京都府生まれ。写真は「あすなろ園(心身障害児通園施設)」に勤務の頃の勇姿。24歳から44歳まで交野市。この園で関わった子どもたち、母親、先生たちから、人生で大事なことのすべてを学んだ。
45歳から、同志社女子大学、児童文化研究室へ。学生たちの苦悩の深さを知る。物語が人を支えるところを日々実感。70歳、退職。下は古希の写真。若き面影がなくなる老いも良いものだと思う。
11期生 卒論要旨集
「北斗の拳」にみる“賭け” ――人生も賭けである――
成田 歩未
「お前はもう死んでいる」という決めゼリフで80年代に漫画・アニメで人気を博した『北斗の拳』。その『北斗の拳』が近年、パチスロ「北斗の拳」となって登場し、ギネスに載るほどの爆発的ヒットを記録した。一体何がギャンブラーの心を掴んだのだろうか。そこで私は、漫画『北斗の拳』とギャンブラーには何か共通の要素があるのではないかと考え分析した。まずはギャンブルの心理とギャンブラーの実態について分析し、次に漫画『北斗の拳』がなぜ人気があったのかについて分析した。そこからギャンブラーと『北斗の拳』の関連性について考察した。その結果、ギャンブラーと『北斗の拳』の主人公は共に「リスク挑戦型」であり、「賭け」という要素がある事が分かった。「賭け」は賭博だけでなくほとんどの選択・決断にも共通する性質をもつ。なぜなら、「賭け」とは成功を目的とし、リスクを背負った“意志的選択”であるからだ。つまり人生におけるほとんどの選択・決断も賭けであり、『北斗の拳』のように主体的に生きるという事は賭け続けるということだと言える。ギャンブラー達はこのような『北斗の拳』に憧れを抱き、共振したのではないだろうか。
花のパワー ――放たれるメッセージ――
孫入 美和子
花は、いつの時代もその美しさで人の心を和ませ、空間を、世界を明るくし続けてきた。けれども花の魅力はその美しさだけに留まらないのではないだろうか。人と花との歴史や関係、人体にもたらす効果などを考察し、花のパワー、花の持つ魅力とその存在について考えてみた。人間と花とのかかわりの歴史は、世界至るところで育まれ、今日まで継承されてきた。そして生活文化の全体に深く関わっていることが分かった。変化し続ける花の存在が、私たち人間に時の推移を教えてくれるものでもある。また、現在では「花療法」として花の色、形、香りの3つの要素を総合して人体に大きな効果をもたらすことも期待されている。花は放っている。そこに詰まっている歴史を、その香りを、色を、自然のエネルギーを、ある人の想いや生命を。そしてそのメッセージは、それぞれの人が感じる、そのもので変わる。そういった意味では、花は自分自身を映し出す鏡でもあるのかもしれない。いつの時代も人間は花と共に生きてきた。花を見つめること、花について知ることは、人間について、また自分自身について知ること、見つめ直すことに繋がっているのではないか、と考える。
ネイディブアメリカンの知恵から学ぶ――大地に足を踏み込んで――
大藪 純子
2005年,私はインディアンと呼ばれるナバホ族の聖地を訪れた。そこでアメリカの中に日本人と同じDNAを持ち,黒髪で独自の文化を守っている人々の存在を知った。その精神世界は万物・自然を大事に考え,それらとの調和・バランスを心掛けて暮らしている。その姿に私はなぜか懐かしさを覚え,祖母の知恵から学んだ幼き記憶を蘇らせた。ナバホの人達は多くを求めず心の豊かさを守り続けているようにみえる。そんなアメリカ先住民と古来の日本人は似た精神世界を持っているように私は感じた。けれども,そんな精神世界は私の周りからは失われている。なぜなのだろうか。急激に変化を継げて進化してきた社会は自然との共生が崩れてきているのではないか。事実,現代の社会は自然に行動する子供や弱者を生きにくくしている。効率性や便利さが「幸せ」と一致するとは限らなかった。予測不可能で都合がきかない自然の変化を受け入れてきた人々の知恵の中に幸せを見つける暮らし方に視点をあてる事が,成熟した社会になるための大きな要素である。
ポケットとは何だろう
梅地 なつ絵
幼い頃、ポケットのある服というのは、何だか楽しい気持ちにさせてくれた。ポケットって一体何なのだろう?私たちがすぐ思いつくポケットとは、大事なものが落ちないように作られたものである。ポケットは普段の生活において、決して主役になる物ではない。けれどポケットには不思議なポケットもあって、それはドラえもんのポケットや、ふしぎなポケットという童謡にも出てくるものである。私は、その「不思議なポケット」を探りたいと思った。そこから、私たち自身生命体も命を入れるポケットであり、家族というものも愛情を入れるポケットとして見ることができるのに気が付いた。こういうふうに見てゆくと、「心」というものも大事なものを貯めておいたり、取り出したりするポケットなのだというのにも気が付いた。これらのポケットは私たちがただ気付いていないだけであって、私たちの生きている世界の中で、たくさん存在しているのだと思う。私はこの卒業論文を通して、世界を「不思議なポケット」という視点で見ることの楽しさ、大切さを味わうことができた。
「仮面」とは何か ――変身と成長を考える――
田中 裕子
私たち人間は日々成長を繰り返している。これは、誕生し死を迎えるまで、身体的、精神的な変化を体験していると捉えられるだろう。「仮面を装着する」という行為があるが、これは、自分とは違うモノになることができる変化の1つである。この行為は、日々の成長に何か関係があるのではないかと考えた。よって、仮面に視点を置き、仮面とは何か、仮面による変身とは何か、ということを考察した。まず、仮面を「見える仮面」と「見えない仮面=透明な仮面」に分けて考えた。そして、仮面の歴史や事実を通して「生と死」を結ぶ機能を考えた。さらに、自分の過去を振り返り、仮面による変身を考えた。なぜ、子どもたちは変身モノに夢中になるのか。変身道具を集めるとはどういうことなのか。一時的な変身とは何か。また、身体の変身である「うんこ」にも注目して考えを深めた。うんこと呼ばれるものも、自然サイクルの中の大切な変身なのである。このように生きていくことは変身の連続であり、変身の繰り返しこそが、成長である。そんな中で人間だけが「仮面」を使った変身をしてきた。それは、自分の存在の多様性を確認し、多様な自分の表現であると考える。
妖怪と人間のつながり
新池 晶子
妖怪は世界中に存在し、時代とともにその姿を変化させてきた。妖怪の種類は多岐に渡り、人間に与える影響も異なる。『広辞苑』によると、妖怪は「人知で不思議と考えられるような現象または異様な物体。ばけもの。へんげ。」と定義されている。人間が支配できないもの・未知なるものに名前を付けたり、形を与えたりしたものが妖怪なのである。また、妖怪は「神が姿を変えたもの」だとも言われている。例えば、「河童は水の神が零落した姿」だと考えられていた。さらに、『付喪神絵巻』や『百鬼夜行絵巻』に見られる「九十九神(つくも神)」のように、人間が使い続けてきた道具が妖怪に化けるという例もある。「九十九神」は時代を超えて、私たちに「物を大切にすることの意味」も教えてくれていた。妖怪は心理的、文化的、社会的な側面から見ても、私たち人間と深いつながりがある。妖怪からのメッセージは私たち人間にたくさんの大切なことを教えてくれる。それは、「恐怖を形にすること」「物を大切に使うこと」「地球上にあるものは全てつながっているということ」「異の存在を受け入れること」である。
児童文化で考えるデザイン ――私と未来をデザインする――
山田 千絵
私はデザインという言葉をよく使っていた。それは自分をデザインしたかったからである。そこには、モヤモヤした自分と、そのためにはっきりしない未来を、形あるものにしたいという背景があるのだ。そこで私を助けてくれたのが、児童文化だった。この世界では、登場人物が姿形を変化させて存在するのは当たり前なのだ。例えば、『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシは色んな姿に変身している。それら枠に納まりきらないものを「枠外」と名付ける。「枠外」を物の形で言えば、人間の大きさほどもある食物や、まるで人間のような生きている建築物などである。それらに囲まれた児童文化の世界で、人は周りに助けられながら成長していく。このように、「枠外」を受け入れてくれることと、何かとのつながりが必ずある児童文化に私は共感し、助けられたのだ。私たちがこれから社会に出ていくにあたって、きっとまた壁にぶつかるだろう。厳しさに立ち向かう気力と、安らげる場所をつくる余裕、この両者のバランスが不均衡な状態になったその時、「枠外」を生きる楽しさを、児童文化が教えてくれるだろう。
ちいさな先輩たちと私
福川 舞
「障害とは何だろう」と、障害児と呼ばれる子どもたちとの交流で思い始めた。その思いは、「自閉症」と呼ばれる子どもたちとの出会いで強くなっていった。彼らと私は似ているのだった。医学的・病理学的なものに起因して、「何かができない」状態は現実に存在する。彼れらはだから、単なるわがままでも、自分の殻に閉じこもっているのでもない。そういう見方は、健常者と呼ばれる人が作った基準からみたものなのである。自閉症といっても、いわゆる健常者と感じ方や認識の仕方が少しだけ違うだけなのである。同じように「快」「不快」を感じ、言葉を上手に使えないが、彼らなりの表現の仕方がある。大声で泣くこと、声をころして泣くこと、ニコニコと微笑むことで、気持ちを伝えてくれることなど。もちろん目も合わせるし、愛着も示してくれる。そこに必要なのは、自分の基準ではなく、相手を知ろうとする気持ちだった。そこには、現実を私たちと同じように生き、交流しようとしているものがいる。彼らといると、不思議と私の心は穏やかになっていった。生きるとは、大変であるけれど、素晴らしいものだということを子どもたちに気付かせてもらった。
メイクと心のつながり ――運命を変える素敵な魔法――
川邊 裕美
近年、日本では「色白で顔が小さく、目がパッチリ二重で、鼻が高い」ということが、美人の概念のように意識されていて、誰もがそれに合わせようと必死になっている。その為、必要以上にお金や時間、心を、顔の為に使ってしまう「顔にとらわれる」人々が増え続けている。「中身が大事」と言われてはいるが、「見た目で判断される」のが現実である今の世の中では、他人に嫌われたくないという気持ちの強い人は、「キレイでいること」にとらわれてしまう。その結果、美容整形を繰り返す人や、傷やアザも何もないのに自分が醜いと思い込んでしまう醜形恐怖症の人が増えてきている。そのような自分の顔に自信が持てない人々を助ける手段の1つにリハビリメイクがある。リハビリメイクは外観をキレイにするだけではなく、様々な力を持っている。キレイになることで自信が生まれると、心に余裕が出来、前向きな気持ちになれる。また、「自信に満ちた元気な顔」は周囲の人を安心させ、元気にする効果もある。高齢者、うつ病患者、がん患者などにも効果があることが認められ、人を助けるものとして医療分野でも注目を集め始めている。
テレビゲームの面白さ ――テレビゲームの未来と可能性――
正木 千賀
今日の児童文化を考えるにあたって、「テレビゲーム」ははずすことのできないものであるだろう。私自身、テレビゲームをやるということ、また、テレビゲームが少年犯罪や不登校など「児童の問題」の原因として、マスコミ等で取りあげられることに疑問符をかかげるということから、「テレビゲームの良い面」について考えることを前提に、人々をのめり込ませる「テレビゲームの面白さとは何か」、また、テレビゲームのもつ可能性について考えた。結果、テレビゲームは、集団心理療法であるモレノの心理劇「ロールプレイング」の構図を、擬似的にではあるが造りだしていることがわかった。また、テレビゲームにおけるロールプレイングは「演技」という行為ではなく、「コントロール操作」をもって役割演技をしていることから、私はそれを「疑似ロールプレイング」と考え、プレイヤーはキャラクターの「役割演技」を通し、「自分の心を操作」しているのではないか、という結論に至った。「テレビゲーム」にはどこか、カウンセリングに似た効果があるのかもしれないと感じ、そのような「テレビゲームの可能性」を考えることは楽しかった。
食べ物が持つ力 ――循環の法則を考える――
坂本 貴和
私は、中学の頃に食べることで悩んだ経験があった。大学生になって悩んだ背景を思い出しているうちに、食べることと人間関係はどこかでつながっていると考えるようになった。例えば、残さず食べることは相手に好意を伝えることになり、苦手な人との食事は苦痛になるということもある。食べることは、人間関係を受け入れ、気持ちを表現することであると気が付いた。そして、卒業論文では、食べることと人間関係の結び付きをテーマとして扱いたいと考えた。文献を調べていくなかで、食べ物の循環を知った。食べ物は人間に食べられて排泄され、土に戻り、再び食べ物をつくるのに利用されるという循環を繰り返す。また、人間自身も気持ちや行動をやりとりし、子どもを産み育て、出会いと別れを繰り返し、周りの人と循環している。上手に循環することで、お互いの存在を認めていくことが出来るようになる。本論では、循環の必要性、家族や友達など周りの人と付き合っていく上での食が持つ可能性を考えた。私は、来春から教師となる。食育によって、子どもに循環を理解させ、そして上手に循環出来るように支援することが私の使命であると実感するようになった。
空と物語 ――空の旅は自分探しの旅――
上田 美香
私は昔から空を眺めるのが好きだった。夕焼けや星空も好きだが、一番好きなのは青空である。私は雲ひとつない青空を見るといつも「かげおくりのできそうな空だなあ」という『ちいちゃんのかげおくり』の一節を思い出していた。そのことからまず子どもが読む物語から空について考えた。空の物語には生と死に関するものが多い。そこから生死の問題を基礎としている宗教について考え、仏教の「空
くう
の思想」に辿りついた。物語も宗教も人の心が作り出したものであることから、宗教もまた物語ではないかと考えた。そしてこの2つの物語の中で、空は自分の居場所を教えてくれるもの、自分の存在、生き方について考えさせてくれるものであると考えるようになった。そこから、自分の存在を現実世界で証明してくれるものの中で一番重要な役割を果たしているのが名前であると考えた。私たちは生まれた時に名前を与えられる。それと同時に親から自分が育つ「空間」をもらう。このように私たちは親からもらった「空間」で物語を通して「空想」し、宗教の世界「空
くう
」へと近づいていく。私たちは生まれて死ぬまで様々な形で空と関わっているのである。
パレスチナ問題から考える子どもの幸福――戦争ではなく、教育を――
島﨑 裕美
21世紀に入ってからも世界で争いは絶えない。その中でもパレスチナ問題は深刻な問題である。現在も占領が続いているパレスチナは、日本と比較すると信じられないようなことが日常化している。そこで、パレスチナとイスラエルの歴史を振り返り、映像からパレスチナの子どもたちの現状を、法律や実際の教育現場から日本の子どもたちの現状を探った。そして、パレスチナと日本の子どもたちを比較し「幸福とは何か」ということについて考え、対立をなくすために私たちができることを考えた。問題を解決するためには、違いを理解して認め合うことが大切である。パレスチナ人とイスラエル人、それぞれが相手を理解しようとしなければならない。したがって、両者の立場を知ることのできる教育が必要であり、お互い学ぶことが、解決のための一歩になると考えた。また、日本人はパレスチナ問題が遠くの国で起こっていることと思いがちだ。この論文は、私自身が学び、考えた過程である。自分から意識して歴史に触れ合うことによって初めて見えることは多かった。私自身、パレスチナを知ろうとしたことで、こんなにも彼らに近づくことができたことに驚いている。
レオノールフィニと私
佐藤 真規
私は「レオノールフィニ」という芸術家に衝撃を受けた。初めて自分と「見ている世界が似ている」人間と出会った私は、何故彼女と私の見ている世界が似ているのか、知りたくなった。『レオノール・フィニ展』『レオノールフィニ』『現代美術第8巻フィニ』という文献を中心に研究を進め、関わりのあったシュルレアリスト達、卵、仮面等の事も取り上げ、文献やインターネットにより調査した。日記や、自分のレポート等も参考にし、共通点、生き方等を調べた。結果、何故彼女と私が似ていると感じたのかについて、いくつかのキーワードが挙げられた。「死への異常な興味」「不安定」「抑圧」「変身」「孤独を愛する」「二重性」「自己満足」等々である。レオノールフィニと私の世界は似ていると何回も書いたが、自分が彼女のように凄いとか素晴らしいとかそういう事を言いたい訳ではなく、初めて自分の目を見て、自分を見つめてみたくなった。だから題名は「レオノールフィニと私」だが、結論は「私とレオノールフィニ」になっている。「レオノールフィニ」は「レオノールフィニ」であるし、「佐藤真規」は「佐藤真規」であって、その他の何ものでもない。
言葉という魔法
橋本 麻友
「自分を信じて。大丈夫、大丈夫。」部活の仲間と、試合の前にいつもかけ合っていた言葉である。仲間からのこの言葉によって、自信を無くして弱気になっている自分の中に、みるみる力が湧いてきたのを憶えている。まるで何だってできてしまいそうな気分になった。これが「言葉」という魔法にかかった瞬間だと私は思っている。今でも何かがあるとこの言葉を呟く。そして、今でもこういう言葉からたくさんの力をもらっている。私たちが日々当たり前のように使っている言葉。言葉というと、意思伝達の道具として捉えられているが、言葉の役割は決してそれだけではない。日常のほんの一言に励まされたという経験は誰しもがあると思う。当たり前のように使っている言葉だが、その「言葉」にはとてつもない大きな力があるのではないだろうか。そんな力に触れたくて、本論では物語や諺、歌やおまじないなど様々な言葉から、「言葉の持つ力」を見つめた。「言葉」は私たちの背中をそっと押してくれる。私たちは「言葉」によって心を変え、それによって自分自身を変えることもできる。そんな「言葉」は、まるで誰もが使える素敵な魔法みたいだと私は思う。
お金の大切さ――お金じゃ換えない存在を見つめつつ――
藤倉 志穂
私は、来年から銀行で働くことになった。なぜ銀行?と聞かれると、いつも社会の最先端を行く仕事と、できるだけ長く働きたい理由が主な動機だった。また、高校を卒業し、家を離れてからの集団生活と、お金にまつわる二つがきっかけとなって、お金と人間関係をテーマに、お金じゃ換えない大切なものを見つけようと思った。お金について考える中で、2004年に公開された、「誰も知らない」という映画を手がかりに考察している。お金のある生活から、お金について考えるのではなく、お金のない生活から考えることで、お金の大切さを知ることができたと思う。生活保護という制度についても調べたが、生活保護を受けたいにもかかわらず、申請すらできない人がいる。そのため、今の日本で、餓死する事件も多々起きている。国や行政は、生活に必要なお金の支持はすべきである。それを踏まえた上で、私はお金で換えないものを考えた。家族と共に生きた、決して一人では生きていけない暮らし。「誰も知らない」暮らしではなく、誰かがどこかで与えてくれる暮らしについてである。