じゃのめ見聞録  No.5

 「武器」としての「ケータイ」について

        転換期の若者のゆくえ・出会いのかたち
             〜ケータイ文化のなかの喪失と再生の可能性〜
                2001.6.9
                同志社女子大125周年シンポジウム
                村瀬 学
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│ ●「携帯」は「文化」になるのだろうか ●「モバイル、インターネット」へ          
│ ●時代遅れだった「戦艦ヤマト」 ●発信器としての携帯                   
│ ●世代によってケータイの意味が違ってくる ●若い世代のケータイ文化        
│ ●「武器」としてのケータイ ●「一人でいることに耐える能力」について          
│ ●「ナビゲーション」としてのケータイ ●携帯が「文化」になる方向            
│ ●新しい勉強のスタイルが求められるようになる ●情報を組み立て直しできる力を養う
│ ●最後に                                              
└────────────────────────────────────┘


「携帯」は「文化」になるのだろうか
 これからの時代、「携帯」は「文化」になると私は思っています。ある意味では、とんでもない文化になるのではないかと思っています。でも、今ここで使う「携帯文化」という表現には、少しコメントがいります。この言葉は、皆さんが今お使いになっているメールのやりとりする携帯のことではなく、「パソコンから携帯へ」という大きな時代の流れの中で理解されてゆく、これからの特異な「携帯」のことを意味しているからです。
 パソコンからインターネットが作り出されてから、もうずいぶんと時間がたちました。そうした、インターネットをパソコン上でつかうという発想が世界中で当たり前になってきた時代の中から、近年、日本がとんでもないものを作ってしまいました。それが1999年の春に発売された「iモードの携帯」だったのです。これは、携帯でインターネットができるというものでした。これが実は今日の時代の中で、とっても問題になる出来事だったのです。その現象を「パソコンから携帯へ」と呼ぶのですが、この時の「パソコンから携帯へ」というのは、「移動するコンピューター」を「携帯」として使うことができるようになってきたということを意味しています。そして、そういうことを日常的にしはじめる世代が出現してきた、ということがこれから大きな問題になってくるのです。

「モバイル、インターネット」へ
 移動しながらインターネットをする。そういうことができる携帯を「モバイル、インターネット」と言います。「モバイル」とは英語で言うと「モービル(mobile)」のことで、「移動する」という意味のことです。ですから、「モバイル、インターネット」というのは、「動きながらのインターネット」ということになります。つまり、どこかの部屋に固定されたパソコンを使ってインターネットをするというのではなくて、動き回りながらインターネットする機械を日本が作り出してしまったということなのです。実はそれが今世界で大変な関心を呼んできています。
 そういう「モバイル、インターネット」の「携帯」を、日本が世界に先駆けて作ってしまった。アメリカなどは、それができなかった。なぜそれが出来なかったのかというと、パソコンとインターネットは常に連動されていたからです。パソコンの中核の部分を作っていたのは、アメリカのインテル社やマイクロソフト社などの巨大な企業なんですが、そういう会社が動き回りながらインターネットをする機種を作ろうとすると、コンピューターを小さくしようとする発想しかとれなかったのです。でも、コンピューターをいくら小さくしようと思っても限度があります。なぜかというと、コンピューターからインターネットに接続しようと思うと、まず起動する時点でパソコン内のソフトが動くような動作環境を立ち上げないといけないからです。そうしないと、インターネットに接続できなかったからです。ですから、いくらパソコンを小さくしようとしても、そういう環境を立ち上げるための機械の分量がけっこう必要になっていたのです。それでパソコンを小さくするにも限界があった。
 ところが日本の会社は、パソコンを立ち上げないで、いきなりインターネットに接続する機械を考えた。それが「iモード」とよばれる「携帯」だったのです。それはただ会話をするための、つまり携帯電話としての携帯ではなくて、映像や大量の情報をやり取りするインターネットを、動き回りながらやってのけるという意味での携帯です。日本はすでに動き回りながら何かをするということを「ウォークマン」などで実現してきていました。動き回りながら音楽を聴く。それが今度は、動き回りながらインターネットをするということを実現させてしまったのです。
 そういう携帯で本格的なインターネットをする「次世代のケータイ」が発売されるのが今年の秋からです。これによって、おそらくいろんな社会現象の変化が起こるでしょう。ですから、もし来年の今頃シンポジウムをしていたら、また今と違った反応が起こっていたんではないかなと思います。ですから、まだ今みなさんがお持ちの「携帯」で「文化」というものを産むところまでは至っておりません。しかし今年の秋以降から発売される「携帯」は、「話す携帯」から「使う携帯」ということで、大きな「文化」にもなる可能性を秘めているのです。でも同時に、大きな「危険」をもたらすものにもなる可能性もでてきています。そこが怖いところです。

時代遅れだった「戦艦ヤマト」
 先日NHKで戦艦ヤマトの特集をやっていました。終戦間際に作られた巨大な戦艦、日本の高度な技術を全部投入して作られたその巨大な戦艦が、ほとんど出陣することなく撃沈されてしまいました。優秀な技術を駆使して作られた戦艦でしたが、たった一つ搭載しなかったものがありました。それがレーダーだったというのです。世界一の巨砲を何本も搭載していたのですが、そういう大砲を打つために、乗組員は目で測って発射していたというのです。よく訓練された射手が目測で標準を合わせて大砲を打つ。しかし時代はすでにそういう時代ではなかったのです。レーダーというものがアメリカで開発され、すでに小さな戦闘機にもそれが積み込まれていました。どこに敵がいるのか、すべてレーダーで遠くからわかってしまう時代に入っていたのです。そして、その小さな戦闘機の抱えていた爆弾で、巨大な戦艦ヤマトが沈没させられてしまいました。時代は、「戦艦」という大きな動きの取れないものから、「小さな戦闘機」へと変わっていたんですね。これがまさに今の時代に似ているように私は思います。「パソコン」という動きの取れない「戦艦」から、「小さな戦闘機」としての「携帯」に移行している、そういう時代に入っているんではないかと。そういう現状認識が私たちの側にあるかどうか、ということが、今とっても大事だと私は思っています。

発信器としての携帯
 「携帯」というのは、「発信機」です。無線みたいなもんです。線無しで誰かと通信するわけですから。そういう無線は軍事産業の中で生まれたものでした。軍事的なものであるだけに、それは人を傷つける可能性を根本に持っています。
 この間京都で、女子大生やOLの方がメル友に殺された悲しい事件がありましたね。この事件は、携帯の使い方を間違えたから起こったというような事件ではないと私は思っています。携帯を持つということは、すでに「武器を持つ」ということだったからです。この認識はとっても大切なことで、しっかりと理解していってほしいところだと私は思っています。
 なぜ「携帯」は武器になるのでしょうか。梅雨の季節、田んぼの中の蛙がケロケロなきはじめますね。蛙が鳴くというのは、自ら声を発信をしていることです。鳴き声を発信するということは、「私がここにいる」というのを誰かに伝えることです。メスとオスがお互いの居場所を伝えるために、そういうことをしているわけです。発信をしないと自分の居場所をわかってもらえない。ところが発信する側は、ただ「私は発信した」と思っているだけなのですが、逆にいうと「誰かに自分の居場所を突き止められる」ということでもあるのです。ですから、何かを発信しつづけると、ずっとその人は追跡される可能性が出てくるのです。携帯は「発信機」であると同時に「追跡される機械」になってしまうのです。
発信機としての機能の利用がイギリスでも問題になったことがありました。性犯罪を何度も犯す人たちに発信機をつけて、その人が子どもたちのいるエリアに近づくと、監視してる人が警告音を鳴らす、というものです。彼につけられた発信器が、彼がどこに居るのかを絶えず監視チェックしているからです。でもそれはゆきすぎじゃないかと、と問題になっています。あるいはまた、徘徊老人に携帯をつけておいて、迷子になったとき、どこにいるのかすぐにわかるようにする試みも出てきています。そういう意味での、携帯が発信機であるという機能が、逆にこれからさまざまな風に利用されはじめてきているんですね。

世代によってケータイの意味が違ってくる
 ところで携帯というものを考える時には、十羽一絡げに携帯を持っている人のことを考えるのではいけないと思います。まず、どうしても自分を発信をしないと気がすまないという世代を考えないといけないでしょう。十代や二十代の、友達や異性を激しく求める世代が展開するケータイ文化がまずあるからです。そして、それ以外に、実務的に、戦略的に、ビジネスとしてあるいは政治として「携帯」を使おうとしている中年の世代のケータイ文化があると思います。そして今後は、老後の楽しみとしてそういうケータイを使う世代が出てくるにちがいありません。少なくともそういう世代間の区別は立てて理解してゆかなくてはならないと思います。
 ですから、世代の異なるもの同士が、ケータイを交えてくると、本当に友達を求めている人が、ビジネスや犯罪の目的やターゲットにされることも出てくるのです。少なくとも、発信するものがどこにいるのか、ということが、犯罪に利用されるような状況がたやすく生まれてきているのは事実です。発信をすると、追跡されて、どこにいるのか、居場所が突き止められてしまうのです。それが危険な状態になる可能性が出てきているのです。
 田んぼの蛙は、私たちが近づくと鳴くのをピタッと止めてしまいます。いつまでも鳴いていると、「自分の居場所」が「敵」に知られてしまうからです。「敵」に知られないためには、蛙は発信するのを(ケロケロ鳴くのを)止めないといけません。
 ところが、十代や二十代は、発信したい要求を抑えることができません。それで発信し続けます。しかし、発信し続けると「敵に知られる」んだということを、これからはもっと考えていかなければなりません。また、学校でもそういうことを早くから教えてゆかなくてはなりません。そういうことに関係する出来事が、世界の各地ですでに問題になり始めています。日本でも先日、携帯を発信機代わりに利用する事件がすでに起きました。携帯を車のどこかに取り付けて、車の持ち主が人気のないところで降りたときに、その車の所在をキャッチして車を盗む、というような手口の犯罪です。

若い世代のケータイ文化
 くりかえして言いますが、「私がいること」を誰かに切実に伝えたいと思っている人たちがいます。若い十代の人たちは、ひとりでいるのが辛い時期ですから、つねに自分を発信しょうとしています。誰かが新聞で書いておられましたが、現在、花粉症の元になるスギ花粉が何故こんなに多いのかというと、あれはスギが精子を大量に振りまいている現象なんですと。つまり都会周辺では、スギがどんどん伐採されていくから、スギは存在の危機を感じて、子孫を残すために更に多くの花粉をふりまこうとしているのだというのです。杉も発信しているのだと言えるのかも知れません。たくさんの異性と出会おうと思うと、たくさん発信しないといけなくなりますからね。今の十代や二十代の人は、なかなか友達が出来ないと言われていますから、スギ花粉のように大量にメールを発信するような面が出てきているんじゃないでしょうか。でも、発信をすることで誰かと知り合い、繋がりをもつという側面と、「敵」に自分の居場所を知られるという危険な側面をもつことの二つの面があります。そして、この二つ目の面を悪用しょうという者に捕まる可能性もそこから出てきているのです。

「武器」としてのケータイ
 そういう意味では、携帯を持つこと、携帯から何かを発信することは、社会の中で、「敵」に向かい合うということでもあるのです。つまり、ある意味では、携帯を持つことは、社会の中で、武器つまり剣や刀を持った「戦士になる」ということにもなっているんです。
 もともと、古くからナイフや刃物のことを「匕首(あいくち)」と言ったりしてきましたが、この「あいくち」というのは、元は「合う」「口」という意味で「合口」と書いてきました。相性がいい間柄を「合い口がいい」と言ったりしてきたのです。でも、「出会い」というものは、いつも相手との相性がいい時ばかりではありません。うまく出会いないときはその出会いは、とっても危険なものになる場合があるのです。最悪の場合には、殺されることになることも起こります。その場合の出会いは「合口」ではなく、まさに「匕首」の方になるのです。まさに「あいくち」という出会いの形が、方や相性のいい間柄をイメージしつつも、もう一方で、とっても恐ろしい刃物のイメージを持っていることは、忘れてはならないことだと思います。
携帯のもつこの「二つの面」、つまり「親和的な面」と「敵対的な面」は、ある意味での「戦場」での「兵士」と「看護婦」のような、両方の面を持っていると言えるかも知れません。戦いの最中で、癒しを与えてくるのが看護者や看護婦だとしたら、まさに携帯を通して、友達や恋人に絶えず連絡を取って「癒し」てもらっている人たちは、そういう看護の側面を使っているのでしょう。しかし、「女子大生OLメル友殺人事件」のように、出会いが危機にすり替わることも起こります。「ケータイ文化」には、これからもつねにそういう二面性が働いてゆくことを忘れてはいけないんだと思います。

「一人でいることに耐える能力」について
 ところで、話は少し変わりますが、携帯を持ち始めた若い人の中には、四六時中、誰かと連絡を取っていないと不安だという人が出てきます。神戸大学の精神科医の中井先生は興味深いことを言われています。「精神分裂病」にならないための能力の一つに、「一人でいることに耐える能力」がある、と。中井先生は、「一人でいることに耐えること」はとても大事なことなんだとおっしゃています。これは、「私」を「知らせない」ということも大事なことなんだということではないでしょうか。発信しない時間(私を教えない、私を知らせない)をもつことも大切なんだということですね。
 1980年、1990年代に、「私探し」というテーマで本が多く書かれました。「私」がどこにいるのかわからない、「私」の「居場所」がわからない、そんな感じが広がった世相の中から「携帯」で連絡し合うことが始まりだした。ベル友やメル友の流行がそのはじまりでした。そうしたメル友から、これからは「iモード」の携帯を使ったやりとりがはじまります。
 「iモード」 の「i」 は「インターネット(Internet)」、「インタラクティブ(interactive=双方性)」、「インフォメーション(information)」、の頭文字の「i」をとっているんだと言われています。
 問題は、この「インタラクティブ(interactive=双方性)」という機能の方でしょう。発信が同時に発見されることにつながるのですから、関係はつねに双方向的です。これは、良い面もあれば、危機につながる面もでてきます。たとえば、これからの若いカップルの間では、私が懸念するような事態が起こってくるのではないでしょうか。それは「自分がどこにいるのか」「あの人はどこにいるのか」ということが、お互いにわかるシステムが進展すれば、恋人にそういう携帯をもってもらうことで、相手の所在が常に気になるということが起こってくるような気がするからです。いつも追跡できるから、相手がどこにいるのか、ずっとチェックしたくなる。今までのカップルでは、そういうことをしないでも良かったのに、こういう追跡ができるカップルの世代では、相手がどこにいるのかがすごく気になってしまう。こういうことは、いいことなのか、私には疑問に感じられるところがありますね。

「ナビゲーション」としてのケータイ
 また、自分のことが常に誰かに知られているという状態も、気になります。ある意味では、これは軍事的な状況に似ているからです。それは誰かの監視下というか、支配下におかれるという状況でもあるからです。それを良しと考えるのかというのは問題です。
 私がどこにいるのかがわかるような仕組みを「ナビゲーション」と言ったりもします。「ナビゲーション」とは航海術とか誘導システムというような意味で、航海士や誘導される人のことを「ナビゲーター」と言ったりしてきました。私がどこにいるのかわからないことが気になる世代にとって、携帯がナビゲーションの役割をしてくれることになると、助かります。そして「あなたはここにいるんですよ」といつも教示し、指示してくれるような機能が携帯に出来てくると、ついそういう見方にどんどんと引っ張ってゆかれる可能性がでてくるでしょうね。
 そういうことが、「宗教の問題」として出てくると、ある意味では「危険なこと」が出てきます。「あなたはここにいるんですよ」っていうことが、まるですべてをお見通しのように教えてくれる存在が出てくると、ああそうなんだと、妙に説得させられる人たちも出てくるわけです。「私はどこにいるのかわからない」と思ってたのに、携帯を見たら「あなたはここにいるんですよ」言ってくれる人がいる。そして、「ここへ来たらもっとすごいことを教えてくれる」とも言ってくれている。ちょっと行ってみようかな、そういうふうに誘導されてゆく可能性も出てくる。かつての「オオム真理教」は、早くからパソコンやインターネットに力をそそいでいました。その理由もその辺のところにあるでしょう。ある意味では、こういうカルト的なものへの誘導も、ひとつの軍事的な使い方なんですね。

携帯が「文化」になる方向
 さて、携帯の持つ「マイナス面」ばかりを意図的にお話ししてきたみたいになっていますが、もちろんそんな悪い面ばかりがあるわけではありません。「文化」になる方の面、つまり「プラスの面」についてもお話しなければなりません。
 「次世代携帯」が今年(2001年)の秋に発売される予定です。これは今皆さんがお持ちの携帯とは機能が全然違います。高速で大量の映像と情報が、携帯を通してやり取りできることが、この携帯から始まるからです。今でも、「iモードの携帯」では、インターネットの機能を使って、ニュースやテレビの情報、企業の動向などがわかりますし、銀行の振込み、クレジットカードの引き落とし残高の確認、保険の加入、チケットの予約、旅券の調達、宿泊先予約、交通渋滞のチェック、スポーツやレジャーの検索、書籍の注文 などができています。今でもそういうことはできているのですが、速度は遅いし、動く映像のやりとりなどは、まだまだできておりません。ところがそういう大量の情報のやりとりがもっと瞬時にできるようになるのが、秋からの発売になる「次世代携帯」なんです。「携帯」が「文化」になるかどうかは、この「次世代携帯」の普及にかかっているのです。そこがポイントです。

新しい勉強のスタイルが求められるようになる
 「次世代携帯」が普及するようになるとどういうことになるか。例えば授業中に先生が「たんぱく質は」と言って黒板に書こうとすると、学生の方は、机の下で「次世代携帯」を使って「たんぱく質」を検索すると、黒板での先生の説明より早くにカラーの動く映像を交えて、大量の情報を得られる、というような事態が起こってきます。そういう事態が来ると「勉強する」ということがどういうことなのか、先生が黒板を使って教えるということがどういうことなのか、あるいはわざわざ学校や大学へ行って、黒板を前に勉強するということがどういうことなのか、というようなことが激しく問われるようなことが起こってきます。そういうことが予測されます。また予測されなくてはなりません。
 おそらく若者は、今後新しい勉強のスタイルをもたなくてはならない時代に入って行くのではないかと私は感じています。もちろん、それに応じて、教師の方も「教える」とスタイルと、どこかでしっかり考え直さないといけない時が来るように思います。「携帯が文化になる」というのは、じつはそういうところなんです。動き回りながら、机の下ででも、世界中の最新の情報が瞬時に手に入れられる。先生も知らないような情報を生徒があっというまに手に入れることができるようになる。

情報を組み立て直しできる力を養う
 おそらくそういう状況を利用して、これから新しい文化の創造ができてくることになるのではないかと私には思われます。でも気になることがないわけではありません。いつでも、どこででも大量の情報が手に入れられるようになってきたら、ひたすら情報の渦に巻き込まれて沈んでしまうだけになるかもしれません。情報を受け取ることはできても、それを適切に扱うことはとても大変なことになってきます。それこそ情報のナビゲーションが必要になってくるんですね。これからの時代は、情報が手に入らない時代ではなくなって、むしろ情報が大量に手に入りすぎて、その中で道を見失うようなことが起こってくる時代になるんですね。だから、情報の渦の中で、情報の真偽を見分けたり、不必要な情報を早く排除したり、大事な情報をうまく組み合わしたり、そういうことがしっかりできるような勉強の仕方が求められてゆくように思われます。そういうナビゲーターにならないと、不必要な情報にいつまでも振り回されているようなことが起こりかねません。
 先日、小泉首相が党首討論で、「日本は三段階目に入った」と言ってましたね。「一段階目は明治維新で、2段階目は終戦、そして三段階目が今である、今が新世紀維新なのだ」と。ある意味では、そういう面が出てきていることは間違いないように私にも思われます。しかし、その維新の可能性は決して手放しで喜んでいいものとは言えません。先ほどからくり返して言っておりますように、危険も伴っているからです。

最後に
 生き物は自分のことをいつもいつも相手に知らせるわけではありません。「擬態」というようなものもあるように、自分の所在を隠したり、ニセの姿を見せたりしながら、「敵」を欺くことも含めて、生きています。ガラガラヘビは、しっぽの方をガラガラさせて、しっぽの方に自分の所在を意識させておいて、そっちの方に相手が気を取られている間に、頭の方は違う動きをして攻撃するというところにあります。要するに偽の自分の位置の情報を与えながら、生き物は生きている面もあるんですね。「ニセの自分」というか、「クローンの自分」を作っておいて、本物の自分の身を守るというようなことを生き物はしているんです。
 ある意味では、私たちも、親しい人には自分の所在はきちんと知らすけれども、見知らぬ相手には、自分の所在を簡単に知らせてはいけないのでしょうし、「自分は簡単には見つからないぞ」というような態度も自覚しながら暮らして行くことも必要になってくるのではないでしょうか。


 追記(2001.6.20記)
 小泉首相からの「メールマガジン」が発刊されて、メールの送付を希望する人が100万人を突破したというニュースが6月14日流れました。これは、「メールマガジン」を希望する人が、首相官邸のアドレスに、自分のアドレスを登録することで、そのマガジンを無料で送ってもらうというものですが、まさに、こういうシステムがこれからの時代の仕組みになってゆく見本のような出来事だと私は感じました。ここで、くれぐれも注意していただきたいことは、そういうふうに簡単に「首相官邸の情報を手に入れられる」と思っている裏で、実は、首相官邸のアドレスに、自分のアドレスを登録することで、「自分の居場所」を相手に知らせていることにもなっているということなんですね。つねに状況は双方向だということです。もちろん「メールマガジン」を手に入れることを悪いことだと言っているわけではありません。そうではなくて、双方向に機能するシステムの中では、決して関係は平等には働かないということです。システムをコントロールできる立場の方が、つねに自分に有利な方に双方向を使うことができるからです。そこには必ず立場の優位な方の誘導システムが働いてゆくのです。「誘導システム」はつねに「武器」として作動しているんだ、という私の主張を思い出してください。そのことにはくれぐれも注意をしておいていただきたいということを私はここでも言っておきたいと思います