じゃのめ見聞録  No.86

   長新太の絵本 『もじゃもじゃしたものなーに?』と
『はるですよ ふくろうおばさん』



2007.9.1


  なぜこんな絵本を長新太は描くことになったのか。偶然さ、思いつきさ、と思われるかも知れないが、どうもそうではなさそうなのだ。
「もじゃもじゃしたものなーに?」ということで、彼は、順番に「ひつじ」「モッコ「イソギンチャク」「じゅうたん」「髪の毛」「ひげ」「いぬ」「セーター」「毛がに」「とうもろこし」「オランウータン」「ダチョウ」「森」ときて最後に「ライオン」が描かれる。まるで「もじゃもじゃしたもの」を思いつくがままに並べてあるだけではないか、というような絵本である。幼稚な発想、幼稚な構成である、ようにみえる。なんで、こんなものを彼は描こうとしたのか。
  一つわかることは、これら全然別々のものが「もじゃもじゃしたもの」という一点において、何かしらつながっているということである。これらのほとんどは「毛」と呼ばれているものなのだが、もしこの「毛」とは何かと作者が問うているのだとしたら、これはやっかいである。『広辞苑』では「毛」は、こんなふうに説明されている。

 け【毛】
〓哺乳類の皮膚に生える糸状角質形成物。皮膚の毛嚢もうのうにおさまる部分を毛根、外にあらわれた部分を毛幹、先端を毛先という。
〓髪。毛髪。ごくわずかな物事のたとえにもいう。「―ほどのすきもない」
〓羊毛。毛糸。「―のシャツ」
〓鳥のはね。羽毛。「鳥の―をむしる」
〓物の表面に生ずる細い糸状の物。
〓表皮細胞が細い糸状をなしたもの。高等植物に普遍的に見られ、形態・機能ともにさまざま。「タンポポの―」

 要するに、毛は皮膚の角質化によって生じたもので、鱗や鳥類の羽毛と元は同じだという説明である。生物学的にはそういうことなのかもしれないが、体の中に「もじゃもじゃしたもの」は確かにあるわけで、それはたとえば絡み合った二本の染色体というか、遺伝子DNAなんぞも「もじゃもじゃしたもの」といえばいえるものなのではないか。
 もし「もじゃもじゃしたもの」というのが、そういうものであるのだとしたら、そういうもので、私たちはできているわけで、それがいかにも「もじゃもじゃ」というふうに「見える」ものになると「毛」と呼ばれてきたのではないか。
 つまり何が言いたいのかというと、細かく見ればそれは「もじゃもじゃしたもの」なのであるが、遠目に見るとというか、目線を引いてみると、そこに「ひつじ」「モッコ「イソギンチャク」「じゅうたん」・・・というふうなものが見えてくる。作者が意識しているのは、そういう「もじゃもじゃしたもの」というのは、ある意味での白い紙の上に「くれよん」で書いた「もじゃもじゃ」に似ているというところである。はじめは、白い紙の上に「もじゃもじゃ」と書いているのだが、しだいに遠目に見ると「ひつじ」や「オランウータン」や」「ライオン」に見えてくる。でも、それららも目をこらして見てみたら「もじゃもじゃ」した線でできているのがわかる。
 この作品が問うているのは、この見かけは別々のように見えている「もじゃもじゃしたもの」と、それら別々のものがその根本で依存している共通した「もじゃもじゃしたもの」は何か?という問いである。「もじゃもじゃしたものなーに?」という問いかけは、そういう問いかけになっている。それは生物学的な問いかけであると同時に、美学の根本というか「絵」というものが成り立っているもののその根本を問う質問にもなっている。
 生き物は、その根本に「もじゃもじゃしたもの」が共通してあって、それが「進化」によって、ある姿、形として織り上げられてゆく、そういう「織物」のようなものである。『はるですよふくろうおばさん』が、織物というか、編み物をするフクロウとして描かれるところが、意味深い。
 すでに『どうぶつあれあれえほん2 ぼうし』1971の中で、彼は毛糸で編んだ帽子をたくさんな動物にかぶらせて、大きすぎたり、小さすぎたりする、そのおもしろおかしい姿を描いていた。ここに「毛糸」と「帽子」というテーマがあるのだが、『はるですよふくろうおばさん』というのは、まさに寒がりの「ふくろうおばさん」が、自分の体はおろか、森全体を毛糸の帽子で覆ってしまうという話なのである。その結果、春になると帽子をかぶった森中が暖かくなりすぎて(温暖化といえばいいんでしょうか)、森に住む動物たちが群れをなして飛び出してくる、という展開になっている。そこで、動物たちは「ふくろうおばさん」に毛糸をほどいてくださいとお願いする。最後には、森のそばに巨大な丸い毛糸の玉が描かれ、「ふくろうおばさん」が「ホーホー」といいながらそのそばを飛んでいる姿が描かれている。
 ここには『ぼくのくれよん』に通じる発想がある。そこには、ぞうくんの書いた赤い色を火事と間違えて、動物がいっせいに逃げ出してくる構図である。つまり、「手編み」や「手書き」の度が過ぎて、まわりのものが「めいわく」をして逃げ出してしまうという構図である。そういう「ふくろう」や「ぞう」は、長新太自身の姿であり、それは絵描きや作家・芸術家に関係するテーマで、「制作物」が「現実」を超えていって、まわりのものが「迷惑」をする構図である。そういう作品を描くというのは、「絵」が「制作物」なんだという冷静な現状認識と、「制作物」と「現実」のせめぎあい、というか、相互干渉の問題が提起されている。

                『もじゃもじゃしたものなーに?』 文研出版1975
                『はるですよふくろうおばさん』 講談社1977