じゃのめ見聞録  No,14

 
明石家さんまは転びながら出演者のスカートの中を見ている、という批判は当たっているんだろうか 
−2001.12.8の「恋のから騒ぎ」を見て−
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 明石家さんまの「恋のから騒ぎ」(2001.12.8放映)のことでずっと書きたいと思っていたことがあるのですが、なんせテーマが品のないものだから、ずっとためらってました。自分が品のある人格者のように見られたいと思っているせいか、こういう話題のことで何かを書くことはかなり二の足を踏んでしまいます。もちろんこういう番組を面白がって見ていること自体が「人格者」らしくないのでしょうが。
 あの日、いつものお題は「男のしぐさでいやらしく見える行為は何か」というものでした。そこで「ほうまん」という、いつもはとぼけたちぐはぐなやりとりをする娘さんが、その日はいつになくはっきりと次のようなことを言ったことから、話題が紛糾しました。彼女は「この番組の最中に、さんまさんがわざとらしく転ぶときに、必ず近くの女の子のミニスカートの中を見ている」というもので、それが「いやらしく見える」という批判でした。話題が紛糾したのは、さんまが「これは仕事なんや、これは演技なんや」と口をすっぱくして強調したのに対し、女性達が、次々に「私もそう思う。さんまさんは、転ぶ場所をいつもちゃんと選んでいるし、そのとききっとミニスカートの中を見ている」と追い打ちをかけるように言うものだから、多勢に無勢で、さんまの旗色がとっても悪いように成り行きは進行していたからです。
 確かに、番組の中でさんまはいつもわざとらしく転ぶのですが、テレビで見ているだけでは、そんなふうにひっくり返りながら出演者のスカートの中を見ているようには見えません。でも、参加者の女性達は、次々に「スカートの中をのぞいている」というのです。さんまはそこで、「だれがそんなもん見るかい。演技や、演技やないか、そんなことがお前らにはわからんのか」と言えば言うほど言い訳のようになって、あげくのはては、「さんまさんは、いつも自分の好みの女性の前で転げている」というえこひいき批判も出て、スタジオ中がいつになく熱い熱気に包まれていました。
  なんで、私がこんな話題のことを、わざわざ後になって書きとめているのかというと、もちろんあの時の話の流れや、さんまと出演者のやりとりが面白かったこともあるのですが、ただ、あの日の話題の設定には、何かしら言葉にできないとても「不自然なもの」を感じていたからです。
 私が、さんまの番組ならどんな番組でも好んで見るのは、そこに計算された、目に見えない仕掛けがあることをいつも感じるからで、その仕掛けがわからない時ほど「自然」に、「ぶっつけ本番」のように番組が進行させられてゆくところがすごいと感じていたからです。
  ところであの日は、いつもならぼそぼそ喋る「ほうまん」さんが、いつになくはっきりと「さんま批判」をしたことからはじまりました。でも、私はあれは計算された「さんま側からのやらせ」の発言だったと思っています。彼女に「さんまさんは、転びながら前の女性のスカートの中を見ている」と言わせておいて、そういう「話題」に食いついてくる女性の反応にどういうふうに自分が反応するのかを面白がって演出していたんだと思います。テレビを見ている人は、あの話題が突如降ってわいたようなものに見えて、さんまがあわてふためいて、うろたえて、一生懸命に言い訳をしているように見えていたかもしれませんが、私はあれはすべて準備されたものだったと今でも思っています。もちろん出演者たちは、そのからくりには気が付いていなかったと思いますが。
  でも、そういう番組のからくりのことを今ここで問題にしょうというのではありません。そんなことは承知の上で、番組を面白がって見ているわけで、それは日曜日のお昼の吉本新喜劇の話の落ちやギャクがすべてわかっているのに、わかった上でそれを面白がって見ているのと同じです。「やらせ」が悪いなどという野暮なことをここで言おうとしているわけじゃありません。

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  私が気になったのは、「さんまが転びながらスカートの中を見ている」という話題と、それが女性達に「いやらしいと見える」という話題の組み合わせ方についてでした。番組側は、きっとこういう話題の組み合わせは視聴者に「うける」だろうと判断したんでしょう。事実、スタジオではいつになくさんま批判が盛り上がり、番組自体は盛り上がったのですから。でも、私は、こういう番組制作者側の意図をその日は快く思いませんでした。
  私は若い女性がさっそうとミニスカートをはいているのを「いい」と思ったことはあるにしろ「悪い」とか「イヤだなあ」と思った試しがありません。そもそも私が今の上さんと大学のキャンパスで出会った頃(1970年代のはじめ)は、彼女は思いっきりのミニスカートをはいていましたから。それがまぶしいやら、なまめかしいやらで、「まいったなあ」といつも悩ましく思ってました。
  ところで、そんなミニスカートのことを男が論じるところを私はあまり見たことがありません。特に哲学者がミニスカートを論じた論文は見たことがありません。はしたないからでしょうか。下品だからでしょうか。スケベだと思われたらイヤだからでしょうね。かくいう私もミニスカートのことを書いたこととは一度もありません。あれは黙って見ているもので、見たことを喋るものではないと思ってきたからです。
  でもさんまのあの番組を見たときに、これは黙っていちゃいかんのだ、と思ったんです。
  あの番組では、確かにいつも前列の出演者の多くは、ミニスカートをはき、長く出した足をきれいにそろえています。それはそれで美しいし、いいんだと思います。でも、正直言ってミニスカートは、足を見せるということと同時に、ぶっちゃけて言えば「股間」にも注意を引くようなファッションになっていると思います。
 もちろん女性の方はそうは言わないでしょうし、そんなふうに言われることが一番腹が立つときっと思っているでしょう。ミニスカートはあくまで足をきれいに見せるもんなんだからと。「股間」まで見せようとするもんじゃないんだと。
 でも、私はそれは「おかしな話だ」と思ってきました。もちろん私も、現実に「股間」まで見せようとしている女性がいるとは思いません。現実にはそうなのですが、このファッションが、そういう視線を誘うものになっていることは、女性たちもきっと知っているんじゃないかと私は思ってます。たぶん、今ここで使っている「股間(コカン)」という言葉が、古くさく、野暮ったく、おっさん臭い響きをもっているので、違和感を持たれるのかもしれませんが、私は意図的にというか、わざわざこの古い言葉を今使っています。ちょっとこれに変わるニュアンスの言葉が見あたらないからです。
 私が言おうとしているのは、ミニスカートは、足だけじゃなくて、その「奥にあるもの」を意識させるようなファッションになっていることを言いたいのです。でもその「奥」というもののイメージは、「パンツ」や「性器」というような露骨なものではなく、何かしら、その女性のきれいな足が見え隠ししつつ見せている「奥」としかいいようのないぼんやりしたイメージのことです。でもそれは名づけようがないから、ここであえて「股間」というような無骨な言葉で呼んでしまっているだけなんです。
 そして私は、そういう異性の「奥」を意識させるようなファッションがあってもかまわないと思っているし、それはそれで自然な部分があるんだと思っています。ところがです、そういうファッションをあえてしながら、周囲の人が自分のミニスカートの「奥」を見ようとしていると訴えるとしたら、私はこの人はどうかしてるんじゃないかと思ってしまうのですよ。そういうふだんの「思い」が、あの日のさんまの番組を見たときに、年甲斐もなくめらめらとわき起こってしまったというわけです。あんな、無茶苦茶な娘達の言い分をそのまま放っておいてなるものかと。
 そういうことに関して私がしばしば感じることなのですが、私が特にイヤだなあと思っているのは、駅の階段でミニスカートをはいた女性が、お尻にカバンを当てながら歩いているのを見かけるときです。いかにも、後ろから登ってくる男性が自分のスカートの中を見ているんじゃないかと思っている様子がはっきりとそういう態度になって現れているからです。そして、事実、そういうミニスカートの女性の後ろを歩いている男性には、いかにもいやらしい、スケベなおっさんであるかのようなイメージが与えられてしまいます。自分が悪んじゃない、あんたたちが悪いから私は困っているのよ、と言わんばかりです。ふざけるんじゃねえよ、と私はいいたい。
 私は、極端なミニスカートをはいて町を歩くことがどういうことなのか、どういう視線を誘うことになるのか知っているくせに、そういうふうに見る男性を「いやらしい」というふうな態度を示す女性に本当に腹が立ちます。いかにも私はただ格好いいファッションを楽しんでいるだけなのに、男どもはそれを「いやらしい目」で見るんだからこまちゃう、なんてふざけたことをぬかすんじゃねえと。
  私なんかはだから、駅の階段などを上るときには、とっても気を使います。自分の上に女性が歩いていないか、確認して、もしいたら、わざわざ歩く位置をずらして上がります。とっても気を使います。なんで階段を上がるだけなのに気を使わなきゃならんのか、ほんと馬鹿げていていると思いながら。イヤなんですよ、スケベなおっさんと思われているんじゃないかと思うだけでも。不愉快なんですよ。あんなミニの女を見ていると思わせるだけでも気分が悪くなってくるからです。
 私なんか、お尻をカバンで押さえて階段を上る女性を見たら、絶対に同情なんかしませんね、いつも「お前が悪いんだろ」と思います。
  私が何に腹を立てているのかわかっていただけますでしょうか。
  ミニスカートが悪いということを言っているわけではないのです。あれは「いい」と思っているのです。(上さんのミニはよかったんですから。大昔の話ですけれど)。でも、同時にあれは、ただのファッションを越えて、異性を挑発する意図を持ったものだということははっきりしていると思います。男性はそのことは百も承知なのに、女性はそのことはわかっていながら、そんな意図はないかのような見え透いた芝居をしているとことがあるんじゃないですか。
  実はそういう不自然さが露出したのがあのさんまの番組だったように私は感じたのです。あの番組では、実際にはさんまはわざと転びながらも出演者のスカートの中を見ているわけがなかったのです。そんなことははっきりしているんです。そんな目線があれば、視聴者にもわかるし、当の本人も、後で録画を見たときに「ヘン」だと気が付くからです。芸能人の中でも、プロ中のプロなんですから、そんな「へま」をさんまがするわけがないじゃないですか。
  でも「話題」を、「さんまがミニスカートの中を見ていて、それがいやらしい」という話にしてしまうと、俄然女性達は、そうだ、そうだと言いつのるわけです。自分たち自らすすんでスカートの中を見せやすいようなファッションをしておきながら、自分たちの前で転がって、いかにもスカートの中を見るかのようなそぶりを見せるさんまを「男のいやらしい態度」と言って「話題」にするわけです。さんまに非があるかのように、これは妙な理屈です。あれは誰が見ても、持ちつ持たれつの関係で、どっちもどっち(小泉首相のパクリですが)関係です。だって、さんまがせっかくきれいなミニスカートをはいてきている娘さんの前で、そういうことに一切知らん顔の大真面目な司会を勧めたりしたら、それもまたむっちゃ不自然な感じがするでしょう。ちょっとぐらいミニの娘達への反応を見せたりーなと関西弁で思うからです。
  私が腹が立ったのは、結局ああいう展開の番組を作ることで、ミニスカートを見る男はいやらしいんだと思っていいんだと思う女性が本当に出てくるんじゃないかと思うことの馬鹿らしさを懸念してしまったからです(ややこしいですけれど)。私はこういう「話題」のことを考えるためには、立場を逆転して考えてほしいと思います。たとえばこういうふうにです。

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  もしスタジオに、月光仮面のようなぴっちりタイツをはいた若い男性タレントが出てきたら、女性達はどこを見るんでしょうか。私はきっと「股間」の「もっこりぐわい」が気になって見ると思います。それは、女性達が「いやらしい」からではなくて、ごくごく自然な反応であり、健全な精神の反応だからです。そういう場面で、男の股間のもっこりぐわいに関心が向かないというのは、不自然で不健康だと私ならそう思います。
 よく中学や高校の体育の時に、体操の男の先生の「もっこり」が気になって、見ない振りしてしながらちらちら見ていたという女子学生はけっこういたんじゃないんですか。男子の水泳部のシンクロを描いた『ウォーターボーイズ』の海パンの「もっこり」にも女子高生の熱い視線がそそがれてましたよね。『フルモンティ』という男のストリップを描いて話題になった映画でも、あっけらかんに男の「股間」に喝采をあびせかける女性達の開放感が描写されていたじゃないですか。いやいや勝ち誇ったように言っているわけじゃないんですよ。
  でも実際には、スタジオでは、そういう格好の男性タレントは現れません。そういう格好は女性の好奇心をヘンに刺激するだけになることがわかっているからです。タイツ姿になるとしても、股間にパットやサポートを当てて「もっこり」が目立たないように、あるいは股間が誇張されないように工夫をしているわけです。気を使っているわけです。男達は。つまり男たちは、自分たちがどういう格好をしたら、「股間」に視線を集めるかわかっているから、そういう格好はしないのです。
  同じことがミニスカートにも言えるんですよ。あの格好はファッションとして素敵であることは間違いないのですが、同時に男の目を「股間」というか「奥にあるもの」に誘うものであることは、月光仮面のファッションと同んなじなんです。そこで、男性は女性のそういう視線を「いやらしい」とは言わないのに、女性はそういう眼差しを「いやらしい」とわざわざ表現するのです。そしてそういう「いやらしいわ」という反応をすることが当たり前の反応のように女性達が感じることが、何かしら、馬鹿馬鹿しいというか、イヤーな感じが私にはどうしてもしてしまうのです。「君らの反応の方がおかしいんじゃないか」って思うからです。
 12月も中頃、寒くなってきたのに、女子高校生は、極端なミニの制服をこれ見よがしにはいて通学しています。女子高生の特権と思っているんでしょうし、今しかはけないと思っているからでしょうし、みんなはいているからはきゃなきゃと思っているからでしょうし、いろんなワケありなんでしょうが、私は正直言ってとっても「猥褻な格好」だと思っています。「まともな格好」じゃないと感じています。繰り返して言いますが、ミニスカートを私は悪いと一度も思ったことはありません。でも、あの制服姿の極端なミニスカートは何かしら異様な「いやらしさ」を感じます。
 あの日も烏丸今出川駅で降りたときに、どこかの女子高生の修学旅行生でしょうか、ものすごい数の女子高生が今出川駅のプラットホームに立っていました。制服姿のその女子高生たちはそろいもそろってミニスカートの集団でした。ホームいっぱいの素足の乱立です。その姿はある意味では異様な姿といえると思います。そんなむき出しの素足の集団が、いっせいにエスカレーターや階段で上るのです。それを「異様な光景」だといってどこが悪いんでしょうか。真冬の今出川駅が、海水浴場みたいになるのはおかしいじゃないですか。私たちは、どこを向いてどういう風に歩けばよかったんでしょうか。
 私はその後、同志社女子大学の方へ歩いて行きましたが、女子大学の構内に入ると私の前に同志社女子高校の学生さんがたくさん歩いていました。でもその女子高生たちは、てんでバラバラなファッションをしています。寒いときですからほとんどの学生はジーパンを履いていますし、思い思いの格好して学校に向かっているわけです。それはとっても自然な姿でした。誰ひとりミニスカートなんかはいているものはいないのです。同じ女子高生の集団といっても、その姿はあまりにも対照的だったといわなければなりません。方や寒い中を、判で押したようにミニスカートをはいて集団で行動する女子高生がいる半面、全く思い思いの服装をして学校に通っている女子高生がいるわけです。
  私はふと今の高校の男子生徒はエライというか、感心してしまいます。いったいあんな超ミニをはいて登校する女子生徒のそばでどういうふうに勉強しているんだろうかと、あらぬ心配をしているからです。もし私がこういう高校にいたなら、頭の中を妄想でいっぱいにして過ごしているんじゃないかと思うからです。そういう時代に高校男子として生まれなかったことを神に感謝すべきだと思うのですが、今の高校生なら、こんな幸せな高校生活はないのにというのかもしれません。
  こんな話はこれでさっさと終わりにしたいと思いますが、私が昔読んでずっと心に残っているエッセイがあります。それは吉本隆明さんの『背後の記憶』(平凡社ライブラリーで安価版が出ています)に収められた「スケベの発生源」という原稿用紙5枚ほどの短いエッセイです。1984年に書かれたものですから吉本さんが60歳のときです。そこで吉本さんはこんなことを書かれてました。

  「おれのどこが一番スケベかなと考えてみる。ひとつめはフェティシズム傾向。どうも覆いがたいようで、街路を歩いていて、若い女性のものと思える下着が干してあるのを見かけると、瞬間、本能的に視線が吸いこまれ、つぎの瞬間にそっれを意識して固くなり、気にかかりながら、目をそらせてしまう。これは思春期からはじまり、いまもほとんどかわらないから、どうも素因的といっていい気がします」

  この大思想家にしてこれかと思うとほっとするやら、うれしくなるやら、のエッセイですが、そういうことを正直に書けること自体がまたすごいなあと妙な感心をしてしまうから不思議です。ブルータスお前もか、と。二つ目も吉本さんは書いているのですが、気になる人は本を読んでみてください。
                                                      『晩年学フォーラム通信』82号