じゃのめ見聞録  No,15

 
「遺体論」はどうしたら可能なんだろうか
 新年早々、暗い話題で申し訳ありませんが、昨年の秋は「遺体論」の可能性について少し思いを巡らせていました。アフガニスタンでの多くの「遺体」が見えないことからの自問からでした。そんな中で、篠原さんの『脳死・臓器移植、何が問題か』を読むことが出来て、そこでつきつめられている生者への粘り強い寄り添いの視点に触れて、あらためて死と死体と死者は違うんだという思いを強めていました。家族は生者が死者になってゆく過程を見ているのですが、死者は死者という姿に変わりながらも家族の心の中では連続して生きているのです。でも、医者たちは生者が死体になってゆくのを見ています。死体と死者は違います。死体は死んでいるのですが、死者は不思議なことにどこかで生きているのですから。
 篠原さんの試みは、生者が死体にはなりきらない人間の独特の不思議な生死観にどこまでも寄り添いながら脳死と呼ばれる「死」の問題を考えようとされていると思いました。
 このことはでも暗い話題のことではありません。今日私が触れたいと思っているのは、昨年の「9.11同時多発テロ事件」の後の「アフガン戦争」に感じた暗い話題のことです。それは、多くの誤爆を含む空爆で亡くなった現地でのたくさんな兵士や住民の「遺体」の姿が全く報道されていないことへの疑問についてです。私は秋に二つの週刊誌で、二つの遺体の姿だけを見ました。一つはタリバン兵なのか、首を切りとられていて、それを自慢げに持ち上げている兵士らしき男の写真です。もう一つは、道ばたに死んでいる兵士で、屈辱的にズボンが足首まで脱がされていました。私が9月から12月までに見た「遺体写真」はこの2枚だけでした。
 結局1枚目は「フライデー」が載せたもので、学生達がすごい写真が載っていると騒いでいたので私も買ったものです。つまりこれは全く扇動的効果を狙っただけのひどい販売目的の写真でした。もう1枚は報道写真でした。
でも、どちらにしても「遺体」の写真はぞっとするもので、その悲惨な姿は、戦争の残酷さを一瞬にして伝えてくれるものでした。どんな言葉の束よりも、「遺体」の写真は、戦争への嫌悪感をかき立ててくれると思います。でも、遺体の写真の掲載は、ほとんどの報道機関ではタブーなんですね。理由はもちろん私にもわかります。「遺体」の写真は、好奇の目で見られることがあって、自由にすると交通事故や殺人現場の「遺体」写真を好んで撮ったり載せたりする雑誌が横行するからでしょう。
 東南アジアにそういう「遺体」ばかりを載せるインターネットのサイトがあって、中高生がこっそりそういうサイトを探してアクセスしているという話をNHKのテレビで見たことがあります。裸やセックスの写真と共に「遺体」の写真は、人が好奇心に駆られて見たがる物の一つだということはよくわかります。
 だから、戦争の時の「遺体」の写真は御法度になっているのでしょうか。もちろん、実際にはそういうことではないのです。10年前の湾岸戦争では、砂漠を敗走するイラク軍に向けられた多国籍軍の空爆で、死体街道と呼ばれるくらい累々と兵士の遺体が続いていたのに、それを撮影することは許されなかったと言う有名な話が残っています。そういう写真が報道されると「戦争反対」を叫ぶ人が増えることをアメリカの軍部は恐れていたからです。だから、湾岸戦争でもまったく死体のない戦争と呼ばれてきました。
 こんどのアフガン戦争でも全く事情は変わりません。戦争だからたくさんな人が死んでいるのに、死んだ人の数も写真もまったくといっていいほど正確には報道されません。NHKが湯水のように時間を使って報道してきたのは「アメリカの最新の兵器のすごさ」と、「ビンラディン氏のゆくえ」ばかりでした。口では戦争のひどさを言いながら、実際にはアメリカ軍の「戦果」や「戦況の進展ぐわい」ばかりでした。
 何が欠けていたんでしょうか。もちろんたくさんなことが欠けていたんだと思いますが、なかでもちゃんとした「遺体論」とでも呼ぶべきものがやっぱり欠けているんだということを私は痛感しました。篠原さんが『脳死・臓器移植、何が問題か』でねばり強くやろうとしていたことは、「生者論」でした。私は今度はそれに匹敵するような規模での「遺体論」がいるんじゃないかという思いでした。一律に死体の写真を禁止するのではなくて、無念に戦争で殺されたりする人々は、遺体として訴えているものがあるはずだと思えます。だから「報道写真」として、あるいは「報道倫理」として、その悲惨さ、残酷さを、人々に伝える論議があってもいいのではないか、という思いです。
 事実、過去には、第二次世界大戦、ベトナム戦争、ユーゴスラビアでの内戦、アフリカでの他部族大量虐殺の内戦などにおける、山と重なり合う遺体を撮した報道写真が公表されてきました。多くの人はそういう報道写真を見て、あらためて戦争のむごさを思い知らされていたと思っています。
 でも、実際には病院で解剖される「死体」と、交通事故の写真と、飛び降り自殺の写真(私もずっと以前、ビルから飛び降り自殺し、路上に横たわっている女優、岡田有希子さんの写真を「フォーカス」で見たことがありました)、非情な戦争で殺される人々の「遺体」は同じものではないんですね。私たちは「死体」と呼ばれているものから「遺体」と呼ばれるものの間に、無意識のうちにとってもデリケートな区別を立てているからです。でも、そういうニュアンスの違う「死体ー遺体」の問題について、哲学でもちゃんと論じられたものを見たことがありません。死体を見せることは冒涜だとか、ネクロフィリア(死体愛好者)を増やすばかりだとか、そんな粗雑な議論だけで禁制を敷き、結果的には戦争を仕掛ける権力者につごうのいい世論作りに加担してゆくことが多かったからです。 私は安易な死体報道合戦などを求めているわけではありませんが、「倫理としての遺体」の問題は、「脳死」や「臓器移植」の抱える倫理の問題におとらない問題を抱えているんじゃないかと今思っています。そういう意味での「遺体論」の可能性について、どこからか考えてゆけたらと今思っています。
2002.1.1記
『ゆきわたり』bR28号 2002.1.20発行

追記
 数日前の毎日新聞に、昨年の昨年のアフガンの日本の報道で最も欠けていたのが悲惨さを伝える記事だったというのを読んで、同じことを感じている人がいたんだと思いました。
 私は死体の写真をたくさん載せた『図説・死体論』布施英利 法蔵館なども見てきました。これはでも「死体論」にすぎないと感じています。
 「遺体」の問題は、「遺書・遺言状」の問題ともどこかでつながることも考えていますが、それじゃ、「ドナーカード」は「遺書・遺言状」とみなすことができるのかという問題がでてきます。実際の遺書や遺言状の効果は、とっても厳密に審査されるわけで、愛人に全財産をゆずるとかいた遺書や遺言状があっても、そんなものは通用しないわけです。その中味が妥当かどうか審査されるわけです。でも、ドナーカードって、遺言状のようなものなのに、審査されることもなく、書かれたことの中味はそのまま通用してゆくんですね。ということは、あれは遺書や遺言状ではなく、もっと強い強制力を持った何かなんです。摩訶不思議なものです。でも、これもまたぼくの中に「遺書論」「遺言状論」みたいなものがまったくありませんから、どう反論すべきなのか、お手上げです。すこしずつ時間をかけて、その何かを考えてゆくしかないんでしょうね。