7期(2002卒)


 7期生 卒論要旨集 


 
子どもと空間 ―隠れ家をつくる子どもの成長―
川瀬 令奈
 子どもの頃に、近所の空き地や学校の裏庭に「隠れ家」や「秘密基地」を作って遊んだ記憶はないだろうか。そこで何か特別なゲームをするわけでもないが、その空間にいるだけでどきどきワクワクした気分になったものだ。そこは、きちんと整備された児童公園のような空間ではなく、大人にとっては何も魅力を感じないような狭くて薄暗い、むしろ敬遠したい場所である。しかしそこに、子どもたちは「自分たちの空間」をつくる。そして、そこが日常生活からかけ離れた非日常空間となるのである。それまで、親を絶対的な存在に感じていた子どもが、その空間で全く違う価値観を持つ人と出会い、そこで作るルールを共有して生きていくうちに、その中に新しい自分を発見することになる。そして、日常の中では見せられなかった自分の姿や、自分自身でも知らなかった自分を出して楽しむことになる。現実では不可能なことが多い子どもの時期において、このような空間で独自の世界を構成して自己のイメージを自由に実現させることができるということは、子どもにどのような成長をもたらすのか、この論文ではそのことを考えた。


秘密という宝物 ―人とのつながりの中で―
石原 直子
「秘密」という言葉を聞いたときに、どんなことを思い浮かべますか?それは恥ずかしくて人には言えないことや、考えるだけでつらい気持になることかもしれないし、無性に知りたい気持に駆られたりすることかもしれません。また、内緒話や交換日記などの、小さい頃のたくさんの楽しい「秘密」が思い出されるかもしれません。この楽しい「秘密」は、親子、親友、仲間、恋人などの信頼できる人と一緒に持つ「秘密」で、ドキドキわくわくして、温かい気持にしてくれるものです。「秘密」には一人だけで持つものと、人と共有することで幸せを生みだし、生きる力を与えることができるものという両面があります。私が考えた「秘密」とは、『人との関係の中に存在し、共有する人の間の親密さを深め、打ち明けることによって"幸せな空間"を生み出すもの』です。このような「秘密」を理解することで、一人で持っていた「秘密」も大切な人と共有できて、それを未来に向かう力にしていけるのではないかと考えました。 


「先生」というリーダー ―人を引っ張る力とは―
畤地 いづみ
私が尊敬している、そして夢見ている「先生」という存在。いつのまにか教師の仕事に絶大なる興味をもち、卒業式で子どもと一緒に涙を流せるような素敵なクラスを作りたいと思ったりもしてきた。子どもと教師は、長い長い時間を共にするわけで、その力、影響は互いに大きいものだと思う。そこで、今私たちが自らに問うべきことは、子どもたちを取り囲む大人として、親や教師たちはどうしていけばいいのか。子どもたちと向き合い、何を大切にし、どのように努力すればいいのか。そうした意味で、教師に今何が求められているのかを考えてみようとした。また、ここでは「教師」より広い意味にとれる「先生」ということばに注目し、その先生像を模索しようと考えた。タイトルを『「先生」というリーダー』にしたのは、その意味である。さらに、先生はリーダーシップを発揮しているのではないか、ということから、人を引っ張る力について考察した。最後に、ユダヤ系ポーランド人で、孤児院の院長、ヤヌシュ・コルチャックの生涯を追いながら、リーダーとは何か、愛とは何かについてまで考えられたらと思った。 


「歩み寄り」を求めて ―平等と差別のイメージの限界を超えて―
市川 素子
 人が、他者と交わるときに必要なものは一体何でしょうか。現代社会において、人が他者と交わるときに理想とされる姿が「平等」であり、反対にあってはならない姿が「差別」です。しかし、「平等」とは一体何なのか、そして果たしてそれは本当に常に正しいものなのか。また、「差別=悪」という定義を鵜呑みにしてもいいのだろうか。そういったことを意識している人は少ないと思います。私は今回、「平等=善」と「差別=悪」のイメージを、もう一度見つめ直そうとしました。そして、私たちがただ「言葉」としての平等や差別のイメージに惑わされていることに気づきました。この言葉だけからでは人々の交わっている「現実の姿」は見えなかったからです。そして、これらのイメージの中から他者との交わりに必要なものを見出すことに限界を感じた時に行き着いたのが「歩みより」のイメージです。私は、この論文で「平等」の本質と「差別」の構造を探り、そして両者の言葉のイメージに惑わされずに現実の交わりの姿を見つめることによって、その中から「歩みより」という、新しい交わりの姿を見出したいと考えました。


ロボットと心を持つ者のコミュニケーション ―心を豊かに持つ為の視点を考える―
丸岡 真友子
 映画『A.I.』を題材に、私は、人間の心のあり方を考えてきた。人間は、心のあり方によって、人・物の見え方が変わる。映画『A.I.』に登場した、ロボットの少年デイビットは、まるで人間のようであったが、こんな時、人はどのような目で彼を見て、デイビットの存在をどのように思うのかを私は卒業論文で考えてきた。その中で、心のあり方というのは4つの視点に分けられるという事が分かった。その視点を、自然の目、魔法の目、道具として見る目、ミックスの目と私は名づけた。大きく取りあげて書いたのが、魔法の目と道具としてみる目である。2つの目を説明すると、魔法の目は、生きていない物を生きている者のように感じさせ、現代を生きる普段の私達に、力を与えてくれる目である。また、道具として見る目は、人を人のように扱わず、物や道具として見なす目なのだ。けれども、人間は、魔法の目と道具としてみる目の両方の目を混ぜて、人、物を見て生きる必要がある。この目を私はミックスの目と呼ぶ。そして、ミックスの目が、上手に人間関係を築くために、人生を豊かに生きるために必要であると、私は考えたのである。


孤独という名の贈り物 ―「孤立」から「孤独」への道すじを考える―
植田 綾子
 「孤独」ーその響きを、おそらく人々は好ましいものだとは思わないだろう。とりわけ、大勢の人間や氾濫する情報に囲まれ生きる私たち現代人においては、「孤独」は恐怖として語られることが多い。インターネットやメールがこれだけ普及するのも、人々の「孤独」を見つめたくない心が背景に潜んでいるからだろう。他者とのかかわりの中で生きている私たちにとって、その反対のイメージである「孤独」はどうしても暗いものとして決め付けられ、敬遠されてしまう。確かに「孤独」というものは好ましいとは言えないかもしれない。しかし、それとは別に、「孤独」の必要性とでも言うべきものがあるのではないか。もし、「孤独」に耐え、それを乗り越えることができたならば、「孤独」の体験は決して暗いだけのものではなくなっているだろう。なぜなら、それは未来の自分につながる微かな希望の光なのだから。「孤独」が好きな人間なんていない。しかし、私たちは生きている限り、多かれ少なかれ「孤独」に直面しなくてはならないだろう。「孤独」を認めつつも、「孤独」を生かす力というものが、今を生きる私たちに求められているのである。


豊かな心を育てるしつけを考える ―自分を好きになるために―
梶原 早智
 「いい人って言われたってどうでもいい人みたい」(浜崎あゆみ”Boys&Girls”より)この一節は「いい人」でいることに疲れている世の中そのものを表しているように思う。今、アロマテラピー、癒し系タレントなど、人々が癒しを求めている。なぜいい人でいることに疲れるのか?誰しも悪い人と呼ばれるよりはいい人と呼ばれたいのではないのか?その疑問を子どもを取り巻く問題に置き換えて考えてみた。その結果、いい子と呼ばれる子は見せかけのいい子であることが多いという事が見えてきた。現代社会が子どもたちに教えていることは、競争社会を生き抜き、他人より優れることにすぎないように思う。しかし、私たちが豊かな心を持って生きていくために必要なのは、自分は他人とは違う、個性を持った存在であるという認識と、他人もその様な存在として認めるということだ。私たちが最初に出会う「自分とは違う存在」である「家族」内でそれを教えていくことが、「しつけ」なのであり、しつけとは「教える」ことではなく「一緒に何かを体験すること」だ。そして「ありのままの自分を認め合う」ことの大切さをしつけを通して考えてみた。


人の絆 ―世界の家族から―
竹内 康代
 生まれたての社会的に無力な子どもにとって、家族は大変重要な役割を果たすものである。子どもはまず、家庭でしつけられ、そこで身につけた力を使って家族以外の社会を経験する。家庭は子どもが社会で生きていくことができるように、基本的なノウハウを教える場所である。また、社会で疲れたり、傷ついた子どもを癒し、再び社会に出て行くことができるよう、心身を回復する場所でもある。家庭は子どもが成長する上での核になると私は考える。そんな家庭の雰囲気は、それぞれの家庭によって異なる。また、世界には様々な宗教、文化があり、様々な価値観がある。よって、社会で生きるためのノウハウも家族が果たすべき役目も、文化によって異なる。それなのに、それぞれの文化で子どもが立派に育つのは、全ての家族に共通するものがあるからだと思う。本論文では世界の様々な家庭の形態、家族観を取り上げ、紹介するとともに、どの文化にも共通する家族の絆に迫ろうと試みた。


教室 ―子どもたちの王国―
松浦 久美子
「小学校において、授業中立ち歩きや私語、自己中心的な行動をとる児童によって、授業が成立しない現象」ー『学級崩壊』は、近年に社会問題化したように見えるが、今から10年前、私自身の小学校6年生の頃のクラスもそんな状態だった。そんなクラスだったが、私は居心地の良さを感じていた。自分の中の狡さや狭さを認めてもらえるような雰囲気があった。無理をせず、ありのままでいられる場所、そこはまさしく私の居場所だった。学級崩壊をおこす子どもー何故彼らは授業を妨害したり、先生の言うことを聞こうとしないのか。それは子どもが「教室」を自分の居場所とするために古い枠組みから新しいものへとかえようとしているからだ。それまで、教室とは、成績が良かったり、スポーツができたり、という先生に気に入られるような子どもだけの居場所だったのを、そうでない子どもが取り戻そうとしておこすのが学級崩壊なのだ。『学級崩壊』において問題なのは、子どもよりもむしろ自分たちの決めた枠組みに子どもをはめようとする大人である。大人が子どものありのままの姿を認めるようになるのが、解決の第一歩なのだと、考えて私はこの卒論を書いた。


漫画はどこまで許される? ―青少年の健全な発育に関して―
梅本 良子
「漫画なんか読んでないで勉強しなさい」小学生もしくは中学生頃に、こんなセリフを親から言われたことはありませんか?また、「漫画オタクやアニメオタクは犯罪者になる確率が高い」と何となく思っていませんか?私は一介の漫画好きとして、「漫画は悪いものなのか?」「漫画が好きな人はそんなに危ない人なのか?」という疑問を常々抱いており,その答えを(自分なりに、ではありますが)出すべく、テーマを「漫画はどこまで許されるか」に決めました。この論文の中で、「どういう漫画が批判されているか」「オタクの問題点とは何か」「有害コミックの害とはどういうことか」「漫画に関する問題で、今までにどんなものがあったか」「漫画に対する規制は是か否か」ということについて、できるだけ詳細に述べたつもりです。この発表で、皆さんの「漫画好きな人たち」に対するマイナスイメージが少しでも払拭されたら、そして「現在の漫画の問題点」を少しでも知ってもらえたら嬉しい限りです。


恐怖  ―人は何を恐れているのか?―
小山 尚子
私達が、普段生活していく中で「恐怖」という感情は、常に感じているものだと私は思っています。新しいことにチャレンジしようと思っていても、何かが邪魔をしてできないのは、不安要素があるからです。この不安要素が、恐怖と関係していると考えられています。「恐怖」の反対の意味は、「安心」です。そういう「安心」からはずれることで「恐怖」が発生します。実際、私も「恐怖」を感じる時がよくあり、大勢の人前に出る時などには他人をあまりにも恐れてしまい、しりごみしてしまいます。そういう風に必要以上に恐れるあまり何も前進せずに、物事が解決しないこともあります。その原因は、何なのでしょうか。「恐怖」という感情は、何を恐れて出てくるものなのでしょうか。原因は、自分自身、他人、現代社会など様々あると思われます。そこで、「恐怖」について恐怖の種類を「身体で感じる恐怖」「道徳の恐怖」「未来への恐怖」というように三つに分類し、映像、恐怖症、文学作品から具体的な例を挙げて多角的に考察し、「恐怖」という感情の必要性とそういう「恐怖」の克服方法を考えようと試みました。


理想論 ―幸せ上手な生き方をするために―
森岡 芽美
私には、幼い頃から憧れていた存在があった。それは「お姫さま」である。その可愛らしい容姿と、華やかな衣装、素敵な王子様とむかえる幸せな結末は、しっかりと私の心を捉えたものだった。「お姫さま」は、まさに私の「理想」とする姿であった。「理想」は、おそらく誰もが持っているものであると思う。「こうだったらいいなあ・・・」と、「理想」について考えている時間、それはとても幸せを感じる時間ではないだろうか。そして、そんな想いは私が「理想的だ」と思ってきた「お姫さま」自身も持っていたのではないかと思う。しかし、持ち方によっては夢見がちであったり、依存的と思われたりと、マイナスのイメージになってしまう「理想」のかたちもある。そこで、私が「理想」を持っていると思ったヒロインたちを『シンデレラ』を中心に取り上げてみた。彼女たちの生き方が「理想」とどのように関わってきたのかを順に見ていった。そこには「理想」を「現実」に変える秘密が隠されていた。そこから、今度は私たちが「理想」とどのようにつきあっていくかを考えた。「お姫さま」になれるかどうかは、そのつきあい方次第だ。それが私の考える“幸せ上手な生き方”をするということなのである。