18期(2013卒)


 18期生 卒論要旨集 


 
絵本の「読み聞かせ」がもたらす親子間への影響
        ―― Bookstartを通じて ――
廣瀬 摩穂

 私は子どもの頃に出会った絵本を未だに覚えている。そういった自分の記憶から、子どもと絵本の関係をテーマに取り上げ、文献や絵本の読み聞かせ事業の見学を経て考えを深めていった。子どもにとっての絵本とは何なのか、また絵本の読み聞かせとは、いったい子どもにどのような影響をもたらすものなのかを考察した。子どもにとっての絵本とは未知の世界への想像力を広げてくれるものであり、絵本の読み聞かせの時間とは、親子の触れ合いの時間でもある。乳幼児期の子どもは、親が自分の要望に応えてくれることで、信頼感を抱くようになり、愛されていると感じることで、自分の存在価値を見出し、それにより心が豊かになると考えられる。そして、そうした気持ちの触れ合いが絵本の読み聞かせの中から生まれてくる。しかし、子育ての忙しさの中で、そのような満足させる絵本と出会えない場合に、「ブックスタート」という、絵本だけでなく様々なアドバイスをしてもらえる取り組みがある。こうした機関も活用するなどして、心に余裕を持って子どもと接することの大切さを論文で考察した。


『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力
      ―― 歴代の魔法少女アニメとの比較から ――
井上 萌

 『魔法少女まどか☆マギカ』は2011年に放送された深夜アニメである。社会現象といっても良いほどの人気を得た作品であるが、なぜそれほどに多くの人を魅了したのだろうか。歴代の魔法少女アニメと比較をすることで、『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力が見えてきた。1つは、非現実的な世界観の中にもリアリティがあるということだ。『魔法少女まどか☆マギカ』では、魔法少女になるまでの主人公の葛藤や、“正義の味方”の良い面だけでなく悪い面、善悪両方を持ち合わせている人間の二面性を描くことで、物語に現実味をもたせている。もう1つは、<魔法少女のお約束>を取り入れながらもそれを打ち壊すことによって生まれる意外性だ。“後天的魔法少女”というお馴染みの設定を取り入れながらも主人公が最終話まで魔法少女にならない点や、マスコットキャラクターが実は味方ではない点、魔法アイテムが厳密には“アイテム”ではない点が意外性を生み出している。こうした従来にない魔法少女の創造がこの作品の面白さの中心となっている。ただしこの面白さは、これまでの多くの魔法少女アニメが紡ぎあげてきた歴史の上に成り立っているといえる。


フランスにおける日本アニメ・漫画
       ―― 「やぶにらみの暴君」が宮崎駿に与えた影響 ――
田中 佐季

 なぜフランスで日本アニメ・漫画が人気なのかと疑問に思い、研究を始めた。1970年代のフランスは、子ども向けアニメ・漫画しかなかったことで、子どもも大人も楽しめる日本アニメ・漫画が受け入れられたと考えられる。ところが調べていくうちに、今日の日本アニメにはフランスアニメが深く関係していることがわかってきた。日本アニメの代表・宮崎駿や高畑勲が影響を受けたとされる作品が、フランスアニメにあったからだ。それが『やぶにらみの暴君』である。その作品と宮崎駿作品を比較することにより、その事実を確かめることができた。フランスには『ファンタスティック・プラネット』のようなユニークな作品もある。そんな異文化を理解し、取り入れることで、宮崎駿たちは世界に認められる作品を作り出すことができた。最後に、海外における日本アニメの産業市場が、年々減少している現状にも目を向けた。その原因の一つとして『ONE PIECE』や『NARUTO』に続く大ヒット作がないことが考えられる。今後ヒット作を輩出するためには、宮崎駿たちがしてきたように海外にも目を向け、異文化理解を深めることが重要である。
 

ピーターラビットの魅力
 ―作者ビアトリクス・ポターの世界観から「服による擬人化」を考える―
町田 あゆみ

 『ピーターラビット』は100年以上経つ今でも、世界中で「絵本の宝石」と讃えられ、子供から大人まで様々な年代の人に愛され続けている。一体この物語の魅力は何なのだろうか。作者ビアトリクス・ポターの生涯を辿りながら、シリーズ作品に込められた想いを調べていった。一番の特徴は、キャラクターが服を着ていることである。動物が服を着ていることで「服による擬人化」が起こっている。動物に服を着せることについてポターが語っている記述は何もない。しかし彼女にとって動物に服を着せることは当たり前のことではなかったはずである。なぜ彼女は自身が生み出したキャラクターに「服を着る」という人間の文化を与えようとしたのだろうか。彼女は動物に人間らしい行動、表情をさせておきながら、しかし動物本来の姿も決して忘れずに描いている。このバランスは非常に難しいと思うのだが、ビアトリクスは絶妙にやってのけている。動物と人間を結びつけたのは「服」、動物と物語を結びつけたのも「服」、湖水地方のような大自然と物語を結びつけたのも実は「服」ではなかったかのということが、卒論の考察を通して見えてきた結論である。


履物の秘密を探る    ―― 靴が意味することとは ――
中西 理恵

 私たちが日々何の意識もせずに履いている靴。人類は何の目的のために、いつ頃から履物を履くようになったのだろうか。履物の本来の目的は足を保護し、遠くへ旅をさせてくれるものであった。そのような中で昔の人々はより快適に日々を送るために、その地域の特徴に合った履物を考案してきた。では時代が変化し、文明が栄えた現代の私達にとって、靴とはどのような存在なのだろうか。特に私を含む現代の女性は、足の痛さを我慢してまで踵が高くつま先のとがったハイヒールなど履くようになってきている。では本来の靴の目的ではないように見えるこのような文化はなぜ生まれたのか。この疑問を論文作成の中で追及した。そこで、特に誰もがよく知る「シンデレラ」の物語からたくさんヒントを得た。ガラスの靴を媒介にして結婚が実現していく物語。そんなガラスの靴だが実は異性と深い関係があった。異性そして同性の目からも魅力的に映る足と靴。それは人類が後世に子孫を残していくことと深い関わりがあったのだ。履物は人間を遠方へと繋ぐと同時に、世代を繋ぐための仕掛けがあることが研究からわかってきた。


アリエッティからのメッセージ
    ―― 異なる存在が共に生きてゆくためには ――
倉橋 希紗子

 人間と小人。『借りぐらしのアリエッティ』の中ではこれらの異なる種族の関わりが描かれている。これはあくまで物語の中の話であり、普段の私達の生活では想像もできないことだ。しかし本当にそうなのだろうか。よく考えてみると、私達も異なる種族同士が関わり合って日々生きている。そのことに慣れていてあまり意識していないが、実はそれは大変不思議なことだ。そのようなことから本論では、“共に生きる”ということを中心に自身と他との関わりを考えた。具体的な内容としては、“アリエッティ”という存在を“妖精・守り神として”と“生き物として”の両方向から考察した。また、目には見えない存在(妖精や小人、幽霊など)を信じるとは私達にとってどのようなことなのかを深く考えるために、アンケート調査を行った。最終章では、なぜ人間の男の子・翔は、小人の女の子・アリエッティと分かり合うことができたのか。この2人の関係から今私達が学ぶべきことは何かを考えた。私は本論を通じてそんな小さく、しかし偉大な小人の声に耳を傾けてみた。そして一番気付きづらく、同時に一番大切なアリエッティからのメッセージについて考察した。


「お茶をする」ということ
 ――イギリスの紅茶文化とコミュニケーションに必要なもの――
足立 佳奈美

 この卒業論文では、まず紅茶の基礎や紅茶で有名なイギリスの紅茶文化について研究した。そこからイギリスの紅茶文化が生まれたきっかけや、茶葉の発酵違いによって日本茶、ウーロン茶、紅茶に分かれるということを調べた。そしてその研究の過程でイギリスの植民地であったインドのカースト制度や、児童労働が見えてきた。そこからどのようにすれば児童労働がなくなるか、下級カーストの人々の生活がよくなるのか調べていった。それから紅茶文化について研究した。「お茶をする」ということでコミュニケーションの効率が上がる。「ご飯に行く」よりも「お茶をする」方が、コミュニケーションがたくさん取れる。それは一体なぜなのか調べていった。そこからコミュニケーションの間には「共通の」媒介物が存在するということもわかってきた。例えばイギリスの紅茶文化では、高級な陶器やバターがたっぷり入ったお菓子などの文化が作られ、「完璧なお茶会」のイメージも作られていった。しかし時代の流れととも「お茶をする」ということは変化してきた。現代の私たちが豊かな生活を送るためには私たちなりに「お茶をする」ことが必要であると改めて考察した。


ディズニーランドのホスピタリティ
妹尾 美奈

 「心遣い」や「思いやり」という言葉に大きな意味を感じる私にとって自分の理想を叶え、皆に夢を与え続けている「夢の国」ディズニーランドは特別に興味を引き続ける存在であった。「来場者の90%以上がリピーター」といわれるディズニーランド。皆がもう一度そこに行きたいと思える理由は何にあるのか?「夢の国」を支える裏側にはどのような真実が潜んでいるのか?それを知るために創始者であるウォルト・ディズニーの生涯から、今日も家族の笑い声が溢れるテーマパークに秘められたキャストの教育・工夫までを調べていった。そこでホスピタリティという言葉に出会った。ホスピタリティとは相手のことを思いやって行動する心遣いだと私は考える。ディズニーランドは私たちに子ども時代に戻り今まで自分に注がれた愛や夢を思い出させてくれるために、温かいおもてなし「ホスピタリティ」を与えてくれる場所である。もちろんそのホスピタリティを実践するキャストにとって厳しい雇用の現実もある。それを踏まえつつもなお、『温かい』『また行きたい』と感じられるようなホスピタリティ溢れるものとなっているディズニーランドとは何かを研究した。


「ピーター・パン」から読み取る子ども心
―『小さな白い鳥」から『ピーターとウェンディ』までの比較を通じて―
清水 麻美

 誰もが知っている、『ピーターとウェンディ』。ピーター・パンという永遠の少年は、『小さな白い鳥』という小説の中で初めて登場した。ここでは、人間の子どもは生まれる前は小鳥で、ピーター・パンは鳥でも人間でもない中間の存在として描かれている。この作品から生まれてきた「ピーター・パン」の物語では、フック船長やティンカー・ベルなど魅力的な登場人物が作られた。しかしそれだけではなく、バリは作品の中に実は身近な人物を登場させていることがわかってきた。それがデイヴィズ家の子どもたちだ。バリは、彼らと過ごした楽しい日々を『ピーター・パン』に描くと同時に、そんな子どもたちが、成長によって自分の元を離れていく悲しみも描いている。私たちは成長により遊びの世界というものを少しずつ失っていく。しかし、この子どもの世界はとても大事であり、忘れてはならない喜びの世界でもある。バリは、『ピーター・パン』という物語において、成長により忘れてしまう子ども時代の大切さを表現しようとしたのではないだろうか。そんな「子ども心」を持ち続けることの意味を考察した。


ハリー・ポッター
       ―― 「マグルの血」をめぐる葛藤の中で――
林 明日香

 劣等感とは、自分が他人より劣っているという感情のことである。人々の混合は、ときにはどちらにもなりきれない曖昧さの劣等感を招くことがある。ヴォルデモートは、父親はマグルで母親が魔法使いの「混合」である。彼は、自身の立場を否定し、「純血」主義を主張している。彼は、劣等感から脱却するために自分の望むもの以外を徹底的に排除する。現実世界には、差別がある。差別によって生まれた劣等感を優越感に転換するために、人は劣等感の原因を排除することで、自分を優位に立たそうとする。ところが、それでは何の解決にもならない。また新たな差別を生むことになってしまう。しかも、この劣等感というのは、人の心の中で膨らんでいくもので、他人の目から見てすぐにわかるものではないために、肥大化し、過激な排除に繋がってしまう。実は、ハリーも両親がマグルと魔法使いであり、曖昧な境遇に生きている。どちらにもなりきれない彼が、ヴォルデモートのように劣等感を無理に優越感に転換させなかったところが、この『ハリー・ポッター』の見どころになっている。その原因は、ハリーを愛する人たちが彼の周りにいて彼を支えてくれたからである。


作者モンゴメリが描く『赤毛のアン』の魅力
       ―― 人の輪が広がるアンのおしゃべり術 ――
東 麻理子

 主人公アンは、幼少期に心に傷を負ったが、周囲の人たちの優しさに包み込まれ、痛みも癒され、心を再生していく。偶然の出会いではあるが、アンの人生は大きく変わった。そしてまた、アンの存在によって周りの人も成長していった。でも偶然上手くいったのだというふうに物語はなっていない。なぜアンは、自分の人生や相手の人生を変えるということができたのか。幸せを手に入れるために実はアンが常に心掛けていたことがあったのだ。それが卒論を通して、アンが自分をアピールする為に努力する楽しいおしゃべりであり、感謝の気持ちを忘れないことであることなどがわかっていった。ところで、そうしたアンのおしゃべりや行動は、翻訳の仕方で随分違って見えてくる。そこで卒論では、『赤毛のアン』の翻訳を村岡花子、掛川恭子、松本侑子の3人で比較してみた。このことから時代背景や、それぞれの表現力、言葉のニュアンスが翻訳者によって大きく異なることが考察できた。最後に、人生は山あり谷ありで決して平坦な道のりではないが、何事にもめげずに相手に訴え続ける努力によって、自分の道は開かれるのだということが、アンの物語から考察できた。


♪おと♪絵本作りへの挑戦
      ―― 聴覚障害を持つ子供たちへ ――
礒 あゆみ

 バリアフリーの絵本というものを見たことがあるだろうか。目の不自由な方への点字の本はよく知られているが、耳の不自由な方に役立つ本はと聞かれたら思いつくだろうか。耳が聞こえなくても、絵本は目で読めるからいらないのではと思うかもしれない。しかし、耳が不自由な子どもに「おと」の存在に気付かせ、そして「おと」を楽しむことに、意外にも絵本が役立つ。私はそんな絵本を作ろうと思った。絵本は、読む楽しみを与えることはもちろんだが、さらにプラスアルファとして、子ども達に様々なことを教えることができるものだ。最初にヘレンケラーの生涯、そしてヘレンケラーの先生であるサリバン先生の指導法について調べた。ここから、子どもは興味を持つことによって自分の可能性を広げていくことを学んだ。そして、サリバン先生の教育法をヒントに、耳が聞こえづらい自分の経験やアルバイト先の生徒である聴覚障害を持つ子どもたちや周りの話をまとめて、「おもしろいね」という絵本を作った。耳が不自由な子どもたちが少しでも「おと」の存在を知り、興味を持ち、楽しんでくれればと思う。


ジブリアニメと「風呂」
     ―― 「風呂」にみられる再生の儀式 ――
樽本 知佳

 本論文ではお風呂をジブリアニメの観点から考察した。ヒトがお風呂に入るのは衛生上清潔になるためだけに入るのではないことが見えてきた。それはヒトが何かしら“新しくなる”ことを望んでいたからである。それを私たちは“再生”と呼び、日常に取り入れるようになった。その一つがお風呂だと私は考えた。お風呂は普段何気なくこなしていた習慣であるが、それは少しずつ儀式化され、私たちにとって非常に意味のある行動になってきたことが分かってきた。こうしたお風呂の話を元にした『千と千尋の神隠し』では神々がお風呂に入りに来る。彼らも“再生”を求めている。たとえばオクサレさまという神はお風呂に入ったことによってヘドロを取り除き新しく生まれ変わる。それが「河の神」であり本来の姿であったのだ。そうしたオクサレさまの生まれ変わりに「風呂の湯」が使われている。『千と千尋の神隠し』にはこうした湯と再生を関連づける“再生”のテーマがたくさん見られる。本論文ではお風呂と再生の関係を調べているのだが、その考察を元に『千と千尋の神隠し』を見直してみると、そこに風呂やお湯のテーマが深く関係していることが分かってきた。


『もののけ姫』
 ―― 「生きろ」に込められた宮崎駿からのメッセージ ――
東野 里咲

 『もののけ姫』を調べていくうちに、宮崎駿のあるテーマへの思い入れに触れることが出来た。それは鉄を造るタタラ製鉄である。鉄の武器により呪われた少年少女の未来への生きることの難しさ、希望である。人間は生きるためには自然と生きなければならない。人間は自然によって生かされている。しかし、鉄の武器を手に入れた人間は生きるために、その鉄器で森を切り開き、動物や人間を殺す道を開いてきた。そして、いつしか自然の持つ力に興味を示さなくなった。エボシ御前がそうした自然軽視の代表格として描かれている。彼女は自然を殺して人間だけの国を作る。一方、それに対抗する自然の象徴の山の神々。その間でどちらの言い方も認めつつ、それに苦しむ主人公アシタカ。この映画はそうした自然と人間が未来にどのようにして生きていくのか考えさせるものになっている。この作品に宮崎駿が現代の子どもたちに対して伝えたいメッセージがある。それは社会で生きていく中で自然を切り取りながら生きていくしかできない私達が、それでも自然の力を保存しながら生きていくためにはどうしたら良いのかという問いである。その問いをこの卒論で追求した。