じゃのめ見聞録  No,6
  
デジタル・メデイア社会を生きる子どもたち

 『風のナウシカ』のビデオを見終わった娘(小三)が「この話、ホントにあった話なの?」と聞くので、つい「そうや」と言ってしまったと、私の昔の日記に書いてあるのをいつぞや見つけて、苦笑してしまったことがある。子どもとのこういう受け答えには、なかなか微妙なものがあって、馬鹿げているとわかっていても、そういう風にしか、答えようのないことがあるんだと私は思う。
 私自身、小学校4年の頃、ディズニーの『難破船』や『南海漂流』という映画を見て、その後ずいぶん長い間、その映画の世界を「本当にあった話」だと感じて、嫌なことがあるとその冒険とスリリングな話の展開を思い出しては、一人で心を楽しませていたことがあった。
 映像の世界には、「作り物」だとわかっていても、心のどこかで何かしら妙なリアリティを感じてしまうことがある。食い入るように『ドラえもん』のアニメを見ている子どもたちは、それが「作り物」の話であることは百も承知なのに、でも、「ドラえもん」のいる世界に何とも言えないリアリティを感じていることもまた確かだ。その感覚は、自分がかつて「子ども心」に感じていた映画の体験と重ねると十分に納得ができるものだ。そして、そういう不思議なリアリティに救われることがあることも実感できるので、自分の娘にもどこかでそういう体験をしていってほしいと思っていたことは確かだ。
 しかし、このことを「理屈」として理解することはとってもむずかしい。たとえば「ゴジラ」や「ウルトラマン」を見て育った世代が、そういう映像世界の思い出を熱く語るとき、私にはただの感傷には思えないものがある。ところが、今も昔も、親や教師の側には、怪獣映画は町を崩壊することを楽しむ低俗な番組にしか見えないし、「ドラえもん」は「どこでもドア」から空想の世界に逃げ出す現実逃避の物語のようにしか見えてしかたがないところがある。自分がかつて「子ども心」にそういう世界を楽しんでいたにもかかわらず、である。
 「大人」になると、映像の持つ魔力がよく見えてくるところがある。だから「メディア・リテラシー(メディア判断力とでも呼べばいいだろうか)」のようなものをしっかり持つことを早くから若い人たちに求めたいというようになる。メディア社会が、滝のように送りつけるさまざまな一方的な情報シャワーの中で、何が真実で何が虚偽の情報なのか、それを見極められる判断力を身につけることがとても大事だと感じられるからだ。
 そんな中で、でも児童文化を大事に感じる私にとっては、まんまと映像にだまされる体験があってもいいんだということを、心のどこかで強く感じている。一方で「メディア・リテラシー」をきちんと身につけて欲しいと思いつつ、一方で「映像のリアリティ」も生きて欲しいと感じている。この二つの気持ちには、なかなか簡単には両立させられないように私には感じられる。
 だから、というべきなのか、ある時期から「サブカルチャー(裏町文化とでも言えばいいか)」というようなものが注目を集めだした。確かに私たちは、日の目を見る、表通りの文化の中では、人をだます様々な映像文化には十分な批判眼をもって対応して生きなければいけなくなってきているのだが、そういう批判眼を養いつつも、でも、誰も見ていないところでなら、映像にだまされて生きる文化もあってもいいんじゃないという気持ちも持っている。
 私はずっと以前に、ある落語で、高倉健主演の映画を見た主人公が、すっかり高倉健のようになって家に帰り家族に叱られるという話を聞いて大笑いをしたことがあった。でも、そういうことって馬鹿にしちゃいけないよなと、なぜかその時思ったことを覚えている。
 2001年3月31日、「USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)」がオープンしたとき、再びそういうことを考えた。そこにはかつての「E・T」や「ジョーズ」や「ジュラシック・パーク」などの映像世界が再現されていて、「映画」であったはずのものを、再び「現実にあったかのように体験できる世界」が準備されていると宣伝されてきた。確かに、こういう世界は馬鹿げていると私も頭の中では思う。「メディア・リテラシー」の理念から言えばとんでもない世界だ。あれは、外資系映画資本の金儲けの世界に過ぎず、「映像(空想)」と「現実」を混同させる悪しき商売の世界だということで理解しなければならない現象だ。
 でも、人々はそんなことは分かっていてもやはり見に行くのである。そこには、「メディア・リテラシー」ではかたづけられない「裏町文化のリアリティ」の楽しみ方があって、そこにはしぶとい庶民の割り切った「世界のおもしろがり方」があるわけだ。
 私たちは今後ますます高度なデジタル化されたメディアを通して、様々な「現実と見間違える」合成技術の進んだ映像文化と暮らしてゆく子どもたちを見つめてゆかなくてはならなくなっている。それを危険な世界と見ることもできるが、そこにもやはり「表文化」と「裏文化」が感じとられていて、その違いを子どもたちはこれからもきちんと区別してゆくだろうという気はしている。
 私が期待してきたのは、いつの時代でも映像文化が子どもたちに、変化し、変身する力を与えてくれるところであった。たくさんな自分に変化できることは、その人の柔軟性も創るものでもあり、心の財産になるものでもある。「分裂症というのは、むしろうまく分裂できない人のことをいう」のだと指摘していたのは、精神科医の中井久夫さんの名言だった。
 映像文化をたくみに体験できた人は、「表文化」「裏文化」の両方をうまくおもしろがる豊かな感性を身につけたことになると思う。これからの時代で大事なことは、この「表文化(「メディア・リテラシー」を生きる)ことと「裏文化(「サブカルチャー」を楽しむ)」ことの兼ね合いの問題であろう、どちらか一方で事足りるという時代ではない。この二つは、まさにデジタル・メディア時代を飛ぶための二つの翼になってくるのだから。