京都府生まれ。写真は「あすなろ園(心身障害児通園施設)」に勤務の頃の勇姿。24歳から44歳まで交野市。この園で関わった子どもたち、母親、先生たちから、人生で大事なことのすべてを学んだ。
45歳から、同志社女子大学、児童文化研究室へ。学生たちの苦悩の深さを知る。物語が人を支えるところを日々実感。70歳、退職。下は古希の写真。若き面影がなくなる老いも良いものだと思う。
13期生 卒論要旨集
落第忍者乱太郎・忍たま乱太郎の魅力
―― 見えてくる教師像・応援メッセージ ――
髙田 あゆみ
『落第忍者乱太郎』はアニメ「忍たま乱太郎」の原作である。今回なぜ『落第忍者乱太郎』と「忍たま乱太郎」を選んだかというと、漫画もアニメも長く続いており、なおかつ「学校」が登場するからである。今まで何気なく見ていたが、よく考えると不思議であった。長く続くということは、人々に受け入れられており、そこには人を惹き付ける魅力や理由があるのではないだろうか。この漫画やアニメは、現実には存在しない忍者の学校「忍術学園」という学校が舞台である。忍術学園の先生達、生徒である乱太郎・きり丸・しんべヱ達が助け合い、学び、成長していく様子が描かれている。それらから見えてきたものは一体何であろうか。魅力と共に考察した。もしかしたら漫画は漫画であって、現実は現実なのかもしれない。所詮漫画は漫画だという人もいるかもしれない。けれども見方次第で、漫画でも現実に通じる部分があるのではないだろうかと私は考える。そしてまた漫画も読み手の解釈1つで変わるものだからこそ、様々な見方があるのだと思っている。だからこれは私が見た、落第忍者乱太郎と忍たま乱太郎の魅力と、それらを通して見えてきたものである。
さくらももことちびまる子ちゃん
―― 「笑い」と「なみだ」の彼方へ ――
西 優子
長年たくさんの人に愛されてきた漫画『ちびまる子ちゃん』。好奇心旺盛でおっちょこちょい、怠け者で楽しいことが何よりも好き。だけど、ちょっと昔気質で人情家であるまる子。そんなまる子の姿に、私を含め、誰もが自分のことのように思いつつ、懐かしさ、そして温かさを感じてきたのではないだろうか。そんな、登場人物であるまる子やまる子の家族、クラスメイト、そのどのキャラクターにも魅力があり、それぞれが面白く存在するからこそ『ちびまる子ちゃん』は成り立つのである。ところで、この『ちびまる子ちゃん』を描いた作者であるさくらももこは、なぜ『ちびまる子ちゃん』を描いたのだろうか。作者は、『ちびまる子ちゃん』を描くことで自分自身の過去と向き合い、何かを「認める」ことを果たしてきたように思う。常に考えることを大切にしているさくらももこだからこそ、日々の「笑い」と「なみだ」に敏感であり、たくさんの人にそれらを伝えることができたのではないだろうか。本論では、そんな「笑い」と「なみだ」という観点から、『ちびまる子ちゃん』の魅力や、作品に込めたさくらももこの想いについて研究した。
ネグレスト ほったらかされる子どもたち
―― 生きているのは大人だけですか ――
一色 美三登
映画「誰も知らない」に強烈なネグレクトをみた。そして、そういう映画との出会いにより、虐待、ネグレクトについて興味を持ち、その症状や種類について調べてみた。虐待、ネグレクトが発生するその裏側には、トラウマや歪んだ、間違った愛情表現、母性本能、父性本能の解体、また本能がゆえに虐待を受けた子どもが虐待をしてしまうという悲しい現実がある。虐待の連鎖を防ぐためにはトラウマの克服や、子どもを愛するということがどんなものであるかということをまずは親が理解し、学んでいく必要がある。そして、本人達だけで解決できることではないことから周囲の理解が何より必要であり、そういった環境を作ることも大切になる。まず一番は本人が止めたい、止めて欲しいといえる勇気をもち、生まれ変わろうとする一歩を踏み出すことである。そして小さい子どもに対してであれば周囲の人間が子どもの発する信号、小さな変化に気付くことである。そこから施設に知らせたり通報する周囲の大人達の勇気と行動が解決、克服に繋がっていく。そういう道筋について研究した。
はらぺこエリックカール
―― しかけられた絵本の秘密 ――
浅田 眞由美
はらぺこあおむしは世界中で愛され、読み続けられている絵本の一つである。国や文化を越えて愛される秘密は、作者のエリックカールが作品に込めた思いにあった。彼は美しい独特のパレットと呼ばれる「色」の薄紙を生み出し、それらを切り貼りして絵を描き、頭のネジを巻いてアイデア溢れる物語を紡いでは、私たちの想像力、イマジネーションを刺激してきた。そして、彼の絵本がこのように「色」の力に刺激されて作られるように、世界も「色」の力が大きく影響を及ぼし合って出来ていることを比較し、研究した。彼がこのような絵本を作るきっかけとなったのは、子ども期のドイツで向き合った天国と地獄の経験にあったという。その体験によって彼は「永遠の童心」を見つけるきっかけを得、現在の子どもたちの心とつなげる橋掛かりを作っていった。自分が過去に欲しかった絵本、求めていたメッセージ、幸せだった記憶・・・いつまでもその頃の自分に語りかけることで絵本は生まれる。「幼いエリックカール」と「絵本作家としてのエリックカール」とのやりとりによって生まれた絵本は、幼い子どもたちを惹きつける魅力に溢れている。そのことを探求した。
「のら」とは何か
―― 人間が持つ「のら」の要素を考える ――
吉識 亜矢
「そんなこと言ったらみんなのらだよね。」きっかけは2007年に公開された映画『大日本人』の中でのこのセリフだった。このセリフは一体どういうことなのだろうか。どのような意図が込められているのだろうか。みんなが「のら」とはどういうことなのだろうか。私たち人間もみんな、野良犬や野良猫と同じようにさ迷い歩く「のら」だということなのだろうか。そもそも「のら」とは一体何なのだろうか。あの映画にとっては特に何の意味も持たない、ただのセリフだったかもしれない。しかしこのセリフをきっかけに、絵本や漫画などから「枠」からはみ出たものとしての「のら」や心の「のら」などを読み取り、そもそも「のら」とは何かということを考えていった。そしてそれらを踏まえながらホームレスやフリーターなどを取り上げ、人間が持つ「のら」の要素について研究した。また、野良犬や野良猫の現状や、昔から伝わることわざでの「のら」の使われ方についても考察した。そしてこのテーマは、今の自分のあり方や生きる知恵などについて見つめ直すきっかけともなった。
「カード」と共に生きる
―― 未来の子どもたちへの切り札 ――
玉井 明
カードを提示、もしくはかざすことをするだけで何でもスムーズに物事が済んでしまう世の中が到来した。人一人が数十枚ものカードを持つようになっている。これを近年、カード社会と呼ぶ。それと呼応して、生活の遊びという場面でもカードを大いに使用して遊ぶ子どもたちが出てきている。中でも、社会現象までに至った、「甲虫王者ムシキング」「ラブandベリー」といったカードゲームはカードとアーケードゲームが融合したものである。子どもたちはそういう遊びの中で何十枚ものカードを持ちカードゲームとして使ったり、友達と交換したりしている。そうした現在のカードゲームとはどういったものなのか、そのゲームにいたる歴史を先ず調べた。そして、昔のカードゲームの代表である「めんこ」との比較をし、テレビの中でカードはどう描かれどのように影響を与えるのか考えた。その中で、今の子どもたちにとってカードとはどういった存在なのか、子どもだけでなく私たち大人もどう捉えていったらよいのか、考察していった。
遊びの世界 ―― グレーゾーンを生きる大切さ ――
青木 佳奈子
私は約一年間、週に二日幼稚園においてボランティア活動を行ってきた。本卒論はそこで見てきた子どもたちの姿を考察し、遊びとはなにか、どのような構造を持っているのかについて考えたものである。そこで子どもたちは多くのおもしろい行動を見せてくれた。創造・想像と破壊の運動、隠す・保存する行動などなど・・。子どもたちは様々な遊びの中で様々な顔を見せる。遊びと向き合ううちに見えてきたものは単なる子どもの遊びではなく心の世界であった。そしてそれは私たち大人の心にもある世界だった。私たちは様々な生活の場面で様々な顔をもった存在である。それなのに自分が創った「こうありたい自分」に縛られて、なかなかその自分を破壊し、場面を変えることができずに苦しんでいる。そこから「心にも遊びがなくちゃ苦しいしおもしろくない!」と私は考えていった。もっと生きやすく生きていくために、大切なことは遊びをもつということではないか。遊びとはあいまい性、余裕、寛容性をもった、白でも黒でもないグレーゾーンをもつ心だ。そんな遊び心を持つ生き方は、うまく場面を変えて生きていくために必要不可欠であると私は考えていった。
物語における「すてきなどろぼう」
――「闇」の中の「光」を追って ――
片山 治子
絵本『すてきな三にんぐみ』を中心に、物語に登場する「どろぼう」とは何かについて研究した。絵本の題の「三にんぐみ」とは3人のどろぼうの事である。本当に「どろぼう」はすてきなのだろうか。物語の「どろぼう」は民衆のヒーローという一面をもっている。ただ一口に「どろぼう」の話と言っても、現実世界の犯罪者である「泥棒」が泥棒をする様を描写し美化している物語ではない。現実の「泥棒」と物語の「どろぼう」の違いはどこにあるのか、なぜ「どろぼう」が民衆に慕われる存在になりえたのか、作品が作られた時代背景と照らし合わせながら考えた。魅力的な「どろぼう」たちの物語は時代を問わず生み出されて続けてきた。「ルパン三世」や「オーシャンズ11」といった「どろぼう」に現代人は何を求め、ヒーローである「どろぼう」はいったい何を盗み出しているのか。「どろぼう」は時代を写す鏡である。あえて彼らのような影の存在を描く事によって作り手は何を訴えてきたのか。その作り手も人の心を奪うという点でまた「どろぼう」である。奪うだけではなく人々に何かを与え、時代の闇と向き合う「どろぼう」たちのキラリとした一面を追った。
星の王子さまからの贈り物
―― 1億の泉と1億の鈴 ――
田中 香子
「かんじんなことは,目に見えないんだよ」サン=テグジュペリはこの言葉に意思を託しました。1900年にフランスで生まれた彼は、第二次世界大戦の最中、参戦を呼びかけるためにアメリカへと亡命しました。しかしそこにはアメリカ人はもちろん、亡命してきたフランス人でさえ、フランスとドイツの戦争はまるで対岸の火事だというように気にも留めない人々で溢れていました。そこで彼は目に見えないものに無関心であることの虚しさ、見えないものを見ることの大切さを痛感します。そして人間というものに対する絶望感や、大切な人をフランスに残してきた罪悪感を抱えながら書かれたのがこの作品、『星の王子さま』でした。愛しているはずのバラのわがままに苦しめられ、自分の星を飛び出して地球にやって来た王子さまが出会った操縦士の「ぼく」。2人が絆を深めるにつれ、王子さまの純粋で清らかな心が「ぼく」の心まで浄化していき、大切なことを私たちの心にも残してくれます。50年以上も前に出版されてから今なお世界中の人に愛され、読み継がれているのにはそれなりの理由があります。この作品が持つ力を作者の人生をふまえながら探りました。
家族よりもオハナに
――“Lilo&Stitch”から学ぶ ――
西田 尚美
私はディズニーのアニメーション映画『リロ&スティッチ』をテーマに卒業論文を書きました。リロはハワイのカウアイ島に住む5歳の女の子です。スティッチはリロに出会うまで、悪の科学者が違法実験によって作り出した試作品の一匹でしかありませんでした。しかし、人間のリロとエイリアンのスティッチは出会い、しだいに互いを思いやる心を持ち、互いを家族として受け入れていきます。この映画には大きなテーマがあります。それが“オハナ”です。オハナとはハワイ語で家族を意味する語ですが、血縁関係の無い者同士であっても心が通っていれば、家族として受け入れるという家族観で成り立っています。舞台はハワイ。リロとスティッチの間に血縁関係はないけれど2人は家族です。この感覚は、血縁関係を重んじる日本人の私たちには理解し辛い感覚ですが、私はオハナと触れ合っていくうちに、人間にとって本当に大切なものは何かを教えられました。『リロ&スティッチ』の作品を通して、日本の家族とは何か。ハワイのオハナとは何か。日本の家族とハワイのオハナの違いは何か。この3点に迫り、オハナという新しい家族の在り方について研究しました。
たくさんな「空」を見つめて
―― 新しい私に出会うために ――
佐竹 香穂
どこまでも澄んでいる、広大な、美しい空。この空に吸い込まれることによって、私たちは現実世界での悩みや苦しみから解き放たれ、ふと「新しい私」に出会うことがある。この「空」は、普段私たちが生活の中で、天気などを気にしたときに何気なく見上げる空とはどこか違っている。どこが違うのか。どうして違うのか。忙しく時間を過ごしている中では、空のさらに奥にある広がりに気付けないことが多い。しかし「空」を見つめることによって、私たちはそこに「何ものかの存在」があることに気付く時がある。それは紛れもない、私たち人類が長い歴史をかけて繰り返し、探求してきた「果てのないもの」の存在である。今回の卒論で私は、中原中也や高村光太郎の詩、マグリットの絵、HABUの写真といった、空を題材とした芸術作品からこの「何ものかの存在」を探ってみた。芸術家、思想家が見つめた「空」としか呼びようのないものは、色や形、言葉となって私たちの前に姿を現す。これらのものを手がかりに、「空」を生かして生きる「新しい私」に出会うための道筋を考察した。