4期(1999卒)


 4期生 卒論要旨集 


 
子どもと悪 
栗田 恵美子
 現代の大人たちは、子どもを「良い子」に育てようとしすぎて子ども達の周りにある全ての「悪」を排除してしまっているように感じた。しかし、実際に人間が生きていくためには「悪」は必要なのである。そこで、まず「悪」とは何かということを時代や文化や自然界でのとらえかたなど色々な方面から考えた上で、私が子どもの頃から慣れ親しんでいる『アンパンマン』や昔話に出てくる「悪」の存在の意味や「悪」のとらえかたについて考えてみた。その結果、「悪」と、ひとことに言っても場所や立場や時代が違えばそれを「悪」ととらえられないこともあり、逆になくてはならないものにもなってくることがわかった。しかし、現代の日本では法律を基準とした「悪」の考え方が根づいているため、大人たちは、ワルイといわれる全てのものや、行動を禁止してしまっているのである。そこで、わたしは、教育のうえで全ての「悪」を排除するのではなく、もっと柔軟な考えで、生活のうえで必要な「悪」があることも子育てのなかで、自然に伝えていけたらいいと思う。


子どもの神秘性 
東川 有利
 私が今回このテーマに取り組もうと思ったきっかけは大友克洋著の「AKIRA」というマンガにある。話の軸となるアキラは約7歳くらいの少年でネオ東京(第3次世界大戦後、東京湾に建設された都市)を破壊したのにもかかわらず、直後、救世主、または神として崇められる子どもである。しかし、神とされるそのアキラはなぜ、子どもの姿をしているのだろうか。「子ども」にはどんな意味が込められているのだろうか。日本には、古くから伝わる「七歳までは神のうち」ということわざがある。この表現は何故生まれたのだろう。こうした疑問から、日本における古代から伝わる民俗文化を手がかりに子どもの神秘性とは何なのか、そして、どこから来るのか探っていった。すると、そこには意外にも老人の影があったのである。子どもと老人には実はとても不思議なつながりがあった。本研究ではさらにこのつながりを追求し、子どもの神秘性の解明へと至っている。そして最後に、現代における子供観と老人観から、はたして子どもと老人は私達の一方的な彼らのとらえ方にあてはまるような存在なのか疑問を投げかけ、古来から伝わる神秘的な考えを今一度、認識する必要性を述べている。


インディアンの魂の声 ―『リトル・トリー』の世界を探る―
佐治 奈都子
 現代の子どもを取り巻く環境は複雑化し、子どもに関する問題が社会現象にもなっている。これらの問題を考えていく上で、私はインディアン文化における子ども・家族の姿を取り上げることにした。そのきっかけは、『リトル・トリー』という本との出会いである。大自然の中で生きるインディアンの少年と祖父母の物語の中に、現代の子どもの問題を考えるヒントが隠されているのではないかと考えた。そこで、『リトル・トリー』を中心とした文献調査により、インディアン文化を研究し、子どもの存在を考えていくことにした。さらに、子どもにとってのしつけ、自然との関わり、大人になるという3つの観点から、現代人の生き方を見つめ直してみた。自然とのつながり、大地への畏敬の念、他者のために生きる人間観、万物と調和して生きる考えなど、人間が最も人間らしく生きる世界が、インディアン文化の中には広がっている。その中で子どもは、幼い頃から自然界の掟を学び、無限の可能性を秘めたひとりの人間として、育てられている。子どもという存在に対する大人の認識の違いが、子どもの生き方に大きな影響を与えているのである。


『男らしさ・女らしさ』が薄れゆく時代
増田 佳織
 現代はユニセックスの時代と言われるように、明確な性の区分がなくなりつつある。そこで今一度、性差を見直し、現代の若年層に見られる性のボーダレス化現象を追って見ていく。また性同一性障害についても調べ、性の曖昧さを問うとともに、性にとらわれることなく自分を生きることの大切さを考える。性差は遺伝子や身体構造・機能といった生物学的な差と、社会的通念として作られた男らしさ・女らしさと言われる心理学的な差がある。が、現代の若者は男性が化粧したり、スカートをはいたり、男らしさ・女らしさにとらわれず、性のボーダレス化が起きている。昨年は国内初の性転換手術が行われ、心と体の性不一致に悩む性同一性障害が徐々にではあるが社会に知られることとなった。また半陰陽と呼ばれる男とも女ともつかない性器を持つ人もいる。性差は、はっきりと二分できるものではない。男らしさ・女らしさにとらわれずに自分で性を選択し、確固たる自分を生きることの大切さを見つめなおす時がきているのではないだろうか。


子どもと笑い
小田 由布子
 私達はどの様な時に笑っているのだろうか。楽しい時、自己の失敗をごまかしたり、人をからかったり、実に様々な場面に笑いを取り入れている。そして、笑うことによって、沈んでいる心が明るくなったり、他者との連帯を深めたり、自分を保護したりする。たとえどの様な笑いであろうと、笑いが発生する背景には必ず他者が存在していると言える。その他者との関係を創り始める幼児期の子どもにとって、笑いがどのような意味を持ち、役割を果たすのかということを中心に考える。同時に、笑いが外界を受け入れたしるしであることを様々な角度から追求する。子どもは、母親を中心とした親しい大人・兄弟・友達との関係の中で笑いを発達させてゆく。そして、笑いはすでに、幼児期に非常な複雑さに達する。笑うこと、あるいは笑いを創ろうとする積極的な意志は相手との関係を創り、相手を取り込むという意思の表れなのである。つまり、子どもだけでなく、大人、あるいは動物にとっても笑いは他者との関係を創っていくための重要なコミュニケーション手段なのである。


多重人格の背景と若者の心
大内 麻記子
 日本で、「24人のビリー・ミリガン」という多重人格患者による連続強姦殺人事件のドキュメンタリーがミリオンセラーになった。多重人格とは具体的にどのようなものかを調べていくと、アメリカだけでなく、日本にも例があることがわかった。そして、国によって原因に違いがあることも知った。しかし、なぜ日本で「24人のビリー・ミリガン」がベストセラーになったのか疑問に感じた。しかも、若者世代に受け入れられていることを知り、なぜ若者だけ共感するのかも不思議に思い、現代人と古い考えの人との間に、考え方の違いがあるのではと思うようになった。最近、若者の心をつかんだ二人の男性が、テレビや雑誌に頻繁に登場している。hideと尾崎豊である。この二人のファン心理を探れば、少しだけでも、若者の気持ちや考えがわかるかもしれない。以上の結果、現代人と古い考えの人にはかなり違いがあった。これほど多重人格が珍しいのにもかかわらず、こんなに興味を持って迎えられるのは、日本人のパーソナリティーの変化や時代の変化が反映されているのだろう。


子供の生と死  ―生きる力とは―
田中 美穂
 近年、子供の自殺や殺傷事件など、子供の生と死に関する問題状況が深刻化し、社会構造の変化やバーチャルリアリティーなど、子供を取り巻く環境の変化によって、子供の生と死に関する意識が希薄化していることが問題となっている。この状況を正しく理解し、生と死、特に死について考えていくことによって生命の尊さや生きる力を子供たちに学ばせる「生と死の教育」の必要性を認識し、長年タブーとされてきた死をみつめることの重要性、生きる力について考えていくことを目的とする。論文は大きく3章に分けた。第1章では、近年の子供を取り巻く問題状況をみていき、子供の生死観のゆがみを指摘、死の教育の必要性を認識した。第2章では、現代日本での死の教育の現状を考えた。具体例として慶応義塾高校、兵庫県教育委員会での取り組みをあげ、子供が死と向き合うことの大切さを指摘した。第3章は、1章、2章を受けて、死を見つめることは生を考えるということ、生を考えるということは自分をみつめ、大切にすることで、そのことは生きる力につながるとして、死と向き合うことの重要性を指摘した。


子どもと嘘
佐伯 智子
 悪い事と思いながらも誰もがついてしまう嘘。その嘘を人がいつからつき始めるのかという疑問から始まった。現代のような正直モラルの時代、漠然とした「嘘をついてはいけません」の禁止のみが子ども達に与えられてきた。しかし、子ども達にとって、嘘とは実に多くの大切な役割を果たしているのである。子ども達の順調な成長を表す上において、また空想やごっこ遊びという嘘の中に身を置くことによる絶対的な楽天主義の保証や大人達につかれる嘘による世界の安定性の保証のために。嘘とは悪いことばかりではない。むしろ、不可欠な嘘、許される嘘が数多く存在することを具体例をあげながら述べていきたい。また、もう一つ大切な事は嘘が異なる文化圏では嘘になり得ないということである。何をもって嘘とするのか。嘘とはいつ、何をきっかけに真実に変わるかわからない不思議なものである。ほんの小さな子どもの嘘を恐れる親の時代に、子どもの新たな姿を発見するため、嘘とは一体何なのかをいろいろな角度から考える。


現代社会と少年犯罪
山本 乃理子
 戦後、第4のピークを迎えつつあると言われる現代の少年犯罪は、「快楽犯罪」などとも呼ばれているように、その質も動機も昔とは異なっている。それには急激に進む情報化など、現代社会にある様々な背景や要因が関係している。このような中で、神戸連続小学生殺傷事件を機に少年法改正の世論が盛んになり、今、実際に変わろうとしている。ここで大切なのは厳罰化だけを考えるのではなく、被害者対策も含めて少年法を考えていく事である。それと同時に、加害少年の「権利」も主張されるようになっている。これらの事は、子どもに対する人々の意識の変化の現れでもある。また、少年による事件が起こる度にいつもやり玉にあげられる学校も、体罰問題や学級崩壊の増加など、その存在自体が揺らぎ始めている。パソコンやテレビで知識を仕入れることのできる現代の子どもたちにとって、学校へ行く意味が薄れているのだろう。そして、少年がバモイドオキ神という神をつくり、儀式という形で犯罪を行っていたことについて、少年にとってそれがどのような役割をするものだったかについて考えていく。


自己中心主義の今を考える ―現代人の『コミュニケーション』―
鈴木 敦子
 現代は心理的に「生きにくい」時代である。それは私たち現代人の生活が物質的にも、また心理的にも過密な状態にあるからである。ここ数年、本や雑誌などで「自分探し」がブームとなり、「自己啓発」といった言葉が頻繁に使われるようになった。また公共性の喪失が嘆かれ、家族関係・人間関係の希薄化も問題視されてもいる。そこには過密な状態の中で自分自身を守るために、「自己中心主義」に走らざるを得ない現代人の姿があるのではないだろうか。その「自己中心主義」を個人的な問題としてではなく、社会全体の現象として捉え、その原因を探った。そしてその現代人の「生きにくさ」を主に雑誌やインターネットのホームページを使って、満員電車などに例を挙げて考えてきた。また「自己中心主義」を解く鍵として、人間同士のコミュニケーションの在り方を挙げ、健全なコミュニケーションとは何なのか考察した。


自分について知るということ
 ―これまでとこれからのコミュニケーションを考える―
前田 摩利子
 今、心の危機ということが叫ばれている。この多様化した時代の中で、人々の心が行き場を失っている。自分はいったい何なのか?どのように生きてゆけばいいのか?このようなことがわからず、人の評価を基準にして生きるために、彼らは自我を確立できずに苦しんでいる。彼らが自我を確立し、心の成長を遂げるまでには、乗り越えなければならないものは多い。この研究では、そのような人たちを通して自分の成長というものについて考える。文献からは自分を取り巻く社会、家庭などを考えることで、それが自分とどのように関わっているかを知り、それまでの人とのコミュニケーションを考えることで自分がどのように形作られてきたかを知り、その上で未来のコミュニケーションを考える。そのことにより、上の問いかけの答えを見つけだし、新しい自分だけの生き方を創造することができると考える。


いま、子どもたちが「キレる」わけ 
―「よい子」・「普通の子」が抱える心の問題について―
三田 陽子
 昨年1月に栃木県黒磯市で中1の少年が、女性教師をバタフライナイフで刺す事件が起こり、その後同種の事件が頻発した。これらの主として、中学生による殺傷事件の報道の中で、「普通の子だったのに」「以前はいい子だったのに」という言葉が目立った。つまり、大人の目からはキレるはずなどないと思われていた子が、突然キレてしまったのであり、周囲の大人達はそうした予想もしなかった事態に驚き、「もしかしたら、うちの子も」という不安にとらわれたのだ。このように周りからは一見、「普通」に見えている子どもたちが、ムカつき、キレる理由について、現代の学校、家庭、社会という子どもを取り巻く背景に視点を置き、研究しようと考えた。卒業論文では、多発するナイフ事件の例として、栃木県黒磯市の女性教師刺殺事件を取り上げ、今の子どもたちがナイフを持つ理由や、キレる理由について様々な角度から考える。また、最近問題になっている「いきなり型犯罪」の陰に潜む、「よい子」「普通の子」が抱える心の問題についても取り上げた。そして最後に、キレない子どもを育てるために、私たち大人が子どもと、どう関わっていけばよいかを検証する。


家庭内暴力 ―特に開成高校生殺人事件について考える―
前田 千種
 現代の子ども達に現れている問題は数多く見受けられるが、その多くは子どもたちの現在の社会の体制に対するアレルギー症状の一つであるように捉えられる。校内暴力や家庭内暴力を大きく捉えて対社会現象と捉えるなら、社会に対してその主張を繰り返し繰り返し訴えた、若者の社会現象の系譜をひも解くことが必要である。それは、思春期・青年期のエネルギーを社会が抑圧した時から始まったといってもよいものだ。一方で大学闘争として始まった暴力闘争は、高等学校の校内暴力になっていった。また一方では家庭での暴力の系譜が生まれてきたのである。数ある子どもを取り巻く問題から家庭内暴力についてまとめ、この問題が取り上げられるきっかけとなった開成高校生殺人事件について考えていくことにした。この事件は、開成高校に通う当時16歳の少年の家庭内暴力に耐えられず、父親が殺害した事件である。近所の住民は開成という立派な学校に通わせているのに口出しできないと、暴力を止めるのをためらった。この学歴偏重思考が生み出された国家政策、親の特徴など原因をまとめ、対策、予防策等を考えた。


ゆらぐ『境界』のイメージ ―深化する子ども象を追って―
大川原 由夏
 「人は、いつ大人になるのだろう」そんな疑問を持ったことはありませんか?もちろん、民法第三条により、二十歳をもって成人とみなされるわけですが、ある調査によると20歳以上の大学生の57%あまりが自分は子どもだと感じているし、有職者の中でも男性の23%、女性の49%が自分は子どもだと考えているという結果が出ています。今回の卒論においては、ゆらぐ子供と大人の「境界」を明らかにするために、文献調査をし言語、発達、法律、歴史といった各分野における子供の「イメージ」をたどり、さらに人生におけるライフイベントである通過儀礼をとりあげ、子どもから大人へのステップアップの方法に迫ります。また、それをもとに一見関係ないように思われるアダルト・チルドレン、占い、宗教ブーム、クローン、子供服、性のボーダレスといった諸現象との関連性と問題点についても考え、その上であらためて、子どもと大人の規定の再構築をしてみます。現代は、大人になる方法が見失われつつあるけれど、決して大人になれない時代ではありません。現代には、現代の大人化へのプロセスが存在するのです。