

石ころ けったら
ころころ ころげて
ちょこんと とまって
ぼくを 見た、
ーーもっと けってと いうように

もいちど けったら
ころころ ころげて
それから ぽかんと
空を 見た
ーー雲が 行くよと いうように
       
そうかい 石ころ
きみも むかしは
天まで とどいた
岩山だったか
ーー 雲をぼうしにかぶってね

石ころ だまって
やっぱり ぽかんと
あかるい あかるい
空を 見てる
ーー星が 見えると いうように
         (1957)


 子どもが「石をける」というような光景を描いた「少年詩」なのだろうか。蹴られた石が、転げていって、止まって、ぼくをみた、というのは、石を擬人化しているのか。さらに「もっとけって」というふうに石がいうのだとしたら、擬人化も幼稚すぎて、ついていけない感じがする。それでも、この詩は「少年詩」としては、おもしろい詩だと、多くの人が評価をしてきた。子ども向けの詩と読めばおもしろいが・・ということなのか。
 たぶんこの詩の大事な光景は、「石ころ」なのではなく、この「石ころ」には「足]がないというところであろう。「足」がないので、自分で動くことができない。誰かに「蹴って」もらわないと動けない。「足」をテーマにした詩は、すでに「イヌ」のところでみてきた。その時の詩では、主人公はまだ自分で「歩いている」。
 しかしこの「石ころ」では、その「足」がない。だから動くためには「蹴って」もらわないといけない。それでも「石ころ」には、かつては「足」があったみたいなのだ。動いていた頃の記憶がある? その「足」を思い出すためにか、「石ころ」は「けって」といっているみたいだ。詩の後半はそういう「石ころ」の歴史の語りになる。
 この「石の歴史」を「民族の歴史」のメタファーと考えても良いだろう。どの民族にも、天まで届くような歴史を持っていたことは、どの民族の神話でも語られている。この詩の第三連でも、かつて「石」が天まで届くかのような巨大な岩山であったような光景が語られている。
 でも今は「石ころ」になってしまった。自ら動いていた頃があったのかどうか、もうそんなことも忘れたかのように、「ぽかん」と空を見ていると描写される。
 おそらく台湾時代を、想起すれば、自ら動くための「足」を失った民族の悲哀、誰かに蹴られて動く悲哀、そういう動いていた歴史の忘却のようなメタファーを読み取ることが出来るだろう。しかし、この詩も1960年代において見てみると、また違った相が見えてくる。
 というのも、1960年代の作者にとって、この「石ころ」は、人々にうち捨てられている小さな何でも無い単語(言葉)である。いまはもう、誰も見向きもしない一切れの言葉(単語)である。
 「石ころ」のような言葉。でも、その言葉(単語)は、詩人にもっと動かして欲しがっている。動かしてもらえば違う姿を見せることができるのに。だから、「もっとけって」といっている。なぜなら、かつてその小さな言葉も、巨大な岩山のような意味をもっていたかもしれないのだから。でも、小さくなった「石ころ=言葉」は、もうぽかんとするしかないのだが、それでもその石ころには「星が見える」だけの力は残されていると。
 そんな見捨てられた石を蹴るようなところに、詩人はいるのではないか。詩人とは、そんな石ころを蹴り続ける人なのではないかと。
 この「石ころ」のような「小さな言葉」を取り上げているのが、このあとの「ひとつのおんのなまえ」という詩である。


  つけものの おもし

つけものの おもしは
あれは なに してるんだ

あそんでるようで
はたらいてるようで

おこっているようで
わらっているようで

すわってるようで
ねころんでるようで

ねぼけてるようで
りきんでるようで

こっちむきのようで
あっちむきのようで

おじいのようで
おばあのようで

つけものの おもしは
あれは なんだ
    (1968)


 この詩も「少年詩」としては、とても有名な詩だ。ユーモラスに書かれているので、ほとんど「説明」もいらずに、子どもたちに読ませて笑わせることができる。
 しかし、この詩を「つけもの石」の詩だと説明すると間違いだ。「つけもの石」が、あそんでるようで、はたらいてるようで、おこっているようで、わらっているようで・・・そんな風に見えるとこの詩はいっているわけではない。というのも、ここで描かれているのは、「石」でもないし、「つけもの石」でもないからだ。
 この詩はタイトルからして「つけものの おもし」となっている。この詩は、「つけもの石」が「おもし」として存在していることを問題にしている詩なのである。その「おもし」とは何かを問うているのである。
 もちろん、この詩は、先の「石ころ」の詩と連続している。この詩は、まずは「石」の詩なのだ。しかし「石」の詩ではなく、「おもし」の詩だった。その違いは何なのか。
 「石」がそこにある、ということと、「石」が「おもし」としてあるということは、理解の仕方が違っている。つまり「石」が「重い」ということは、「石」が重力に引っ張られて地面に「落下」しているということである。だから、この詩の最初のたずね方「つけものの おもしは/あれは なに してるんだ」に間違いなく答えれば、「落下」していると言えばいいのである。けれども、この詩は、そういうふうに答えない。
 あそんでるようで、はたらいてるようで、おこっているようで、わらっているようで・・・これは擬人化しているのか。
 手に持った「石」を離せば「落下」する。この「落下」は、ただ「落ちる」だけのものなのか。「落ちる」とは負のイメージでみられるが、それだけなのか。「落ちる」ことを生かしていることもあるのではないか。
 「つけもの石」が「おもし」として使われているのは、その「落下」の姿を役立てているからではないのか。もしこの「つけもの石」を「老人」だとすると、その「老人」は「落下」を「おもし」として存在してきた歴史がある、ということになる。そして、その「おもし」とは何だったのかと聞かれると、「落下」としか言いようがない。
 そこで「落下」ではなく「おもし」なのだと言い換える必要がある。それはとても大事な言い換えである。そうすると、「おもし」としての役に立ってきた歴史が見えるようになる。そして、その「おもし」とはどういうあり方なのかと問われると、作者はおもむろに、
 あそんでるようで、はたらいてるようで、おこっているようで、わらっているようで・・・と答えようとするのである。なにもしていないわけではない。ただ落下していたわけではない。「おもし」としての歴史をもってきたのだと。それは、あそんでるようで、はたらいてるようで、おこっているようで、わらっているようで・・・というふうにしか言い表せないもので、それは決して「石の擬人化」というようなことではないのだと。「おじいのようで/おばあのようで」というのは、きっと本当のことなのだ。


  夕がた

庭のほうで 夕日の ひとりごとが
聞こえていました

 「まつばの そばに
 まつばが おちているよ」

 「まつばの そばの まつばの そばに
 まつばがおちているよ」

 「まつばの そばの まつばの そばの
 まつばの そばに
 まつばがおちているよ………」

おふろから あがって 来てみると
夕日は きえて
星が でていました

見あげていると
星の そばに 星の そばに
星が 生まれてくるようでした
      (1968)


 この詩の本当の題はたぶん「ゆうがた」ではなく「そばに」というものなのだと思う。でも、詩の題は「夕がた」になっている。理由があるのだろうか。
 「そばに」あるものは、いっぱいある。「そばに」あるものは、「そばに」ありすぎて、意識すらできていない。「そば」にあるものは、「そば」にあることで、つながっている。それは「詩」として不思議なことなのだろか。
 「夕がた」がくると、「そばに」あったものも消えてゆく。そこに「夕日]が現れて、「境界」が消えてしまわないうちに、「そばに」には「そば」があるということを言って回っている。お風呂から上がると、その「夕日」も消えて、今度は夜空のほしのそばにほしがあるのが見えてくる。
 この詩から一体何を読み取れば良いのか。
 おそらく、詩の最初に置かれた夕日のひとりごとが大事なのであろう。「まつばの そばに/まつばがおちているよ」というひとりごとが。つまり、「夕日」は松葉は「落ちている」ということ、つまり「落下」を見ているのである。「落下」は「引力」や「重力」の別名であったのだが、その「重力」に引き寄せられるものは、すべて「地上」で重なり、「そば」にいるものになり、「地上」としてつながっている。
 しかし「夕がた」になると、その「そば」に「そば」があり、その「そば」が集まって「地上」ができていることが見えなくなる。その代わり、今度は昼間に見えなかった夜空に、星が見え、その星ののそばに星が、その星のそばにも星が見えてくる。
 それは詩として不思議がらなくてもいいのかと作者は問うているみたいに見える。


  てんぷら ぴりぴり

ほら おかあさんが ことしも また
てんぷら ぴりぴり あげだした

みんなが まってた シソの実の
てんぷら ぴりぴり あげだした

ツクツクホウシが けさ ないたら
もう すぐ ぴりぴり あげだした

子どもの ときに おばあさんから
ならった とおりに あげだした

秋の においの シソの実の
小さな かわいい つぶつぶの
てんぷら ぴりぴり あげだした
       (1968)

 それにしてもひょうきんな題の詩だ。でもこの詩の題は、詩集全体のタイトルにもなっている。だから作者にすれば相当思い入れのある詩であるはずだ。それにしても、なんと、深刻ぶったり、偉そうにしていない題が選ばれたのだと思う。まど・みちおらしい選択だ。普通の詩人なら、これ見よといわんばかりの、ペダンチックで、奇をてらうような題を詩集につけたがるのに、彼はそういう題をあえて避けている。後に阪田寛夫は、この詩の中の「地球の用事」という題の詩を題にした詩集を組んでいるが、そういう題の方が、意味ありげで、賢しこそうで、読者への受けも良いだろうと判断されるのに、まど・みちおは、この第一詩集にあえてとぼけた『てんぷら ぴりぴり』を選んでいたのである。
 たぶん作者は最初に「ぴりぴり」という語感が気に入っていたのであろう。「ぴりぴり」して暮らしている自分の感覚にもぴったりしていたのだとも思う。しかしこの「ぴりぴり」の感覚は、怒っているようでも、笑っているようでも、遊んでいるようでもあるような、不思議な状態だ。この「跳ねた」ような状態を、何とか詩にしたい。それなら「ぱぴぷぺぽ」を使うしかないだろう。てんぷらぴりぴりならうまくいきそうだ・・・などと作者が考えたかどうかはわからない。
 ただ一つわかるのは、「ぴりぴり」が「動いている状態」を表しているということだ。先の「石ころ」の詩を思い出してもらうといいのだが、この時の「石」は蹴ってもらわないと動けない姿として描かれていた。けれども、「てんぷら ぴりぴり」では、油で揚げられているせいか、ぴりぴりと動き、跳ね、躍動したものが描かれている。
 その動きを無にしないために、この詩の大事な部分が、四音と八音の組み合わせで躍動感をつけられている(●は無音の拍)。
 みんなが まってた/シソの実の
○○○○○○○○/○○○○○●●●
 てんぷら ぴりぴり/あげだした
 ○○○○○○○○/○○○○○●●●
 読んでいる方も、ついついリズミカルのこの詩を読んでいる。この詩における作者の狙いは、おそらくこの「躍動感」にあったのだろうと思われる。躍動感。つまり、誰かに蹴ってもらって動くのではなく、沸騰するもの中で、自分から跳ね上がるようなものを歌うこと。
 そのことを考えると、この詩が詩集の題に選ばれたというのは、偶然ではなく、またひょうきんで、庶民的な題を選んでいたからでもなく、よく考えて選ばれたしたたかな題であるところが見えてくる。
 大事なのは、重力に抗して「躍動」できていることなのだ。「夏」と「セミ」と「シソ」と「てんぷら」と「おかあさん」と「おばあさん」が、「ツクツク」や「ぴりぴり」と「四音」「八音」を弾ませながら、詩の中で「躍動」できているところを描きたかったのだ。この詩の「躍動感」は、他の詩からでは味わえないものである。


  地球の用事

ビーズつなぎの 手から おちた
赤い ビーズ

指さきから ひざへ
ひざから ざぶとんへ
ざぶとんから たたみへ
ひくい ほうへ
ひくい ほうへと
かけて いって
たたみの すみの こげあなに
はいって とまった

いわれた とおりの 道を
ちゃんと かけて
いわれた とおりの ところへ
ちゃんと 来ました
と いうように
いま あんしんした 顔で
光って いる

ああ こんなに 小さな
ちびちゃんを
ここまで 走らせた
地球の 用事は
なんだったのだろう
       (1968)

 あまりにも有名な詩だ。何か特別な理解がいるとは思えない詩だ。読んだとおりに理解すれば、十分にわかるのではないか。それでも、この「ビーズ」は、先に紹介してきた「石ころ」や「つけもの石」と、どこか関係があるように置かれている。その関係を感じはじめると、このわかりやすい詩も手強い詩になってくる。
 転がったビーズは、「いわれたとおりの道」をたどって、その「穴」まできたという。そしてそこで「あんしんしたかおで光っている」という。この詩の展開を、読み手は擬人化されたビーズの気持ちとして読み取ればいいのだろうか。仮にそんな風に「ビーズの気持ち」を考えるとしても、考える「気持ち」はもっと他にもあるはずだ。たとえば、首飾りとしてみんなとつながっていたのに、みんなと離れて、こんな淋しい穴の中まで転がってきた。なんてわたしはかわいそうなビーズなんだろう、というふうに。
 でも作者は、そうではなく、その「穴」にたどりついたことに、「あんしん」したところを描いている。。「ちゃんと来ました」というように。つまり、何かしらの「用事」を果たしたかのように、ここまで来ましたよと描いているのである。そして最後に作者は、その用事を「地球の用事」と呼んでいる。急に大きな物差しが出てきて、読者はきっとびっくりさせられる。
 しかし、ビーズが手から落ちて、「ひざからざぶとんへ、ひくいほうへ、ひくいほうへと」転がってゆくのはる、地球に「重力」があるからにすぎない。一番低いところにある「穴」にビーズがたどり着いたは、小さいながらも大きな「地球」のもつ法則に忠実に従って、そこまで来ただけにすぎない。そういう地球の法則を、作者は、「地球の用事」として呼ぼうとしたのだろうか。
 しかし、作者の考えている「地球の用事」とは、そういう「科学」の視線だけでは「説明」のつかないところを見つめている。
 というのも、このビーズのたどり着いた「畳の焦げた穴」は、かつて祖父と参った「墓そうじ」の、あの「墓」や「墓穴」のようにもみえるからだ。そこに向けて、生き物はすべて転がってゆく。人間の言い方をすればそれは「死んでゆく道筋」ということになるだろう。つまり、「ビーズのちびちゃん」に託されたこの「詩の光景」は「死の光景」でもあるからだ。
 でもこの詩では、その「穴」にたどりつくことは、「用事」があってそこまできたのだとされている。「用事」である限りは、それは「大事な用事」なのだ。あとはその「用事」がわかればいいだけなのだが、人間にそれが分かるのか、とこの詩は言いたげだ。
 「用事」というのは、しかし実は「言い換え」なのだ。「つけもの石」の「落下」が「おもし」と言い換えられたみたいに、ここでの「ビーズ」の「落下」が「用事」と言い換えられる。むしろそういう「言い換え」を楽しもうとしているところにこの詩の「用事」がある様にも見える。

注:子どもの前では、大きな声で説明はできないのだが、この「おちびちゃん」を、パパの対内でたくさんなビーズのようにつながった精子のようなものと考えてみることもできる。そのあと、この「おちびちゃん」は、ひとりみんなから外れて、どんどんと転がっていって、とうとうママの「穴」にうまくちょこんと収まることができたというように。ちょっとエロティックで、クスッと笑えてくる解釈かもしれないが、まど・みちおはそういう生命的な解釈は大事にしてきた人だ。だから、きょうもどこかで「おちびちゃん」たちは、「いわれた とおりの ところへ/ちゃんと 来ました/と いうように/いま あんしんした 顔で/光って いる」と。それなら「墓穴」などといった、しけた解釈を持ちださなくてもすむのにと。
でも謎は残る。「ああ こんなに 小さな/ちびちゃんを/ここまで 走らせた/地球の 用事は/なんだったのだろう」と。


  音

ピアノの音 ぼろん
サクランボ ひとつ

たいこの音 どどん
大波 ひとつ

カスタネット けけ
おこうこ ひときれ

らっぱの音 ペぽー
あんぱん ひとつ

トライアングル つーん
かみの毛 一本

すずの音 ちりん
マメの花 ひとつ

もくぎょの音 ぽこん
たんこぶ ひとつ

うそっこ うた たらりー
にじの橋 ひとつ

 「音」は数えることができるのか。サクランボには「ひとつ」がある。ではピアノには? ピアノの「ぽろん」は「ひとつ」なのか。
 そんなことどうでもいいではないか、と作者は考えない。サクランボや大波や漬物や髪の毛などは、「ひとつ」とか「ひときれ」とか「一本」と数えることができるのに、「音」はそういうふうに数えることができない。
 「音」は「ぽろん」とか「どどん」とか「けけ」とか「ぺぽー」とか「つーん」というふうにしか表すしかないもので、それは数えているのではなく、鳴っている、歌っている、としかいいようのないものだ。「音」と「言葉」の違い。ピアノとサクランボの違い。


  しゃぼん玉

しゃぼん玉にうつっている
にじの えいがは
わたしの こころの けしき?

しゃぼん玉が つつんでいる
おみやげは
わたしの こころの おはなし?

しゃぼん玉の おみやげが
さがして いるのは
屋根の スズメの 一けんや?

しゃぼん玉の おみやげから
おはなしが でたら
スズメの 赤ちゃんが わらう?
      (1957 )修正後

 この「しゃぼん玉」は、野口雨情の童謡「しゃぼん玉」のイメージはずいぶん違っている。まど・みちおの「しゃぼん玉」は、「届け物」のようにイメージされているからだ。何かを映し、何かを包み、「おみやげ」としてどこかへ向かって飛んでいる。向かう先は、スズメのお宿? そこにいるスズメの子どもに届けられるようなしゃぼん玉になればいいのに、と。
 しゃぼん玉を、遊びの道具のように見ないで、誰かと誰かをつなぐ媒介物のように見なそうとするのは、まど・みちお独自の発想である。台湾時代の「ダレナノダーレ」という詩でも、「イネムリ シテイル/ネコサンノ/オヒゲヲ サワリニ/イクノハ ダーレ/(略)
シャボンダマ ナノ/ダレデモ ナイヨ」
 この詩については、すでに●●で解説しているので見ていただきたい。
この「ダレナノダーレ」でも「しゃぼん玉」でも共通しているのは、「想い」を伝えるものが、すぐに壊れそうなものに包まれているという作者の思いである。そしてこの「しゃぼん玉」も「手紙」のモチーフを持っているところに注目しておきたい。その「手紙」が「おみやげの」のようにもみなされている。
 どんな「おみやげ」を? 「こころのおはなし」? その「おはなし」を包んだしゃぼん玉が、「屋根のスズメの一軒家」まで飛んでいって、そこでお話がでてきたら、それを見たスズメの赤ちゃんもきっと笑うかもと。
 
 注:この詩は「ああ どこから」と一緒に読まれるといい詩である。ここでの「つつみ」は「手紙」とされているからだ。すずめやデンデンムシに届けられる手紙の話。


  ひとつの おんの なまえ

ひとつの おんの なまえが
からだの ほうぼうに ちりばめて ある
星のように やさしく
 め…… すんでいる
 は…… わらいます
 て…… 遠くをよんで
 け…… 千も万も
 ち…… 流れて流れて
ひとつの おんの なまえは
けしきの なかにも まいて ある
思い出のように あそこに ここに
 き…… みどりです
 た…… ひろびうと
 せ…… ピアノを ひびかせ
 の…… 山を のせて
 ひ…… かがやいて かがやいて
          (1968)

 「石ころ」という詩のところで、「石ころ」は小さな、短い、言葉のメタファーだと説明した。ふだんは「一音」とか「一語」とか呼ばれるような小さな言葉。それでも、そんな「一音」や「一語」を蹴ると、そこから、なにやらおかしな不思議な意味が目覚めてくる。遠いむかしの記憶をたどりながら、その「一音」や「一語」を見てゆくと、今まで見たことのないような光景が見えてくる・・・。だから、この詩が、子どもっぽく思えるのは、はじめのうちだけだ。
 め(目)、は(歯)、て(手)、け(毛)、ち(血)・・・。確かに「澄んでいる」と思う「め」があり、にっこり笑う人に「は」が見える。「て」をふれば、遠くの人を呼ぶことができたし、「け」は、極寒のマンモスから、ハツカネズミまでのたくさんの命を守ってきた。それと見合うくらいに、「ち」も川のようにながされてきた。
 そんなことが「一音」や「一語」からどうして読み取れるのか。「き」「た」「せ」「の」「ひ」も、まずは漢字で次のように連想する。「き」も「木」を連想すれば「緑」と結びつくし、「た」も「田」を連想すれば「ひろびろ」と結びつく。でも「せ」は「背」でも「世」でも「瀬」でもいいのに、「旋律」を連想させれば「ピアの響き」に結びつく。「の」は誰もが「野」を連想するであろうが、まさか山を乗せるものが「野」だとは思わないだろう。とすると「の」は「乗せる」の「の」と重ねられているのかもしれない・・・などということを、ああでもない、こうでもないと、連想させるところに「一音」「一語」のおもしろさがあるのだが、言葉はすでに「一音」「一語」に、たくさんな引き出しを持っている事を指摘できたらと作者は思っているかも知れない。
 作者は、この「一音」「一語」が、体や景色の中に、宝石のようにちりばめられているということが言いたいのだ。すでに「一音」「一語」がメタファーなのだと言いたげである。


  ああ どこからか

庭を とおって
ゆうびんやさんが かえっていく

きょうも みおくっているのは
屋根の スズメと
かきねの デンデンムシだ

  「ごめんよ
  きみたちあての 手がみは
  来てないんだ」
というように

ゆうびんやさんは
そそくさ いっちゃった

ああ どこかから
こないかなあ

なの花びらのような 手がみと
マメのような こづつみが
―――ゆうびいんって

スズメたちに
デンデンムシたちに
  (1968)

 この詩は「しゃぼんだま」と一緒に読まれるといい詩だ。ここでの「つつみ」は「手紙」とされているからだ。すずめやデンデンムシに届けられる手紙の話。

  顔が 見たい

じゃんけんぽんを
かんがえだしたのは だれだろう
顔が みたいな
まんまるな 顔かな
その顔と にらめっこ したいな

へのへのもへじを
かんがえだしたのは だれだろう
いま すぐ 顔が 見たいな
でこぼこの 顔かな
にらめっこ 強いだろうな
にらめっこも その顔が
かんがえだしたのかも しれないもんな

もっと見たいのは
おぎょうぎを
かんがえだした ひとの 顔だな
しわだらけだろうな
その顔に あかんべを したら
しわが 何本 ふえるだろう

一本いじょうと 思うな
      (1968)

 「じゃんけんぽん」を考えた人の顔を見たいなどと、ふつうは考えないだろう。そういうものを考えた人がいるということ自体、考えもしないからだ。そもそも「じゃんけんぽん」とは、「ルール」や「約束事」のことだ。ルールに従っているとき、それを作った人のことなど忘れている。その無意識に従っているルールや約束事の最も巨大なものは「国家」であり、最も身近なものは「言葉」である。戦時中の「国家」に散々悩まされてきた作者は、この「国家」から「言葉」までの間の、さまざまな「制約」について思いを巡らしながら、それに逆らう形に関心を寄せてきた。
 まずは、ルールにも作り手がいる、ということだ。(「シマウマ」の詩の「手製の檻」を思い出していただきたい)。「国家」にも「言葉」にも、作り手がいる。
 そこで作者は、子どもっぽく「じゃんけんぽんを/かんがえだしたのは だれだろう」と問う。「じゃんけんぽん」とは、順番を決めたりするときに、無くてはならないルールである。
 「へのへのもへじを/かんがえだしたのは だれだろう」という二行も、そうである。「へのへのもへじ」も、子ども遊びの中での楽しいルールだ。その通りに歌い書くと「顔」が出来上がる。「にらめっこ」は、その人が考えたのかも、という。
 「じゃんけんぽん」も「へのへのもへじ」も「にらめっこ」も、言葉でありルールではあるけれど、どこかしたルールの持つ堅苦しさ、息苦しさから外れた自在さを持っている。そういうものを作り出した人々の心の自在さがそこに現れている。その人達の顔は見てみたいものだ。
 それにくらべて「おぎょうぎ」というのは、いったい何なのだろう。軍隊では「敬礼」や「直立」をするのが「おぎょうぎ」だった。殿様の通るときに、地面に手を突いて土下座をするというのも「おぎょうぎ」だった時代がある。いったいそんなルールを考え出した奴はどんな顔をしているのか。
 詩は、「しわだらけだろうな」と書き、「その顔に あかんべを したら/しわが 何本 ふえるだろう」と書いている。この「あかんべ」というのも、これまた、不思議な言葉だ。「あかん」という拒否に「べ」という舌を出している。
 不平等なルールの支配する時代に生きていた作者にとって、この「じゃんけんぽん」や「へのへのもへじ」や「にらめっこ」のもつ、傷つけないルールのことは「詩」として表現しておかなくてはと思っていたに違いない。


  駅の ホームで

はながみが ない
たんつぼは どこだろう

口を かかえるように して
もどかしく
ひとと ひとの あいだを
すりぬけながら
柱を まわり
ばいてんを まわり
かいだんの 下を まわり
やっと たどりつく

さわやかに なった 頭に
にじのように うかんできたのは
ーーたんつぼの そうじを
  なさる ひと

ああ いままで
思っても みなかった ひとが
いらつしゃるのだ

この 駅に
日本じゅうの 駅に
世界じゆうの 駅に
       (1968)

 プラットホームで、痰を吐きそうになるが、痰壺がない。あちこち探し回って、やっと階段の下で痰壺を見つけた。読みながら気持ち悪くなる。そんな詩を読むことは、たぶんないからだ。そして、詩は、見つけた痰壺に痰を吐きました、というふうになるのではなく、その痰壺をそうじなさるひとがいるのだとい。痰壺の掃除をする人! 読み手は、今度は痰壺を掃除する光景を想像して、なおのこと一層気持ち悪くさせられるだろう。結核の人の血の混じった痰なら、感染する恐れもあるだろう。
 しかし、駅にそんな痰壺のあるのを見たことがない。ネットで調べると昭和の時代にはあったらしく、今ではティッシュに吐いて丸めて捨てるのがエチケットなのだろう。しかし痰壺のあった時代には、実際にそれを掃除していた人がいたということだ。
 それにしても、作者はなぜそういう人に、気を止める詩を書いているのだろうか。
 「ああ いままで 思ってもみなかった ひとが いらっしゃるのだ」
ここにきて、この詩を読んだ気持ち悪さが「消える」、というわけではない。消えることはないが、ここに来て一気に「思い」が「広がる」ことがわかる。「そんなひと」は見たことないと思う反面、「汚いもの」を処理する「ひと」が確かにいるし、いなくてはならないという「思い」に。
 となると、この詩の「駅」は、実は「駅」ではなかったのだという気もしてくる。実際は「駅」で「痰壺」を探していたのではなくて、生き物の「落下」させる「汚いもの(究極は死体)」を、別の物に変える何者がこの世界に居ることを、この詩は描いていたのかもしれないと。それを「土壌の分解者・微生物」とか「神様」だとか、考えることはできる。「駅」という地球に。「この駅に/日本じゅうの 駅に/世界じゅうの 駅に」。
 でも、その「駅」で「痰壺」を触るのは、実は「詩人」ではないのかと、作者は思っているような気がする。「詩人」と「痰」。正岡子規にも有名な「痰」の歌がある。
 「痰一斗(たんいっと)糸瓜(へちま)の水も間に合はず」
 「糸瓜咲て痰のつまりの仏かな」
 梶井基次郎「冬の日」にも痰を吐く主人公の話がある。まど・みちおの詩は、そういう正岡子規や梶井基次郎の見ていた「光景」とずいぶん違うところを見ているのがわかる。
* ちなみに痰唾を道路等の公共の場で地面に吐き出すことは軽犯罪法で明確に禁止されている(第1条第26号)。


  「ぼくの花」

朝から かいている
花の 絵が
ようやっと できあがった

こころの おくに わいてくる
かすかな しみずが
この指さきへと 集まってきて
見えないほどの
しずくに なって
ふくらんで ふくらんで
とうとう おっこちて
ぽっかりと さいたのか

まっかな 花
ぼくも はじめて見る ぼくの花
世界に ひとつきりの 花

ぼくは ふと 聞いた 気がした
この 花にとんでくる ために
いま どこかに 生まれた
あたらしいチョウチョの はねの音を……
   (1968)

 まるで、指先から、したたり落ちる血で描いたような、真っ赤な花。だからこの詩は、植物の「花」の詩ではない。「こころのおく」から「わいてくるしみず」のようなもので、それが、指さきに集まって、おっこちて咲いた「花」なのである。「しみず」というから、「澄んだ清水」を連想してしまうが、咲いた花は「まっかな花」なのである。とすれば、その「しみず」は「血」の色をしていなくてはならない。なんと激しい咲き方をしている花なのであろうか。
 その指先から生まれる花の、その指とは誰の指なのか。自分の見聞きしてきた「血の歴史」を書きとめようとする「詩人」の指である。そして、そのにじむ血の色に咲く花とは、彼の書く「詩」のことである。
 そんな「花」に飛んでくるチョウなどがいるのだろうか。いやきっとどこかに自分の「詩」を読もうと飛んできてくれる「チョウ」がいるはずだ。「ふと聞いた気がした/この花にとんでうるために/いまどこかに生まれたあたらしいチョウチョのはねの音を・・」と。

  タマネギ

つぼ

その なかにも つぼ

また その なかにも つぼ

かぞえきれないほど はいっている

もしも 大きいのから 小さいのへと

じゅんじゅんに ならべて みたら

うたが 遠くへ きえていくように

見えなく なって いくかしら

でも タマネギは しょうがない

きらなければ しょうがない
       (1949)

 詩は、「タマネギ」を「壺」のように見立て、さらに壺の中に壺が入っているかのように想像している。でも、タマネギは壺のようにはできていない。だから壺のように取りだして並べることもできない。そもそも「タマネギ」を「壺」と見なすこと自体が間違いなのだ。なのに、この詩は、「つぼのなかにもつぼ/またそのなかにも つぼ/かぞえきれないほど はいっている」と想像する。作者は何かおかしな事を想像しているのだろうか。それとも何か勘違いをしているのだろうか。
 勘違いをしているのは、ひょっとしたら読み手の私の方かもしれない。というのも、この詩は、ただ「つぼ」という一言からしか始まってないからだ。その「つぼ」も「つぼ」と書かれているだけで、「壺」などと書かれていないのに、読み手は、勝手に「壺」を「タマネギ」のように想像していたのではないか。
 問われるべきは「つぼ」というこの二文字だったのかもしれない。このあまりにも短い二文字の言葉は、その中にたくさんなイメージをもつメタファーなのに、あまりにも単純に「壺」だけをイメージしていたのかもしれない。実際には「つぼ」をメタファーだとすれば、タマネギの皮を剥くように、どんどんと遠くまで歴史をさかのぼってゆけるようになっていたのかもしれない。
 「つぼ」というのは、白川静『字訓』によると、「つぼみ(蕾)」の「つぼ」に関係があったとされている。「つぼみ」ならその中に、たくさんの葉や果実を包んでいることがわかる。また「つぼね(局)」とも関わっているともされる。古代の屋敷の女性たちの住むところを「つぼね(局)」と呼んできたのも、もともとは洞窟のような入口が狭く奥の広い形の「内庭」を「つぼ」と呼んだらしく、それは「子宮」の形にも似ているので、いつしか、それが女性の住まいになり、女性の局部をいうようになったのかもしれない。もしそうだとすれば、その「つぼ」から「たくさんの命」が次々に取り出されるイメージもわかるというものだ。さらには「つぼ」は「つぼ(坪)」とも関わりがあるという。小さく区切られた区画を「坪」と呼んできたのだが、その「つぼ」は大きな土地を測る大事な単位であった。坪が集まって巨大な都もできていたわけで、その「坪」は「壺」とも表記されていた。
 このように見てくると「つぼ」とは、「子宮」を含め生命の根源を包む言葉としてもイメージされ、まさに「大きな体(壺)」の中に「小さな細胞(壺)」が無数に入っているイメージでもみられてきたものだ。
「つぼのなかにもつぼ/またそのなかにも つぼ/かぞえきれないほど はいっている」。
 しかしその詩句を「タマネギ」にしてしまうとおかしくなる。タマネギは切らないといけないからだ。そんなことをしたら「つぼ」の二文字の意味がどこかに消えてしまうのではないか。生命体としての「つぼ」は「切って」はいけない・・。
 たった二文字の「つぼ」には、実は他にもさらに豊かなメタファーを含んでいる。それはその詩集の最後の方に置かれた短詩「つぼ(1)」「つぼ(2)」にも関わるところで説明したいと思う。

 

 スイカの たね

ひとつぶの
スイカの たね

だれの じゃまにも ならないように
うちゅうを
こんなに 小さく くりぬいて
ここに おらせて もらっている

あの あまい
あの まっかな
あの でっかい
あすの スイカたちの
とうも じゅうごも 二じゅうもの
うずまく いのちを むねに

しあわせそうに
ひっそりと

うらがえせば
ただ うらがえされたまま
       (1968)

 「スイカ」に「たね」がある、こんなじゃまなものがなければいいのにと思う。でもこの詩は、違ったふうに「たね」を見ている。スイカを宇宙と見立てて、その中を少しくり抜いてその中におらせてもらっている、それが「たね」だというふうに。
 「たね」とは実は「つぼ」のことなのだ。その中に未来の姿がいっぱい詰まっている。たかが「ひとつぶのたね」なのに。それが、何重にも包まれてそこに居る。「たね」という存在の仕方の不思議さ。
 ただ気になるのは、なぜスイカの中に「たね」が「小さくくりぬいて」「おらせて もらっている」とわかるのかというところだ。すでに「タマネギ」を読んできた人にとっては、この詩の読後感はすんなりとは終わらない。というのも、スイカは、切らないとそこに「たね」のあることはわからないからだ。「スイカは しょうがない/きらなければ しょうがない」と。
 でもこの詩では「切る」ことは問題にされない。「うらがえせば/ただ うらがえされまま」に、ごろんとしているというところだけが見られている。なぜなのか。「たね」と「すいか」と「うちゅう」のコラボ。実は「うちゅう」という言葉を使いたいがために、この詩を書いたのではないかと思われるところがあるからだ。まど・みちおが「うちゅう」という言葉を、詩集の中で初めて使うのがこの詩からだからだ。(まめつぶうたの「ミミズ」に「オーバーはうちゅうです」という詩句がある)。


  カキ

カキの木に カキが なった

ヘチマのように ぶらさがるのでもなく
スイカのように ころがるのでもなく
ブドウのように かたまるのでもなく

カキが なるように して
カキが なって
空に 夕日を ちりばめた

そこで 空 ゆく カラスが
カラスらしく
いいかあ いいかあ うれたかあと 聞き

庭の めウシが めウシらしく
もう いい もう いい
もう もう じゅうぶんと 答え

さて それならばと ぼくが ぼくらしく
空へ よじって 
のぼりはじめた

 「カキの木に カキが なる」というようなこと注目する詩。普通の日本人なら、こんなことが詩になるのかと、小馬鹿にするような詩だ。でも、こういう詩は、一読すれば、まど・みちおの詩だと思わないわけにはゆかない。まさにまど・みちおの台湾時代をメタファーに含んでいると感じられるからだ。
 カキの木(台湾)にカキ(台湾)がなる、という事が自明ではなかった時代がある。カキの木に「ヘチマ(日本)」や「スイカ(中国)」や「ブドウ(オランダ)」がぶら下がる時代もあったからだ。だから「カキが なるように して/カキが なって/
空に 夕日を ちりばめた」という表現は、単なる風景描写ではなかったのだ。
だから「カラスが/カラスらしく」「めウシが めウシらしく」「ぼくが ぼくらしく」というのは、単なる詩を書くための言い回しではない。そういうことができない時代に生きていた人々への哀歌として書かれているように見えるからだ。


  「つぼ(1)」

 つぼをみていると
 しらぬまに
 つぼの ぶんまで
 いきを している
      (1968)

 ふつう、つぼを見て、こんなふうな情景になることは、まずないだろう。まるでつぼが息をしているかのように見積もられ、そのつぼのぶんまで見ているものが息をしているというのだから。奇妙な詩である。
 しかし、すでに「タマネギ」の詩でも触れてきたように、この詩は「つぼ」の詩である。「つぼ」は、古代から「子宮」のような、生命の袋のようなイメージが重ねられてきた。でも「つぼ」と言ってしまうと、どうしても陶器の壺が連想される。だから、「タマネギ」をその形から「壺」を連想することはあり得ても、壺を見て生命体を連想することは、難しい。生き物を物のように見る事は見やすいとしても、物を生き物のように見立てる事は難しいからだ。
 でもこの詩は、「つぼ」を見ていると、知らぬ間に「つぼのぶん」まで息をしていると書いている。「つぼのぶんまで」というのは、「つぼがいきをしているぶんまで」という意味に取るしかないわけで、そうすると、「つぼ」を生き物のように見なしているということになる。それは現代人にとって理解しにくい感性だ。そこはどう理解すればいいのか。次の詩と合わせて考えてみたい。

  「つぼ(2)」

 つぼは
 ひじょうに しずかに
 たっているので
 すわっているように
 見える
       (1968)

 これも不思議な短詩だ。「たっている」という表現は、すでに「クジャク」のところで「やせて 立っています」と使われていた。「すわっている」という表現は、「つけものの おもし」のなかで「すわっているようで ねころんでいるようで」と使われていた。
 おそらく詩の心は、「つぼ」を、「立つ」とか「座る」というような表現で、生き物の動きの中で説明しようとしているところにあるのだろう。
先の「つぼの ぶんまで/いきを している」というのも、そうであった。しかし、ここには、「ひじょうに しずかに」という、激しい表現が使われている。ふつう「ひじょうに しずか」といえば、音一つ無い、荒涼とした風景か、神々しい光景を想像するのではないか。
 そうなると、「タマネギ」の詩のところで、まだ他にもっと大事な意味がこの「つぼ」という二字にはある、として保留にしていたところに触れなければならない。それは白川静が『字訓』で触れていたもうひとつのことである。それは「つぼ」が、かつては「洞窟」「ほら」のような、「ほら穴」と呼ばれる「穴」と関わりがあり、その「穴」が女性の子宮=産む性とも関わるところから聖なる場所、つまり聖所として意識され、それが穴の形をした容器が、のちに「つぼ」として意識されてきたことの指摘である。このように「つぼ」は古代から、聖なるもの、神霊の宿る壺として、祀られてきたところがあった。
 では、作者まど・みちおは、白川静のような理解を踏まえて、この「つぼ」と題された詩を、何度も書いていたのかということになる。それはそうだとは言いにくいだろう。では彼は、この「つぼ」のイメージを空想の中で考えていたのかというと、それもそうではない。実際は、台湾時代の中で、彼が日常的に目にしてきた光景から、「つぼ」を詩材に選んできたのではないかと思えるところがあるからだ。


 というのも、民族学者の国分直一は、台湾の古い習俗をたずねた『壺を祀る村』法政大学1981(1944年に東都書籍株式会社から出版された同名の本の増補版)という本の中で「台湾の壺の信仰」について写真とともに記録していたからだ。かつての台湾の多くの村では、「太祖の神体とされる壺を祀っている」のが記録されていた。壺は二つ並べてあるところや、三つ並べてあるところなど、場所によって違いがあるが、その壺の由来をちゃんと言える人は、もういなくなってきている事に触れていた。そして、ある家で、三つある壺にはそれぞれ異なる神が入っているということを言われ、それで「その壺を計測し調べようとしたら、その老婆は非常に困惑し、大変なことであるといった」といい、「家を飛び出してしまった」と書いていたp238。日本人には、みすぼらしい壺にしか見えないものでも、台湾の人にとっては、神の宿る聖なる壺だったのである。
 おそらく、台湾時代のまど・みちおも、折りに付け民家に祀られていた「つぼ」を見てきていたに違いない。そしてこの光景に、作者特有のイメージを見つめていたのではないかと思われる。
 もしここで古代の台湾の人たちが、白川静が日本の古代の「つぼ」の語源に見ていたような事を、日本より先に感じていて「壺信仰」に残していたとしたら、ということも考えられなくはない。どちらにしても、そこでは生き物をもののように見るのではなく、ものを生き物(神)としてみる見方があった事は確かである。そういうふうに物に生き物を見ると言う事になれば、生き物を育む地球そのものが「つぼ」のように見えてくる。その地球の壺の中に、たくさんの壺(生き物)が「かぞえきれないほど」入っている、という「スイカのたね」のイメージがそこにつながってくるのがわかる。

  注: ちなみに 「瓶(びん)」1936.という詩(続p338)がある。まど・みちおが27歳の時の詩だ。大事な詩なので、ここに取り上げておく。比較して、読み比べてもらいたい。 わざと舌足らずに書かれているので、日本人の口調とは違った台湾語のニュアンスを出している。この詩では「瓶=壺」が、台湾の民家の片隅に「すてご」のように置かれているのを見つめている作者の視線が感じ取れる。国分直一の指摘しているように、すでに「壺信仰」は廃れてきるのがこの詩からわかる。それは、「はだかのように/さむそに してる」とまるで生き物のように描写されている。だから瓶は「入れとこよ箱へ」「ならべてそっと 蓋をして」と。なぜなら「びんは かわいそ」だらかと。
 おそらくこの詩で描かれている「瓶」は、作者から見た「台湾」そのものであり、「台湾の子どもたち」のメタファーであるように思う。
なお同名の「瓶」1979わ(正p579)があるが、これは『風景詩集』に収められているのでここではとりあげない


  瓶(びん)

びんは かわいそ
すみっこにおくと
すみっこにおくと
すてごのように
しょんぽ(ママ)りしてる。

びんは かわいそ
ひとまえにだすと
ひとまえにだすと
はだかのように
さむそに してる。

びんは びんは
いれとこよはこへ
いれとこよはこへ
ならべてそっと
ふたしておこよ。
 (1936)27歳


 「かいだん(1)」

この うつくしい いすに
いつも 空気が
こしかけて います
そして たのしそうに
算数を
かんがえて います」
   (1968)

 階段を見てイスという人はまずいないだろう。イスはじっと座るものだが、階段は、昇ったり、下ったりしてゆくものだから。ところがこの詩は、わたしたちが「イス」だと思っているものは、ひょっとしたら「階段」なのかもしれない、と思わせる。私のいる教室や会社の中の私のイス。私が座れば、そこに誰も座る事が許されない。そんな場所を演出するのが「イス」の役目になっている。
 しかし、実際はそのイスにいつまでも座り続けることはできない。私も移動しているからだ。「ここにいる」などと考えることは錯覚なのだ。天国へ向けてか、墓場へ向けてか、昇っているのか、下っているのか、わからないが、でも私は確かに動いている。それにもかかわらず、わたしたちには、そんな階段は見えない。見えるのは「イス」だけで、「イス」しか見えないところで暮らしている。
 でもこの詩は、イスは階段でもあると言っている。あなたには見えないかも知れないけれど、それは「うつくしい いす」で、誰も使っているようには見えないので、いつも空気がこしかけている。そして楽しそうに数を数えている。何のの数か、その人の年の数をか?その人が昇ってきているはずの階段の数をか。


 「かいだん(2)」

のぼるに
おりるに
ねんを おす
たしかに
たしかに
かいだんだ
       (1951)

 この詩では、誰かが昇ったり降りたりしている。それは誰なのか。その人は本当に階段を昇ったり降りたりしているのか。じっとしているだけではないのか。階段なのにイスと間違えて、座り込んでいるのではないか。念を押すべきではないか。「たしかに/かいだんだ」ということを。
 いつか、駅の階段を三段飛ばしで駆け上がってゆく若者を見たことがあった。スポーツ選手なのか、何かトレーニングを兼ねてそんなことをしているのか。まるで階段を平地を歩くように上っていた。彼には「階段」などというものはないかのようだった。それに比べ私は、もういつからか、階段を上るのがやっとこさになってきた。詩には「のぼるに/おりるに/ねんを おす」とあったが「ねんをおす」とは「念を押す」ではなく「年を押す」ような動作になってきている。「たしかに/かいだんだ」と思いながら。(この詩の註釈は、「けしつぶうた」考の中で試みている)

注:「かいだん」の「数」のことをもう少し知りたければ、第二詩集『まめつぶうた』に収められた「かず」や「かぞえたくなる」1979を見ていただくのがいいだろう。


注: 向井周太郎『かたちのセミオシス』思潮社1986に「椅子の夢想 夢想の椅子」という秀美のエッセイがある。その書き出しは「椅子は器にどこか似ている」で始まっている。まど・みちおの「つぼ」を読み解くには必読の文献である。このエッセイはのち『生とデザイン―かたちの詩学〈1〉』中公文庫2008に再録されている。


  「ふんすい」(1968)

空へ
のぼる のぼる といいながら のぼるる

空から
おちる おちると いいながら おちるる

空で
のぼる おちると いいながら のちるる

空に
カエル のせろや 足ぶみするるぞ
   (1968)


 最後の「ふんすい」は、詩集の最初の詩「クジャク」と対応させられているのか。そこには、「ふんすい」になった「クジャク」が描かれていたからだ。でも、最後の詩では、「ふんすい」は、ひたすら自分で、階段を上るみたいに、のぼっている。「のぼる のぼる」といいながら のぼっている。それが「のぼるる」という昇り方だ。でも昇った噴水は。どこかで落ちなくてはならない。そのときは「おちる おちる」といいながら落ちてくる。そういう落ち方を「おちるる」という。大空の中で、そんな「昇る」と「落ちる」をくり返すことを「のちるる」というらしい。
 さらに大空に、カエルを噴き上げて、しばらくそのまま噴水が足踏みして止まってくれることを、「足ぶみするるぞ」というのだそうだ。
ここにはもちろん「ことば遊び」がある。しかしそれだけではない。巻頭の詩「クジャク=詩人」で、「ふんすい」がまき散らしていたものは「詩」であった。そして「ふんすい」そのものは「詩人の意志=心意気」だった。そのことを意識してこの詩を見れば、詩人が「詩」を噴き上げるときにも「意志」が必要になり、その「意志」が「のぼるる」という語尾の重ねで強調されているのかも知れず、「詩」の限界も、「おちるる」という「意志の形」として意識されているのかもしれない。
「ことば」は、いったん吹き上げても、落ちてくる。誰も使わなく言葉は、地に落ちて死語になる。たとえ「カエル」ということばでも、誰かが意志して使い続けなければ、いつかは死語になる。「かえる」という言葉を、落ちないように空に載せたままにするには、強い意志の力が必要だ。それが「ふんすいのあしぶいみ」と表現され、その足踏みする意志が「するるぞ」という語尾の重ねでさらに強調されている。
 ちなみに「るる」とは、絶えず続くさまだと辞書に書いてある。

 ところで、余談にはなるが、台湾には少数民族の言葉がたくさんあった。日本のアイヌ語のように。でも「ふんすい」の力が弱まると、それらは「おちるる」でしかなくなる。もうすでに台湾では、話せなくなり、聴き取りもできない言葉が、たくさん出てきている。
「空に/カエル のせろや 足ぶみするるぞ」
というふうに「ことば」を持ち上げ続けるには、どの国においても「するるぞ」という特異な意志=「足踏み」が求められているのである。



「けしつぶうた」考 ―この小さな抵抗の詩学―



 谷川俊太郎がまど・みちおの短詩について「宇宙全体に対して自分はけしつぶである、まめつぶであるというのが思想的に中心にある」と語っていたことはすでに取り上げた。谷川らしい的確な指摘だった。ただ、この谷川の指摘を十分に理解することは難しい。というのも、二つのイメージが考えられるからだ。一つは、宇宙に対して自分があまりにも小さいという物理的な意味での「けしつぶ」「まめつぶ」のイメージと、抑圧される民族や人々が、つねに「けしつぶ」や「まめつぶ」のような「小さいもの」と見なされ、扱われるという社会的なイメージの、その二つが重ねられてあるからだ。
 私はすでに後者の意味で「「けしつぶうた」を考察してきた。そしてこの第二詩集『まめつぶうた』理論社1973 64歳にも、『百歳日記』NHK出版2010にも、かつての「けしつぶうた」が収録されている。ということは、これらの詩集にも作者は、統治メタファーを意図的に持ち込もうと企てていたところが見て取れる。そのことを踏まえて、この詩集の全体の構成を見ないといけないと思う。全体の構成を理解しておくことはとても大事である。

 第一詩集『てんぷらぴりぴり』1968に、短いが印象に残る短い詩「しまうま」と「かいだん」の二編が載ってある。でも、それはあまりに短いので、他の詩と、どこかずれた印象がある。このちょっと妙な感じのする短い詩の特徴を何とか理解したいと思ってきた。
 もちろん、この詩、そのものの「感想」をいうことは、むずかしいわけではない。「少年詩」としてむしろわかりやすい、おもしろい詩として「解説」されてきた経過もある。しかし、私はそれは違うと思ってきた。「しまうま」を読んだときの、ユーモラスな感じとともに、なぜそこに「檻」という奇妙な譬えが使われているのか、「子ども向け」の発想では解けない謎があると感じられていたからだ。
 『まど・みちお全集』の労作である索引を見ると、この詩には初出のあったことがわかる。サトウ・ハチロー選『世界の絵本 少年詩歌集』1951年4月5日新潮社である。1951年という戦後間もないころにどういう経過で、この「少年詩歌集」に選ばれたのかわからない(『続 まど・みちお全集』の年譜を見てもわからない)が、この詩集に見開き2ページにわたって、一ページ4段組みで、13編が鰐のカラー挿絵を背景に掲載されていた。その中の、二編が17年後の発刊の第一詩集『てんぷらぴりぴり』に再録されたのである。初期の13編から、二編だけが取り出されたということは、作者にはきっと特別な思いいれがあったとかんがえるべきである。そして、この二編だけではなく、この『世界の絵本 少年詩歌集』に収められた13編すべてが、まど・みちおにとっては愛着のある詩篇だった。それは、この13編が、五年後の『日本児童文学』に二回に分けて再録され、さらには第二詩集『まど・みちお少年詩集 まめつぶうた』に残りが再録さて言ったからである。
 この経過を、よくある詩人の出版の事情と同じものだと思われるかも知れない。昔の詩を、あたらしい詩集に組み入れてゆくという習わし。事情はそうだったかもしれないが、詩の中身を理解してゆけば、事情はそんな簡単なことではないことがわかってくる。
 その「スケッチ・ブック」から「けしつぶうた」までの再録過程を表にしておいた。ここで注目したいのは、最初の「スケッチ・ブック」と題された13編の短詩である。その「解説」からはじめて、「けしつぶうた」まで、たどってゆければと思う。

 えんとつ
 かいだん
 テニスコート
 けしごむ
 はがき
 わさび
 とうもろこし
 かぼちゃ
 ひょうたん
 ぞう
 しまうま
 みみず
 わに

 まずは、第一詩集『てんぷらぴりぴり』1968に、再録された「しまうま」と「かいだん」の二編からみてゆく。

  しまうま

てせいの
おりに
はいっている

 縞模様が柵のように見えるのを描写した詩だとふつうは受け取るだろう。これなら子どもにもよく分かると。檻の中に入っているシマウマが、さらに自分の体に檻のような縦縞の線を入れて、さらに自分で自分を檻の中に入れているように見せかけている、と。しかし、動物園のシマウマを見て、縞模様を「檻」のようにイメージする人などいないと私は思う。この詩は、動物園へ行き、「観察」し、「描写」してできた詩ではなく、頭で考えて作られた詩なのだ。この詩が、第一詩集のはじめの方に収録されているというのは、作者にとってよほど愛着のあった詩として考えておかなくてはならない。
 この詩に透かし見えるのは、台湾時代の「二重の領土」である。「しまうま」はおそらく台湾である。本来のしまうまは、自由に草原を走っている。しかし、この詩の「しまうま」は、手製の檻に入っているというのである。「手製」というのは、本格的に作られたものではなく、壊せば壊せるようなものなのであろう。が、それでもその「手製の檻」にはいっているのである。その「檻」を作ったのは「日本」なのかはわからない。「手製」というのだから、「台湾」自らがやむを得ず、衝突を避けるために急遽手作りでつくったものなのか・・・。

  かいだん

のぼるに
おりるに
ねんをおす
たしかに
たしかに
かいだんだ

 「かいだん」のイメージは、まど・みちおの詩作の中に幾度となく登場してくる。この「かいだん」を自然描写のように受け取ってもその意味が見えてこないだろう。第一詩集『てんぷらぴりぴり』にはかいだん」の詩は「かいだん(1)」「かいだん(2)」と二つあり、この詩は。二つ目の「かいだん(2)」と題されている。「かいだん(1)」の方は、論じるのに少しやっかいなので、『てんぷらぴりぴり』を論じるときに説明をする。やっかいというのは、「かいだん(1)」では、「かいだん」が「イス」に見立てられているからである。そうすると「イス」とは何かの説明をしなくてはならなくなる。それには、説明の段取りがいるので、その時にまわしたい。
 ここでは「かいだい」は「のぼりおり」するものとしてとらえられている。だから、わかりやすいし、なにの不思議があろうかというふうな詩になっている。しかしよく読むと、そこらにある「かいだん」のことを観察し描写しているにしては、書き方が不自然であることに気がつく。その辺の「かいだん」を上り下りする人が、たしかにこれは「かいだん」だと念を押したりしないからだ。「かいだん」などいうものは、上り下りすれば誰でも階段だとわかるからだ。それなのに、この詩では、「のぼるに/おりるに/ねんをおす」という。「念を押す」とはいったい何なのか、一歩一歩階段を踏みしめながら、これは「階段だ」というようなことを念を押しながら上り下りすることなのか。年寄りがしんどいんどいと思いながら階段を上り下りするのは解るけれど、その時でも、その年よりは「これが階段だ」などと念を押すことはないだろう。
 だからここで描かれている「かいだん」は、観察される階段のことではないのだ。ではどういう「かいだん」なのか。
 「かいだん」とは「上/下」をつなぐものである。「上/下」があるから「かいだん」というものが生まれる。では、この詩での「上/下」とはなにか。考えられるのは「日本/台湾」の存在のさせられ方である。そこがもしも、「二重の領土」として存在していれば、普段の台湾の暮らしの中でも、「日本」には「のぼる」ような姿勢で、「台湾」には「くだる」ような姿勢が求められていたはずである。そこには目に見える階段は存在しないけれど、それでも日々の暮らしの中では、めまぐるしく「上り下り」する人たちがいたのである。そして作者も、この目には見えない「かいだん」を前に、「念」を押さなくてはならなかったのである。「たしかに/たしかに/かいだんだ」と。
 この第一詩集に再録された二つを短い詩を見るだけでも、ただならぬものが見えてくるのを読者はきっと感じてもらえると思う。
 ではその次の「テニスコート」。

  テニスコート

そらと
じべたの
いたばさみ

 テニスコートが、何かの譬えであることは誰でもわかるだろう。もし、「そら」と「地べた」が「上下」の関係にあるのなら、先ほどの詩でいえば、その間には「かいだん」が あるということになるだろう。が、ここでは、その間に「テニスコート」があるというのだ。そしてその「テニスコート」は、その「そら」と「じべた」の「板挟み」になっているというのである。ここまでくれな「日本」と「台湾」の板挟みになっている作者の位置が見えてくるのではないか。注目すべき所は、作者が「そら」と「じめん」というのではなく、あえて「じべた」という庶民的にいう最下層のいいまわしを使っているところである。
 続けて「けしごむ」。

  けしごむ

じぶんで じぶんを
けしたのか
いまさっきまで
あったのに

 この詩は、まさに「消しゴム」の詩である。誰が読んでも、消しゴムの詩としか読めない詩だ。それにしてもなんと見事に消しゴムの特性を言い当てていることか。
 しかし作者の位置を思う者にとっては「さっきまで」という言い方に、きっとたちどまるのではないか。「さっきまで」の「さっき」とはいつのことなのかと。そして「さっき」までを消してしまった「消しゴム」とはなにかと。この「さっき」とは様々に解釈することができる。「台湾」にとっては「さっき」まで「台湾」という国があったのに、今はもう無くなっている、と思える時期があったはずだ。「さっきまであった」のに。そして、この「消しゴム」を「日本」だとすると、「さっき」とは戦争中に日本のしてきたこととなるかもしれない。それをさっさと消してしまったのか。
 確かに、この詩はよく考えると奇妙な詩であることがわかる。普通なら「けしごむ」といえば、どれだけ文字や文章を消すことができるか、その機能に重点を置いて説明されるはずだ。でも、この詩は、そういうところに着目せずに、何かを消すことで、自らを小さくするところ(自らを消してゆくところ)に注目しているのである。相手を消すことが、自分を消すことにつながっている。まさに自分で(自分の仕事を全うすること)で、自分を消している。
 そして、ふと気になることもある。作者は後の『全集』の「あとがき」で「人間は自分に都合の悪いことはすぐに忘れるといいますが」と書いていた。人間は「消しゴム」のようにはゆかないのだ。


  はがき

もじが
こぼれて
おっこちそう

 まど・みちおは、「手紙」をモチーフにした詩をたくさん書いている。「しろやぎさんからおてがみついた」という有名な童謡も「手紙」の歌である。しかし、たくさん書かれた「手紙」の詩の内容の多くは、手紙の役割を果たしてないものが多い。なぜなのか。この「はがき」も、すでに「もじ」がおっこちそうになっている。これでは届けられるまでに、すべての文字は落ちてしまうのだろう。なぜそんなことになるのか。
 「手紙」という仕組みは、送る「相手」があるということが前提である。そして何よりもその相手との相互性があるということが前提である。相互性のない「相手」に手紙を書くことほどの虚しいことはない。その虚しい想いをめいいっぱい綴った詩に「鳥愁」があるが、それは別の論考(「『やぎさん ゆうびん』異論))で見ていただきたい。ここでは、相互性がないというか、対等でない「相手」におくりとどける「はがき」のことがイメージされている。その相互性のない相手が「日本/台湾」であるのか、「日本/日本」であるのかどうかは、読み手次第である。

  わさび

ふくが ちぢんで
ふとれません

 わさびを、服を着ているように見立てている。そう言われてみれば、いかにもそのように見えてくるから不思議だが、しかし実際のわさびを見て、服の縮みのようなものを連想する人はおそらくいないだろう。他に連想することがあるはずだからだ。しかし、この「服を着ているように見立る」というか「何かを被っているように見立てる」発想は、何を示しているのか。その人に合わない小さな服をむりやりに着させられてしまったがために、それがぴったり身につきすぎて、それを脱ぐこともできなくなっている。

  とうもろこし

あかいリボンの
プレゼント
秋がとどけた
ハーモニカ

 七五七五の韻を踏んだ、きれいな一句だと見るのがふつうだろう。註釈もいらない。ただ註釈ではないが、何かに包まれて、誰かに「郵便物」のようなお届け物として描かれているところは、ただの「とうもろこし」の描写ではなく、先の「ハガキ」のような、「相手」との関わりを意識したモチーフを持って描かれているところには注目しておきたい。
 ちなみに、「おもちゃの部分品」(『日本児童文学』)に載り、のちに『まど・みちお少年詩集 いいけしき』1981み収められた「きんぎょ」もそうだ。

  きんぎょ

うごくと
ドレスが
ずりおちる

 作者は、金魚を見ているわけではない。何かを被った存在の仕方を見ているのである。その「被り物」はここでは大きすぎてずりおちそうであり、「わさび」の場合は縮んで小さくなり、脱ぐこともできないほどにピッタリと体にくっついている、という状態と正反対であるが、同じようなことを描写しているようにもみえる。この「身の丈」に合わない「被り物」は、「台湾」の人たちの被らされてきたものでもあろう。

  かぼちゃ

すわったきりだが
かたが こる

 カボチャを見て、誰が肩の凝りなどを連想するだろうか。作者は、そこにかぼちゃではなく、肩を落とし、丸くなって座っている人を見ているのである。作者は、道ばたでそういう人をたくさん見続ける暮らしをしてきたのであろう。この作品は、「スケッチ詩 おもちゃの部分品(Ⅱ)」の32編の最初に置かれていた。思い入れのある作品であったはずである。

  ひょうたん

なさけなや
おなかを
にぎりつぶされた

 ひょうたんの形を、そんなふうに表現した詩人がいるだろうか。それにしても、ひょうたんを、ぎゅっと握りしめられた姿としてイメージするのは、ユーモラスではあるけれど、尋常ではないと私は思う。その形にまで締め付けられたら、悲鳴が出るのではないかと思われるからだ。この「ひょうたん」は、いったいどういう人々の似姿なのだろう。

  ぞう

しっぽが
しっぽで
しんぼう
している

 「良い短詩」のようには見えないのに「けしつぶうた」の最初に置かれている。作者には特別な思い入れがあるのだろう。「良い短詩」に見えないのは、詩の全体が「しっぽ」や「しんぼう」のように「し」の韻に引っかけてあるだけの「ことば遊び」のようにしか見えないからだろう。しかしこの「短詩」の特徴は、「し」の韻でまとめているとことにあるわけではない。そしてまたこの詩は、「ゾウの尻尾」を面白おかしく、詩にしたものではない。ここで「しっぽ」と呼ばれているものが何かが問題なのだ。
 詩の題は「ぞう」である。「ぞう」といえば、当然「鼻」が注目される。「ぞう」は「鼻」なのだ。しかし、「ぞう」には全く注目はされないけれど「しっぽ」もある。それも「ぞう」である。しかし、なぜか、ある時代には「鼻」を見せることができない「国(台湾)」があった。その国は、かろうじて「しっぽ」だけを見せて自分が「ぞう」であることを言わなくてはならない。「なさけなや」であるが、今はじっと耐えて「しっぽ」を見せるだけで「しんぼう」しなければならない。
 「鼻」があるのに「鼻」ではなく、「尻尾」で、「ゾウ」であることを示さなくてはならない情況があり、そのことで「しんぼう」しなければならない国があった。
 そして「しまうま」の詩が来る。この詩についてはすでに触れておいたが、この1951年の「スケッチ・ブック」の中では、この位置に置かれていることを、今一度強調しておきたい。いままで私が「解説」してきた流れの中に置いて読んでいただくと、「手製のおり」を「被り物」にしている人たちの姿が描かれていることにきっと思いを新たにして読んでいただけるものと思う。
そして「みみず」の詩が来る。

  みみず

いちまいきりだが
きものは
うちゅう

 この詩はのちの『まど・みちお少年詩集 まめつぶうた』に再録されるときには、大幅に手が加えられて次のようにされていた。

  ミミズ

ようふくは ちきゅうです
オーバーは うちゅうです
 ―どちらも
 一まいきりですが

 ミミズってようふくを着ていたのか? とふと子どもなら思うだろう。だから私たちの知っている「ミミズ」が描かれているわけではない。「被り物」をしている「ミミズ」が描かれている。二つの「みみず」の詩に共通しているのは「一枚きり」を強調しているところだ。「一枚きり」とはどういうことか。ある国に人々、ある領土の人々が、他の国や他の領土の人々の、言葉や服を重ねて「着る」ことの「つらさ」「なさけなさ」である。「きるもの」は「いちまいきり」でいいという思い。それは、言葉や服を奪われたことのある人々にとっては切実なテーマである。「わさび」も「きんぎょも」も「被り物」の詩であったことを思い出すのが大事である。植民地として統治される人々は、どこでも「猫を被って」暮らしているからである。
 そして、最後に「わに」の詩が来る。最後に「鰐」が置かれているのは決して偶然ではない。

  わに

かんがえてる
かんたんに
うしろをむく
ほうほうを

 それは無理だ、ワニさん。君には首がないのだし身体も硬すぎて、前しか見えないんだよ。でも、それをいっちゃおしまいだ。
 動物園の鰐を見る人たちは、この詩を読んで、なるほどうまいところをうたっているものだと感心するかもしれない。確かにわには、後ろを向くことができないからだ。
 しかしそれにしても「わに」と題された詩を書くのに、どうして鋭い牙を並べた大口のことや、一撃で相手を蹴り倒す強靱な尻尾などを描かずに、わざわざ、どうでもいいような「後ろを向く」ことの難しさなどというところを選んで詩にしているのかと不思議に思われないだろうか。そういう意味では、この詩は妙な詩なのである。
 描かれているのは「鰐」ではない。テーマは「うしろをむく」ことなのである。ここには、「うしろをむく」ことが困難になっている者が描かれている。問題は「うしろ」とは何か、である。
 ある民族が、よその民族の支配を受けて、言葉や慣習を変えさせられるとき、時間が経てば立つほどその人たちの「うしろ=かつての民族の姿」は、日に日に遠ざかる。そして、いつのまにか「首」も縮こまり、容易に「うしろ=過去」を振り返ることもできなくなってくる。そんな情況の中で、何とかして「うしろ」を見ることを忘れてはいけないと「考えるわに」がいたというのである。

  ケムシ

さんぱつは きらい

 ケムシがきらい、というのなら、よくわかる。しかし、さんぱつがきらい、となると、その一句は、何かしら、隔絶した一句だ。どういう発想をとればけむしとさんぱつが結びつくのだろうか。
 ケムシから「毛」を連想するのは、あたりまえすぎて連想にもならない。でも毛を連想しないと散髪にはたどり着けない。しかしケムシに毛を認めたから、それを散髪しようという発想にいくだろうか。散髪されるケムシなんて想像も付かない。気持ち悪い。
 だから、「さんぱつは きらい」となる。できすぎている。あまりにもできすぎている。たくさんな想いを飛ばして、最後だけで、笑わせてしまうのは、どういう魂胆なのか。民族によってもぞもぞした「毛」を誇りに感じる人たちがいる。しかしその民族を支配、統治するは、そのもぞもぞした毛」を気持ち悪いと思い「さんぱつそういう「さんぱつ」は許されるのか。「さんぱつ」は嫌い!

 まど・みちおが「短詩」に奇妙な魅力のあることに気がついたのは、たくさんな試作を重ねてのことである。そしてようやく、その魅力をつかむ手応えが出てきたのが「けしつぶうた」の連作である。そこで彼は、どういうコツをつかんだのか。基本的な心構えは、物事を「対比」において見るというところにあるのだが、その対比を謎かけのようにして提示すると面白いという自覚である。謎かけとは、先に述べたように、Aと掛けてBと解く、その心は、という解き方である。このAと掛けてBと解くという謎掛けは、AとBがとんでもなくかけ離れたものであるほど、解かれた心(理由)は面白いわけで、テレビの「笑点」が長寿番組なのも、そこに庶民の楽しみがあった。しかしこの「笑点」はただおかしいだけの番組ではない。AとBを掛ける技は、ふざけてはいても、意外なつながりとして解かれないと面白くない。だから、視聴者は笑いながらも、その解く心の巧みさに期待してついつい見続けてしまう。まどの短詩もそうやってできあがっている。大事なことは、「その心」に子どもたちが笑ってくれるかどうかである。

  トウモロコシ

あかい リボンの
プレゼント
あきが とどけた
ハーモニカ

 彼の短詩は、自然描写ではない。「トウモロコシ」は「お題」。トウモロコシと掛けて何と解く。「あかい リボンの/プレゼント」と解く。その心は「あきが とどけた/ハーモニカ」、だと。ハーモニカかあ!という子どもの声が聞こえてきそうだ。

  いびき

ねじを まく
ねじを まく
ゆめが とぎれないように

 お題は「いびき」である。いびきと掛けて・・。「ねじをまく」と解く。その心は? 「ゆめがとぎれないように」。そうか、もっと見たいもんね。

  えんとつ

けむりの はたなど
たてている
だれも
あそびにこないから

 ひとりぼっちのえんとつさんの歌なのか。だから、ひとりでけむりをだしてあそんでいるんだよ、と。しかし「旗を立てる]というのは、ずいぶんと古風な光景である。戦時中なら、敵の陣地を攻略したときに「旗」を目印に立てたものだからだ。戦いのための「旗」ではなく、友人を呼ぶための「旗」を「けむり」で作っている。 

  ナスビ

この さなぎから
クジャクが うまれます

 おそらく「ナスビ」と「さなぎ」と「クジャク」の間には何のつながりもないだろう。ただなすびをさなぎに見立てたので、そのさなぎからなら何かが生まれる余地はある。もし「クジャク」が「詩人」だとしたら・・・と考えることによって。
    
  オウム

くちのなかの
けしゴムは
いいまちがえたら
けす つもり

 この死を読めば、わたしの口の中にもけしゴムがある、と誰もが思うのではないか。普通オウムと言えば、オオム返しというのが定番だ。オオム返しなら、間違えることもなさそうなのに、そういうオオム返しでも間違えることがある。その時のために、オオムは口の中に消しゴムを持っているのだという。オオム返しだけでも、慎重さがわかるのに、さらにオオム返しがうまくいかなった(見破られた?)ときのために、消しゴムを用意しているというのである。まど・みちおはのちに、「戦争協力詩」を指摘されたとき、この「けしゴム」の詩を書いていたことを思いだしていたのだろうか。
 
  ノミ

あらわれる
ゆくえふめいに なるために

 見つけにくいノミ。まさに「あらわれた」瞬間はわかるとしても、その所在を確認しようとすると、もう見つけられない。
 でもなぜ「あらわれる」ということと「ゆくえふめいになる」ということが、結びつけられているか。おそらく植民地化された「国」は、「国」としては「あらわれている」のだろうが、それは本来の姿ではなくなっている。そういう統治される姿として現れれば現れるほど、元の国の姿はゆくへ不明になってゆく。


  カニ

なきながらに
わらいながらに

 この短詩の面白さは、「カニ」という言葉の持つ「に」の韻を生かして、あたかも新種のカニの名前を考案しているかのように見えるところにある。「なきながらーかに」と「わらいながらーかに」である。しかし、それでは長くて言いにくいので「なきながらに」と「わらいながらに」に縮めている。何度か口に出していっていると、「なきながらに」と「わらいながらに」の最後の「らに」がなんとなく「かに」に聞こえてくるから笑ってしまう。
おそらく抑圧の時代の中で、作者は「泣きながら」と「笑いながら」をくり返しながら、そこに「笑い」を生きていた人々のことを思っているような気がする。

 
  デンデンムシ

どこまでも つづいた
にじの みちの
おかに
ひとつ
しろい とうだい

 「デンデンムシ」を「虹の道の丘」の上に立つ「白い灯台」に見立てている。まるで、絵本に描かれているような、おしゃれな光景だ。しかし、この絵のように見えるイメージを「説明」するには、やっかいだ。「どこまでも つづいた/にじの みち」ということで、ここにはさっきまで「雨」が降っていたことがわかる。「雨」がやみ、虹が出て、そこにデンデンムシが現れた。では、そこに見える「デンデンムシ」がなぜ「灯台」なのかということになる。何のための「灯台」なのか、と。
 映画『セデック・バレ 第二部』は「虹の橋」と題されていた。ここでの「虹」とはセデック族のあの世へ行くための道であった。もちろん、作者はそんなことを意識しているわけではないが、「灯台」が気になる。「灯台」が船旅の安全を見守るものだとしたら、日本分と戦って家族ともに自決していったゼディクの人々の「旅」を見守る灯台ともイメージできる。映画を見た人なら、その連想をするのが、何かしらの癒やしになる。



まど・みちおの「たんぽぽ」の詩



1 「約束外し」の詩

 私たちの見ているものは、まずは「約束」に沿ってみている。空とか雲とか、水とかコップとかいうものは、日常の暮らしの中で、「空」「雲」「水」「コップ」と名付けられ、教えられてきているので、なんのためらいもなくそう呼んでいる。「空」「雲」「水」「コップ」というのは、「約束」としての物の見方、ものの呼び方である。
 しかし、「夕焼け」や「海」を見ているとき、その壮大な美しさに圧倒され、それをなんと呼べば良いのか分からなくなるときがある。「約束」としての「夕焼け」や「海」という呼び方が陳腐に感じられて、そんな呼び方で呼びたくないというか、名づけることのできないものを見ている感じにひたるときがある。
そういうふうに考えると、物事の見方には、基本的には二通りがあって、一つは、「約束=規範」にそって物事を見る見方で、もう一つは、「約束」を外して物事を見る見方である。「夕焼け」の美しさに見とれていると、「君は詩人だねえ」などと冷やかされるだろう。おそらく「詩」というのは、その「約束」を外して物事を見るようなときに生まれるものなのだろう。
 まど・みちおという人は、誰でもが知っている周囲の出来事を、その約束事に沿って見ている見方をあえて外すとどういう風に見えるのか、そのことをやってみようとした人である。うまくいっている場合もあれば、うまくいっていない場合もある。そこのところを見てゆきたい。
 誰でも知っているものといえば、たんぽぽである。まど・みちおにはたんぽぽを歌った詩がたくさんある(おそらく20編くらいはある)。そしてこのたんぽぽを歌った歌に、彼の詩の特徴がよく出ており、なおかつ彼の最も優れた作品(いや日本の詩の中でも最も優れた部類に入るもの)が、そのたんぽぽの詩に見ることができる。そのことを理解しやすくするために以下のような図を示しておく。私たちがたんぽぽとして知っているのは、まさに図の左のように、約束事の格子の中に置かれたものである。そのことを約束=規範=ルールの中で見られたたんぽぽとしておく。詩人は、そういう「約束」にそって「たんぽぽ」を見なくなる人であるから、格子から外された右側のものを見る人である。でも枠から外されたものは、「たんぽぽ」と呼ぶ約束から離れているので、それを何とよべばいいのか、わからないものだ。


  ポポン…

タンポポは いつも
ポポン… と咲いているように見える
人間などが 生まれるまえの
ずうっと 大昔から

ほんとは ついこの間
地球のこのへんに すむ人たちが
タンポポと 名づけてからのことなのに

もしも その人たちが
タンケロと 名づけたのだったら
たぶん いまごろ
ケロン… と咲いていたろうに
また もしも
タンボヤと 名づけたのだったら
ボヤッ… と咲いていたろうに

タンポポが ポポン… と咲いている
おや あそこの田んぼの あぜでは
あんなに ポポン ポポン… と
わたげの花火うちあげて よんでいる
 ーみんなおいでえ!
  タニシのうちに
  あかちゃんがうまれたよう!
       (1975)

 この詩を読む人は、たんぽぽのわたげを見る目を修正させられる。そうか、たんぽぽは、「ポポン」と呼ばれてもよかったのだ・・・。打上げ花火が、空中でポポンと開くみたいに、たしかにポポンと咲いているようにみえる・・。でも花火は最近のものだから、もっと昔には、「ケロン」と呼ばれていたかもしれない・・・などと、想像が広がる。なによりも、たんぽぽをたんぽぽと呼ばなくてもいい時代があったことに気がつくことが、この詩を読む人の最大の収穫だ。たんぽぽを、ルールから自由に見つめる感覚が味わえる。そうなると、つぎの「たんぽぽ」の詩も、よくわかる気がしてくる。

  タンポポ

だれでも タンポポをすきです
どうぶつたちも 大すきです
でも どうぶつたちは
タンポポの ことを
タンポポとは いいません
めいめい こう よんでいます

イヌ     …ワンフォフォ
ウシ     …ターモーモ
ハト     …ポッポン
カラス    …ターター
デンデンムシ …タンタンポ
タニシ    …タンココ
カエル    …ポポタ
ナメクジ   …タヌーペ
テントウムシ …タンポンタン
ヘビ     …タン
チョウチョウ …ポポポポ
      (1974)

 おかしい。むしょうにおかしい。確かに、たんぽぽを「たんぽぽ」と呼んでいるのは、人間だけだ、ということではある。しかし、人間以外の生き物がたんぽぽをどう呼んでいるかなどということは、考えもしない。だから、いわれてみれば、他の生き物だってたんぽぽに出会っているわけであるからして、なにかと呼んでいるかもしれず、そのことは想像してみる自由はある。(しかしそんなことを想像する人はいないだろう)。が、実際にいるのだからあきれてしまう。そこでは確かに生き物がそれぞれにたんぽぽを呼んでいた。
 それにしても、犬が、「たん、ぽぽ」を「ワン、ほほ」ならぬ「ワン、フォフォ」などと呼んでいるとか、たにしが「たん、ぽぽ」を「タン、ココ」と呼んでいるとか、テントウムシが「タンポンタン」と呼んでいるなどという想像力が、どこから生まれるのか、呆れるしかないではないか。
 もちろん、しかめっ面をしながら、たんぽぽの由来などを、うーん「どうしてだか」と腕組みして考えることも、できないわけではない。が、そんなことをしていると、こんどは「ヒバリ」のことも、なぜヒバリなんだかとと気になってくるのではないか・・・

どうしてなのだろう

どうしてタンポポなのだろう
とどうしてだかのわたしが
どうしてだかのタンポポみれば
ヒバリがないて ないてないてないて
どうして ヒバリなのだろう
  (略)
       (1994)
『それから・・・』童話屋1994

 「たんぽぽ」を「たんたんぽ」といったり「たんぽんたん」といったりすることのおかしさは、従来からナンセンスというような言い方で説明されてきたが、ナンセンスを無意味という意味で理解するならそれは間違えている。まど・みちおの「たんたんぽ」や「たんぽんたん」は無意味の表現ではない。約束事から自由になった表現なのだから。
 もちろん、「自由」に見るように書かれていない詩もあるが、良く読むと味わい深さがあるのは不思議だ。

たんぽぽ (1968)

たんぽぽ たんぽぽ/きれいな わたげだな/わたげの ほしたち/ゆびさき はなれて/ぽぽんと そらへ

たんぽぽ たんぽぽ/きれいな なまえだな/なまえを よぶこえ/くちびる はなれて/ぽぽんと そらへ
     (1968)
   
 一連だけ読むと、たわいない、「約束どうり」にたんぽぽを見ている感じがして、新規なものを見た感じがしない。「ぽぽん」というのも、すでに使われてきたものだ。しかし第二連の終わりにきて、おっと思うことになる。ここで歌われているものは、いかにもたんぽぽであるかのように見せかけて、実は、わたぼうしのわたげが、空へ飛んで行く瞬間を歌っていたことに気づかされる。ものがものからはなれる瞬間があるのだ。二連では、たんぽぽというなまえを発音するときに、まさに唇から、たんぽぽが、ぽぽんという音として離れてゆく、と歌っていたからである。それはもう「たんぽぽ」の話ではない。そして、この「ぽぽん」は、前に取り上げた「ポポン・・」とも違っていたのである。なんてことだ、と思わないわけにはゆかない。
 次のたんぽぽはもっと違う。先ずは読んでいただこう。

わたげタンポポ

ゆたかなたてがみに
おおわれた
ゆげのライオンが
ふかいねむりにおちている

一〇〇〇の
子どもライオンになって
とびちるまえの
一しゅんを

ああみえる!

ねむりのなかに
ゆめが…
ゆめのなかに
チョウチョウが…
チョウチョウのせなかに
うふふが…

せかいじゅうの
すべてのいきものに
あたらしいたんじょうびをくばってまわる
あのわらいんぼが…
『植物のうた』

 わたぼうしが、「ゆげのライオン」だというのだから、想像力は半端ではない。「たてがみ」と「ゆげ」と「ライオン」に見立てられた「わたぼうし」が、かつてあっただろうか。ライオンのようなエネルギーを持ったものに見立てられるわたぼうし。それが「1000のライオンになってとびちる」のだと想像される。壮大で強烈なイメージだ。でも見られているのは、その飛び散る前の「一瞬」である。それまで一体となっていたものが分かれる瞬間。作者はそこを見ている。
 その瞬間が一転して夢の中の光景になる。わたぼうしライオンが、チョウチョウの背中に乗って運ばれてゆく夢想だ。その運ばれ、配られるものが「種」とよばれる生き物の「誕生日」だ、とこの詩は歌っている。なんてことだ。
 ところで、ここで一点大事な註釈がいる。私はここで「チョウチョウのせなかに」と書かれた詩を元に解釈しているのであるが、『まど・みちお全詩集』理論社に収められたときは「チョウチョウのなかに」と改変されていた。「せ=背」が消されてしまっているのである。本当に、なんてことだ! むろん、たかが、単語ひとつ、ではないか、ということもできる。気にしなくてもいいのではないか。むしろ、まど・みちおの改変の意図を考えると、先に「ゆめのなかに」とあるのだから、後も「チョウチョウのなかに」というふうに、「なかに」を二回続けて使う方が、語呂がいいではないかと。たぶん作者はそう考えたのかもしれない。しかし、詩としては、改変前の方が良いに決まっている。改変前に、なぜ作者は「チョウチョウのせなかに」と「背中」のイメージを出したのかというと、ライオンをそこに乗せて運んでゆくイメージを見ていたからである。そうでないとおかしいではないか。そうでないと、この詩にチョウの出てくる意味がなくなってしまうではないか。
 この詩には、実はもう一つの問いかけがある。それはたんぽぽは、どこまでをたんぽぽというのかという問いかけである。黄色い花と、白いわたげ。この詩の題は「わたげたんぽぽ」となっているので、ちょっとごまかしている、のか、とたずねたくなる。もちろん常識的には、黄色い花と、白いわたげは、両方ともたんぽぽである。

  生まれて来た時

ホホケタンポポは指の先から
フルン フルン 飛んでいって
もうお母さまには茎だけしかあげられない
 と思ったの。

 ところで、「元の形」と「元の形から離れる」ことを描いた詩に「ミカン」がある。


  ミカン

つややかな
つぎめひとつないきんのかわを
ひきむきながらおもう
 ーこんなにぞんざいに
  ミカンをひきむいてしまって…と

うつくしく
キクのはなびらたちのように
身をよせあったふくろのわを
ひきわりながらおもう
 ーこんなにらんばうに
  ミカンをひきわってしまって…と

ひとふくろ
ロにふくんで
そのはるかなあまずっぱさを
のみくだしながらおもう
 ーこんなにかんたんに
 ミカンをたべてしまって…と
    まど・みちお詩集『風景詩集』一九七九年かど創房

 この詩はちょっと難しい。「約束」がどこにあるのかわかりにくいからだ。先ほどの「格子」の中にミカンを置いてみるとよく分かる。詩の作り手は、そのミカンを、「格子」から外して、「みかぽん」とか「みかみん」とか呼ぶ詩を作っているわけではなく、そのミカンの皮をむいているところを描いているからだ。そしてそこを「つぎめひとつないきんのかわを/ひきむきながら」などと書き付ける。みかんに「つぎめがない」などと考える人がいるのだろうか。そして「身をよせあったふくろのわを/ひきわりながら」などという、恐ろしい想像力を繰り広げる。そんなことを考えること自体が、この詩の「約束外し」になっているのである。

 ところで、こうした元のところから離れるところを描いた別な詩に「ぬけた歯」がある。

  ぬけた歯

ぬけた歯をてのひらにのせると
星のようだ
生きもののぼくの口の中へはもう
帰れないほどとおくに光る…

ぼくの体のどこかであったのが
嘘のようだ
ここから見えるのもふしぎな
ふるさとのどこかに
帰りついているかのようだ
そこにあることこそが本当の…

 「ぬけた歯」なんか詩になるのかと思うのだが、詩になっている。口の中にあるときは「約束」として「歯」と呼ばれているが、抜けてしまった歯は、もはや歯としては役に立たないし、なんと呼べば良いのか・・。しかし彼は、手の平できらりと光る、光沢のある小粒のものを、遠くに光る「星」のように見なおすのである。なんてことだ、と思う。想像力は2連までで十分に達成されている。3連になると、しかし想像力が過剰になる。もちろんこの3連の雄大さこそがいいのだという人もいるかもしれない。

生きものの一ばん初めての祖先が
そこで生まれたころの
風も虹もやまびこも
まだ赤んぼうだったころの
宇宙のふるさとの どこかに…


  たんぽぽ   1985

たんぽぽは
たんぽぽぽんの ぼんぽぽぽん
みたいに して
たんぽぽーっとさいています
たんぽぽーっとね
だれも しらない むかしから

たんぽぽは
たんぽぽん あんぽんたん
でほありません
たんぽぽーっと さいています
たんぽぽーっとね
それは ちょうちょが しってます

たんぽぽは
たんぽぽぽんの ぽんぽぽぽん
みたいに して
たんぽぽーっと さいています
たんぽぽーっとね
きっと ちきゅうが つづくまで
        (1985)


原稿はここまで。以下は忘備録。



  蒲公英(たんぽぽ)

描(か)かれた蒲公英
がく
額の 中、
留守番 してます
婆さん と。

ほんとの蒲公英
土手の 上、
一年経っても
又 咲いた.

描いた 絵かきさん
北支那の、
どこかの土手で、
歩哨でしょうか。
     (1938)


  たんたん たんぽぽ

たんたん たんぽぽ
みいつけた
ちょうちょが とまって
いたからよ

つんつん つくしんぼ
みいつけた
すみれと ならんで
いたからよ
    (1948)

  たんぽぽ さいた

たんぽぽ さいた
きれいに さいた
ひばりの ことばで
ひばりが ほめた
ぴいぴぴ たんぴぴ
きれいだね

たんぽぽ さいた
きれいに さいた
たにしの ことばで
たにしが ほめた
ころころ たんころ
きれいだね
   (1971)


  たんぽぽヘリコプター

たんぽぽ わたげの
ヘリコプターが
よびに くるくる
のはらの ほうから
みんなで おいで
はやく はやく はやく
つくしが もうでて
まってるよ

タンポポ わたげの
ヘリコプターが
よびに くるくる
あとから あとから
みんなで おいで
はやく はやく はやく
めだかも ちょうちょも
まってるよ
     (1971)


  タンポポがさいた!


タンポポがさいた!
タンポポがさいた!
と 四月の あの太陽が

いや ことし
一九六九年の あの太陽が

いやいや ことしで
ほんとにその年が
いくつになるのか
だれも知らない あの太陽が

そして ことしがタンポポたちの
ほんとに なん億なん万年めの
たんじょう日かを
ひとり知っている あの太陽が
タンポポがさいた!
タンポポがさいた!

     (1973)


  タンポポ

あっちに タンポポが さいていた
そっちにも タンポポが さいていた

タンポポが なぜ さくのかを
タンポポが なぜ きれいなのかを
タンポポが なぜ タンポポなのかを
なんにも しらない わたしなのに

ここにも わたしの まえに
タンポポが また…
      (1973)



  たんぽぽさんが よんだ

たんぽぽさんが よんだ
どんな こえで?
はなのこえと やぎのこえと
なんのこえも みんなで
あーら ひょーら ぷーら しょ
では かけていきましょう

たんぽぽさんが よんだ
どっちの ほうで?
あっちからと こっちからと
どっちからも みんなで
あーら ひょーら ぷーら しょ
では かけていきましょう

たんぽぽさんが よんだ
だれを だれを?
わたしたちと ちょうちょたちと
だれも かれも みんなを
あーら ひょーら ぷーら しょ
では かけていきましょう
     (1979)



  まぶしいタンポポ ―ねしょんべんのうた

よがあけて それをしかるとき
おかあさんは
ぼくを しかるのではないように
しかった

しかられる ぼくも
ぼくが しかられるのではないように
しかられた

どこの ぼくからだったのか
あの ひなたのタンポポへと
ひとすじに おちつづけた
うつくしい きんの たきは

いまも みとれているのか
あの ぼくは
あの まぶしいタンポポを
あの まぶしいタンポポの まえで
     (1969)


  私の手の先には


むかし 幼い私の手の先には
いつもトンボやチョウチョウが
きらきらしていた
さわったりさわらなかったりして…

きょう ふり返ってみると
糸のように長い長い私の手の先では
タンポポの
ぎんのわた毛が舞い踊っている
何か私たちの知ることのできない
ひじょうに小さな遥かなものを
よびもどすための儀式のように
       (1976)


  生まれて来たとき

あるいてもあるいても日向だったの。
海鳴がしているようだったの。

道の両側から、
山のてっぺんから、
日の丸が見送っていたの。

お船が待ってるような気がして、
足がひとりで急いじゃったの。

ホホケタンポポは指の先から、
フルン フルン 飛んでいって
もうお母さまには茎だけしかあげられないと思ったの。

いそいでもいそいでも日向だったの。

――――ね、お母さま。
僕、あの時生まれて来たんでしょう。
           (1937)



  きりんさんの でんわ


きりんさんの でんわは
あたまの うえに
ちょこんと のってる
つのの でんわ
ちょうちょさんが きて かける
――――ちりりん もしもし あとあしさん
たんぽぽ ふんでは だめよ

きりんさんの あとあしは
からだの したで
でんわを ききます
おおあわて
おっとっと たいへん とびのいて
――――ごめんよ ごめんよ たんぽぽさん
しらんで ふんでて ごめんよ
     (1958)



 

私の好きな六篇の詩 ―至福のひとときにふれる歌―



 まど・みちおの良い詩、優れた詩はたくさんある。山ほどあると言ってもいいだろう。でも好きな詩はといわれると、理由は説明しにくいが、彼の台湾時代に同人誌「昆虫列車」に書いた次の四つの詩がまず浮かんでくる。何でもない詩で、技巧的に優れているわけでもないし、書こうと思えば誰でも書けるような詩にみえるし、読むのに照れくさい気もする。にもかかわず、こんな詩を、詩として読んだことがないなあという感じがなぜかしてしまうものだから。


  牛のそば

牛のそばへゆくと、
日向(ひなた)の匂いがする。
牛のそばへ行って、
「いいお天気ね」って言おう。

牛のそばへゆくと、
体が息してる。
牛のそばへ行って、
「でかいおなかね」って言おう。

牛のそばへゆくと、
ねれた鼻つき出す。
牛のそばへ行って、
「何が欲しいの」って言おう。
  1935

 「いいお天気ね」って言おう、の「って言おう」という柔らかい言い回しが、戦前にもあったのだ! と改めてびっくりさせられる詩だ。くりかえされる「って言おう」という言い回しが、心に強く残る。「牛のそばへゆくと、/体が息してる。」というのも、あまりにも当たり前なことを指摘されて、息が止まりそうになる。もう「牛」の「そば」に行く経験などなくなってしまった私たちであるが、この詩を読むたびに、そうだそうだ、牛の「そば」へいって「いいお天気ね」と言わなくてはと、いう気にさせられる。


  ドーナッツ

一つしかない ドーナッツ、
ひとりで ぺろんと 食べたいけれど、
1/4ほど お馬が ほしい。

あとの のこりの ドーナッツ、
ひとりで ぺろんと 食べたいけれど、
1/4ほど テリヤが ほしい。

もうもう 小さい ドーナッツ、
ひとりで ぺろんと 食べたいけれど、
1/4ほど 子ねこも ほしい。

1/4ずつ ドーナッツ、
ワン・ツーのぺろんと 食べたいけれど、
「母さんありがとう」いってから食べよ。
1938

 なんと言えばいいのか、あやまりたい、と感じさせる哀しい詩だ。誰に何をあやまるのかわからないが、そういう気持ちにさせられる愛しい詩だ。この詩を読んで涙するところなど人に見られたくない。よくこういう詩が日本詩史の中に残されてきたものだと思う。それにしても最後の一行がなければ、どういう詩になっていただろうか。


  びわ

びわは
やさしい きのみだから
だっこ しあって うれている
うすい 虹ある
ろばさんの
お耳みたいな 葉のかげに

びわは しずかな きのみだから
お日に ぬるんで うれている
やぎさんの
おちちよりかも まだ あまく
      (1939)

 コメントもいらない詩だ。読むだけで「至福感」が伝わってくる。


  トマッテ イイヨ

ドウブツエン ニ、チョウチョウ ガ キタガ、
オハナガ、ナイノ。

ボクノ オミミ ニ、トマッテ イイヨ、
イッタ ノ、ロバ ガ。

ボク ノ オツノ モ、トマッテ イイヨ。
イッタ ノ、シカ ガ。

ボク ノ ハナ デモ、トマッテ イイヨ。
イッタ ノ、ゾウ ガ。

ボクノ、ト オサルモ イオウトシタラ
カエッタ ノ、チョウ ガ。
   1938

 「花」のないところがあるのか。そんなところに蝶はきてはいけない。でも、ひらひらとやってきた蝶。どうしたらいいのだろうか。「花」がなくては、どうしようもないじゃないか。
 そんなときに、「僕の耳にとまっていいよ」とロバが言ってくれた。「僕の角にもとまっていいよ」と鹿が言ってくれた。「僕の鼻でもとまっていいよ」とゾウも言ってくれた。それって、何を言っていることになるのだろうと、なぜか思う。親切なのか、優しさなのか、それとも、もっと違うことなのか。同じようにお猿も言ってあげようとしたら、もう蝶はどこかへ行ってしまっていた。不思議で、身につまされる詩だ。
 つぎの「たまいれ」は「毎日こどもしんぶん」1978に掲載された後期の詩で、作者69歳の作だ。


  たまいれ

たったの一度
はいった たまを

こころが なんども
おもいだす

五ども 十ども
はいったみたい
  (1978)

 この新聞を読んで、この詩を見つけた子どもは、大きな宝物を見つけたに違いない。一度読んだだけなのに、折りに付け何度も思い出すことができる詩だからだ。まさに、そうよ、そのとおりよ、と、誰にでも感じさせてくれる、深い想いの語られた詩だ。
次はうんと晩年の詩。

  人間の景色

坂の上のポストに
手紙をだしにいき 帰りに
兄弟らしい小学生とすれちがった
笑い声をあげてる二人だったが
兄はけんめいに自転車のペダルをふみ
息をきらしつつ
小走りの弟の速度にあわせていた
ゆっくりとSの字をえがきながらに…
ふりかえって見とれたが
もうはや思いのこすことはなかった
これこそ地球にすむ
われら人間の景色なのだ…
地球は美しかった
    (2009)百歳

 坂道を、笑いながらのぼる二人。弟の速度に合わせて兄がS字形に蛇行してペタルをこいでいる。至高のひとときを見たと思える光景だ。
 全然関係が無いのに、なぜか黒田三郎の「秋の日の午後三時」を思い出す。


  秋の日の午後三時

不忍池のほとりのベンチに坐って
僕はこっそりポケットウィスキイの蓋をあける
晴衣を着た小さなユリは
白い砂の上を真直ぐに駈け出してゆき
円を画いて帰ってくる

遠くであしかが頓狂な声で鳴く
「クワックワックワッ」
小さなユリが真似ながら帰ってくる
秋の日の午後三時
向岸のアヒルの群れた辺りにまばらな人影


好きな詩、六つといいながら、なぜか、知らぬ顔のできない詩がある。付録に付けておきたい。


  夕はん

母さんは
土間の卓子(テーブル)
いもの粥(かゆ)
食べておられる。

父さんと
洋燈(ランプ)みながら、
話しては
食べておられる。

ぼく一人
聯(れん)にもたれて
いもの粥
ふいて食べてる。

ぬれた箸(はし)
ほうら挾める、
新月は
とても細いな。
     1938

 「いもの粥」という台湾の貧しい食事なのに、子どもは敬語を持って親の食事風景を見ている。貧しさと敬語の対比。静かな描写の中に、子どもの秘められた思い、訴えのようなものが聞こえてきそうな詩である。そんな中、第四連でさりげなく自分のできることを自慢をしているところは、格別だと思う。

  春日

空(から)だっていいんだよ お菓子の
袋だもの。ひとりだっていいん
だよ、塀に免(もた)れてるんだもの。
 1938

 「空」だっていい、「お菓子の箱」なんだからという子どもの思い。「箱」だけでも「お菓子」が入っているような気持ちになれるときがある。「貧しさ」の痩せ我慢と見ることもできるだろうが、、「ふしぎなポケット」の原型がここにある、と見ることもできる。塀に免(もた)れているんだもの」という表現は「夕はん」の詩の「聯(れん)にもたれて」に似ている。「ひとり」を支えてくれるものが「塀」や「聯」で表されている。それは何なのか。

 



「落葉」の詩  (未定)

 


  おちばの ゆうびん

りすさん りすさん
はい ゆうびん
かぜが おちばを
くばります

くまさん しかさん
はい うさちゃん
ゆうびん ゆうびん
くばります

えはがき ゆうびん
ほう きれい
みんな よむ まね
して みます
   1952年


  おちば ひらひら

おちば ひらひら
どこへ どこへ
おにわの
ゆうびんごっこ
えはがきに なりに

おちば ひらひら
どこへ どこヘ
えんがわの
ままごと
おせんべいに なりに
     1960年



  おちば

おちばの
おちばの
おふね
おいけを はしる

おちばの
おちばの
ぶらんこ
くもの す ゆする

おちばの
おちばの
あかちゃん
わたしにおんぶ
  1957年



  おちばがちるよ

ことりが とぶから
おちばが ちるよ
そらから ちるよ
おおきいのも ちいさいのも
ちる ちる ちるよ

こだまが よぶから
おちばが ちるよ
そらから ちるよ
あかいのも きいろいのも
ちる ちる ちるよ

ゆうひが みてるから
おちばが ちるよ
そらから ちるよ
おどりながら ひかりながら
ちる ちる ちるよ

ちきゅうの こだから
おちばが ちるよ
そらから ちるよ
かあさんのむねに かあさんのむねに
ちる ちる ちるよ
  1969年(第4連はのち加筆)



落ち葉の歌

秋風ふけば
林の落ち葉
ぱらぱら みなとぶ
小鳥のように

夕風ふけば
林の落ち葉
ひらひら みなまう
ちょうちょのように
   1961年


おちば

おちばの おちばの ボート
おちばの おちばの ボート
おいけを はしれ はしれ
おちばの おちばの ボート
おいけを はしれ

おちばの おちばの ぶらんこ
おちばの おちばの ぶらんこ
くものす ゆすれ ゆすれ
おちばの おちばの ぶらんこ
くものす ゆすれ

おちばの おちばの ちょうちょ
おちばの おちばの ちようちよ
わたしに とまれ とまれ
おちばの おちばの ちょうちょ
わたしに とまれ
  1963年




  落葉

人の耳には ただ
「かさっ…」としかひびきませんが
その一言を 忘れる落葉はありません
きん色の秋の空からおりてきて
いま地面にとどいた
というその一しゅんに

「ただいま…」
なのでしょうね それは
長い長い旅のバトンタッチを終えて
ようやっと ふるさと
わが家の門に たどりつき
ようやっと それだけ言えた

そして たぶん それには
大地のお母さんの
「おかえりなさい…」
も重なっているのでしょう
「おつかれさま
さあ 私の胸でゆっくりお休み…」
という 思いのこもった

そのうえ ほんとうは それには
宇宙のお父さんの
「さあ 元気に行っておい.て…」
もまた 重なっているのでしょう
大地に休むということは
明日の生命を 育てるための
「土」への 出発なのでしょうから

人の耳には ただ
「かさっ…」としかひびきませんが
    1979年『風景詩集』


  おちばの うた

そらから そらから
おちばの はっぱ
どうして おちてくるのかしら
しごとが すんだというみたいに
あかい はっぱ
きいろい はっぱ
まだらの はっぱの
おちばの はっぱ

じめんへ じめんへ
おちばのはっぱ
どうして おちてくるのかしら
おうちへ かえってくるみたいに
まるい はっぱ
ほそい はっぱ
さんかく はっぱの
おちばの はっぱ
  1980年



  おちば

おちばが ちるよ
なぜだか ちるよ
あとから あとから
ちらちら ちらちら
なぜだか ちらちら
ちらちら ちるよ
ゆめを みるように
  1982年

 

ランプとチューリップをめぐって
―ベンヤミンとまど・みちおの接点についてー  
         村瀬 学

 生命を吹き込まれた自然においてであれ、生命を吹き込まれていない自然においてであれ、何らかの仕方で言語に関わっていないような出来事や事物は存在しない。
 ランプは誰に自らを伝達しているのか? 山々は? キツネは? ――この場合には、答えは、人間に、となる。これはけっして擬人的な見方ではない。この答えが真実であることは、認識においても、またおそらく芸術においても、示されている。おまけに、もしもランプ、山々、キツネが人間に自らを伝達していないのだとすれば、どのようにして人間はそれらを名づけることができるだろう? ところが、人間はそれらを名づけている。それらを名づけることによって、人間は自らを伝達している。人間は誰に自らを伝達しているのか?
ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」(細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』巻末の訳 岩波書店2009)


  1 瀬尾育生の「純粋言語」の理解から

  バラ

るすばんの夜の
この机の バラを見ていると
バラが 何かを
話していそうに思われてくる
ほんとに素直な心に なりさえすれば
私にだって聞きとれる ことばで…
    『まど・みちお詩集 植物のうた』銀河社1975


 あれだけわかりにくいと思っていたベンヤミンの言語の考察が、瀬尾育生の「純粋言語論」を読んだ時、急に身近なものになった。2011.3.11の東日本大震災を踏まえて書かれていたせいかもしれないが、これを読むことができてよかったと思った。大地が揺らぐ中で、海の声、陸の声を聴いたと感じた人はたくさんおられたのだろう。瀬尾の論考はそこを踏まえていた。海が語り、大地が語り・・そして、そういう見方の中に「最後の詩人」(谷川俊太郎の命名)まど・みちおを理解する「窓」があると思われた。なぜベンヤミンの考察にまど・みちおが出てくるのかと奇異に思われるかも知れないが、それは瀬尾の文章をたどってもらうとおわかり頂けるかと思う。そこで彼の考察を最初に引用しておく。

 最初の「言語一般および人間の言語について」。題名が最初から不思議なことを語っている。つまり、「言語一般」というものがある、というんですね。「人間の言語」だけが言語ではない。そうではなくて、「言語一般」というものがあるんだ、ということがこの題名に含まれている。すべての人間の精神生活はそれぞれの言語を持っています。音楽の言語、彫刻の言語、司法の言語、技術の言語……というようなものがあるわけです。それだけではありません。ランプも言語を話している。山々も、狐も、話している……とベンヤミンは言っているわけですね。ランプも山々も狐もみんな私たちに向って語っている。人間が言葉を使うのは、まず最初に、それらのものの語りかけに応えるためなのです。事物が語っていて、生物が語っていて、無生物が語つていることが先で、それに応答してはじめて、人間が語る、ということが始まる。
(略)
 あれくらいの規模の災害(2011.3.11の東北大震災のこと-村瀬注)になると、決して外的な自然災害であるだけではありません。それは「存在災害」と呼ぶべきものであって、私たちと関係のないところで自然が振動した、というようなことではないのですね。存在の全体がそこで口を開き、語り出している。事物や生物や無生物が一挙に語り出して「人間の言語」はこのことをうまく分節できない。それはまさに「純粋言語の問題」だった、と言いたいわけです。普段は人間が自然の状態をコントロールしていると思っているから、「純粋言語」は「人間の言語」に翻訳され取り込まれている。ところがそれが制御できなくなって、「純粋言語」が直接語り出すということが起こった。それが地震であり、津波であった。
瀬尾育生『純粋言語論』五柳書院2012

 実は瀬尾育生の前に、細見和之が1995.1.17の「阪神・淡路大震災」を受けてベンヤミンの「「言語一般および人間の言語について」を詳細に考察していた。そして瀬尾と似たような状況の捉え方をしながら瀬尾が「存在災害」というところを「地震の言語」という呼び方で捉えていた。私は、先に出版されていた細見の本を知らずに、瀬尾育生の本から学ぶことになっていたのだが、二つの本は、共に学ぶことの多かった本である。
 さて本題に入るのだが、ベンヤミンの言語の考察の中に「ランプのことば」の話が出てくる。瀬尾も細見も、この「ランプのことば」には言及している。ところで、現代の子どもたちに「ランプのことば」というような話をすると、真っ先にディズニーアニメの「美女と野獣」の中の、テーポットやコーヒーカップや燭台のロウソクたちのおしゃべりするシーンを思い浮かべるかもしれない。ディズニーアニメには、草木や動物や日常品が歌い踊り喋るシーンがいっぱい出てくるからだ。ベンヤミンはそういうアニメーションやアニミズムのようなことを言っているのか、ということがまず気になる。
 もともとアニメーションという言葉は、ラテン語の霊魂(アニマ)からきているとされているのだが、アニミズムも含め、多神教は、すべてのものに霊魂があると考えるもので、そういう世界観に立てば、万物がアニメーションのように語るようなことは、さほど不思議なことではなくなる。ベンヤミンはそういうアニミズムのようなものを、想定して「一般言語」というようなものを考えていたのか・・。
 ここでは、その議論に深入りすることはできないが、具体的に、ベンヤミンが取り上げ、瀬尾や細見も言及している「ランプ」という、今では使われないものを例として見てゆきたい。その媒介として、まど・みちおの「ランプ」の詩を取り上げたい。まどの愛読者なら「ランプ」と聞いてすぐに思い出せる詩が二つあるからだ。「山寺の夜」1936と「豆ランプ」1938である。この二つの詩は、ベンヤミンや瀬尾育生の指摘する例(「ランプの言語」に関わる手がかり)となるのだろうか。そこをまず尋ねることからはじめたい。


  山寺の夜  ――大崗山、超峰寺を訪ね、同寺に一泊せる時

ランプ、
ランプを 見ている。

私、
私が見ている。

ランプ、
ランプが見られてる。

私、
私に見られてる。

「おや、坊さん、
犬のこえがランプのしんで、
細い、細い。」
「いいえ、あれは
ふもとの村、ここは山でしょ、
遠い、遠い。」

ランプ、
ランプを見ている。

私、
私が 見ている。

ランプ、
ランプが 見られてる。

私、
私に 見られてる。
   (1937)28歳


  豆ランプーー

 私は、豆ランプをともして、頸をかしげて、見ているのが好きだった。頬っぺたを近くへもって行って、自分も豆ランプになったつもりで並んでいるのは、更に一層好きだった。豆ランプをともしたままで、蜜柑かなんかのように、そっと懐に入れてみてやろうかと思ったこともあった。
 夜、便所へ行く時には、いつでも豆ランプをつけて行った。豆ランプをそこに置いて、その心(シン)を見ながら用を達した。何かが私を窺っているらしいので、その目と私の目が出喰わさないように、心ばかりを見つめていた。
そんな時、心のつけ根で、青い帽子などを被って、がやがやと立働く人の群が見えるようなことがあった。心が、何処かの工場の溶鉱炉のように見えた。
(略)       1938年(29歳)

 二つとも『まど・みちお全詩集』理論社1992からの引用。これらの詩が、ベンヤミンのいう「ランプの言葉」に関わるようなことを書いているのかどうかである。
 「山寺の夜」の詩には、中に「会話」が入っているが、これだけでは意味がよく読み取れないシュルレアリスム風の作品だ。ただ、「ランプを見ている私」と、「私に見られているランプ」の光景が交互に描かれているところはわかる。「ランプを見ている私」と「私に見られているランプ」など、どちらでも同じではないかと思う人がいるかもしれないが、作者にとっては、その区別こ、この作品のテーマをみているようなところも感じられる。というのも、「ランプを見ている私」というのは、「私」の見え方を問題にしているのだが、「私に見られているランプ」というのは、「ランプ」があたかも誰か「人物」のように意識された書き方になっているからだ。でも、その人物のようなランプが、何か言葉で話しかけてくるわけではない。
 そのことを踏まえて、詩の中の会話を読むと「おや、坊さん、/犬のこえがランプのしんで、/細い、細い。」という下りは、意訳すれば「ランプの芯が、犬の声で、炎が細い細いと言っていますよね、お坊さん」というふうに読み取れる。それを受けてお坊さんが「いいえ、あれは/ふもとの村、ここは山でしょ、/遠い、遠い。」と答えている。意訳すれば「いやいや、あれ=犬の声はふもとの村でなら聞こえるもので、ここは山奥の山寺、犬の声が聞こえるなんてことはありえませんよ。ふもとの村は遠い遠いところにあるんじゃからね」と。もしそう読めるのだとしたら、ランプの芯が、「犬の声のように、炎が細くなってきて、消えそうですよ、油を足してくださいな」と言っているかのように聞こえる人は、錯覚していることになる。お坊さんの指摘の通りだ。しかし、ベンヤミンの言うように考えれば、「ランプ」が自分の声は持たないので「犬の声」を借りて、もう油がなくなってきて、炎も細くなってきていますよ、と訴えているように読み取れる。
 もう一つの「豆ランプ」の方は、書き手が「自分も豆ランプになったつもりで並んでいる」のが好きだった、と書かかれている。奇妙な嗜好と言うべきか。その豆ランプをもって夜にトイレに行く。夜は怖い。何者かが私を見ている感じもする。そいつと目を合わしたりすれば大変なので、私は豆ランプの芯ばかりを見るようにしている。「そんな時、心のつけ根で、青い帽子などを被って、がやがやと立働く人の群が見えるようなことがあった。心が、何処かの工場の溶鉱炉のように見えた。」と。
 この時「ランプの芯」は何かを語りかけるものとしてではなく、ミニチュアの「溶鉱炉」のように見え、そのまわりで青い帽子を被った人たちの働いているような様子が見えたという。こういう詩を詩人の空想の表記と見れば良いのか、それともベンヤミンのいうようなランプの言葉に引き寄せて読み取れば良いのか・・。
 おそらく、ベンヤミンにしろまど・みちおにしろ、電気や電灯の普及していないところで夜を過ごしていた人たちがいて、その状況下で「ランプ」に寄せていた想いを共有しない限り、ベンヤミンの言わんとしたことや、まど・みちおが詩に書いていることは、わからないに違いない。

  2 バシュラールのランプ考

このことを理解するための格好の考察がある。バシュラール『蝋燭の焰』である。本の題は「ろうそく」となっているが「ランプの炎」とされてもかまわない本である。あるいは「ランプの存在論」でもよかった。事実、第五章は「ランプの光」、エピローグは「私のランプと私の白紙」となっていた。彼はこの本の至る所で「ランプ」について語っている。彼はたくさんな詩人がランプについて語った多くの詩句を引用して、味わうべき想いを語っていた。

「すべての植物はひとつのランプである。香りはすなわち光である」(ユーゴー)
「すべての香りは空気と光の化合物である」(バルザック)  p100
(略)
 この五月の
 熱気のなかで身をよじる
 銅のチューリップ
 火のチューリップ

もしあなたが庭のチューリップをあなたのテーブルの上にもってくるなら、あなたはランプをもったのだ。  p111
 (略)
 「ランプが存在している。わたしはそれを生きもののように感じる」(ボスコ) p129
 (略)
 ひとつの良いランプ、良い芯、良い油、そこにはじめて、人間の心を喜ばせる光が生まれる。美しい焰を好む者は良質の油を好むものなのだ。彼は、宇宙創成的な夢想の傾斜を降るが、そこでは、世界のおのおのの事物が、世界のひとつの胚種である。ノヴァーリスのような人にとっては、油は光の材質そのものであり、黄色の美しい油は、凝縮された光、膨脹することを望んでいる凝縮された光である。人間がやってきて、わずかな焔で、その材質のなかに囚われている光の諸力を解放する。
 おそらく、いまではわれわれは、これほどはるかなところまで夢見ることはしない。しかし、かつてはこのように夢見たのだ。かつては、暗い材質に輝きをもつ生命をあたえるランプについてひとは夢見た。同様に語の夢想家は、石油とは石化した油であると語源から教わる時、どうして感動せずにいられようか。大地の深淵から、ランプは光を立ちのぼらせる。  p130
  バシュラール『蝋燭の焰』澁澤孝輔訳 現代思潮社1969

 これでもかと言うほど、バシュラールの「ランプ」への賛歌がが続く。「ランプ」からたくさんなことが学べた時代があったのだ。そのランプの考察の中で、赤いチューリップが、ランプの炎のように感じる詩を引用していた。そのランプが「炎のチューリップ」に見えるという詩を読むと、当然まど・みちおが書いた美しいチューリップの詩を思い起こさないわけにはゆかない。そしてそのチューリップの詩はベンヤミンの言う「人間はそれらを名づけている。それらを名づけることによって、人間は自らを伝達している。人間は誰に自らを伝達しているのか?」という問いにも深くつながっているところを見ることができるように私は感じている。


  草の花.

花が さいている
まっかに もえて もえて

みれば みるほど
これは 花
ただ 草の花

どんなに 花の中に
はいりたくても
はいって きえてしまいたくて
チューリップという 名前よ
おまえは 中にはいれはしない

ひらら
ひらら
チョウチョウに なって
いつまでも
花の まわりを
とびまわって おいで
   『まめつぶうた』理論社1973


  チューリッピ?

さいているのは
チューリッピ?
水に うつっているのは
プーリッチュ?

はなびらに ねむる
チョ?
二ひきで空へとのぼる一ぽんの
チョウチョウチョウ?
そよかぜのスカートは
一○○○メートル?
花のししゅう ゆれて ゆれて
プーリンチュー チュチュップリー?

はるが きた?
ふゆを たえてきた
生きもののために?
かみさまの たのしみのために!
『まめつぶうた』理論社1973年

 この赤い花を何と呼べばわからないというのがこの詩の状況だ。誰かが「チューリッピ?」といい、別の誰かが「プーリッチュ?」といい、さらに別の誰かが、「プーリンチュー」「 チュチュップリー?」などと言い合うさまが、この詩から見える。そうすると、確かにこの花を「チューリップ」と呼ばなくてもよかった時があったことが見えてきて、改めて「チューリップ」と「名付け」られたことに驚かざるを得なくなる。それはもう一つのチューリップの詩を見てみればよく判る。


 この状況は、ベンヤミンの言う「人間はそれらを名づけている。それらを名づけることによって、人間は自らを伝達している。人間は誰に自らを伝達しているのか?」という問いに答えるものになっているのか。
 真っ赤に燃えている花があり、それはどこからどう見ても「ただ 草の花」にしかすぎない。ところが、誰かがその花に「チューリップ」と名づけたがために、その草の花はただの草の花ではなくなり、「チューリップ」になった。でもこの詩は、「チューリップ」という名前に対して「チューリップという 名前よ/おまえは 中にはいれはしない」というのである。名前と花は、一緒に見られるときと、一緒ではないのだよと言い聞かせているところがある。そのことと、ベンヤミンの問題意識との兼ね合いはどう考えるといいのだろうか。ベンヤミンは、人間は「名づけることによって、自らを伝達している」と言っていた。でも「誰に自らを伝達しているのか?」と問うことも忘れなかった。
 ということは、ベンヤミンは、草の花にチューリップという名をつけることで、名づける自分を伝えているということになる。誰に伝えているのかというと、名づけをする自分たち人間に対してである。でも名付けられた当の花たちは、チューリップと呼ばれても、それは名づけられた自分であって、その花そのものとは違っていると思っているのではないか。
 しかしそういうことを言うためには、「名付け」が人間だけになし得ることだと言わなければならないが、でもベンヤミンは、人間以外も言語を持っているというのである。ということは、チューリップは、自分たちで自分たちを違った言葉で呼んでいるのかもしれないということになる。事実、DNAを分岐しながら、連続して進化を遂げてきたい生きものたちが、お互いに「連絡の取り合い」をしていないと考える方が不自然である。その「連絡の取り合い」を「言語」と呼ぶかどうかであるが、生物学者なら「DNA言語」などと言うところを、ベンヤミンは誤解されることを覚悟で「一般言語」「純粋言語」と呼ぼうとしただけなのか・・・。
 ところでこの詩に戻れば、「チューリップ」という人間の付ける呼び名は、実際の花の内部を示すことには成り得ずに、その花のまわりをチョウのように飛んでいるだけだといっている。これは、悪いことのように言っているのか。しかし、言葉が仮にチョウになっているとしたら、そのチョウになった言葉は、それなりにとても大事な役割を果たしていることも、想像できる。チョウは、花粉を運び、花と花を受粉させる重要な役目を担っていたからだ。そこでの、花と蝶のやりとりは全く「無言」というか、「やりとり」をしていないとは考えられないからだ。

3 ボードレールとベンヤミン

ところでベンヤミンは、こうしたし「生命を吹き込まれた自然においてであれ、生命を吹き込まれていない自然においてであれ、何らかの仕方で言語に関わっていないような出来事や事物は存在しない。」というような発想をどこから手に入れたのだろうか。私には、資料をたどる力量は一つも無いのだが、ただベンヤミンが長文のボードレール論を書いていたことから想像すると、有名な『悪の華』の「万物交感」のような詩からかなとふと思う。私は杉本秀太郎の訳が好きなので、それで引用しておく。

  応え合う

自然は一宇の大伽藍です。堂内には時として
くぐもり声で話しかける、いのちのかよった柱が立ち並び、
ここに入って、象徴の森をよぎりゆく人あらば
なつかしげに、木々は人を見守っています。

一帯は深い木の下闇に包まれ、
遠くでいつまでも呼び交わすこだまが
夜の闇のようにも、昼の光のようにもひろがり一つに溶け合うように、
香気、色、音が、互いに応え合うところ。

幼な子の肢体のようにみずみずしい香気あり、
オーボエのようにやわらかな香気、牧場のようにみどりの香気あり、
――また長く匂い立って他を圧する、すえた香気のごときは

限り知らずに拡散をつづけて、
龍誕香(りゆうぜんこう)、麝香(じやこう)、安息香、薫香のように、
精神ならびに五感の昂(たかぶ)りを歌い出すのです。
   ボードレール『悪の花』杉本秀太郎訳 彌生書房1998

 万物が「香気、色、音が、互いに応え合うところ」にベンヤミンは「一般言語」を想定したのではと考えることは可能である。最後の一行「精神ならびに五感の昂(たかぶ)りを歌い出すのです。」の「歌い出す」となると、私はまど・みちおの次の詩をどうしても、思い起こす。


  水はうたいます

水はうたいます
川をはしりながら

海になる日の びょうびょうを
海だった日の びょうびょうを

雲になる日の ゆうゆうを
雲だった日の ゆうゆうを

雨になる日の ざんざかを
雨だった日の ざんざかを

虹になる日の やっほーを
虹だった日の やっほーを

雪や氷になる日の こんこんこんこんを
雪や氷だった日の こんこんこんこんを

水は うたいます
川を はしりながら

川であるいまの どんどこを
水である自分の えいえんを
   『宇宙のうた』銀河社1985


 ここには「「生命を吹き込まれた自然においてであれ、生命を吹き込まれていない自然においてであれ」とベンヤミンの書いていたことの、後者が想起される。そしてこうした、まさに「万物」が、「応え合う」という言い方は、幻想的に聞こえるかもしれないが、私が瀬尾育生の「純粋言語論」で、ベンヤミンを身近に感じたときに、大地や海が、草木とともに動いたという意味での「万物」が、まさに「交応」していたところに「純粋言語」を感じていたと受け取って、妙にふに落ちた気がしていたからである。それは「幻想的」「ロマン的な」場所ではなく、深く激動する場所であったことを感じたからである。


  はっぱとりんかく

みずみずしい
はっぱのりんかくのなかで はっぱが

すがすがしい
くうきのりんかくのなかで はっぱが

ういういしい
うちゅうのりんかくのなかで はっぱが

ごうごうしい
じかんのりんかくのなかで はっぱが

そして いじらしい
はっぱのりんかくの そとから
「はっぱ」という にんげんのことばが
  『いいけしき』理論社1981


 存在するものに「りんかく」があり、それは「はっぱ」と呼ばれたりすることがある。が、その「はっぱ」とは「りんかく」のことをいっているのか。それとも、「はっぱ」の存在のことをいっているのか、はたまた、人間の「ことば」が「りんかく」を作り、「はっぱ」を生んでいるのか・・。
 「ことば」を人に限定してはいけない。物事を教えてくれる「ことば」は「人」だけのものなのか・・。


人ではない!

持っている手をはなすと コップは落ちる
それを教えてくれるのは 人ではない

落ちたコップは いくつにか割れる
それを教えてくれるのは 人ではない

コップの中の水は とびちる
それを教えてくれるのは 人ではない

とびちった水は やがて蒸発する
それを教えてくれるのは 人ではない

この世のはじめから 手をとるようにして
教え続けてくれているのは 人ではない

つきない不思議を これからも
えいえんに 教え続けてくれるのは
ああ 人ではない!
『宇宙のうた』銀河社1975
  『飢餓陣営』に掲載

 

 

『④物のうた』―『まど・みちお詩集全6巻』考




 『まど・みちお詩集6巻』の目次の立て方、分類の仕方そのものが「詩的」である。それを読み解くのは、『まど・みちお全詩集』のように詩がただ年月の順に並べられてしまった詩集からではわからない「お楽しみ」である。私はここで「もくじ」をお見せするけれど、単に「もくじ」を提示しているわけではない。そもそも「目次」を「分類」として立てた詩集がどれだけあるだろうか。詩人は「目次」を「分類」したりしない。普通の詩集では、「目次」はまだ「詩」ではないからだ。ここでは「もくじ」そのものが「詩」であるところを読者にお見せしたいと思う。
 『まど・みちお詩集6巻』の、発表の順番は『物のうた4巻』から始まっている。おそらくこの巻から始めることを、まど・みちおは心に決めていたのであろう。

『まど・みちお詩集④ 物のうた』1974.10
『まど・みちお詩集② 動物のうた』1975.1
『まど・みちお詩集① 植物のうた』1975.3
『まど・みちお詩集③ 人間のうた』1975.5
『まど・みちお詩集⑥ 宇宙のうた』1975.8
『まど・みちお詩集⑤ ことばのうた』1975.11

 このうちの『まど・みちお詩集① 植物のうた』は1976年4月に第16回日本児童文学者協会賞を、同年5月に『まど・みちお詩集 全6巻』に対して「第23回サンケイ児童出版文化賞」を受賞している。まど・みちおが67歳の時だった。ともに児童系の賞の受賞であり、一般の詩集として対象にはされていなかったことがわかる。その中でも、『まど・みちお詩集① 植物のうた』だけが第16回日本児童文学者協会賞を受賞しているのも興味深い。なぜこの詩集だけがと思う。賞の選者は、『植物のうた』と『動物のうた』の二冊が推薦されたが、前者が特にすぐれているので、この詩集に決まった、と選考経過報告(『日本児童文学1976.7』ほるぷ1976.7)で述べられていた。なお、まど・みちおの受賞の言葉は淡々としたもので、自作に厳しく、浮かれたようなことは一言も言っていない。少し引用しておく。

 受賞作の『植物のうた』については、前後して出しました他の詩集に比べてとくに優れているとは思っていません。もともと私は、植物という生命がこの地球に存在することの不思議な荘厳さ、個々の植物それぞれがもつ造形の絶妙さ、にはいつも圧倒されているものですが、それだけに植物を素材に私なりのチャチな詩をかくことには一種のしんどさがありました。
 それにこの地球上で植物と動物とは、お互いに片方がなくてはもう片方が生きてゆけない関係にあります。また生命の起源を太古の単細胞生物へまで遡っていけば、もともと両者の祖先は同じです。つまり植物は私たち動物にとって、かけ替えのない兄弟です。にも拘らずかれらは、私たちのように歩くことも、笑うことも、口をきくこともできません。そのうえに対人間的には、いつも私たちが加害者でかれらは被害者です。
 このような私の考えが、かれらの生命の不思議さ、荘厳さ、美しさを受けとめたときにごく自然にちらす火花。その火花が『植物のうた』に意図した私の詩だったと思うのですが、現実の作品に火花のきらめきは認めにくいようです。『植物のうた』に限らず私はここ数年来の私の詩の、へんに思わせぶりなもたつきに嫌気がさしています。詩というものは、もっとスカッとした結晶体であるべきです。私の詩がそれに近づけないのは、ことばがもつ属性の一つにしかすぎない「意味」に、しゃにむに一切の荷を負わせようとする古さが、今もって私を支配しているからです。
 しかしまあこの機会に気分だけでも新にして、年齢なみ才能なみのささやかな努力をしてみようと思います。
 『日本児童文学 1976.7』ほるぷ1976.7

 まど・みちおの謙虚さというか、自己否定の思いはよく伝わってくるが、肝心の『植物のうた』についての説明は、何かしら「科学的な」説明に終始しているようで、科学的には「正しいこと」を言っていると思われるが詩的な作品を解くヒントは十分語っていない。

 そういう意味では私としては、詩的作品として読めば、最初に刊行された『物のうた』が、飛び抜けてすぐれていると思わないわけにはゆかない。すぐれているから、まど・みちおはこの詩集から刊行し始めたのである。なので私はまず、この詩集の大事な所を取り上げて説明した。その理由を説明するためには、この詩集の目次の説明が不可欠になる。


 1 『まど・みちお詩集④物のうた』

 この詩集はなぜ『物のうた』と題されているのか。この問いはこの詩集で言われる「物」とは何かにつながる。そしてこの「物」を扱う詩集の目次は、大きく三つに分けれているのである。

 橋……「大きい物」のうた
 ガーゼ……「きれや紙の物」のうた
 ゆびわ……「小さい物」のうた

 なぜ「物」が、こういう三つのブロックに分けられるのか。
 まど・みちおの考える「物」とは、二つの側面を持っている。一つは、「橋」としての「物」の側面である。人と人とを「橋渡し」するもの、それが彼のいう「物」だとされる。もう一つの側面は、「物」とはすべて「容れ物」だという側面である。こういうふうに見積もられるこの作品の「物」は豊かな内実を持っている。通常の「物」の定義からは想像もつかないところが描かれる。しかし「物」が、この二つの側面を持つことに気を止めることができないと、この詩集の大事な詩的テーマを読み飛ばしてしまうことになる。
 まず最初のブロックは「橋」としてひとくくりにされている。


橋……「大きい物」のうた

 橋
 橋をわたるとき
 お宮 の 石だん
 タイル の かべ
 ゆうしてっせん
 たたみ
 いれもの
 かがみ
 いす

ガーゼ……「きれや紙の物」のうた
 ガーゼ
 ぼうし
 ぞうきん
 タオル
 スリッパ
 スリッパ
 てちょう
 ページ
 凧(たこ)
 かきくずし

ゆびわ……「小さい物」のうた
 ゆびわ
 ボタン
 毛ぬき
 ラッパ
 こま
 ふうりん
 チョコレート
 青えんぴつ
 けしゴム
 コップ


 
  橋

川は空を見あげて 流れています
空はひろいなあと 思って流れています
川は空を流れたくて 流れています

橋を渡るときに わたしたちの体が
なんとなく
すきとおつてくるような気がするのは
きっと わたしたちが
川の憧れの中を 通るからでしようね

そして 川の憧れの中には
昔の人たちの憧れも
まじっているからでしようね

川のあちらがわへ 渡りたいなあ
どうしても渡りたいなあ と考えて
とうとう橋をかけてしまった
昔の人たちの憧れも


 この詩は、一見すると、川にかかった橋を描いているように見える、が、描かれているのは、川と空の間の「橋」である。川は空を見上げて、空を流れたいなあと思いながら、流れている。その「思い」、その「憧れ」の中を、人間は人間の通る橋を架ける。するとその人間の橋は、川の「思い」や「憧れ」の中を通ることになる。すると、その思いや「憧れ」が人間にも伝わってくる。渡れないところには橋を架けると渡れるという「思い」や「憧れ」が。


  橋をわたるとき

橋をわたるとき
ぼくの手は いつだつて
したしそうに
そのらんかんを たたいていく

たとい初めての橋であつても
ぼくが しらないまに
ひとり はずんで

まるでぼくと ぼくの手の間柄よりも
ぼくの手とらんかんの間柄の方が
より深いのだというように

物が手の高さに
手のいく方へ
どこまでも つづいているとき
手は思わず はずんでしまうのか
二本の前足から 初めて手に変わった
ぼうぼうの昔の日の感激を思い出して:

物が そこにあれば
それを つかみ
なげ
たたき
力いっばい抱きしめることさえ
できるのだと しった その日の
天にものぼる 感激を思いだして…


 橋を渡るときに僕の手はいつも欄干をたたいている。なぜそんなことをするのか。詩では、「私」が「物」を触る前に、先に「手」が「物」に触ろうとするようにできていたからだと。それは、私たちが昔は四つ足で走っていて、四つ足なら、必ず先に「前足」が、「物」に触れていただろう。その「前足」が、人間になって「二本の手」になった。でもその四本足の時の記憶があって、ついつい橋を渡るとき、前足で蹴っていたように、欄干を手で叩いているのではないかと。
 しかし、そんなことが言いたいためにこの詩を作者は描いているわけではない。作者が言いたいのは、「橋」とは実は人間の「手」の延長だということについてなのである。こちら側と、向こう側、こちらの岸と向こう岸。その分離されたものを、「手」を伸ばしてつかもうとする思いが、「橋」を作ってきたのである。「橋」とは「手」なのだという思い。そして身体の中で「手」は実は、「私」と「世界」との間に架ける「橋」として生じてきていたということ。そういう「橋」のことをすでに語っていたのは、哲学者ジンメルの『橋と扉』だった。


 「お宮の 石だん」

お宮の高い石だんを
空からのように おりてきて
ふと ふりかえるのは
何への さようならなのか

いま鼻のさきが
一だん一だん おりてきながら
空気のうえに かきのこしてきた
あの見えない だんだんへか

あの あたしの だんだんで もう
きんぱつ なびかせている
あの今日の そよ風たちへか

明日へ かけのぼりながら
あんなに昨日へ かけおりてゆく…


 石だんや、階段というのは、作者が早くからくり返し取り上げてきた大事な詩的光景である。階段は、「下」と「上」に掛ける「橋」のことである。しかし、この「詩」では
「お宮の高い石だんを/空からのように おりてきて」
と書いている。ここでの「石だん」は、「空」と「大地」に架ける「橋」のように見られている。そして「ここ」まで降りてきてしまっては 、ふりかえっても、もう空からの階段は「見えない」。それでも「ふりかえる」。その階段に何か書き残してきたことがあったかのように。でも今はその空に「そよ風」が吹いているだけだ。私たちは、その階段を、きょうも上り下りしている・・・


 
  ゆうしてっせん

子どもの遊び場もない この町の
まん中に ねそべって
値上りを待っている
この だだっぴろいあき地のまわりに
はりめぐらしてあるのは 何か

はりめぐらした人は
いまここに いないが
いまここで こんなにぎろぎうと
四方八方を にらみまわしているのは
その いない人の
にくにくしげな目だまの行列だ

はいるな!
ちかよるな!
つきさすぞ!
ひきさくぞ! と

年がら年中にらみつづけているうちに
いつか からだ中が
目だまだらけに なってしまった
その人の…

風と遊んで すきとおり
トゲトゲはりがねなどは
とうのむかしに どこへやらで…



 突如「有刺鉄線」のような詩がくるので、作者どうしたのだろう、と思う人がいるかもしれない。戦争でしばしば使われてきた「有刺鉄線」。
「子どもの遊び場もない この町の/まん中に ねそべって/値上がりを待っている/この だだっぴろいあき地のまわりに/はりめぐらされてあるのは 何か」
と書かれると、なにか社会派の抗議の詩のように見える。作者は突如社会派詩人になったのか。
 「有刺鉄線」は、確かにそれは、「壁」の比喩である。「壁」は「橋」と反対のものである。「向こう側」と「こちら側」の間に立てかけて、「橋渡し」を拒む。当時の「ベルリンの壁」のようなものまでがイメージされているのだろうか。人々の行き来を阻むように張り巡らされるのが「有刺鉄線」なのだから。
 詩の題は、そういう「有刺鉄線」ではあるが、作者はそれを「目」だと言っている。「有刺鉄線」は自分を無数の「目」にしていると。監視の目。詩の光景は、空き地に張り巡らされた監視の目であるが、作者の思いは、その「目」を「はりめぐらせた人」に向けられている。
 この詩が「子どもの遊び場」もない町の「空き地」に、有刺鉄線を張り巡らし、誰も入れないようにして土地の値上がりを待つ者への抗議の詩だけによまれないとしたら、この詩は、どこにつながる(橋渡しする)詩なのか。
 おそらくは、」この詩集の二つ目のブロックが「ガーゼになっているところにつながるものである。詳細はその時に触れることになるが、ガーゼは、バイ菌が傷口から体内へ入ってこないための、いわば「有刺鉄線」の役目を果たし、監視しているからである。
 この詩を読む子どもたちに、「壁」が「悪者」と決めつけるような読み取りをしないように作者は注意を払っている。「壁」には、何かを守ってるところもあるからだ。


 「たたみ」

そこに インキがこぼれたとき
おばあさんは あわてました
おやまあ こんなところに
たたみがいたのか‥‥

 おばあさんが、こぼしたインクを拭いている。そしてふと、「こんなところ」にいるたたみに気がつき、そして「たたみ」のまわりに「ふすま」や「しょうじ」や「てんじょう」のあることにも、気がつく。詩だけを読めば、日常の一コマを切り取っているように読める。しかしこの詩を、「ゆうしてっせん」の詩と対比させれば、別な光景が見えてくる。
 それは、このおばあさんが、実は「たたみ」や「ふすま」や「しょうじ」や「てんじょう」にまもられてそこにいるという光景である。それらは、「壁」としておばあさんをまもっていたからである。そのことに気がついて
「きまり悪いような/恐ろしいような気がしてくるのでした」
 なぜ「恐ろしい」というきつい言葉を、ここで作者は使うのか。「たたみ」のまわりの「ふすま」や「しょうじ」や「てんじょう」が、おばあさんを「見おろしている」ことに気がついたからだ。「壁」は、私たちを守ってくれていると同時に、まわりを遮断し、監視してくれているものでもあったからだ。
 そして、このあと「いれもの」という重要な詩がやってくる。


  いれもの

いれられないもの
はいらなければ
はいつても そこに なければ
そこに あっても からでなければ
からであっても それだけしか
それだけでも いれなければ
いれられないもの
 (一行づつ空いているが、ここでは詰めている)


 よく読まないとイメージはピンとこないかも知れない。例えば、ジュースがある。ジュースと呼びうるものは、ビンやコップに「はいらなければ」ジュースとは言えない。空中に浮かんでいるわけではないからだ。でも、その前に、、そのビンやジュースが、「から(空)」であることが必要だ。何かが入っていたら、そこにジュースは入らないからだ。
 でも「から」であったとしても、そのからの大きさの分しかジュースは入れられない。いっぱいジュースがあっても、ビンやコップの大きさの分量しか入れられない。そして詩は、次の二行で終えている。
 「それだけでも いれなければ/いれられないもの」
なぜ作者はこんな詩を書こうとしていたのだろうか。この詩の「いれるものが」を、ジュースに譬えたので、この詩は少しはわかりやすくなったかもしれないが、違う例を出すと、すんなりとはわかるようにはならない。
 こういう詩の書かれる背景には、「りんご」のしがそうであったように「台湾体験」がある。「いれるもの」を戦時中の「日本」、「いれもの」を戦時中の「台湾」と考えさせる何かが、である。「日本」が「そこ」に入るためには、「そこ」が「から(空)」になっていなければならない。でも「空」ではない。「から(空)」でもないのに、戦時中の「日本」は「台湾」に入ろうとしていた。としたら、無理にでも「空」にしなければならない・・・。
 しかし、最後の一行は、「それ」は「いれられないもの」だったと言っている。この詩の一行目も「いれられないもの」と書いているのは、そこをいいたいがためである。このことを踏まえて、この詩にことばを補えば、次のようになるのではないか。

いれられないもの(がある)
はいらなければ(と思うものがいる)
はいっても そこに(同意が) なければ
そこに あっても からでなければ
からであっても それだけしか(スペースはないのです)
それだけでも いれなければ(とまだいうんですか)
いれられないもの(はあるんですよ)

 次の詩も、特別な読みを重ねて読まないと、大事な所を見失ってしまう。


  かがみ

かがみを 見た

のではなかった
うつっている青空を 見たのだ

とんでいって ぶつかり
おっこちた とき
はじめて かがみを見たのだ

どんなに ふかい海だったろう
しずむように しずかに
死んでいった スズメには

大そうじの 家の
えんがわに でていた かがみが


 戦時中の戦闘で海に消えていった人たちへの知られざる鎮魂歌としても読める詩だ。哀しいのは、スズメたちの見ていた「美しい青空」がじっさいに「青空」ではなく、鏡に映された「虚構の空」だったというところであろう。戦時中、海に散った戦士達の遺言を集めた『きけわだつみのこえ』には「美しい虚構」という詩が巻頭に掲げられていた。その「美しい虚構」に向かって、スズメたちは飛んでいって、「ぶつかり」「おちて」そして「ふかい海」に消えていった。しかし、詩はその隠された意図をさとられないように、最後に二行を付け加えている。その鏡は、「大そうじの 家の/えんがわに でていた かがみ」なんですよと。
 そして、次に「いす」の詩が来る。


  いす

ここに くると
どんな人でも からだを折曲げます
どっかりと
やれやれと
いそいそと
しょんぼりと
なにげなく
いぎたなく
とくいげに
われさきに

せかいじゆうに ないそうです
こんなに よく守られる きそくは

そして
こんなに おもしろい けしきに
目を みはる人も


 「いす」のモチーフも、早くから詩にされてきた。「いす」と題材の、どこがそんなにおもしろいのかと思われるかも知れない。「いす」と対比されるのが、先ほどの「いれもの」という詩だ。実は、「いす」も「容れ物」と作者によって見なされているからだ。「いす」も「容器」なのだ。そこは限られた小さな器なので、座る(入り込む)には、「からだを折曲げ」なくてはならない。しかしそれでも、そこに座れる人にとっては、そこは座れる場所なのだ。そして、世界中の「いす」には、そこに座れた人以外には座れないという、「規則」がある。先の「容れ物」の詩に次のようにあったではないか。
 「そこに あっても からでなければ」
と。だから、映画館や新幹線に「自由席」があっても、誰かが座れば別な人が座ることはできない。そういう「自由」はない。それが嫌ならさらに「金」を積んで「座席指定」を買い取らなくてはならない。
 そういう意味で「いす」は確かにそこに座る人、座れる人を、守っている。「ゆうしてっせん」のように。そういう意味では、この詩は、「ゆうしてっせん」の詩とも対比させられている。しかし、この「いす」というものが、発明されることで、そこに座れる人と、座れない人との差が生まれてきたことも確かである。
 だから「われさきに」ということが起こってきた。そこから人類の一番の発明がなされた。「大王の座る椅子」の発明である。ここには、たった一人の人しか座れない。(『てんぷらぴりぴり』考でも考察している)。
 このいったん座ってしまえば、他の人を寄せ付けない、壁を作る。玉座に座る「王」は守られる。そういう意味では、「いす」は「橋」には成り得ないところがある。
 だから「いす」という詩は、最初の「橋」という詩の対極に置かれていることもわかる。そのことを踏まえて、この最初のグロックの詩の全体を見てみると、「橋」→「ゆうしてっせん」→「たたみ」→「いれもの」→「いす」→「橋」とサイクルのようにつながっていることがわかる。
 この詩集が『物のうた』となっている「物」とは、このような一続きの豊かなイメージを内包させているものであるところは見のがしてはならない。


ガーゼ……「きれや紙の物」のうた

 ガーゼ    入れ物の破れを守るもの
 ぼうし
 ぞうきん
 タオル
 スリッパ
 スリッパ
 てちょう
 ページ
 凧(たこ)
 かきくずし


 「ガーゼ」

ワタの糸と 空気の糸とが
格子に織りあげただけのように
見えるけれど…

ガーゼのすみきった目には
ありもしない敵と味方の区別などは
見えはしない
そこにある 傷口と
そのために泣いている生命だけしか

ガーゼは 傷口によりそい
生命を まもりぬく
まっ白く かるい
花びらのような やさしさで
どんなに どす黒く重たい
武器たちの にくしみからも

ワタの糸と 空気の糸と
それから どんなにすばらしい糸とが
格子に織りあげたのか
ほんとうは 
ガーゼを


 ガーゼは、傷口を守ってくれる大事なものだ。今では絆創膏やカット絆のようにして売られている。子ども時代にはよくお世話になるものだ。でも、そんな「ガーゼ」を詩にしたものを、誰も読んだことがないのではないか。また詩になるとも、誰も思っていないのではないか。
詩は次のようにはじまっている。
 「ワタの糸と 空気の糸とが/格子に織りあげただけのように/見えるけれど‥‥」
確かに、そういうふうにしか見えないものだけど、詩人にかかると、そうではない。「ガーゼ」は戦いの最中には、敵と味方の区別なく傷口に当てられ、負傷者を守っている。「武器たちの にくしみからも」と書かれているので、子ども向けのカット伴のように理解するわけにはゆかない。その詩には、やはり「戦争中」の臭いがただよっている。「ガーゼ」と「戦争」と。
 でも作者の見つめているのは、「戦い」の方ではない。ガーゼが格子になっている姿の方である。「格子」とは何か。「ワタの糸と 空気の糸とが」が「手」を差し出し、橋渡ししているものである。つまり「格子」とは「壁」であり「橋」でもあるものだ。その「格子」状になった「橋」が、「壁」となって傷口を守っている。ここで、ワター糸―格子―ガーゼー武器―傷口―壁―橋・・・というイメージがつながることになる。
 この「ガーゼ=壁=橋」が守るのは、「容器としての身体」の裂け目である。その裂け目の間に架ける橋である。通常は、ガーゼ(橋)を架けるとは言わずに、傷口を塞ぐという言い方をされる。
 傷口ということばには「口」がつく。身体=容器には、通常の入口と出口の「口」があるが、傷口は、それいがいに「口」という「穴」を作り出す。
 身体はそこに大きな穴が空くと、身体自身で守ることができなくなる。そこでガーゼにお願いすることになる。ガーゼにも「格子」の穴があるが、それは空気が入りやすいがためで、空気と糸との格子で、大きく開いた傷口を塞いで守ってくれる。そういう意味では、ガーゼと綿と糸と格子と生き物の身体と容れ物は、なんと似ていることだろうとおもわないわけにはゆかない。


  「ぼうし」

ふつうの入れ物とは違うのだというように
いつも 天に近くいて
あけた大口は 下に向け
はるかな所へ 目をあそばせ
太陽と雲と風だけを友だちにしていた

それが ある日とつぜん
その大口も やぶれてしまえと
げらげら がらがら笑いはじめたのだ
風に またがって
はげ頭を あとに
いっさんに かけだしながら

そして その大きな大笑いのまま
そこの掘割に とびこむと
その笑いを
惜しむかのように
楽しむかのように
時間をかけて笑いしずんでいったのだ
家来のようについてきた
やまびこだけを したがえて…

大口が 何を笑ったのかは
だれにも わからなかった


 「ぼうし」が容器や入れ物と見積もられている。だから「口」がある。それも「大きな口」が。でもそれは、頭に被るための「穴」で「口」ではない。でも作者は、その穴を「大口」と見なすばかりに、げらげら、がらがらと笑いはじめ、風にまたがって飛んでいった。そして、掘り割りに落ちて、沈んでいってしまった。笑いながら。
 ここにも帽子という「物」が、「容器」とみなされ、「口」を持ち、笑う者とみなされ・・という、てんてん、てんまり、てん手まり、てんてん手まりの手がそれて・・垣根を越えて屋ね越えて・・・と歌われてきた「鞠と殿さま」( 作詞 西条八十 作曲 中山晋平)ににたショート・ストーリーを思い起こさせる展開の詩だ。「ぼうし」も「てんてんてまり」も、生き物のように飛んで行く。


  ぞうきん

雨の日に帰ってくると
玄関でぞうきんが待つていてくれる
ぞうきんでございます
というしたしげな顔で
自分でなりたくてなったのでもないのに

ついこの間までは
シャツでございます という顔で
私に着られていた
まるで私の
ひふででもあるかのように やさしく
自分でなりたくてなったわけでもなく

たぶん もともとは
アメリカか どこかで
風と太陽にほほえんでいたワタの花が

そのうちに
灰でございます という顔で灰になり
無いのでございます という顔で
無くなっているのかしら
私たちとのこんな思い出もいっしょに
自分でなりたくて そうなるのでもなく

ぞうきんよ!


 「ぞうきん」は有名な詩だ。子ども向けの詩集にはいばしば入れられている。わかりやすいからか。ついこの間まで、「シャツでございます」という顔をしていたのに、いまでは仕立て直しされて、「ぞうきんでございます」という顔をして、雨の日の玄関で待っていてくれる、という、そういう詩として読まれる。それが、ユーモラスなのか。でも、次のようなことも書いてある。
「たぶん もともとは/アメリカか どこかで/風と太陽にほほえんでいたワタの花が」
と。その「ワタの花」がいつのまにか「シャツ」になり、いつの間にか「ぞうきん」になり、いつの間にか「灰」になり、ついには「無いのでございます という顔で/無くなっているのかしら/私たちとのこんな思い出もいっしょに」と。「自分でなりたくてそうなるのでもなく」と。
 最後の「ぞうきんよ!」という呼びかけは、何に向けての呼びかけなのか。それは、「ぞうきん」の出自や歴史に対してである。「ぞうきん」には「ぞうきん」のやってきた、道筋があって、その道筋をたどれば、君は「ワタの花」にゆきつくのだよ、それを忘れてはいかんのだよ、「ぞうきん」よ、と。
 少年のための詩として読む人の理解はここまで止まりなのだが、まど・みちおのイメージはもっと広げられる。もし、仮に、まど・みちおが21歳の時に体験したの「霧社事件」(1930年10.27)を想定すれば、日本に反乱した「セデック」の人たちは、自分たちが「セデック」の一員であったことを忘れるなという旗印の下に武装蜂起したのだった。たとえ日本から「ぞうきん」のように扱われていても、「ワタ」であったときの誇りを忘れるなと。
 そんなことまで、読み取る必要があるのかといわれたら、ない、ともちろん私は答えるだろう。まど・みちおもそう答えるだろうと思う。詩とは、そんなものだと思っているには、そんなものだというくらいにしか読みとらない。
 しかしこの詩には、「「元は何であったか」という問いかけがある。台湾時代に生まれた、まど・みちおの詩の固有の発想である。「元をたずねる」という発想の詩である。次の「ページ」という詩を読むときにもその発想に出会うだろう。


  ページ

読んでいる人は 気がつきません
でもページは めくられるときの
わずかな風に
一しゅん
目をさまして 見るのです

心の中の ふるさとの
二どと かえれない林を
風にそよぐ みどりの木木を
「立つ」という形に かがやいている
じぶんたちの すがたを

人が 二〇〇ページの本を読むとき
ページは 一〇〇たびも見るのです

「じぶんの目」ではなくて
なぜか もう それしかない
「じぶんたちの目」で
ひとごとのように…


 そもそも「ページ」そのものは、ない。ただ本には、通し番号が付けられていて、その面を「ページ」と呼んでいるだけだ。もし番号が付いていない本があれば、開いたところは「ページ」ではない。そこには「紙」があるといえばいいのか。
 理屈っぽく言えば、ページの元は「紙」であり、紙の元は「木」だ。でも、ページをめくるときには、そんな紙のことも、「木」のことも、気にとめない。それでも、ページはきっと、めくられるときの一しゅんに「ページ」は「目をさまして 見る」のではないかと作者は書き付ける。
 「心の中の ふるさとの/二どと かえれない林を/風にそよぐ みどりの木木を/「立つ」という形に かがやいている/じぶんたちの すがたを」
 ここにも「元をたずねる」という発想がある。その発想は「ぞうきん」と連動している。


  凧

糸のありったけを のばすと
凧は とおく
切手に なって
空に はりついた

たえまなく
天地をゆすぶる 低いつぶやきが
とめどもなく 大きくなってくる

どこへなのだ
この空を
宇宙のどこへ送りつけようというのだ
と 問いつめようとするかのように

父や母を はなれて
今 ここで
こんなに ぽつんと
ひとりぼっちでいる ぼくを


 凧を空に貼り付けた切手のように見える、という感性は異質だ。凧あげをしながらそんなことを想像する人はおそらくいないと思われるから。というのも、凧を切手に見立てるのはいいとしても、それを貼り付ける「空」はあまりに広大だから、それをハガキに見立てるのは無理がある。だから「天地」も戸惑っている。そんなはがきを作ってもらっては困ると。それでも作者は、その無理を通そうとする。そこで「天地」は尋ねる。
「どこへなのだ/この空を/宇宙のどこへ送りつけようというのだ/と 問いつめようとするかのように」
 この無理な思い、無理な願いはどこから生まれてきているのか。
 たぶん、この詩を理解するためには、最後の4行をどう読むのかということに掛かっている。この4行は、まど・みちおの少年期の思い出に重なっているからだ。そのことを踏まえて詩の全体を見てみると、自分だけをおきざりにして台湾へ行った父母に、何がどうしても連絡が取れない「ひとりぼっち」の自分の思いが、この空に貼り付けるはがきとしてなら届けてもらえるのではないか。そう「天地」にお願いしているような詩に読めるのである。


ゆびわ……「小さい物」のうた
 
 ゆびわ    指輪―虹―小鳥 橋渡し
 ボタン     性的
 毛ぬき
 ラッパ     進軍ラッパ
 こま
 ふうりん
 チョコレート
 青えんぴつ
 けしゴム
 コップ



  ゆびわ

森でひろったオパールのゆびわを
夕やけの おひめさまに
さしあげたとき

オパールは
おひめさまの手の中で はじけて
中から小さな 虹がたった
ゆめのように かすかに

ぼくは あのゆびわは
ねぼけた小鳥が作ったのだと思う
いねむりはんぶんに
自分のあくびを 朝つゆにくるんで
オパールにして

なぜかと いえば
あのあと すぐ
おひめさまの くちびるからも
ゆめのように 虹がたった

つづいてぼくの口からも…


 メルヘンのような甘い光景を想像する人がいるかもしれない。でも、なぜ「ゆびわ」なのか。「ゆびわ」は、おそらく「橋」なのだ。誰かと誰かを結ぶ「橋渡し」なのだ。そのことを踏まえて詩を読めば、甘いメルヘンには読みにくい。
 小鳥が寝ぼけて作った「ゆびわ」。あくびを露草にくるんでオパールにしたもの。それを夕やけのお姫様に差し上げると、手の中で「虹」がたったという。虹もまた「橋」だった。小鳥から夕焼けのお姫様へ、ゆびわという形で、あくびや露草が贈られる。生まれてはすぐに消えてゆくあくびや露草は、夕やけのお姫様の手の中で、はじけて虹になる。それもすぐに消えてゆくものである。


  ボタン

ボタンを
しっているからボタンなのだ

ボタンに
つくられているからボタンなのだ

ぼくたち
にんげんに とって…

せかいで 一ばんみじかい
トンネルを
でたりはいったり するのが
しごとの…

で なになのだろう ボタンは
ボタンに とって…
宇宙に とって…


 「ボタン」がしているのは、向かい合った「二つの布」の「向こう岸」と「こちらの岸」の間に「橋」を掛けることである。
 「橋」がわかりにくければ、北海道と青森を結ぶ、海底トンネルのようなものを想定してもかまわない。詩には、「せかいで 一ばんみじかい/トンネルを/でたりはいったり するのが/しごとの…」と書かれてもいるからだ。
 しかしそれにしても、「ボタン」と「トンネル」を発明した人は、すごいものを発明したものである。二つの布は、小さなボタンと小さなトンネルでむすびつけられる。二つの布があっても、「ボタン」だけはダメなのだ、「トンネル」もなければ。そして、そのトンネルをボタンが潜れなければ。そうすると、やはり「ボタン」は「架け橋」なのだということがわかってくる。それも、掛けたり外したりできる、融通のきく橋として。
 ひょっとしたら、生きものたちは、みんなそんな「ボタン」と「トンネル」をもって、つながったり、はなれたりいているのではないだろうか。
「で なになのだろう ボタンは/ボタンに とって…/宇宙に とって…」


  こま

ぼくを はなれて
けんめいに まわりはじめた
ぼくの力の小さな宇宙
の 中のおくまんの星座
の 中のとある一つぶの星
を どんなにぼくは見たいことか!

その 星から
まっすぐ 一すじに
ふるさと ぼくへと注がれている
矢の まなざしを
反対に たどりさえすれば
見えるはずなのに!

でも いい
この 大宇宙の
はるかな ぼくの力のみなもとに
いらっしゃる お方にだけは
見えているのだ!

手にとるように!


 こまといっても、世界中には様々な形のこまがある。共通しているのは、一本の軸と重心と回転だ。垂直でなくて、斜めでも、こまは回る。大事なことは、一本の軸があるということだ。そしてそれが生命体の姿に重なる。「生命」とは「こま」のように回っているからだ。
 回るのを止めれば、こまは倒れる。回っていれば斜めでも回る。有名な「キリン」という詩に、「天に対して/やや ななめ/地に対して/やや ななめ」というのがあった(『まめつぶうた』)。「ななめ」でも、生命体は回る。
 ところで、回っているものと言えば「地球」も回っている。少し軸を斜めにして。そして銀河系も回っている。なんだみんな回っているんじゃないか、みんな、こまだったのかと。とすれば、「ぼく」のなかにも「宇宙」があるのではないか。
 作者は、そこで「ぼく」のなかの、「宇宙」に回るコマの一本の軸に気を止める。矢印のような軸。それが、「まっすぐ 一すじに/ふるさと ぼくへと注がれている」と想像する。その矢印は、「矢の まなざし」のように想像される。
 おそらく、その矢印をたどれば、このこまを回している「力のみなもと」にたどりつけるのではないかと。「こま」をそこまでの想像力で描こうとした詩はないのではないか。こまや地球や銀河や生命体を回している「力のみなもと」には何があるのだろう。


  ふうりん

みんなが ざしきに あつまって
すいかを たべていると
えんがわで ふうりんが なった
ちりん ちりん
ちんちり ちりん…と

きんぎょばちの きんぎょたちに
ドロップスを まいてあげるように

みんなが でかけて るすになると
また えんがわで
ふうりんが なった
ちんりん りんりん
ちんちろりん…と

るすぱんの きんぎょたちに
ゆかいな うたを
きかせてあげるように


 風流としての風鈴を歌った歌はたくさんある。この詩の「ふうりん」は、そういう風流や風物詩とは違っている。この詩で描かれる「ふうりん」は、家の人たちがみんな留守になった時にでも、「ちりん ちりん」となって、金魚鉢の金魚に「ゆかいな うた」を聞かせてあげようとしている。だから音色を変える。「ちんちり ちりん」「ちんりん りんりん」「ちんちろりん」・・
 風鈴は、誰も相手にしなくなった金魚に、音色で「橋」を架けようと努力しているのである。

 
  チョコレート

どこにもない
たべてしまったチョコレートは
もう どこにも

ロの中は まっくらで
星がながれて きえたようだ
にじがうすれて きえたようだ

でも まだ やまびこだけは
かえって きそうで

まっている
まっている

くらやみの中で
ひっそりと ひとり
わたしか だれかが…


 食べたチョコレートは、口の中で、お腹の中で、溶けてなくなってしまう。けれどもどこかにいて、いますようと「やまびこ」を発しそうな感じがしている。その「やまびこ」を聞くのを待っている「わたし」が居そうだという。
 何か妙なことを言っている詩だ。「溶けたチョコレート」は溶けて、形を変えて、身体のいろんなところに入り込んで、身体を支えているのだが、溶けてしまった時点で、私たちは、チョコレートは無くなったとみなしている。でも、形を変えて、見えないところに居るとなると、まだチョコレートはどこかに「いる」わけだ。でも、姿形はなくなっていて「やまびこ」だけがかすかに聞こえている・・・。
 この「チョコレート」はきっと作者自身のことだろうと思う。もう、溶けて、「消えた」ようになりつつある。でも、ここにいるんだぞ、と言う思いもある。見つけてもらいたいと思っている。「まっている」とは、「きえている」のに、どこかにいるチョコレートの声である。暗闇の中でひっそりと誰かが見つけてもらうまで「まっている」という。(この詩は「かくれんぼう」『まめつぶうた』の詩にどこか通じている。)
 ここには、溶けながらも形を変えて、何かに貢献している生き物の姿が見つめられている。それは、ワタの花が形を変えて、シャツになり、ぞうきんになってゆく姿と同じようなところ見つめている「ぞうきん」の詩にも深く通じている。そこには、
「そのうちに/灰でございます という顔で灰になり/無いのでございます という顔で/無くなっているのかしら/私たちとのこんな思い出もいっしょに/自分でなりたくて そうなるのでもなく」と書かれていた。


  けしゴム

自分が 書きちがえたのでもないが
いそいそと けす

自分が書いた ウソでもないが
いそいそと けす

自分がよごした よごれでもないが
いそいそと けす

そして けすたびに
けっきっく 自分がちびていって
きえて なくなってしまう
いそいそと いそいそと

正しいと 思ったことだけを
ほんとうと 思ったことだけを
美しいと 思ったことだけを
身がわりのように のこしておいて


 「消しゴム」のモチーフの詩は早くからある。
「じぶんで じぶんを/けしたのか/いまさっきまで/あったのに」(「けしゴム」『まめつぶうた』)。
 「消しゴム」にそういう姿をみる視点に、きっと読者は、新鮮な視点を感じてこられたのではないだろうか。消しゴムは、ふつう何かを消すものとしてあると思っているわけで、まさか、自分で自分を消すためそこにいるなんて、想像もしないからだ。
 ここでは「ウソ」と「消しゴム」の対比がされている。「ウソ」やら「間違い」やらが出てくるから「消しゴム」の出番となる。


  コップ

コップの中に 水がある
そして 外には 世界中が

コップは世界中に包まれていて
自分は 水を包んでいる
自分の はだで じかに

けれども よくみると
コップのはだは ふちをとおって
内側と外側とが一まいにつづいている

コップは思つているのではないだろうか
自分を包む世界中を
自分もまた包んでいるのだと
その一まいの はだで
水ごと すっぽりと

コップが ここに坐ッて
えいえんに坐っているかのように
こんなに静かなのは…


 この詩で、「コップ」が、物理の現象のように見られているように勘違いされてはならない。ここで詩にされているのは、「包んでいる」と思われているものも実は「包まれている」のだという、相互関係についてである。「哲学」と呼ばれる分野が、昔からとても好きだったテーマである。そのテーマが、こんなにわかりやすく詩にされている。この「内」と「外」がつながっているというか、相互に包みあっているということを、絵に描いたように「理解」することはできないような気がする。というのも、この詩の「コップ」は、実は私の「身体」のことでもあるのだから。「コップは思つているのではないだろうか/自分を包む世界中を/自分もまた包んでいるのだと/その一まいの はだで/水ごと すっぽりと」
 この詩では、コップと世界が、包み合いをしているように、コップを身体としたら、身体と宇宙が、包み合いをしているということになる。そのような詩的イメージを、でも、「詩」以外にどうしたらうまく「理解」できるのだろうか。