じゃのめ見聞録  No,16

 振り向きざまに礼をする姿を見て


 電車の中を車掌さんが歩いてきて次の車両に移るとき、急に振り向いて、パッとお辞儀をする姿にここ近年頻繁に出会うようになってきた。
 この「振り向きざまに礼をする」姿が最初気になったのは、新幹線に乗ったときだった。新幹線では、早くから土産の販売員の人が、ドアの向こうに消えるときにパッと振り向いて礼をしていた。その姿を最初見て、おや? と感じたことがあった。 それがいつのまにか、新幹線から、一般の私鉄の電車の中でもお目にかかるようになった。私はその姿をとても不自然に感じている者の一人である。
 ところが先日、京都駅の近くの大型書店で本を探していると、本を抱えた店員さんが職員用のドアから入るのに、振り向きざまに礼をしたのである。エエッと私は驚いてしまった。ここでも、あの姿が見られたからだ。
 おそらく、現在こういうことはどこの会社でも、社員教育として大がかりに訓練され、徹底されてきているのかも知れない。おそらく年輩の人なら、ああいう「礼」をする車掌さんや社員を見て、なんと礼儀の行き届いたことをなすっておられるんだろうと、感心されるのかも知れない。
 けれども私は、ああいうことが「礼」なのかどうか、とっても気になっている。揺れる列車の中で、それも前を向いて歩いていた人が、急に立ち止まって、振り返り、ぺこりと頭を下げる。そしてまた、振り返って急いで次の車両に向かうのである。 それは見ていて、ぎこちないし、とっても不自然な仕草に見える。そもそも、そういう行為に気持ちがこもっていないからだ。「礼」というのは、もっとゆったりした場面で、ゆったりした仕草でなされるべきものではないか。もし「振り向きざまにぺこりと頭を下げる」ことがお客さんへのサービスとして社員教育されている会社があるのだとしたら、それはちょっと勘違いをされているんじゃないかと思う。すーと通っていただくのがとっても自然だからだ。
                   
『同志社女子大学HP時事コラム』2002.2
 

 
 補足  「過剰なお客優先視による社員軽視の世相」に思う

 以上は、スペースの限られた「時事コラム」に書いたもので、十分に思いを伝えられていないので、少し補足しておく。以前はよく、役所の窓口で、市民にぞんざいな態度やごう慢な態度をとる職員がいて、不愉快きわまりないと市民から苦情がおこり、新聞の投書欄でも問題になったことがあった。今では、役所に投書箱などが置かれたり、インターネットネットで苦情受け付け箱などが開設され、そんなことがなくなってきたのだろうか、あまり新聞の投書欄でそういう苦情を目にすることはない。「市民にやさしい応対」が浸透してきているのだろうか。
 わたしは、お客さんに優しく対応することは、とっても大事なことだし、そんなことは当たり前のことだと思っている。でも、必要以上の「やさしさ」は不自然に感じるし、時にはわずらわしいと感じる。以前のデパートの売り場を歩くと、ただ見ているだけなのに、すぐに店員さんが寄ってきて、商品の説明をしはじめる。それが煩わしくなって、その場を立ち去ったことも何度か合った。スーパーなどの気楽さは、どこをどうぶらぶら見ていても、店員さんは忙しく立ち振る舞っているから、お客にかまっていられない。声を掛けられたら、応対してくれるだけだから気楽だ。でも、デパートはあちこちに店員さんが立ってじっと客の動きを見ている感じがする。だからこちらは、常に何か見られているという感じがする。デパートは窮屈だ、そんな感じがいつもしていた。でも、この頃はそんなにすぐに寄ってこないで、お客の自由な振る舞いを少し離れてみている所があり、客が声を掛けてから対応してくれるというふうに変わってきているように感じる。おそらく、そういう社員教育がなされるようになっているのかもしれない。
「客」と「店員」の関係は、確かにむずかしい。
 しかし 私が最近感じているのは、そういう「関係の難しさ」のことではなくて、なにかしら店員や社員に、「お客」に必要以上に「おじぎ」をさせる社員教育が広がりはじめているのではないかということへの懸念の方である。
「売り場」は「お客様の場所」だから、社員はそこを出入りするときは、いちいち頭を下げて礼をしなさい、というふうだ。理念はむろん私にもよくわかる。
 たとえばゆったりしたホテルで、そこをを行き来する人はみんなゆっくりした動きをしている。そんな動きの中で、静かに礼をして入ってくるホテルマンがいれば、それは優雅だし、礼にかなっていると感じる。けれども、みんながせわしく動いている職場や売り場の中で、小走りにものを抱えて動いている店員さんが、そんな早い動きの中で「振り向きざまにぺこりとおじぎをする」姿を見せつけられるときの、なんとも言えない不自然さ。わたしはその不自然さに、現在の世相を見るような気がしているのである。
 どんな世相か。「過剰なお客優先視による社員軽視の世相」である。
 消費者が遠のく景気悪化の中で、少しでもお客様を引き寄せようというのはわかる。それで、会社側は「客様のいる場所」を、まるで神様のいる場所のように社員に意識させ、その出入りのところでぺこぺこ礼をさせるように指導する。まるで戦時中のようだと私は思う。なぜ、同じ人間同士がいる場所なのに、そんなに頭を下げつづけなければならないのかと。それだけではない。今までは夜の7時頃には締まっていたスーパーや百貨店が、この頃、8時とか9時頃まで店を開けるようになっている。「お客様優先」の経営方針だからだ。その結果職員は大変だ。で、社員に無理をさせるのを回避しょうとすると、パート社員や契約社員をたくさん雇用するようになる。そういう人の身分や地位はとても不安定だ。そして全体として「社員軽視」の経営になる。
 そんななかで社員にどういうことをさせるかといえば、お客さんのいるところではやたらと頭を下げさせる社員教育である。
私は本当の意味での「頭を下げる礼儀」の必要なのは、会社の経営陣の方だという気がしてならない。それをしないで、代わりに平社員の方ばかりに形ばかりの礼をすることを強要しているのではないかと。
 ここ数ヶ月ばかりの狂牛病関連の会社、あるいは雪印の関連会社の不祥事を見てみてもいい。根本のところで消費者などを頭から馬鹿にするような経営をしていながら、末端の職員には、消費者を神様のように敬うように指導しているのである。私は雪印のたくさんの社員がかわいそうでならない。本当の意味で消費者を大事にしょうとしない経営体質と、末端で絶えずお客さんに頭を下げさせられる社員教育のあまりものずれを、私は感じてないではいられないからだ。
 人々の間の身分や地位の間の「境界」がない時代には、やたらと「境界=敷居」のところで「頭を下げる」ようなことをしなくてもよかった。「頭を下げる」ようなことを強要する会社や社会は、逆に言うと、身分や階層を意図的に作りだしてきている会社や社会じゃないかと私なら感じるし警戒する。
 もし、揺れ動く私鉄の急行電車の中で、小走りに歩いてきた車掌さんが急に振り向いてぺこりと頭を下げる様子を見て、なんとすばらしい社員教育をなさっておられるんだろうと感心なさる人がいたら、一度自分で動く電車の中で、車両を通過するごとに振り向いて礼をしてみられたらいいと思う。いかに自分が無理な仕草をしょうとしているかわかるはずである。
 そのことのついでに言うわけではないが、昨年のオリンピックのマラソンで、高橋尚子選手が優勝したときのことだ。彼女は余裕で1位にゴールしたのだが、そのゴールに入ったすぐあとに振り向いて「礼」をしたのである。多くの人はその姿に感動したのかも知れないが、私はその姿を見て、なぜか一気に興ざめしてしまった。そして、その時一気に高橋尚子が嫌いになってしまったのである。
 私はその一気に高橋尚子が嫌いになった理由をうまくいうことができない。こんなところでも日本人は「礼」をするようになったのかと思ってしまったからなのかも知れないが、とにかく、「あんなところ」でわたしは彼女に「振り向きざまに礼」をしてほしくなかったと感じたことだけは確かなのだ。それがどういうことなのか、未だにまだうまく言葉にすることができていない。ただ、「パフォーマンス」のように見えたから嫌になっただけなのかも知れないが。