過去のエッセイ

京都新聞 掲載一覧

布施柿の心
記念日について
お地蔵さん
七夕と織姫のこと
のみのすくねの墓
いごもり・ひまち・とんどさん
「かごめ・かごめ」考
「かまへん」という言葉
世にも美しい池
隼人、この「都」の「南」を守った人たち
異稿 隼人、この「都」の「南」を守った人たち
「鉄人28号」のゆくえ
方言の季節
「こよみ」という思想
社内じんるい学
さざれ石の巌となりて
シンデレラの靴
「少年」の表記への懸念
異稿 「少年」の表記への懸念
14歳―その心の風景

 

「相手」を見いだす作法  ー「SEITO百人一首」短歌コンクールへの感想



布施柿の心   

 布施柿という言葉を知ったのは、50歳をすぎてからであった。テレビを見ていたとき、どこかの地方でそう呼んでいる柿があることを偶然に知った。そんな柿があるんだ、と思った。大げさではないが、軽いショックを覚えた。 

 布施柿というのは、木になった柿の実を全部取ってしまわずに、いくらかは残しておいて、鳥たちへの「お布施」のようなものにしている柿のことである。鳥たちのことを考えて柿を残しておくというのは、考えてみたら、すごい発想だなと思った。かつて私の家の庭にも柿の木があった。でも布施柿という言葉は知らなかった。ひよっとしたら、近所の人はみんな知っていたのかもしれないが、私は知らなかった。知らなかったというだけではなくて、たぶん、もっと若い頃に聞いていても、こんな言葉に心を止めることはできなかったかもしれないと思う。 

 この布施柿という言葉の何がすごいかというと、そこに「自分の周りには他の生き物が居るんだぞ」ということをさりげなく教えてくれているところであろう。私はこの言葉を知ってから、それまでの秋の稲刈りの後、刈り残した穂はもったいなので丁寧に拾っていたのに(まさにミレーの『落ち穂拾い』の絵のように)、鳥が食べるかもしれないと思って、無理に全部拾わなくなってきている。 布施柿の心とは、全部取らないで、少し残しておく心のことだが、残す、というのは、微妙な心構えだと思う。あげるとか、めぐむとかいうのではなく、そんな恩着せがましさや、やってあげているというものではなく、ただ残しておこうとする心の動きである。それは、ものを残すということだけはなくて、人間の心に中に、他の生き物のことを思うゆとりを残しておくという意味でもあるような気がする。布施柿、こんなたった三文字の言葉を知っただけで、こんなにも心が広がるのは、不思議な感じがする

京都新聞 2005.11.13

 

記念日について  

 記念日というのは不思議なものだ。「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」俵万智という有名な短歌を思い出すと、なおさら記念日が不思議なものに見えてくる。誕生日にしろ、結婚記念日にしろ、それを「記念日」にするということは、何事も忘れやすい私たちに、せめて一年に一回は大事な出来事を思い出そうという仕掛けを作ることであろうか。 

 確かに、記念日の根本には、それが一年に一回巡ってくる、という暗黙の了解がある。当たり前のことであるが、この当たり前というのが、どうも、わかりにくい。「記念日」は、別に一年に何回あってもいいではないか。でも、何回もあってはわずらわしい。一年に一回くらいでちょうどいい? いや、ちょうどいいのではなく、「暦」というものの作りでは、「記念日」は一年に一回しかめぐってこないようになっている。  

 先月の8月15日は、「終戦記念日」だった。これはわかりやすいけれど、若い人にはわかりにくくなっている。というのも、日本が正式にポツダム宣言を受け入れて連合軍に打電したのは8月9日であり、ミズリー号の艦上で降伏文書にサインしたのは9月2日なのだから、これらの日が「終戦記念日」となっていいはずなのに、8月15日にされてきた。もちろんそれは、この日に天皇のラジオ放送があったからだが、今では若い人たちは「15日」を戦争の終わった象徴的な日としてしかとらえてきていないと思う。なのに、「15日」でなければ「記念」をすることにならないとする雰囲気が毎年8月マスコミに流れていて、そういう「記念日」の設定の基準は、何かしら「わかりにくい」。 

 いま「記念日」へのこういう思いを巡らせているのは、8月の終わりに小さなエッセイを読んだからだ。それは、地獄絵のようなインパール作戦を戦い、負傷し、生き残ってきた義父の書いたエッセイだった。そこには、戦友の位牌は、靖国ではなく一人一人の家庭で供養されるべきものであるという思いが綴られていた。あれほど無謀で理不尽な戦争に多くの若者を駆り立てた当時の軍部や関係者の責任を、義父は忘れるわけにはゆかないという。 

 義父の「記念日」は、「15日」というような「終戦記念日」の一日にあるのではなく、有形無形に戦友の死を弔ってきた日々のすべてをさしているようだった。「弔う」とは、もともとは「とむらふ」といって、「問い・訪ねる」という意味をもっている。亡くなった人を「訪ね」、これでよかったのかと「問う」のである。それは一年に一回の「記念日」にこだわることではなく、もっと別のことであるような気が私にもしている。

 

お地蔵さん  

 「道端の草に埋もれた石地蔵あせた前掛けのみ見えている」。高校生、古谷望さんの作品(『SEITO百人一首2003』同志社女子大学)で、私の好きな短歌である。よくぞそんな「前掛け」しか見えないお地蔵さんに気がついてくれたもんだと思う。私の家の数分先には祠(ほこら・ルビ)があって、そこには、十体ほどの大小さまざまなお地蔵さんが祭られている。時折、年配の方が手を合わせてたたずんでおられる。少ししてから、近くを通るとまだ手を合わせておられる。お地蔵さんを拝む信仰が今も生きていると感じさせられるひとときだ。 

 お地蔵さんは、神様か仏様かという議論が昔からあるが、その両方の性格を持っているのだろうと私は思う。もともとお地蔵さんは、村はずれに置かれていた。隣の村や、村と山との境界に置かれていた。それは、「外」から「邪(じゃ・ルビ)」や「疫病(えきびょう・ルビ)」や「魔物」が入ってこないように村を守ってもらうためであった。そういうお地蔵さんは、「道祖神(どうそじん・ルビ)」という道行く人を守る神様の一つであり、のちに子どもの道行きの安全を守る「菩薩(ぼさつ・ルビ)」のイメージと重ねられていって、今のお地蔵さん信仰になっていったのであろう。そういえば、私の家の前には昔は大きなため池があり、水の大切さと、水の魔物から子どもを守るために、池の縁(ふち・ルビ)にお地蔵さんが置かれてきたように思われる。  

 近年、子どもたちが学校の登下校の祭に、さらわれ、殺害される残忍な事件が起きている。昔の人は、地域には死角があり、そこでは子どもが危険であることはよく知っていたのだと思う。そんな地域のセキュリティ(安全管理)が、お地蔵さん信仰で意識されていたように思えるからだ。もし、今の小学校で、昔のお地蔵さんがどこに設置されているのか調べ写真にとる機会があり、地域のお地蔵さんマップが作成できるならいいなと思う。昔と今の地域の危機管理が比較できるし、もともと「守る」という言葉の「ま」は「目」のことで、目を離さず見つめること、そのようにして守護することであり、そんな見つめるお地蔵さんを見つけることは、決して「古くさい話」にはならないような気がしているからだ。 京都新聞 2006.3.17

 

七夕と織姫のこと  

 七月七日の七夕祭は過ぎてしまったけれど、地方によっては七夕は8月のお盆の準備の祭りと考えられていたところもあるらしいから、まだ過ぎた話にはならないだろう。かつては、お盆の前に水で体の汚れを落とす「みそぎ」のような行事にしているところもあったらしい。意外なことに、七夕は「水」に関係のある行事で、古くはこの日に「雨乞い」の儀式をしていたとも言われてもいる。今の感覚では、七夕と雨乞いとは結びつかない気もするが、「願い事」をする日とすれば、田畑を潤す「水」を「願う」日として七夕があったとしてもそんなに不思議ではないかも知れない。 

 子どもの頃に聞いていた七夕の話は、恋人同士だった牽牛(けんぎゅう)と織女(しゅくじょ)が、遊びほうけて仕事をしないので、「天の川」で引き裂かれ、一年に一度しか会えなくされたという話だったが、「天の川」が出てくるのも「水」が関係しているからだろう。牽牛に「牛」がつくのも、おそらく農耕に関係しているからかもしれない。それにしても、七夕で気になるのは、なんと言っても「織女」のことである。一般には「おりひめさま」と呼ばれてきたが、「水」を求める行事に、なぜ「織姫(おりひめ)」がでてきているのだろうかと。

  私の住む精華町の昔の家では、二階で蚕を飼っていたという話はよく聞いていた。蚕から繭をとり絹を紡ぐという技術は、中国からもたらされたのだが、この辺にも「織姫」はいたのではないか。折口信夫(おりくちしのぶ)は、七夕の「たな」は水のほとりに作られた機織りの「棚」のことだと言っていた(「水の女」)が、木津川のほとりに「棚倉」という「棚」の地名が残っているのも、織物に関係があったからかもしれない。それにしてもなぜ「水のほとり」に「織姫」なのか。 おそらく「織姫」の原型は「水」を守る「水の精」のようなもので、うんと昔は「蛇」や「龍神」のようにイメージされていたものであろう。その「水神」が女性の巫女(みこ)のような姿に作り替えられ、その巫女が神に捧げる衣(羽衣)を織るところから「織姫」のイメージができていったのであろう。それらのイメージが総合されて「水」のほとりに「織姫」がでてくるという日本独特の伝説も作られていったようだ。そんなふうに考えると、単なる子どもの行事や地名のように見なしていたものに意外な歴史が見えてきて楽しくなる。 京都新聞 2006.7.14

 

のみのすくねの墓  

 精華町の聖マリア幼稚園の西側に丸山と呼ばれている小山がある。この幼稚園に通っていた頃、ここに登ってよく遊んだものだ。のちにこの小山が古墳で、野見宿禰(のみのすくね)という「相撲取り」の墓であるという話を聞かされてきて、不思議に思ってきた。なぜ、この地域にそんな「相撲取り」の墓があるのだろうと。  『日本書紀』によると、野見宿禰はもとは出雲の人で、陶器を造る一族の人だった。その彼が、力自慢の当麻蹶速(たぎまのくえはや)と角力(ちからくらべ)をして勝ったと書かれている。興味深いのは、その角力の描かれ方で、二人は互いに足を上げて蹴り合って、野見が当麻のあばら骨と腰の骨を折って殺したと書かれている。文字通りに読めば、それは「相撲」というよりか「キックボクシング」のようなものになる。奇妙な「角力」ではないか。本当にそんな異様な「相撲」があったのだろうか。  

 私は、相手の「当麻」の名前が、「当麻(たぎ)」とか「蹶(くえ)」であるところが気になってきた。「たぎ」とは「でこぼこして歩きにくい」状態を言ったものであるし、「くえ」とは「崩え」とか「踏む」という意味がある。だとすると、二人の足を使う相撲は、まるで荒々しい土を崩し、足で踏んで「粘土」にするようなイメージになるからだ。あばらや腰を折るというのも、粘土を折りこむ陶器造りのようなイメージに重なる。 

 そういえば、「角力」に勝った方の名前が「野見」であったことも、気になる。「野」とは「大地」や「土」であり、「見(み)」とは「水(み)」である可能性があり、もし「野見」が「土水(のみ)」だとすると、土と水をこねる粘土・陶器のイメージがそこに読み取れる。そう考えてゆくと、この陶器造りの名人が、別の名人の「当麻」を負かして日本一となり、そののち古墳に埋める埴輪を造る役目をおおせつかってゆくという『日本書紀』の物語も、わかるところがある。 

 残る問題は、なぜこの南山城地方に彼の墓と呼ばれるものがあるのかということであろう。それはたぶん木津町の「土師(はぜ)」という地名が関係しているのだと思われる。野見宿禰は出雲から、陶器作りの職人(それを土部(はにべ)と呼ぶのだが)を多数引き連れてきて、このあたりで陶器を造っていたらしい。その「土部(はにべ)」がなまって「土師(はぜ)」となったとも言われてきたから、それでこの辺に彼の墓を作る発想が生まれてきた、というように。

 

いごもり・ひまち・とんどさん  

 先日、精華町・祝園神社では、有名な「いごもり祭」(京都府無形民族文化財指定)が行われたが、子どもの頃は、その「いごもり」という発音の意味がわからず「芋掘り」祭りがあるのだとづっと思っていた。「居籠(いごもり)祭」は、まさに「お籠り」の神事で、うんと古い時代には、月が欠けて見えなくなるのを恐れ、新しく出てくる月を待ち望む儀式としてあったようだ。旧暦ではひと月の終わりが、月の見えなくなる時で、その日を「つごもり」と呼んできた。「つごもり」とは「晦日(つごもり)」と書くが、実は「月が籠もる」という「月隠(つきごもり)」の意味で、それが縮まって「つごもり」と呼ばれてきたものである。この「月の籠もり」に対応して、昔の人も寝ないで「籠もり」をし、新しい月の出てくるのを待つ、「月待ち」の行事を設けてきた。私の在所でも、それは「日待ち」の行事として残っている。昭和30年代頃までは、夜中の12時を回るまでは、寄り合いをしていたが、近年は10時頃には寄り合いを解散している。少し事情は違っているが、アマテラスオオミカミの岩屋戸への「隠れ」も、古代の「日待ち」「居籠」の名残だという人がいる。 

 そんな「日待ち」の明け方に、私の在所では「とんどさん」と呼ばれる「火祭り」をしてきた。正月のしめ縄や餅を焼いて無病息災を願い、習字の紙を焼いて字の上達を祈願したものだった。日本の各地で「どんど」「どんど焼」と呼ばれる「火祭り」と同じであろう。「どんど」という呼び方も不思議な呼び方である。神社でするお囃子の音や、火がドンドン燃える様から来ているという説もあるが、私は、村境で行われてきたことに関係があるのではないかと思う。「どん」とは「どんつき」の「どん」であり、物事の「終わり」「はて」の意味があり、それが「村はずれ」で意識される。「終わり」は、でも「始まり」であり、村境で行われる小正月の火祭りは、「終わり」を「始まり」に転化し、点火する火の祭りになっていたのではなかったかと。

京都新聞 2006.1.27

 

「かごめかごめ」考

 「かごめかごめ」は不思議なわらべうたである。柳田国男は、この歌の中の「かごめかごめ」の歌詞を「屈(かが)む」意味だと指摘し、別な人は「囲(かこ)む」意味だといってきた。真ん中にいる子供は、屈んでもいるし、囲まれてもいるのだから、どちらでもいいような気がするが、私はこういう歌の中に、昔の人々の「時間」というか「時計」の意識が歌われているところが心にとまってきた。 「わらべうた」だから子供っぽい歌だと考えると大事なところを間違えてしまう。「ずいずいずころばし」の歌も、「転ろばし」「茶壺」「どっぴん」「抜く」「お茶碗」「欠く」と歌っているが、それらはたぶんに性的な表現であり、「お父さんが呼んでもお母さんが呼んでも行きっこなしよ」というのだから、けっこう巧みに性的なものを歌っていたことが指摘されてきたからだ。 

 「かごめ」の歌の中の「籠の鳥」も、江戸時代の文献では、遊郭の女性のように意識されていたらしい。そこから「いついつ出やる」と。ここには庶民の「時」の意識がある。この歌の歌詞の奇妙なところは最後の「よあけのばんに、つるとかめがすべった、後ろの正面だあれ」と歌うところであろう。「よあけ」でありながら「ばん」であるような微妙な「時」の中で、「つるとかめがすべった」という。もともとは「つるとかめが」ではなくて「つるつるつっべえった」と転ぶさまを歌っていたらしい。「ころぶ」というのは、「ずいずいずころばし」の「ころび」と同じで、昔の遊郭の隠語で「性行為」のニュアンスがある。 

 そして「後ろの正面だあれ」とくる。これはどういう意味だろう。後ろのものを当てる遊びに「ダルマさんがころんだ」というのがあるが、吉野裕子さんは、そこでの「ころぶ」という言葉も、遊郭の隠語だと指摘されていた。私は、この遊びにも、「人当て」とともに、「だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ」と数(時)を数えるものがあるところに興味をもつ。「後ろの正面だあれ」つまり「自分と入れ替わる人だあれ」という願い。そこでその人を当てたいと思う。「かごめかごめ」には、夜から朝へ、籠から籠の外へ。時を数えて何かを待つ庶民の切ない願いが、どこか込められきたような気がするからだ。

京都新聞

 

「かまへん」という言葉  

 ずいぶん以前のことだが、他府県の人と喋っていて「かまへんよ」と言ったときに、その「かまへん」という言葉はヘンな言葉だと言われたことがあった。「これもらってもいいですか?」「かまへんよ」と京都の南部では使い、「いいですよ」「かまいませんよ」のつもりで使っている。京都市内では「かましまへん」とでもいうのだろう。何でもないそんな言葉が、ヘンな言葉であるように聞こえ、さらに嫌な感じまですると言われたので、よく覚えている。今から思うと、イエスかノウをはっきり言えばいいところで、「かまへんよ」(「かめへん」と言うこともある)と言うと、相手にこちらの意志がはっきり見えず、本心がわからない、と感じられていたのかもしれない。 関西の言葉では、語尾に「へん」をつけると否定の意味になる。「一緒にいくの?」「いかへん」というように。

 「かまへん」も「かまう」という言葉に「へん」が付いたのだとしたら、確かに「へんな言葉」である。「かまう」とは「相手にする」とか「気をつかう」という意味なのだから、それを否定する意味の「へん」をつけて「かまへん」というと、実際は「私はかまいませんよ」というような意味になる。東京の理髪店で「髪を短く切っても良いですか?」と聞かれて「そうして下さい」と言わずに、「かまへんよ」と答えると、やっぱり「ヘン」に聞こえるかも知れないな、とこの年になって改めて思う。

 語尾に「へん」ではなくて「ん」をつけるだけでも否定の言葉になる。「さわらんといて」というと、「さわらないで」ということだが、京都南部では、なにかをしないで下さいというのを、「しんといて」とか「せんといて」「しゃんといて」と言ってきた。「ない」というようなはっきりした否定の言葉を使わないで、そこんところを「ん」という言い回しですましてしまうのである。「見ないで!」「聞かないで!」というところを「見んとして」「聞かんといて」というふうに。 

 「かまへん」にしろ「しんといて」にしろ、京都の言葉には否定への工夫というか、あいづちを打つことへの庶民の知恵がいつも仕組まれているように思う。特に「ない」という否定は、きつい感じがするので、「ない」ことを直接に言わないでなんとかして和らげる工夫をしてきている。「そんなこといわないで」というところを、京都では、「そんなことゆわんといて」「そんなんゆうたらあかんやん」「そんなこといわはったらあきまへんやろ」という。この辺に「へん」や「ん」の絶妙の使い方があるんやろね。

 

世にも美しい池

 精華町の稲植神社の南側には、まだずっと低い山々が広がっていた。中学2年(1963年)の夏、この山々をあてもなく歩いていたら、ふいに信じられないような「美しい池」に出くわした。水は澄んでいて、小石の敷き詰められたなだらかな波打ち際で囲まれていた。まわりの松林も絵に描いたように美しかった。私は呆然としてその美しい池に見とれていた。その日から、その池は私の「秘密」になった。私だけが「発見」したのだと感じていた。知っていたら友達同士で話をするはずだった。みんな、近くの濁ったため池で泳いでいたのだから。

 そんな少年時代最後の夏が過ぎて、私は学校や自分のことで頭がいっぱいになり、そんな子どもっぽい「発見」や「秘密」のことを忘れていった。そしてそのまま社会人になっていた。でも、ときどきふとあの「世にも美しい池」のことが脳裏をかすめることがあり、仕事が落ち着いたらもう一度あの「池」に行くんだと決めていた。「池」は「秘密」のままにいつまでも山の奥に存在してるものだとばかり思っていた。

 ところが、ある日気がつくと、あの稲植神社の南側の山々は削られていって、「けいはんな」という巨大な学研都市になるということを知らされた。ええっ、と思った。あの「美しい池」はどうなるんだろうと。私は30歳を過ぎていたが、ある日、その「池」を求めてブルトーザーの動いている工事現場を見て回ったが、私がこの辺にあったはずだと思った所には、「発見」することはできなかった。頭から血の気が引く思いだった。あんな美しいものが消えてしまうなんて信じられなかった。そして学研都市はオープンした。私がその学研都市の真ん中に、有料の「記念公園」が設けられ、その中心に「ある池」が保存されていることを知ったのは、うんと後のことだった。そしてその「池」が、私がかって見た「世にも美しい池」らしいことに気がつくのは。

京都新聞 2005.6.7

 

隼人、この「都」の「南」を守った人たち  

 学研都市線の大住駅の大住というのは、鹿児島の大隅半島の大隅から来ているということを教わったのは、もう30年も前の学生の時でした。この京田辺市の大住と呼ばれる地域に横穴式墳墓が発見されて、それが九州の隼人一族の墓の様式であることがわかってきたという話でした。当時、不思議な感じがしました。なんで九州の南端の人たちの墓がこんな京田辺市にあるのか、うまくイメージできなかったからです。 でも、この話に興味を持ったのはもう一つの理由がありました。それは私の母と叔父が、鹿児島の大隅半島の肝属平野(大隅隼人の拠点となった平野)で生まれ、戦後こちらで暮らしてきたからです。母も叔父もいわゆる「隼人」の末裔ですが、そのことと、昔この南山城にやってきた「隼人」との関係が、偶然にしろ興味深くて、なんで?と思ったものでした。 

 ところで、京田辺市には甘南備山(かんなびやまー神の降りる山の意味)があって、平安時代には、京の朱雀大路を決める際にこの甘南備山を基点にしたという言い伝えがあり、これも興味深いものでした。その理由としては、「朱雀(すじゃく)」といわれるものが、古くは「隼(はやぶさ)」のことを言ったらしく、そこから都の「南」を守る人を「隼」の「人」、つまり「隼人」と関係させていたみたいです。甘南備山と朱雀と隼人の意外な接点。  

 歴史学が教えるところによると、朝廷は「お上」にすんなりとは従わない「南の勢力=隼人」をなんとかして支配下に置くために、彼らの一部を機内に集団移住させ、国を守るものの位置を与えようとしていたようで、その居住区の一つが京田辺市の大住あたりにあったようです。 『古事記』に有名な「海幸山幸」の物語がありますが、もともとこれは南方の昔話で、それが南九州・日向神話に転用され、「山幸彦」は「朝廷」を、「海幸彦」は「隼人」をモデルに置き換えていったことが指摘されてきました。南方と貿易する海の支配者「隼人」を「朝廷」に屈服させるためにこういう神話までもが利用されていったことは興味深いところです。  

 そういえば、母や叔父にも、すんなりとは「お上」には従わない「荒々しい海」の気風があり、それでいて、身内を守る強い意気込みがありました。私なども、そんな「南の守人」によく「守られてきた」なと思っています。


異稿 隼人、この「都」の「南」を守った人たち

 学研都市線の大住駅の大住というのは、鹿児島の大隅半島の大隅から来ているということを教わったのは、もう30年も前の学生の時でした。この京田辺市の大住と呼ばれる地域に横穴式墳墓が発見されて、それが九州の隼人一族の墓の様式であることがわかってきたという話でした。当時、不思議な感じがしました。なんで九州の南端の人たちの墓がこんな京田辺市にあるのか、うまくイメージできなかったからです。 

 でも、この話に興味を持ったのはもう一つの理由がありました。それは私の母と叔父が、鹿児島の大隅半島の肝属平野(大隅隼人の拠点となった平野)で生まれ、戦後こちらで暮らしてきたからです。母も叔父もいわゆる「隼人」の末裔ですが、そのことと、昔この南山城にやってきた「隼人」との関係が、偶然にしろ興味深くて、なんで?と思ったものでした。 

 ところで、京田辺市には甘南備山(かんなびやまー神の降りる山の意味)があって、平安時代には、京の朱雀大路を決める際にこの甘南備山を基点にしたという言い伝えがあり、これも興味深いものでした。その理由としては、「朱雀(すじゃく)」といわれるものが、古くは「隼(はやぶさ)」のことを言ったらしく、そこから都の「南」を守る人を「隼」の「人」、つまり「隼人」と関係させていたみたいです。甘南備山と朱雀と隼人の意外な接点。 歴史学が教えるところによると、朝廷は「お上」にすんなりとは従わない「南の勢力=隼人」をなんとかして支配下に置くために、彼らの一部を機内に集団移住させ、国を守るものの位置を与えようとしていたようで、その居住区の一つが京田辺市の大住あたりにあったようです。 

 『古事記』に有名な「海幸山幸」の物語がありますが、もともとこれは南方の昔話で、それが南九州・日向神話に転用され、「山幸彦」は「朝廷」を、「海幸彦」は「隼人」をモデルに置き換えていったことが指摘されてきました。南方と貿易する海の支配者「隼人」を「朝廷」に屈服させるためにこういう神話までもが利用されていったことは興味深いところです。 そういえば、母や叔父にも、すんなりとは「お上」には従わない「荒々しい海」の気風があり、それでいて、身内を守る強い意気込みがありました。私なども、そんな「南の守人」によく「守られてきた」なと思っています。

 

「鉄人28号」のゆくえ  

 アジア・太平洋ロボットコンテストというのが2002年から、NHK主催、文部科学省、日本機械学会、日本ロボット学会の後援で実施されている。6月に国内で大学対抗の予選があり、今年は8月に北京で行われ、東大が初優勝した。今年の中国では洪水があり、大会が延期されていた。そんな災害時に「ロボットの玉入れ競争」に興じていていいのか、という見方もあったみたいだが、別のニュースでは、災害救助用のロボットコンテストのあるのも偶然見た。そういうコンテストでは、「選手」たちは、小さな操縦器を必死で操りロボットを動かしていた。まるで「 鉄人28号」みたいだとその時私は思ったものだ。というのも、その頃、夜中のBSジャパンでアニメ『鉄人28号』が放映されていて、あまりにも懐かしかったので、ビデオにとって見ていたからだ。 

 私がラジオ放送の『鉄人28号』を聞いたのは1959年で10歳の時だった。学校から帰ると、ラジオの前にかじりついて、このドラマを聞いていた。「うなる鉄腕すさまじく、玉も通さぬ鉄の胸・・」という主題歌は今でもちゃんと歌うことができる。今回のアニメ『鉄人28号』では、昭和30年代の町並みが忠実に描かれていて、それも懐かしかったが、それよりか、鉄人が「兵器」ではないかということを巡って裁判が開かれている物語の展開はもっと興味深かった。鉄人は災害救助のできるロボットなのか、それとも大量殺戮をするロボットなのか・・・。 

 近年のイラク攻撃に使われたロボットミサイルから、彗星に激突していった探索ロボットロケットまでを見ていると、正太郎と操縦器と「 鉄人28号」の三つのテーマが、こうして何度でもリメイクされる理由がわかるような気がする。余談だが、来年は「 鉄人28号」が生まれて50周年らしく、約2年かけ24巻の漫画の完全版が出版されるらしい。見てみたい気もしている。

京都新聞 2005.9.23

 

方言の季節  

 奈良から京都へ向かう電車の中、向かい側に共に白髪の老夫婦が座って、観光地図を広げていた。しばらくして、奥さんの方が小声で「あぶないことしないで」と言うのが聞こえた。その「しないで」という関東の言い回しが、とても柔らかく、快く耳に聞こえた。そのとき、ふと自分ならこんな時何て言うんだろうと思った。「あぶないこと、せんといてや」そう言うんだろうなと思った。「しないで」が「せんといて」になるのか。そんなことを考えて一人笑ってしまった。でも、その後もしばらく、この「しないで」と「せんといて」が頭の中でゆきかいしていた。日本語で「しないで」と「せんといて」が同じなんだということ、このことのおもしろさは、説明しようのないものだなとその時感じていた。 

 かつて、夏目漱石の『我が輩は猫である』の出だしを、大阪弁で書いた本を電車の中で読んでいたことがあった。「我が輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ」という最初の下りが、「わいは猫や、名前はまだあらへん、どこでとれたんか、いっこも見当つかへん」というように「訳」されていたと覚えている。その時、こみ上げてくる笑いを電車の中で押さえるのが大変だった。  

 しかしこういう笑いが、時として、人を困らせることがある。京都には、春になると地方からたくさんの学生が集まってくる。私はそういう学生の中に、自分の故郷の方言で悩んでいる人がいるなんて、ある時まで気がつかなかった。ある日、メモで「4月から6月ぐらいまで、人と喋らないようにしていた」と書いてくれた学生に出会って、そういう人のいることを初めて意識することになった。「京都で故郷の言葉を使うのは勇気がいる」と書いてくれた学生もいた。私が自分の関西弁を面白く思っているようには、地方の人は地方の言葉を京都では面白がれないのだ。早く関西弁を覚えなくてはと必死だったと言ってくれた人もいた。でも、故郷の言葉が嫌なわけではなかった。そういえば東北出身の石川啄木も、東京に出てきてこんな句を作っていた。

 「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」 有名な『一握の砂』の中の一句だ。しかし故郷の言葉は、本当はただなつかしさの中にあるだけのものではないと思う。その言葉を使うことによってしか感じ取れない、地方独特の豊かなものの見方、感じ取り方がきっとあるはずなのだ。「しないで」という言い回しも、聴いていて快いが、その快さでは「せんといて」の方言の持つ妙なまわりくどさは感じ取れない。「せんといて」には、「せんと(しないで)置いといて」というように、指示をいくつかに分けて、命令がきつくならないように工夫しているところがあるからだ。春がきた。新入生にまた方言の豊かさをわかってもらう季節がきたんやなあと思う。

京都新聞 2000.3.4

 

「こよみ」という思想  

 年を取るごとに、年末の感触が変わってきているのを感じる。少しずつ部屋の片づけをしながら、その「片づける」という作業が、何かしら普段の片づけではない感じがしきりにしてきている。何を片づけようとしているのだろう? ここ何年か「こよみ」というものを不思議に感じる感性が遅まきながら生まれてきている。昨年末は、その感じを、「片づけ」の中でさらに自然に感じることができていたから快かった。

 「こよみ」とは、もともとは「日読(かよみ)」のことで、まさに「日」を「読む」ということなのだが、日を読むとはいったいどういう心の営みなのだろうか。現実には、時の流れに何の区切りも境界もあるわけではないから、何度太陽が昇り降りしても、それを「日」や「年」として「読む」ことなどはできるわけではない。しかしある時から、その太陽の昇り降りに、「一日」や「一年」という区切りを「読みとる」考え方を創りはじめた。「こよみ」という思想の形成だ。月日の観察から始まったにしろ、この「日を読む」営みは、四季の農作物の収穫を計画する上でも画期的な導き手になっていった。おそらくすべての「文明」は、この「こよみ」の発明とともに飛躍していったはずだ。「こよみ」がなければ、私たちの近代的な暮らしのどんな場面も想像することが出来ない。年末、「2000年問題」と呼ばれて大騒ぎになっていたのも、このコンピューター時代の根幹が、実は「こよみ」という思想に支えられていることを思い知らせてくれた事件だったからだ。  

 私は中でも、「日」の区切りを「一年」で束にするという発想のすごさを今の歳になって改めて感じている。確かに「新年」とか「年を新たにする」という発想のおかげで、私たちは様々な心の切り替えをしてきていることに気がつく。中でも「正月」という発想は、最大級の発明品だと私は思うようになってきている。 日本では、この「正月」つまり一年の区切りを、門松を立てたり、しめ縄で飾って祝うのだが、そのいわれにはさまざまな説があるにせよ、感覚的に誰にでもわかることがある。それは、門松にしろ、しめ縄にしろ、それで「門」や「敷居」を飾ることで、意図的に新しい「境界線」を創り出して目に見えるようにしてくれているということだ。「正月」がすぎれば、飾り物は「村はずれの境界」までもっていって「ドンド」と呼ばれる火祭りの中で燃やされてきた。「ドンド」とは、「道祖神(どうそじん)」という「境界を守る神」に、一年の「門出」の無事を祈願する行事だったに違いない。 

 「こよみ」という思想は、そういう意味では、自分の生き方の中に「区切り」や「境界」を常に意識させる智恵でもあったと私は思う。そういうことがわかりかける年齢になったことをありがたいことだと、年末「片づけ」をしながらひそかに感じていた。

京都新聞 2000.1.7

 

車内じんるい学 

 朝のラッシュ時だった。O駅に着くと「タッチ、タッチ、タッチ」というけたたましい声とともに小さな子どもが入ってきた。ドアが閉まっても、子どもは「タッチ、タッチ」と叫びながら狭い人混みの中を動き回っている。その後を年寄りらしい女性がおろおろした声で追っている。子どもは、座っている二人の女子大生の前で、さらに大きな声で「タッチ」を連発していたが、二人は知らん顔をしていた。その後、さらに子どもは車内の中央へ分け入りながら「タッチ」を連発していたが、そのうち誰かが席を譲ってくれたらしく、子どもの声は止んだ。

 年寄りの女性はしきりに、お礼を言いながら「外を見たかったのかい」と子どものに話しかけているのが、遠くから聞こえていた。その時、私が見下ろしていた二人の女子学生は、顔を見合わせて「ガツンとやればいいのよ」と言っているのが聞こえた。 私は複雑な気持ちだった。二人の女子学生を悪くは思えなかった。かん高い声を上げれば言うことを聞いてもらえると思っている子どもの様子がよくわかったからだ。でも、その後ろでおろおろしている年寄りのことを考えると、早く誰か席をゆずってあげて欲しいと思わずにはいられなかった。

 こんなラッシュ時に、こんな小さな子どもを電車に乗せなくてならない事情のことを私は想像していた。おそらく訳があって両親は、この子をこの年寄りに預けているのだろう。でも、子どもは年寄りが、キーキー言えばわがままが通ることをすっかり分かっているみたいだ。女子大生の言うように「ガツン」ということを聞かせる場面が普段からないのかもしれない。 私が電車を降りて振り向くと、子どもが窓の外を真剣な眼差しで見ているの見えた。子どもにとっては、こういうふうに外を見ることができるかどうかは、死活にかかっているような感じだった。その眼差しは、単なるわがままのようには見えなかった。

 私は、電車で通勤しているので、その車内で起こる出来事を、「車内じんるい学」と勝手に呼んで、できるだけ注意して見聞きしようと思ってきた。この狭い車内の中で、それぞれの価値観をもった人々が、それぞれの物事を見る尺度でぶつかる。時には遠慮がちに、時には不可避に、そして時にはわざとに。だから私はこの車内で起こる出来事の善し悪しは、一律の基準では判断できないことを感じつつ、自分の尺度のもろさをいつも感じてきた。

 その日の帰りの車内だった。私の腰を掛けた隣の若い女性が何かをしているのに気がついた。しきりに携帯の数字を押していたのだ。社内が静かになると、その数字を押すピッ、ピッという電子音が耳をついてしょうがない。すぐに終わるだろうと思っていたら、いつまでもその音が社内に鳴っている。私はたまらなくなって言った。「音がうるさいですよ」。

京都新聞 1999.11.4


さざれ石の巖となりて  

 国歌制定の議論もあったので、『君が代』の「さされ石の巌となリて」の歌詞の由来は何度もテレビで紹介されていた。私が見たのは、どこかの校庭の片隅に置かれた岩で、さざれ石(小石のこと)が川の中を転がっている内にくっつき合って、こんな大きな岩のようになったものです、とナレーターが説明していた。柳田國男は、かつてそういう説明ではなく、この歌詞は「神霊の宿っている石は、年とともに成長する」と信じられていた古い時代の民聞信仰を歌ったものだと説明し、そういう生きている石にまつわる信仰を「生石(いきいし)伝説」と名付けていた。 成長する石などというイメージは、現代人にはピンとこないかもしれないが、石が子を産む(生殖の石)という伝説は、古い時代には世界中に広がっていたと言われている。ルーマニアの古い歌にはイエスが石から産まれたと歌っている歌があるという。私たちのよく知っているのは、孫悟空が花果山頂の石の卵から生まれたという物語であろう。そうして生まれた悟空が、あまリにも悪さをするので、再びお釈迦様が三蔵法師が来るまで五行山の岩に閉じこめたという話は有名だ。 

 もともと日本の各地には、石神とか岩倉といわれる、石を神と祭る信仰が残っている。子持ち石や赤子石、夜啼(よなき)石と呼ばれる石が残っているのも、そういう言い伝えに関係があると柳田は考えていた。朽ちない石と霊力の宿リ、この組み合わせには、古代の人たちにも魅力があったに違いない。不思議な石のイメージは、古墳から発見される勾玉のようなものにも見て取れるだろう。今でもあの勾玉が、なぜ胎児のような形に作られているのかはまだ解明されていない。南方熊楠も、柳田の「生石伝鋭」に触発されて、世界各地に伝わる「燕(えん)石」と呼ばれる空を飛ぷ石について紹介し、そういう石が安産や至福のお守りにされていたことを書いていた。 

 もっとモダンな話となると、『ジュラシック・パーク』という恐竜映画で一躍有名になった琥珀(こはく)という石を取り上げてみるのがいいだろう。この映画は、恐竜の血を吸った蚊が琥珀に閉じこめられていたという設定で、その蚊から、恐竜のDNAを取リ出し、そこから元の恐竃を復元するというSF物語になっていた。ここにまさに現代版「生殖の石」を見てとれるのではないだろうか。 生石伝説は、その後の歴史の中で、赤や青に怪しく光る石、つまリ宝石の発見につながってゆく。現在人が、宝石という小さな石(さざれ石)から、巌のような富を産んできた様を見たなら、古代人はさぞかし驚くかもしれないし、妙になるほどなと感心するかも知れない。

京都新聞 1999.9.19

 

シンデレラの靴

 童話ブームが続いている。本当は怖い昔話のような本もたくさん店頭に並べられている。ちょっと気をつけてみると、童話や昔話には、奇妙な話がたくさんあって、その謎解きもなかなかおもしろいからだろう。私も「シンデレラ」の話には、長く興味を引かれてきた。一回のオーデションで女優になれた娘さんを、シンデレラガールなどと呼んだりするように、シンデレラのイメージは、幸運な機会をつかんだ人のことに重ねられてきた。でもこの物語のもっとも有名な箇所は、あの忘れられた「片方の靴」の設定にあるのではなかったか。なぜ「靴」なのかと、子ども心に不思議に思われた方はたくさんおられるのではないか。私もその「靴」のことがずっと気になってきた。 

 兵庫県日高町に行ったときに、村はずれの峠の大木に、人の高さほどの巨大なわらじとぞうりが一対にして祭ってあることを聞いて、そこまで連れていってもらったことがある。おすのわらじとめすのぞうりに分けられていた。こうした大きなわらじやぞうりを村はずれに祭る習俗は、なぜか日本のあちこちに残されている。なぜ、わらじなのか。これも私は気になっていた。わらじは昔はわらんづと呼ばれ、わらぐつの転じたものだそうだ。ここにも不思議な「くつ」があった。 昔から、道祖神(どうそじん)といって、村はずれや別れ道のところにお地蔵さんなど祭って、そこに一緒にわらじなどをぶら下げる風習が残されていた。道を行く人の安全を守るためとか言われてきた。実は、この村はずれで旅人を守る神は、ギリシアではヘルメスと呼ばれ、彼もまた羽の生えた不思議なサンダルを履いていた。 

 わらじやサンダルを、「人が履くもの」としてだけ見ていたら、世界をまたいで広がるこうした村はずれの守護神の習俗のもつ意味がわからない。そこには、実は「境界」を守る神のイメージが託されていたからである。わらじやサンダルは「境界の神」の別の姿として意識されてきたのである。シンデレラの靴が不思議なのも、この「靴」が「境界」のシンボルとして使われていたところにある。そして守り神の靴には「境界」を飛び越える力が与えられていた。あの「長靴をはいた猫」が、不思議な靴で千里を一飛びするように。 

 なんの「境界」なのか。昔であればおそらくは、地上と天上、位の低い者と高い者、貧しい者と富む者、そういう「間」に横たわる「境界」であったのだろう。ちなみに道祖神には、男性や女性の性器のシンボルを祭ってあるのがたくさんある。男女の間にも越えられない「境界」があったからだ。シンデレラの「靴」が、身分だけではなく、男女の境を越える「性」の話、つまり「結婚」の話と結びつけられて残されてきたのも、深い理由があったのだ。日高町の道祖神であるわらじやぞうりに、わざわざおすとめすの性がつけられていたことに理由があったように。

京都新聞 1999.7.15

 

「少年」の表記への懸念  

 舟木一夫の「高校三年生」('63)がヒットし、三田明の「美しい十代」('63)や西郷輝彦の「17歳のこの胸に」('64)がヒットしたとき、歌詞に現れた「高校三年生」とか「十代」とか「十七歳」という表現は、とても新鮮だった。 それまでの歌謡曲で、「若い人」や「娘さん」を歌うことはあっても、はっきりと十代とわかる主人公を歌詞に使う歌は作られなかった。それが「高校三年生」を突破口にして、一気に現れだしたのである。当時私は中学生だったが、「少年」として子ども扱いされるような立場から、少し大人扱いされるような新しい言い回しを手に入れることができたみたいで、とてもうれしかったことをよく覚えている。  

 戦後の1950年代は、石原裕次郎に代表される「若いやつ」のイメージや主張が脚光をあびる時代だったのだろうが、1960年代に入って「さらに若い人=十代」が、自分たちのイメージを主張し始めてきた。そのイメージの中心に「高校三年生」や「17歳」があった。「年寄り」の軍部が日本を引っぱる時代が終わり、「若い人」が高度成長を担う時代が来て、そして、ようやく「十代」がものを言う時代が来た。それがこういう青春歌謡になって現れた、そんな感じだった。  思えば、終戦直後の日本について「日本人は十二歳」と言ったマッカーサーの言葉は印象的だった。「十二歳」ではまだ「子ども」扱いなのだ。しかし、中学生になってまだ「子ども」扱いされることに私自身が堪えられなかったように、そして密かにあの新しい青春歌謡に心をときめかしていたように、「日本人」も戦後50年の中で大きく変わってきた。そしてもう誰にも「日本人は十二歳」と言わせない時代に入ってきた。  

 にもかかわらず、ここ近年立て続けに起こってきている「十代の事件」に対して、多くの新聞は「中学を今春卒業した少年(15)が、在校時に他の少年(16)らから5千万円恐喝される」とか「”殺す経験がしたかった”と少年(17)が出頭」「市内の14~17歳の少年少女11人を窃盗容疑で書類送検」「バス乗っ取り、17歳少年」というふうに書いている。「少年」の表記の氾濫である。なぜ、新聞はわざわざ「少年」と表記するのか。「高校生」や「男子生徒」という年齢相応の表記ではなぜいけないのか。新聞記事を書く方々に、あの屈辱的なマッカーサーの言葉や、自分の思春期のことを思い出していただきたいと思う。 

 新聞記事がいつまでも「十代の後半」を「少年」と表記している限り、読み手は暗示にかかったように彼らを幼い「少年」のように思いこんでしまう。そして、彼らの起こす事件の残忍さと「少年」のイメージのギャップに驚き不思議がるという構図を、さらにまた「報道」として使うことが行われる。私は、記者の表記からまず変わっていただかないと、時代の変化に応じた出来事の報道がなされないのではないかと今強く危惧している。

 

異稿 「少年」の表記への懸念  

 舟木一夫の「高校三年生」('63)がヒットし、三田明の「美しい十代」('63)や西郷輝彦の「17歳のこの胸に」('64)がヒットしたとき、歌詞に現れた「高校三年生」とか「十代」とか「十七歳」という表現は、とても新鮮だった。 それまでの歌謡曲で、「若い人」や「娘さん」を歌うことはあっても、はっきりと十代とわかる主人公を歌詞に使う歌は作られなかった。それが「高校三年生」を突破口にして、一気に現れだしたのである。当時私は中学生だったが、「生徒」として子ども扱いされるような立場から、少し大人扱いされるような新しい言い回しを手に入れることができたみたいで、とてもうれしかったことをよく覚えている。

 戦後の1950年代は、石原裕次郎に代表される「若いやつ」のイメージや主張が脚光をあびる時代だったのだろうが、1960年代に入って「さらに若い人=十代」が、自分たちのイメージを主張し始めてきた。そのイメージの中心に「高校三年生」や「17歳」があった。「年寄り」の軍部が日本を引っぱる時代が終わり、「若い人」が高度成長を担う時代が来て、そして、ようやく「十代」がものを言う時代が来た。それがこういう青春歌謡になって現れた、そんな感じだった。 思えば、終戦直後の日本について「日本人は十二歳」と言ったマッカーサーの言葉は印象的だった。「十二歳」ではまだ「子ども」扱いなのだ。しかし、中学生になってまだ「子ども」扱いされることに私自身が堪えられなかったように、そして密かにあの新しい青春歌謡に心をときめかしていたように、「日本人」も戦後50年の中で大きく変わってきた。そしてもう誰にも「日本人は十二歳」と言わせない時代に入ってきた。 にもかかわらず、ここ近年立て続けに起こってきている「十代の事件」に対して、多くの新聞は「中学を今春卒業した少年(15)が、在校時に他の少年(16)らから5千万円恐喝される」とか「”殺す経験がしたかった”と少年(17)が出頭」「市内の14~17歳の少年少女11人を窃盗容疑で書類送検」「バス乗っ取り、17歳少年」というふうに書いている。「少年」の表記の氾濫である。なぜ、新聞はわざわざ「少年」と表記するのか。「高校生」とか「男子生徒」とか、ふつうの表記ではなぜいけないのか。

 春の選抜高校野球やオリンピックの水泳競技の記事では、十代の彼らをその「力」に応じて、選手として、青年として対応し、「少年」や「少女」扱いする表記はなかった。ところが、いったん犯罪事件となると、とたんに新聞は、加害者の十代をそろって「少年」と表記し続ける。あたかも、「少年なのに」ということを強調するかのごとく。そして新聞記事が「十代の後半」を「少年」と表記すればするほど、読み手は暗示にかかったように彼らを「少年」と思いこんでしまうことになる。それでいいのだろうかと私は思う。「十代」の引き起こすさまざま出来事や事件の表記には、先入観を与えないような、事実に即した工夫がもっとなされることを私はお願いしたいと思う。

 

14歳ーその心の風景  

 死に目覚める時期がある。10歳すぎからであろうか。死んだふりが出来なくなる頃といってもいいだろうか。それまではチャンバラやピストルの撃ち合いをしてかっこよく死んでいたのに、そういうことができなくなる。死体になれなくなる。「死ぬ」ということが軽々しくできなくなる。小学校4年あたりからだ。それからは月光仮面にも仮面ライダーにもなれなくなる。そして自分が「ボク」というような抽象的な感じになってくる。本格的に「死」を感じ出すのはそんな中からだ。  

 神戸の小学生殺害事件の容疑者Aも、この頃から親族の死や生き物の死に関心をもちはじめている。自殺する子8.19が出てくるのもこの頃からだ。11歳で自殺した杉本治君も日記に「5年になって僕は変わった。それともみなが変わったのか?」『マー先のバカ』と書いていたし、12歳で自殺した岡真史君も最後の日記に「ぼくは、しぬかもしれない。でもぼくはしねない。いやしなないんだ。ぼくだけはぜったいにしなない。なぜならば、ぼくは、じぶんじしんだから」『ぼくは12歳』と書いていた。自ら点線を打って強調した「じぶんじしん」という抽象的な存在への目覚め。 

 たいていの子供は、この頃から異性に目覚めて、それまでに感じたことのないような肉感的な自分を感じはじめる。でも抽象的な自分に目覚めるだけの子供は、さらに「肉体のない友」との関係を深めてゆく。孤独な関係の深化だ。神戸の少年Aも、「ボク」という抽象的な自分に何とか存在感を与えたいと願っていただろう。しかし存在しないものを存在させられるのは「神」だけである。そして彼はつごうのいい「神」に接近しょうとした。自分が望むような存在を与えてくれるであろう「神」に。その「神」が「バモイドオキ神」となり、その「神」によって「酒鬼薔薇聖斗」なる異人に存在感が与えられた。最低限の推測を許してもらえばそういうことになるだろうか。  しかし「神の声」を聞く者は、「試練」に遭わされる。「使徒」として試される時がある。それは歴史の中ではおぞましい「捧げ物=生け贄」を巡る試練になることが多かった。オウムのサリン事件も、この手の「試練」として意識されていた。少年Aが、今の常識では推し量れない残酷な「殺害」をしてしまった背景に、そういう「神の指示」に従う「試練」のようなものがあったとしたら、理解は一筋縄ではゆかなくなる気がする。(戦争中でも、こういう「神の声」に従って殺戮を繰り返した兵士はたくさんいただろうから。)  

 神戸の事件の場合、この「神がかりな発想」に現実味を与えたのが、新興住宅地に残されていた「タンク山」や「聖なる池」の存在だったことは見逃せない。新しいものの中に存在する古いもの、それがうまく統合できない時代になってきているのは事実だろう。危惧されるのは、そこから新しくおぞましい神々が目覚める可能性があるということだ。少年Aの心の風景に病理があるとしたら、その根はオウムを産んだ時代の病理とともに、深いものがあるような気がしている。
京都新聞 1997.

 

 

 

「相手」を見いだす作法   
  2003年度 「SEITO百人一首」短歌コンクールへの感想


 今回も、選ばれた百人にとらわれずに、心に残った歌と高校生の世界を私なりに見つめてゆけたらと思う。最初は百首の中に選ばれた一首から。

 ゆっくりと包丁もって皮をむくきずだらけの私のりんご  川内野智香

 この歌には感心した。こんな歌が歌えるんだと思った。「ゆっくりと包丁もって皮をむく」とあるから、危なかしい手先のことを想像している。案の定次に「きずだらけの私の」と来るから、やっぱりな、と思っている。手を切ったんだ、などと勝手に思っている。だから歌の最後は「私の指先」というふうなものになるはずだった。ところが、そうならずに、「私のりんご」となっていた。おお、すごい、と思った。誰もが心の中に持っている「包丁」、それが上手に使えないために傷つけてしまう「相手」がいる。
 この歌のいいところは、「自分」のことを歌いながら、それが最後の土壇場で反転して「相手」を歌うものになっているところだ。もともと、歌というのは、そういうものなのかもしれない。そういうものとは、「自分」を見つめてゆくと、ふと「誰かの存在」にぶつかるというようなこと。そういう瞬間は、きっとかけがえのない瞬間なんだろうと思う。もしも歌に作法というのがあるのだとしたら、それは「相手」を見いだす作法なのかもしれないとも思う。
 
 先生のストッキングの伝線になぜだかほっとする五時間目  梅田あゆみ

 いろんな思いが読み取れるいい歌だ。「五時間目」、自分はうんと疲れている。みんなも疲れている。きっと誰もが疲れているんだ。でも、「先生」はそうではない。先生は先生なんだから、先生が疲れているはずがない。・・・でも、なんだあれは! あの先生のストキングは?、伝線がいっているんじゃないの!! 「先生」の中にふとかいま見る「ほころび」。五時間目、先生もきっと疲れているんだ!

 道端の草に埋もれた石地蔵あせた前掛けのみ見えている  古谷望

 味わい深い歌だ。私が見つけるもの、私が気がついたもの、それはいつも部分的なもの。全体は何かに被われていて見えない。でも、その見えないものがつけている「前掛け」だけがふと見えるときがある。見つけた!という感じ、あんなところに何かがいるという感じ、誰かがいるという感じ。「お地蔵さん」がいたんだ! その発見の感じがここで歌われている。たかが、「前掛け」ぐらいで、と思うなかれ。「前掛け」を見つけることのできる人は、きっとそんなにいないと思う。教科書の中、世界の中で、「前掛け」しか見せてくれない出来事がたくさんあります。実際には、そんな「前掛け」すら見ることができない出来事が多いもんです。

 番組の主題歌だけを聞くために少しの間チャンネル変える  谷口純輝

 あります。こういうことを、私も人生の中でしばしばやっています。世の中、好きでないものの中に好きなものが混ざっているからです。だから、その好きなものだけに何とか触れることはできないかと思案し、工夫し、やりくりしょうとしてみます。そういう気持ち、ここではうまく歌われているなと思います。「主題歌」だけを聞きたいというようなこと、ありませんか、私にはありますよ。

 自転車で夕陽見るため回り道橋の上から気持ち落ち着く 中井佑哉

 高校生の時、一番好きなのが夕焼けでした。『夕陽が泣いている』というグループサウンズの歌をよく口ずさんでいたものでした。クラブの帰りの電車の中から私はよく夕陽を見つめていました。「夕陽」というのは不思議なものです。それは雄大で、荘厳で、見ているといつも心が洗われるようでした。ちっぽけなことで悩んでいる自分が愚かに感じられましたね。でも、そんな夕陽も、それが見えるところに行かないと見えないんです。誰にでも、自分だけの「夕陽」のよく見える場所があります。この歌の書き手の見つけたその場所は、帰り道からはずれた「橋の上」でした。わざわざ「周り道」をしてまで、その場所へ行くという気持ち、わかります。君のじっとたたずんでいる姿が見えるようです。

 毎日は素通りしていたベンチでも座って気付く変わりゆく街 寺岡悠樹

 少し説明っぽいのが難点です。最後の「変わりゆく街」というのが、漠然としずぎていて印象が定まりません。でも、この歌の気がついているところはとってもいいところです。駅のベンチ、公園のベンチ、校庭のベンチ、病院の受付のベンチ・・どこでもいいのですが、少し座ってみていると、今まで気がつかなかったいろんなことが見えてきます。自分が動いているために、見逃してしまっているものが世の中にはたくさんあるんですね。「素通り」という言葉、いい言葉です。「ベンチ」という存在も気になります。「ベンチ」って、何なんだろうと思います。「歌」の生まれるところでもあるかも。

 公園の熱い蛇口に口つけて少年らまた走りつづける 仲子あゆみ

 自分のことだけにかまけていると、こういう情景は目に止まりません。この人は公園の「ベンチ」に腰掛けていたんでしょうか。でも、腰掛けるだけでは、こういう少年達の姿に気がつきません。この歌は、真夏の昼下がり、子どもたちが公園で遊んでいる、ということを歌っている歌ではありません。そんな一般的なことを歌っているのではありません。走り回っている少年たちが、何度も「熱い蛇口」に口をつけるために戻りながら、また走っていって遊んでいるという情景を歌っているのです。つまり、水を飲みながら子どもらが遊んでいるという情景を歌っているのです。子どもが遊んでいるというところまでは見やすいですが、その子らが水を飲まないと遊べない存在なのだというところまでに気が付くことはなかなかできません。「戦後のアフガニスタン」とか、「戦後のイラク」と一口に言いますが、水道を破壊された街角で、泥水をすすって飲みながら遊んでいる子どもたちの姿を見て、ハッとしたことを思い出します。

 道ばたで恋の花でもりあがる小さな乙女小学2年  青山奈未

 くすくすと笑いながら、男の子の話をしていたんでしょうか。それともアイドル・タレントの話をしていたんでしょうか。そんな話し声が聞こえてきた。これが塾の話をしている様子なら気にはとめなかったと思う。男の子の話をする女の子たち、そこにかつての自分を見ていたのかもしれない。そんな「小学2年」の女の子たちに、この歌の作り手は「小さな乙女」を見た、と歌っている。「乙女」というのがいい。「乙女」はもうこんなところからはじまっているんだ。
 放課後やクラブ活動を歌う歌もたくさんありました。この放課後というのは、不思議な時間帯です。そこで「自分」を感じることがあり、自分たちという仲間を感じる時があり、自分の弱さやふがいなさを感じる時間が生じるからです。

  部活動いつもと同じ授業後に我にかえるわずかなひととき   梶山大輔
 楕円球飛びかう午後のグランドを夢かなうまで走り続ける  濱西雄太
 フルートの冷たい肌から波となり無数の感情私に伝わる      藤原紘美
 あたしってこんなに弱いやつだっけ涙でかすんでよくわからない  吉沢麻里恵

 放課後が何か夢を託せる時間帯であれば、また夢を託している人を見る時間帯でもあります。それに、また誰もいなくなった教室を見る時間帯でもあります。

 グランドに一人ぽつんと走るきみそれ見てきずく私も一人だ  上野良平
 放課後のだれもいない教室でひとり見つめるあの人の席  市田貴子

 ちょっとした「出会い」を歌う歌も健在でした。

 無理をして早い電車に乗り込むとそばから見れるあの人の笑顔  松村友里
 おはようとかわし合うときその裏にかくれた心が伝わってくる  佐々木俊亮
 あの人に似ている姿重ねては目で追う度の小さな失望  井上彩
 地下鉄の階段降りると彼がいてつい目をそらす帰り道  赤村祐子

 しかし、恋の歌ということになると、それはもう「ケータイ」の歌ということになるでしょう。前回では、このケータイというテーマだけで百人一首ができるのではないかと書きました。事実、増えました。しかし、あまりにも増えてくるケータイの歌を見ながら、またケータイの歌!と敬遠気味になったことも確かです。今、一番リアリティの感じられるのがケータイですから、それは仕方がないのかも知れませんが、これからの歌は、いかにしたらケータイの歌を歌わないですませられるかというようなことになってくるのかもしれません。百首の選者もケータイの歌を外し気味でした。

 午前二時切るよ切れよと笑う君携帯ごしの琵琶湖の向こう  高木ひとみ

 少し、俵万智風の感じのする歌ですが、「午前二時」にはリアリティがあるなあと感じました。それも、琵琶湖越しに交信をしながら、「切るよ」とか「切れよ」とか言い合っている。ええかげんにせえよ、という感じですが、きっと誰にでも思い当たる光景だと思います。それが琵琶湖をはさんでという構図で歌われると、なにか絵になっていますね。

 「おはよう」と言いつつ友はメールする誰にだろうか誰にだろうか 辻本早千絵

 並んで歩いていても、心はここにあらず。わたしといるのに、誰にあいさつしているの? こっそりと打ってくれればいいものを、失礼なやつだなあと思います。でも、それ以上に、そこで「相手」が誰なのか、あらぬ事を想像する自分も嫌になるもんです。朝なのに、ひどく残酷な情景が歌われているなと思いますね。
 ケータイは、たやすく人をつなぐものなのに、たやすく人を傷つけるものにもなっています。人を瞬時にハッピーにしてくれるものなのに、じわじわと人を拘束するものにもなっています。ケータイは現代の「アラジンの魔法のランプ」のようなものです。いいことももたらしてくれますが、嫌なことももちこみます。ケータイが、「吉」となる面と「凶」となる面の両面のあることに、もちろん若者は気がついているんですが・・。

 音楽を聴いて心を癒しつつプチプチプチとメールを打つ日々  氏野織絵
 ケータイでメールしながら音楽聞くそれが一番幸せな時間  多島未来
 一日のメール受信が少ないと不思議となぜか落ち着かぬ時  大江翔
 携帯の中に彼女の着信があるだけで僕は幸せです 尾形良太
 ブルブルと着信一件届いたらどんなメールもうれしく思う 澤梨々香
 携帯を握りしめつつ眠る夜朝起きてみるとメールがいっぱい 岡田亜沙美

 そうなんだと思う以上に、コメントのしょうのない情景です。「癒し」とか「幸せ」とか「落ち着き」とか「うれしい」といった大切な言葉が、こういう不安定で刹那的な光景の中で使われているんですね。ほんと刹那的な暮らしぶりだなって思います。

 何気ないメールの言葉に隠された切ないキモチ君に届いて 藤川さゆり
 最近はメールばかりを使うけど伝えきれない言葉も多い   中村速人
 メールより言葉の方が重いのにメールにたよるあわれな自分 政道純也
 携帯で言いたいことは言えるけど会いたい気持ち押さえられない  川口佳
 伝言のメールが届く友の声忘れてしまう心のやりとり  福井麻耶
 がんばれ友にメール送っても返ってこない自分にがんばれ 尾本正行

 メールの便利さ気軽さと、相手の生の言葉、生の笑顔や身振りや温もりを伝えないことの間のギャップ。メールのリアリティは、実生活のリアリティとは違っているんですね。そのことに気がついてはいても、もはやケータイのない時代に戻ることもできません。えらい時代に入ってしまったもんです。

 街歩くみんなの目線ケータイへ画面の奥は見えない友だち  大西麻耶
 小学生うつむきながら歩いてるよく見てみれば携帯族!  桜田奏

 最後に、この高校生短歌集が、いったいどういう地域の高校生に読まれているのか、少し気になっています。日本には、山や海や雪や雨や畑やビルやショッピングセンターやりんごやたんぽぽなどがいっぱいあって、そうしたたくさんの素材を生かして人間関係を歌ってきた「伝統」があるわけですが、その「伝統」の「味」というか「おもしろさ」が、うまく「伝承」されていないことをどこかで感じます。ケータイのようなものだけが、歌の素材に使われてゆくのは、やっぱり寂しい。
 もう一つ気になったのは、創刊号にも第二集にも共通して、思春期の性的な世界が見えてこなかったことについてです。もちろん、性的な世界にのめり込む若者は、短歌どころではなくなるということはあるでしょう。でも、性的なものというのは、夢想や想像も含めて高校生には、あって当たり前の健全な世界だと私は思います。ただ、そういうものを歌うには、ちょっとした技術がいりますし、それ以上に勇気もいるもんです。

 日が沈みきみと二人でぼくの部屋ぼくの心は野獣の心   山崎龍太 

 勇気は買いましょう。この歌ぐらいしか、自然な欲望を歌う歌はなかったのですから。でも、歌はおせじにもうまいとは言えません。性的な関心を「野獣の心」と形容するのはやっぱり通俗的ですから。「野獣」って何なんですか。二人でいるところに湧き起こってくる名付けようのない情念は、豊かな感情でもあると思います。それを「野獣の心」と言ってしまうのはやはりもったいない。
 私は、高校生の歌に、欲望や性や悪に触れる歌があってもいいと思う。また、遠慮なしに、そういう歌が出せる投稿の仕組みがあっていいと思う。たとえば、匿名やハンドルネームや詠み人知らずでもOKというような仕組み、あるいは、先生の次元で、そういうものをスクリーニングしないというような工夫など。自分の名前が出るのが恥ずかしいと思う学生と、学校の名前が出ると恥ずかしいと思う先生がいたら、選ばれる歌はつい優等生的なものになる可能性があるのでは、と思いますから。
 また、対象は高校生ということなんですが、できるかぎり多くの高校生が対象にされるといいと思う。学校にはこられないさまざまな高校生、たとえば不登校の高校生、重い病気のため病院の院内学校にいる高校生、定時制や通信教育の高校生、少年院や女子少年院にいる高校生なども含めて。むしろ、閉ざされた暮らしをしている人たちにこそ、たくさん歌うものがあるのではないかと思う。この歌集が彼らに届けられて、歌が自己を表現する手段になることを感じ取ってもらえるといいと思うし、さらにそこから自分も書いて投稿してみようと感じてもらえるようになったらなおいいなと思う。