5期(2000卒)


 5期生 卒論要旨集 




子どもにとって「労働」とは? 
― 労働を通して「生きる力」を学ぶ子どもたち ―
大石麻梨子
 “児童労働”という言葉は、日本ではあまり聞くことはないでしょう。経済が発展した豊かなこの国では、子どもが生きるために働く必要性がないからです。「子ども=学校へ行き勉強と遊びが仕事」という固定概念を持っている人も少なくはありません。私自身、そう思いつづけてきました。しかし、世界に目を向けると、生きるために働かざるを得ない子どもがたくさんいるのです。2年前旅行で行ったメキシコで、私は路上で暮らす子どもや生活のために働く子どもの姿にショックを受けました。しかし、このことが「子ども」と「労働」という今までかけ離れて考えていたものを結びつけたキッカケになりました。本研究では、全世界で働く子どもの数の3分のⅠに当たるインドでの児童労働問題を調べ、いかに深刻な問題であるかを知るだけでなく、働くことから子どもたちが何を得ているかを考えました。つまり、大人の視点から一方的に子どもは働いてはいけないと決めるのではなく、労働からも子どもたちは多くを学ぶのではないかと思うのです。それが、子どもたちにとって「生きる力」としてつながっていることを検証してみました。


妖怪はこわくない  ― 『稲生物怪録』からみる妖怪 ―
津木友子
  『妖怪』はこわい。なまはげ、天狗、川童、海坊主、どれも一目見ただけで心臓が止まってしまうほどに、恐ろしげな姿形をしている。そこから何をされるかなんて想像ができないほどに、遭遇するだけで怖い。江戸時代、稲生平太郎という十五歳の少年はそんな妖怪たちに三十日間もの間、襲われ続けた。彼らは様々な趣向を凝らした怪異を起こしたが、人に直接危害を加えることはなかった。ただ『おどろかす』だけの妖怪と、ただ『おどろかされる』だけの人間。お互いの信頼感さえも伺える、そんな関係を不思議に思い、私は『妖怪』について調べ、その発生源である正体のわからないモノとそれを恐れる人の心にたどりつきました。暗闇をおそれて明かりをつけていくように、人はわけのわからないモノをおそれて、名前と姿を与えていった。ふと気配を感じてふり返ったとき、幽霊や貞子がいる、と思うよりは妖怪のほうがいいかな、と私は思います。


 ナカムラ ミツル(326)と若者のココロ  
― 「紙ヒコ→キ」の先にあるもの ―
 井上三花
 326。彼はイラストライターだ。“人生はかけ算だ どんなにチャンスがあっても、君が『ゼロ』なら意味がない”そんな「326な世界」には「前を向いて一緒に生きていこう」というメッセージがこめられている。彼の作品や作詞した楽曲が今若者に支持を得ているのはブームかもしれない。しかし、それは、若者たちが世の中の大人たちが思うよりももっと真剣に生き、わかってくれる誰かと、現実に負けない自分を必死に探している証拠なのではないだろうか。私にはそんな不器用な若者の代表が326であると思え、そのことを示すためにこの卒業論文を製作した。まず「326―ナカムラミツル作品集」から彼の作品を分析し、次に若者のココロのなかで生活の中で、これから先の人生を考える上で326の作品や326の言葉がどのように受け入れられているかをアンケートから考察した。


子どもと動物  ― アニマルセラピーをめぐって ―
藤下雅代
 近年はペットブームと言われ、人間とペットの関係が非常に濃密になりつつある。室内での飼育が増え、ペットは家族の一員とされる。これはなぜか。その背景には現代人の孤独がうかがえる。核家族化や少子化、高齢化、また離婚率の上昇など、家族と絆が弱まる中で、その心の隙間を埋めるようにペットとの交流が深まった。動物は私たちに、共に暮らす喜びを与えてくれるだけではなく、治療的な効果をあげてくれる。それが「アニマルセラピー」である。この療法は今、社会福祉とリハビリテーションの分野で大変注目されている。その対象は孤立した老人や保護が必要な子どもであり、彼らの社会復帰に動物たちが貢献する。その中でも子どもに焦点を絞り、子どもが動物を飼うことで他者への思いやりの心を育んでいく過程を、少年と動物のふれあいの姿を描いた『子鹿物語』に照らし合わせて考察した。同時にこの作品から、人間が愛する動物の死と直面したとき、その悲しみ(ペットロス)をいかに乗り越えるべきかを学んだ。また、死を持たない犬型ロボット「アイボ」や電子ペット「ファービー」から、これらが子どもに与える影響や未来のペットロボットのあり方を探った。


 太陽の力  ― 人は太陽に何をみるのか ―
五十嵐由貴
  『太陽の塔』が苦手だった。きっかけはそうであった。1970年、日本万国博覧会時に岡本太郎が創った、あの塔である。生前「芸術は爆発だ」という名言を残した彼が創っただけのことはある。あの圧倒的な存在感はどこからくるのか。デザインのシャープさ等、要素は沢山あるが、私は「太陽」に注目した。人は太陽をどんな象徴としてみているのか。現在、恋人を太陽に例えるなど「輝かしい存在」として扱われてりすることも多いが、私が『太陽の塔』に感じるものは単にそういった「輝かしい」とか、それに伴う「エネルギー」だけなのだろうか。本研究では、まず岡本太郎が感じる太陽の存在を明らかにする。そして、太陽が登場する世界の民話を象徴別に分類することによって、様々な土地に住む様々な人々がどんな風に太陽をみているのかを調べる。また、昭和の日本文学において著名な三島由紀夫の『太陽と鉄』・『私の遍歴時代』という自伝的作品からは、三島独特であり、かつ大きく捉えられた太陽観を。そして、古代の太陽神信仰の考え方等、太陽を様々な角度から考察し、大きく輝く太陽に人は何をみるのか、その源(みなもと)をつきとめていく。


日常の中にある余分なもの、どうでもいいことを見つめること 
 ― 江國香織からみた日常 ―
平山利恵
 作家の江國香織さんについて取り上げる。なぜ江國さんなのかというと、わたしの大学生活の中で江國さんの文章表現や小説の世界に私の感性は強く影響されたからだ。江國香織児童文学から出発し、小説・エッセイ・絵本・絵本の翻訳など幅広く活動している。人気・実力ともに持ち合わせている作家の一人である。江國さんの作品の世界のキーワードは「余分なもの・どうでもいいこと」である。「余分なものには真実が宿る」という気持ちを持っている。余分なものに溢れている表現の多いことが彼女の特徴である。世間からすれば、どうでもいいことでも江國さんは魅力的に描いている。つまり、どうでもいいことは、どうでもいいことではないのだ。矛盾しているが真実はそうではないだろう。そういった考えを江國さんはいつ、どこから、持つようになったのか、その表現の意味、そして日常の些事(例えば食事のシーンなど)にこだわる江國さんの世界観を私は探っていった。


性的暴力にあった子どもたち  ― 作品と実例をもとに ―
今西亮子
 最近、「児童虐待」という言葉を私たちはマスメディアを通してよく耳にするようになってきた。「児童虐待」には「身体的虐待」、「ネグレクト」、「性的虐待」、「心理的虐待」などがあるが、中でも、「性的虐待」を卒業論文のテーマとして研究することにした。何故「性的虐待」か、についてであるが、「性的虐待」は他の虐待に比べ、最も表に現れることが少なく、発見や防止が極めて困難であると知り、そして虐待を受けた人たちがその後の人生をどのようにして過ごしてきたのかについても興味を持ち、これをテーマに選んだ。卒業論文では、作品による性的虐待と実例による性的虐待の二つの文献を主に取り入れ構成した。作品には内田春菊の「ファザーファッカー」を取り上げ、実例には森田ゆりの「沈黙をやぶって」を取り上げた。そして、作品による性的虐待と実例におけるものとを紹介し、更に被虐待者のその後についても取り上げ、私の感じたことも入れた。終章では、被虐待者に対して、現在の私自身のアドバイスや意見を述べ、結論に結びつけた。


 ココロに残る絵本とは?  ― 絵本が見せる不思議なちから ―
 山口紅美子
 幼い頃出会った「絵本」の中で、「ココロの中にいつまでも残っているおはなし」とはどんな作品なのだろう?私の場合、「ぼちぼちいこか」というマイク=セイラー作、ロバート=グロスマン絵のカバのおはなしだった。どうしてその1冊の絵本がココロに残っているのだろうか。「絵本を読むこと」ただそれだけのことの中に、絵本の絵の構図や視点、語法が、子どもに様々な影響を与えることが「絵本」を知っていくうちに明らかになっていった。そこから、「子どものために詠んであげたい」といった目的で作成されている絵本のリストは一体どのような基準でおとなは選んでいるのか気になりだした。そのおとなが定めた基準とは、子どもにとって本当にココロに残る1冊となってくれるのだろうかと。その結果を知るべく、現代の女子大生、女子高生、女子中学生に、自分が母親になる時どのような絵本を子どもに読んでやりたいと考えているのか、またその絵本とは、彼女たちのココロに残っている作品と関係しているのかをアンケート集計し、検証してみた。テレビゲームヤテレビアニメにはない「絵本」が見せる不思議なちからについて私なりに謎を解明してみた。


ほんとうは大人になりたい子どもたち  ― いまどきの通過儀礼 ―
 重田由起子
  最近、“大人になりたがらない子ども”が増えているというのをよく耳にする。現代に残る数少ない、大人になる儀式である成人式も形式化し、味気ないものになり、当事者である新成人のマナーの悪さばかりが目に付く。かつては村の中で行われていた大人になるための教育は、戦後の学校中心の義務教育によってすべては学校に委ねられることになった。戦後の教育下では、知識偏重主義へと傾き、古い価値観が否定され、村特有の儀式は衰退を余儀なくされた。では、現代人は儀式なしに大人になれるというのだろうか。もしくは形式的でない、中身のともなった儀式をあたえられていないから大人になれないのだろうか。20世紀はじめの文化人類学者ヘネップはその著書『通過儀礼』の中で、「人が大人になったり、次のステージに進むとき、そこには儀式のようなものが存在する」と定義した。ならば現代の日本にも、通過儀礼のようなものは存在するはずである。現代の子どもたちは決して、大人になるのを拒んでいるわけではない。一見すると大人からは奇異にみえる彼らの行動やファッションの中に、私は“いまどきの通過儀礼”を読み取り、検証した。


ひとが出会いから成長するとき 
 ― 家庭・学校・社会へのかけわたしを考える ―
玉置千沙子
 私は、今までにたくさんの子どもたちとかかわってきました。単に子どもが好きという理由からではなく、子どもが抱えている問題や、悩みに何かできることはないだろうかと思ったからです。何でも知っている大人という立場からではなく、今の自分にしかできないことを、少し先に生きてきた先輩としてできることがあるはずだと信じて。実際に大学生活中に経験したキャンプのリーダーや塾の講師を通して知ったことは、どのような立場の二者間でもお互いに学ぶことがあるということです。つまり、私は子どもとかかわることで周囲の人に自分をどう表し、特に考えの違う人にどう自分を知ってもらい、同時に相手を理解していくかの難しさや、その必要性を学んだのです。これを学べる環境作りこそ、今の教育に求められていること、そして今後、家庭・学校・社会に必要とされていることだと考えます。本当の意味で人が、精神的に成長するとはどんなことで、どんなときか?私は1つ1つの出会いには必ず何かの意味があると思います。これまで出会ったたくさんの人たちへの“ありがとう”の気持ちと、私の今の正直な疑問や思いをこの卒論に託します。


アニメにおける妖怪の社会的影響  ― 妖怪人間ベムを通して ―
 木村潤子
 子どもの頃誰でも怖い話に興味を持ち、友達同士で話をしたり、怖い話の本をたくさん読んだりする。特に子どもたちは怖い話が大好きで、そのためか子ども向けの怖い本やマンガ、アニメがよく作られる。なかでも私たちにとって一番親しみやすいのが本やアニメなどの怖い話に登場する妖怪である。妖怪はただ怖いだけの存在ではなく、私たちにいろいろなことを教えてくれる。本やアニメでも妖怪を通して子どもたちに人間関係、社会などさまざまな問題を認識させようとする話も少なくないのである。子どもの頃に見たアニメやマンガを制作している大人たちが妖怪を通して何を子どもたちに訴えようとしているのか意識しながらみると考えさせられることがある。なかでもそれまでのアニメの常識をくつがえし、大いに話題となったのが「妖怪人間ベム」である。「妖怪人間ベム」は昭和43年10月に初めて放送された。アニメ番組は数年前から放送されていたが、その特異なキャラクターやストーリー展開は社会全体に衝撃を与えた。30年以上も前に制作されたにもかかわらず、なぜ今だに人気があるのか考察する。


夢の世界   ― 本当の自分を知る道しるべ ―
西村亜希子
 自分とは何か?そんな疑問を抱いた私は、本当の自分自身を知る1つの手段として夢を活用することを考えた。現代では夢はあくまで非現実的、非論理的な世界とされるが、一方で不吉な夢や印象的な夢に対してはどうしてあんな夢を見たのかと考えさせられる。夢の歴史をたどると、古代では夢は紙や霊的世界からのメッセージであり、また肉体から遊離した霊魂の実際の体験だとする観念が存在していた。私はまずこの古代人の夢観念から現在の「夢は無意識からのメッセージである」という心理的夢解釈に至るまでの夢観念を文献から考察し、自身の夢日記を手がかりに夢の世界を探ろうとした。夢を理解するとは単に1つの解釈を当てはめてみてそれで夢全体がわかるようなものではなく、しっかりと夢の記録を採り、見た夢の内容から何を連想するのかを自分に問いかけることであり、それは無意識に潜む自己とコミュニケーションを図り自己理解を深めていくことでもあった。夢の世界は今までの自分、そしてこれからの自分を知る貴重な資料と道しるべを与えてくれるものである。


わたしの「すれ違い」論 
―新見南吉の作品から読み取れるすれ違いとコミュニケーションの光景―
曽田佳寿子
 最近感じること。それは「わたしと家族の心はすれ違っているのではないか?」この中には幼い頃から感じてきたさみしさが隠されており、今のわたしのある状態を引き起こしている。そんなわたしと家族の関係をあらためて見直し、すれ違い→コミュニケーションへと転換していくために必要なものは何なのか、ということを「ごんぎつね」を参考にしながら考えていくことにした。作者である新見南吉はわずか四歳で実母を亡くし、その後継母ができたり養子に出されるなど複雑な家庭環境の元で育つ。母親の愛情を知らない南吉にはいつも孤独感やさみしさがあり、そういった経験が他者との心の触れ合いを強く希求した作品を数多く生み出している。中でも彼の代表作である「ごんぎつね」を取り上げることでごんと南吉の共通点を見出し、さらに自分とも重ねてみることで様々なすれ違いを発見した。ごん(=私)はなぜまわりくどいことばかりやって、兵十(=家族)との直接のコミュニケーションを避け続けていたのか?その答えは背景に隠されている「恐れ」にあった。


ファション雑誌と女性      ― 雑誌は女の知恵袋 ― 
中村真沙美
 「ダイエット」「スリム」「かわいい」「おしゃれ」・・・こんな言葉が表紙を飾っているファッション雑誌を目にすると、買うまでとはいかなくても手にとって見てしまう。そして読んだら本当にキレイになれる気がして、つい雑誌を持ちレジに並んでいたりするのだ。結局、努力ナシになれるはずもなく、その雑誌は押入れやごみ箱行きになるのだが、本屋に行って同じような文字(言葉)をみつけるとまた手にしている・・・。この心理は一体何なのだろうか?また、どのような言葉にひかれるのだろう、そこに共通点はあるのか?こういった疑問から、特に未婚の女性をターゲットに売られている女性雑誌を分析しようと考えた。そうしたファッション雑誌から私たちが得ているものは何なのか?服装、コスメ、ヘアースタイルから現代社会が抱える問題にいたるまで、さまざまな情報がつめこまれているこれらファッション雑誌は、もしかすると生活していく上での知絵袋であり、なおかつバイブル的役割を果たしているのではないだろうか?


イルカが教えてくれた海   ― 海の世界が陸の世界と交わる時 ― 
小西由佳子
 今から3億6千万年前のある日、水の中に住んでいた私たちの祖先は、生命のゆりかごを捨て、陸をめざして歩き始めたという。しかしイルカは、すみかを海に求めて一度歩んだ道を逆に陸から海へと戻っていったという。ではなぜイルカは、海の世界へと戻っていってしまったのであろうか。陸の世界に住む私たち人間が海の世界を知るためにはまず、海と陸との境界線を越えなければならない。その境界線とは、私たち人間にとっては越えられそうで越えられない非常に大きな壁である。しかしイルカは、海の世界(水の世界)と陸の世界(空気の世界)をうまく行き来しているように思われる。私たちは海に住むイルカを知ることで未知の世界である海を少しでも知ることができる。たとえうまく二つの世界を行き来できなくても海の世界の存在を理解することはできる。またイルカは大波が来れば自由に波乗りをして遊び、気分に合わせ、まるでダンスを踊るかのように跳躍する。この姿に魅力を感じ、多くの人間が海という未知の世界に心を引き込まれてきた。一体、海とはどういう存在なのでろうか。海の世界に住むイルカから学んだ。


「どこでもドア」の前に立ったとき    
― ドラえもんが子どもに与えた影響 ―
中聡子
 子どもたちの間で今も昔も親しまれているアニメ『ドラえもん』。1970年の連載から2000年には30周年を迎えます。『ドラえもん』という作品はユニークなキャラクターに、個性のある登場人物、そして不思議な道具の数々が私たちを楽しませてくれます。物語の中では昔あったような、懐かしい世界が描かれています。子どもの遊び場であった「原っぱ」という存在がなくなり、親も学校の先生も入りこめない世界が失われています。「どこでもドア」は子どもにとって「空き地」へと導く入り口であり、夢と冒険の世界へと連れて行ってくれます。本研究では、ドラえもんという存在が何を現していたのか、ということを追求しました。ある種「保護者」ともいえるし、「取扱説明書」的な面も持っている存在と見ることもできます。あるいは、読む人それぞれの思いによって、ドラえもんは何モノにも変わる可能性を持っています。また、そのような『ドラえもん』とともに、数年で過ぎ去ってしまう小学生という一時期が、どれだけ大切な世界であるかを教えてくれた、作者の藤子・F・不二雄の生涯も交えて見ていきます。


 異なることばがぶつかるとき   ― 「クレオール」の存在を考える ―
廣岡和恵
 「母語と母国語」この二つの違いにピンとくる人は一体どれだけいるのであろうか。我々日本人はそれらの重なりを当然と考え、ひとまとめにして日本語として受けとめている。しかし、それはたまたま母語と母国語が一致しているに過ぎない。本研究では、まず人がどのようにしてことばを獲得していくのかを探り、母語と母国語の分類・定義づけ、比較研究をした。そして国語の教材として約50年間機能していたドーデの「最後の授業」という作品を通して、日本人のことばにたいする価値観を検証する。次に母語を持つ、母語を奪うということが人・民族にとってどんな意味を持ち、影響を与えるのかを考察するため、具体的例としてコソボ問題を取り上げた。この事件では、まさに自我や帰属意識と母語との密接な関係が浮彫りにされている。最後に、異なる言語がぶつかった時に発生する中間言語(曖昧な語ともされている)クレオール語について述べ、「クレオール」の存在や捉え方を人間関係、異文化同志の接触・共存にまで広げて考える。