じゃのめ見聞録  No.3

  「長野県庁、知事名刺折り曲げ事件」を考える


 嫌な「事件」だった。2000年10月26日、長野県庁に初登庁し、名刺を配りながら各部署に挨拶回りをしていた田中新知事に対して、企業局長が、なれなれしく進み出て、「あんなふうに」対応した事件のことだ。以下は、テレビのビデオ取りから、「あの時」の会話を村瀬がそのまま再現した。カッコ内は村瀬の補足である。

藤井企業局長 「知事ねぇ、これ自分の部下と同んなじなんですからねぇ。
会社でいうと(あなたは)社長ですよね。 社員に名刺を渡す会社は倒産する会社ですよ。」
田中知事 「私は、まぁ私のEメールアドレスも書いてありますから・・」
藤井企業局長 「ああ、そういう意味で・・」
田中知事 「社員に名刺を渡す会社は、倒産する会社になるのですか?」
藤井企業局長 「そういう会社は、倒産する会社ですね」
田中知事 「なぜでしょうか?」
藤井企業局長 「自分の部下であるにもかかわらず、社長である自分を知らない社員しかいないということですから」
田中知事 「そうでしょうか?」
藤井企業局長 「そういうことです」
田中知事  「じゃぁ、まぁ、私は私なりのということで、どうぞ、お受け取りください」
藤井企業局長  「これは(と言いながら、メールアドレスの所で折り曲げながら)、ないことにさせていただいてよろしいですよね(と、折った名刺をしごく)」
田中知事  「もちろん結構でございます。あなたのお考えですから」


 新知事が行ってしまった後、記者とのやりとりの中で、藤井局長はさらに声を荒げて、べらんめい口調でこうまくしたてていた。

 「知事ってぇ名刺持つことはないって、そこなのよ、俺の言いてえのは。ふざけるなって。だって、知事になったことは、みんな知ってるじゃないの。しかも、3回もあいさつに来てよ。それでもって私は知事でございますって、あいさつしに来て、どうするんよ。自分のやってることと、言ってることが、行動で一緒でないと困る。」

 これの映像が、その日26日の夕方から夜のテレビで流れ、翌日のニュースやワイドショウで流れたものだから、えらい騒ぎになってしまった。数日間でゆうに1万件の苦情電話が殺到し、職員は日曜返上で電話の応対に当たり、仕事にならず、てんやわんやの大騒動。なんてえことをしてくれたんだ!と同僚からも悲鳴が上がる。
当の、藤井局長は、反響の大きさに、すっかり意気消沈。あの威勢良さや、べらんめい口調もどこへやら、神妙な面もちで、記者の前で小さくなって釈明の会見。それから、カメラの前を逃げまどう。そして、30日、辞表提出。知事と並んで記者会見。知事はにこやかに留任を進めたことを報告。よおっ、田中知事、一本勝ち!
 と、まあ、この「長野県庁、知事名刺折り曲げ事件」とまで命名されてしまったこの「事件」を、繰り返しテレビで見ながら、視聴者はいろんなことを感じたことと思う。長野県民であれば、あれこそが今までの長野県政の象徴のような言動で、威張り腐った官僚や、高飛車な役人の姿をまたもやまざまざと見せつけられたと感じた人は多いだろう。長野県民でない人なら、少なくとも、事情がどうであれ、人からもらった名刺を当人の目の前で二つに折るなんて失礼なことは、尋常な神経ではできないと感じたのではないだろうか。目を疑うというか、神経を疑うというか、あっけにとられてあの映像を見ていたに違いない。(カンコーヒー「ボス」のコマーシャルを想起した人もいるかもしれない)。
 ただええカッコをしたかったのか、行政にド素人の青臭い文学者にガツンと一発かましてやろうと意気込んでいたのか、旧県庁の職員魂を見せつけたると使命感に燃えていたのか・・・。
しかし、期待は見事にはずされてしまった。思わぬ展開に県庁は色めき立ち、企業局長は顔色がどんどん変わっていった。あんな非常識な役人はやめさせてしまえ!という大合唱が起こるのは、時間の問題だった。


 2

 この「事件」からいったい何が見えてくるのだろうか。あるいはこの「事件」から何を見て取ればいいのだろうか。この非常識な藤井局長の態度は、自分がもしそういう対応をされたときの不愉快さを想像しても、許せないものがあると思われるが、しかし、そういう不愉快さをここで、言うのはあまり賢明ではない。(俺なら殴ってやるとか、辞表を出したんならさっさとやめちまえと東京都石原知事が言っていたが)そういう次元での受け取りをしている内は、藤井が悪い、知事が可愛そう、という図式にはすっぽりまってしまう。
 私個人は、この藤井局長のとった態度は「最低の許し難い態度」だと思っているけれど、「事件」の流れの全体から見たら、もっと違う面の方が気になってくる。それは、この企業局長が、「戦う相手」を甘く見すぎていたということについてである。
 この局長は、確かに、新知事を青二才と見なして、小馬鹿にしていた節がある。最初にガツンとやっておけば、相手はビビルだろうし、県庁の管理職に一目置くようになるだろうと、高をくくっていたんだろうと思う。彼は、自分の相手にする「田中康夫」という男の恐ろしさを、あの時全く量り損ねていたのである。
「田中康夫」という男のどこが恐ろしいのか。それはこの男がマスコミを使うことを誰よりもよく心得ているというところにある。マスコミをバックにもった男とケンカをすることほど、不幸なことはない。そういう現実が見えていなかったことが、この閉じられた県庁にしかいなかった管理職の悲劇の始まりだったのだ。彼の悲劇は、自分の言動が、自分の味方の取り巻きの中で発せられるものと思いこんでいたのだが、実はそれは違っていた。彼は田中新知事の前で啖呵を切ったつもり居たのだが、実は彼はカメラの前で、日本中の視聴者の前で大見得を切っていたことを、全く計算できていなかったのである。(この辺がカンコーヒー「ボス」のコマーシャルにそっくりだから笑わせる)。
 ところが、田中新知事ははじめから、そのことをわかって動いていた。巨大な県庁の中で何か不穏なことが起これば、それが日本中に流れて、うまくいけば全視聴者を自分の味方にすることができるということを知っていた。だから、彼は知事就任の1週間は、ずっとマスコミを連れて歩いていた。最初の局長会議も、マスコミ公開でやった。はじめてのことらしかったが、効果はてきめんだった。その席で「非情に腹が立った」と発言した局長も待ってましたとばかりマスコミの餌食になった。彼ら長野県庁の管理職は、マスコミの前ではどういうふうにしなければならないのか、全く「お勉強」するひまもなく、「公開会議」に出席させられて、ああいう醜態を次々に見せてしまうことになった。田中新知事の思うつぼだった。彼はきっとそういう展開になることも踏んでいたに違いない。そこがこのマスコミ慣れした都会人間・田中康夫という男の恐ろしいところだったのだ。
 彼は、事件の後、にこにこ顔で、藤井局長の辞表を保留し、次ぎにその辞表を片手でひらひらさせて、会見した藤井局長の上司、飯沢公営企業管理者の「辞表公開の仕方」をマスコミの前で詰め寄った。これでまたもや1本勝ちだった。飯沢公営企業管理者のマスコミ対応の仕方が間違っていることは明らかであった。
 作家・田中康夫は、今までいろんな角度からマスコミで持ち上げられたり、攻撃されたりする「マスコミ戦歴」をもっている。マスコミの裏や表は知り尽くしている。だから、彼が長野県知事に立候補したときも、マスコミのバックがあれば「1匹」でも戦えることを実感としてよく知っていたのであろう。そして、現実に知事になったときも、これからまさに巨大な長野県庁の中で自分を支える基盤が何もないことは百も承知だった。そのとき何が「味方」にできるかと言えば「マスコミ」しかなかったのである。後は、県庁側の「失態」が出てくれば、自分が手を下さなくても「マスコミ」が「餌食」にしてくれるだろう、と。
 事実、あの「名刺折り事件」はあれからいったい何回放映されただろう。朝のワイドショウ、昼のワイドショウ、夕方のニュース、夜のニュース、一日4回、それが5チャンネルで、一日20回、それが毎日のように放映される、1週間で140回、全国の人が、たった1回の出来事を、これだけ繰り返し見せつけられるのだから、視聴者側の怒りも日に日に増幅されざるを得ない。たとえ、自分の蒔いた愚かな種だとしても、これだけ自分の醜態をくり返し全国に放映されるなんて、藤井局長は夢にも思わなかっただろう。「醜悪」なことは、「マスコミ」を通過すると、これでもか、これでもかと、放映される。「マスコミ」は「醜態」を一番好んで食べる「怪物」なのだから。そんな「怪物」を「怪物」と知らずに、「醜態」という「エサ」を自ら与えてしまった藤井局長の悲劇は、これから「公の仕事」にたずさわるものにとっては「他山の石」とすべきである。
 私も、今回の事件は、単なる「名刺折り事件」なんかではなくて、「マスコミを利用した知事の初仕事」として理解すべきであり、マスコミをはさんで仕事をするものたちの構造が問われた事件であり、マスコミを通して政治を見る視聴者の構造がよく見えだした事件でもあると、感じる。