8期生 卒論要旨集 

 

携帯電話から考える現代コミュニケーション 山崎 文恵
今や現代人にとって無くてはならない存在となった携帯電話。この登場によって私たちのコミュニケーションは大きく影響を受けている。普段の何気ないメールのやり取りやサイトの利用には、現代人の微妙な心のあり方が潜んでいるのだ。私たち人間にとってコミュニケーションをするということは、誰かとの関係性を生きるということであり、常に興味関心の中心にあるものといってよいだろう。だからこそ、その中心アイテムである携帯電話は現代人を惹きつけてやまないのではないだろうか。しかし、機能もサービスも充実し、ますます便利になっている一方、同時に犯罪やお金に関するトラブルも後を絶たない。より便利で魅力的な携帯電話からの世界と私たちの「欲望」がマッチしたとき、そこには大きなお金や危険が伴ってしまう。私たちはこの2面性を自覚し,いい面は享受しつつも、のめりこみすぎない自律心を持つことが大切なのではないだろうか。携帯電話が今もそして今後も私たちの中心的なコミュニケーションツールである点から、自分自身の心の面でも人間関係や社会との繋がりに対しても、自覚をしっかり持って効果的に利用して行ける筋道を考えてみた。 




冒険家出 −冒険の心を持つ大人になるために− 畑中 あゆ美
いつまでも子どものままではいられないと思う反面、年をとりおばあちゃんになっても、どこかに子どもの心を持っていられたらすてきだなあと思うことがあります。私はこのヒントが“心の家出”と“心の冒険”にあると考えました。「家出」「冒険」と聞いて受ける印象は人それぞれだと思います。私はそれぞれに憧れがあって「家出」と「冒険」のイメージを自分なりに分けて考えました。「家出」では現実世界での家出と、物語の世界への家出、この二つの方向から考えました。「冒険」では物語の冒険と、心の冒険の二方向から考えました。「心の冒険」というのは冒険をしている時の心です。それは目に映る全てから学べる心です。毎日が驚きと発見の子ども時代の目線とよく似ています。誰もが持っていたその才能。けれど大人になるにつれそんな「冒険の心」は影を潜めていきます。それはどうしてでしょうか?どうすれば「冒険の心」を持っていられるのでしょうか?始めに述べたようにそのヒントが“心の家出”と“心の冒険”にあると考えました。“心の家出と冒険”とは何なのか?それを探って行きたいと思います。




人はディズニーランドに何を求めるのか? −夢と魔法の世界と現代社会に生きる人とをつなぐもの− 長谷川 絵里
景気の低迷が続き、全国各地で様々なテーマパークが閉園に追い込まれて行く中、人を集め、リピーター率97.5%を誇る場所がある。夢と魔法の国、東京ディズニーランドである。アトラクションやショーが面白いから、好きなキャラクターに会えるから、という理由だけではここまでリピーター率は高くなるとは思わない。ゲストはそこへ行くことで何かを求め、満たされる。遊園地へ行く、という目的以外の何か別の目的をも持ち、そして、そこで何か得るものがあるのである。そこに求めているもの、そこで満たされるものこそが今の世の中で人が求めるものであり、今を生きる人に欠けるものなのではないだろうか。ディズニーランドのいう夢とは、魔法とは何なのだろうか。また、外界から遮断された異空間を作るために徹底された空間作りがなされているが、徹底して見せないようにしているもの、見てはいけないものもそこには存在する。その存在を踏まえ、夢とは現実とは何かについて考える。そこでディズニーランドを通した独特のコミュニケーションのあり方を考察し、‘孤’を求める現代社会に生きる人々の生き方、コミュニケーションのあり方とを照らし合わせる。




絵本の時間 太田 雅子
「絵本」は本当に子どものためだけのものなのだろうか。そして幼い頃に読んだ「絵本」は大人になったらお払い箱になってしまうのだろうか。私は昔の自分のアルバムをひろげたとき、ただ写真に写る姿の自分だけを見るのではなく当時の思い出を浮かび上がらせながら写真に深みを与えて懐かしむことと同じように、「絵本」をもう一度振り返ることも歴史を含んだ自分の存在を感じることが出来るのではないかと思う。そう考えると「絵本」は心の成長を刻んだアルバムであるといえる。「絵本」は自分が自分であること、生きていることそのものである自分の「核」を心の歴史を通して見つめ直す手段になりえる。私は実際に大切な人と「絵本を読みあう」ことをやってみた。その体験を通して自分の「核」を自分だけではなくその人に感じてもらい、自分も相手の「核」を感じる相互の関わりあいを作り出せるのではないかと思った。それこそが大人のための《絵本の時間》ではないだろうか。日常を「時計の時間」にはかられてしまった大人達、人とのつながりを求める人達に、この卒論を通して《絵本の時間》のゆたかな魅力を伝えることができたらと思っている。 




私のマンガ道(みち) −創作をふりかえりつつ− 河端 良子
マンガの表現方法の親しみやすさは強みであり、弱みでもある。そのためマンガは日本を代表する文化だと云われるようになっても、その文化的価値が文学や絵画等に劣るといった誤ったイメージが払拭出来ずにいる。私はマンガが優れた表現方法であり、真に日本を代表し得る文化だと臆面無く公言するために、その置かれている地位を向上すべく、一介のマンガ描きとしてマンガを研究対象にする事にした。まず序論にて、マンガの表現意義について考察する。その有益性、それに伴う危険性を把握し、マンガに関わる諸問題(有害図書問題等)が、それをコミュニケーション手段として使う人間側のモラルに問われるべきである事を立証する。次に、投稿時代の作品数点を振り返り、自分自身がマンガに何を求め、表現しているのか、自身のマンガに対する見解を明らかにしたい。最後にこの論文のために描き下ろした創作マンガも合わせて発表する。この論文の最終目的は「私のマンガ道」である。現代マンガ事情を把握し、今後社会の中で意味のあるマンガを描いて行くための自己啓発につながれば本望である。




「変身」の可能性を考える −新しい私との出会いを求めて− 玉置 佐世子
 ひとは昔から変身に対し興味を持ってきた。世界中で文学や民俗学、医療といった分野の中に変身の物語が存在する。現代においてもエステやダイエットの様な試みが変身としてイメージされてきている。変身は何か人を惹きつけるものを持ち、特に人は変身に魅了されながら日々変身を体験しているのだろう。私も何かを介して変身する自分というものをこの22年間感じてきた。しかし、どこかで変身を受け入れられないものが私の中に芽生えてきた。それは、私の母が多発性硬化症という耳慣れない病気になり、車椅子に乗り始めるようになったことから始まった。この母の急速的な変身をどう考えたらいいのか。母の変化についていけない自分を感じ、母との関係に違和感を感じ始めていた私は、この卒論を通じて様々な変身のあることを考え、その中から私なりの「変身」、母なりの「変身」、そして「変身」の可能性を見出すことも出来るようになった。「変身」を考えることによって、私は変わっていく自分、変わっていける自分というものを知り、様々な事柄に自分なりに対応していける自分との出会いのきっかけを発見できたように思う。




贈り物 −プレゼント記念日・クリスマス− 内藤 ともみ
「贈り物」には、人と人とを結ぶ力がある。互いの存在を意識させ、受け入れるきっかけとして働く力がある。プレゼントによって、人と人との間に「関係」が生まれる。2002年、日本にFIFA World Cupがやって来た。人々は異常なまでに盛り上がった。同じように、なぜか盛り上がり、日本に定着したイベントにクリスマスがある。なぜ、これらのイベントが盛り上がるのか。そこには、「贈り物」があったからだ。クリスマスにはサンタさんや恋人からのプレゼントがある。W杯にもゴールや応援といったプレゼントがある。これらのプレゼントがあるからこそ、互いの存在を受け取り、つながっていることを感じられる。人々は、イベントに関係をつくるきっかけを求めていたのだと思う。このようなプレゼントのイベントを経験することで、人と人とをつなぐプレゼントの仕組みに気づくことができる。これは、大事な経験になる。プレゼントの仕組みを知れば、日常のささいなプレゼントにもたくさん気づけるだろう。だから、その仕組みに気づく一歩として、プレゼントのイベント、プレゼント記念日を私は卒論のテーマとして取り上げた。




ブランド −ブランドの鎧を脱いで生きる 鮫島 悦子
 近年の日本人の特徴の一つとして、高級ブランド品やネームバリュー、親の七光りなどへの固執の異常さが指摘されてきていると思う。この不況の中でもブランド産業は非常に活発である。特に女性がブランド物に固執する理由として、高級感のあるブランドは、自分に自信と誇りを与えてくれる、という事が挙げられる。しかし私たちが求めている「ブランド」はすべて外見を飾るものであって、それは私たち、人間の核である本質に直接働きかけるものではない。隠せば隠すほど本当の本質をさらけ出すのが怖くなり、ますます鎧のブランドで隠そうとする結果なのである。一体、私たちは鎧のブランドで何から身を守ろうとしているのか。何から身を隠しているのか。それは学歴社会、競争社会が生み出したあらゆる事に関する価値判断、評価からなのではないか。ではなぜ日本人の核は弱くなってしまったのか。そしてブランドに頼って認められたい、特別視されたいと思う裏側にある心理は何なのか。本当の自信、存在価値はどこにあるのか、またそれを得るにはどうすれば良いのかを考察する。




カウンセリングの限界 −あなたの相談相手は誰ですか− 藤澤 志帆
現代人はなぜ心理学に傾倒するのだろう。人間関係に悩み、他人の気持ちが知りたい、集団の中での自分を確立したいと願っているからではないだろうか。でも私は、自らの体験をきっかけにカウンセリングに疑問を持ち始め、そこから現代の人間関係が心理学に侵食されかけているのではと考えるようになっていった。カウンセリングは問題点を個人の内面に見出そうとするため、論点がすり替えられがちな上に、行なう側と受ける側との関係も不自然に切り離されている。私はそこで、カウンセリングの歴史と仕組みを知ると共に、カウンセリングに似た相談の形態もたくさんあることに気が付いた。例えば占い師・電子掲示板などがその例である。さらに身近な仲間同士の相談として「ピア・カウンセリング」についても考えた。こうした考察を通して、心理学に頼って人間関係を見るだけではなく、人間同士の悩みにおいては、学問や専門知識を通さない身近にいる人たちの生の声が時によい助言となっていることに気が付く。人に相談する行為は、お互いの心が開かれ関係が成り立っている状態で行われるのが、やはり望ましいと考えるのである。




旅のちから −自分の心の奥を知る−    影林 尚美
大学4年生になって私はよく海外に行くようになった。まるで何かに駆り立てられているように。どうしてそのような行動をしたのか、答えを知るためにまず旅とは何かということについて触れ、それは「外国人」と出会う事ではないかと考えた。人は旅によって成長する。そのちからに惹かれて私も旅をしてきた。そして旅をしながら私は様々な「外国人」に出会っていった。そして最後に自分の中の「外国人」に出会った。それは今まで誰にも言えなかった「死んだ母に対する思い」だった。母の死を消化しきれていない私が持っていたコンプレックスや母の死によって失われた自分の自信。今の自分を締め付けているものを知り、卒論を通して自分の心の奥を旅することにより私は大きなものを得た。母の闘病のとき書いていた自分の日記を通して、自分にはもうないと思っていた母の愛情を再確認することもできた。「母の愛情がないから人より幸せになれない」と人と自分を比べ悲観的になっていたが母の愛情を再び得たことによって自分を少し認められるようにもなってきた。私にとっての旅とはそんな自分を見つめ直し自身を取り戻すちからそのものであったように思える。




私と地球と環境教育−人と自然の関係作り 古川 さくら
大量生産、大量消費を良しとする20世紀の社会が環境問題を生み出してきた。「地球が危ない」とそこかしこで騒がれているが、私たちの生活からはあまり深刻な問題として感じられない。それは私たちが自然と切り離された生活をしているため、自分と環境問題とがつながらないのである。私たちは環境問題について何かしなければとわかってはいるが、何をしたらよいのかわからないという状態である。あまりに問題が大きすぎるため自分の行動と環境問題がつながらないのである。自分と自然がどうかかわっているのかを知れば環境問題はもっと身近に感じられるはずである。その関わり方を体験をとおして学ぶのが環境教育である。環境教育は地球の仕組みを学び、それと人間とがどう関係しているのかを体験や感動を通して学ぶものである。私が実際に環境教育を目的とした行事に参加して、体験を通して多くの感動や衝撃を受けた。この感動や衝撃がこれから地球環境問題を解決していくきっかけになっていくのではないだろうか。この卒論は環境問題を難しく語ろうというものではない。自分と自然がどんなふうにつながっているかを学ぶ環境教育の面白さを探るものである。