じゃのめ見聞録  No,20

 『さらば、おやじどの』について −「過去を引き継ぐ」という作業−

 
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 この作品は、『現代日本児童文学作家事典』教育出版センター1991 の「上野瞭」の解説では、「衝動殺人、親殺し、火付け、脱獄、逃亡、暗殺・・と事件が事件を呼び、手に汗をにぎるサスペンスと爽やかな愛が交錯する作品。あくまで生きるいまを凝視しつづける作者の想いは、物語構成や語りにおいてますます冴えをみせる」と紹介されていましたが、これではこの作品を正反対に紹介しているように私には思えます。
 この作品の核心の部分は、「いま」にあるのではなく、あくまで「過去を引き継ぐ」というところにあるからです。
過去が在るということ、過去が存在するということ、そういうものにどこまで知らん顔をして生きてゆくことができるのか。「さらば」という言葉には、「それなら、それでは」というおいとまの意味が含まれ、そこから「去る」や「去ります」の意味を含み、それが「さらば」という言い回しになってきました。歌「仰げば尊し」の最後が「いざ、さらば」となっていたように。
 上野先生が『ひげよ、さらば』1982、『さらば、おやじどの』1985のように、「さらば」を強調するような題をつけておられたのは、きっと理由があったんだと思います。何かからさよならをしたかったんでしょうか。別れや、決別のことを、こういう題にこめて書こうとされていたんでしょうか。おそらく、そういうことではないと思います。「さらば」というのは、ただの「さよなら」というのではなくて、「さらば」することで、そこから何かを「引き継ぐ」ということ、そういう意図が込められているみたいなのです。
そのことがどこでわかるのかというと、それは作品の仕組みによってわかります。
 作品は、主人公の田倉新吾(18才頃)が、今で言う暴走族のようなことをして捕まり、牢屋に入れられるところからはじまります。牢屋にはいるというのは「過去を背負うものになる」ということですが、そういう状況下に置かれることで、新吾は他の「囚人」から「その人の過去の話」も聞くことになります。
 つまり新吾は、「牢屋の中」ではじめて「人の過去を知る」という体験をすることになるわけです(まるで「晩年学フォーラム」で人の話を聞く時のようにね)。そして、新吾自身、現在しか知らなかった新吾(A)から、過去を知る新吾(B)に変わってゆくことになります。生きてゆくということは、B(過去)からA(現在)に変化してゆくことですが、人生を知るということは、逆にA(現在)からB(過去)を知ってゆくという過程でもあるのではないかということを、この作品は訴えているみたいです。
 新吾はそうやって、他の囚人の「過去」を知ることになり、そしてついには自分の父に過去のあったことを知ることになります。どうも、父にも秘められた過去があったらしいのです。そして、息子がある人から聞いた「美作(みまさか)のお裁き頼みます」の意味を父にたずねた時に、父自身が自分の青春時代の忌まわしい事件のことを思い出すことになります。それは当時のゲリラ的な存在とみなされていた美作村の野盗の一団を焼き討ちし、皆殺しにする討伐隊に参加していたという記憶です。
 もちろんこの事件は、当時の城主の命令の中で実行されたものであり、当時の討伐隊の若者はただ手柄を立てるために、先を競って殺戮を実行したにすぎないのですが、それが本当に「野盗の一団」だったのか、そうでもない集団が城主によってただそういうふうに見なされただけなのか、そんなことは当時は考えてもみなかったことでした。
 ところが今、息子がある人物から聞いたという「美作(みまさか)のお裁き頼みます」の一言によって、もう一度自分の過去に向かい合うきっかけを与えられることになります。あの美作村に生き残りがいたことがわかってきたからです。父は結局その生き残りの手によって殺されることになるのですが、その前に父は、自分は命令とは言え、間違ったことをしていたのではないかということにしだいに想いを寄せることになってゆきます。
 しかし、こういう「過去」を問うことは、当時の美作村焼き討ちを直接指揮した「尾形伝右衛門」を問うことになり、ひいてはその伝右衛門に命令を下した「美馬さま」を問うことになり、さらにひいてはその「美馬さま」に命令を下した「御領主」を問うことにつながってゆきます。それはしかし、父にとっては、問うてはならぬ「問い」にもなっていました。
 こうした「美作村焼き討ち皆殺し事件」なるものは、少し近代に引き寄せれば「ユダヤ人収容所虐殺事件」「日本軍による中国・アジアでの虐殺事件」「アメリカ軍によるベトナムソンミ村虐殺事件」などに似ていることがわかります。かつて、そういう「事件」を実行したのも若者たちであり、それをどこかで指示した上層部が当時もいたからです。

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 そういう「過去」を、私たちは「忘れながら」生きてきているわけですが、作品はそういう「過去を思い出す」ことをあえて主題にしょうとしているところがあります。
 むろん、そういう風に説明をしてしまえば、何やらこの作品は戦争犯罪の告発作品のように思われるかも知れませんが、もちろんそんな政治的な作品ではありません。
 私たちは誰でもA(過去)からB(現在)に変わってきています。ところが、Bになったということは、かつてAであったということと無縁になったということではありません。今ある私たちが過去の延長にあるんだと言うことは、動かせない事実だからです。しかし、そのことをどういうように考えたらいいのか、私たちはうまくわからないところがあります。そういうところをこの作品は問うているんだと私は感じてきました。つまり、その人はBであるように見えて実はAでもあるんだということ、そのことをどう考えるのかという問いかけです。
 もちろん「過去を振り返らないで、前を向いてプラス思考で」という今流行の助言スタイルもあると思います。やたら「トラウマ」を引っ張り出して商売するいやらしい精神分析のようなものの餌食になるくらいなら、「過去にとらわれずに前を向いて歩みなさい」と言ってあげる方が良いに決まっているからです。
 けれども私がBでありながらAであるということは、それは「私一人の過去」が問題なんだと言うのではありません。ここがとっても大事な所です。「私の過去」というのは、決して「私一人の過去」ではなかったからです。
  「誰の物語」も、その人の物語だけで独立しているのではなく、「他の人の物語を含んで成り立っている」ということがあります。ですから、自分の過去を知るということは、単に自分のことを知るというようなことではなくて、自分に関わる多くの人の過去を知るということにならないとおかしいわけです。
 ですから、こういう作品を読むと、なぜ上野先生が自分の父や母の生涯のことをあれほど知ろうとされてきたのか、また晩年学フォーラムで、自分の過去を喋るようにみんなにうながされてきたのか、少しはわかるような気がします。
そういう意味からすると、『さらば、おやじどの』は、かつてAであったものが、なぜBのようになってきたのか、の物語であり、Bになったものが、かつてAであったことをどのように再発見してゆくのか、の物語であり、その中でAをBへと創り上げてきたさまざまな指導者、友人、仲間、親、異性、思想、組織、時代背景といった多くの人々に、改めて出会い直す物語にもなっていることが見えてきます。

 そのことを踏まえて『さらば、おやじどの』の「さらば」の意味をもう一度問うてみると、「過去を振り返らなかったかつてのおやじ」や「過去を振り返ることを知らなかったかつての若い自分」そういうものとの「さらば」という意味が込められていたのではないでしょうか。だから「さらば、上野瞭」というふうには簡単にはゆかないんですよね。