じゃのめ見聞録  No.85

   長新太の絵本 『ぼくのくれよん』考


2007.8.1


 『ぼくのくれよん』1973は、象が太いくれよんで描いた青い池を、本物の池と間違えて、飛び込むカエルや、赤く塗った色を山火事と間違えて、森の動物がいっせいに逃げ出す様子、黄色く塗られたものをバナナと間違える動物を描いた絵本である。そんな馬鹿なことがあるもんか、それはナンセンスな絵本だという人もいるだろう。しかし、これがナンセンスな話と決めつけるのはちと早すぎる。というのも、「描かれた物」を「本物」のように見てしまうというようなことは、子どもの遊びではしょっちゅう起こっている(たとえば、砂場のプリンは、ただの「砂」でしかないのに、子どもたちは、それを「プリン」とみなして、ままごとをしている)からだ。しかし、そんな例よりか、『ぼくのくれよん』の表紙に描かれた「くれよん」を見た子どもたちは、それをまず「くれよん」と思ってしまうことや、その後に描かれた「ぞう」を本当に「ぞう」だと思って見ていることも、「取り違え」が起こっていることにはならないのだろうか。ただの紙の上に書かれたものなのに、子どもたちは、「本物」と取り違えている。「間違えている」訳ではないが、確かに「取り違え」を起こしている。芸術とは実はそういうものではなかったのか。そういう意味では、「表現されたもの」をいかに「本物」と取り違えをさせるかが、芸術家の腕の見せ所ではなかったか。
 だから作者は、わざわざ、黄色く塗ったページの下に「くれよんでかいたばななは たべられません」と挑発的に書いていたのである。そのことをふまえて、改めて『ぼくのくれよん』を見てみると、描かれた青い池を、本物の池と間違えることや、赤く塗った色を山火事と間違え、黄色く塗られたものをバナナと間違える森の動物を描くことは、決して幼稚な動物やナンセンスを描いた作品だとは言えないことが見えてくる。むしろ、芸術が抱える古典的なテーマを、こんな子ども向けの絵本で描いていることに、改めて驚かざるを得ないのではないだろうか。大事なことは、この絵本では、「青い色」「赤い色」「黄色い色」が強烈に、画面いっぱいに塗られているところである。いかにも絵本は色だ!と主張しているような作品である。事実、そこに塗られるのが「青い色」であったから、カエルは「池」と間違え、「赤色」に塗られたから「火事」と間違えたわけで、これが白黒絵本であったならとうていこの絵本の面白さは伝わらなかったであろう。絵本が色で出来ているということ、文字や物語ではないんだということ、これは長新太が最後まで主張し続けたことであった。この絵本の最後に作者は、ぞうが「まだ かきたらないみたいで、くれよんをもって かけだしました」と書いていた。芸術家の闘争宣言である。

                                   『ぼくのくれよん』 新進1973