新・じゃのめ見聞録  No.16

八重は家で射撃の練習ができたのだろうか

2014.5.9

 ドラマなんだから歴史として見てはいけないと思いながらNHK「八重の桜」を見ていたのですが、それでも、どうしても気になることがありました。それは八重が家で射撃の練習をしている場面についてでした。確かに、八重は「懐古談」の中で次のように話していました。

  八重子刀自白虎隊の伊東に射撃を教ふ

妾(わたし)の兄覚馬は御承知の通り砲術を専門に研究して居ましたので、妾も兄に一通り習ひました。当時白虎隊は仏国式教練をやつて居ましたので、射撃の方法はよく知つて居ますが、それでも時々射撃の事で遊びに来ました隣家の悌次郎は十五才のため白虎隊に編入されぬのを、始終残念がつて居ましたが、よく熱心に毎日来ました。そこで妾は「ゲベール銃」を貸して機を織りながら教ましたが、最初の五六回は引鉄(ひきがね)を引く毎に雷管の音にて眼を閉つるので、其都度臆病々々と妾に叱られ案外早く会得しました。

                                    吉海直人『新島八重』角川選書2012

 ドラマ「八重の桜」では、時代考証を指導される方々の元に、これなら大丈夫だろうということで、八重の家の射撃用の庭先を設定されていたのだろうと思います。もちろん誰も見たことのない八重の実家ですから、想像するしかないわけですが、そこはデタラメにならないようには最大限の考慮をされて、実家の再現はされていたと思います。

  そうした八重の回想や、時代考証の専門家の苦心されていたことを踏まえての上でいうことになるのですが、それでも実際に、八重の実家でドラマで描かれていたような射撃訓練が行われていたということを、どう考えたら良いのか、よくわからない思いがずっとしてきていました。

  『詳解 会津若松城下絵図』歴史春秋社2011を見ると、山本覚馬の実家は、若松城の堀のすぐ近くにあって、決して大きな家ではありません。地図で見る限り、隣同士、同じような大きさの家でした。隣は確かに銃を教えたとされる「伊藤悌次郎」の家になっています。西郷頼母や梶原平馬などの家老の屋敷に比べたら、ほぼ五分の一ほどの大きさです。

 そんな大きくもない家の庭で、射撃の練習をするというのはどういうことなのかを想像することが、なかなかうまくゆかないのです。まず何よりも、銃の発射音のことを考えると、その音が隣の家との関係でどうなのか、ということがずっと気になっていました。たとえば「隣の悌次郎」がその音で目をつぶってしまうという音のことを、現代の私たちはピンときませんが、たとえばその発射音については、古式銃の保存会の人たちの活動から知ることが可能です。

 たとえば YouTubeで「会津藩鉄砲隊演武」とか「江戸幕府鉄砲組百人隊」と検索すると、現在でも火縄銃の発射音のすさまじさを知ることができます。しかし、その発射音が、毎日隣の家から聞こえてくるとしたら、隣に住むものは大変だったのではないかと思われます。近所中に鳴り響く音だからです。映像を見られたらわかるように、だいぶ離れて見学している人たちにとってもびっくりするような音になっています。

 そして、その発射音も気になるのですが、さらに気になるのは、銃が狙い撃つ「的」の遠さです。実弾の射撃をしているわけではないのですが、古式銃の保存会の「的」も実戦用の位置に置かれています。当然のことながら、「遠い的」をめがけて撃つことで鉄砲の威力や効果があるわけですが、八重の家の庭先の的は、そういう古式銃の保存会の人たちの立てている「的」の遠さとは比べものにならない「近い」ものでした。家の庭の大きさそのものが、そもそも長くないわけですからです。そんな短い距離で、轟音のする火縄銃の練習をして、隣の家からは苦情が来なかったのだろうかという疑問がおこります。

 それこそ余計なお世話だよ、と言われるかも知れません。そもそも山本家は八重の回想にもあるように「砲術師範」として認められているのですから、隣近所の家々も、山本家で鉄砲の音がするのは当然だと認めていたのだと考えられるからです。狭い庭先で実際に鉄砲の射撃訓練になるのかは別にしても、射撃の練習をするのが「山本家の仕事」なのだと近所では容認されていたことが考えられます。だから疑問視するのは当たらないということは言えるかも知れません。

 そこはそうだとしておいて、気になるのは、日新館が近くにあることでした。おそらく山本家から歩いても五分もかからないところに日新館がありました。その一角に、「放銃場」と名づけられた場所が用意されています。本来はそこで多くの「砲術師範」の武士達も射撃の訓練をしたのだろうと思われます。そういう公の訓練場とは別に、たとえ「砲術師範」とはいえ、個人の家で全く自由に射撃の訓練が許されていたと考えることができるのか、そこはどうしても疑問に思えるからです。あれほど銃の規制に厳しかった徳川幕府が、いくらお役目であろうと、個人の家での射撃訓練をどこまで認めていたのかは気になるところです。

 各藩に置かれていた「砲術師範」(会津藩では武士の四つ階級の一番下に当たる)の家柄の当初の目的は、百姓一揆などの鎮圧のためでした。会津でも近世を通じて56件の百姓一揆が知られていて、「鉄砲隊が発砲して農民側に死者を出す」とか「首謀者を鉄砲で処刑」というふうにも記録されているところです(『資料が語る会津の歴史』歴史春秋社1996)。私たちは山本家のような「砲術師範」の家柄を、現代のフィーリングだけで受け取ってはいけないところです。さらに幕府は銃の広がりを恐れていたので、自由に個人が射撃練習ができたとは思えないのです。

  ちなみにNHKBS歴史館『新島八重 逆境を生きるハンサム・ウーマン』で中村彰彦氏がしきりに八重の射撃の腕前を褒め称え、さらには小田山から官軍が打ち込んでくる大砲にめがけて、反撃の大砲を八重の指揮の下にやり返したというような、見てきたようなことを熱心に言われていました。官軍相手の手柄は、まるで八重一人にあったかのような説明のされ方でした。しかし、このことが事実であるのかどうかを考えるには、いったい八重が大砲の実践をどこで習得できただろうかを考えてみたら分かると思います。

 百歩譲って、家の庭先で射撃の練習ができたとしておいても、しかし大砲の練習などは家では出来ません。できるのは「日新館」の「放銃場」、あるいは野外の広い訓練場だけだと思われるのですが、そんな男の武士ばかりが訓練する「放銃場」に、武士でもない女の八重が入っていって練習をするようなことができたのかと考えると、それは不可能であったと思います。

 大砲の砲弾の仕組みは、兄、覚馬から聞いていたと思います。というよりか、「砲術師範」の家では、爆音を鳴らす射撃の練習よりか、銃の分解、掃除、組み立て、火薬の調合などなど、鍛冶や化学的な仕事を普段は丁寧にやっていたのではないかと思われます。その中には大砲の砲弾の分解、組み立てもあったと思われます。

  しかし、会津若松城から、官軍が陣を引く小田山へ、正確に大砲を撃ちこむには、放物線を描いて飛ぶ大砲の弾の、その放物線の距離のはかり方などの実践的な知識がいるはずで、そんな実践を八重がどこでできていただろうかと思うのです。もちろんぶっつけ本番で、覚馬から教わっていた大砲の撃ち方を、実践したという事は考えられます。考えられますが、しかし、立て籠もる会津若松城で、射撃の名手として活躍しながら、なおかつ大砲の指南役つとして男勝りの活躍を八重がしていたとイメージするのは、あまりにも根拠が薄そうに思えます。

 BS歴史館で話をされていた、松本健一氏、鈴木由紀子氏、島田雅彦氏らが、口々に若松城の籠城の八重の戦いぶりを褒めていたのを聞きながら、その時に歴史の見方の違いを感じるなあと思っていたことを思い出します。中村彰彦氏を含め、八重がすばらしい狙撃手(スナイパーでとみんなが言われていました)だったということ、そういう彼女がいたためにお城は一ヶ月持ったのだという言い方を、参加者の方々がいわれていました。そういう「説明」を聞くと、逆に八重が狙撃手として居なかったら、若松城は一ヶ月前には終わっていて、非業の死を遂げる人もたくさん出なかったはずではないのか私なら思うところがあります。早く降参をすれは、それだけ助かる人たちもたくさんいたはずなのです。しかし歴史をそんな風に考えないで、狙撃手として八重ががんばったがために「城は一ヶ月持った」という評価をするわけです。そういう「がんばり」を評価する根拠というのは一体どこにあるのか、ドラマが終わったあとでこそ、冷静に尋ねてみる必要があるのではないかと私は思います。

  本当は八重たちはお城で自分たちの出来ることをやっていただけで、後世の人が言うように八重一人で、会津城陥落をくい止めていたわけでもないのはわかりきったことなのに、なぜ歴史をそういう個人の動きで説明しょうとするのか、そこはもっと歴史に即して会津城を巡る攻防戦の深層を考えてゆかなくてはと思います。

 

注 宇田川武久『江戸の砲術師たち』p89の「星場」という射撃場のことが出てくる。