じゃのめ見聞録  No,23

 
映画『ゴジラ』と映画『ビルマの竪琴』の共通性について

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 映画『ゴジラ』は1954年、その2年後の1956年に市川崑監督映画『ビルマの竪琴』が公開され、当時から両方とも多くの観客を得ていた。戦争が終わって、まだ10年が立つか立たないかの間に作られたこの二つの映画には、その後、何かを論じる人にとってはきっと試されるものがある。
まず、二つの映画を並べて論じることに抵抗を覚える人がおられるだろう。『ゴジラ』は子ども向けの娯楽映画で、『ビルマの竪琴』は戦争映画だから、という人もおられるかもしれない。しかし、この二つの映画の一番最後のシーンはとてもよく似ている。ともに太平洋の波間を撮していたからだ。しかし、そんな一番最後のシーンだけが似ているからと言って、娯楽映画と戦争映画を比較してもらっては困ると言われる人もいるかも知れない。でも、私は、この二つの映画はいろんな点で似ていると感じてきた。制作の時期がまず似ているということも、大事なことだが、その他にもたくさん両者は似ていると感じてきた。まるで双子の映画のように。そこのところを今回すこし考えてみたい。
まず先に、違う点から考えてみる。多くの人が、映画『ビルマの竪琴』は「戦争映画」だと言ってきたのはどういう理由からだろうか。おそらく、映画の中に「兵士」がおり、「戦場」があり、「戦闘のシーン」があるからということになるだろう。しかし、そうだとしたら映画『ゴジラ』にも「戦場」や「戦闘シーン」が出てくる。東京に責めてくる怪獣を自衛隊の戦車が迎え撃つシーンが出てくるからだ。
 それでは、無惨に人が殺されるシーンが描かれるという点ではどうか。「戦争映画」では、確かに多くの人が殺される。しかし、『ゴジラ』でもそういうシーンは描かれる。人々は、ゴジラに破壊された町の中を逃げまどい、壊れた家の下敷きになって死んでしまう。ひどい殺戮が描かれる点では二つの映画は似ている。
にもかかわらず、『ゴジラ』は娯楽映画で『ビルマの竪琴』は戦争映画だとされてきた。おそらく前者は、ありえない架空の怪獣と闘う絵空物語でしかないが、後者は現実に起こった戦争での殺し合いが描かれているから、と感じられてきたからであろう。



実は、上野瞭さんは前回に紹介してきた最初の評論集『戦後児童文学論』にこんな副題をつけておられた。「『ビルマの竪琴』から『ゴジラ』まで」と。事実、この評論集の一番最初には、すでに取り上げてきた「戦後児童文学の不幸なる起点ー『ビルマの竪琴』について」が置かれていた。そして一番最後には、「部分的「怪獣大戦争」論・ゴジラの変貌について」という論考が置かれていたのである。ここには、何か意図があったに違いない。
上野瞭さんは、最後に置いた論考の中で「怪獣映画がいかなる発想を持っているか」と問うていた。そして、こういう「答え」を書かれていた。
 「ゴジラは、本来、人間に対立し、人間に襲いかかる「罰」そのものであった。いや、そういう発想に支えられたものであった。」
 何に対する「罰」か。「格差ある体制、格差ある秩序、そういう格差ある繁栄と高度成長をとげる」文明への「罰」として、と上野瞭さんは書かれていた。
 こういう風に言ってしまうと『ゴジラ』フアンからは異論がでてくるかもしれないが、私のこの論の流れからしても、少し困ったことになる。『ゴジラ』と『ビルマの竪琴』の共通性を論じようとしているのに、ゴジラが破壊者であったといってしまうだけでは、両方をつなぐ接点が見えなくなってしまうからだ。『ビルマの竪琴』にはそんなモチーフは見あたらないではないかと。
上野瞭さんの結論を生かすには、まだいくつかの手続きがきっと必要なのだろう。



もともとアジアで展開された日本の侵略戦争の根本の動機は何かというと、南方石油の地下資源を手に入れるためであった。そこには軍部と結託した当時の日本の巨大資本の動向があった。アジアの地下に眠る「宝物」、それを手に入れるために「兵士」は「南下」させられていった。
ところで、地下に眠る膨大な宝物を「掘り出す」には、何が必要なのか。「爆薬」である。ノーベルがダイナマイトを発明(1866年)してから、強力な爆発力を使うことで、岩石を破壊し、石炭や石油を発掘することが可能になり、それが「先進国」を作り、「文明国」を築いていくことになった。そしてこの岩石を破壊する爆薬が、「後進国」の土地の地下資源を手に入れるための「武器」にも転用されてゆき、それが「近代戦争」の出発にもなっていった。「戦争」というものを考えるときには、この「爆発物」と「地下資源」の構図は絶対に抜かすことはできない。
おそらく『ビルマの竪琴』の背景にあった「ビルマ戦線」も、この「地下資源」を求めて「弾薬」や「兵士」を移動させる戦線であったことは確かである。現に映画の中でも、険しい山道を弾薬を積んだ荷車を必死で引っ張り上げる兵士が描かれていた。そういう「戦争」だからこそ、結局はより強力な「爆発物」を手にした方が勝つことはわかっている。「ビルマ戦線」の壊滅も、「爆発物」保有の差が圧倒的に作用した。
 ほとんどの批評家は評価しないのだが、小説『ビルマの竪琴』の大きなテーマの一つに、「武器」を放棄して投降するという決定的なシーンがある。このシーンがなければ、この小説は成り立たないし、映画もこのシーンをメインの一つに据えている。やむを得ない「降伏」ではなくて、「歌を歌う部隊」ならではの「降伏」、と読み手に判断せるような「降伏」が描かれる。その証拠に、別な部隊は、水島上等兵の説得にもかかわらず「武器」を捨てずに「玉砕」するからである。この、「武器を捨てる部隊」と「武器を捨てない部隊」の対比も、この作品や映画の見せ所なのに、『ビルマの竪琴』を論じる批評家は、取り上げない。そして、水島が僧侶となって個人的に責任を取るかのような行動をとることところばかりに目を向けてきた。これは、不自然な批評だと私はずっと思ってきた。実際に映画を見た人も、きっとこの作品に「武器を捨てる部隊」と「武器を捨てない部隊」の対比を見てきたはずなのに。
なんで、そういうことを問題するのかというと、「戦争」の本質の一つが「爆発物」を巡っているということを忘れないためである。「ビルマ戦線」で、水島が見た累々と横たわる屍の山は、実は「爆発物」を捨てられなかった部隊の末路であり、捨てさせなかった軍部の末路であった。『ビルマの竪琴』はそういう意味では、「武器よさらば」の物語でもあったはずである。子供たちは、こういう作品や映画を見て、大人のイデオロギー的な図式で見ようとするよりはるかに多様な読み取りをしていると私は思う。



改めていうと『ビルマの竪琴』は、「北」に住むものが、アジアの地下資源を、「爆発物」と「武器」で手に入れようと「南下」して争う悲劇と、その悲劇に翻弄される「南」の人々の悲劇を描くものになっていた。その主題の達成度は、読み方によって大きく異なるものになるにしろ。
では映画『ゴジラ』はどうなのか。もともとゴジラは南海の原爆実験で、地下に眠っていた古代の怪獣が放射能を浴びて、突然変異を起こし、巨大化したものと言われている。原爆とは、「爆発物」の最も進化させたもので、いわば「文明」の最先端が産み出したものなのだが、その最先端の「文明」が産み出したのがゴジラであった。別なふうに言えば、この文明の発明がなければ、ゴジラも存在しなかった。
 こうして「南」が実験場にされて、「南」で生まれた「怪獣」が、「北」の侵略国である日本に乗り込んできたのある。「爆発物」が生んだこの巨大怪獣が、今度は爆発物を作り出した文明国に侵攻してきたのである。そして都市を次々に「破壊」し「進撃」する。
もし『ビルマの竪琴』が「北」で作られたものが「南」に侵攻する物語だったとしたら、『ゴジラ』は「南」で作られたものが「北」に侵攻する物語になっている、ということができる。つまり、方向が逆の物語になっているということである。
『ゴジラ』では、多くの一般市民、非戦闘員が殺されてしまうのであるが、それはかつての「アジア戦線」でもしばしば起こったことであった。つまり、かつてアジアで起こったことが、今度は東京で起こってしまったのである。
上野瞭さんは、そういうゴジラに「破壊者」を見たのだが、それはゴジラに体現された文明の先端のもたらす破壊であって、ゴジラそのものがもともとから「悪者」だったからでは決してない。ゴジラも文明の被害者だったのだから。
ではいったい映画『ゴジラ』は何を訴えるものになっていると考えればいいのか。おそらく、この映画を見る子供たちは、「ゴジラ」って何なのだ、なんでこいつは破壊ばかりし続けるのかとという疑問を消すことができない。この疑問が消えないから、また次のゴジラシリーズを見ようとすることになる。でも、こういう「問い」をいつまでも続けさせることがとても大事だと思う。映画『ゴジラ』がこの上なく好きだという人は、ただ破壊する怪獣が好きなのではなく、謎と問いを秘めて歩き続けるこの怪獣の姿に魅せられてきたのだと思う。それは、文明の格差と文明の恩恵を受けて生きている私たち「先進国」の誰でもがどこかで抱えている謎と問いでもあったのだから。
二つの映画はともに太平洋の波間を撮しながら終わってゆく。それは、太平洋が「太平洋戦争」の象徴だったからだろう。「宝物」の宝庫である「太平洋」、そこから生まれたゴジラ、おそらく「戦争」の始まりと終わりが、きっとこの波間の映像に象徴されていたであろう。

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話は少し変わるのだが、アフガニスタンにも地下に眠る巨大な地下資源がある。昨年のアフガニスタンの戦争が終わると、アメリカの石油資本や天然ガス資本の会社が早々と現地に乗り込んできて、今次々に、各地の有力者と提携を結んでいるとか、事実上のアフガニスタンの実権を握ったカルザイ氏が、実はアメリカに長年家族を住まわせていて、実業家としてブッシュ大統領系の資本から多大な援助を受けてきたとかいう話を、久米宏の「ニュース・ステーション」が得意げに放映していた。「ニュース・ステーション」らしいというか、いかにも「ニュース・ステーション」はここまで知ってるんだぞ、といわんばかりの放映だった。あんたには言われたくないよな、というのもあるのだが、これはたぶん大筋正解の報道なのだと私も思う。
 アメリカは、アフガニスタンをタリバンから解放するためという名目の元に、多くの市民を巻き込む激しい無差別空爆を決行したが、それはブッシュ系の資本を投入するためだった、という話の落ちである。いくつかの誇張された話を差し引いても、おそらくこういう話の大筋は事実なのだと私も思う。「テロへの報復」という大義名分からはじまったこの「戦争」が、結果的に完全にアメリカ資本勝利に動いていったことは、NHKの「戦争テクニック」の解説ばかりを見せられてきた私たちにとっては、なかなかわからない部分だった。こういう構図はいずれ腕利きの記者が大部の本にして描いてくれるのだろうが、こういう背後の動きをもっとはっきりと見せつけられたら、きっと腹立たしさを越えて、空しさが沸き上がるに違いない。
 鈴木宗男が強引に進めた北方領土支援、アフリカ支援という大義名分でも、美名の元に、実は地元の有力資本や多額の政治献金をしてくれる資本を、そこへ投入するための施策にすぎなかった、というような利権の構図を今見せつけられるわけで、本当にそうであったのかどうかは、この機会にぜひ徹底して解明してもらいたいものだと思う。文明の恩恵は、もっと広く平等に人々に分け与えられるべきである。上野瞭さんが言っていたように、「格差ある体制、格差ある秩序、そういう格差ある繁栄と高度成長をとげる」文明への「罰」として「ゴジラ」がやってきたのだとしたら、また無差別破壊をする「新しいゴジラ」が、昨年の「9.11事件」を上回る規模でやってくるかも知れない。