じゃのめ見聞録  No,13

 9月11日 もう一つの「ゴジラ」が来た日

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 上野先生の若かりし頃(37歳頃)に映画「ゴジラ」を論じた「部分的「怪獣大戦争」論・ゴジラの変貌について」(『戦後児童文学論』理論社1967に収録)という評論があります。一気に書かれたかも知れない長編の若々しい力作です。
 最初の『ゴジラ』1954が作られてから、その後次々に類似の「ゴジラ映画」が作られ、10年ほどたった頃第6作目として『怪獣大戦争』1965が作られました。その間の「ゴジラ」のイメージの変貌が若かりし先生の怒りを買ったという評論です。
 最初の白黒の映画『ゴジラ』を見ていない人には、ちょっとこの評論の面白さをお伝えするのは困難なところがあるのですが、まあそれはしょうがないとしておきましょう。ぜひ、この機会にビデオでこの歴史的な最初の『ゴジラ』を見てください。
 映画では、太平洋上の核実験の結果、海底のジュラ紀の地層で生きながらえていた古代の恐竜が、放射能の被爆で突然変異を起こして「ゴジラ」と名付けられるような怪獣に変化して、太平洋を北上し東京湾に迫ってくるというところから始まります。問題は、というか映画の見所は、この「ゴジラ」が東京に上陸し、東京タワーをはじめ、立ち並ぶ有名なビルや鉄道を破壊して歩き回り、また海に戻ってゆくところにあります。自衛隊は、戦車などでこの「ゴジラ」に立ち向かうのですが、全く歯が立ちません。被爆しても死なない「ゴジラ」なんですから、自衛隊が勝てるわけがない。実に不気味な生命力をこの「ゴジラ」は持っているわけです。
 とまあ、映画の筋書きを話すれば、たわいもない、子どもだましのお化け映画のように思われるでしょうね。特に女性であれば、方や外国の素敵な恋愛映画が上映され、方や怪獣映画が上映されれば、きっと恋愛映画に行かれると思います。なんで好きこのんでお金を払って「怪獣」なんか見にいかにゃならんの、と。
 そうなんですが、でも、現実はちょっと違っていて、「ゴジラ」の映画はとってもヒットしてしまったんです。だから、上野先生が評論を書かれた頃は6作目でしたけど、その後1995年までに22作も作られました。そして後で触れるように、1998年には、とうとうアメリカ版「Godzilla」が作られるまでになってゆくのです。
 こうして考えてみれば、「ゴジラ」は、信じられないくらいに長続きしている好成績な映画のシリーズなんですよ。不思議に思わない方がおかしいのですが、はじめの頃は、その魅力がよく分析されませんでした。でも、そんな中で、上野先生のこの評論は、すごく早い時期に「ゴジラ」の特徴をしっかりと分析したとってもすぐれた批評になっています。
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 でも、映画を見ないで、話の要約を聞いただけでも、「オヤッ」って思うことがあるでしょう。それは、この怪獣「ゴジラ」が、何で「岩手」や「長崎」ではなくて大都会「東京」に上陸し、そのあと、次々に高層ビルや町並みを破壊して進むのか、その理由は何なんだという疑問です。映画はただ、そういう街の破壊だけを描いていて、観客はその破壊をずっと見続けているのか、と。実は、そうなんです。この「ゴジラ」は、延々と街が破壊されるのをただじっと見ているだけの映画なんです。自衛隊も誰も止められない。もちろん映画ですから、最後には、片目の芹澤博士の発明した秘密兵器でゴジラを射止めることになるのですが、それはすでに東京を破壊して海に戻ってからの話で、実際の東京での破壊活動は誰にも止められないままに、進んでゆくのです。
 上野先生は、いったいこの「ゴジラが東京を破壊する」という「発想」の魅力の源はどこにあるのかと執拗に追求されています。先生がこの頃に考えた結論は、二つありました。
 一つは、戦後の高度成長を遂げた日本の大都会の繁栄の中で、何かしら取り残されている「貧しさ」があるのではないか。事実、戦後の社会で「豊かになる人々」が増える中で、その恩恵にあずかれない「貧しい人々」との「格差」が広がってきていました。そうした不平等な繁栄の仕方に対する「罰」のようなものとして「ゴジラ」があらわれているのではないかというものです。先生は、そこのところを評論の中でこう書かれてました。

 「格差ある体制、格差ある秩序。それが、繁栄と高度経済成長(という時代像)のかげにある今一つの時代像である。」「怪獣は、そんな格差あるままに系列化し定着した現存体制や秩序への挑戦者としてあらわれているようにわたしたちは受け止めようとしているのではないか。」

 もう一つは、「怪獣の被害」が「一国」にとどまらず、多くの国にまたがることになり、その「対策」が「インターナショナル(国際的)」な仕組みとして問題にせざるを得なくなること、についてです。つまり、第二次世界大戦の後、世界の国の間に繁栄の格差が生まれてきています。そういう国家間の格差を破壊するように怪獣が動き出しているように映画では見てとれていたからです。そこのところを先生はこう書かれてました。

 「ゴジラでもいい、ラドンでもいい、それらの超大な破壊行為が、「冷戦」と呼ばれている大国間の対立や確執を、また、大国と小国、先進国と後進国の壁なり格差なりを、一挙に破壊しつくすこと。その結果、獲得される均等性への期待。破壊を通じて獲得できるインターナショナリズム。」

 ちょっと難しそうに書かれてますが、言いたいことは、現実の「インターナショナル(国際性)」は、名前のとおりいかにも「国際的」のように見えていても、実際には特定の大国の文化優位の国際性であって、現実には格差を広げるだけの、国際的でない国際性になっているのではないか、と。それを先生は「偽の国際性」と書かれていて、そういう「偽の国際性を破壊する」ように怪獣が動いているように見えると先生は考えたわけです。
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 こういう話をなぜ今回取り上げたのかというと、大都会東京が、ただ無慈悲に破壊されるという物語が、本当に残酷な物語であるだけなら、こんなにシリーズで異様に長い時期にわたって人々の人気を得るわけがなく、そこにはきっと人々の感性のどこかに訴えるものがあったからではないかということを考えるためです。それは、「ゴジラ」も悪いけど、こういう「破壊者」を生まざるを得ない文明にも、どこか「責任」があるんじゃないかと人々は直感的に感じているところがあったからなんです。
 そこで、いよいよ大事な話をしないといけなくなってきています。それは、この「ゴジラ」のシリーズの人気に目をつけたアメリカの映画会社が、東宝と交渉しアメリカ版ゴジラの第一作を1998年に作ったという事についてです。
 この映画で、「Godzilla」は、ニューヨークに出現し、街のビルを破壊し走り回ります。ニューヨークが怪獣に無惨に破壊される、そんな映画をなぜアメリカの映画会社が作りたかったのか。そういう設定が、ニューヨーク人にとって決して絵空事のようには受け止められないだろうという直感が、アメリカの映画会社の首脳部にあったからなんでしょう。その結果といってはおかしくなるのですが、多くの人が予感していたように、2001年9月11日、そのニューヨークで、無慈悲で残酷な同時多発テロが起こり、ツインビルが破壊されるという事件が起こってしまいました。
 まるで、「ゴジラ」の映画のように、ただただ無慈悲な破壊活動だけが引き起こされ、人々はただただ逃げまどうだけの出来事が現実に起こりました。確かに、この悲劇そのものは、どこからどう見ても許されるものではないのですが、多くの人々は、あのツインビルが、実はアメリカの豊かさや繁栄の象徴であり、そのアメリカの繁栄を支えるために、自国の地下資源をアメリカに送り出し、自国が貧しさの中に取り残されているという国々が世界にはたくさんあるんだということを知っています。「豊かさ」は、もっと世界中で共有されなければならないのではないかと。
 みなさんは、海外旅行されたときの飛行機の機内食のことをご存じですか。多くの人があれを全部食べることはありません。毎日何トンもの機内食が手づかずのまま無造作に捨てられています。ホテルやレストラン、マーケットなど至る所で、同じように手づかずのままの食料が、山となって毎日捨てられています。すべてあわせたら、一日でいったい世界中でどれだけ自然の資源が無駄に捨てられていることか、自失するほどです。飽食の時代です。あの『千と千尋の神隠し』で描かれた山ほどの食料を前にした人々の姿。でも、その一方で、何も食べ物が無く餓死する人々の国がある。なんで、こんなに恐ろしい文明の格差が生まれてきているのか。
心ある人は、どこかおかしい、と思っているのですが、どこがどうおかしいのか、うまく言うことはできないでいます。そんなかで、「ゴジラ」が現れ続けていたのです。アフリカやシベリアに、ではなく、まさに、大都会のど真ん中に、です。
 本来の「ゴジラ」映画は、そういう文明批判の視点を持ったものだったのに、シリーズ化される中で、だんだん娯楽色の強い、「みんなに好かれるゴジラ」に変化させられてきていると、当時の上野先生(「飢えの先生」?)は批判されていました。この「ゴジラ」とは何だったのかというテーマは、あの9月11日のニューヨークの惨劇が起こった現在、改めて考え直してもいいテーマだと思われます。アメリカ人は、この「ゴジラ」というテーマを自ら創ることができなかったから、日本から輸入しようとしたのです。でも、アメリカ人は、「本物のゴジラ」がくる前に、もっと彼ら自身が産み出した「ゴジラ」のテーマを自覚すべきだったように思われます。
 日本で生まれた最初の『ゴジラ』の最後のシーンでゴジラが死ぬとき、山根博士が「このゴジラが最後の一匹だとは思えない」とつぶやく有名なせりふがあります。再びテロがどこかで起こる可能性が予感されているのです。