23期(2018卒)


 23期生 卒論要旨集 


『梨木香歩『りかさん』『からくりからくさ』の世界観
  ―― 人と人形と植物の「結び」と「解き」 ――
足立 育代

梨木香歩作品に描かれる、「人・人ならざるモノ・植物」との関わりについて興味を持ち、『りかさん』『からくりからくさ』の2作品の世界観を研究した。『りかさん』では主人公、ようこが9歳の誕生日に祖母から「りか」という名の市松人形を贈られる。その人形の朝夕の食事や、着物の支度の世話をすることにより、人と心を通わせる「りかさん」に出会う。不思議な力をもつ人形「りかさん」の使命に目覚めてゆく過程を分析し、「りかさん」とは何者なのかを考えた。そして「過去・現在・未来」をつなぐ位置にいる「りかさん」を考察した。続けて、姉妹編となる『からくりからくさ』に込められた「唐草」の意味と願いについて、「唐草文様」の歴史から「蔦植物」そして「蛇」に繋がる、植物と人間の深い交りの描きから分析した。植物染色,機織り,鍼灸という「手仕事」を行う生活を営む4人の若き女性たちの魅力。そして、亡き祖母の「家」に守られながら「りかさん」という歴史を持つ人形を「結び糸」のように織り込み変化していく共同生活の物語から、「慈しむ」ということ、「植物の世界を取り込み生きること」の不思議な世界観を紐解き考察した。


つながる図書館  ―― 石井桃子の礎の再考から ――
今来 真子

 本論文では、子供のための多岐に渡る仕事で知られる石井桃子が、図書館を作る活動に力注いでいたところに注目した。図書館は本を借りて返す場所というのが一般的な考え方である。彼女はなぜそんな、図書館を作ろうとしたのか。そこから、そもそも図書館とは何かを掘り起こしていった。考察は石井桃子の生涯、理想の図書館とは、実践家を訪ねる、図書館の歩みという順番で調べていった。そこから以下のことが見えてきた。幼い頃の私達は学校や家庭などの限られた世界で生きていた。しかし、図書館という一つの場所で様々な本に出会うことで、自分とは異なる多種多様な世界を獲得していった。この時出会った本やその世界で学んだことは、新しい物事を図る物差しや想像力であり、それらの理解は成長の土台として私達を大いに助けてくれた。なにより自分自身を知るための様々な枠として機能した。このように、図書館で本と出会うことがもたらす恩恵は計り知れないものがある。常に変化する現在にこそ過去に立ち帰り学ぶことは多いが故に、これからの図書館は人間が人間らしくいられる場所としてますます意義深い場所になるだろうと卒論では予測した。

 

『ムーミン谷の「幸せ」とは何か
  ―― 「幸せ」になるための「孤独」と「自由」がある ――
加納 詩子

 国民の幸福度が高い国として知られる北欧。本卒論では、そんな北欧のフィンランドで生まれたムーミン谷の物語を介して、「幸せ」とは何かをテーマにした。ムーミン谷の物語には、マイノリティーや孤独を抱えてきた、フィンランド系スウェーデン人の作者トーベ・ヤンソン自身の経験や考え方が大きく反映されていた。そこで本卒論では、トーベの生まれ育った国フィンランドについて、トーベ自身について、ムーミン谷の仲間たちについて、トーベとムーミン谷が抱える孤独と自由について、「幸せ」とは何かについて考察した。そして物語では、主人公たちが自身と他者の「孤独」と向き合い、受け入れていくことと、そうすることによりお互いに「自由」であることと、「幸せ」であることが深く関わっている点に気がついた。それはムーミン谷独特の「孤独」観であり、「幸せ」観であった。ムーミン谷において、孤独はマイナスのものではなく、自分たちが自由に生きるために必要な要素であり、その自由の結果として、ムーミン谷の「幸せ」に繋がるのだと私は考察した。

 

物語の終わらせ方 
    ――『はてしない物語』から貰った生きる知恵――
春日 美緒

 『はてしない物語』の主人公のバスチアンは、自分に多くのコンプレックスを持つ少年である。成り行きから古本屋で盗んだ「ファンタジーが消えてゆく本」を読み進む中で、本の中に入りこみ自分の望みを好きなように実現できる力を持つ。しかし同時に、現実世界の記憶を無くしていく。そんな中で少年が過ちを犯しながらも成長し、ファンタジーの世界から現実に立ち返る物語である。作者ミヒャエル・エンデはなぜこのような物語を作ったのか。そこには現実とファンタジーの入り組んだ支え合いがある。実際にはファンタジーと現実は硬貨の裏表のような関係にあるのではないだろうか。片方を見る時、もう片方は見えなくなる。そこからエンデは表から裏へ、裏から表に行って戻る体験が今こそ必要だと考えたのではないか。想像や空想の世界は人間のすぐ隣にあり、現実と地続きで境界がない。しかし世界には、子どもへのまやかしに変化したファンタジーがある。そんな現代だから、現実と想像の世界を切り替えてゆく力が必要なのではないか。私はエンデの物語から現実と想像の両方の世界を旅しながら、二つの世界の均衡を保って生きていく知恵を読み取った。

 

武士道から学ぶ「生き方」 ――強さと弱さは表裏一体――
若松 直子

 私は、剣道がとても嫌いだったが、気づけば剣道を約16年間続けている。「何が魅力で続けてこられたのか」「剣道という武道から一体何を学んできたのか」「昔の武士は後世に何を伝えたかったのか」。私はこれらのことを疑問に思い卒業論文に選んだ。この卒論では、初心に戻るため剣道の基本や私の剣道生活でキーパーソンとなった恩師2人にインタビューをし、私が剣道で学んできたことを調べた。また、『武士道シックスティーン』から折れる心(弱さ)がもたらす影響を調べた。それから、宮本武蔵の五輪書から武士の強さとは何か考えた。そして、なぜ今もまだ五輪書は武士のいない現代社会で人気があるのかを調べた。調べていく中で、自分を折ることはだめと考えていたがそうではなく、それは強さでもあることがわかった。自分の中に一本軸を持つ。それで相手から一本をとる。しかし、その「勝ち」に囚われてもいけない。独りよがりになる弱さに打ち勝ち、素直に一直線に伸びる竹の強さと、しなやかさの両方こそが真の剣道の強さであると考察した。

 

たんぽぽの「心」
――科学と妖精の両方の目で見つめた、たんぽぽの深い世界――
山崎 彩香

 たんぽぽ。私はこの花の不思議さを卒論の題材にした。人間、又は動物は意思をもち、その意思に伴い次はこうしようと考え、行動し、生命を維持している。それでは植物はどうだろうか。植物に意思はない。意思のないたんぽぽがどのように四季を感じ、芽生えの瞬間を決め、花を咲かせ、綿毛になり、次の旅立ちのために風を読み、新たな地へ種を運んでいるのだろうか。それはたんぽぽ自身が考えて行っていることなのだろうか。本研究ではその不思議を、まずはたんぽぽの仕組みを理解することから始め、たんぽぽの種や根のもつ力を研究し、科学の言葉だけでは説明できないたんぽぽの姿に迫っていった。また、妖精物語を考察しその存在意義を見つめ直すことで、たんぽぽのもつ秘めた力を妖精の仕業のように説明していると理解した。さらに、最新の科学から考える細胞の会話とたんぽぽの会話、ノーベル賞を受賞したマクリントックの研究と絵本作家の甲斐信枝の随筆から、たんぽぽの深く遠くに広がる世界を見つけた。妖精をただのファンタジーとして捉えるのでなく、たんぽぽが考えて生きているということを証明するための入口であることを本論で明らかにした。

 

変身という生きる力 ――
 ――生物の変身から、物語の変身までを貫くもの――
吉村 里奈

 変身。不思議な姿。私はこの変身が「生きる力」になっている点に注目し卒論にした。多くの生物はこの世に生を受けてから今日にいたるまで、数えきれない程の変身を遂げてきた。しかしこの変身という不思議な現象を私たちはあまり意識していない。そこで私は変身の多様な姿を以下のように分類し、その変身の違いを卒論として考察した。1.男と女の変身 2.セーラームーンが見せる変身 3.「おおかみこどもの雨と雪」に見る変身 4.病理的要素を持った変身など。そこではなぜ、幼い頃テレビに映る強くて可愛い魔法少女たちに惹かれたのか。なぜ、人はコンプレックスを抱え自分でないものに変身しようとするのかと問いかけた。それはきっと私たち一人一人の中にある変身願望が生き延びろ、と囁いているからに違いない。花が色鮮やかに薫り高く咲き誇るように変身し、かつて鳥の先祖が空を飛べるように変身していったように、人間も生き延びるために変身を求めてきたのではなかったかと考えた。だが変わりたいという思いが時に試練や壁となることもある。変身が正解ではないときもある。そんな不思議な変身という現象について研究した。

 

ミュージカル「エリザベート」にみる美と死の誘惑
       ―― 皇妃の宿命と苦しみのはざまで――
石原 花梨

 ミュージカル「エリザベート」はハプスブルク家の終焉に生きた実在の皇妃エリザベートの生涯を描いたミュージカルである。このミュージカルには「トート(死)」の擬人化が演出されている。当卒論では、このエリザベートを誘い続ける「死」が、単に舞台の演出にとどまるものではなく、エリザベートという壮絶な人生を送った女性のあり方そのものからきているところを取り上げ、考察した。エリザベートは美貌の皇妃として知られ、宮廷に嫁いでからはその美貌が武器になると気づき、自分の居場所を確立していった。一方で、自分の権力が美貌に支えられたものだと知っていた彼女は“美の維持”に執着する事となった。作中で使われる“キッチュ(まがいもの)”という言葉の通り、自分のありのままの姿や老いを認めず生きて得られるのはキッチュ(まがいもの)の美や生でしかなく、トート(死)はそのありのままの自分を認められない生きにくさ故に、彼女に内在する死への憧れの象徴だと私は考えた。この死への憧れは、今日を生きる私たちにも共感できるものであり、ミュージカル「エリザベート」を通して、限りある生を再認識する事が重要だと認識できた。

 

 アリエッティたちからの贈り物 ――
      ―― 「ちいさきもの」を意識すること――
岸田 詩織

 従来のファンタジーでの妖精物語といえば魔力をもつ妖精の物話が一般的であった。しかし、アリエッティたちは魔力を一切もたない小人として描かれる。それはどうしてなのか。また、アリエッティたちが私たち人間に伝えようとしているメッセージとは何なのか。映画版「借りぐらしのアリエッティ」と原作「床下の小人たち」の比較、妖精や妖怪についての歴史、他の作品内での小人たちについてとさまざまな角度から探ることで解明しようと試みた。その結果、アリエッティたちは人間のミニチュア的存在であると捉えられることに気が付いた。そこから、ちいさきものの意義やちいさくすることについても考えを巡らせた。現実では目に見えないため物語や映像にされたもの、目には見えるが小さすぎるもの、見ようとしてこなかったものにスポットを当て考察してみた。慌ただしい日常生活の中で私たちが全く意識せずにいる「目には見えないもの」の世界。それら「ちいさきもの」たちに目を向けることは、新たな知識を得ることでもあり、価値観の大きな変容にもつながることでもある。ひいては、そのことが自分たちを見つめ直すきっかけになるところも考察した。