21期生 卒論要旨集 

 

『アナと雪の女王』から見る"社会”
       ―― 「ありのまま」でいいのか? ――
畦地 紗世

 圧倒的な人気を誇ったディズニー映画『アナと雪の女王』。この作品は、アンデルセン童話の『雪の女王』を原案に、新たな物語『FROZEN』としてドラマティックに再構成されている。触れたものを凍らせたり、雪や氷を作り出したりできる魔法の力を持って生まれた姉のエルサ。自分の能力を周りに隠し、誰とも触れ合わない生活を強いられてきたが、戴冠式のパーティーでの暴走を機に「ありのまま」に生きようと国から逃げ出してしまう。離ればなれになった姉を連れ戻そうと奮闘する妹のアナ。彼女の力があってこそ、エルサは“社会”という集団の中での生きる道を見つけたのだ。ここからエルサのような異能力を持った人、さらには身体にハンディを持った人に焦点を当て、彼らは自分の能力をどう発揮すればいいのか、周りの人はどう向き合っていくべきかを考えた。また、姉妹という関係を中心に自分を気遣ってくれる存在についても見直した。人は誰しもひとりでは生きていけず、周囲の人と社会の中で関わり合うことが必要である。アナとエルサの二人のヒロインを通して、冬と夏、冷たさと温かさといった対極するものの大切さを考察した。


ミッフィーの見ている世界
   ―― 物語で出会う「ありふれない日常」 ――

松本 南可子


 私たちは誰もが物語にふれながら成長してきた。物語の世界で子どもたちは魔法を使い、空を飛び、動物たちとの会話に胸を躍らせる。その一方で現実の世界は少し退屈でありふれており、時には理不尽でどうしようもない出来事にも直面する。絵本という「物語の世界」のものでありながら、この「現実の世界」に限りなく近い物語がある。ディック・ブルーナの「ミッフィー」シリーズは、1955年オランダという特有の文化を持つ国で生まれた。そのシンプルな絵本は全世界40カ国で翻訳され、愛され続けている。日本では「うさこちゃん」の名で福音館書店から発刊され、50年以上にわたって親しまれてきた。並外れた能力や魔法を使う者の登場しないこの作品では、海や動物園に遊びに行き、畑を耕し、学校に通う…といった日常を、シンプルな線で表現されたミッフィーが体験する様子を描いている。退屈でありふれた日常は、物語として描かれることで「ありふれない」、「胸を躍らせるもの」となる。本論文ではブルーナのスタイルや作品の成り立ちについて解釈を深め、「物語の中の描かれた日常を読む」という点に着目し、時代や国境を越えて愛される理由を考察した。



フィンランドのムーミン谷
         ―― 対話し共存する「仲間たち」――

古橋 生帆


 ムーミン谷にはいろんな生き物が住んでいる。主人公のムーミン、孤独と自由を愛するスナフキン、おてんば娘のミィ、不思議な生き物ニョロニョロ等々、彼らは不思議な仲間たちと暮らしている。ムーミン谷の生き物を読み解いていくと、彼らの間には、他者を思いやり尊敬しあう姿があった。これは、フィンランドという国に深く関係している。フィンランドの歴史は、言語、人種、文化、自然観などにおいて複雑な経過をたどってきた。フィンランドで生きるとは、言語や文化の違いを認め合いながら生きる事であった。それを「対話関係」と呼べば、そういう関係が「ムーミン谷の物語」にも色濃く反映されていることが分かってきた。そこから作者トーベ・ヤンソンはどういった思いでムーミン物語を描こうとしたのか、重要となるキャラクターたちはどんな役割をしているのか、考察した。そして、同性愛者であった作者の作品に与えた影響についても考察した。


『ぐりとぐら』と『いやいやえん』
          ――中川李枝子さんの作品の魅力を考える――

松永 早織


 『ぐりとぐら』と『いやいやえん』は1960年代に発売された作品である。作品の文章は中川李枝子さん、挿絵は妹の山脇百合子さん。作品は発売から約50年経っても、なぜこれほどに多くの人を魅了しているのだろうか。私は以下の2点から考察した。まず1点目は作品に奇想天外な発想が感じられる点である。作者は保母さんをしていた経験から「子どもはみんな問題児である」と公言して憚らない。物語は子どもと遊ぶ中から得られたものとされる意外な展開で進んでいく。本論では子どもの発想が絵本に与える影響を考えるとともに、大人と子どもが感じる両作品の魅力を考察した。そして2点目は両作品においても「食べること」と「共生すること」を取り上げている点である。わたしたちは「食べる」ことが大好きであり、また生活していくうえで必要不可欠なことである。しかし、私たちは異なる種族と共に生きている。そのようなことから本論では、「食べること」と「共生すること」の相反する二つのことがどのようにして描かれているかということを考察した。


ラプンツェルが抱える現代の問題
        ――「塔」が意味するこことは――
山本 さゆり

 グリム童話『ラプンツェル』では、長い髪を持つ女の子が幼い頃に魔女にさらわれ、塔の上の限られた世界で生活を余儀なくされる。しかしグリム童話の『ラプンツェル』には元の物語があり、ディズニー映画の『塔の上のラプンツェル』にも作り変えられてきている。そんなラプンツェルの変化はどのように描かれてきたのか。本論文では、グリム童話『ラプンツェル』とその元となった物語や、ディズニー版の物語を比較し考察した。その中でも『塔の上のラプンツェル』と他の作品とでは、異性と出会ってからのストーリーが異なる。異性と出会うという出来事は少女が成長するにあたって重要なことである。ラプンツェルはどのような心境で塔の上で暮らしていたのか。生みの親ではない魔女(育ての親)とはどのように親子関係を築いてきたのか。異性と無縁の暮らしをしていたラプンツェルは、突然の異性との出会いでどのように心境が変化したのか。作品それぞれのラプンツェルの成長を考察した。中でも重要となってくる「塔」というキーワードの意味するところも追求した。


スヌーピーが教えてくれるもの
――
『ピーナッツ』(漫画)から見るアメリカの背景と人生――

上田 美久

 世界中から愛されるスヌーピーと個性あふれる仲間たち。2015年にはハリウッドの殿堂入りを果たした。なぜこんなにもスヌーピーは世界中から愛されるのか。漫画『ピーナッツ』の作者であるチャールズ・モンロー・シュルツは、アメリカが大恐慌に陥っていた1930年代の時代に少年時代を過ごした。彼自身戦争も経験している。人々が苦しむそんな時代を生きた作者は、漫画『ピーナッツ』にどのような思いを託して描いたのか。漫画『ピーナッツ』は、見た目で感じられるほど可愛いだけの漫画ではない。「5セントの教室」では、自分と異なるタイプの友達に悩み相談をすることでまた違う解決法が生まれることが描かれ、野球をするシーンではなぜか苦しむことについて聖書を通して議論を始めたりする。こんなびっくりするような展開でもユーモアがあり、なぜかなるほどと思わされるところがある。このような漫画の笑いや皮肉や助言に読者達は魅力を感じたのではないか。そんな彼らの日常生活や台詞から分かるアメリカの歴史的問題、アメリカの人生問題について漫画『ピーナッツ』を通して考えた。


『鋼の錬金術師』が拓いた世界
  ――「人工的」に創り出される生命を考える――
永井 まどか

  現代に生きる私たちは誰もが科学技術による恩恵を受けている。『鋼の錬金術師』では、「錬金術」という科学技術の発達した世界が描かれている。錬金術によって豊かになった国で育った主人公たち兄弟は、死んだ母親を蘇らせるために人体錬成を行った。しかし、その結果は失敗に終わり、兄(エドワード)は片腕と片足を、弟(アルフォンス)は肉体を失う。錬金術によって失った身体で、錬金術を用いて人々を助け続ける兄弟は、技術のもたらす恩恵と損害を一身に受けている。そんな決して便利なだけではない錬金術は、現代の私たちが日々触れている科学技術でも同様ではないだろうか。『鋼の錬金術師』で描かれている人造人間などの「人工的な生命」は、もはや物語だけの存在ではない。家畜や植物に限らず、人間においても、人工的に操作された生命は既に存在するのである。そうした、人工的に作り出され、育てられるものは、はたして悪なのだろうか。技術の発展は誰にも止めることができない。それならば私たちは技術をどう扱っていくべきなのか。主人公たちの苦悩や作者の視点から、『鋼の錬金術師』が描いている「人工的な生命」の問題点を考察した。


『風の谷のナウシカ』(漫画版7巻)を読み解く
      ―― 穏やかな種族」と現代のわたしたち――
稲垣 佑花里

 漫画版『風の谷のナウシカ』は宮崎駿によって12年の年月をかけて製作された全7巻の物語である。腐海が世界を包みこむ中、トルメキアと土鬼は人間が住める土地を求め戦いをやめない。その戦いに風の谷の長の娘であるナウシカが巻き込まれていく。戦いに巻き込まれるうちに、ナウシカは腐海とは何かという謎の答えに近づいていく。ナウシカはその答えを求め、旧文明のありとあらゆる技術が保存されたシュワの墓所まで行くこととなる。最後に現在を生きるナウシカと墓所の中で生き続けている旧文明とが対立する。旧文明は「人間は愚かで争いをやめない、だから穏やかな種族になる必要がある」と言う。この旧文明が言う“穏やかな種族としての人間”とは何なのか、そして宮崎駿がナウシカに旧文明の破壊を決断させたのはなぜか、をこの論考で考察した。また物語が描かれた1982年〜1994年にはソ連の崩壊、ユーゴスラビアの民族紛争があり、宮崎駿の世界観は大きく揺らいだ。漫画版『風の谷のナウシカ』の物語はそうした宮崎駿の世界観を作り直す物語ともなっている。映画版『風の谷のナウシカ』では見えてこない作者の苦悩をそこから読み取り分析した。


私たちは皆「かぐや姫」
       ―― 平安からよみがえる「タケノ子」――
木村 繭

 「まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ」から始まるジブリ版『かぐや姫の物語』の挿入歌『わらべ唄』は、地上の「命の巡り」を歌ったものだ。巡り、つまり循環がこの物語を読み解く鍵である。原作『竹取物語』には登場しないかぐや姫の幼少時代と、山で暮らす捨丸や炭焼きの老人たち「賤民」の人々に注目し、物語の舞台である山と都、地上と月を比較した。すると、循環する世界としない世界に分けることができ、古代の「身分制度」や現代の「貧富の差」という問題が見えてきた。そして『竹取物語』に影響を与えた南九州の先住民族隼人や渡来人の伝説などを調べるうちに、月から地上、地上から月へと帰っていったかぐや姫が全くの空想ではないことがわかってきた。隼人は畿内に移住した歴史があり、異国から優れた技術を伝えた渡来人は日本に多く暮らしていた。彼らの中に本人の意思とは関係なく異国を渡った人がいたのではないか。そういう意味ではどこかへ「行かなければいけない」ということは誰もが抱え、現代に生きる私たちにも身近な問題ではないのか。『竹取物語』と『かぐや姫の物語』を昔話という視点だけではなく現代の物語として読み解いた。