じゃのめ見聞録  No,19

 もう「イーヨー」 −先生の最後のご様子について−

 
 上野先生の最後のご様子について、上野ゼミのみなさんにお伝えしておかなくてはならないことがあるんではないかと思いつつ、何をどうお伝えしたらいいのか、わたしもうまくわからないのです。でも、そんなことを言っていてもはじまらないので、少しだけ書いてみます。
『生活科学学会誌』にも「追悼文」を書いて、その中でも書きましたから見ていただけたらいいと思いますが、わたしが、最後に葬儀委員長のような大役を仰せつかりましたのは、それはわたしが他の誰かより、先生ととっても親しくさせていただいたからではありません。二人でどこかで一杯飲んだということもありませんし、そういうふうに親しくされていた方々は他におられたのではないでしょうか。ただ、わたしは、晩年学フォーラムを足かけ8年間ご一緒させていただいたので、そういうお役目が回ってきたんだと思っています。
 事実、わたしと先生とは、メールでやりとりしたことがありません。フォーラムを発足させられたもう一人の片山先生とはしょっちゅうメールでやりとりするのに、なぜか上野先生とはファックスでのやりとりばかりでした。一度、ワープロで打って、それをプリントして、そこに猫のイラストを入れて、それを送るというめんどくさいことを先生はいつもされていました。ですから、わたしも、同様にファックスでお返しするというありさまでした。これなら電話で喋った方が早いのにと思うこともしばしばでしたけれど。
 でも、そういう「距離感」が、わたしと先生との公認の「距離感」になっていましたし、そういう「距離感」の中でいつも先生の存在を感じてきたようにわたしは思っています。ところが、そういう「距離感」が破れる日がやってきました。先生からメールが来てしまったのです。2002.1.14(月)のことでした。

 突然のメールでごめん。あれこれ考えたのだけれど
 きみにお頼みするしかないな・・・ということが一つ あるんです。
 もうすぐ家の中も歩けなくなると思う。
 毎日が「危ういな」という感じ。
 一度、時間を作って家に寄ってくれませんか。
 メールで都合を知らせてくれてもいいし、ファックスでも構いません。
 電話は、すぐに取れないかもしれない。
 きみの講義が無くて、会議が無くて、午後で、一度学校へ戻れる日がいいのですが・・・。
 先日、妹が寄ってくれて「葬儀」のこと、「事後処理」のことは話し合いました。
 今日は近くの「仏具屋」で仏壇を見てきました。
 もう「こっち側」に残れる時間は少ないのだと思います。 よろしく・・・。
                              上野瞭

心臓がドキドキするようなことというのは、こういうことなんですね。何か開けてはいけない扉が開けられてしまったような、ヒヤーっとするような感触が走りました。
 次の日にさっそくお伺いしました。酸素吸入のチューブを鼻に入れられていて、息苦しそうでしたが、こんなものを引きずって歩いてるんやでと、口はあいかわらず悪く、お元気な様子でした。いくつか頼まれ事があって、それはさせていただきますとわたしはお返事しました。
 1月21日(月)、次のメールがきました。

 ボクは二階の奥で寝ています。昨日から「寝たきり」の状態。
 起きたい・・・そう思うが両足ともダメなんです。
 今日は一種の昏睡でした。今、やっと芋虫のように体を転がして
 衣服を着ました。這うようにしてコンピュータの前に来ました。
 ベルが鳴ったのでカミサンが見に出た時はもう姿が見えなかった
 と言っていました。カミサンはちょっと耳も遠いのです。
 昨日、そこでカミサンは携帯電話を二つ買ってきました。
 同じ屋根の下でボクは隣の部屋のカミサンに寝ながら用事を
 頼むわけです。もうそれしかない・・・そう思いました。
 こういうこと、片山(先生)だけには打っておきたいのですが、
 そのエネルーギーがありません。御伝達ください。容態の悪化は
 日々急激です。チューブをくわえて降りられなくなりました。
 念のため、出来れば一度、ケータイを入れるつもりです。
 これがボクです。(番号)
 これがカミサンです。(番号)
 もう原稿を書くどころではないので、テープ・レコーダーを
 買ってきてもらい、それに「わが遭難記」でも吹き込もうかと
 考えています。
 ああ、シンド。
 もうメールはしないでしょう。
 では、よろしく・・・。
                         上野瞭

 わたしが先生からいただいた、たった二つのメール。それが最後の二つのメールになりました。後から奥さんから聞いた話によると、初めて買ったケータイがめずらしかったのか、夜11時くらいに「ムラセ君、起きとるやろか」といってケータイを使いたがっておられたらしいのですが、「こんな夜遅くに迷惑でしょ」とわたしは止めたんですよと奥様が言っておられました。
 このメールをもらった日、わたしも上さんに頼んでケータイを二つペアで買ってきてもらいました。先生と緊急連絡をとるためでした。そして上さんにケータイの手ほどきを受けました。まず、上さんに電話をかけました。「へたくそね、こうするのよ」と叱られながら。きっと先生もそうだったんでしょう。おっさん同士の、まったくはじめてのケータイ体験。
 1月24日、ケータイで先生に電話をかける。朝、先生は何とかして2階から下に降りて、お風呂に入り、往診の点滴を受けられたとのこと。夜に伺っても良いですかと聞くと、ぜひ来て欲しいとのこと。7時前、伺う。
 書斎に置かれた介護用のベッドの中で、先生はだいぶやつれておられたが、点滴のせいか、元気そうにも見える。先生の携帯にわたしの番号を打ち込む。起きあがるとシーツのシミが気になって、奥さんを呼んで拭かせようとされる。これはでもずっと以前のシミなんですよと奥さんの説明。そやけど、こんなシミを人に見られたくない。今日まで、2階でうんことおしっこにまみれていた。でも、他人には介助されたくない。とおっしゃる。
 ご自分は呼吸するのもしんどいのに、コーヒーを飲めとか細かい配慮をされる。
 葬儀用の写真をあずかる。
 先生の机の上をかたづけながら、不用なものを聞く。トロッキーの『ロシア革命史』の文庫はそのままでええわと言われた。これを全部読めなかったのが残念だと言われた。「それじゃ、お元気になられて読めるときのために、そのままここへ置いておきましょうか」というと、「そうしてくれるか」と言われた。
 1月25日(金)。一緒に診察の福山先生の話を聞いて欲しいと言われてお伺いする。奥さんも寝ないでの看病が続いていて、ダウン。お二人で、並んで点滴をされていた。
 1月26日(土)。4時すぎにおじゃまする。昨日と違ってずいぶんとしんどそうなご様子。夕べは先生が痛がって、二人ともほとんど寝ていないとのこと。酸素量が80に下がる。点滴で90ほどに上がるが、昨日の元気はない。痛い痛いと大声で奥さんを呼び、50ミリの大きい座薬を入れてもらう。「胸が痛くてたまらない。この痛みは誰もわかってもらえんやろな」とうらめしそうにいわれる。枕元に山口百恵のいい日旅立ちのCD。この曲を聴いているとのこと。「悲しくてとてもやりきれない」っていう歌があるやろと言われる。あの心境やとも言われる。
 呼吸が苦しいので、起こして欲しいといわれ、抱きあげて、それから近くのソファーに座らせてあげる。「他人の介助を受けるのは、あんたがはじめてやな」と苦笑いされる。「足の甲羅をあんたの足で踏んでくれ」といわれる。足がぱんぱんに腫れていて感覚がなさそう。わたしのおばが癌で亡くなった時に、幹部を手でさすってほしいと言われていたので、先生の膝に手を当てながら話する。「話をしていると気がまぎれていい」といわれる。「でも、ゲーテとエッカーマンのようにはいかんな」と笑われる。「もう書くのを捨てた人間やから、終わりやな」とも言われた。
 それから、しばらくして、「福山先生はあと4・5日と言われるそうやが、ぼくには自分の死期が近いことがはっきりわかる。あと1日かもしれん」と急にいわれた。「それは、ないでしょう、点滴されると、こんなにお元気なんですから」と一蹴する。昨日の様子ではまったくそういう感じだったのだから、それは正直な感想だった。それから、「もう誰にも会いたくないので、来てもらわないようにしてくれるか」といわれた。「では、そうしますから」と返事する。
 「疲れたので、ベットに寝かせてくれ」と言われる。布団の中の足をさすり続ける。しばらくして「つかれたやろ、おれは気持ちええけど、もうええで、あんたのいのちのいぶきを十分感じさせてもらったわ。もう十分や。」と言われたので、手を離す。
 6時過ぎ、だいぶ疲れておられる様子なので、帰りますと告げる。そして、はじめて先生と握手をした。ほんとに先生とのはじめての握手だった。先生は握り返された。「明日はヒロスケさん(息子さん)が帰って来られるし、その時4人でまた話しましょう」とわたしが言うと、先生は淋しそうに笑われた。それからわたしは立ってふすまの所で振り返って先生に手を振った。先生も静かに少しだけ右手を挙げられた。それが最後の別れになりました。
 1月27日(月)
 AM1時すぎ、奥さんから電話。様態が悪くなりましたとのこと。すぐに車で家を出る。でも先生は、その電話のすぐ後の、1時10分頃に亡くなられたらしい。
 わたしは、人気のない、車も全然走っていない真夜中の高速を走っていた。不思議な宙に浮いたような感じだった。カセットをかけると、「精霊流し」「無縁坂」「神田川」「若者たち」などが流れてきた。学生時代に好きだった歌だ。奇妙な気分におちいる。あの若い頃の、大学のキャンパスでの希望や不安が車の中でよみがってきて、そういう時代から、自分がとっても遠くまで来てしまったことをあらためて感じさせられる。そして今、そういう若い時代を懐かしむこともなくなるときの来ることを思うに至って、車の中でとっても不思議な感じになる。
 2時20分頃先生のお宅につく。亡くなられてすぐに主治医の福山先生が来て病死の診断をされていた。わたしはそれから葬儀屋さんに電話をした。すぐに来られた。祭壇の設定とアルコールで先生の身体を拭いてもらい、身の清めをしてもらった。朝の4時30分頃、暗がりの中、上野先生のお宅を出て、また家に向かった。

 以上が、わたしの記録している最後の先生のご様子です。これは、わたしの個人的な記録ですが、上野ゼミのみなさんには、誤解無く伝わるような気がしていますので、そのまま、ありのままお伝えさせていただきます。個人の記録を公表するのはよくないのでしょうが、前回の猫耳通信で、上野先生の日記文学の側面について書いていましたように、記録の公表には、先生は独自の見識をお持ちだったので、きっと今回の公表でもお叱りはならないと思っています。
日本の文学は「墓参り」からはじまる、と粋なことを誰かが言ったと記憶しています。夏目漱石の『こころ』も、「私」が「先生」の「墓参り」からはじまる作品でした。「先生」の抱えていた「過去の謎」をめぐって作品が展開します。『こころ』は、「先生」が奥さんと結婚するまでに、親友を裏切り、その友人を自殺に追い込んでしまったという話であり、その「罪の意識」を背負う先生の姿を「私」が追うという話でもありました。
人間の抱える罪深さのようなものと向き合うということ、おそらく上野先生の人柄の特長も、そういう人間の弱点をいつも見つめておられたところにあったように思われます。先生に触れて何かを感じてこられた人はきっと、自分の中にそういう似たような弱点をもっていた人たちではなかったかと私は思います。そういう弱点をわたしは「闇」と呼ぼうとしてきたのですが、それは「光を見るためには闇がいる」という意味での「闇」だったんだと思います。
 先生は「弱点」につぶれそうになりながら、「死にそうや」を連発しながら、ある意味ではそういう「生」から早く解放されたいと思われていた面もあるかもしれません。「もう、いいかい?」と先生は何度も「闇」に向かってたずねられてきたんでしょう。「まあだだよ」と何度も何度も断られ、そしていまようやく「もう「イーヨー」」と言ってもらえたのかも知れません。そう考えることはいけないことかも知れませんが。
 先生、どうぞお元気で!