22期(2017卒)


 22期生 卒論要旨集 


 
『NARUTO』の持つ異能の世界
   ―― 私たちの中にある「九尾」を見つける――
福田 梨乃

 週刊少年ジャンプの人気作品『NARUTO』。その中に出てくる不思議な力を持つ主人公のナルト。その少年の生き方に元気をもらうことがあった。そんなナルトの体内には「九尾」がおり、周りからは忌み嫌われていた。そのナルトを救ったのは、ナルトの先生であるイルカ先生である。彼の存在がナルトを良い方向へと導いてくれていた。確かにナルトの持つ「九尾」という力は、人とは違う「異能」である。しかしその「異能」とされている力は、果たして本当にナルトだけが持つ不思議な力なのであろうか。うずを巻く不気味な力としての「九尾」、その力は私たちの中にも存在しているのではないか。周りを受け入れ交わることで初めて「うず」はできる。しかし「激しいうず」は人を巻き込みつつ壊してゆく。『NARUTO』の主人公「ナルト」も初めは不用意に誰かを「うず」に巻き込んでいた。そしてそれを導いてくれている「先生」がいた。「先生」と出会ってナルトの「異能」は変化させられた。「異能」を伸ばすか伸ばさないかは誰に出会うかで左右される。そのことは決して漫画の世界だけではないと考え、『NARUTO』の世界と私たちの世界をクロスさせながら考察した。


『ピーターラビット』が伝えること
―― ビアトリクス・ポターの観察眼がとらえた共生の概念――
入江 櫻

 絵本「ピーターラビット」は「ピーターのお父さんは人間にパイにされて食べられてしまった」という、子ども向けの絵本にしては少々残酷で現実的な話から始まっている。「ピーターラビット」シリーズは110カ国以上で販売され、初版の発行から100年以上たった今でも世界中の子ども達から愛されている。うさぎのピーターをはじめとした可愛い動物達、美しい湖水地方の風景が印象に残る作品だ。しかし、実際に絵本化された動物達の世界は、作者ビアトリクス・ポターの観察眼によって見つめられた動物と人間の「取りつ取られつ」のリアルな駆け引きの世界である。作者がこのような現実的なストーリーを通して伝えたかったメッセージは何なのか?作者の育った家庭や教育環境、そして湖水地方との出会いなどについて調べながら考察した。また、幼い頃から動植物の観察やスケッチに情熱を注いでいた作者は、絵本作家としてだけでなくキノコや菌類の研究者としての一面も持っていた。そんな作者が研究の過程で発見した「共生の概念」が、「ピーターラビット」の中にどう表れているのかについても考察した。
『風の谷のナウシカ』原作から
       ―― 「腐海」からの逆転の発想を考える ――
前本 昭花

 映画『風の谷のナウシカ』は有名であるが、その原作はあまり知られていない。原作は宮崎駿が12年かけて描いた7巻にもおよぶ長編であり、内容は映画と随分異なっている。まず初めに考えたのは腐海の存在である。大地を汚し人の命を脅かすと思われている存在であるが、ナウシカの研究と体験により、実は腐海は人間が汚した世界を浄化して綺麗にしていたことがわかる。そのことから自然を人間の都合の良いように使い、人間が汚し壊した世界を自然や生き物たちが清浄しているということを物語では思い知らされる。菌や泥など、マイナスイメージを持たれるようなものが、実は自然の清浄や回復を行い、世界を救ってくれているのではないか。ものごとを清汚、美醜といた対比で見るだけではなく、逆転の発想を持つことが必要なのではないか。卒論では、宮崎駿が作品にこのようなメッセージを込めた理由と、私たちが逆転の発想を持つためにはどうすれば良いかを考察した。また自然と向き合ったナウシカはどのように成長したのか。ナウシカのように逆転の発想を持ち「菌」と向き合った実在する科学者などを調べ、共通点を見い出し考察した。
さまざまな顔を持つジャンヌ・ダルク
          ――「神の声」から生まれる新たな自分――
森田 霞

 今から約590年前、フランスを救うために戦った少女ジャンヌ・ダルク。奇跡の少女と呼ばれた彼女はその後異端者として処刑をされる。この壮絶な人生を生きた彼女に、現代の私達が魅了される理由は何なのか。その一つに「多様な顔」の問題が挙げられる。聖女としての顔、強き女性としての顔、そして異端者としての顔。そんな様々な顔を持つジャンヌに私達は神秘性を感じてやまない。ではこれらの顔はどのように作られたのだろうか。当時の裁判記録や証言、噂などに着目し、その真相を考察した。また彼女の神秘性を作り上げた「神の声」の問題についても考察をした。ジャンヌが初めて「神の声」を聞いたのは13歳の頃。「善良であれ」というお告げを聞いたが、時代は戦争によって「善良」であることが難しい時代であった。しかしイギリスに支配されたフランスを救いたいという気持ちは空から降ってきたものではなく、自らの心から生まれたものでもあった。その気持ちはしかし「神の声」に結び付けられていた。では科学が発展した現代における「神の声」とは何なのか。「神の声」を聞いたと言うことで異端化される人の姿についても考察した。
ムーミン谷の「冬」 ――私の中の「モラン」という存在――
大庭 絢子

 ムーミン谷の物語は、作者、トーベ・ヤンソンが戦争を経験し、思うように芸術活動できなくなったなかから生まれている。特にこの物語は、作者がフィンランドという独特の風土の中で育ったことが大きく影響している。フィンランドでは多くの人がフィンランド語を話す中、ヤンソンは1割にも満たないスウェーデン語を話す言語少数派であり、また、作者は同性愛者であったことでも少数派であり、そんな様々なことに葛藤し苦悩したからこそ描けた物語であることも調べていて改めて知った。本卒論においては、そのような日の当たらない「冬」の物語に作者が託した思いについて考察した。ムーミン谷の仲間が冬眠してやりすごす「冬」の象徴として描かれた「モラン」は誰からも受け入れられない異質な存在として描かれる。お互いが認め合うムーミン谷のなかでなぜ「モラン」は受け入れられない存在として描かれたのか。さらに着目すると、「モラン」という存在を通してヤンソンの苦悩や思いについて見えてきた。そして、そのことを読み解くにつれ「モラン」という存在が冬の象徴だけではなく私自身の心にも潜む存在であるという事に気がつき深めた。
座敷わらし   ――私たちのなかの「小さな神様」――
大西 真央

 座敷わらしの姿を見た者には幸運が訪れるという、幸せを運ぶ座敷わらしの伝説。私がこの「小さな神様」に興味を持つきっかけとなったのは、一本の映画『HOME~愛しの座敷わらし~』である。この映画では、祖母・父・母・長女・長男の5人家族が東京で暮らす中で、知らず知らずのうちに心が離れバラバラになっている。そんな中、急に決まった父の転勤で岩手県の古民家に引っ越すことになり、その古民家に住み着く「座敷わらし」におびえ怪しみながらも、少しずつその存在を受け入れていき、その結果、切れかかっていた家族は再び一つになり、笑顔を取り戻すという展開の物語になっている。なぜこの家族はまた再びつながりをもつようになったのだろうか。本論文では、座敷わらしの伝説が長く受け継がれてきた理由を、家族の中に「もう一人」を入れる工夫として考え、集団の心理にまで言及した。そしてそこに「小さな神様」を意識することこそが人々の心の変化が起こる結果ではないかと考えた。そこから座敷わらしが「幸せを運ぶ」と言われる理由についてを考察した。
変化するディズニーのヴィランズ
   ――「賢い悪役」が与えてくれた人生のヒント――
三枝 那緒子

 ディズニー作品の中で印象的なヴィジュアルで異彩を放ち、圧倒的存在感を示す悪役ヴィランズたち。当初、彼らは勧善懲悪の片方に分けられるキャラクターが多く、「悪」を際立たせる役割を担っていた。しかし、時代が進むにつれてディズニーの悪役像が変化を遂げた。『美女と野獣』では、醜くわがままな野獣が、愛する女性ベルの登場により心美しい王子へと変化する主人公が描かれていた。『眠れる森の美女』の魔女は、実写映画で母親のようにオーロラを愛する主人公として戻ってきた。最近のディズニー作品は、ヴィランズが見かけだけでは悪役と判断できない作品が多くなってきている。なぜこのように変化するヴィランズにスポットが当たるようになったのか。事実「悪いだけ」のヴィランズは非現実的である。どこか現実的で自身と重なるところがあるから、人々の心を掴むのではないだろうか。クールで怪しい魅惑的な要素をもちつつ現れてきた現代のディズニーヴィランズたち。私はその中に「賢いヴィランズ」を見てとり、彼らが私たちに与えてくれる「人生のヒント」を考察した。
『ハウルの動く城』
       ―― 「変身」の中の「等身大」の存在――
石川 夏帆

 『ハウルの動く城』は、動く城に住む臆病な魔法使いハウルと、内向きな性格の帽子屋の長女ソフィーの特異な出会いと成長を描いている。本論文では二人を中心に考察していき、また、原作となった『魔法使いハウルと火の悪魔』と比較することで監督宮﨑駿がどのように原作とは違ったふうに描こうとしたのかを考察した。映画では、ハウルは魔法を学んだことをきっかけに、人間と怪物の間を行き来する様子が描かれ、ソフィーは呪いによって、若い娘と老婆の間を行き来する様子が描かれている。そんな二人の姿は私たちと重なる。私たちは気づかない内に、人間と獣、若者と年寄りなどの相反する複数の世界を生きている。ハウルが魔法の世界で怪物になった自分と出会ったように、それぞれの異なる環境などによって自分自身は変化せざるを得ない。つまり、私たちは何通りもの「私」を生きているのだ。変化する中で自分自身のバランスをとることは非常に難しく、バランスが崩れてしまうとハウルのように怪物から戻れなくなってしまうこともある。変化を生きる中における「等身大」とは何か。ハウルとソフィーの二人を通して「等身大」で生きることを考察した。
 ドラえもん『のび太の恐竜』
      ―― 「ピー助」との出会いと別れを通して――
佐井 美穂

 本論文では、大長編『のび太の恐竜』に注目した。この物語では、のび太が見つけた恐竜の化石の卵を孵化させることから始まる。成長しどんどん大きくなり、隠して飼うことが困難になってしまう。一緒いたくてもいれないという場面で、のび太はピー助を「元の時代」に返すという選択をする。しかし、その選択は困難なものであった。元の時代の白亜紀に連れて帰った時に、未来から来た恐竜ハンターに狙われたり、タイムマシンが壊れて現代に戻れなくなったりする。作者はなぜこのような設定の物語を作ろうとしたのだろうか。私達も抱えきれないほど大きな問題にいつかぶつかる時がある。このような困難にあったとき、どうすればいいのか。誰しも必ず経験する、抱えきれないものを手離す“出会いと別れ”。それでも、手離すものの居場所を見つけてあげる努力を失わないこと。これには“ドラえもん”や協力してくれる“仲間”の存在が重要になっている。短編の漫画やアニメでは、だめなところが目立ってしまいがちなのび太だが、大長編では冒険をする中で長所を生かして成長しながら活躍している。作者の弱者に寄り添うという思いに共感しつつ考察を深めた。
「ONE PIECE」を求めて
      ―― ゴムのように繋がる仲間達と共に――
斎藤 桃子

 『ONE PIECE』は「ワンピース(ひとつなぎの大秘宝)」という「宝」を求め、夢への冒険・仲間たちとの友情といったテーマを掲げ、少年漫画の王道を行く物語として全世界で人気の作品となっている。「ワンピース」とは繋がったものの意味である。私は小学生の頃にこの作品と出会い、作品を通じて“夢を持つこと”“仲間と支え合うことの大切さ”を知り、学ぶことが出来た。本卒論では、主人公であるルフィの魅力がゴムゴムの実にあると考えた。そして「ゴムの力」に重点を置き、それに関係する“仲間力”について考察した。ゴムには弾力性、伸縮性以外に“柔軟性”(さまざまな状況に対応する)という大きな特徴がある。実際、ゴムの分子構造は小さな粒がひとつなぎの鎖のようにして繋がっている。私はその細かなゴム力(“柔軟性”)が強い仲間関係を築くヒントになっているのではと考えた。麦わら海賊団一人一人にもそれぞれ長所と短所があるが、それらを補っているのはゴムの持つ仲間力ではないか。特に、強いだけではない“良い仲間関係”を築くにはどのようなことが大切なのか。そのことをゴム力を中心に本作品を読み解きながら考察を深めた。
『アンパンマン』の誕生秘話
       ―― 「身近な正義」を伝えるために――
高橋 沙樹

 誰もが知っているアンパンマンだが、その誕生に秘められた作者やなせたかしの壮絶な想いは、あまり知られていない。本論文では、まず作者やなせたかしの生涯を考察し、アンパンマンの誕生から現在に至るまでの経緯や変化を追った。当初は今とは全く違い、あんパンを配って回るおじさんや自分の顔をかじらせるアンパンマンが描かれていた。そんなアンパンマンの描き方のせいで、やなせが伝えたかったことは鮮明に描かれていたにもかかわらず、世間になかなか認めてもらえなかった。それでもやなせはアンパンマンを描き続けることにこだわった。こだわる理由は、他のヒーロー達とは違うアンパンマン独特の「正義」にあると考えたからだ。そこからアンパンマンの描き方を工夫し、変化させる事で次第にアンパンマンの人気が広がっていった。では、アンパンマンの「正義」とは何なのか。「正義」は一人でできるものなのか。普段私達が何気なく行う「思いやりの心」は、見方を変えれば誰かにとっての「正義」ではないだろうか。そんなアンパンマンと「正義」との関係性について考察した。
ピクサーが描く『トイ・ストーリー』の世界
 ―― 「おもちゃ」に託されたピクサーの思いとは ――
横田 真莉菜

 ファンタジー作品の最高峰『指輪物語』のプロローグである『ホビットの冒険』。主人公のこびとのビルボ・バギンスはある日13人のドワーフとひとりの魔法使いと共に旅に出る。そしてちいさなホビットが自分よりも大きなトロルや蜘蛛、ドラゴンを倒したり、仲間を倒したりする物語が展開する。はじめは帰ってこれらないかもしれない危険な旅に出ることを拒んでいたビルボだが、「忍びの者」として選ばれたことを旅の中で自覚してゆき、さまざまな冒険を経て成長を遂げて家に帰ってくる。このような「ゆきてかえりし物語」は多くの作品に使われている典型的な構成であると考える。ではなぜ人々は冒険物語に魅了されるのか、なぜファンタジーに夢中になるのか。主人公は何を手に入れ、私たち読み手はなにを感じ、手に入れることができるのか。そうした「行って帰ってくる」ということの大切さを研究していくなかで、作者トールキンのファンタジー作品への独特なこだわりや世界観があることがわかってきた。例えば架空の世界、人物、歴史、文字などにこだわった物語作り。そういう世界観におけるファンタジーについて『ホビットの冒険』を通して考察した。
『おおかみこどもの雨と雪』 主人公「花」の生き方
     ―― 「おおかみ」という個性と向き合う ――
吉原 紗智子

 『おおかみこどもの雨と雪』は、細田守監督による長編オリジナル作品である。前作の『サマーウォーズ』は、人の絆が世界の危機を救う奇跡の物語であった。それとは対照的に、本作品で彼が描いたテーマは「子育て」であった。単なる子育てではなく、「おおかみこども」を育てるという難しい設定に挑戦する物語を創り上げた。ここで描かれる「おおかみ」は一般的な獣のような狼のイメージとは異なるものであり、難しい未来を選択する子どもの姿である。監督は、主人公「花」にそのような「おおかみ」という激しい個性をもった「雨」と「雪」を、どのように育てさせたのか。そこに注目することによって、私たちの抱える「個性」とは何か、「個性」が育ちにくくなる現代社会に細田守が伝えたメッセージとは何か、を考察した。また本論では、常に笑顔を絶やさない主人公「花」について深めるため、名前の由来や「笑う」ことと「幸福論」との関係を考察した。そして「花」という人物を考えることによって、なぜ「おおかみ」である夫を亡くした「花」が、様々な苦労を乗り越え、最後まで「子育て」をやりきることが出来たのか、その理由を考えることが出来た。

SOUL CATCHER(S)』に見る自己回復の世界
 ―― 「神峰」と「部員たち」とのぶつかり合いから ――
吉川 那実

「自分には価値がない」と思ったことはないだろうか。まさにその状態であるのが『SOUL CATCHER(S)』の主人公・神峰翔太である。『SOUL CATCHER(S)』は2013年から週刊少年ジャンプにて連載されていた吹奏楽バトル漫画である。神峰には心が「見える」能力があり、その「目」を生かして他人の抱える問題を解決しようとしたが、その度に失敗を重ね、自分自身の能力を疎ましく思うようになっていった。しかし高校入学後、「音色」で人の心を文字通りに「掴む」吹奏楽部の少年・刻阪響との出会いが、神峰の心のベクトルを大きく変えることになる。思春期の中で様々な心の問題を抱える部員たちの中でも、特に主人公の神峰は「自尊心」が最底辺からの出発であるにも関わらず、最終回には自尊心の回復がされるように物語は展開する。一体彼の心の回復のきっかけはどこから・誰から得られたのか、どうやって彼は「自尊感情」を取り戻していったのか。本論文ではこの「自尊心」をテーマに、作品に登場するキャラクターのそれぞれの心との向き合い方を考察した。また、神峰の行動から自分へ還元できるものがあると考え、自分自身の心とも向き合い方も考察した。
ウォルト・ディズニーが遺した“子ども心”
―映画『メリー・ポピンズ』から『ウォルト・ディズニーの約束』へ― 
三枝 那緒子

 今も世界中で愛される作品を数多く生み出し、生涯に渡り人々に夢をもたらしてくれたウォルト・ディズニー。しかし、その輝かしいキャリアとは裏腹に、背負い続けた過去の思い出があった。彼の晩年の作品『メリー・ポピンズ』は、原作者であるP・L・トラヴァースから映画化の交渉を長年拒否されていた。特に彼女は、実写にアニメを加えることを極度に嫌がった。なぜこんなにもウォルトを強く拒み、メアリー・ポピンズを懸命に守ろうとしたのか。彼女もまたウォルトと同じく、幼い頃の思い出を背負っていただけに、ディズニーの作品づくりによって自身の生い立ちを重ねたこの物語を軽薄にされてしまうのではないかと恐れていたようだ。それでもウォルトは映画『メリー・ポピンズ』を完成させるために、原作者トラヴァースの想いを制作に組み込んでいった。私は 2013年に公開された映画『ウォルト・ディズニーの約束』から、この二人の葛藤がよく読み解けるのではないかと考えた。そしてそこに秘められた、ウォルトが作品を通して本当に後世に遺したかった“子ども心”というテーマについて考察した。