じゃのめ見聞録  No,7
  
二つの「捏造」事件
 1

 「捏造」事件というのは、どういう中身にしろなぜかいつも気になってきた。
 昨年(2000年)にも大きな「捏造」事件があった。あの「旧石器発掘捏造事件」である。ここ近年「日本人」論が盛んになり、現代の「日本人」が「弥生人」の血を引く人々と、「縄文人」の血を引く人々の混合だというような論法で、話が盛り上がっていた中で、「弥生」や「縄文」などが足下にも及ばないほどの、旧石器時代から「原日本人」がここに住んでいたということが、発掘の結果わかったというのだから、多くの「日本人研究家」たちは歓喜したはずである。「やっぱり、日本人はすごい人種だったんだ」と。「日本人は、やっぱりずーと昔から、日本人としてここに住んでいたんだ」と。教科書でもいち早くそういう「事実」を紹介し、これから子どもたちはそれを学んで大きくなるところだった。
 ところが、その証拠となる「旧石器発掘」がじつは「捏造」だったというのだから、関係者が一同ぶったまげることになったのは、当然であろう。この事件のその後の後遺症が、どれほど大きかったものかは、その後の報道でもよく知られているところである。
 ところで今回、私が気になってきたのは、そういう歴史や発掘の見直しのことではなくて、一番最初にこの「旧石器発掘捏造」を「事件」として報道した、その一番最初の記事についてである。多くの人はもうすっかりお忘れになっていると思うのだが、実はこの「捏造発覚」の「事件」は、発表のされ方からしてとっても特異な経過をたどっていたのである。
 問題の記事は、毎日新聞社の「大スクープ記事」として11月5日の朝刊に突如報道された。他の新聞社は、夢にもそんなことは考えていないから、この朝刊を見て腰を抜かすほどびっくりしたに違いない。当日の記事はこう始まっていた。

 日本に70万年以上前の前期旧石器文化が存在したことを証明したとして、世界的に注目を集めている宮城県築館町の上高森(かみたかもり)遺跡で、第6次発掘調査中の10月22日早朝、調査団長である東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50)が一人で誰もいない現場で穴を掘り、石器を埋めるところを毎日新聞はビデオ撮影し、確認した。
 毎日新聞「藤村調査団長が旧石器発掘ねつ造」 2000.11.05

 何度読んでも不思議な記事だった。「誰もいない現場で穴を掘り、石器を埋めるところを毎日新聞はビデオ撮影し、確認した」と書かれていたからである。記事通り「誰もいない現場」ならどうして、そんなビデオが撮影されたのか。「誰もいない」のだから、「誰もビデオに撮ることもできない」はずなのに。でも実際は、当日の朝早くに、毎日新聞社の記者が、現場近くの繁みに隠れて、ビデオを回していたのである。と、するなら、記事は「誰もいない」のではなく、「隠しカメラを持ったスタッフが隠れているのを知らない現場で」と書かれるべきだった。事実、当日の新聞の終わりに、こう但し書きがつけられていた。

  おことわり 毎日新聞社は今回の取材に当たり、常時、開放されている遺跡の発掘現場に限定し、あらかじめビデオカメラと写真機材を据えて取材を行いました。考古学研究に極めて重大な影響を及ぼす行為の真偽を確認するには、発掘現場において本人の動静を確実にとらえることが不可欠と判断したためです。 毎日新聞 2000.11.05

 別に、毎日新聞のりっぱな「大スクープ」記事に、つまらない言いがかりをつけようとしているわけではない。どの新聞社も見抜けなかった「最悪の捏造事件」を見事に見抜いたのだから、もちろん誉め讃えられるべきであるし、この「大スクープ」記事がなければ、私たちは、もしかしたら今でもとんでもない馬鹿げたことを「事実」として受け取り、「だまされ」続けていたに違いないからだ。毎日新聞をとっていたよかったと私はこの時思ったものだ。
でも、少しだけ、ほんの少しだけ、この最初の発表の記事を読んで「不思議な感じ」を持ったことだけは、一読者としてちゃんと言っておかなくては思っているのである。
この記事は、スクープもスクープ、「大スクープ」記事なのであるが、そもそも「スクープ(scoop)というのは「シャベルで掘り起こす」の意味から来ているもので、大きなニュースを掘り起こすことを「スクープ」と言ってきた。となると、この毎日新聞の「大スクープ」記事は、「藤村副理事がシャベルで掘って埋めた石器」を「カメラでスクープ(掘り起こ)した」ということになるのではないかと、私は思ったのである。私は何か気の利いたシャレを言おうとしているわけではない。
私の言いたいことは、こういうことである。毎日新聞は、藤村副理事の行動に早くから疑問をもっていて、いつか実体をあばいてやろうとずっと狙っていたという。そして、ただ実体を暴くだけではなくて、その実体を「世紀の捏造事件」として「スクープ」して、読者をアッと言わせようと考えていたのである。だから、この事件を「スクープ」するために、考古学の研究者にも、警察にも、誰にも言わずに、こっそりと、何ヶ月も前から準備をして、2000年10月22日の朝を待っていたのである。おそらく、朝早くから繁みに隠れて待っていたスタッフは、天に祈るような気持ちであっただろう。「頼むから藤村さん、石器をシャベルで埋めてくれよ!」と。彼がシャベルで埋めてくれないと、自分たちがそれをカメラで掘り起こせなくなるからだ。
 けっして事態を茶化しているわけではない。私はここに、人間のどうしようもない性(さが)のようなものを見たように感じてきたからだ。
 どういうことかというと、ここには、似たようなことが起こっている、と思われたからだ。捏造者藤村は、当時民間の考古学研究家として、仕事の合間をぬって、休日も返上し、ほとんどボランティア的に発掘作業に人生を費やしていた。それでも、民間人の業績など、大学の研究者に比べたらほとんど評価されないのが実情だった。いつも、底辺の地道な発掘作業を担当しながら、成果は大学の研究者がかっさらってゆくという、大学中心の研究システム。そんな中で、世間の人をアッと言わせるには「掘り出し物(スクープ)」を準備しなければならなかった。そうして、いろいろ考えたあげく、「掘り出し物の捏造」を考え出すのである。
結局、こういう「捏造」をするのは、世間に自分を認めさせたいがためである。どういう手だてをつくしても、自分が認められる道がないのだとしたら、認められるような出来事を「捏造」してやろうと画策することが出てきても不思議ではない。ここに、私は人間のやるせない性を見た気がしていた。
 私には「捏造者藤村」が根っからの「悪」だったとは思えないところがある。彼が民間の企業の営業で働いている姿をテレビで見たことがある。きつい仕事の感じがした。十分な評価を受けているようには思えなかった。でも、そのきつい仕事の残りを彼はすべて発掘にさいていたのである。そんな中でふと「スクープ」を思いついた。自分でも言っていたように「魔が差した」のであろう。そして、後に引けなくなっていった。そして、今度は、その「スクープ」を「スクープ」してやろうと考えた者たちがいたのである。それも、世間をアッと言わせるための執拗な準備をする中でである。
 むろん、どこから考えても、「藤村のスクープ」と「新聞社のスクープ」は、中味は全く違っているのだが、でも、ある意味ではこの二つのスクープは「どこか似ているんじゃないか」という感じが私にはずっとしてきていた。そういう感じたらいけないのは十分に承知していながら、である。

 2

 もう一つの「捏造事件」は、言うまでもなく「池田小学校殺傷事件」にまつわる宅間容疑者の「精神障害の捏造」問題である。何の力も持たない小学生を、8人も殺害するなんて「正気ではない」と最初は誰もが思っていた。だから、最初の記事がこう書かれた時には読者はやっぱりと思った。

  6月8日午前10時10分ごろ、大阪教育大付属池田小に、刃物を持った男が乱入し、教室や廊下で児童らを次々刺した。1、2年生の児童8人が死亡、教師2人を含む15人が重軽傷を負った。男は池田市在住、無職、宅間守容疑者(37)。「精神安定剤を10回分まとめて飲んだ」と話しており、逮捕時は、薬物による幻覚症状を起こしていた。 毎日新聞 2001.06.08

 この記事には「精神安定剤を10回分まとめて飲んだ」とか、「逮捕時は、薬物による幻覚症状を起こしていた」などとはっきり書かれていた。が、その後の調べで、そういう事実は確認はされていないことがわかってきた。では、という疑問がおそらく立て続けに次ぎに出てくるだろう。もし容疑者が、「正気」だったとしたら、いったいどうしてあんなひどい、非人間的なことができたんだろうという疑問である。「正気ではない」というのなら「わかる」のに、「正気」だったというのなら、どう理解すればいいのだろうと。しかし、その後彼が、自分を「精神障害者」として「捏造」することを心得ていたことが次々に報道されてきた。

 宅間容疑者は、昨年10月に大阪府に精神障害者保健福祉手帳を申請、翌月、交付された。その2カ月後、ダンプの運転中に路上で器物損壊・暴行事件を起こし、担当の伊丹区検の副検事にこの手帳を見せて事件を立件しないよう求めた。
 宅間容疑者の自宅からはさまざまな判例六法、法律学辞典など法律関係の資料が多数押収されており、かなり以前から精神障害と刑事責任能力の関係について研究していた可能性がある。            毎日新聞 2001.06.14

 「精神障害者」ではなかったのだが、「精神障害者」を装い「捏造」していたというのである。これは、どういうことなのか。さらに、宅間は「精神障害者」だけではなく、さまざまな経歴をも詐称、「捏造」していることがわかってきた。「会社社長」や「医師」や「精神科医」のニセ肩書の名刺を作っていたからである。ここに至って、多くの新聞は、宅間に責任の応力のあることをしきりに言い立てるようになっていった。
 確かに、彼が「嘘」をついていて、そのために責任能力があるということになっても、だからといって、彼がなぜあのような無防備な子どもを惨殺しなければならなかったかの理由は、ますますわからなくなるだけなのである。
 でも理解の糸口は、ひょっとしたら、そういう「捏造」ということに中にあったのかも知れなかった。
宅間は、法律の上で「精神障害者」になることで得られる特権を熟知することで、ある場面では身も心も自分を、自分の想像する「精神錯乱者」として立ち振る舞うことに成功していたのではないかと。そうでないと、あれだけのひどい殺戮が平気でできるとは、思えないからである。考えられることは、あの時点で、彼は、まさに心身共に「精神錯乱」を演じ「捏造」することができていたのであると。「捏造」というものがもつ空恐ろしさがここにも見られる。

 3

 こうして今回の題目の「二つの捏造事件」のことを、私は書いたかのように思えるかも知れないが、残念ながらそうではない。私が書きたかった「二つの捏造事件」とは、今書いてきた事件のことではない。もう一つの「二つの捏造事件」のことである。それは、「イエス」が「神の捏造」であったのかどうかという事件と、「天皇」が「神の捏造」であったのかどうかという事件の二つである。ヨーロッパでは「キリスト教徒」と名乗ることで、十字軍や魔女狩りで平然と罪のない人を虐殺することができていた時があった。また戦争中は「天皇」を「神」だと思う人たちが「神の兵士」として、アジア各地で残虐な行為を平然とやっていた時もあった。ある人を「神のしもべ」として「捏造」することができたら、その人はおろらく「神の意志を行う人として」どんな恐ろしいことでも実行できるような気がする。「捏造」の恐ろしさ。
 では「イエス」も「天皇」も、「神を捏造した」ということで問われることはあるのだろうか、と考えることがしばしばある。そして、それについて何か書けたらと思うこともある。けれども現実には、そんな力量が自分にないことにいつも気が付く。そして私にできるのは、せいぜい藤村や宅間のようなやからのひどい「捏造」事件を、「悪い奴の事件」としてしばらく見つめることぐらいやなと感じる。ちょっと情けないですけれど。