「命のわ」から 児童文化 最終講義

 児童文化 最終講義 「生命のわ」から
  2020.3.31   村瀬 学

目次
Ⅰ 「地球の環」と「生命のわ」
 1 最も大事な考え方について -「根は花を、花は根を」―
 2 サツマイモと垂乳根(たらちね)
 3 絵本『ペツェッティーノ ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』の意味
 4 ノーベル賞受賞になった山中伸弥氏発見の「ips細胞」のこと
 5 「地球の環」と「生命のわ」 ―「たんぱく質」と呼ばれる「わ」へ
 6 「たんぱく質」の考え方 ―「千手観音」の原型
 7 「わ」を「むすぶ」  ―「ひも」と「むすび」と「解き」と「手」
Ⅱ  「変身」する物語へ
 1 「いばら姫」から何を考えるといいか
 2 「一寸法師」「桃太郎」の「鬼」の造形
 3 『ワンピース』の面白さはどこにあるのか
 4 『鬼滅の刃』―吸血鬼の物語とは何か
Ⅲ 児童文化のもつ「柔らかさ」へ―
 1 「型どおり」と「型破り」
 2 「あやとり」の不思議について
 3 「粘土遊び」について
 4 「折り紙」へ
 5 「ひも」と「結び」と「包み」
 6 「児童文化たんぱく質」について
Ⅳ 「存在給付」という考え方へ
 1 「存在給付」とは
 2 これからの「児童文化」へ
 3 「大地」から「天空」へ ―『はらぺこあおむし』の読み
 4 まとめ  ―コマは回る



Ⅰ 「地球の環」と「生命のわ」

1 最も大事な考え方について -「根は花を、花は根を」―

 物事を考える時に、最も大事にしないといけない考え方があります。それは、むずかしいものではなくて、小学生で習うことの中にあります。小学校3年からはじまる「植物を調べよう」という「理科」の分野です。4年生では「花のつくり」、5年生では、「植物の発芽と生長」「花から実へ」というふうに学びます。6年生では「植物のつくりとはたらき」という形でさらに踏み込んで「光合成」までを学びます。中学に入ると、その分野の学びは、染色体や遺伝子そしてDNAまでと、うんと詳しいものになってゆきます。でも詳しく学んでゆくから、中学生は小学生より、その大事な考え方をよく学んでゆくかというと、そういうわけではないのです。むしろ大事なことは、この小学校の3年4年生あたりからの学びの中にあるからです。

 たとえば、小学5年の「花のつくり」では何を教わっているのかというと、植物が、「種」から「根」と「葉」を出し、その後「花」が咲き「実」がなる、というものです。教科書には美しいカラー写真で、インゲンマメからよっこらしょと「根」がでて、その「根」が種を持ち上げ、その持ち上げられた種の背中の方から船の帆のように「葉」が、出てくる様子が、とてもわかりやすく、順番に並べて載せてあります(『わくわく理科5』啓林館2017)。もちろん、きれいなカラー写真だからといって、特別な何かを撮しているものではなく、種を植えたことのある人なら、よく見慣れた光景の写真です。
 

そんな何でもないカラー写真から、最も大事な考え方を学ぶことができるのかと、不思議に思われるかも知れません。でも、できますし、しなくてはなりません。その「最も大事な考え方」とは、「根は葉を知り、葉は根を知っている」ということについてです。「葉」を広く「花」まで含むものとすれば(ここでは「花」は「葉」が変化したものと考えておきます)、「根に花があり、花に根がある」ということを考える考え方のことです。短く言えば「根に花あり、花に根あり」ということになるでしょうか。
 

ところでもし「根に花あり、花に根あり」としたら、それは根が花を感じ、花が根を感じているということになります。つまり、「根ー花ー根ー花・・」と、ぐるまわる「わ」のような仕組みがそこにあると考えることになります。つまり、「根と花」は、ゴムの輪のように、ぐるっと回ってつながっている、と。
 もちろん、根と花はつながっていることは誰でも知っています。でも、ここで考えたいことは、ただ「根」と「花」は、「茎」で線としてつながっているというイメージではありません。「根」と「花」は、「わ(環・環・曲)」のように「ぐるり」とつながっている、ということを考えたいのです。「わ」のようにというのは、比喩や譬えではありません。「根」で受けとめたことは瞬時に「花」に伝わり、「花」が受けとめたことは瞬時に「根」に伝わる、ということです。それを「わ」のようにと、いっているのです。「瞬時に」ということが大事なポイントです。
 この「根に花あり、花に根あり」が「種」からはじまっているとしたら、そもそも「種」の中に「わ」があるということになります。というか、わたしたちが「種」と呼んできているものは、実は「わ」のかたまりなんだということになります。そもそも「種」から「根」が出てきて、そのあとから「葉」が出てくるということは、ただの偶然とは考えられません。そんなことはないのです。「種」はちゃんと考えて先に「根」を出し、そしてその後で「葉」を出し、そして「根と葉」が、一緒になって「花」が咲くように、導いていっているのです。
 この場合の「根」と「花」は、「先」と「後」になっています。「先」は「後」のことを、「後」は「先」のことを考えているのです。そしてこのことがいかに大事なことであるかは、このあとで、お話しする予定です。
 ところで、私たちは人間をモデルにして物事を考えるように教えられてきたものですから、「物事を考える」には「脳」が必要だと思っています。そこでもし「根」が「花」を考え、「花」が「根」を考えているのだとしたら、いったい草木はどこでそんなことを考えているのかと不思議になると思います。もちろん、ふつうにいえば、草木は人間や動物のような「臓器としての脳」は持っておりません。それでも、「根」は「花」のあり方を知り、「花」は「根」のあり方を意識しているのです。「脳」もないのに、どのようにして知っているのか。その答えが,実は「わ」の理解にあるのです。草木が「わ」として存在しているところにあるのです。この「わ」として存在することが、実は「脳」として存在することと同じことをしているのです。

2 サツマイモと垂乳根(たらちね)

 小学校の時の思い出に、「芋掘り」があった人もいると思います。田舎の学校では、校庭の隅に野菜作りの一画があって、サツマイモを植え、みんなで観察記録をつけて、廊下に張り出したりした人もいるのではないでしょうか。
 ところで覚えていますか。このサツマイモの栽培は不思議な仕方で行われていました。「種」を植えるのではなく、サツマイモの茎の先の部分を切ったものを、直接に地面に刺して植えるのです。すると、茎から分岐して葉の出ているその根元から下に向けて「根」が出て、そこに芋ができるのです。(ちなみにいうと、サツマイモは根ですが、ジャガイモは茎(地下茎)の変化したものですと教わったと思います。)不思議な話です。「種」から「根」が出るのではなく、「種」を切り落とした「茎」から「根」が出るというのですから。
 しかしこのことも、サツマイモの「部分」が、「わ(全体)」をもっていると考えると不思議でもなくなります。「根」を切られた「茎」は、「茎」のどこからか「わ(全体)の中の根」を刺激して、そこから「根」が出て「元の状態」が復元出来るようになっている、と考えられるからです。もちろん、すべての植物が、茎の先だけを土に埋めれば「根」が出てくるというわけではないのですが、「挿し木」のように、切った枝を直接大地に挿せば、根の出る木もあるわけですから(サツキやバナナはそうやって栽培されています)、大なり小なり植物の「部分」には、「わ(全体)」への回復力が備わっているんだろうと思われます。
 以前に、NHK「美の壺」という番組の「巨樹(きょじゅ)」の放送を見たことがありました。そこでは樹齢千年になるような巨大な木がいくつも紹介されていました。その中でも驚いた一本の巨樹があります。それは香川県の瀬戸内海に浮かぶ志々島という小さな島に生える樹齢1200年と推定される「志々島の大クス」と呼ばれるクスノキです。クスノキと言えば、あのトトロの物語に出てくるクスノキを思い浮かべる人もいるでしょう。このクスノキが有名になってきたのは、人間の背丈ほどの高さで横に張り出している巨大な枝が、その重みに耐えかねて根元の方で折れてしまっていたからです。でも折れてはいるのですが、十分の一ほどの、ほとんど皮のような部分だけを残してつながっています。そして、折れた先の方の巨大な枝はドシリと地面に付いていました。本来なら、それでその枝は枯れてしまうところでしょうが、枯れないでさらに先の方ではみごとな枝葉を茂らせてきていたのです。そこで調査員が来て調べてみたら。その折れて土についていた部分から根が出ていて、大元の幹に頼らずに、その根から水分や養分を得て枝葉を茂らせていることが分かってきたというのです。
 クスノキの驚くべき、生き延びるための生命力です。まるで、サツマイモの茎の先から根が出てくるような話が、強大なクスノキにも見られるというのですから、びっくりしないわけにはゆきません。でも、もしこのクスノキの巨大な枝が、もっと高いところに張っていて、それが折れていたら根は出ていなかったかもしれないのではとつい思ってしまいます。
 でもこの「美の壺」という番組では、別の巨樹として青森県の「北金ヶ沢のイチョウ」を紹介していました。巨大な樹齢1000年のイチョウの木です。このイチョウの木が有名になってきたのは、幹に近づけばわかりました。その張り巡らせた枝のあちこちから、「乳」のようなものが垂れ下がっているのが見えるからです。ある「乳」はすっかり」地面にまでついて突き刺さっていました。これは垂乳根(たらちね)と呼ばれる枝から生える「根」のことで、空中から垂れ下がる根というので「気根」とも呼ばれてきました。
 ただこの「気根」がまるで「乳」のように見えるので「垂乳根(たらちね)」と呼ばれ、子どもを授かりたい人や、母乳の必要な人たちのための御神木のように崇められ、信仰の対象にされてきた巨樹でした。映像で見れば、本当に畏敬の念に打たれます。
 こういう木を見ると、別に枝が折れて地面に付いていなくても、空中の枝から根の出てくることがあり得ることがわかります。
こうした「志々島の大クス」も「北金ヶ沢のイチョウ」も、Googleで検索してもらえば画像はたくさん見られます。
 ここから、植物には身体のあらゆる「部分」に「わ(全体)」が潜んでいることがおわかりいただけるのではないでしょうか。問題は、なぜこのような「垂乳根」のような話を、児童文化の根幹の話をするときに持ち出してきているのかということです。

3 絵本『ペツェッティーノ ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』の意味

 たぶん今までの話を聞いて、レオ=レオニの『ペツェッティーノ ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』を児童学の授業で聞いたことを思い出された方がおられると思います。この絵本は、特別な印象を与える絵本でしたね。ちょっと舌を噛みそうなこの絵本の原題「Pezettīno」は、イタリア語で「小片」という意味で、愛称をこめて「かけらちゃん」と呼ばれるような意味でした。ただこの「ペツェッティーノ」は「ペゼッティーノ」とも発音されるそうで、こちらの方が日本語としては発音しやすいですけどね。
 この物語は、「かけらちゃん」があまりにも小さいものだから、自分は何ものかの部分品なんだろうとづっと思っているんです。そしてある時に、では自分は誰の部分品なんだろうと思って、その部分品を失った者を探そうと旅に出ます。そして旅の途中で出会った者たちに、自分はあなたの部分品でしょうかとと聞いて回るのですが、誰に聞いても、「きみは私の部分品ではない」「部分品がなくて、どうしてこうやってがんばっていられるんだ」と言われてしまいます。「かけらちゃん」は、自分が誰の部分品なのかとうとう分からなくなって、こなごな島へたどり着きます。その島の山を登っている途中に転んでしまい、落ちてゆく間にこなごなになってしまいます。それでようやく自分も「部分品」で出来ていることに気がつき、粉々になった自分を拾い集めて、みんなのいるところに戻っていったというお話しでした。
 この絵本の大事なところは、自分があまりにも小さくて、何かの部分品のようにしか見えないので、どこかに自分を一部分とするような「大きな全体」があるのではと思ってしまっているところです。でもそういう「大きな全体」を探していたら、実は自分もさらに小さな部分品でできている「大きな全体」であることに気がついた、というお話になっていました。
 「機械」には「部分品」というものはあり得ますが、「生きもの」にとっては、どんなに小さなものでも、それ自体が「全体」の質を持っているということなんですね。「かけらちゃん」は「かけら」の様に見えていながら、実際には「全体」だったという話です。

4 ノーベル賞受賞になった山中伸弥氏発見の「ips細胞」のこと

 これに似たような話が、2012年、ノーベル賞生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏の「PS細胞」発見の報道で、改めて多くの人が知るようになったのではないでしょうか。
 この発見は、大人になった人の成熟細胞にある種の手を加えると、成熟する前の、これから様々な臓器に分化して行く前の細胞に「初期化」できることを発見したというものです。この「初期化」された細胞を「ips細胞」と名づけ、その発見がノーベル賞受賞につながったのですが、このことは、わたしたちの身体の「部分品」のような小さな細胞のすべてが、実は、「身体全体」を作るための仕組みを持っているということの発見だったのです。
 これが『ペツェッティーノ』の話と重なって見えてきていたのは私だけではなかったと思います。機械には部分品と全体という区別はあり得ても、生きものには、そういう区別はなく、「部分品」の中に「全体」が、「全体」の中に「部分品」が、「わ」のようにつながって存在しているという話を、山中氏のノーベル賞以前にすでに物語として語っていたからです。
 児童文化の最終講義をするのに、そんな「「わ」の存在」について、なぜ話をするのかと思われるかも知れませんが、そこが最も大事なところなのです。児童文化は、最も「わ」について考えてきた分野なのですから。

5 「地球の環」と「生命のわ」 ―「たんぱく質」と呼ばれる「わ」へ 

 ところで、生きものがなぜ「わ」として存在しているのかということについては、一つはっきりしている理由があります。それは地球というものが、さまざまな「環」として動いているところがあり、この「地球の環」を利用するようにして「生命のわ」が生まれてきているところがあったからです。その「地球の環」の基本的な特徴を習うのは中学の理科を通してです。詳しいお復習いはいたしませんが、八つくらいに分けて抽出しておきます。
 ① 地球が太陽の周りを廻る「公転周期の環」として存在していること。
 ② 地球が自ら回る「自転周期の環」として存在していること。
 ③ 公転と自転が「大気と海流と気象の環」を生んでいること。
 ④ 地球の「重力」が、「落ちる方向」と「持ち上げの方向」の「環」をつくっているということ。
 ⑤ 地球の中心にある鉄が「磁場と磁気の環」をつくりだしていること。
 ⑥ 地球も宇宙も、「原子の環」に支えられていること。
 ⑦ 「環(周期性)」の伝導は「波」として伝えられ【聞こえ(音波)、見え(光波)、体感(風波)など】、その「波」が身体の内部で「環=波」として体感されていること。
 ⑧ 「環」が「波」として、「波」が「環」として動く様は、「線」を形づくります。その「線」は太古から曲がりくねって動く「蛇」のような姿で意識されてきました(理科では尻尾で泳ぐ精子として習います)が、児童文化ではそれを「ひも」と呼びます。

 高校の「地学」「生物」では、こういう「地球の環」は、さらに詳しく学ぶことになりますが、そういう学びを児童文化の学びと無縁なものと考えてしまってはいけません。
 ここでは、こうした「地球の環」がもたらすものを、「周期」「渦巻」「波」「線」に代表させます(化学では「結合」「分解」「結晶」なども付け加えられます)が、そういう現象について考えるだけでも、実は興味は尽きないところがあります。でもここでは「地学」の面白さに時間を取られるわけにはいきませんので、「生命のわ」の方へ話を進めます。
 というのも、多くの生きものは、この「地球の環」から生じる「周期」「渦巻」「波」「線」を生かしながら、生命体固有の、「結びー解きーあや」という姿を生成させてきたところがあるからです。「地球の環」は、それ自体では「物理」とか「地学」と呼ばれてきて、「生命」とは関係なしに説明されます。確かに「地球の環」は、簡単には「生命のわ」にはなりません。それでも、同じような「ワ」という言葉を使うのは、「地球の環」と「生命のわ」には、深い関わりがあるからです。

 二つの「環/わ」が関係し合っているとはどういうことか。たとえば、太陽の周りを地球が回っているのですが、その周期的な回りには「切れ目」がありません。「切れ目」がないというのは、どこからか始まって、どこかで終わるような「切れ目」がないという意味です。初めも終わりもなく、ぐるぐるといつまでも回っているのです。地球そのものの自転にも、周期性はあっても切れ目がありません。大気の流れや磁気の流れにも切れ目がありません。「地球の環」のもつ周期性は、それが周期性としてある限りは連続しているのです。
 ところが「生命のわ」は違います。この「地球の環」があって「生命のわ」もできるのですが、この「生命のわ」には「切れ目」があるのです。例えのイメージですが、「地球の環」を仮に「輪ゴム」のようなものだとしたら、「生命のわ」は、その「輪ゴム」のどこかが切れているのです。でも切れた輪ゴムなんて「輪ゴム」とはいえませんから、そこに「わ」を認めることはできません。しかし「生命のわ」は切れ目があるのに、「わ」になっているのです。
 このことをどう考えたらいいのかということですが、考え方として最もすぐれているのは、切れている端が「結ばれている」と「考える」ことです。切れている輪ゴムの端と端が、「何者かの手」によって「結ばれている」と考えるのです。

 ここでは「手」のイメージは、うんと豊かにもたなくてはなりません。とにかく、「生命のわ」には「切れ目」があって、そこには「手」があって「切れ目」を結んでいると考えるのです。

6 「たんぱく質」の考え方 ―「千手観音」の原型

 たぶん、この「生命のわ」の初源のかたちを、多くの科学者は「たんぱく質」と呼ぶものに見てきたと思います。この「たんぱく質」というのは、分子構造として最もたくさんの「手」をもっていて、まるで「千手観音」のように存在してきたものだからです。そしてこの「千手観音」(あるいは「万手観音」といってもいいのでしょうが)、その「たくさんの手」でもって、形の変わった結び方を持つ「生命のわ」を作ってきていたのです。
 「たんぱく質」とは「手」をもつ「わ」だという理解は、科学的にというか、生物学の分野では許されない理解かも知れません。「たんぱく質」を擬人化して理解しようとしすぎているというふうに。
 しかし「人間の手」のようなものしか「手」としてイメージできない科学者は、「貧しい科学者」です。「千手観音」をイメージ出来た古代の人の方が、はるかに豊かな「手」のイメージを持っていたと思いますから。
あらゆる生き物が「手」でもって、結びあい、つながってきていることを認めない人は、それこそとても貧しい「手」のイメージしか持ち得ていないのです。


7 「わ」を「むすぶ」  ―「ひも」と「むすび」と「解き」と「手」


 これだけのことを指摘しておいて、「生命のわ」にしか見られない特徴を先に指摘しておきます。それは、「生命のわ」は、「わ」を「むすぶ」ように成立しているということです。「わ」が「むすび」としてあるということは、「わ」の「解き」もあるということです。「生命のわ」とは、「わ」の「むすび」と「解き」が、想像もできないほどの重なりで成立しているところにあります。
 このことは、簡単なことからイメージ出来ます。たとえば、その辺に転がっている石をハンマーで叩いて割ってみるとしましょう。もし石が二つに割られたとしたら、その石は、元のようにくっつくことはありません。ほっておけば、いつまでも二つに分かれたままです。でも、ジャガイモを二つに割っておくと、元のようにはくっつきませんが、割れた方のどちらからも根や芽が出て、新しいジャガイモを作り出します。「生命のわ」は、自分で「わ」を結んで増やしてゆくことができます。石ころとジャガイモの決定的な違いです。
 小学生の頃、女の子たちが輪ゴムをつなぎ、手首に巻いて遊んでいた時期があったと思います。アクセサリーか、お守りか・・。「生命」というのは実は、「輪ゴム」を結んでゆくような仕組みとして出来上がっているものだったのです。もし、女の子が「輪ゴム」をむすんでいって、長い「輪」ができていたのに、不用意に手を離すと、それまで繋いでいたひもになっていたものがするすると解けていって、バラバラの輪ゴムになっていました。
 「生命」も全体として、「わ」のつなぎとしてあるものですが、いずれは、その「わ」も解けて、ばらばらになってゆきます。そのバラバラにならない間を「生きている」と言ってきました。
 こういう説明をすると気になることが出てきます。「生命」が「わ」の「結び」としての巨大なかたまりであるイメージはわかるとして、では最初の「わ」は誰が結んだのかという問題です。地球に「環」があることは地学で学ぶとして、その「環」は、「化合」や「結合」することはあっても、生命のように「結ぶ」というあり方はできないということでした。ということは「結ぶ」というあり方が何なのかということです。
 「結ぶ」とは、切られた「わ」があり、その「端」をつなぐ「手」を持つということです。「手」をもった「わ」、あるいは、「手」になった「わ」が、そこにあるということです。
 すでに理科の授業で、「地球の環」は、条件によって様々に化合しあい、結合することを習っています。新しい化合物も生まれます。しかし、条件がなければ、化合できない「環」は、どこまでも化合しませんし、結合しない「環」は、どこまでいっても結合はしないものです。
 ところが「生命のわ」は「手」を持ったがために、結びつきそうにもない「わ」ができていても、結びつけることができるようになったのです。不用になった、「わ」を外すこともできてゆきます。
 この「わ」が創り出す「手」とは何かです。

 ここに示したのは、ひらがなの「わ」と「て」という文字です。見てもらうとわかるように、「わ」も「て」もよく似た丸いかたちをしています。でも、「丸」ではなく、「切れた丸」の形をしています。生命の姿は、こういう「わ」でありつつ「て」でもあるようなかたちをしているのです。この「切れたワ」は、危機でもあるので「結ぶ」活動にすぐに動きます。それが「て」という活動です。ということは、先ほどの「手」とは何かという問いかけは、ひらがなの「わ」と「て」を重ねるようなイメージの中でしか、捉えられないようになっているのです。
 実際にも、みなさんの身体から突き出た腕を両方から近づけて丸くすると、身体を「わ」にした状態なることがわかります。その「わ」の「交わる」ところを「手」と呼んでいるのですから、「わ」と「て」は、切り離して考えることはできないものになっていることも分かるかと思います。

 問題は、なぜこのような「わ」や「て」を取り上げるのかということです。それは、「生命のわ」が「手」としてあることによって、それまでに存在したことのないような「わ」の姿形を創り上げることができるようになってきたことを考えるためです。それが生命の「変身(メタモルフォーゼ)」「変形」としてあったからです。


Ⅱ  「変身」する物語へ  

1 「いばら姫」から何を考えるといいか

 ディズニーのアニメ『眠れる森の美女』1959はよく知られた映画です。およそのストーリーは誰もが知っていることにしておきます。ただし誰もがよく知っている話ではありますが、今回はあまり問題にされてこなかったところから、この物語を取り上げてみようと思います。それは、この映画の原作がフランスのペロー童話「眠れる森の美女」から作られているのに、なぜか内容はグリムの「いばら姫」の方に似ているということについてです。ペロー童話「眠れる森の美女」とグリム童話の「いばら姫」が似ているということについては、すでに研究者によって理由は明らかにされています。それは、ドイツのグリム兄弟が、フランスから移民してきた娘さんの語るペローの「眠れる森の美女」の話を、ドイツの昔話として話を短くして記録し、タイトルを「いばら姫」とつけたからという経過です。
 ディズニーのアニメは、ペロー童話「眠れる森の美女」のタイトルだけは拝借して、中身はグリム童話の「いばら姫」のような短い展開にしてしまっていました。ディズニーがそういうふうにしたのは、ペロー童話では、眠れる姫を助けた王子が、2年以上森の中で姫と暮らし、子どもが二人できているのに、自分の国の母親にそのことを秘密にしている話が延々と続いていたからです。なぜ王子が母親に秘密にしていたのかというと、その母親は人食いの種族で、姫や二人の子どものことが知れると三人は食べられてしまうのではないかと恐れていたからです。
 いくらなんでも、子ども向けのアニメを作るのにそういう話は不向きでした。でもグリム童話の「いばら姫」の方は、そういう話は切り捨てて、眠り姫が王子に助けられて、目が覚め結婚するところで終わっています。
 この辺の事情、ペロー、グリム、ディズニーの関係を話すると長くなるので、ここではいたしませんが、その三者の物語の異同に注目するよりか、もっと共通しているテーマについて注目したいのです。それはディズニーが映画のタイトルに採用しなかった「いばら姫」の「いばら」についてです。
 ペローの「眠れる森の美女」の原題はフランス語で「la belle au bois dormant」となっていて、dormant(眠る)bois(森)のla belle(美女)ということになるでしょう。一方の「いばら姫」はドイツ語でDornröschen(ドルンレースヒェン)といいます。Dorn(ドルン)が「いばら」で、röschen(レースヒェン)は、バラ、つまりRose(ローゼ)の意味で、語尾にchenがついて小さなバラ、可愛らしいバラという意味になります。なのでタイトルを直訳すると「トゲのある可愛いバラちゃん」となるでしょうか。無理にそんな直訳をしているのには少し意図があるのです。
 というのも、両方の物語にでてくる「いばら」のことを、私たちがあまり考えたことがないからです。つまり、どうして「いばら」には「トゲ」があるのかということへの関心です。一般的な説明では、バラは、鳥や虫や動物にむしゃむしゃと葉っぱや枝を食べられてしまわないために、その防御として枝にトゲを付けるようになってきたとされています。しかしそういう「説明」を聞くと、目も耳も脳ももたないバラが、「敵」がやってきて自分たちをむしゃむしゃ食べることを、どこで、どのように「知っているのか」気になります。バラの木のどこで、そういう「敵」からの「対策」として「トゲ」を作るような指令を出しているのか、また、指令を出すにしてもなぜあのような先の尖った鋭いトゲの形をつくるようにしてきたのかとか・・疑問が一杯出てきます。そこをどう考えるといいのかということです。
 もちろん、そんなことを考えることと、物語「眠れる森の美女」「いばら姫」の面白さを考えることとどう関係するのだろうと思われるかも知れませんが、見えないところで関係しています。
 じつは「いばら」に限らず、ほとんどの植物は、全身で外界の動きを感じて生きています。とくに四季の移りを感知することは、花や実を作り、子孫を残すためには最も重要なことですから、全身で感じ取って、それに対応出来るように身体を作っています。ですから、動物に食べられて子孫を残すことが出来なくなるようでは困るので、捕食者への対抗策として、葉っぱや幹に「トゲ」を付けている植物は、いばら以外にもいっぱいいます。トゲを付けていない植物はどうしているのかというと、葉っぱや幹に「毒素」を貯めて、食べられないように仕向けています。この植物の創り出す様々な「毒素」が、人間にとっては「薬」になってきて「漢方薬」が作られてきたわけです(「薬が毒になり、毒が薬になる」ということわざもあります)。
 ここで大事なことは、植物たちが、自分の葉っぱなどを食べられるときに、そこを「感知」して、そこに「トゲ」や「毒素」を作ってきているというところです。もう少し言えば、「危機」を感じる身体の部分を、よく「感じること」で、その部分を「防衛」できるように「変形」させてきたというところです。植物も「感じる」ことで危機に対応する「身体」を作ってきたのです。
 「眠れる森の美女」「いばら姫」のテーマも、基本的には「女性」が「男性」に出会う話であり、幼児期、少女期を経て、男性器(針・トゲ)を受け入れることにまつわる大事な話が骨格になっています。物語では、やっと授かった王家の子どもの誕生祝いに、招かれなかった妖精がやってきて、「十五歳になった時、機織りの「紡・針」に刺されて死ぬ」という予言を与えてしまいます。この「予言」はいかにも恐ろしい予言のように見えますが、よく考えて見たら、思春期(十五歳頃)になると娘たちは「紡・針」に象徴される「男性/男性器」に出会うという、ごく当たり前のことを「予言」のようにいっていたにすぎません。でも、娘を持った親にとっては、思春期での男性との出会いは、とても心配になるものです。
 なので物語では、王は、そういう機織りのつむ(紡・針)を国中から取り除くように命令を出します。そんなことをしたら、国中で機織りが出来なくなり、人々の服が作れなくなるのに、物語を読んでいる人はそういうことに全く気がつかないのが不思議です。実際にも、娘に近づく「男性/男性器(紡・針・トゲ)」を国中から取り除くことなど不可能なのに。
 案の定、物語では「高い塔」の中のいる老婆の機織りの「紡・針」に触れて、お姫様は倒れてしまいます。でも、別の妖精によって、これは娘の「死」ではなく、「仮死」に過ぎないことを言われ、次にやってくる王子によって目覚めさせられると予言されます。ここでの「高い塔」というのも、尖った「男性器」のシンボルのようなものです。でもあえて娘さんは、その「尖った高い塔」に引き寄せられ、自分からのぼってゆくのです。ちなみ言うとペロー版でもグリム版でも、どちらでも王女は「塔」にのぼってゆき「針」に刺される展開になっています。さらに言うと『ラプンツェル』という別の童話でも、「高い塔」で娘が男性と出会う設定になっています。ディズニー版の実写映画は日本で『塔の上のラプンツェル』(原題は「Tangled」で「もつれた」とか「入り組んだ」という意味ですが)となっていました。「いばら姫」の「塔」と合わせて考えると興味深いものがあります。
 このことも考えて見れば、妖精の予言は特別な予言ではないことに気がつきます。思春期の娘さんが、どこかで「塔」ありは「男性器(針)」に出会うことは、予言されなくてもそうなるのですから。ただ、そういうことがあっても、それが即、結婚に結びつくわけではありません。でもそういう性的な体験を通して、子ども期の終わり(仮死)を経験し、大人としての自分を「再生」「変身」させてゆかなくてはならなくなります。
 こういうふうに考えると、この物語のタイトルは、内容だけを考えると「いばら姫」の方がふさわしいように思われます。でも、男性目線で考えると、タイトルは「眠れる森の美女」とした方が興味を引きつけやすいようにも思われます。ノーベル賞作家、川端康成に『眠れる美女』という、いかがわしくも、人間の暗部を描いた作品がありますが、生きて意志を発揮して活動する女性ではなく、「眠る女性」を相手にするようなテーマの作品は、世の女性から批判されるところです。
 その点「いばら姫」というタイトルでは、「いばら」の「トゲ」をめぐって様々なことを考えることができるので、私はいいと思います。ちなみに言いますと、この「いばら」の映像が全面的に使われる作品があります。それは、『美女と野獣』2014 フランス、ドイツ合作の実写映画版です。物語は「眠れる森の美女」でも「いばら姫」でもなく、まさに『美女と野獣』。なのですが、なぜか城を取り巻くものとして、するすると蛇のように伸びる「いばら」が画面いっぱいに映像化されています。こういう映像は、『美女と野獣』2017、エマ・ワトソン主演のディズニー映画版ではみられません。

 ここで一つまとめをしておきます。植物が「トゲ」や「毒」を作るのは、植物が「危機」を感じ、その部分に「感受」を「集中」させることによって、そこに形態的、化学的な変化を起こさせてきたものでした。でもトゲや毒素は一方的に何者かを寄せ付けないものではありません。トゲはある植物ではフック(かぎ爪)のようになっていて、相手に引っかけ、からまるようになっていたり、毒素もある捕食者には「毒」になっていても、別の生き物には「薬」や「栄養物」になっていたりするものです(オーストラリアのコアラは、他の動物では食べられない毒を持つユーカリの葉を主食にしたりしているのですから)。
 ですので、物語の中のいばら姫にとっての「いばら」は、一方的に「悪いもの」なのではなく、「痛み」をもたらすものでありつつも、「困難」を乗り越えてでもやってくる「王子=たくましい異性」を導くものでもあり、そういう「王子」との交わりで子孫を残す橋渡しの役割を果たすものにもなっていました。「いばら姫」という童話ひとつとっても、「児童文化」としてそれを学ぶことは、たくさんなことを学ぶことになっていたことを感じてもらえたらと思います。

2 「一寸法師」「桃太郎」の「鬼」の造形

 昔話「一寸法師」「桃太郎」に出てくるの「鬼」についての研究はたくさんあります。人を食う死霊のような鬼から、仏教でいう地獄にいる鬼、「鬼は外、福は内」で演じられる鬼、浜田広介の童話『泣いた赤鬼』などに描かれる可愛そうな鬼まで、その文化史的なイメージは幅広いものです。子どもたちの好んでする「鬼ごっこ」などには、今でも「鬼」は生きているといえるでしょう。だから鬼の研究というのは、広く多角的に研究されなくてはならない分野です。
 私は「桃太郎」の授業で、岡山に伝わる鬼退治伝説の鬼は、朝鮮半島から渡来して、鉄の加工技術を日本にもたらせた「渡来人」の可能性が大きいことをお話ししてきたものです。
 ただここでは、そういう鬼の文化史について何かをいおうというのではありません。そんなことをすればそれだけで、また山ほどの時間を費やさなくてはならなくなるからです。そうではなくここで取り上げたいのは「鬼」と呼ばれて来たものの、その「造形」についてです。「鬼は外、福は内」の時に被るお面に代表されるように、「鬼」と言えば誰でも、「角」があって「牙」があり、顔を赤くしているイメージを思い浮かべます。そういう「造形」について考えて見たいのです。
 というのも、先の「いばら姫」の時に、植物が「トゲ」や「毒」を作るのは、その植物が「危機」を感知して、そこに「集中」して身体の変化を起こすことで作られるものだといってきました。そのことを考えると「鬼」という存在も、何かの「危機」に直面して、頭に「トゲ」のようなものを突き出すことで、「危機」から我が身を防衛してきたものとまずは考えることができます。
 「鬼」なんて架空の存在なのだから、そんなことを考えてはいけないのではないかという人がいるかもしれません。しかし「鬼」の「角」や「牙」がどうしてそこにあるのかについて考えることはとても大事なことなのです。
 というのも、鬼だけではなく牛にも角があるし、サイにも一本の大きな角があり、虎にも鋭い牙があるからです。こういう角や牙がなぜ生まれて来たのか、考えてみなくてはなりません。実際の鬼の角は、牛の角がモデルになったという研究者もおります。「牛鬼(うしおに)」「牛頭鬼(ごずおに)」という伝承も残ってきているのですから。
 バラのトゲのように、動物も身体からトゲを出して、防御したり、攻撃に使ったりするようになっても不思議ではありません。問題は、どうして角や牙のような角状突起物を出させることになったのかということです。それには「体感」の一部に「念」という「集中性」を注ぐことで、化学変化を起こさせてきた過程を考えなくてはなりません。
 ボクシングや空手の選手のこぶしにタコと呼ばれる固い部分ができたり、文筆家に「ペンだこ」と呼ばれる皮膚の硬さが作られたりするのも同じ原理です。「念」を込めた集中性が、皮膚を硬くし、さらにそれを伸ばすような突起物を作ってきたからです。

 動物も植物も、「念」を込めて身体を作っているということは、人間から見たらちょっと信じがたいところがありますが、自分自身を例にとって考えていただければ、わかってくるところがあろうかと思います。角や牙というから、自分には関係ないと思われるかも知れませんが、たとえば「爪」や「歯」というものを考えてみると、わかってくるところがあります。
 「爪」というものは、若い女性にとっては、マニキュアやネイルアートするものとして思い浮かべるのでしょうが、なぜそういう「爪」のようなものがあるのか、考えてみるととても不思議です。それは、私たちが、物をつかんだりするときに、そういう硬いものが指先にないととても困るからです。でもふだんから「爪」がどうしてできたのか、「考える」ことはないのです。
ただ調べてみるとすぐにわかります。「爪」は、「髪の毛」や「歯」や「鱗」と同じで、皮膚の一部が変化し、硬化してできたもので、もともとはケラチンと呼ばれるたんぱく質からできていると説明されています。生きものは、身体の大部分を作るたんぱく質の、その皮膚にあたる部分を、防御や攻撃のために「硬化」させて、「爪」や「歯」、「毛」や「鱗」を作ってきたのです。皮膚を硬くするなんてどうやってと思われるかも知れませんが、私たちは誰でもドッチボールが飛んできたときなどは、反射的に身体を固くしてボールを受けとめているものです。危機や必要性のある場合には、身体のそういう部分は固くなり、身を守ったり、身を助けたりするように作られてきたのです。
 「爪」がそうであれば、当然「歯」もそういうものとして作られてきました。先ほどは「鬼」の特徴に「牙」があるといいました。虎やライオンには、「歯」の一部が特に大きく鋭くなった「切り歯」「牙」でできています。走る獲物に飛びかかり、逃がさないように「爪」を立て、「歯」を「牙」に作り変えていったわけです。そういうことが出来るためには、身体の必要な方向に「念」を込め、その部分の「たんぱく質」を変化させてきたと考えるしかないんですね。
 よけいなことをいいますが、「念」を込めることで身体の一部を固くするということでは、男性諸君はすぐに自分の「男性器」を思い浮かべるだろうと思います。ふだんは全然固くないのに、必要性が出てきたら「固く」することができるのですし、また「固く」することができなくてはならないのです。以前に、ある学会で親しくなった若い新婚の先生がおられました。その先生は、「うつ病」になられた時があったのか、薬を飲んでおられて、「その薬のせいかわからないのですが、ボッキしないんですよ」とあからさまに言われてびっくりしたことがありました。「インポテンツ」と言われるつらい症状です。私なら恥ずかしくてそんなことは人には言えないなあとその時感じ、その人のオープンな感性に感心したことを思い出します。


3 『ワンピース』の面白さはどこにあるのか

 『ワンピース』、これほど日本中と言わず、世界中で注目されてきた漫画、アニメはかつてなかったし、これからもないのではないでしょうか。私も、あるところまで(「ドレスローザ編」まで)は、欠かさず見ていました。続きが気になって、ついつい見てしまっていました。その「続きを見たくなる」悪魔的な魅力を断ち切ることはなかなか大変だったことを覚えています。なので、この『ワンピース』という物語の魅力を話しようとすれば、これまたとんでもない時間と労力、ずば抜けた解析能力が必要になってくると思います。ここではそういうところには踏み込まないで、私が本当に興味を持ったところに絞ってお話ししたいと思います。
 それは主人公が「ゴムゴムの実」を食べて「ゴム人間」になったという設定についてです。たぶん、みなさんは「ゴム」というものついてふだんは余り考えたことがないだろうと思います。台所のゴム手袋や靴底、ズボンやパンツのゴム、水道のパッキン、ホース、長靴、消しゴムや輪ゴム、ゴム製のボール、おもちゃ、自転車や自動車のタイヤなどなど、目に付くところだけでもたくさん使われています。さらには、機械類の中や建物の構造物の中には、それこそ無数のゴムが使われています。そして、このゴムの発見と活用によって、人類の活動は一気に文明的になったとすら言われています。飛行機一つとっても、多くの人は空を飛ぶ翼を持ったものと考えがちですが、車輪にゴムが着いていないと離陸も着陸もできないのです。
 この偉大なゴムの発見は、人類の生活をすっかり変えてしまったのですが、その恩恵をこうむっているゴムの全体の姿については、ほとんど意識することはありません。そんな中で実は『ワンピース』という物語は、この偉大なゴムの特性を抜きにしては成り立ち得ない物語として登場してきていたのです。その大事な所を少しお話ししておきたいと思います。
 わたしたちのよく知っている「ゴム」は、コロンブスが1490年代の航海で、カリブ海の住民がゴムボールで遊んでいるのを見て、持ち帰ったとことから始まったとされています。その後「ゴム」の汁を取る「ゴムの木」が注目され、栽培もされ、ヨーロッパに持ち込まれました。気になるのは、なぜ「ゴム」が、他の物体と違って、そんなに自由に伸び縮みができるのかということです。
 長年の研究があって、ゴムの成分の解明は進んでいます。それはゴムの成分を作る分子が、長く鎖状につながる「鎖状高分子」というひもになっていているところの発見です。大事なところは、この長いひもになっている「鎖状高分子」が、真っ直ぐなひもではなく、曲がりくねったコイル(「ランダムコイル」と呼ばれています)のような鎖状になっていて、さらにその鎖状のひもが、さらに複雑に絡まるゼリー状の物質を形成しているというのです。だから、ふつうの繊維は、引っ張っても長くは伸びませんが、ゴムはコイル状にからまっている分、引っ張ればずいぶんと伸びる性質を持っていたのです。その自由自在に伸び縮みし変形する特長を生かして、弾力剤や衝撃吸収剤、防水具、絶縁体など、さまざまな分野で使われてきました。またその自在な変形力を使って、輪ゴムのように、別々なものを束ねたり、離れている物をくっつけたりするところにも使われてきました。
 こうした「ゴム」のもつ特性をマンガ『ワンピース』の作者・尾田栄一郎が、いつどこでどうやって勉強することになったのか、知りたいところですが、この『ワンピース』の主人公、モンキー・D・ルフィは、ほとんどこのゴムの特性だけを「個性」にして生きる人物として造形される物語になっていたのです。彼の持つ武器は、誰かの作った刀や鉄砲のたぐいのものではありません。ビョーンと伸びる腕力一つです。それが、時には鋼鉄のように固くなり、何百メートルも離れた敵に炸裂するのです。作者は、このゴムの特性をトコトン調べ上げて、ルフィに生かしていると私は思います。
 こういう考察を念頭において、タイトルの『ワンピース(one-piece)』の意味や物語のテーマを考えて見ると興味深いものが見えてきます。そもそもふつうに言う「ワンピース」とは、上下ひと続きにつながった女性の服のことをいいます。上下に分かれると、「セパレーツの水着」などということになるでしょう。でも物語でいわれる「ワンピース」とは、「ワンピース/セパレーツ」と呼ばれるようなものではなく、ジズソーパズルの中の「one(ひとつ)/piece(小片)」がまず想像され、その「piece(小片)」のつながりが問題にされています。その場合の「one」とは「ひとつ」のという意味では無く、「ワンチーム」といわれるような、ばらばらなものが一つにまとまっているという意味での「ワン」になっています。さらには『ワンピース(one-piece)』は「ひとつなぎの大秘宝」と呼ばれる意味も込められ、その「大秘宝」を求める海賊の物語にもなっていて、ルフィが大活躍するわけです。
 ところで、作者側の「説明」はそうであるとしても、この「ワンピース」のもつイメージは、まさに「ゴム」だけが持つ「特有の鎖状高分子」のイメージをもっているところに注目する必要があると思います。そしてそのことと相まって、この物語のもう一つの巨大なテーマ、仲間との連携や信頼というテーマも、この「ゴム的な関係」として改めて見直す必要もあるのではないかと私は思います。そうすると隠された「ワンピース(ひとつなぎの大秘宝)」とは、「ゴムの世界」のことではないのかとすら思えてくるところがあるのです。
 こうした「ゴムの特性」への注目は、「いばら姫」の「トゲの特性」についての注目と重なるところがあります。一見すると、空想の産物のように見えている物語に、どこか「現実の裏付け」のストーリーが透けて見えてくるからです。

4 『鬼滅の刃』―吸血鬼の物語とは何か

 いつだったか学生さんから『鬼滅の刃』がおもしろいという話を聞いた時(2019年の春頃)、その物語を全然知らなかったことを覚えています。2016年から『少年ジャンプ』で連載され、アニメ化もされ、『ワンピース』につぐ大人気漫画だったというにもかかわらず。もう流行を追うアンテナがなくなっていたからかもしれません。あれからYouTubeでアニメが見られるというので、少し見てみました。面白い展開なので、ハマるといつまでも見続けることになるんだろうなと思いました。『ワンピース』の時のようにね。だから、こういう物語をおもしろがるのは、もう若い人に任せておくのが良いんだろうなとも思いました。
 なので、ここではみなさんがご存じの『鬼滅の刃』に触れることはできませんが、今まで取り上げてきたテーマからすると、「鬼滅」という「鬼」の存在が出てきているので、それについては触れないですますことはできないだろうと思います。この物語での「鬼」は「人食い」として設定されていて、「人の血」を吸うような気持ちの悪い場面がひんぱんに描かれています。「人食い」と「人の血を吸う」ということは、絵柄としては不可分なような気がします。中世の絵巻でも、「人食い鬼」が描かれるときには「したたる血」が必ず一緒に描かれていましたから。それは「吸血」としても意識されてきたものでした。
 私が演習の授業で取り上げてきた「吸血」の物語は『ドラキュラ』でした。「ドラキュラ」はブラム・ストーカーによって創作された架空の吸血鬼の物語なのですが、こういう西洋の吸血鬼の話は、人の首筋に噛みついて血を吸うという場面は描かれても、吸血鬼が人を食べるというような場面はあまり描かれてこなかったように思います。きっとキリスト教の文化が背景にあるので、「人を食べる」ような光景はおぞましすぎて、描けなかったのではないかと思います。それでもキリスト教の洗礼式では、赤ワインとパンを授かるのですが、それはキリストの血と肉の象徴であって、それを自分の中に取り込むという意図がありました。洗礼式は、いわば象徴的な「吸血」「人食い」の儀式だったとみなし得るかも知れません。
 それにしても『ドラキュラ』から『鬼滅の刃』まで、「吸血」と「人食い」「鬼」のテーマは延々と作られつづけてきたのですが、なぜそのような気持ちの悪い物語が作られてきたのかを考えることは、でも「児童文化」の大事なテーマでもあります。
 大きなテーマとしては、人間だけが「ご主人様」としてこの世界に住み、他の生きものは「人間の食糧」のように見下している世界観に、「人間も食べられる存在」である事を見せつける役割をする物語になっていること。それは、人間も食べられても良いというようなことをいう物語ではなく、他の生きものも、人間と共に生きていることをもっとちゃんと考えるための物語です。人間だけが生物の中の優位を誇っているうちは、こういう人間を食うテーマとする物語は、形を変えながらも作られてゆくと思います。『進撃の巨人』もそのバリエーションの物語だと思います。
 もう一つは、「血」というものの持つ重要性を訴える物語になっているところです。「血を吸う」というイメージだけを考えると気持ちが悪いのですが、そこから一歩進んで、「血を持つ存在とは何か」「血とは何か」を考えるきっかけになる物語になっているところは見ておかなくてはなりません。
 大事なことは、「血」あるいは「血液」とは何かということです。中学の理科の教科書では、すでに「血液の働き」「血液の成分」として大事なことは習いますし、高校の「生物基礎」になると、さらに踏み込んで「血液」のことを習い、理科の実験室で、アフリカツメガエルの後ろ足に針を刺し、血液を採取し、顕微鏡で観察する方法までを写真入りで紹介しています。(実際に、みなさんが、そんな実験をしてこられたのか知りませんが・・。)
 教科書で習うことは次のようなことです。一口に「血液」といっても、そこには「赤血球」「白血球」「血小板」「血しょう(液体)」「ミクロファージ」などがあって、「赤血球」は酸素を運び、「白血球」は異物を食べて生体を防衛する免疫機構を担っていて、「血小板」は血管の傷口を塞ぐ役割をしていると習います。
そんなふうに、教科書で習うことは習ってきたのですが、実感として心に残ってきたかどうかは分かりません。というのも、血液が酸素を運ぶといっても、本当に実感として「分かる」部分が少ないからです。
 そもそも「血」がなぜ赤いのかというと、血管を流れるアンパンのへこんだような赤血球が赤い色をしているからで、その赤色は、鉄分を含んだヘモグロビンというたんぱく質がその中にあるからなんですね。でもなぜが、赤血球に「鉄分」が含まれているかというと、鉄分が最も酸素と結合しやすいからでした。
 しかしそういう「説明」を授業で教わっても、そうなんだと覚えるしかないわけで、なぜ生命体の多くがが、「鉄分」を酸素の吸収に使おうとしたのか、その辺の大事なところはイメージとして全く分からないものです。ちなみに、タコやイカ、カニ類を切っても赤い血が出ないので、彼らには「血」が無いんだと思っている人がいますが、それは違います。彼らも酸素を取り込んで呼吸をしているのですが、酸素をくっつけるのに「鉄分」を利用しないで、「銅」を使っているのです。そのために「血の色」が「無色」だったり「青い血」に見えたりするだけなのです。
もちろんここで「血液」のお勉強をしようというわけではありません。生きものの最も大事な「呼吸」という部分が「血」を通してなされているということをわかっていただくための話をしているのです。そして「血」を意識させられる物語が「吸血鬼」や「人食い鬼」の話だったというわけです。
 しかし不思議なのは「血液」だけではなく「血管」もそれに劣らず不思議極まるものとしてあります。身体が抱える37兆個の細胞のすみずみまで、「血管」が伸びて酸素を送り届けているからです。たぶん、個々の細胞が発するなんらかの「呼びかけ」をめがけて、そこまで酸素を運ばなくてはと、植物の「根」のように「血管」は伸び続けているのです。そういう意味では「血管」も自ら考えて仕事をしていたのです。

 こうやって中高の理科の教科書を手がかりに振り返ってみただけでも、「血」というものが、最も大事な活動をしていることがわかります。それは酸素や栄養分を「仲間」の細胞の隅々まで届け、「敵」体内に侵入したら認知し、そいつらを捕食し、傷を受けたら出血止めを施す、といった活動です。それは、まるで「吸血鬼」をやっつける物語さながらの活動の様に見えるから不思議です。


Ⅲ 児童文化のもつ「柔らかさ」へ―

1 「型どおり」と「型破り」

 児童文化というと、児童文学や昔話、アニメ、絵本の理解を深める分野と思われているかもしれません。もちろんそういう側面はとても大きくありますし、現に今回の話も、そういう物語の紹介からはじめました。でも、だからといって、そういう物語だけが児童文化というわけではありません。
 言葉としては児童文化などと言っていますから、どうしても児童向けの物語を研究するような分野に思われてしまいますが、実際は「子どもの遊び」のようにして残されてきているものの中に、実は「生命」のもつ基本的な仕組みを再現しているものがたくさんあって、そういうものを考える分野と言ってもいいくらいだと私は思っています。そしてすでに、その基本的なことはお話ししてきたと思います。
 でも今までの話はどちらかというと、「生命体」が「敵」を前にして、「トゲ」や「角」や「牙」や「甲羅」を作るような、身体を固くする方向での話でした。でも「生命体」は、身体を固くするだけでは生きてゆけません。それ以上に、身体を柔らかくする術をもっていないと生き抜いてゆくことはできなかったからです。生命体には、「柔らかさ」と「硬さ」の両方が必要だったのです。
 ところで、学校や社会は、何をしてきているかというと、どこかしら人間を「型」にはめ、互いを競争させ、固く身を守るようなことばかりを教えてきたと思います。競争社会を生き抜くためには、そういう学習が必要不可欠だと思われてきたからです。でも、「型」にはめられるだけの生活は、子どもたちにとっては窮屈極まりないので、学校が終わると、自然と「型破りな人間」の登場する、そして仲間思いの漫画やアニメ、物語に興味を示してきていたと思います。そこで何をしていたのかというと、「型にはまる自分」と「型破りの自分」の両方を体験していたということです。
 この「型どおり」と「型破り」の両方の体験ができるためには、身体のどこかが「柔らかく」なっていなければなりません。そして矛盾したことをいうことになるのですが、この「柔らかさ」を手に入れるということは、「型どおり」と「型破り」の両方の体験を行き来するしかないのです。その両方を行き来する体験の場が「児童文化」と呼ばれてきたものです。

2 「あやとり」の不思議について

 たとえば「あやとり」と呼ばれる遊びがあります。今の子どもたちは「あやとり」をするのでしょうか。私が小学校の頃は、女の子たちのする複雑怪奇な「あやとり」に混ぜてもらってよくやったものです。ある子がつくった「あや」を、別の子が「別のあや」として上手にすくい取るのは、なかなかまねができませんでした。こういう「あやとり」をみなさんは少女時代の幼稚な遊びのように思っているかもしれません。でも実は「あやとり」は昔から世界中で行われてきたもので、それも「大人のするもの」でもありました。その「大人のするもの」が廃れて、今では「子どもたちが、子ども時代にだけするもの」と思われてきています。
 日本語で「あやとり」と呼んできた呼び方はとても素敵です。アメリカでは「Cat’s Cradle(キャッツ クレイドル=ねこのゆりかご)」などと呼ばれて来たそうですが、「string figure(ストリング フィギア=ひもの形)」とも呼ばれ「国際あやとり協会(International String Figure Association)」もあります。でも日本語の「あやとり」の方が、本質的なことを言い当ているように私は感じています。関西では「いととり」とも言いました。
 「あや」というのは漢字では「文・綾」と書かれ、「模様」のこととされています。だから「あやとり」とは「ひも」でもって「模様」を「取る=創る=結ぶ」遊びのことを言っています。そしてこの「あや」として作られる模様は、世界中でもさまざまあり、たとえば太陽、月、星、空、山、海、川、波、植物、動物、その他の生きもの、家、道具、日常品、地図、幾何学模様などなど・・3000種類ほどあると言われています。(『世界あやとり紀行』INAX出版2006、監修 野口廣『あやとり大全集』主婦の友社2013 野口廣『あやとり学』今人舎2016 参照)。
 この「あやとり」の最も大事なところは、「指」や「手」を使ってさまざまな「あや(模様)」を創り出すのですが、元々は「ひも」にすぎないというところです。そしてあやとりの大事なところは、その「ひも」が「わ」になっているというところです。「わ」になっていなければ、「あや」はできないからです。
 こういう「説明」をすると、はじめにお話ししたことを思いだして下さる方もあるかとおもいます。生命は「わ」であり「ひも」であり「手」であり・・という話のことです。そうなんです。「あやとり」というのは、じつは「生命の営み」そのものの真似をしているところがあったのです。だからそれは「子どもの遊び」でも「幼女時代の遊び」でもなく、はじめは「大人」たちが、「生命の神秘」を「手」で体感する神聖な儀式のようなものとして作りだしていたんだと思います。
 この「あやとり」のすごいところは、苦労して作った「あや」も、一瞬にしてもとの「一つの輪」にしてしまえるという所です。世界の「姿」を、まるで「天地創造」のように創りながら、一瞬にしてそれを消し去ってしまうのです。でもまた次の日「再生」させることができるのです。
 「あやとり」には、創作としての「型作り」とそれを打ち消す「型破り」の両方を楽しむ過程があり、大人も子どもも、そういう「天地創造」と「天地消滅」のやりとりを興味深く体感してきていたのではないかと思います。

3 「粘土遊び」について

 また子どもたちの好きな遊びに「土遊び」があります。このことを次に少し考えておきます。家庭科の免許を取るためには、幼稚園に2日間「保育実習」に行かなくてはなりません。そこで、いろいろな遊びを経験するのですが、中でも子どもたちが熱心に取り組む遊びに「泥だんご」づくりがあります。まず、砂場の砂に水を加え、泥状にして丸めます。それから、運動場の乾いた白い土をかき集め、「砂ふるい」で細かい砂をより分けます。そして、泥だんごのまわりに、その細かな乾いた砂をまぶして出来上がりです。
 実習先の幼稚園では、子どもたちはそれを「泥だんご」とは言わないで「さらこ」と呼んでいました。白く乾いたサラサラした砂をまぶすので「さらこ」と呼んできたんでしょうか。ところで、そういう「さらこ」つくりは、単なる「泥だんご」つくりではなく、特別な「技術」のいるものでした。だから毎年、その作り方は、年長さんから年少さんへ伝達されていました。
こうした「泥」を使っての遊びは、保育士を目指す人たち以外には、さほど注目されるわけではありませんし、現場の保育士さんでも、こういう「泥遊び」の意義を、心から納得するように理解している人は少ないように思います。単に「子どものおもしろがる遊び」としか捉えていないところがあります。
 最初の疑問は、「泥」とは何かと問うところにあります。砂場の砂は、ふだんはサラサラしているのですが、水を加えると、粘り気をもった「泥」になります。「泥」とは何かの答えは、あっけなく答えられてしまいそうです。その「泥」になった砂を高く盛って山にしたり、そこにトンネルを掘ったりして遊びます。こういう山やトンネルは、水の含まないサラサラの砂ではできません。「砂」と「泥」の違い。そんなことはあまりにもわかりやすすぎて、そこに大事なことが含まれているとはとうてい思えないものです。
 砂が水分を含んでいるものを、ふつうは「土」と呼んでいます。というか、水分のない土を「砂」と呼んできたのではないでしょうか。そしてしっかりと水を含んだ土を「泥」と呼び、簡単には水分の抜け出さない土を「粘土」と呼んできたように思います。子どもたちは、「砂場」遊びも好きですが、保育室での「粘土遊び」も大好きです。
 ここに「砂」―「土」―「泥」―「粘土」の区別があるのですが、この区別をうまく「説明」できる人はそんなにおられないのです。とくに「粘土」という「土」の発見は、人間にとって大きな変化をもたらしてきたものですが、そもそも「粘土」というのは何なのかは、あまり考えたことはありません。粘土とは、ただ水を含んだ土というものではなかったのですから。砂場の土に水を掛けても、「泥」にはなっても「粘土」にはなりませんからね。
 「粘土」とは、特に細かな粒子になった土に水が混ざってできたものです。この細かな粒子状の土に水が混ざると、粘り気のある土になります。この粘り気のある土は、練ってゆくと様々な形に変形してゆきます。こういう変形は、砂や土や泥では出来ないところです。
 子どもたちは、この「粘土」で、へびをつくったり、コップを作ったり、車を作ったり、様々なものを作ります。「あやとり」のひもで、様々なものをつくりだすように。この「粘土」の特性を知っていて、きっと旧約聖書の作り手は「エホバの神は土でもって人を作った」と書いたのだと思います。
 古代の人は、ある時この「粘土」を発見し、これを練って、土器や壺を作り、水や食料を保存することを覚えました。さらには粘土板に楔形文字も記録してきました。この「粘土」からできる「土器」や「文字板」がなければ、人類は今のような文明を持つことができなかったでしょう。
「粘土」というのは、まず「柔らかい」という特性があります。それは「ひも」のように伸ばせばいくらでも伸ばすことができます。『ワンピース』の「ゴム人間」のように。そのひも状になった粘土を「環」にし、うつわの形にして火で焼くと「固い」土器になります。「柔らかいもの」が「固いもの」になるのです。こうしたことが可能になるのは、粘土が「細かい粒子」でできていて、お互いの接着面が多くて、水分を含むと粘りつくように密着するからなんですね。まるで「ゴム」のように。
 子どもたちが保育室で「粘土」の変形を楽しんでいた頃から、すでに「ゴム人間」ルフィの物語を先取りして遊んでいたと言えないこともないのです。
 こんなふうに、物を細かい粒子状にすりつぶして水を含ませると、何にでも変形させられる粘土状のものが出来るということを知った人類は、あるときに、小麦やトウモロコシを石ですりつぶして粉状にし、水を加えると「粘土」のようになることを知ります。その小麦粉を練って、丸めて、火に掛けて焼くと、固くておいしいパンの出来ることを知ることになります。
 こうして穀物の粉状化や粘土化は、食物の保存や食べやすさを創り出してきました。人類の大きな発明です。子どもたちの粘土遊びには、そのような人類の叡智に満ちた歴史が込められていたのです。
現代の子どもたちは、保育室で「土の粘土」ではなく、新しく作られた「小麦粉粘土」でも遊ぶようになってきています。

4 「折り紙」へ

 「創作折り紙」というものをテレビで見られた方がおられるでしょうか。恐竜や天馬、カブトムシ、バラや貝殻、ええっ、こ、これが折り紙! とびっくりするような造形物が「折り紙」として紹介されています。もう十分に芸術作品というか、アートの領域の作品群です。でもふつうの「折り紙」は、幼稚園ぐらいまではしても、小学校に入るともうしなくなっているんですね。
 私は幼稚園に実習行く学生さんに、色紙を渡して、実際に折ってもらうこともしてきました。折り方のサンプルも渡してきました。懐かしいと言いながら、忘れていた折り方を思い出しつつ、折り紙の不思議さに改めて気がつく学生さんも出てきていました。「折り紙」というのは、考えてみると確かに本当に不思議なものなのです。たった一枚の紙で、切ったり張ったりしないで、ただ折り込むだけで、どんな造形物も創ってしまうのですから。
 もともと千羽鶴などは、日本の子どもたちなら誰でも折れるというので、外国の人から感心されてきたものです。「折り紙」は、手先の器用な日本人ならではの発明であるかのように見なされることもあり、「折り紙」のことは、外国語でも「ORIGAMI」として通用してきています。それでも、多くの日本人が、この「折り紙」を忘れているのですから、日本人の発明のように自慢するのは恥ずかしいものです。ただ、複雑な物をこの小さく折り畳む発想は、宇宙探査機の太陽パネル収納技術などとして先端科学で応用されてきていることは注目されてもいいと思います。
 そんなふうに、高度な科学技術としても見直されてきているこの「折り紙」の不思議さは、どのように考えるといいのでしょうか。大事なことは、「折り紙」が「一枚の紙」から折られるということをどのように考えるのかというところにあります。
 私は、この「一枚の紙」というのは、山中伸弥氏の発見した「ips細胞」のようにイメージするのがいいと思ってきました。たった一枚の「ワンピース」にすぎない紙が、折り方一つで、まるで「ips細胞」が「複雑な生物」を創ってきたかのように、「複雑な姿」を創り出してきていたからです。「部分品」のように見えている「一枚の紙=ワンピース」に中に「全体」があったというわけです。そして、作り終えて、また「折り」を「解く」と、「一枚の紙=ワンピース」に戻ってしまいます。「あやとり」の終わりが「一本のひもの輪」になるように。
 こういうふうにみてゆくと、たかが「折り紙」と言われてきたものも、幼稚園児の遊びで終わるものではなかったことがわかっていただけると思います。「児童文化」と呼ばれてきた分野の深みが、こういう何でもないところから見えてくるものです。
 問題は、では「一枚の紙」があれば、どんなものでも作れるのかということですが、それはそうではありません。そこには「設計図」というか、こういう物を作ろうというイメージやアイディアが必要です。それは、生命体にとっては、絶対に必要なことなのです。こういう形にしようという「意志」があって、はじめて「あや」が作られてゆくからです。半分は「偶然」に、半分は「工夫」の仕方で。

5 「ひも」と「結び」と「包み」

 アニメ『君の名は。』2016の中に「組紐」が出てきて、当時の若い人たちに「組紐」への関心を呼び起こしたことがありました。一時のブームだったにしろ、これは良いことだったと思います。「ひも」で遊ぶことについては「あやとり」で見てきました。そういう意味では「組紐」は、子どもの遊びというわけにはいきません。織物として高度な技術が要求されるものだったからです。
 でも、この児童文化の話の中では、どこかでそういうものについてお話ししておきたいと思ってきました。そういうものというのは、「織物」についてです。「織物」というのは、「糸」を織ってつくるものでしたが、この「糸」も、綿毛や羊毛を縒って「ひも状」にしたものでした。この綿毛や羊毛を紡ぐ針のある道具を「紡錘(つむ)」と呼んできたのですが、『いばら姫』では、この「紡錘」を国中から撤去せよと王が命令を出した話をすでに見てきました。これを撤去したら「糸」ができなくなり、「糸」ができなければ「織物」全般ができなくなるので、無茶苦茶な命令を出したものですが、もちろん実行出来るものではありませんでした。
 ここでかえりみたいのは、でも、そういう物語ではなく、「糸」や「ひも」についてです。「糸」や「ひも」は、それだけでは使い道は限られているのですが、それを結び、組み合わし、編むことで、より強く、より大きな布を作り出すことができるようになります。そういう織物の広がりも「児童文化」の視野の中に入れておいてもらいたいのです。
 たとえば『不思議の国のアリス』の主人公の着る服も、当時の人気の服になり、子どもたちはこぞって着たがったと言われています。アニメ『魔女の宅急便』の最初の方で、キキが、黒いワンピースを着るシーンがあって、もっとオシャレな服が着たかったのにとお母さんにいう場面がありました。物語の主人公たちがどんな服を着るのかは、決してどうでも良いものではなかったのです。
ただここで注目したいのは、そういう「服=織物」が様々な「結び」の技術で出来ていることについてです。この「糸」や「ひも」を「結ぶ」というあり方は、古代からとても神聖なものとして伝承されてきていたからです。
 みなさんも結婚のお祝いなどに「水引」というものを買われたことがあるかと思います。漢字でなぜ「水引」と書くのかについては、様々な解釈がなされてきていますが、私はこの「水」というのは、「和語」として古代から新芽のように生命力の涌き出るものを「みずみずしい」と言ってきたことに関わりがあると思います。そのめでたい生命の「みずみずしさ」を溜めて結んで、失わないようにと願ってできたものが「水引」と呼ばれる「結び」だったのではないかと。
 そういう思いで見てみると、みなさんの回りに「結び」を大事にしたものがたくさんあることに気がつかれると思います。女性の着物には「帯」があって、その「結び」はでもひとりで出来なくて、成人式や卒業式などの「着付け」が大変だったと思います。なんであんなめんどくさい「帯の結び」をしなければならなかったのかと思うでしょうが、ああいう「結び」は、「水引」と同じで、「生命力あふれる女性」の「みずみずしさ」を引き立てるように、そしてそれを失わないように、思いきっり豪華な技法で「結ぶもの」にしていたものでした。
 着物は、みなさんの身体を守るためのものですが、家族を守るためのものとしては「家」がありました。この「家」も元々は、萱葺きで、木を組み合わせて造られていて、そこでは材木をつる紐で固く結ぶ技術が求められていました。こういう建築物にも「結ぶ」技術は大事なもので、しっかりとした「結び」が求められてきたものでした。
 私たちが「家庭科」で習う「衣食住」と呼ばれる三分野の中心に、たくさんの「結ぶ」というあり方があるのには、もっと注目されていいのではと私は思います。結婚が「縁を結ぶ」と言われ、暮らしの中の道徳や倫理も、様々な人間関係の「結び=取り決め=約束事」としてありました。大事なことは、この「結び」は永久的に固定されるようなものではなく、不都合が起これば、その「結び」を「解く」ことが出来るようになっていたものです。でも、昔は「家の掟」や父親優位の「家父長制度」にきつく結ばれて、自由の取れなかった女性や子どもがいました。「結び」は必ず「解く」ことが出来ることも、忘れてはならない大事なことでした。
 このように「結び」は身の安全、家族の安全を守るためにもなくてはならないものでしたが、固く結びすぎると解けなくなることもでてきて、それはとても問題でした。
 余談になりますが、私は学生の頃『結ぼれ』みすず書房1973という題の本に出会ったことがありました。イギリスの精神科医レインの書いた詩集という触れ込みでした。実際に詩集として読むには無理のある本でしたが、この本の題にはとてもひかれるものがありました。「結ぼれ」とは人間関係のひどいもつれや絡まりぐあいをいうもので、それが元で精神科に通う人が出てくるわけで、そういう状況を「結ぼれ」として、本の題に付けたのです。ちなみにこの本の原題は『knots(ノット)』で「結び目」「ロープの固いもつれ」というような意味です。その「ノット」を「結ぼれ」と訳したのは、なんとうまい翻訳だろうと思ったものです。

 ところで、この「結び」とともに、もうひとつ考えておかなくてはと思ってきたものに、「包み」というものがあります。わたしたち年配者なら「包み」というと「風呂敷包み」のことを思い浮かべる人が多いのですが、今の若い人なら、もう「風呂敷」そのものを見たり触ったりする人もいなくなっているかもしれません。なので「包み」というよりか、「包装」という方がわかりやすいかも知れません。「包装」なら、包装紙や買い物袋などでお馴染みで、ブランドの包装紙や紙袋は、若い人でも大事にしているのではと思われるからです。
 考えたいことは、なぜ「包装」のようなものがあるのかということについてです。本屋さんで本を買って丁寧に包んでもらっても、家に帰り急いで読みたいときなど、ビリビリと破いてしまいます。お菓子の包装もそうですね。早く食べたいので、ビリビリと破いて捨ててしまいます。そういうことがわかっていても、お店の人は、商品を丁寧に包んで渡してくれます。商品をそのままハイと渡されることはないのです。
 なぜこのような「包装」という慣習があるのでしょうか。理由はたくさん挙げられますし、民俗学的な研究もたくさんなされてきています。柏餅やチマキや柿の葉寿司、竹の皮に包んだおにぎりなどなど、民俗学的な研究の対象になる「包み」にも、私は大いに関心はあるのですが、ここではそういう関心は横へ置いておいて、生命がたくさんな袋で包まれていることに注意をうながしておきたいと思います。
 植物も動物も人間も、身体の一番外には「皮膚」と呼ばれる「袋」で包まれていて、その中にたくさんの臓器がごたまぜにならないように「包み分け」されながら収まっています。不思議です。あまりにも不思議なので、自失しそうです。その不思議の一端は、それらの包みは、固く縛られているのではなく、ゆるく縛られた「袋」になっていて、それは「綴じ」ながら「開く」ようになっているところです。生命の「包み」とはそういう不思議なあり方をしているもので、そこがまたブランドの包装紙などと違うところです。
 「生命体は、こういうふうに「綴じ」ながら「開く」ような「包み」そのものの総合体なんですね。

 よけいなことをいいますが、身体が「包み」だとしたら、その結び目が「口」であったり「性器」であったりしていると思います。とくに「口」は、「包み」を守る大事な結び目なので、そこに赤い目立つ色を塗ったり、髭を付けたりして、ちょっと豪華に「結び目」を演出してきたようにも思います。

6 「児童文化たんぱく質」について

 こうした柔らかい包みを造っているのが、理科の授業で「たんぱく質」と呼ばれてたきものでした。わたしはこの「たんぱく質」と呼ばれてきたものを、もっと身近なイメージ捉えられないものかとずっと思っていました。それはいずれ、発表出来る機会があるかと思いますが、今で言える範囲で言えば、それは「粘土」のようなもので、どんな型にでも変形出来る粘着性のあるものだということです。生命体が「念」を込めたら、その方向に、必要な形を作り出すことができるものです。
 この「たんぱく質」と呼ばれて来たものが、実は「児童文化」の中核にあって、子どもたちが「念」を込めたら、どんどんとその「児童文化タンパク質」は、伸びたり、縮んだり、変形したりして、子どもを守る防御態勢を造り、免疫体制を造ってきたと考えます。
 そういう意味では豊かな「児童文化」に触れて育った子どもたちは、「児童文化たんぱく質」のようなものを得てきたのだと言えます。そして、様々な物語を通して、様々な変形術を学び、時には柔らかく、時には固く変形させ、防御や免疫、そして優しさなどを自分の中で形成させてきていたのではないかと私は思います。


Ⅳ 「存在給付」という考え方へ

1 「存在給付」とは

 最初に、最も大事な考え方のことをお話ししました。それは「根に花あり、花に根あり」という考え方のことです。
特に今年(2020年)のように、新型コロナウィルス感染で、日本中が「外出自粛」に見舞われ、商店や会社に人がいけなくなり、店や会社の倒産に追い込まれるところも出てきました。その結果、解雇され無収入になる人たちも出てきました。安倍内閣は、こうした状況を見据えて、企業への支援金や、個人への一律10万円の支援金を支払うことを決めてきたのですが、収入を断たれる企業や個人への一時的な支援金というのは、どういうふうに考えるといいのでしょうか。
 支援金を受け取る方としては、いくらもらってもいいわけで、もらえるものはくださいということになるのですが、そもそも月々の「収入がなくなる」という事態はどういう事態と考えればいいのでしょうか。「収入がなくなる」ということは「食べもの」を手に入れることができなくなるということで、そういうことが現に起こってきているので、政府は一時的な支援金を出したということなのでしょうか。
 こんなに文明の発達した社会で、一時的にしろ、日々食べるに必要な収入を断たれるという事がありうるとしたら、それは本当におかしな事が起こっているのだと言わざるをえません。それに対して政府がひとりひとりに10万円を支給することに決めたということが「美談」のように語られるとしたら、それも相当におかしな事になっていると言わざるをえません。「文明国」であればあるほど、どんなことがあっても人々が食べての暮らせるための条件は保障されていなければならないはずなのに、そうなっていないことを政府が示していたからです。
 みなさんは2016年10月にNHKで放映された「NHKスペシャル マネー・ワールド」を覚えておられるでしょうか。三回にわたって放映されたこの特集は異様な特集でしたが、その後の再放送への希望や書籍化への希望もありながら、なぜか実現されないままにきています。不思議です。この特集で何が注目されたのかと言いますと、世界の人口36億人の総資産と、たった62人の富裕層の資産とが同じだという報告でした。心臓が破裂しそうになるような怒りを覚える報告でした。世界は一体どうしてこのような醜悪なことになってきているのか、みなさんは知りたいと思われませんか。
 きっかけは資本主義の誕生からはじまるのですが、資本主義に反対して共産主義の政策を採ったからといって、事態が好転するわけではありませんでした。「資本」という金を貯め込む仕組みを創らなければ、巨額の費用のかかる科学技術=軍事技術は開発できなかったからです。
中国(中華人民共和国)は共産主義を掲げる国ですが、13億人近くの人口を抱えながら、大地主の土地を国有化して農業で得た富を共産化するだけでは、西洋の文明には追いつけないことがわかり、もっと「資本」のような巨大な富を持つことが国の文明にも必要であることがわかってきます。それで1985年になって、当時の最高指導者、鄧小平(とうしょうへい)が「先富論(せんぷろん)」と呼ばれる「改革開放」の政策を唱えます。「先富論」とは、「先に豊かになれる者たちを富ませ、そののちに、後に残された貧しい者たちを助けること」というモットーの政策です。その結果、中国にも巨額の資本を所有する富裕層が生まれ、大都市が発展し、軍事産業も伸び、アメリカと肩を並べるほどの経済・軍事大国にもなってきました。
 しかし、その結果、中国にも「共産主義」と言いながら極度の貧富の差が生まれてきています。鄧小平の指示した「先富論」は、国を大国にはしたのですが、結局西洋の大国と同じように、貧しい人々はおきざりにしたままの「大国」になってしまっているのです。
 それを「資本主義」のせいにするだけでは、事態の深刻さは見えてきません。というのも「巨大な資本」を持たなければ、この科学の時代の国家は発展し得なかったからです。
 しかしその結果、62人の富裕層が、世界の人々の総資産に匹敵する富を独占するようになってきたというわけなのです。
 問題はどこにあるのでしょうか。「資本主義」そのものは、そもそもが鄧小平のいうような「先富論」なのです。「富める者から先に富め」という政策です。そこから人々が得られた文明の恩恵は計り知れないものがあるのですが、その先富論が持っていたもう一つの理念、つまり「後に残された貧しい者たちを助けること」という考えを、きちんと国の制度として実行するようなシステムが構築出来てこなかったのです。
 やろうとすれば出来ないことはなかったのですが、いったん富裕層になった者たちは政治家になり、自分たちの富裕を減らすような政策には反対をし、富める者はどこまでも富めるような政治システムばかりを支援し続けてきたのです。それは西洋でも、日本でも、中国でも同じです。いまでは資本主義と共産主義の対立があるわけではなく、西洋流の資本主義と中国流の資本主義の違いがあるにすぎません。
こういう世界情勢の中で、コロナウィルス感染で市場経済がストップするときに、人々の仕事や収入がなくなり、日々の食糧を買うこともままならなくなる人が出てくるというとき、それは本当に世界がそんな風になっていることの結果なのかと私などは思うわけです。ウイルスが悪いのか。
 私はそうではないのだと思います。62人のような一握りの富裕層の持つ資本が、もっと多くの人に分配されるような政治システムが早くに出来ていれば、日々の食糧にも困るような人たちが出てくる社会は来ないはずだと考えるからです。
 私はコロナで仕事が出来なくなる時期だから、赤ちゃんから年寄りまで、分け隔て無く一律に10万円支給しましょうというような政策ではなく、人々が暮らしに困らない生活保障、生活給付は、国の仕組みとして当たり前のように実行しなくてはならないと思っています。そういう生活の土台を支える「給付」を「存在給付」と私は呼んできました。
 「存在給付」とは、人々が暮らしてゆけるための、まさにこの世に存在するために必要な給付のことです。それは「赤ちゃんから年寄りまで、分け隔て無く一律に給付されるもの」でなければならない性質のもので、「共産主義」というようなイデオロギーとは別の考え方から導き出されるものです。
 こういう「存在給付」の考え方の根拠こそが、最初に言いました「最も大事な考え方」、つまり「根に花在り、花に根あり」という考え方なのです。「先」にでたものは「後」を忘れてはならず、「先」があるのも「後」があることによって成立したのであって、生命体は「先」と「後」が「わ」のようにつながっていなければならないものだったのです。でも19世紀から急激に成長した「資本主義」は、本来の「生命のわ」を見失ったところで、奇形化してきていると私は思っています。

2 これからの「児童文化」へ

 さて、最後に政治的なお話をしたかのように思われる方がおられたかも知れません。日々の三度の食事もとれないという貧困家庭の子ども存在を考えると「政治的な話」もしないわけにはゆきませんでした「生活の話」。そういう話をしない「児童文化」はあり得ないからです。
 そうした「食べられない子どもたち」への「子ども食堂」の支援を地域のボランティアの人たちがしてくれているわけですが、どうしてそういうことが「政治」として出来ないのでしょうか。子どもや妊婦や年寄りは「働かない」のだから、「給料」は受けられないようになっています。その代わり、児童手当とか、生活保護という、特別な名称をつけて「手当」や「福祉金」として支給されるものはあるのですが、そこに「存在」しているだけで支給されるものは、まだこの世界にはありません。いぜんと世界は「働かざる者は食うべからず」なのです。
 でもそこに「存在」しているだけで「給付」の受ける道はあるのです。それはとんでもなく集中する富裕層の資本を、多くの人に分配する政治的な仕組みをみんなで作ることによって可能なのです。大事なことは、「存在給付」と「給料」を一緒くたに考えないことです。「給料」は働く度合いによって分配されるものですが、「存在給付」は、ただ存在するだけで支払われるものです。この違いを、どうか児童文化にかかわるみなさんはしっかりと意識してください。というのも、赤ちゃん、子ども、妊婦さん、という「子ども」の領域では、「稼ぐお金=給料」とは発想の異なる「給付」が絶対に必要なのですから。そのイメージを豊かに育むことも、「児童文化」の大きな使命になっていなくてはと私は思っています。

 「児童文化」は「地球の環」と「生命のわ」の関わりを考える分野と言ってきましたが、まだそこに「政治の和」を付け足さないといけないと私は考えています。ここでいう「和」とは、『論語』の「学而第1の12」で語られる「礼を実行するには和が何よりも大事だ」という一行から読み解かれるものです。ここでいわれる「礼」とは「根に花あり、花に根あり」を尊ぶ政治作法であり、「和」とはそういう政治の作法が人々の「交互=代わり代わり」の中で実行される作法のことです。こういう「和」への強い思いは、「飢えた子ども」を忘れない「児童文化」の担い手の若い人たちの感性によって継承されてゆくものです。ここで聞いて頂いているみなさんが育ててくださる感性によって作られてゆくものです。
 ところで、「生命のわ」と「政治の和」を指摘すると、何か抜けている「ワ」のあることを、感じる方がおられるのではないかと思います。それは、暮らしの中の、人々の心の有り様を示す「ワ」の次元です。それは「生活の話」という次元の「対話」の「ワ」です。でもそういう「生活の話」についてはここでは触れる余裕がありません。いつか、日を改めて語れる日が来るだろうと思っています。聴いてくださる方がおられればの話ですが・・。なので、ここでは「ワ」については、大きく分けて四つの次元があるのだということについて、つまり「地球の環」「生命のわ」「生活の話」「政治の和」の4つの「ワ」の次元があって、それのどれをが「重層的なワ」として関わっているので、そのどの「ワ」も見失ってはいけないことだけを指摘しておきます。

3 「大地」から「天空」へ ―『はらぺこあおむし』の読み

 最後と言いながら、ホントにこれで最後になるのですが、児童文化の大事なところは、人々の「生き方の変容」を手助けするものだというところにありました。変化、変身、変容というのが、私たち大人にとっても、子どもたちにとってもとても大事なことでした。面白い物語の良さも、読者を、「型にはめられた世界」から連れ出し、「型破りもあり得る世界」を体験させてくれるところにありました。そんな変化や変身や変容とは、心身が「柔らかくある」ことで初めて実現出来ることでした。

 エリック・カール『はらぺこあおむし』(原題は『The Very Hungry Caterpillar』で「Caterpillar(キャタピラー)」は毛虫、青虫。)は楽しい絵本です。なんでも食べたがるあおむしも面白いし、最後の二ページ丸ごとを使って翅を広げてド派手な美しい蝶になる絵柄も、子どもたちには大人気です。ところで、少し立ち止まって考えてみると、この絵本がお気に入りになるというのは、どういうことなのか、不思議さや疑問がいっぱい残る作品になっています。というのも、たいていの子どもたちは、毛の生えた「毛虫」は好きではないからです。毛のない「青虫」でも、気持ち悪いと感じる子どもは多いものです。なのに、この絵本は大好きです。もちろん「熊」は恐いけど「クマのプーさん」なら好きだというのと同じだから、実物と絵本を一緒にしてはいかんよ、という児童文化の「お約束」を無視したようなところを「問題」にしようとしているわけではありません。
 事実、絵本の「はらぺこあおむし」は、色とりどりのくだものをはじめ、人間の子どもの好きなアイスクリームやキャンディーなどをどんどん食べ続けるのですから、現実の青虫、毛虫ではありません。そして、案の定、お腹を痛くしてしまいます。でもそのあとはどんどん大きくなって、目も足もない茶色いフットボールのようなサナギになります。子どもたちには、なんでそんなフットボールみたいになったのか、よく分からないままに、サナギになったんだと思っていると、最後のページでドカーンとチョウが現れます。それも見開きいっぱいに。全身カラフルになったチョウが。
 そして振り返ってみたら、この絵本は、青虫の変化を子どもたちに科学的に「説明」してあげますよというようなお話なのではなく、やたらとカラフルな「色」を食べまくる幻虫のお話になっていることに気がつきます。その「色食べ虫」が真っ白いタマゴから始まって、きれいな色を食べまくり、最後はあらゆる色を取り込んだ「チョウ」のような姿に変身したという変身物語です。
 そういう幻虫の物語として読めば、絵本の展開は、子どもにとって説明しがたい面白い物語になっていることがわかります。でも私がこの絵本に「不思議」を感じるのは、そういうところではないんです。そういうところというのは、これは現実の青虫の話ではなく、「色食べ虫のお話」として理解してすましてしまうことに対してです。「実際と物語を一緒にしてはいかんよ」という「お約束」に対してです。というのも、この絵本には、何かしらの「実際の話」も描かれていて、子どもたちはそこに反応しているかもしれないからです。
 私たちはついつい、この絵本の「あおむし」が、カラフルなチョコレートケーキやピクルスやチーズやぺろぺろキャンディーやサラミやさくらんぼパイやソーセージなどを食べ続けるところを、子どもは面白がっているのだと思ってしまいます。本当の「青虫」ならそんなものは食べないのに、この「あおむし」は「はらぺこ」なんだから、こんなふうに何でも食べちゃうんだと思って見ています。
もしそうなのだとしたら、作者、エリック・カールは何も「青虫」をモデルにしなくても、架空の小さな白い幻虫が、カラフルな架空の食べものをいっぱい食べて、どんどんと太っちょになって、お腹を壊し、でも、最後にはとってもカラフルな翅をもった架空の生きものに生まれ変わりました、としても良かったのです。でも全くの空想の「幻虫」の話ではなく「現実の青虫」の話をモデルにしているのです。ここがとても大事なところです。作者は、まったく「現実」とかけ離れたものを子どもに見せようとしていたわけではなかったからです。ここのとこをどう考えるのか、ということがむずかしいことを私は指摘したいと思っているのです。
 むずかしいのは、絵本の理解の方ではなくて、実は現実の青虫が、なぜ幼虫とは似ても似つかぬ蝶のようになるのか、という方なんですね。絵本なんだから、そんな「理屈」を考える必要はないというのではいけないのです。
 理科の教科書では、卵―青虫―蛹―成虫と変化する昆虫を「完全変態」と呼び、蛹を作らないで、卵―青虫―成虫と変化する昆虫を「不完全変態」と呼んできました。「完全変態」には、チョウ、ハチ、ハエ、甲虫などがあげられ、「不完全変態」には、セミ、カマキリ、トンボ、バッタ、ゴキブリなどがあげられています。同じような昆虫なのに、成長過程になぜそんな区別があるのか、不思議がられてきたものです。
 でも、昆虫学者でない私たちにでも分かることが一つあります。それは「大地(地上・地中)」を生きる時の姿と、「天空」を生きるときの姿を変えなくてはいけなくなった生き物がいたということについてです。「大地」を生きるには「足」が必要ですが、「天空」を生きるには「羽」が必要です。昆虫の多くは「変態」するのですが、この「変態」は「羽化」とも呼ばれて来ました。「完全変態」をする昆虫は「足」よりかより「羽」を使う道を選んだ昆虫で、「不完全変態」とは、「羽化」はするけれど、より「足」を使う生き方を選んだ昆虫ということになります。
 このように、「大地」と「天空」、この二つの世界の両方生きられるように身体を変化させてきたものを私たちは「昆虫」と呼んできたわけです。そういう意味では、昆虫とは「大地」と「天空」の「環」を結べるように身体の仕組みを創ってきた偉大な生き物だということが出来ます。(少し勇み足して言っておきますが、この昆虫の生き方の前身は、「海底」と「海」の二つを生きる生き物によって準備されてきました。この話はまた別途の話になりますから今はしませんが、『人魚姫』や『ファインディング・ニモ』、『崖の上のポニョ』などを今まで述べてきた視点から見ると、「海底」と「海」の構図がいままで気づかなかった形で見えてきます)。
 そして、ここからわかることがあります。それは「大地」から「天空」へ、のように、生きる場所を変えて生きるためには「変身」をしなくてはいけないということについてです。
『はらぺこあおむし』の物語は、そういう意味において、色を食べる架空の虫のお話だけではなく、生きる場を変えてゆく生き物が、「サナギ」という過程をへて「変身」する姿を描いた現実的な物語にもなっていたのです。「羽化」と呼ばれる「羽」をもつ生き物になるためには、それまでの身体の仕組みをいったんドロドロに溶かして、改めて軽量で強靱な羽とそれを動かす筋肉と、天空を図るアンテナを備えた頭を作り直して、旅立つ必要があったのです。そのドロドロ化の時期が「蛹」の時期で、この時期が最も無防備で動きのとない時期なので、「敵」から見えないような汚い色をまとってじっとしていたのです。絵本ではそれが茶色く汚いいフットボールの姿で描かれていたというわけです。

4 まとめ  ―コマは回る

 全体のまとめをしておきます。話のタイトルは「生命のわ」というふうにつけていますが、実際には、「地球の環」「生命のわ」「生活の話」「政治の和」というたくさんの「複合するワ」があって、それらの「ワ」に支えられて、「人間のワ」もそこに存在しうるものでした。お釈迦さまは、自分の直面したものを「四苦八苦」と表現されてきたのですが、「四苦」というのは、「病・苦・老・死」で、「八苦」には「愛別離苦(あいべつりく)―愛する者と生別・死別する苦しみ」や、「怨憎会苦(おんぞうえく)―怨み憎む者に会う苦しみ」などがあげられていました。これらの「四苦八苦」とは、つながっているはずの大事な人間関係の「ワ」が「切れて」しまった状態をさしていました。でも、古代の叡智は、この「切れたワ」の「結び」を求めることを教えてくれてきました。
 子どもが活躍する物語、子どもたちがおもしろがる遊びには、実は「切れたワ」を結ぶための「仕掛け」や「知恵」を隠されてきました。そういう「知恵の輪」を伝えてゆくところに児童文化のミッションがあったと私は思っています。
 まとめになるのかどうかわかりませんが、私が大学生の時に聴いて心に残っていた歌を一つ紹介して終わります。それは井上陽水、作詩作曲の「二色の独楽(こま)」という歌です。三番に次のような歌詞があります。

まわれ まわれ 二色の独楽よ
まわりながら動かぬ様に
きれいだよとても
生きてるんだね

この「生きてるんだねぇ」と語りかけるようにやさしく歌われるところが絶品です。YouTubeでぜひ聴いてみてください。(ついでに時間があれば「白い一日」という歌もね。私が奥さんと出会った頃の歌です。)最終講義の終わり方が、井上陽水の歌で締めくくられるのは、ちょっと感傷的すぎやしませんかとお叱りを受けるかもしれませんね。
でも今までの長い話におつきあいをしてくださったみなさんなら、ここで紹介されているのが、「想い出の歌」なんかではないことに気づいておられることと思います。そうなんです。この「歌」は「歌」なんですが、実は「独楽(こま)」をテーマにしている作品でもありました。子どもたちがお正月になると、思い出したようにやっていた「こままわし」の「独楽」です。男の子たちの遊びだったので、女の子だったみなさんには縁のない遊びかもしれませんが、この遊びも古代からあるもので、最も古い独楽はエジプトの遺跡から発見されています。でもその話ももういたしません。ただ、最後に「独楽」をもってきたのは、それが「地球」が回るように、「回ること」に興味を持つ遊びだったことを指摘できればと思ったからです。「独楽」は「小さな地球」だといわれます。でも私はまるで「生命」のようだと思います。なぜなら「独楽」は「手」で回さないと回らないからです。(さらに興味を持った人は『独楽あそび』平凡社新書1979、『独楽の科学』ブルーバックス2018など)。そういう関心でもって、井上陽水の「二色の独楽」を聴いてもらえば、とても不思議な歌に聞こえてくるのではないかと思います。お先の知れている私へのエールにも聞こえてきます。

♪まわれよ、とまるな、いつまでも。♪

これで私の児童文化の最終講義は終わります。
みなさん、ご機嫌よう。

2020年3月末日。