じゃのめ見聞録  No,24

『こころのノート 小学校1.2年』異論 


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『こころのノート 小学校1.2年』『こころのノート 小学校3.4年』『こころのノート 小学校5.6年』『こころのノート 中学校』文部科学省、計4冊、今年の春に日本の全校に配布された。道徳教育副読本である。いったい、こんなに大規模に発行された『こころのノート』とは何なのか。今回は最初の一冊目『こころのノート 小学校1.2年』に限って見てみたいと思う。はじめに「このノートのつかいかた」と題する一文が書いてある。

このノートは、あなたのこころを/おおきくうつくしく/していくためのものです。
こころのえいようを/じょうずにとるための/ヒントもたくさんのっています。
このノートをがっこうやいえで/くりかえしひらいて、/あなたのこころを/おおきくうつくしくしてください。

 「あなたのこころを、おおきくうつくしくしていく」ということがこのノートの目的だというのである。なかなか素敵なキャッチフレーズじゃない、と思われる方もいるかもしれない。私はちょっと違う。私は「美しい」という形容詞を聞くと、以前発行された『第二集きけわだつみのこえ』岩波文庫の最初に置かれた詩を必ず思い出す。「美しい虚構/戦友たちの手紙の中には虚構がある/おおくの美しい虚構がある/(略)美しい虚構/それは恐ろしい虚構を忘れるためにか」。この詩を思い出すのは、「美しい」という形容詞が、ここでもっともぴたっとくるニュアンスで語られていると感じるからだ。
それはともかくとして『こころのノート』というのは、このように「こころをうつくしくしてゆく」ことを目標にするというのである。目次はこうなっている。

目次
●うつくしいこころをそだてよう ●あなたのことをおしえてね
@むねを はって ゆこう
気もちのいい一日/がんばってるね/よいことすすんで/うそなんかつくもんか
 Aこころと こころを むすぼう
あいさつはこころのリボン/あたたかいこころをとどけよう/ともだちといっしょ/
ありがとうをさがそう
Bいのちに ふれよう
生きものをそだてよう/みんな みんな 生きているよ/こころいっぱいにかんじよう
 Cみんなと きもちよく いよう
みんなのものだもん/かぞくが 大すき/おせわになってます/あなたが そだつまち
●こころのアルバム

黒丸は原文に付けられている黒丸で、作者が強調したいフレーズ(句)である。それは二つあることがわかる。一つはくりかえし出てくる「うつくしいこころをそだてる」で、もう一つは「あなたのことをおしえてね」というフレーズである。この二つのフレーズは、二つでセットになっている。というのも、もし、そこに育てているこころがあって、それがうくしいものか、うつくしくないものであるか、それがわかるためにはどうしたらわかるのかというと、その「こころ」で起こったことが、誰かに話されていないとわからないということがあるからだ。だから「●あなたのことをおしえてね」が入ってくるわけだ。誰かに「こころのなか」を「教える」ことで、それが「うつくしいか」「うつくしくないか」判断できるというわけだ。もし「おしえないよ」という子がいたら、その子の「こころのうつくしさ」を知る手がかりがつかめない?
こういう「おしえてね」というところに、カウンセリングに似た発想がある。「おしえてね」「おしえてね」「おしえてね」・・・。誰におしえるの?、このノートに? でもこのノートは誰かが見るんでしょ? 誰が見るんですか?
「もくじ」を、もう一度見てもらったらわかるのだが、この冊子は、一年・二年の子どもが、ふだん自分のしていることを、自分でたえずチェックするためにつくられていることがわかる。「きょうはたのしい日だったか?」「にこにこしていたか?」「げんきにあいさつしたか?」「あたたかいこころで」「ともだちとなかよくしたか?」「ありがとうをいっぱいいったか?」「かたずけはしているか?」「よいことをすすんでしているか?」「ゆうきを出していたか?」「うつくしいものをかんじていたか?」などなど。そして、こういうことがちゃんとできることが「●うつくしいこころをそだてる」ということになってゆく。そして、こんなページが出てくる。

きょうは どんな一日だったかな。あかるい気もちで たのしく いっしょうけんめいにすごせた一日だったら 気きゅうのふうせんに青いいろをぬろう。もうすこしだったなとおもう日には きいろい いろをぬろう。

こうして子どもたちは、そのページに書かれた白い風船に色を塗る。自分の一日を、青や黄色の色で色分けする。そういう習慣をつけることがよしとされる。「うつくしいこころ」を育てるために。
とくに気になるのは「うそなんかつくもんか」と題されたページだ。

うそついちゃった。本とうは ぼくがやぶいたのに おとうとがやった、っていっちゃった。(略)本とうのことをしっているみんながおこって ぼくをにらんでいるみたい。もううそなんかつかないぞ。

「うそ」というのは、小さい子どもの場合、どうしても身を守らなくてはいけないと感じたときに、やむを得ずついてしまう「必要悪」である場合が多く、それは暮らしの中で子ども心に作り出す「悲しい智恵」である場合が多い。新美南吉の『嘘』(『牛をつないだ椿に木』角川文庫)などにその悲しみがよく描かれている。)また家族の中でつくうそと、みんながいるなかでつくうそでは、同じようには扱えない。ところが、この『ノート』では、「ほん本とうのことをしっているみんな」がいるんだぞ、とか、そういう「みんながおこって ぼくをにらんでいるぞ」というような話になって、うそは絶対にいけないのだということが強調される。「うそ」がまったく悪いものであるという前提である。そして「もううそなんかつかないぞ」という決意表明をさせられる。「うそをつかない」というのが「うつくしいこころ」なんだからと。柳田國男は「うそ」は子どもの文化なのだとわかっていた数少ない一人である。それも「不幸な芸術」なんだと。(このことは私の『なぜ大人になれないのか』洋泉社新書の中の「なぜうそをつくことはいけないのか」でも詳しく触れておいたのだが。)



『ノート』の中でも、もっとも気になったのか、Bの「いのちに ふれよう」の章である。そこでは「生きものをそだてよう/みんな みんな 生きているよ/こころいっぱいにかんじよう」と話が展開する。具体的には、生き物の世話を通して「みんな生きている」ことを考えさそうという下りである。そこに、子どもの日記のようなものが引用されている。

きょうは、はっぱひろいをしました。わたしは、どんぐりと きれいないろのはっぱをひろいました。きれいなはなもあったんだけど、かわいそうだからとりませんでした。

おそらく「うつくしいこころ」の見本として引用されているんだろうと思われる。このこと自体をどうこうというのではない。かつて私は別な所でも書いた(『いのち論のひろげ』洋泉社)のだが、小さい頃から、「いのちが大事」をいうことを教えられすぎて、散歩に出かけると落ち葉の下の虫さんを踏んでしまうのでかわいそうといって、散歩にも出られなくなった幼稚園児のことを書いた。こんな散歩もできない子どもを作ることが、いのちを大事にすることなんだろうかと私は疑問を投げかけた。もしも、枯葉の上を歩くと虫さんを殺してしまう、かわいそうと、思う心を「うつくしいこころ」だとするのなから、私はそこにもっとも大人によって作られたひどい「虚構」を見ないわけにはゆかない。
その「虚構」とは何か。それは、人が生き物であるかぎり、他の生き物を食べて生きているという、「うつくしくない状況」を、見ないようにさせてしまう思考である。私たちは大きな牛から、きれいな魚から、うつくしい草木までを、食物として毎日食べて生きている。「きれいなはなもあったんだけど、かわいそうだからとりませんでした」と書いた子どもは、その書いたものを、どういうふうに「評価」されるかは知らないが、あんまりそういう態度を「うつくしいこころ」としてしまえば、普段の食卓で食べているその子の様子はどう「評価」されるのかとっても気になってくる。「きたない花」なら取ってもいいし、食べてもいいといいうのか、それっも気になる。
森崎和江さんに、素敵な二冊の本『いのちを産む』弘文堂1994、『いのちの素顔』岩波書店1994がある。その中で、孫と遊んでいるときのエピソードを書いておられる。孫は、幼稚園で読んだ絵本のことで「おばあちゃん、ドードーって鳥、知ってる、ほろびたんだよ」と言ってたずねて「ね、人間はいつほろびるの?」と心配そうに聞いてくるので、思わず、そんな本を読むのはよしなさい、と言いそうになったことを書いておられる。幼稚園児にそんな心配をさせてどうするんだろうと。
 別なエピソードでは、自分の息子が4歳の頃、夕食の皿を眺めたまま箸を取らなかったときのことを書いておられる。「おいしいよ、食べてね」というと「このお魚、さっきまで海で泳いでいたんでしょ」と息子が聞く。またかと、と彼女は思ってしまう。「さっきまで生きていたんでしょ」彼女はとっさにこう言ってしまう。「そうよ。このバレイショだって、キャベツだって、生きてたのよ。人間は食べないと死ぬの。だから食べてね。」
イライラして彼女が答えている様子が目に浮かぶようだ。
いつ頃から、こんなに「いのちを大事にする」ことを教えることになったのだろうか。この教育のおかしいところは、ほんのいくつかの「いのち」の大事さを言いながら、一方でハンバーグをぱくぱく食べることには何も言わないところにある。ハンバーグにはさんである牛やパンや野菜やたまごやポテトやケチャップは、みんな「いのち」をすりつぶし作ったものだ。そんなものをほおばりながら、「きれいなはなもあったんだけど、かわいそうだからとりませんでした」という「かわいそう」を「とっても良いこと」のように「評価」する。もし、「お魚かわいそう」「お花かわいそう」という「きもち」を「とってもうつくしいこころ」と評価する教師や心理学者がいたら、その人は、「とってもおかしなこと」をしていると思われないだろうか。それをつきつめたら、お米だって生きているんだから、炊いたらかわいそうって言いなさいよと教えることになるからだ。
 要するに、そんなふうな「いのちを大事に」なんていう教育は、どこかで偽善を教えているのである。どこかで、インチキを教えている。人は、そんなに「いのちを大事に」などというところでは生きていないからだ。



そこでこの『ノート』への根本的な疑問に入ることになる。このノートの最初に提起された「うつくしいこころ」という「うつくしい」の反対の言葉、反対の状況を、このノートの制作者(たち)はいったいどう考えているのかという問いだ。それがはっきりしないと、ノートの狙い全体が空虚な宙に浮いたものになる。
このことについては、私自身はこう考える。人は、生き物である限り、何らかの形で他の生き物を殺して食べなくてはならない。それは、ある意味で、とっても残酷で、とっても醜いことをしている光景である。しかし、そういう光景を嫌って、もし「いのちを殺さず」「誰ともなかよく共にくらし」「どんないのちも大事にするこころ」を育てるとしたら、その人は本当に生きてゆくことができるのだろうか。生きてゆくための力を得ることができるのだろうか。そういう疑問の中で、「いのちを大事に」を生きるこころを「うつくしいこころ」と形容すれば、生き物を殺して食べるこころは、どういうふうに表現すればいいのか、そこはこの冊子の作者にぜひ教えてもらいたいところだ。私たちはそれを「野生のこころ」と感じてきたのではないだろうか。「獣の心」と言えば言い過ぎになるだろうが、むしゃむしゃと他のいのちをほうばるたくましいいのちである。それは「醜いこころ」「悪い心」ということになのだろうか。
 人間という存在は、その根本において「うつくしく・やさしい」生きる面と「貪欲で、攻撃的で、野性的に」生きる面のその両方を持っている。つまり「光の部分」と「闇の部分」の両面を持っている存在なわけだ。どんな時代でも、子どもには、「闇の部分」をたくましく生きることを教えてきたはずなのに、今の時代になって「うつくしいこころ」、つまり「光の部分」を持つことだけを教えはじめるというのは、どこか「変」だと思われないだろうか。
 では、どうしたらいいのか。「いのちを大事にすること」は教えなくてもいいのか。いやいや、子どもを甘く考えてはいけません。子どもは、子ども心なりに、「うつくしいこころ」「いのちを大事にするこころ」だけでやっていけないことはよくわかっている。でも、それは親や教師から「ほめてもらえるこころ」なんだということもよくわかっている。昔からの「道徳」は、こういう「無理なきれいごとのこころ」を教えるものだったのだが、子どもたちは、表向きはそれに従い、それを良しとする態度を見せながら、どこかで他のいのちを取って食べることも「良し」としてきたのである。つまり、どこかで二つの心(「光の心」と「闇の心」)のバランスはちゃんと取りながら、それこそたくましく生きてきていたのである。どういうふうにしてバランスをとってきたのか。それは、「闇のこころ」には、見て見ぬふりをしながら、その存在を暗黙の内に認めるというふうにしてである。そういうことは誰もがみんなやってきたことだ。「闇のこころ」は、必要であり、それは生きてゆく上でなくてはならない「こころ」だったからだ。
ところが、『心のノート』の出現は、「光のこころ」だけに焦点を当てるという従来の「道徳」のテキストのスタイルをとりながら、さらに踏み込んで、そういう「こころ」をノートにたえず書き付け、読み直し、確認をさせることを要求するノートになっている。これは従来の道徳の教科書にはない、踏み込みをみせるものになっている。こんなことだけを繰り返したら、「闇のこころ」はどこでどう認めたらいいことになるのだろうか。従来の道徳は、「光のこころ」を強調するにしても、これだけが大事ということを、こんなにしつこく確認させるものではなかったはずである。



こういう疑問は私だけはなかったようで、毎日新聞社の論説委員である池田知隆氏が8月20日(朝刊)で、この冊子を作ることを提案した文化庁長官の河合隼雄氏に「日本文化の課題」という題でインタビューをしていた。「私たちは豊かな社会を築いたものの、その生活基盤をなす倫理意識を見失いつつあるようだ。これからの日本社会への信頼をどのように築いていくのか。日本人の心を支えるものはいったい何なのか。文化庁長富の河合隼雄さんに聞いた。」と。そして具体的な質問をされていたが、その中にこういうものがあった。

池田:今春、小中学校に配布された道徳教育副読本「心のノート」に、国家統制につながる、と反発の声もあるが。
河合:むしろ反発がないとおかしいし、論議が起こることを待っていた。「あれがあかんなら、ええのを教えてほしい」と言いたい。「心のノート」では、できるだけ子供たちが自覚的に考えられるように工夫している。自分なりに考えて意見を発表する力をつけてほしい。親子の間でも、その内容をめぐって話し合ってもらいたい。
池田:京都では「道徳教育一万人市民アンケート」が行われているが。
河合:日本に神さんがいたらこんなことをしなくてもいい。しかし日本には、アンケートぐらいしか神がいない。大体どのくらいの人が「これはおかしい」と思っているのか、を知るのは大切だ。それを文部科学省がいうよりも、アンケート結果がマシだ。「お上」からいえば反発が起きるし、それならアンケートしてみたらどうやというわけだ。

反発心や攻撃の心などの野生の心を抑え、やさしい、うつくしい心を持つだけの子どもを育てることが、親や教師にとって都合が良いだけではなく、国家にとってもつごうのいいことは、わかる。けっきょく、そういうふうなあまりにも非攻撃的な「良い子」に育てられた子どもが、思春期に、自分の気持ちを出すすべを見出せす悩むケースが増えていることも今問題になってきているのではなかったか。そしてそういう若者を、「心のノート」を作る心理学者が治療するという構図がでてきている。あたかも、意図的に病気を作った医者が、今度はその病気、治しますと後から再登場するような構図である。
この新聞の疑問に、河合氏は「あれがあかんなら、ええのを教えてほしい」と言いたい、と答えておられる。文句を言うのは簡単だ。「道徳教育」に良い案を出さずに、人の案にケチを付けるだけなら誰でもできるやないかと、きっと思われているのであろう。私は、でも、こんなに「光のこころ」だけを強制するノートは、「あるよりないほうがはるかにええ」と思う。
『こころのノート』の最初に「保護者の方へ」と題されたこんな文がある。「このノートは、子どもたちの心の教育を充実させることを目的に作成されています。何度も読み返したり、記入したり、作業したりすることを通して、子どもたちが自分を見つめ、心を豊かにはぐくんでいくことを願っています。」小学一・二年の子どもを、こういう書かれたノートや字面を何度も見つめ直したりすることで判断してはいけないと私は強く思う。このころの子どもたちは、「光の心」も「闇の心」も豊かに育ててあげなくてはいけないからだ。とくに、こんな頃は、喋ったり、書いたりしたことを、あまりにも大真面目にとらえてはいけないし、この頃、お前はこんなことを書いていたんだぞ、などと後で振り返る材料を作ってもいけないと思う。こんな時期の、書いたり喋ったりすることは、そのつど忘れられて当たり前であり、無理に残すのは不自然である。「思い出の写真ブック」はあってもいいが、同じように「こころのアルバム」が作れるなどとと思うのは大間違いである。
 河合隼雄氏は『こころのノート』の最後に著名入りでこう書いておられる。「これからも、このノートをずっと大じにもっていて おもいだしたら いつでもひらいて みてください。あなたをげん気づけてくれる力が きっと見つかることとおもいます」と。私の経験上、「闇のこころ」を認めない思考に、本当に人を支える力は見つけ出せないと思う。「うつくしい虚構」は、まさに「恐ろしい虚構を忘れるため」のものなのだからと。



 最後に、もう一つ大事な疑問を出しておきたい。それは、この計4冊として、今年の春に日本の全校に配布された。道徳教育副読本んお「本」としての体裁についてである。この「本」の奥付には、発行者は文部科学省とだけ書かれて、発行所はどこなのか、印刷所はどこなのか、いつ発行されたのか、何も書いていない。不思議なことは、表紙、デザイン、イラストを描いた三人の名前は書いてあるのに、肝心の本文を書いたのは誰か明記されていないことだ。いかにも「作者」がいなくて、それは良識の府である文部科学省が、「みんな」を代弁して書いたもので、その「良識のみんな」が「作者」なんだといわんばかりである。しかし、書いた本人は必ず存在するわけで、それが数人のグループであっても、共同研究者たちであっても、名前あるいは代表者名はあきらかにすべきである、と私は考える。表紙やデザインやイラストを描いた三人の名前は書いてあるのに、肝心の本文を書いた者が誰かわからないなどという不自然さ、不道徳さ。
 一般書ならともかく、税金を使って、それも日本全国の小中学生に無料配布されたというしろものなら、気が遠くなるほどの量が印刷されたわけで、その印刷・製本費もものすごい金額になっているはずだ。それがすべて税金でまかなわれているのである。いったい、誰が、いつ、どういう経過で、教科書以外のこんな印刷物を、巨額の税金を使って大量に刷り、日本全土に配布するようにしたのか。実際に投入された税金の額はどれほどで、どういう名目で使われたのか。どこの印刷会社が、いつ、こんなべらぼうな税金投入仕事を引き受けることができたのか。そういうことがわかる手がかりが少なくとも「奥付」には書かれてあってもいいはずだ。そういう税金の使われるときの、最低限の公開性と透明性があってしかるべきで、それが「道徳教育の第一歩」であるはずなのに、この冊子には、そういう市民への情報がいっさいカットされている。摩訶不思議な冊子が道徳教育副読本として発行されたものだ。私はこの「ノーと」を作った方々に「ノート」にならってたずねてみたい。「●あなたのことを教えてね」と。