20期生 卒論要旨集 

 

『母たちの村』で描かれる女性ヒロイズム
    ―― アフリカ人女性が育てる子どもと未来 ――
平井 若菜

 
『母たちの村』は西アフリカのとある村を舞台に、主人公コレが村の因習である「女性割礼」から子どもたちを守る物語である。私はこの作品を通して、アフリカ人女性の闘い、女性の弱さの中に芽生える母親の強さを知ることとなった。本卒論では、なぜコレが伝統や男性に屈することなく、子どもたちを守り抜くことができたのかという点に重点を置き、登場人物や家族関係、アフリカの文化・宗教を考察した。子どもを守り、育てることは、次世代の未来を育てることでもある。コレたちは割礼という女性の苦しみから解放され、割礼を受けずに済んだ子どもたちと共に、新たな可能性に満ちた未来に進もうとしている。コレたちが目指した未来とは今の私たちが手に入れた現在であるだろうか。男女平等・女性の社会進出に向けて大きく動き出す中で、私たちも女性であるからこそ将来の進むべき道を自由に(時には闘って)選択する過渡期にあると言える。私たちは今、何を武器にこれからの人生を歩んでいくべきか。また、母親になった時、子どもの何を守り、何を育てていくべきか。そこに女性のヒロイズムがあるのではないか、ということを考えながら考察を深めた。


陰の主役ディズニーヴィランズの魅力
 ―― 波乱のストーリーを引っ張る悪役の世界 ――
原田 雅世

 ウォルト・ディズニーが描く世界では、プリンセスやプリンスはもちろんのこと、悪役のヴィランズまでもが主役になれる。一般的にはプリンセス・プリンスの方が好まれるが私はヴィランズの方に惹かれた。なぜ私はディズニーヴィランズに惹かれたのか。私達がヴィランズ的要素(妬み・欲望・嫉妬等)を持っているからだ。ヴィランズには、強烈な個性で物語を盛り上げるだけではなく、そうした私達のもつ裏面を移りゆく時代ごとに人間の本質を鏡のように映しだす役割を果たしてきた。1950年〜1970年代までは、魔女や動物たちのヴィランズが活躍しディズニー黄金期を支えてきたが、1980年以降人間の醜い欲望を象徴し、人間味があふれるようになった。主人公をピンチに陥れるディズニーの悪役たちは大きく3つのタイプがある。1つ目は現実の世界の人間の醜い欲望を象徴したヴィランズ、2つ目は本性を隠す詐欺師のような聡明なヴィランズ、そして3つ目として近年ではヴィランズらしくないキャラクターが登場し、善人のように見えて実は冷酷非道というヴィランズが出てきた。当卒論ではそんな陰の主役であるディズニーヴィランズについて考察した。


『風立ちぬ』“生きねば”のメッセージから読み解く
  ―― 「技術」と「結婚」という二つの生き方を通して ――
柴谷 依里

 ジブリ映画『風立ちぬ』の大きなテーマのひとつになっている「技術」。その「技術」に携わった一人である堀越二郎(零戦を作る)をモデルに、彼の半生が作品中では描かれている。今でこそ「飛行機」はひとを喜ばせる便利な乗り物になっているが、戦時中そうはいかなかった。二郎は私たちの感覚では理解しがたい「鯖の骨のような“美しさ”」を飛行機に求め続けるのだが、その“美しさ”とは一体何なのか。また、作品中で二郎に夢を与え続けたイタリア初の実用航空機の開発者カプローニが二郎に問いかけた「ピラミッドのある世界とない世界」に迫り、「技術」といまの私たちの生活とのつながりを考察した。作品の後半では、二郎の結婚相手である菜穂子が、戦争でボロボロになった飛行機や街、人を目の当たりにしてきた二郎に、「生きて」と伝える。結核のために短命であった菜穂子のその言葉にはどのような思いが込められているのであろうか。この作品の訴えようとしている“生きねば”のメッセージを通し、技術者としての堀越二郎の生き方、そして菜穂子と人生を共にする二郎の生き方、その二つから見えてくるものについて考察した。


自分らしく生きるための方法とは
          ――『魔女の宅急便』が教えてくれること――

黛  尚


 『魔女の宅急便』には1985年に角野栄子さんが書いた原作、1989年にスタジオジブリが手掛けたアニメ版、2014年実写化された映画版の3作品がある。『魔女の宅急便』はなぜこれほど長い間様々な形で人気を集めているのだろうか。私は、以下の観点からこの3作品について考察した。まず1つ目は、原作を元に、なぜアニメ版と実写版が作られたのか、その背景について考察した。2つ目は、作品の中で描かれる「キキ」というキャラクターについてである。作品の中で、挫折を経験しながらも、それを乗り越え自分らしさを取戻し、成長していく「キキ」に私たちは自然と自分自身を重ね合わせているところを考察した。3つ目として、キキは「魔女」であるのだが、それは特別な存在なのかを考えた。本当は特別な存在ではなく、キキは私たちと同じように社会に出て行き、様々な異なる価値観とぶつかり合い、自分を見失いながらも、周りの人たちに支えられながら、自分の価値観を取り戻し、成長していく一人の女の子なのではないだろうか。以上の、3つの視点を通して『魔女の宅急便』の「キキ」が私たちに教えてくれる「自分らしく生きるための魔法」とは何かを考察した。


『トムとジェリー』の「ケンカ」の意味
――生き方の異なる存在の「やりとり」が教えてくれること――
柴野 友里

 殴る!切る!はては爆発させる!過激なギャグアニメーション『トムとジェリー』。子どもに不適切なアニメと批判される一方で、様々な監督によって製作され、今もなおこのシリーズは放映されている。その中で最も有名で人気があるのは、生みの親でもあるバーベラ&ハナの『トムとジェリー』だろう。二人の描く二匹のケンカは非常に激しいが、私たちはそれに怯えることも、どちらかを可哀想と思うこともなくただ笑い転げる。なぜ私たちは『トムとジェリー』に魅了されるのだろうか。現実では、ネコが強者でありネズミが弱者である。しかしこの作品においては、ネコ(=トム)がネズミ(=ジェリー)に負けるという構図がほとんどである。このようなギャップが生まれる理由は、この作品の対比がネコとネズミのみに囚われない、様々な立場の違いをテーマとしているためである。本卒論では、「笑い」が生まれる理由、ネコとネズミの関係など作品を取り巻くテーマを探り、その上で数多くの短編を分析し、二匹の対比や対立の豊かな構図の内容を考察した。そしてトムとジェリーが私たちに「笑い」だけでなく何を伝えようとしているのか考察した。


クレヨンしんちゃん映画
 『オトナ帝国の逆襲』が描く“ホームドラマ”

――
日本映画を受け継いだ原恵一が手がけた異色の映画――

北村 みなみ

 『映画クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は「クレヨンしんちゃん」のイメージを覆した異色の映画である。「クレヨンしんちゃん」といえば、お下品で大人のまねをする野原しんのすけ(5)が主人公で周りを巻き込みおバカなことをする物語である。子どもに見せたくない番組としても有名である。そのようなイメージの作品であるが、今でも放送されているのはなぜだろうか。その疑問を考察してゆくと原作者臼井儀人やアニメ製作者たちが「クレヨンしんちゃん」を“ホームドラマ”として位置づけ、家族の生活のリアルを追求したためであることが見えてきた。しかし本論文の題材の『オトナ帝国』は、力を合わせてきた野原家がばらばらになる物語である。監督・脚本を務めた原恵一はなぜ、この映画でこのような野原家を描いたのか。そこに着目し“ホームドラマ”について調べてゆくと、そこには家族を描き続けた監督、木下惠介の存在が見えてきた。彼らは時代、ジャンルは異なるが共に“ホームドラマ”を描いた監督である。そこから『オトナ帝国』が問いかける、家族が壊れる“ホームドラマ”がなぜアニメに存在するのかを考察した。


『ゲド戦記』から「影」を見つめ
     ――「生きなかった自分」と生きていく私――
嶋本 芳

 ジブリ映画でも注目を浴びた『ゲド戦記』だが、私は原作第一巻『影との戦い』を主軸に「影」について考えてみたい。この物語の舞台となるアースシーの世界では、竜たちが今なお使う「真のことば」といういにしえの言語が存在する。世界に存在する全てのものがその太古のことばによる「真の名」を持っていた。しかし、ある日少年ゲドが禁じられた魔法を唱えて呼び寄せてしまった「影」には名前がなかったのである。「影」が災いを呼び起こす前に、ゲドはなんとしてでも「影」を捕らえなければならなかった。自分の「影」というとどんなイメージを抱くだろうか。もう一人の自分?普段表には出さない裏の姿?なんだか暗くて嫌な感じ?ゲドの「影」について考えていくと、そこにゲドと関わってきた様々な人の「影」が見えてきた。人と人との関わりから「影」は生まれ、無数の「影」を背に私たちは生きている。「影」を見つめることによって自分を知り、これからの生き方をも考えていけるのではないだろうか。私たちにとって「影」とはいったい何者なのか、どう向き合っていけば良いのか考察した。


『コクリコ坂から』から読み解く現代の家族
      ―― 多様化する家族の中で生きるということ――
市田 志歩

 映画『コクリコ坂から』は東京オリンピックの開催を翌年に控えた1963年の横浜が舞台である。居心地のいいノスタルジックな昭和の風景と情景で、自分が生きていない時代の描写を見ても、とても懐かしく感じられる物語である。物語の中では古いものを継いでゆくことの大切さ、また人と人との絆の大切さが描かれている。しかし、物語が進むにつれ主人公である海と俊の家族関係が問題になってくる。俊は両親と血がつながっておらず、本当の父親が海の父親であることが発覚した。そのため海と俊は異母兄弟であることがわかり、関係は複雑になっていった。最後は俊の本当の父親は海の父親ではないことがわかったが、家族関係が複雑であることは変わらない。そこから、映画『コクリコ坂から』が現代の多様化する家族関係や、そういう「家族」を受け入れていくことの難しさを描いていることがわかってきた。そのことを通し、誰もが知っている「家族」とは何か、私たちは「家族」を本当に理解し、知っているのだろうかと考えた。ふつうの家族とは何か、自分の家族やそれぞれの家族の価値観の違い、そしてこれからの家族の在り方の多様性について考察した。


クマのプーさんの魅力
           ―― プーのおばかさんの秘密――
中原 優里奈

 プーさんと言えば黄色い体(ディズニーアニメ版では赤いTシャツを着ている)に、ちょっぴりおバカなクマさんといったイメージだが、なぜそんなプーさんが世界中で支持されるのか。私自身、子どもの頃はプーさんのぬいぐるみといつも一緒だった。そんなプーさんの魅力について様々な視点から考察した。まず人とぬいぐるみの関係について関心を持ち、子どもの成長のプロセスである移行対象や愛着対象の内面化などについて考察した。人にとってぬいぐるみがいかに大切か、移行対象との関わりを持って人は成長することが分かった。それからプーさんのトレードマークでもある黄と赤の色を中心に、暖色・寒色、色の重さ、膨張色などのもたらす効果ついても考察した。プーさんの見え方をそれぞれの色の効果から一つ一つ分析した。また、プーさんというキャラクターを道教の原理である樸(あらき)、無為などの特徴とプーさんの作中の言動を照らし合わせ考察した。そして何といってもプーはおばかさんだが、『クマのプーさん』の世界はそれを許す世界であるということ、そこに人はどういった惹かれ方をしているのかを考察し研究した。
 

ターザンの強さに迫る
         ―― 弱さから見えてくる真の強さ――
新垣 仁美

 “ア・ア・ア−”という叫び声でお馴染みの「ターザン」。私自身、幼少期に“ターザンごっこ”と称して縄がかかった遊具で遊んだ記憶もある。本論文では、ディズニー映画『ターザン』ではなく、原作『類猿人ターザン』を重点的に考察した。物語の中で一番魅了するところと言えば、類人猿に育てられた少年がジャングルで様々な冒険を繰り広げるところにある。しかしターザンが“ジャングル”で生活をすることに、なぜ読者はワクワクするのか。まず、その謎を動物園の歴史を見ながら考察すると、弱肉強食の世界でたくましく生きるターザンの姿に読者は惹かれるのだと考えた。では、食べるために動物を殺す主人公ターザンがなぜ、“ヒーロー”と呼ばれているのか。その所以を探ると、ターザンは超人的なパワーを持つ強さと共に、多くの弱さも兼ね備えているキャラクターであることがわかった。そこから、今まで見つめることのなかったヒーローの弱さについて考えると、人並み外れた肉体を持つヒーロー達にも「弱さを秘めた強さ」があることが見えてきた。ターザンという人物から、表には現れないヒーローの本当の強さについて考察を深めた。
 

手塚治虫×『鉄腕アトム』から見る絶望と希望
          ―― 二面性を持つ仲介者アトム――
佐原 紫織

 漫画家手塚治虫。今もなお高い評価を受けている彼の代表作と言えるのが『鉄腕アトム』である。日本で初めて一話三十分の連続アニメとして放送され、絶大な人気を誇った作品である。この主人公アトムを、悪と戦う正義のヒーローと多くの人は答えると思う。しかしそのイメージのほとんどはアニメによって作られたものであり、原作を読むとまた違う印象を受ける。私は『鉄腕アトム』ができるまでの過程や原作での設定、作者の経験と思想から、アトムは何かと何かの間を取り持つ「仲介者」であると考え、さらに何の仲介をしているのか考察していった。そこからアトムには多くの二面性があることに気づいていった。さらにアトムのエネルギー源である原子力についても考察した。他にも、手塚治虫が残した最終話と思われる三つの作品から、漫画『鉄腕アトム』には絶望とも希望とも読み取れる作者のメッセージが込められていることも分かった。結論として、アトムは単なる正義のヒーローと言い表すよりも、仲介者である面が強く、ではその仲介者とはどのような存在なのかを本論文では考察した。
 

『ホビットの冒険』 ―ゆきてかえりし物語
        ―― ファンタジーについて考える ――
貴堂 瀬奈

 
ファンタジー作品の最高峰『指輪物語』のプロローグである『ホビットの冒険』。主人公のこびとのビルボ・バギンスはある日13人のドワーフとひとりの魔法使いと共に旅に出る。そしてちいさなホビットが自分よりも大きなトロルや蜘蛛、ドラゴンを倒したり、仲間を倒したりする物語が展開する。はじめは帰ってこれらないかもしれない危険な旅に出ることを拒んでいたビルボだが、「忍びの者」として選ばれたことを旅の中で自覚してゆき、さまざまな冒険を経て成長を遂げて家に帰ってくる。このような「ゆきてかえりし物語」は多くの作品に使われている典型的な構成であると考える。ではなぜ人々は冒険物語に魅了されるのか、なぜファンタジーに夢中になるのか。主人公は何を手に入れ、私たち読み手はなにを感じ、手に入れることができるのか。そうした「行って帰ってくる」ということの大切さを研究していくなかで、作者トールキンのファンタジー作品への独特なこだわりや世界観があることがわかってきた。例えば架空の世界、人物、歴史、文字などにこだわった物語作り。そういう世界観におけるファンタジーについて『ホビットの冒険』を通して考察した。


『ドラゴンボール』から見る多様な死と再生
          ―― 仲間・家族と共に生きる ――
垂水 香菜子

 漫画『ドラゴンボール』。1980年から1990年代の「週刊少年ジャンプ黄金時代」を支えた代表作品である。連載終了以降、現在でもテレビアニメ『ドラゴンボール改』として放送されている。そもそもドラゴンボールの物語は、現実世界では一度死んでしまったら再生できないが、ドラゴンボールを集めて願い事を叶えれば再生することができるという物語として出発した。しかし、本論文では具体的に漫画42~43巻の魔人ブウ編と35~39巻のセル編を中心に考察した。なぜこれらの編を中心に考察したのかというと、魔人ブウやセルのように「自分で再生できる死と再生」が描かれているからである。また、これらの編の魔人ブウとセルの再生には、科学技術が使われている。そしてこれらの使用されている科学は現実でもあり得ることなので、作品をより興味深いものにしていると考える。そしてこうした物語の考察を通して『ドラゴンボール』には多様な死と再生が描かれていることが分かった。それ以外にもこの物語における死と再生には「仲間や家族の力を借りる死と再生」があり、ただのバトル作品では終わらないことに魅力があることについて考察した。


『かいじゅうたちのいるところ』はどこにあるのか?
 ―― 子どもたちに大切なWild thingsを考える ――
菊妻 明日美

 『かいじゅうたちのいるところ』は20世紀における絵本の代表作である。作者のモーリス・センダックの描く「かいじゅうたち」はどこか不気味で、独特な風貌をしていて、読むものに恐怖心を抱かせてきた。発売当初、そんな恐ろしい風貌の「かいじゅうたち」への否定的な意見や、主人公マックスの行いへの反発があった。わざと子どもたちを怖がらせる意味を問うなど、この絵本を大人たちは批判し、センダックを非難し、子どもたちから遠ざけようとした。しかし、大人たちの心配をよそに子どもたちは好んでこの絵本を読み、楽しんできた。果たして子どもたちは恐ろしい「かいじゅうたち」の何を好み、何を感じ取ってきたのか。原題である『Where are the wild things are』に含まれる「Wild things」は、「かいじゅうたち」と和訳されているが、Wild thingsの本来の意味とは一体何なのだろうか。子どもたちにとって大切なWild thingsとは何なのか、そしてなぜ長年愛され続ける絵本になったのかを考え、そこにセンダックが子どもたちに伝えたかったメッセージを読み解き、考察した。



『チョコレート工場の秘密』に秘められたメッセージ
―― 甘いチョコレートのビターな現実とホワイトな展望 ――
林 真未
 映画『チャーリーとチョコレート工場の秘密』はチョコレートに同封された金色のチケットを運よく引き当てた子供たち5人がチョコレート工場に招待され、その道中次々と子供たちが消えるハプニングが起こり、残ったチャーリーが工場の後継者になるという話である。私はこの作品を見た時に、子供や親への教育に対する戒めや本を読むことの大切さ、家族愛がテーマになっていると感じていた。しかし、原作や作者、チョコレートの原料であるカカオと砂糖について調べるにつれ、作者が本当に伝えたいことは他にあるのではという疑問を抱いた。それは、甘くておいしいチョコレートには苦い現実があるということである。カカオや砂糖の生産は多くの黒人奴隷たちによる過酷な労働がある。チョコレートが食べられるのは彼らの汗と涙があったからこそである。一方で、そんな労働環境を改善する為に立ち上がったイギリスのクエーカー教徒と呼ばれる人々もいる。本論文では、原作の『チョコレート工場の秘密』を中心に作品が伝える真のメッセージを読み解き、チョコレート工場の「秘密」とは何か、なぜチャーリーを後継者にしたのかについて考察した。