じゃのめ見聞録  No,17

 上野瞭先生を偲んで


 2002年1月27日、上野瞭先生が永眠されました。胆管癌から肝臓癌への転移によるものが原因でした。ご自分の死期の近づいていることは、半年ぐらい前から先生は感じておられました。昨年の秋には、当面の目標は12月はじめに催される今江祥智さんの出版パーティに出席することだと言われていましたが、それがクリアされたので、次は12月末の晩年学フォーラム主催の恒例のクリスマス会に参加することだと言われていました。それも無事に終わった後の年末から、先生の病状は急速に悪化してゆき、自力で呼吸ができなくなって、酸素吸入器を自宅に持ち込んでの療養をされていましたが、その後1ケ月であっという間に逝ってしまわれました。
 私は今、2月3日にこの追悼文を書いています。亡くなられてまだ1週間もたっておりませんが、この学会誌の締め切りのつごうで書かなくてはなりません。先生と長く大学でお仕事をなさってこられた先生がたくさんおられますから、私のようなものがこのような追悼文を書かせていただきますのは不適当なのですが、ただ、私が先生の「晩年」に「晩年学フォーラム」を毎月一回ご一緒にさせていただいてたという経過がありましたから、あえてお引き受けさせていただきました。ですから、先生の半生や業績のことを、今この時点で書く余裕も資格も私にはありませんが、ただ「晩年学」の中のお姿については、ここで少しはここで触れることができるかと思います。
 「晩年学フォーラム」という会については、先生は大学を定年退職される(1995年3月)少し前から構想を練っておられて、その趣旨は「趣意書」(1994年秋)の形で公表されていました。その書き出しはこういうふうになっていました。

 人は生まれると同時に「死」を背負っている。(略)「死」に近い人生の一時期を「晩年」と呼ぶならば、人は年齢に関係な く(また、それを知ることなく)「晩年」と隣り合わせに生きていることになる。このフォーラムは、ひとまず「老年」と呼ばれる 立場に達した有志が「呼びかけ人」になっているが、目ざすところは、世代、年齢、性別に関係なく「晩年とは何か」を考え 合おうとする場である。

 こうして、このフォーラムははじまり、まったく草の根の市民の会として足かけ8年続いてきました。毎月一回この会を運営することは、端で見られるほど楽なものではありませんでしたが、でも、先生はこの会の維持にとても執念をもち続けられました。アカデミズムな見返りなどなにもない会で、ただ普通の市民の方が集まられ、先生に声を掛けられた方が話題提供され、それで話し合うだけの場作りでしたが、そういう会の運営こそが、先生のある種の深い「思い入れ」に基づいていたように思われます。
 その「思い入れ」は、こういうところに見え隠れしていたと思います。先生が亡くなられる数日前、もう一人で起きあがることもできなくなっておられた先生が、机の上の本の整理を指示されていた際、そこへ残しておいて欲しいと頼まれたのは、トロツキーの『ロシア革命史』の文庫本だけでした。全5冊ある分厚い文庫本をベットから見られて、これを全部読めなかったのが残念だと言われていました。
 いつぞやフォーラムの帰り道で「いま、アフリカ史を読んでいるんや」と言われたこともありました。たぶん『新書アフリカ史』講談社現代新書のことだったかもしれませんが、これも新書の中では最も分厚い本でした。
 晩年学フォーラムにしろ、ロシア革命史にしろ、アフリカ史にしろ、似ているのは、草のように生きる人々の蔭の姿を見つめるという思いだったように思われます。これも、退職されて何年かして言われたことですが、「あんたは、大学で非常勤の先生がどんな待遇で働かされているか考えたことがあるか。大学にいるときにその改善の運動ができなかったことをオレは後悔してるんや」。
 自分だけがいい目をしない、これは先生のデビュー作『ちょんまげ手まり歌』からのテーマでもありました。一国社会主義のような国の悲劇を児童文学の中で描いて、そのあまりの残酷な描写に物議をかもしだしたこの作品は、まさに「一国」や「ひとり」だけで「幸せ」を独占することの非情さを訴えるものでもありました。その思いはその後も先生の姿勢にずっと漂っていたように思われます。
 亡くなられる前日、呼吸困難の痛みに耐えながら「フォークルの『悲しくてやりきれない』という歌、知ってるか、あの気分や」と言われていましたが、でも枕元で聞いておられたのは山口百恵さんの『いい日旅立ち』でした。

 胸にしみる空の輝き、今日も遠くながめ、涙をながす
 悲しくて 悲しくて とてもやりきれない 
 このやるせないもやもやを だれかに告げようか
                      『悲しくてやりきれない』

 雪解けまじかの北の空に向かい 過ぎ去りし日々の夢を叫ぶとき
 帰らぬ人たち あつい胸をよぎる せめて今日から一人きり旅に出る
 ああ 日本のどこかにわたしを待っている人がいる
                              『いい日旅立ち』

 どちらが、というより、二つとも、先生らしいお別れの歌だったと思います。
「曲がり角を曲がる」としきりに言われていた先生に、今はもう遠くから、どうぞ、お元気で、と言うしかないじゃないですか。

2002.2.3
同志社女子大学  村瀬 学

『同志社女子大学生活科学』第35号 2002.3