9期(2004)


 9期生 卒論要旨集 


 
ファンタジーの可能性-物語からの「帰還」-
楠 千尋
近年、ファンタジー作品と呼ばれるものが世の中に溢れ、一種の社会現象になっている。特にファンタジー小説の映画化の影響は大きく、日本でも映画のプレミアが開かれたり、作者が来日した、役者が来日したと言うだけで大騒ぎだ。ある作品の中に出てくるアイテムや建物などを模して展示するイベントが催されたり、撮影に使われたロケ地を訪ねるツアーまで存在している。魔法的で、あるときは冒険の匂いがし、メルヘンチックで、神秘的で…。考えれば考えるほど「ファンタジー」というものは曖昧な印象を与える。そのファンタジーとは一体何なんなのかを、ファンタジーと呼ばれる物語に焦点を当て、その構成の仕方を分析していく。その中で物語は二つの世界によって人は支えられていることが分かった。《第二世界》を作ることで人は何を可能にしてきたのか。その《第二世界》へ旅立ち、旅の道程を経て、そして帰還することによって何を得てきたのかを考える。途中、名づけの力、言葉の力についても触れている。また、物語というものが私たちにとってどういう存在かを『メアリー・ポピンズ』を通して論じた。そこでも帰還の必要性、帰還による効果などに注目した。
 


般若-仮面が語る文化史の中から-
古屋 三紗子
「般若面」を知っている人は多い。しかしそれがどういう目的で生まれ、どのようにして現代に受け継がれてきたのかは謎である。般若とは智慧を意味し、蛇と女性が共存する不思議な仮面である。現在それは能楽という演劇の舞台で用いられている。しかし、般若面の意義は舞台を離れたところにもある。それは古くから続く視線にまつわる伝説に基づき、邪視封じとしてのお守りの役目を果たしてきた。そこに形容されるのはジャノメであり、日本人の蛇信仰に繋がる。また集団を基本とする雨乞や遊びにおいても、仮面は活躍してきた。遊びや信仰・演劇は非日常の中で行われ、文化をつちかってきたのである。そこには般若面と生きる人々の姿があった。また西洋での蛇の髪をもつメドゥ-サの仮面、ゴルゴネイオンと共通点が多く、これもまた知っている人が多い。その利用法は互いに長い時間をかけてカタチをかえたが、それに魅了される心は般若面とともに生きているのである。


キレイの本質-清潔社会の問題点を考える-
上原 怜子
かつて日本では「穢れ」というものを恐れていた。また、「穢れ」は「汚れ」となり、不当な差別や偏見にさらされる結果ももたらした。穢れは目には見えないけれど、持っている力はとても大きなものだ。そして清めの儀式を行うことにより、人々はそれが完全になくなったと信じていた。これは現代の清潔社会とも比較することができる。現代では菌のようなものを恐れ、抗菌グッズで清めようとしている。無臭、無菌な状態を清潔と考え、人間にとって都合のいいような良いニオイしか受け入れなくなっている。そして無菌の状態を目指すあまり、抗菌グッズで私たちの体を守ってくれている菌までも排除しようとしている。その結果もともとあった免疫力を低下させてきている。このまま誤った清潔志向が進行していくと大変なことになると思う。実際子どもにとっての清潔も危険なことになっている。アトピーや喘息が増えたのもこういった清潔志向が背景にあるとも言われている。こうした清潔社会の問題点を見ていくと共に、本当のキレイとは何かをここで考えた。


『E.T,』の世界-「E.T.」を通して見る”それぞれ”の世界観-
山上 有紀子
 宇宙人、それは地球上の生物ではない生命体として位置付けられている。宇宙人とは一体何者なのか。映画でよく知られている『E.T.』。この物語に登場する宇宙人に焦点を当て、そのものを探ってみようと考えた。映画の中では、私たちの生活の中に順応し、人間との交流もなしえている。広く知られている宇宙人とは少し違っているのではないか。また、この映画のシンボルマークとも言える指と指を合わせるシーンの背景には、私たちの想像以上のものがあるのだ。この、指というものにも大きな意味があるということを伝えられればと思う。もう一つ、『E.T.』の主人公の少年の年齢にも注目した。少年エリオットは十歳である。児童文化でいう十歳という年齢は、子供から大人に成長する大切な通過点である。この年齢の少年を主人公にして、私たちに伝えたいメッセージがあるはずである。それは、物事に対する見方なのではないか。「E.T.」を見た登場人物たちは本当に多種多様な反応を見せる。「E.T.」を通して彼らは何を見ていたのか。私たちは、目には見えない概念というものに縛られて生きている。その概念を取り払って物事を判断することも必要だ。


物語のちから-「生命」を物語る-
藤原 麻喜子
 子どもから大人まで、多くの人々を魅了してやまない物語。私は趣味で始めた童話などの作品作りから更に発展させ、この卒業論文では物語に秘められた力を示してみたいと思う。ここでは物語そのものに秘められた力だけではなく、自身の創作経験からの視点を含めた"物語の作り手からの視点"を中心に考察することとした。物語を作るという行為は作家だけがしていることではなく、子どもの時から自分で替え歌や元の話を変形させて新しい物語を作るなど、物語作りを楽しんでいた。では一体私たちはなぜ物語作りを楽しむと同時に、物語を作ろうと思い立つのだろうか。それは心の奥底から人に伝えたい"生命(いのち)の物語"があったからではないだろうか。生物や医学の教科書だけでは説明しきれない生命の豊かさや可能性を、物語を作りそこに不思議な生物を登場させることによって私たちに伝えようとしていたのだ。子どもから大人まで、物語を作ると言うことは自分自身の存在を外へと表すと共に、自分という生命を他者に物語っているとも言える。私はこの卒業論文で物語の作り手からの、生命のメッセージについて論じていきたいと思っている。


「色」とは何か?-「色」が人に与えてくれたもの-
土井 麻里子
いろいろ・・という言葉は便利な言葉である。この世の中にあるいろいろな物体、現象、事件を、いろいろ・・と呼ぶことですべてうやむやに出来てしまうのだから。そして文字通り色には赤、青、黄色などいろいろな色がある。私たちが一言で「赤」と呼ぶ色にさえ、朱色、紅色、ローズなど、細かく分類することが可能だ。しかし、考えてみてほしい。もしこの世の中に色が存在しなかったら、人間はどのように生活していただろうか。見えないのではなく、存在しなかったら・・。原始の時代から、光はあったとしても色相や彩度がなかったとすると、世界は白と黒だけになる。版画の二色刷りのような世界である。きっと、人間はここまで居心地のよい世の中を創り出す努力をしなかったのではないだろうか。今回この卒論で、古代人や現代人、色覚異常者、子ども・・など、さまざまな視点から「色」を捉えてみたが、「色」とは何か?という問いに、簡単に答えることは今でも難しい。しかし、神様が人間に色を与えたということは、朝もやの中を手探りで歩いているような状態に、秩序と多種多様な万物の一切を明確に表す手段を与えてくれたのだと私は思う。


鬼-実在しないが存在する鬼-
谷口 貴子
 鬼と聞くと、人と同じような姿をしていて角と牙があり、虎皮のパンツをはいている姿を想像するのではないでしょうか。鬼という字は、隠すという意味の「隠(いん・おん)」からきていると考えられています。鬼は、人間の力ではどうすることもできない、穢れの概念や自然の厳しさに対する畏怖・不安から生み出された想像の産物なのです。自然の厳しさが人間にとって災害と恵みをもたらしてくれるように、鬼も恐ろしいというだけではなく、いい面も兼ね備えています。鬼という概念が誕生した頃、鬼に姿は無かったのです。その鬼に姿が現れ始めたのは仏教の伝来が大きく関係しています。私たちは小さい頃鬼ごっこをして遊びました。この鬼は節分の行事の鬼を子どもたちが真似はじめたところからきていると考えられています。このように私たちの生活の中には、今でも鬼の存在が根深く残っています。鬼は想像の産物であり実在しないものですが、私たちが存在するかぎり鬼は存在しつづけます。日々の生活の中でどのように鬼と交わりをもっているかを考え、自分の過去と共に振り返ってみました。


人間と動物-動物ものがたりから学ぶ「外」の世界-
和泉 淑子
この世界には私たち人間とそのほか数多くの動物が暮らしています。そして創作文学の中でも動物は数多く登場します。人間は人間の世界と価値観の中に生きているはずなのに、他種である動物との交流を試み、距離を縮めようとしているのは、なぜでしょうか。私は現実に存在する動物と、人間による意識的な操作の加わった物語に登場する動物との比較を行い、物語に登場する動物たち、あるいは妖精や妖怪のような架空の存在を「ものがたり」の世界の生き物だと考えました。そして大人にとっての「ものがたり」と子どもにとっての「ものがたり」との間に違いを発見しました。前者は自分の生きる人間世界と矛盾しないように徐々に減少してはいるものの、無意識的な自己暗示や心の支えになっているという点、後者は経験と知識の未熟さから、言動や情動に大きく影響を与える日常生活の一部である点です。そして再び現実世界における人間と動物との交流を見つめなおすと、実際に「ものがたり」を用いて動物と接しているという事実と、逆に「ものがたり」を失ってしまったために起きてしまった問題点などが浮かんできました。


妖精-影の国の住民たち-
鹿山 絵美
"妖精"というと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。私はディズニーの『ピーター・パン』に登場する"ティンカ―・ベル"のイメージが強く、小さくて羽が生えている、かわいらしい妖精の姿が思い浮かびます。妖精は主に、アイルランド地方を中心に古い時代から信じられ、多くの種類、様々な性質をもつ妖精たちが伝えられています。そして私たちが生活する現代にも、『ピーター・パン』などの子どもたちの物語や演劇、バレエ、音楽と多くの分野に妖精が存在しています。このような現代に生きる妖精の姿は様々に姿を変えながら、西洋から日本へ、古代から現代へと伝えられてきたのには、何か意味があったのだと思います。古代に信じられていた妖精の印象はあまり良いものとはいえません。「神」のような存在であり、また「死」を連想させる恐ろしいものでもありました。古代の人々から伝えられてきた妖精たちは、物語に登場するかわいいイメージの妖精へと変化し、私たちの中に生き続けているのです。妖精とはどのような存在なのでしょうか。現代にまで生き続けている妖精たちと人間、そこには深いつながりがあるのだと私は考えます。


人魚-「海」からのプレゼント-
山神 真理子
『人魚』…。あなたはこの言葉から何をイメージしますか?上半身は人間で、下半身は魚というとても不思議な生き物ではないですか?なぜ、こんな不思議な姿の生き物が物語の中でずっと伝えられてきたのでしょう。人間と魚をミックスするということ、そこから私たちは、どんなメッセージを読み取るのだろうか?そこには、本来なら私たちの中にあるはずの「人間」だとか「魚(動物)」だとかという境界線をなくすことのできる偉大なパワーが存在するのではないだろうか?人魚の生きる『海』の世界に私たちは今も、憧れている。どこか遠い、神秘的な世界である。でも本当にそうだろうか?私たちにとって『海』とは、もしかしたら故郷であるかも知れない。そしてまた、私たち自身が人魚かも知れない。人間の世界と海(自然)の世界の両方を生きる人魚から私たちが教えられることがたくさんある。人間とはなにか…?私たち人間もどこかに「人魚のこころ」を持っているのではないか。だから、私たち自身が人魚であることを思い出す必要があるのではないだろうか。


物語-「信じる力・思い込む力」から広がる世界-
熊田 優子
 私たちは生活していく中で、実に多くの物語と接している。本や映画のような作品としてあるものだけではなく、作りものとされているその他の多くのものも物語と呼べるのではないか。例えば迷信、占い、宗教などだ。それらは作りものであるにもかかわらず、現実の私たちの生活の中に根付いていて、行動に影響を与えている。それは人が物語を「信じる力・思いこむ力」と関係があるのではないだろうか。そこで私は物語を信じる力・思いこむ力から得られるものについて考えてみた。小説や絵本などの「作品としての物語」を楽しむこと、迷信や宗教といった「その他の物語」が現実の生活の中に存在していることを考えることで、また、自分自身の体験をたどることでも、物語が生きる力になっているということがわかった。心の支えが欲しい、より豊かに生きたいという想いから、人は物語を作りだし、物語を信じる力・思いこむ力によってその想いを実現しようとしているのだろう。つまり、より豊かに生きたいと願う人間にとって大人も子どもも関係なく物語がもたらすものは大きい。そして物語というものは生きていく上でとても大切なものであり、身近なものだと言える。