6期生 卒論要旨集 

 

映画の中の子どもたち ―少女のイメージを考える― 鈴木 香依
 1920年代の「キッド」に始まった子ども映画は数多く作られ、現在も人気がある。映画の中の子どもは時代の変化に従い描かれ方も変化してきた。その変化の中でも、少年が強くたくましく生きる初期のイメージを持ち続けているのに対し、少女の描かれ方の変化は著しい。かわいらしいだけで、大人に対してまた社会において無力であった少女が徐々に強くなり、1980年代には「風の谷のナウシカ」など、戦う少女が描かれるようになった。この背景には社会における女性への認識の変化があり、少女は時代の女性像を体現している。かわいければ幸せになれると考えられていた時代から、女性の自立の時代への変化が少女のイメージの変化につながったのである。少女は理想的な女性像を体現するだけではなく、男でも女でも子どもでもない独特の存在感を放ち、大人社会の既成の価値観へ疑問を投げかけ、子どもに対する普遍のイメージ、無垢で無邪気な存在として、疎遠になりがちな人と人とのつながりを保ち、そんな子どもたちによって自分を押し殺して生きる大人は解放される。少女は少年に比べ多くのイメージを託されているのだ。これからも戦う少女は描かれつづけるだろう。しかし、少女1人が戦うのではなく、男性と協力する、つまり、女性の自立に対して男性からの理解が得られた状況での女性像が少女に託されることを期待する。


うそ ―子どもにとってのうそパワー― 中村 友香
 うそは悪い。これが世間の常識であり、大人は子どもに「うそをついてはいけません。」と教えるだろう。しかし、生きていくために必要とされる、"望まれるうそ"もあるのではないだろうか。本研究では、一体どんなうそが子どもにとって生きるパワーとなるのかを探った。子どもがエネルギーの源としているのは、"現実"とは離れた、"もうひとつの現実の世界"である。自分で作りあげた空想の世界で遊んだり、童話やアニメのフィクションを見て心躍らせる。シビアな現実を生きていて疲れたとき、子どもはファンタジーの世界で休息することで、また外の世界へ旅立つことができる。それはうその世界である。しかし、そういう世界を生きることで、今まで感じていた日常が、また魔法をかけられたように輝いて見えることがあるのではないだろうか。このように、許されないうそがある一方で、人に生きる力を与えるうそもあるのだということを私は研究したいと考えた。


「キャラクター」と若者 ―私が「ミッフィー」を持つ理由を考えながら― 堀 佳奈
 「キャラクターブーム」とも言われ久しいですが、その対象は子どもというよりもむしろ若者です。この若者達は最も購買力のある年齢層だとも言われ、流行の作り手も彼らを対象にして商品を作り出します。「キャラクターブーム」はそのような若者から起こった現象ですが、その人気は、変化と衰退の早い若者における流行において長期間にわたってブームが続いており、衰えるどころかますます人気を集めています。実際、私自身もうさぎのキャラクターである「ミッフィー」が好きで様々な商品を所有しています。では、何故現代の若者はキャラクターに興味を持ち、キャラクター商品を所有するのでしょうか。その疑問を私が「ミッフィー」を持つのは何故かと問いかけながら、アンケート資料、人気キャラクターの分析などから考察していくと、そこに潜むキーワードは「かわいい」でした。今までの概念では無いものにさえも「かわいい」と表現し、かわいいキャラクター商品を好んで持つのか、そこから見える現代若者について考察、検証すると共に、今や若者だけでない、「キャラ化社会」と呼ばれる現代社会についても考えてみました。


絵本を考える ―『すてきな三にんぐみ』をとおして― 長瀬 裕子
 物心のつく前から当たり前のように私のまわりに存在していた絵本。幼い頃だけではなく私は成長した今でも時々絵本を眺めることがあります。これまで数多くの絵本に触れてきた中で「心に残る」絵本は数多くありました。しかし、「心に引っ掛かりを残す絵本」というのはなかなかありません。その数少ない中のひとつが今回取り上げた『すてきな 三にんぐみ』なのです。この絵本を読んだ後私の中に残ったもやもやっとした感じは何だったのでしょうか?何故私はこの絵本を読んだときに「奇妙だ」と感じたのでしょうか?そしてそのことについて考えていく上でまずぶつかったのが「絵本って何?」という疑問でした。この疑問が解決されなければ『すてきな 三にんぐみ』が他の絵本とは違う部分は見つかりません。そこでこの論文ではまず絵本のイメージを整理した上で自分の中での"絵本の定義"を作り上げ、その定義を踏まえて『すてきな 三にんぐみ』という作品に対する考察を進めていくことにしました。また、何故未だに私が絵本を眺めるのか?ということを考えるために様々なメディアが発達した現代において絵本が果たす役割についても考察しています。


怒りのパワー ―現代の怒りの行方― 瀧 葉子
 私は短気と呼ばれる性格である。一度怒りを感じると腹におさめておくことができない。これははたして醜い感情なのであろうか。幼い頃から「怒り」の感情に対しては特に敏感であった私は、もうずっと長い間「怒り」の感情に対して疑問とわだかまりがある。まだ自己が確立されていない幼少から小学校時代、教師という絶対的な存在から学ぶ「正しいこと」、「悪いこと」体罰への怒り。反抗期に入った中学校時代の「怒り」と「怒り」のぶつかりあい、「怒り」を見せることへの快感。「怒る」ことに疲れてきた高校時代にわかってきた「怒り」への対応。怒ることは悪いとされてきた日本の文化、教育は間違っているのではないか。怒り方がわからなくなってきた私たちは、一体「怒り」をどこへもっていけばよいのか。そこで私は「怒り」を分類し、「怒り」を悪く受けとめるだけでなく、周囲に認められる賢い「怒り」のかたちもあり、私たちはその怒りに到達するために、数々の怒りを体験している過程を考察することが大切なのではないかと考えた。それから人間である以上は避けては通れない感情の「怒り」を多くの面からとらえ、現代の「怒り」のかたちにせまれたらと考えた。


私の「自分史」 ―「自分史」を通して「家族」を考える― 谷本 由美
 自分の過去を振り返り、改めて見つめ直したことを綴る―「自分史」が今、大変注目されつつあります。「自分史」というと、年配の人達が自分の「生きた証し」として書いたものだというイメージが強いかもしれませんが、最近では若い世代の人達が書いた作品も多くあり、彼らは自分の作品の中で「過去」を見つめ直しています。本論文では、その中でも最近ベストセラーとなった作品である飯島愛さんの「プラトニック・セックス」を取り上げ、更に私自身の「自分史」を書くという作業を試みました。そして、この「自分史づくり」を通して、私と私の家族の関係について見つめ直してみたのです。この「過去を文章化する」という作業によって、今まで頭の中で考えていただけの時よりもしっかりと「過去」を整理でき、それによって多くのことに気付き得ました。そんな中で最も大きな気付きとしては、今まで自分が理解していた「過去」が、見る角度を変えることによっては、色んな見え方をするのだということでした。その気付きによって、私の中で「過去」は再構築されたのです。私にとって、「過去」を見つめるという「自分史づくり」は「家族と新しい関係を築いていく」というこれから(未来)の出発点になったのです。


トラウマという幻想 ―「トラウマ」という言葉を考え直す― 西口 心
 「トラウマ」という言葉にはどんなイメージがあるでしょうか。私たちの周りにはこのトラウマという言葉が多くあふれています。ドラマ、音楽、ベストセラーになる本、映画、どれをとってもトラウマを題材にとっていない分野はありません。そして、トラウマを扱った作品は必ずといっていいほどにヒットしています。なぜこんなにもトラウマはヒット商品になるのでしょうか。そして私達自身、自分にはトラウマがあると口にしたりします。知らないうちに違和感なしに自分の中に入ってくる「トラウマ」という言葉はどんな力を持っているのでしょうか。トラウマとは本来心理学の言葉で、それも特殊なところに位置付けられている言葉です。実はつい最近まではトラウマはそんなにメジャーな言葉ではありませんでした。それが私達の中にまで入り込んできたということは、どういう意味があるのでしょう。私は自分にはトラウマがあると思っていましたが、そう思うことをやめさせたものがありました。それは私自身の過去の中にありました。過去が持っている力とトラウマという言葉の力について、その影響と未来を考えて考察しました。


お金を考える ―子どもと物語とお金― 青地 みちる
 普段なにげなく使っているお金。モノに囲まれている現代社会は、お金があるからこそ物質的に豊かになったと言っても過言はないだろう。小さいころから商品に囲まれる子どもにとって、お金とは何か考察したいと考えた。まず一章ではお金の歴史をたどり機能をまとめた。古代社会ではお金は信仰や富みの象徴であった。現代のようにお金が生活に欠くことが出来なくなるのは、第二次世界大戦後であった。このように一章では経済社会のなかのお金を考察した。一方、二章では物語におけるお金について考察を試みた。昔話からは「一寸法師」を取り上げ、南吉童話からは「牛をつないだ椿の木」を、そして現代の児童文学作家エンデから「ハーメルンの死の舞踏」を選び、各物語のなかのお金ついてどのように語られてきたかまとめてみた。そして終章では、経済社会のなかのお金と物語のなかのお金がどう関わり合っているか考えたのである。今後ますますお金が形を失ってゆくであろう。そのなかで子どもとお金がどう接するべきか考えられるような、新たな物語が誕生することを望んでいる。


絵本の挿絵が子どもに及ぼす影響 ―「人魚姫」の世界から― 吉尾 英子
 幼い頃の絵本体験のなかで、特に印象深かった作品が私にはある。それは岩崎千尋さんが挿絵を描いていた『人魚姫』だ。この絵本は大嫌いだったにも関わらず、未だに挿絵が思い浮かぶのだ。こうした体験から、私は絵本の挿絵が子どもにどういった影響を及ぼし、どのような役割を果たしているのかということに興味を持ち、『人魚姫』の世界を解明していくことにより、自分なりの答えを導いていこうと考え、人魚の歴史的経過や、人魚の物語が含むメッセージは一体何なのかということを分析しようと考えた。人魚には前提として半人半獣というテーマがある。古来より、人は獣と複合するイメージを創り出して神聖視してきた。その一方人間とは違う外見の者として受け入れなかったことも事実である。『人魚姫』は両方のモチーフで描かれたものであり、この物語にはそういったメッセージが多く含まれている。そして、子どもたちはこの人魚姫の挿絵から異種の与える、悲しみや期待という感情を体験してきた。こうしたことから『人魚姫』は子どもたちの心に違う立場の者を思いやることを育むのではと私は結論付けた。


弔い ―死んだ人が望むこと・わたしたちができること― 西村 友希
 わたしたちの人生は、死んでしまうと終わりです。しかしそれでは死んだ人は消え去り、何も残らないのでしょうか。死を考えることに意味は無いのでしょうか。わたしたちは死んだ人のために物を供えますが、これは死んだ人が消え去ったと考えてすることではありません。ここにいなくても供養のため、あるいは死んだ人が望んでいると考えてしています。物を供えることだけでなく、死んだ人のためにできることは一体何なのか、それを死んだ人だけでなく、生きているわたしたちにとっての意味と共に考えたいと思います。またわたしたちは、死んだ人の死だけでなく生きている自分が死ぬことを考えます。わたしはこの卒論を書き始めた頃に遺書を書きました。歌手のcoccoは『遺書。』という歌の中で"わたしが死んでしまったなら〜"と歌っています。生きているわたしが、あるいはcoccoが遺書を書くということは、どういうことなのでしょうか。死んだ人に対する弔いと、自分の死を考えることを合わせて考えていきたいと思います。


テレビの「メディア・リテラシー」
 ―『LOVE LOVE あいしてる』報道の現場から―
柳生 佳子
 今年1年間、フジテレビで「LOVE LOVE あいしてる」という番組作りに裏方で参加することになりました。Kinki Kidsと吉田拓郎というウルトラ異例の顔合わせで始まったこの音楽番組。世代を超えた出演者が参加し、世代を超えた視聴者に、番組は何年も幅広い支持と共感を与え続けてきました。その番組作りの現場に立ち会い、はじめて、支持される双方向の番組作りの大変さを感じました。テレビでは、その一方で、事件報道に見られるように、送り手から受け手への一方通行になりがちな報道被害の問題点がどこにあるのか、相互に情報が持ち寄れるテレビとはどうあるべきか、そのためのメディア・リテラシーはどうあるべきかについて、明らかに出来たらと考えました。