じゃのめ見聞録  No,18

 ああ 仰げばわびし天主閣


 何をどういう風に書けばいいのか、まったくわからない。お通夜や告別式がすんで、今日(3月10日)四十九日の法事がすみました。でも、どういうことを書けばいいのかよくわからない。大学の学会誌に「追悼文」も書いたし、新聞社にインタビューも受けた。つまり上野先生が亡くなられたという事実についてなにがしかを、半強制的に書いたり、喋ったりさせられてきたのだが、だからといって、私の中に先生が亡くなられたという感じがまるでない。これはほんとに困ったことだ。今も、先生が亡くなられたことを前提で何かを書こうとしているのに、その実感がないから、書くことができない。締め切りが過ぎて、きっと片山先生はイライラされながら待っておられるのが目に見えているのに、書くことができないでいる。
 一つだけ理由らしきものがわかりそうな気がしている。それは、先生の亡くなられる数日前に、見せていただいた『父と母のいる風景』という写真入りの小冊子を読んだからかも知れない。その冊子は、先生のお父さんが亡くなられたときに、香典を全部つぎ込んで作られたらしい冊子で、父の生涯をたどった、それは実に何とも言えない「壮絶な記録」だった。1970年8月発行とあるから、先生が42歳のときだ。
 なぜ、香典をつぎこんでまで、そんな冊子を作ろうとされたのか、プライバシーに触れるようなことは紹介できないが、その「壮絶な記録」の中味は、まさに「上野瞭」という表現者の核心を作ったものであることはよくわかった。わたしは言葉を失った。
 先生を理解する上で不可欠だと思われる、そのほんの少しだけの紹介をここでお許し願いたい。先生は真ん中あたりでこんなふうなことを書かれていた。

  父に愛する人ができた。父の愛を受け入れる若い娘がいた。この事実は、黙許できる話ではない。戦前、そうしたことがあったかどうか、それは.不明であるが、たぶん、これほどのことはなかっただろう。いつから、いつまで、どんなふうに・・・ということは、当事者だけにしか解らないことだろう。しかし、この小冊子の裏表紙に転載した、父の手帖の一頁は、そのおおよその期間を推測させるだろう。人は、人を愛するものである。愛さずにはおれないものである。それが、だれか別の人間を傷つけ、叩きのめし、アルコール中毒にかりたてるとしても。
  父の場合、その「だれか」とは、母であった。母であり、わたしたち子どもだった。これは、父を責めているのではない。父のかなしさと、やりきれなさ、人間として切なさを語っているのである。
  父は、遅く帰宅し、ほとんど口をきかなくなった。ほんのわずかな二言で、食卓をひっくりかえし、怒鳴りつけ、ごろりと眠るようになった。母の世帯のやりくりがまずいといって、来る日も来る日も、母を責めた。限られた給料で、子ども六人を学校へやり、三度の飯を食わすことは、母でなくても容易ではなかった。父は、それを知っていた。知っていたからこそ、他人と共同で商売もはじめた。しかし、知っていることは、いつの場合でも、人間を救わない。母は、ひそかに知人に金を借りはじめた。知人でだめだとなると、高利貸の金も借りた。はじめは、家計を支えるための借金が、後には、借金を返すための借金になり、その苦しさを忘れるための酒の代金となった。いや、借金の返済のために、金を借りるのか、酒を呑むために金を都合するのか、母自身、解らなくなった。父の恋人のことは、はじめ疑惑の段階から、確認の段階にいたり、そのかなしさが、母を惑乱させた。
(略)
  家は、めちゃくちゃだった。子どもは、理解する人のないまま、飢えていた。長男のわたしが家をとびだし、長女が駆け落ちし、次男が出奔した。これまた、一行ですむ語ではない。屈折しきった子どもは、それでも母とやりきれなさをわかちあうべくだったか。「もちろん・・・」という人は、たぶん幸せな人なのだろう。幸せな人は、不幸せをさえ、幸せな目で眺める。
(略)
  その人は、父から、どのようにして、離れていったのだろう。どうしているのだろう。知りたくもあり、知らない方がいいようにも思う。もし、この人間関係に被害者というものがあるなら、その人も、父も、母ほどではないにしても、被害者のように思える。加害者のない犯罪はない。その意味では、父が、それに該当するだろう。しかし、わたしは、被害者・加害者と人間を規定するつもりはない。まして、父を批難するつもりはない。父を許すとか許さないとかいう前に、一人の人間をそこにみるからである。

これはプライバシーにかかわることではないかと、気にされる方がおられたら、実はここに書かれていることは、すでに『晴れ、ときどき苦もあり』PHP研究所1992の中の「おふくろの人生」の見出し(p137)で紹介されていることをお知らせしておきます。わたしにわかることは、この家族体験が、くりかえし先生の思考の中で反復されてきているということです。そして作品になぜ『さらば、おやじどの』のように「父と子」のテーマがくりかえし出てくるのかも、こういう体験と無縁ではないことが見えてくる。まるで『カラマーゾフの兄弟』の中の父と子の葛藤みたいに。
そして先生の「記録」の最後はこういう文章で締めくくられていた。

  父が死んで半月すぎた。この間、父のことで走りまわった。事実だけを・・・と考えて、ぼつぼつ、この小文を書いていった。なんとたくさんのエピソードを切りすてたことだろう。事実の記載どころか、感惰の記載に終ったようにも思う。しかし、これはこれでいい。父も母も死んだ。わたしたちも、この死だけはまぬがれることはできない。人の死の後には、怨みとつらみが、積み重なっている。人は、迷い、怨念を引きづって生きる。母の五十二年の生涯。父の六十六年の生涯。それは共に、怨み多いものだった。安らかに眠ってください・・・など、そらぞらしいことばは記したくはない。美しいことばを並べる人は、勝手に並べるがいい。わたしたちは、悲しく、苦しく、やりきれなく生きた父と母を、そのまま人間であったと語るだけである。父も母も人間であった。それ以上でも、それ以下でもなかった。その迷いを、いつくしみたい。そのやりきれなさを、いつくしみたい。(上野瞭)

なんという切ない締めくくりの文章であろうか。そんな文章を、先生の亡くなられる数日前に読むことになってしまった者の身になってもらいたいものだ。あと、何を書くことがあるだろう。
 わたしのわかったことは、こういう忌まわしい体験を先生が忘れまいとされていたことであった。忌まわしいけれど、そこに人間の何か大事なものがあったんだと感じてこられたということだった。そしてそういう先生の感性に触れることができた人が、先生に不思議な魅力を感じ続けてきたのではないかとわたしは今思っている。
 おそらく晩年学フォーラムを立ち上げようとされた動機の一つがこういう体験にあったであろうことは今になって少しは想像することができる。というのも、先生はフォーラムで語る人を選ぶときに、必ず厳しい家族体験を経てきた人を選んで来られたからである。そういう「不遇を抱える人」の匂いを嗅ぐ嗅覚の鋭さは、抜群であった。また、そういう体験を原稿にして書くように勧めることのうまさにかけても、ピカ一だった。そして事実、このフォーラム通信から、優れたエッセイがたくさん生まれてきた。今それらのエッセイは少しずつ本になりつつある。
 その通信の最も初期に連載されて、多くの読者をびっくりさせ、同時に深い共感を呼び起こしていた味わい深い玄善允さんのエッセイが、今年1月に『「在日」の言葉』同時代社2000円 として発売された。あとがきで、玄さんは上野先生に勧められて書き始めたことを書いておられる。先生が読れたらさぞかし喜ばれただろう本であることを思うと残念でならない。
こうしたフォーラムの発足に関係するであろうような発想を、わたしはもう一ヶ所この「記録」の文章の中に認めた。それはこの「記録」の一番はじめに置かれた次の文章からである。

  死のうが生きようが、まったくかえりみられない人生がある。その時代の一員でありながら、指のあいだからこぼれ落ちる砂のように、無視され、忘れ去られる人生がある。庶民と呼ばれる多くの人間は、その砂の一粒にひとしい生涯を送ってきた。今も送っているし、これからもそうした生涯を送るだろう。しかし、この名もなき人間の生活が、良いにつけ悪いにつけ、時代をつくり、歴史をきり開いてきた。そして、それは、かけ替えのない一回限りの人間の姿でもある。祝日にも、祭日にもなりえない人生。記念日や行事に背をむけた庶民の生活・・・。わたしたちの父も母も、その意味で、まぎれもなく、下積みの人間だった。砂の一粒だった。「ここに人あり」というには、あまりにも貧しく、あまりにも悲しかった。この貧しさと悲しさが、わたしたちに残された唯一の遺産である。わたしたちは、この、重く、はかない遺産の相続人として、父と母の歩みを、書き記さなければならないと考える。

 おそらく、先生がフォーラムでやろうとされたのは、こういうことだったのではないかと思われる。「こぼれ落ちる砂のように、無視され、忘れ去られる人生」をここで語り合おうじゃないかという試みである。「この、重く、はかない遺産の相続人として」。
 わたしが先生にフォーラムで喋るように言われた最初の時に「丘のある歌謡曲」の話をして、最後に先生にお贈りする歌として『古城』をあげた。すると「なんで、俺が「古城」なんやねん」とその時先生はおっしゃったように思う。「古くさいからか」と思われたのかもしれません。「いや、そうではなくて、矢弾のあとが、ここかしこに見える大手門のようだからですよ」とわたしは答えた記憶がある。その『古城』をここに再度引用して、少しばかりの弔いの言葉に代えさせていただきます。

  『古城』

松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ
栄華の夢を胸に追い ああ 仰げばわびし天主閣

崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉や
矢弾のあとのここかしこ ああ むかしを語る大手門

いらかは青くこけむして 古城よ独り何偲ぶ
たたずみおれば身にしみて ああ空行く雁の声悲し

  (唄・三橋美智也 高橋掬太郎作詩/細川潤一作曲)


『晩年学フォーラム通信』第83号