じゃのめ見聞録  No,25

アザラシ・タマちゃんの夏 

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2002年8月7日、東京の多摩川で発見されたアゴヒゲアザラシ、「タマちゃん」と呼ばれ、人気者になる。この夏が過ぎたら、すっかり忘れられてしまうであろうこの「タマちゃん騒動」について、私の感じた少しのことを書いておきたい。
私は前回「いのちを大切にする」ことを教える教育について疑問を投げかけておいた。河合隼雄氏が中心に作られた小中学生向けの道徳副教本『こころのノート』4冊には、これでもかというほど「生き物のいのちを大切に」が書かれている。ふだん給食でエビの天ぷらやトンカツを食べさせておきながら、何が「いのちを大切に」なもんか、偽善じゃないかと書いておいた。生命体が根源にもっている「他の生き物を食べて生きる」という真実を度外視して、「いのちの大切さ」だけを教えるのは、きれい事をいうだけの人間を作り出そうとすることで、私はそんな教育はやめてほしいと思っていることを書かせてもらった。そんな「いのちを大切にする」ことを教える教育が好きではない私にとって、今年の夏の「タマちゃん騒動」はどう見えるのかと、ということについて少し書いてみたい。
こういう見物人が押しかける動物がらみの「騒動」は、過去にも何回もあった。羽に矢が刺さったまま飛んでいる「矢ガモ」事件とか、海岸に打ち上げられたくじら事件だとか、あるいは耳を切られたり、足を切られたりする、うさぎや猫や犬の話題もマスコミをにぎわしてきた。生き物にひどいことをするような光景が報道されると、「いのちを大切にする」ことを教える教育がちゃんとできていないからではないか、と決まって古い大人や学校の先生たちは考えてきたんではないかと思う。だから『心のノート』を作る必要があったんだと。
 むろん、こんな心配や懸念も、どこか「偽善」じみていることは、うすうすわかっている。事実、教室にゴキブリが出たら親のかたきに出会ったみたいに先生たちは追い回して、スリッパでパシッってつぶしてしまうのではなかったか。それ以上に、田畑や森林を荒らすようになった猿の集団、狸や猪や熊の出現、鹿の増えすぎ、都心に渦巻くカラスやハトやインコなどの繁殖。「いのちを大切に」「銃で撃たないで」の結果、空砲や花火で追い散らしたりするわけだが、異常気象で山に食料がなく里に下りてきているのに、銃で撃ちはしないものの爆竹で山へ帰すのは、「食い物のない山であんたらは死んでおいで」と言ってることに等しい。これを「殺さないで山に帰す」などとキレイに言い換えているだけではなかったか。
 こんなことになる大きな原因の一つに、「心優しい」「いのちを大事にする」人たちが、里に降りてきた動物に「餌付け」をするようなことをしてきた経過も関係している。だから、今になって野生の動物に「餌付けをしない条例」などを作っている市もでも出てきている。
となると、今回なぜこの通信で私が「2002年夏のタマちゃん騒動」を取り上げようとしているのかということになってくる。「タマちゃん騒動」は、あまりにも「馬鹿馬鹿しい」と見えるのではないかと。でももしも、私がこの夏の「騒動」をそんなふうに馬鹿げたものとして見ているだけなのなら、わざわざここで取り上げたりはしないだろう。そうではなくて、逆に私は2002年夏のこの「タマちゃん騒動」をとっても興味深く思ってみていたのである。「いのちを大切にする」ことを教える教育が嫌いなのに、「タマちゃん騒動」を、好感を持って見ていたのである。いったい、どうなっているのか。
夏の間、テレビをつけると、いやでも「今日のタマちゃん」というようなコーナーが初っぱなに出てきて、見ないわけにはゆかないということもあった。その「コーナー」で、見物人が口々に言っていたことを拾ってみると、こんなふうだ。
「タマちゃんかわいい」「丸い目がチョーかわいい」「寝そべったり、寝返りしたりしている姿が何とも言えず愛くるしい」「姿が見えるだけで何かほっとする」「どこかにいかないで、いつまでもここにいてほしい」「騒ぎ立てないで、そっとしてあげてほしい」「朝早くから来てづっと見てるんですよ」「遠くの市から見に来たんですよ」「餌があるのか心配だ」「痩せてきているのではないか」「川の水が汚いのではないか」「仲間がいないのはかわいそうだ」「あんなふうに悠々自適にのんびりと暮らせたらいいなあ」「夏休みの絵日記にかいてるところよ」「仲間のいるところに帰してあげて欲しい」「捕獲して海に帰してあげるべきではないか」「役所のどこが捕獲する権利を持っているんだ」「捕獲なんて言わないで保護といってほしい」「タマちゃんアイス・タマちゃんTシャツが売れてうれしい」などなど。
タマちゃんの姿が見えるか見えないかわからないのに、わざわざ遠くから見に来て、ほんのわずかでも見えたら歓喜をあげて「見えた見えた」と一喜一憂して喜んでいる人たち。近くの動物園にいきゃ、なんぼでも見えるやろが!と思うのだが、後から後から見にやってくる。いったい、ここでは何が起こっていたのだろうか。
わたしは、こういう一見馬鹿馬鹿しいような人々の反応を、「いのちを大事に」をモットーにしている人たちの反応のようにとらえるべきではないと思う。
私は「一匹の動物(一本の花でもいいが)をじっと見つめてしまう」ことによって起こることの中に、大事にせざるを得なくなるものが現れるんだと思っている。特にそれに名前がつけられたりすることによって開いてしまうしまう奇妙な次元があるんだと思う。それを「擬人化の次元」と言ってしまっていいのかよくわからないが、私はとりあえずは「じっと見つめる事で開いてしまう次元」と呼んでおきたい。私は、こういうふうにして開いてしまった次元を、それ以外の次元に一般化させないというか、連動させずに、そこだけのいわば期間限定つきの世界として見つめてしまう眼差しがあるんではないかと思っているし、あってしまうものなのではないかと思っている。。
 たとえば、「矢の刺さったカモ」「氷に閉ざされて動けなくなったクジラ」「多摩川のタマちゃん」、こういう「たった一匹の生き物」の様子、あるいは救出劇をハラハラしながらじっと見守るというのは、庶民の感覚からするとなにかしら健全なのだ。普段は、カモ料理やクジラの照り焼きやアザラシの毛皮を欲しがる人たちが、こういう場面ではとっても「心配」する方に回る。「おかしなこと」だと思われるかも知れないが、そういう庶民の反応は、けっしておかしなことではないのだと思う。そこに特別な「いのちを大事に」の思想が介入しているわけではない。
ペットも同じことだ。泥にまみれた汚い子犬が、子どもに拾われ毎日見つめられ、さらに名前がつくと、それはもう家族の一員になる。他にも汚い犬が公園や河原にいっぱいいるのに、なぜこの犬だけをかわいがるの。他の犬はどうしてくれるの。こういう、なんでそうなるの、という疑問にうまく答えられる人がいるとは思われない。そんなことはほんとに「おかしな」ことだからだ。
つまり生き物一般を見て、それらのすべての命を大事にするというのではなくて、私が今「じっと見つめてしまう生き物」が大事になるということは、やはり起こりうるのだと思う。それは、特別に開かれる次元であって、そこから一般化できないものが生まれてくるのではないか。
 「タマちゃんの姿」を求めてどこまでも走ってゆく一般のミーハーの庶民も、もちろん「いのちは大事」と思っているけれど、夜になると焼き肉や焼き鳥に舌鼓を打つ。その矛盾を一般の人はよくわかっている。だから普通に生きる人には、「いのちが大事」などという絵空事は言わないようにしているんだと思う。ところが、こういう「矢ガモ」や「タマちゃん」事件が起こると、そういう事件を見つめて、一喜一憂したりすることで、ふだん無意識に感じている矛盾が、そういう出来事をじっと見つめることの中で癒されるといか、解消させるような感じを味わえることが出てくるんじゃないかと思う。わたしは、そう感じる。
 だからと言って、多摩川に集まった人の前に説教師が現れて「ここでタマちゃんの命が大事と思ってくださるなら、世界中のアザラシに愛の手を述べてください、いやアザラシだけじゃなくて、今そこでアザラシに食べられているコイやフナにも愛の手をさしのべてやってください。さあ、みんなでタマちゃんに「お魚の命も大事なんだから、お魚をたべないようにね」と叫んであげましょうね」などと、喋りはじめたら、ええかげんにせえよ!とブロックをつけて川に沈めてしまいたくなるだろう。
「タマちゃんチョーかわいい」の出来事は、そういうことではないのだ。そうではなくて、わざわざ遠くからそこへ来て、その人によってじっと見つめられることで開かれる次元がある、ということが大事なわけで、そういう次元を庶民はけっこういっぱい隠し持って生きているんだと私は思う。でも、その次元は、自分が見つめもしない「生き物みんな」とはつながらないし、つながらなくてもいいんだと思うわけで、そいういうこと、そういうほんの少しのことを、「タマちゃん騒動」に関係させて言いたかった・・。