じゃのめ見聞録  No.87

   長新太の絵本 『あかいはなと しろいはな』考


2007.10.1


 赤い花の真ん中に、女の子の頭だけが見えている。「きもちのよい あさ」。次のページには、花の真ん中で、目を開いて顔だけを出しているおかっぱの女の子。「わたしは めが さめました」。その子が「おさんぽしましょ」とでかけてゆく。そして湖のような所にでかけていって「さかなさん、ちょっと、みせて」と声をかける。何を見せてほしいのか、ここではわからない。すると、次のページで、魚が逆さになって、しっぽの所にある綿帽子のような白い花を見せてくれました。「さかなさんのは、しろいはな」。その花をずっと見ていたら、夜になってしまった。画面一面に、夜の湖が広がり、その真ん中に小さな白い花が一つ浮かんでいる。「いい、かおり」。すると、さかなさんは、「そっちの 花もみたいね」といいました。次の朝、赤い花の中で、女の子が目を覚ますと、さかなが空からやってきました。そして、花に近づいて目を細めて「いいかおり」といってくれました。「あかいはなと、しろいはな」。不思議な、とても不思議な、言葉では言い尽くせない際だった不思議な絵本です。
何が不思議かというと、花の中に住む女の子というのが、異様です。ヨーロッパ風にいえば「花の妖精」というふうに言えるのでしょうが、でも、可憐で、妖艶で、意地悪を死そうな「妖精」のような雰囲気はまったくない、ふつうのおかっぱの女の子が描かれている。その子が、一人で湖に行って、魚の白い花を一日中見て、帰って行く。そんな赤い花を、今度は魚がたずねてゆく。空を飛んで。
 説明のつけようのない展開であるが、しかし、この絵本に流れる不思議な叙情というか哀愁の時間に、言葉にはできないやわらぎを感じさせられる。いったいこのやわらぎの感じはどこからくるのか。
 もちろん、花の中のおかっぱの女の子といえば田島征三『ふきまんぶく』偕成社1973の表紙の絵を思い出される方があるかもしれない。ひょっとしたら、イメージのルーツはこういうところにあるのかもしれないが、しかし、「花」と「女の子」のイメージは、全然違っている。比較にはならないほど、違っている。
 また、これはある種の解釈好きな読み手にとっては、「花」は「女性の性」で、「魚の花」は「男性の性」で、お互いに「いい かおり」を感じあっている、というように見て取ることができるかも知れない。確かに『イメージ・シンボル事典』の「さかな」の項目には、「1、生命、豊饒、豊富を表す。2、男のセックスを表す。3、女のセックスを表す。4、再生、不滅を表す・・・」などと書いてあるから、そういうふうに見て取る人がいることはいるだろう。しかし、普通にこの絵本を見れば、そういう「解釈的な見方」は、全面には出てこないと思う。
 たぶん、「赤い花」にいる「女の子」と、「白い花」をもった「魚」が、大きな湖を舞台に出会って、ゆききし、お互いの「かおり」をかいで「いいにおい」と感じる日々を過ごすという、そんな雄大な構図の絵本を私たちは他に見たことがないはずである。それは不思議というか、奇跡というしかないような構図なのである。たぶん、長新太の絵本群の中では、もっとも情緒的で、他に比較するものをもたない(シリーズにはならない)絵本として存在しているのではないか。
 こうして、さっきの問いにもどることになる。この絵本から感じる「やわらぎ」の感じはなにかと。「花」だけの世界を描いても、それはそれで絵本にはなる。「女の子」だけを描いても、それはそれで良い絵本ができる。「魚」の世界を描いてもしかりである。しかし、「赤い花」と「少女」と「魚」と「白い花」と「湖」は、どんなに逆立ちをしても結びつかない。そんなものを結びつけられる人がいたら「おかしい」。それらは「別々のもの」であり、あまりにも「別々のもの」でありすぎるので、結びついたら「おかしい」のです。実際に「魚」が水から出て(さらに、空を飛んで)しまうこと自体、異様ですからね。でも、そんなことをやってしまったのが、この絵本です。そして、その結果、私たちは、「赤い花」と「少女」と「魚」と「白い花」と「湖」が、ひとつづきにつながっているのを見て、ああ、そんなものがつながっているんだ、つながってもいいんだ、というような妙な安心感というか、安堵感のようなものが出てきて、それは「やわらぎ」としか呼びようがないのではないか、と私は感じているのです。

注:余談ですが、「香魚(こうぎょ)」というのは「鮎(あゆ)」のことを言うんだそうです。

                『あかいはなと しろいはな』 教育画劇1996