10期生 卒論要旨集 

 

子どもと生きる―「へんなもの」と育つ意味― 阿久津 佳
私は来春から教師になることになった。なぜか、幼いころから子どもが好きだった。子どもと関わる仕事をして、子どもと生きていきたいと思っていた。「子どもと生きる」ということは私が私らしく生きるうえでも欠かせないことである。しかし、子どもとは一体何だろうか。現在、その問いへの私の答えは、子どもとは「何か不思議な存在である」ということだ。本論では子どもを見つめ、子どもが大人へとどのように変化していくのかを見つめることで、「子どもと生きる」ことを考えた。子どもが育つとき、たくさんの出会いがある。人間と出会い、「へんなもの」と出会い、子どもは育っていく。人間ではない「へんなもの」が子どもの育ちに大きく関わっている。なぜ、「へんなもの」が子どもの育ちに関わっているのか。子どもが大人になると「へんなもの」とどう関わるのか。人間と「へんなもの」の二つの世界があり、子どもという不思議な存在がいる。二つの世界の力が子どもの育ちには必要である。私が「子どもと生きる」ためにも必要である。これから、私が「子どもとうまく生きる」ために役に立つよう、卒業論文を組み立てた。
イルカと共に―人間社会の交わりの中で― 石川 絵美
私はイルカと人間の"交わり"について考えた。イルカの歴史を調べ、日本ではイルカを"神の使い"と考えていたことや、地方によってはイルカを食用として利用していたことがわかった。そして現在ではイルカショーやイルカセラピーなどの形で人間社会に存在している。イルカショーやイルカセラピーが人気な理由に、イルカの可愛い顔や声、そして高い知能を持つ動物だということなどがあげられる。人間はイルカと共に歩き、イルカの力を必要としているのだ。でもイルカを望んでいるのは人間であって、イルカではないことに一体どのくらいの人が気付いているだろうか。「海」ではなく「プール」という人間社会に連れてきた責任を人間は負っている。本来の"自由"を奪ったのだから、それ以上の"幸せ"を彼らに感じてもらわないといけないと思う。そして"真の交わり"を感じるには、人間優位の考えを改める必要がある。一方のみが望む"交わり"に"真の交わり"はない。それはイルカだけでなく、すべての動物にいえる。人間は動物達を想い・尊重・理解することが大切である。そして私達人間は決して人間だけで生きているのではないことを確認して欲しい。
妖怪と怪談―「恐怖」を考える― 門野 美代子
私は幼いころから怪談を聞くことが大好きでした。怖がりながらもテレビから聞こえてくる怪談に耳を傾けていました。怪談につきものなのが妖怪です。妖怪とは人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体のことを言います。妖怪は人間の心の闇の恐怖心や不安から生まれたものであるとも言われています。平安時代には鬼が女を喰らう話が残されているように、妖怪は恐ろしいものというイメージが植え付けられていました。しかし今では、妖怪と聞くと「ゲゲゲの鬼太郎」のような面白おかしい妖怪をイメージしてしまうようになりました。妖怪も時代によって変化しているのです。私たちが知っているという妖怪は、人間にとって良い存在のものもいれば、悪い存在のものもいて、遠い存在でも、近い存在でもあるのです。妖怪と怪談に共通する感情が「恐怖」と呼ばれる感情です。この感情は普段生活していて、あらゆる場所で生まれます。そこで、私は知っているようで知らない妖怪と、大好きな怪談を題材にして「恐怖」とはどのようなものなのかを考えました。「恐怖」という感情は人間が成長するためには、大切な感情だったのです。
謎めく推理の世界―『名探偵コナン』より謎に迫る―   島田 智佳
"謎"それは不思議で奥が深いものであり、考え出したら切りがない。この謎が当たり前のよう君臨しているのが推理の世界である。この世界で一躍人気を集めている物語が『名探偵コナン』である。コナンは小学一年生の体であるが中身は名探偵工藤新一という一人二役の持ち主であり、この一人二役という特徴を生かしてコナンは謎ときに挑む。こうした一人二役の特徴から見えてくる推理の面白さについて考察した。そこから謎に迫るためには一つの目線だけではなく、さまざまな手がかりと推理がいかに大切であるということ、また、そのような異なる視点でものを見ていくことの必要性について考えた。謎に迫るということは何も推理ものに限ったことではない。日常のあらゆるところに謎が存在している。そんな謎に対して私達はどう向き合っていけばいいのか。推理の世界で人一倍動き回り、謎に迫ることのできる探偵の行動を追うことで私はそこから学びとる何かがあると考えた。そんな謎めく推理の世界から現代へとつながっているものを考察することができた。
存在の交換―10代の交換日記を通して―   鈴木 千尋
子どもの頃、交換日記をしていたという人は多いだろう。私もその一人で、今までに何人かの友達とやりとりをしていた。中でも一番記憶に残っているのが小学五、六年生の時にやっていたものだ。大学生になって読み返してみると、そこには独特な世界があった。カラフルな色使いで不思議な絵や言葉が細かく描かれており、それは一種の暗号のようでもあった。その暗号のようなものをやりとりすることには直接言葉を交わすこととは異なる、不思議な力がある。自分や友達の交換日記を参考に、ノートに繰り広げられている世界を、大学生の私の立場からみつめてみた。そのうちに、そういう力を借りながら日記だけでなく、自分の存在も交換しているのではないかという考えに辿りついた。人とわかりあうことは簡単ではないし時間もかかる。だからこそ人は絶えず交換をして心を通わせようとする。私の存在をだした時に、応えてくれる相手がいることは、生きる力となって返ってくる。人にはみんなそれぞれの人生があり、誰も自分以外の人生を歩むことはできない。だからこそ、人と関わり、交換することで、前に進んでいけるということを卒論に書いた。
新たな私に出会うとき―ファンタジーを通して考える― 田中 恵
就職・結婚・転勤・大事な人の死など人生には様々な節目がある。その時スムーズにいく人もいれば自分を失いかけるほど苦しむ人もいるだろう。それは一種の「私」の喪失と再生の体験である。喪失と再生とは、そしてその結果である新たな「私」に出会うとはどのようなことなのか、ファンタジーをとおして考えてみようというのがこの卒論の目的である。そして『千と千尋の神隠し』を初めとする、いくつかのファンタジー作品を採りあげて、そのなかに描かれている、特に「異界」「10・11歳という年齢」「心の闇」に注目して考察することにした。その結果、「私」の喪失とは、心の中にある様々な「私」をコントロールできなくなった状態であり、その再生とは、それらに新しい意味づけを加えて、心の中の様々な「私」を受け取りなおすことだと考えた。それらを踏まえて、新たな「私」に出会うときとは、自分の心の深くに触れて、「私」というものを、今までと違った目で捉えなおすことが出来たときだ、という1つの答えに辿り着いた。
サーカスの不思議な空間と笑い―「人間」と「異なる存在」が共に生きる場所― 谷川 真美
ディズニー映画の『ダンボ』、チャップリン、カフカを通して、サーカスと笑いについて考えてみた。『ダンボ』はサーカスを舞台にした映画であり、チャップリンやカフカにもサーカスをテーマにした作品が見られる。これらには共通点があると思う。それは「自分」と「異なる存在」との関わりがテーマになっているということ。ダンボ、チャップリン、カフカ、彼らはそれぞれ「自分」と「異なる存在」の間に違いを感じていた。その違いをうまく意識するために、サーカスや笑いを取り上げていたのではないか。サーカスは人間と「異なる存在」との間に融和が起こる唯一の場所であり、笑いはその間に親和関係を作り出すものである。そんな「異なる存在」と打ち解けられることを彼らは求めていたのではないだろうか。それは私の中にも常にあった気持ちでもある。そこに私と共通する気持ちがあり、私はサーカスや笑いに興味を持つようになったのかもしれない。つまり、笑いやサーカスをテーマにしながら、それは同時に自分自身について考えることでもあった。卒論を機会に自分を見つめ、少し成長できたのではないだろうかと思う。
「人間」とは何か―闇を力にして生きる姿を考える― 東本 咲子
「人間」とは何か、というテーマに取り組んだ。「人間」とは何か…これは、容姿から判断できるのか、ということをまず考えた。そしてそれを崩す事例を挙げて、次に「人間」は容姿から判断されるものでなければ、何から判断するべきか、ということを考えた。そして、感情について考えることになった。人間が隠したいと思っているような、あまり良くないとされている感情は、本当に人間にとって不必要なのかどうかと。そこから「正」と「負」の感情の例を挙げ、それに自分の体験を振り返りながら、考え直した。私自身は成長過程で、たくさんの「別れ」を繰り返し経験して、そして新しいものを受け入れることで、対応する力をつけることができたことに気が付いた。「自分」という「体」は死ぬまで滅びることはないが、精神的には「死」を繰り返している。その積み重ねで、自分が形成されていることにも気がついた。ストレス社会に生きる現代人に必要なことは何か、その答えは「負」の感情を抑え込まず、「正」と「負」をバランス良く使い分けることだという結論を得ることができた。
少年漫画の面白さを考える―アイデンティティと二面性― 宮嶋 涼花
少年漫画の面白さとは何かを、少年漫画に必ず現れる「主人公キャラ」と「ライバルキャラ」の分析をするとともに人間の「アイデンティティ」と「二面性」と関係付けて研究した。主人公は「他者のために行動する」、「諦めない」というアイデンティティを持っており、それに従って真っ直ぐに突き進む。ライバルキャラは「変化する自分とそれを受けいれられない自分」という「二面性」を持ち、その間で苦悩し「一本気な主人公に惹かれていく」。その他に、少年漫画には必ず「他者と関わること」が描かれている。アイデンティティに従って生きることは他者との関係を優先して行動する私たちには難しく、そこには「二面性」が現れる。また、アイデンティティとは他者との関わりによって規定されるもので、他人と関わる機会が少なくなっている現在に生きる私たちは自己のアイデンティティを規定しにくくなっている。そういった特徴を持つ私たちは、主人公の姿勢に憧れ、ライバルの性質に共感、応援し、感情移入する。また、作者もそれを意図して描いており、漫画を通して「他者と関わり、生きていくために自身を変化させることが必要である」ことを伝えている。
「やさしさ」について―「本当のやさしさ」を考える― 山村 悠子
「やさしさ」とは何かを卒論のテーマとし、何が「本当のやさしさ」なのかと考えた。母校に教育実習に行った時も一番に感じたのが、生徒の「やさしさ」であった。はじめに「やさしさ」の意味とその反対について定義し、「やさしさのバリエーション」として「わかりやすいやさしさ」と「わかりにくいやさしさ」という二つの観点から、身の周りにある「やさしさ」について考えた。大平健著の『やさしさの精神病理』より、現代の"やさしさ"と本来の「やさしさ」との比較を取り上げた。また、私自身の体験「障害者との出逢い」と、絵本『さっちゃんのまほうのて』から「やさしさ」を考察した。こうした「やさしさ」とは、人と人とが出逢うことによって私たちの中に生まれるものである。また、その「やさしさ」に私たちは気付かなければならない。「本当のやさしさ」とは何か。それは、人の人生にプラスになる何かを与えてくれるものである。私たち人と人との間に「やさしさ」が存在するのは、お互いがより良く安全な生き方を送るためである。その人の安全を配慮する心の中にこそ、「本当のやさしさ」が存在するのではないかと、私は考えた。
虫と物語―「虫」は素敵で不敵なパートナー― 吉田 沙織
人間と虫、特に日本人と虫というものは古くから色々な関係性で付き合ってきた。季節を感じる風物詩として、遊び相手として、敵として、また味方として、食材として。そこで人間にとっての虫とは一体どういう存在なのか、虫の持つ魅力というのをいくつかの物語や歴史から考察しようと考えた。日本が誇る手塚治虫に宮崎駿の作品、仮面ライダー、スパイダーマンなど漫画やアニメのヒット作品の多くに虫というモチーフが存在している。それらの作家たちは虫を通して人間を知ろうとした人たちである。でも、多くの人は虫を嫌がっている。そんな嫌がられる虫をどうして物語にしようとしたのか。それは人間が恐竜よりも古くから現在までを生きのびてきた虫のパワーや生命力に面白さや恐怖を感じているからではないだろうか。私たちはそんな虫をモチーフとした作品から虫の面白さや、虫の本当の姿を見つめなおしていくべきだろう。虫たちから私たちは学ぶことがたくさんある。私は物語を通して人間と虫との関係を考え直した。そこから虫は人間の素敵で不敵なパートナーであるとわかった。
「母」をたずねて―「癒し」と「絆」の進化論― 吉川 裕美
「少子化問題」「児童虐待問題」子どもと親をめぐる関係は問題ばかりである。特に母親をめぐって「母性の喪失の問題」など様々な議論が飛び交っている昨今。「母」とはどのような存在であるのか現代・過去・私の母・新しい母をたずねてみた。現代の母親にとって子育ては「つらい」と感じることが多いそうである。そこで過去の「母」をたずねてみると、時代に作られたものが多いことがわかった。よって、「現代の母」にも新しい母なるものを作り出す必要があると思った。「母」には「母親」以外に「生み育てる」という意味がある。生き物は生まれながらに生み育ての能力は持っている。「生み育てる」とは機械を扱うこととは違い、生き物の未知なる能力を意思のやり取り(橋渡し)をして理解をし、受け入れ、お互いが進化し合うことであったり、弱さを認め、無償でやさしさの架け橋をすることで、相手の中に次につながるやさしさを生み出したりすることである。大切なことは絶えず橋渡しし続けること。しかし、この橋渡し役は非生産的なものとして否定されはじめている。そんな厳しい社会を生きていくからこそ見えにくいものであり、だから大切なことなのだ。