じゃのめ見聞録  No.83

アニメ『ゲド戦記』と原作『アースシーの物語』への「案内」
                         ・・・後半



2007.6.1


 もくじ

 Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ

  1 「歩く」主人公
  2 「二人で歩く」というテーマ
  3 「一番手を生きる者」を描かない 
  4 「二人目の父」「二人目の母」

 Ⅱ 原作『アースシーの物語』へ

  1 「案内」の問題
  2 『アースシー物語』への「案内」
  3 「アースシー物語」が「案内」しょうとしていたもの
  4 第2巻『アチュアンの墓所』
  5 第3巻『さいはての島』 ―「二つの世代」が補い合い、力を合わす姿―
  6 第4巻『テハヌー』
  7 原作をアニメ化することの問題点
  8 宮崎駿さんは『アースシー物語』をアニメ化できなかったのではないか
  9 『アースシー物語』はどこをアニメ化すると原作に近くなるのか




 Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ ・・・(5月分から)


 Ⅱ 原作「アースシーの物語」へ

 1 「案内」の問題

 「作品」には、視聴者をどこかへ「案内」してくれる人(仕組み)があります。殺人事件を扱う作品であれば、視聴者は最後には「犯人」のところへ「案内」されるわけで、そういう案内役に「探偵」がなったりします。そういう意味では、作品の中で起こった事件や出来事が、なぜ起こったのか、それを「説明」する案内人(仕掛け)がちゃんとある作品では、視聴者は最後には「腑に落ちる」形で、「納得して」作品を見終えるということになります。『名探偵コナン』などは、そういう意味ではとても丁寧に「案内」が仕掛けられていて、見終わると、「よくわかった」というふうな満足感に包まれることになっています。
しかし、「よくわからない」と感じる作品もあります。ピカソの絵などはよくわからない、と感じます。しかし、「わからない」から作品が駄目だということにはなりません。少し見る視点を与えてもらえば、がぜんその作品が「おもしろく」みえてくることはざらにあるからです。その場合の作品の「案内」は、作品の「外」にあるということになります。つまり「批評」や「解説」の中にあったということになります。いい「批評」に出会うということはとても大事なことですし、きちんと「批評」されないと「作品」はちゃんと見えてこないことは多々あるのです。現実には歴史の中で「作品」と呼ばれてきたものは、すべてたくさんな「批評群」と共に歩んできたもので、「作品」が「一人」で歩んできたことはないのです。ここにも当然「二人で」というテーマが潜んでいます。それはともかくとして、この「批評」をここでは「案内」と呼んでおくことにします。
 別な例をとれば、英語やフランス語の映画や小説は、そのままでは「わからない」ものですが、翻訳されれば「わかる」ようになります。翻訳もまた「案内」の一つの形です。「作品」と「観客」は、いかにも直接に向かい合っているように見えて、実際にはふだんはあまり自覚はされないけれど、その間に「案内」が入っているものなのです。図式的に書けばこういうふうになるでしょうか。
「作品」-(案内)-「観客」
 ですから、どんな「案内」に出会うのかによって、その作品が「おもしろく」なったり、つまらなく感じたりすることがしばしば出てきます。作品と観客の間には、目には見えないけれどいろんな「案内人」がいて、それが「観客」をあちらこちらと「誘導」したり「先導」したりしています。ですから、どういう「案内人」に出会うかによって、うまく「作品」に出会えたり、出会えなかったりすることがでてきます。変な風に作品に「案内」されることもありますからね。だから、いい「案内人」に出会わなかった作品は不幸だと言うことになるでしょうし、いい「案内人」に出会わなかった観客もまた不幸だと言うことになるでしょう。
ここに興味深いエピソードが一つあります。能登路雅子『ディズニーランドといいう聖地』岩波新書の最初に書いてあるエピソードです。それは彼女が夫とはじめて「ディズニーランド」へいったときのことでした。彼女の夫は、元オペラ歌手で、大衆文化を軽視、軽蔑しているところがあり、そういう人から見ると「ディズニーランド」は通俗的で軽薄で見るに堪えないものとして映るので、遊園地を回る間、見るもの聴くものすべてを彼はずっとけなし続けていたというのです。そして最後には「これらは全部ニセモノだ」と彼が言ったりしたので、彼女もとうとう「ディズニーランド」の面白さを感じないままに帰ってきてしまったというのです。ところが翌年ブラジルの若い夫妻と三人で再び「ディズニーランド」に行く機会があって、その時は、この若い夫婦が見るも聴くものすべてに感激して園内を回るので、同行している自分も知らぬ間に、人並みに「ディズニーランド」を楽しんでいたというエピソードです。
「人生」にもある意味での「作品」みたいなところがあります。それを前にしてどんな「案内人」に出会うかによって「人生」の見方が大きく左右されることがでてくるからです。「人生」を小馬鹿にし、軽視する「案内人」に出会ったら、そんなふうにしか「人生」を感じなくなることも起こってきます。どんな「案内」に出会うのか、そこんところはけっこう大事なところなんだと私は思っています。

2 『アースシー物語』への「案内」

そのことを踏まえて『ゲド戦記』のことを少し考えてみたいと思います。
 「ゲド戦記」と呼ばれているシリーズの物語は、確かに「ゲド」の「戦い」という側面を持つ物語なのですが、原作では「ゲド戦記」と呼ばれているわけではありません。もともとの原作のシリーズ名は「アースシー物語」というもので、「アース(大地)」と「シー(海)」の物語とでもいうべきものでした。でもこの物語が発表された当時(1968年)」、日本国内では大学紛争が激化しはじめていた頃でもあり、翻訳者の清水真砂子さんは、いろいろと考えられた末に、この物語を読者に手にとってもらうために「案内」として「ゲド戦記」というネーミングを考えられたと思います。時代はまさに「大学ー戦記」の時でしたから。そして事実、この「戦記」という言葉のイメージに導かれてこの物語を手にされた方が多かったのではないかと思われます。実際にも、この「ゲド戦記」というネーミングの「案内」はうまく「物語」に人々を導いてくれていたと思います。
確かにこの「アースシーの物語」の1巻では「ゲド」の「戦い」が「見える」物語になっているので、「ゲド戦記」という命名はふさわしいと思います。でも、2巻目からは、予想していたようには「ゲド」の「戦い」は中心になってゆきません。3巻では新たにまた「戦い」が激しく繰り広げられるのですが、「戦記」という言葉から想像されるのとはだいぶ違った「戦い」が展開されてゆきます。
 そんな3巻目が1972年にでて、それから18年たった1990年に第4巻が発売されたときは、さらに「ゲド戦記」というシリーズ名は似合わないような物語の展開になってきていました。この巻では「ゲド」はもうすっかり「戦う人」のようには描かれていなかったからです。
しかし、実際には第4巻は、それまでの巻をしのぐ味わい深い物語が展開します。この巻を読まれた方はきっと深い感動を覚えると思います。いい作品を読んだなあときっと満足される事と思います。
 そうなると、一つの「問題」が生じてきます。「戦記もの」としてこのシリーズを読もうとしてきた人にとっては、第4巻はおや?と思うしかない物語のようにしか見えなくなってくるからです。ここに「案内」の怖さがあります。はじめは「ゲド戦記」というネーミングが、この物語への格好の「案内」になっていたのに、第4巻では、そのネーミングにつまずいてしまうようなことが起こってくるからです。
しかし、もう一度元に戻ってみる必要があります。そもそもこの物語は「ゲド戦記」ではなく「アースシーの物語」として作られていたので、なにかが途中で大きく変わったわけではないのです。最初から抱えていた作品のテーマが、第4巻でさらに深められ、うんと考えさせられる所に「案内」されるものになっていた、というだけなのです。

3 「アースシーの物語」が「案内」しようとしていたもの

そこで原作の『アースシーの物語』を振り返ってみて、この作品はそもそもどこへ読者を「案内」しようとしていたのかを考えてみたいと思います。第1巻は、翻訳の題は『影との戦い』ですが、原題は『アースシーの魔法使い』となっています。ここにも翻訳者・清水真砂子さんの苦心が読み取れます。『影との戦い』はまさに内容をよく表した題になっていて、これが『アースシーの魔法使い』と題されていたら、人々はあまり関心を払わなかったかもしれません。「なんだ、魔法ものの、子ども向けのお話しか」ときっと早合点され、見向きもされなかったかも知れません。しかし、第1巻は決してそんな「魔法もの」や「子ども向けの話」ではありませんでした。
 この第1巻は、おそらく最もよく知られている巻なので「説明」することもないのかもしれませんが、それでも大事なところを見失わないように、少しだけ「案内」をしておきます。
 この1巻では、「ダニー」と呼ばれていた少年が、少しまじないの言葉を覚え、タカを呼び寄せる術を手に入れてから、村の子どもたちはその子に「ハイタカ」とあだ名をつけて恐れるようになります。そして彼が「13歳」になったとき成人式が行われ、そこで「ゲド」という「真(まこと)の名」を賢人オジオンからもらうことになります。そしてゲドは、本格的に「魔法」を習うために「ローク島」の「魔法学校」へ入り、修行することになります。そんな彼が19歳になったとき、いつしか禁じられていた死者を呼び出す魔法を使ってしまいます。そして呼び出してしまった「死の影」に追われて、まさに「死に淵」まで追い詰められるのですが、賢人オジオンからその「影」を逆に追うように言われます。最後は、その追い詰めた「影」が、実はもう一人の「自分」であって、それと「合体」することで、より「大きくなった自分」を取り戻すという話の展開になっています。
 現実の「13歳」から「19歳」くらいの若者を見てみると、確かにこの物語のように、「死の影」に出会う若者たちがいます。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』や『デミアン』は、まさにこの年代の主人公が「死の影」に直面し、「死の側」に引きづり込まれたり、そこから生還したりする小説として作られていました。「ゲド戦記」の第1巻『影との戦い』は、まさにそういう青春小説のテーマを色濃く持っていて、「死の影」と戦う若者を迫力満点で描くことに成功しています。いや小説では得られない、物語特有のスリルと感動をもった作品に仕上がっていると思います。
原作者はこの作品の中で、主人公が「ダニー」「ハイタカ」「ゲド」と名前を変えながら、「死と向かい合い」、それを克服してゆくところを読者に見てもらうように「案内」しようとしています。その若者の姿には、古代から続く「成人式」を通過してゆく姿が織り込まれています。昔の成人儀式は、死の儀式でもあり、子どもの自分を殺して、新しい大人の自分を立ち上げてゆく儀式としてあったからです。そういう古代から引き継がれてきた青年を育てる知恵に、作者が「案内」しようとしていました。
わたしはこの第1巻で、まず大事なところは、「名前」の仕組みを描いているところだと思います。人々は「名前」を呼ぶことで、その「対象」を呼び寄せてしまいます。そして時には、そのその呼び出したものに取り憑かれてしまうことも起こってきます。そういう「名前」にまつわるさまざまな出来事を描いたところはすごいと思います。
 もう一つこの第1巻の大事なところは、「ゲド」が「カラスノエンドウ」と呼ばれる友人と二人で「影を追う旅」をするところです。特に、「ゲド」が一人で「死の影」を克服するのではなく、友人と共に旅をすることで「死」を克服するように描かれているところが大事です。そこのところがとても大事だと思います。この友人は、何を手助けしてくれるというわけではないのですが、一緒に道行くことをしてくれることでゲドを支え、「死」から戻ることを支えてくれているのです。そのことを作者は描いています。
 このテーマは第3巻で「ゲド」と「アレン」の二人の旅として、再び描かれ直しされます。人生は「一人で歩む」ことの中に現れるのではなく、誰かと「共に歩む」ことの中にこそ現れるというテーマを、原作者は追究していて、それは「戦記」という戦いのイメージだけでは決して見えてこないものでもありました。そして実は、このテーマ(つまり「共に」というテーマ)こそが第4巻に、想像を絶する形で深められ、表現されているものであって、その第4巻につながってゆくものが、すでに第1巻からあったということなのです。

4  第2巻『アチュアンの墓所』

 第二巻の翻訳の題は『こわれた腕輪』ですが、原題は『アチュアンの墓所(ぼしょ)』となっています。「こわれた腕輪」というのは、アースシーの世界に紛争が起こり、その戦いのさなかに割れてしまった腕輪のことで、その割れた腕輪は、世界の割れを象徴しているものでもありました。物語としては確かに、こういう割れた世界が背景にあり、その世界を再び統一するために、割れて分かれてしまった二つの腕輪を一つにするという物語を背後にもっているのですが、物語の大半は実は原題がそうなっているように、「アチュアン」と呼ばれる大きな地下の墓所を守る巫女(みこ)の「テナー」という娘の話が中心に展開しているのです。彼女は、5歳の頃に親から無理矢理引き離され、「アルハ」と名前をつけられ、一生涯、巫女として生きることを強制されています。「アルハ」とは「喰らわれし者」という意味だといいます。不吉な名前です。そして、その強制生活の中で見習いの巫女を14歳までに終え、15歳で成人式を迎え、さらに大巫女としてたち振る舞わなくてはならなくなっています。
 そんな中で、しかし「アルハ」の価値観を揺らし続ける友人の巫女がいました。「ベンセ」と呼ばれる幼なじみの巫女です。彼女はアチュアンの巫女の暮らしが嫌で、「外」の世界へ出たいと常に思っていました。そしてその話を「アルハ」にし、「アルハ」も不思議な考えだなと思いながらそれを聞いて育ってきました。しかし、やがて「アルハ」の心の中にも、こんな暗いアチュアンの墓所を守るだけで一生を過ごしていいのだろうかという疑問がでてきます。
 そして、大巫女になった「アルハ」は、彼女を監視する年上の巫女「コシル」や、下男の「マナン」の指導の目をくぐり抜け、自分の力で、地下の墓所を探索するようになります。そこは「迷宮」と呼ばれる真っ暗な場所で、一度迷い込むと二度と出てこられないおそろしい場所でした。しかし、「アルハ」は、恐怖心と戦いながら、持ち前の気丈夫さを武器に地下の迷宮の探索を続行してゆきます。
 こうした要約をするだけでも、この第2巻が、「ゲド戦記」という「戦記物」とはほど遠いイメージの中で展開していることがわかっていただけるかと思います。そういう展開の中で、この第2巻が「案内」しようとしているところを短く言ってしまうと、「闇を押しつけられている女性」が自ら「闇」を探索し、そこから自分を「解放」する道を見つけ出す物語だと言えると思います。あたかも「ゲド」が恐ろしい「影」を逆に追い詰めることで、そこから「自由」を手にしたように、女性の「アルハ」は地下の「闇」を相手にするということで、そこから脱出する糸口をつかんでゆくのです。その「闇」から出るきっかけを与えてくれるのが、友人の「ベンセ」であり、物語の後半にやってくる「ゲド」であったわけですが、でも、「ゲド」は決して「アルハ」を助ける勇敢な騎士のようにはたち振る舞ってはいません。墓所に迷い込んだ「ゲド」はすでに「魔法」も使えなくなっている弱々しい男に過ぎませんでしたし、むしろ「アルハ」が「ゲド」を助ける役すらしています。そして、しだいにその助ける男に逆に助けられ、自分の元の名前が「テナー」であったことを教えられ、とうとう最後には「迷宮としての墓所」の脱出に成功するという展開を迎えてゆくのです。
 そういう意味では、第1巻の『影との戦い』では、「ダニー」という少年が「ハイタカ」や「ゲド」と呼ばれて成人してゆく中で「影」とぶつかる青年の姿を描いていたように、第2巻は、「アルハ」と呼ばれて育った娘が、成人し、「闇」とぶつかる中で、自分の元の姿を見いだしてゆく女性の戦いの姿を描いているものになっていました。
 ただし両方の作品に共通しているものがありました。それは主人公が「一人」で道を切り開いてはいないという物語の展開です。つねに誰かと共に道を切り開いてゆく、それが1巻と2巻には共通して描かれているのです。

5  第3巻『さいはての島』 ―「二つの世代」が補い合い、力を合わす姿―

 第3巻『さいはての島』は、おそらく多くの人がもっとも面白いと感じてきた作品ではなかったでしょうか。原題も翻訳名と同じ『さいはての島』でした。この巻ではすでに「世界の均衡」が破れてきて、争いや病気が人々の間に広がり始めていることが語られます。そして、その原因に「ハブナーのクモ」と呼ばれる男が関係していることがわかってきます。そして、その「世界の不均衡」から世界を取り戻すために、エンラッドの王子・アレンとゲドが、「旅」をすることになります。アニメ『ゲド戦記』はいうまでもなく、ここを描いているのですが、もし、原作の第3巻が、「ゲド」と「アレン」が「クモ」をやっつける話でしかないのなら、それはまあよくある冒険物語だとしてすませてしまえるものです。そういう冒険物語は、子ども時代に読むとおもしろいものでしょうが、大人が読めばあまりおもしろいとは思えないことが多いものです。
 しかし、じっさいに第3巻『さいはての島』を読まれるとわかるのですが、この作品は、ただ「ゲド」と「アレン」が「クモ」をやっつける話にはなっていなのです。もし、そういう冒険物語を作者が描きたいのなら、何も「ゲド」と「アレン」の「二人」を登場させなくてもいいはずです。「ゲド」が「一人」で世界の均衡を乱す「クモ」を探しに行き、そこで勇敢に戦って勝利を収める。そういう展開でもよかったはずなのです。でも、作者はそんなことをしないで、「アレン」という若者を登場させて、彼が「ゲド」と一緒の旅をすると言う設定をあえて描いているのです。これはちょっとへんな設定だとは思われませんか。この物語が「ゲド戦記」なのだとしたら、まさにこの巻は「ゲド」が中心の「戦記」になってもよかったはずなのに、そんなふうにはなっていないのです。
実際に、ここで描かれる「ゲド」は、そんなに強い勇者ではなく、「旅」の途中で「アレン」もしばしばその「強さ」を疑ったりしています。この人にこのままついて行っていいのだろうかと。事実、この巻でも私たちが期待するようには「ゲド」は、勇者として、ヒーローとして活躍するわけではないのです。
 とすると、この第3巻『さいはての島』は、何を描いている作品になっているのでしょうか。それはまさに「ゲド」と「アレン」の「二人の旅」そのものなのです。それを描くことが主要なテーマなのです。つまりこの巻でも作者は「ゲドの戦記」を描いているのではなく、「さいはて」に向けて、「ゲド」と「アレン」が「旅」をするその「二人の姿」を描くことが主要なテーマになっているのです。
 丁寧に読むとよくわかるのですが、旅の道中で「二人」はお互いの距離感を感じながら、時には疑心暗鬼になりながらも、支え合い、目的を達成するように動いてゆきます。その場合の「二人」とは「若さを持つもの」と「知恵を持つもの」の「二人」です。この「二人」には、お互いにないものがあります。自分にないものを相手が持っているのです。それが「二人」という意味です。それは別の言い方をすれば、「世代の違う二人」といってもいいかもしれません。「若い世代」と「老いの世代」。この「二人」には、ともに無いものが相手にあります。
 「世界の均衡を崩すもの」がでてきたというような、そんな世界の大事件に立ち向かうには、実際には「老いの知恵」が必要ですが、それだけでは立ち向かうことができません。そこには「若さという力」も必要なのです。原作者は、「世界を救ったり」「世界を変えてゆく」には、この「異質な力を持つもの同士」が「共に力を合わせて歩まないと」道が開けないことを訴えているところがあるのです。つまり、派手なアクションだけで世界が救えるのではなく、「異質な二人」がお互いにない力を引き出し合う旅をつづけながら、ようやく実現してゆけるものがある、そう訴えているところがあるのです。

6 第4巻『テハヌー』

 そして第3巻から18年へ第4巻が発表されます。衝撃的な内容の物語でした。たぶん、おそらく『アースシー物語』の中では、もっとも興味深い、深みを持った作品になっているのではないかと私は思います。
 第4巻は、日本語の題としては「帰還」となっています。この題のつけかたは、最初の「ゲド戦記」というネーミングを生かすために、そのイメージを失わないようにするために、たぶんあえて選ばれてつけられていると思います。つまり第3巻が、「ゲド」が、死の淵から竜の背中に乗って生還してきたというところで終わっているので、そこから始めるために、つまり、この第4巻も「ゲドの物語」であることを意識してもらうためにあえて『帰還』という翻訳名を与えているのです。しかし、実際の第4巻の原作の題は『テハヌー』となっています。「テハヌー」とは、この第4巻で新しく現れる娘の「真の名」です。つまり、この第4巻はすでに「ゲドの物語」つまり「ゲド戦記」ではなく、物語は「ゲド」からはるかに離れたところに重心を移したところで展開される作品にいるものなのです。
 だからもし、この第4巻をあえて「ゲド戦記」として読もうとしたら、ずいぶんへんなことになってしまいます。またへんなことになっている物語として読んでしまうことになると思います。つまり1巻や2巻や3巻とはずいぶん違った物語を作者が書くことになってしまったというように。しかし、そういう読み方は間違っているのです。事実第4巻は、『帰還』ではなく、『テハヌー』と題されているのですから、この題の意味するところからこの物語のテーマを読み取ってゆくのが普通の読み方だと私には思われます。そして『テハヌー』こそが、原作者ル・グウィンさんがもっとも訴えたかったことが、よく表されている巻になっているのです。
 では第4巻では、どんな話が展開されているのでしょうか。この巻の内容は、一人の重い障害を持った女の子をめぐって展開しているのです。原作では、親に捨てられ、火の中に投げ込まれ、片方の目を失い、片方の手を失った少女が、「テナー」という第2巻の主人公であった女性に助けられ、共に暮らすところがテーマになっています。もちろん「ゲド戦記」というような「戦記もの」とはほとんど無縁な物語の展開です。
 そこで「テナー」が繰り返し自問し、「ゲド」に尋ねるのは、こんなにひどい障害をもった子ども、つまり将来にわたって何の展望もを得られないような障害を持った子どもを、いったい引き受けて育てるというのは、どういうことなのかという問いかけです。それが実はこの第4巻のとっても重要な問いかけになっているのです。そしてこのことを考えることが世界のバランスを考えるということだということを作者は訴えているようなのです。
 この第4巻の核心的な見所は、大賢人オジオンが、この子にはすごい力があるんだと言い残して死んでいったところにあります。その言葉の意味はそのうちわかってくることになります。それは、この「テルー」と呼ばれた娘が実は「竜」の血を引いている娘であったことがわかるというところです。
物語の好きではない人は、こういう話の展開につまづいてしまうかも知れませんが、でも素直に物語を読んでゆけば、こういう話の流れは決して不自然ではないことが読み取れます。現実にも、重い障害をもつ子どもを育てる親たちは、どこかでこういう子どもたちの持つ不思議な生命力に驚かされているところがあるものです。でも医者や学校の先生たちは、こういう子どもたちのことは「障害児」としてしか教えてくれません。ましてや「不思議な生命力」をもっているのだ、などというふうには教えてくれません。
 しかし、この第4巻では、この重い障害をもった「テルー」は「真の名」を「テハヌー」と言って、実は「竜の血」を引いているのだと明かされるのです。それ故に大事に引き受けて育ててゆかないといけないのだと。こういうふうに説明されるところを読んで、私は本当にすごいイメージが描かれているなあとびっくりしてしまいます。それまで、誰もこういう子どもたちが「竜」であるなんて言った人はいないからです。
しかし、大事なことは、そういうことだけではないのです。つまり「テルー」が「竜」であることだけが「問題」なのではないのです。この第4巻のすごいところは、「テナー」がずっと「テルー」と共に歩もうとしているところが描かれている所です。「テナー」は何度もこの「テルー」を引き受けるとはどういうことかを問いながら、あるいは、どうしたら「テルー」を引き受けてゆくことができるかを問いながら、でも決して「テルー」を手放さないで共に歩いてゆくのです。ここに、この第4巻の「二人で」のテーマがもっとも深いところで問われて描かれているのを私たちは見ることが出来ます。
 つまり、こうした重い障害をもった子どもを、「二人目の母」として「テナー」が引き受ける努力をするなかで、はじめて「テルー」が「竜」であることが感知される道が開けてくるのです。「テナー」が「テルー」を引き受けるということは、「テルー」を次の世代に繋ぐということです。この世代を繋ぐという営みの中に「竜」というものが存在するのではないか。作者はそういうことを考えているみたいです。ということは、その世代をつなぐという営みの根本を担うものは「女性」であり、実はこの「女性」というものの中に「竜」と呼ばれる存在がいるのではないかと。おそらく原作者のいわんとしていることは、そういうところにあったのではないか。そしてそういう「世代をつなぐ」というテーマは、「一人」ではなし得ない営みで、それは必ず「共に歩む」ものたちの中ではぐくまれ、引き継がれてゆくもので、その仕組みをしっかりと見つめることが実はこの『アースシー物語』の巨大なテーマとして最初からあったのではないかと私には思われるのです。しかし、その巨大なテーマがこの物語を男性の物語、つまり「ゲド戦記」として読もうとしてきた人たちにはきっと読み取れなかったところではなかったかと、私は思います。

7 原作をアニメ化することの問題点

以上のことを踏まえて考えると、原作の『アースシー物語』が「案内」しょうとしていたのは、「戦記の物語」だけではなく、最初から「共に生きるものの物語」「世代を繋いでゆくとはどういうことかを問う物語」であったことが見えてきます。
そうなると、この物語を映像化したり、アニメ化したりするということは、何をすることになるのでしょうか。
宮崎駿さんが最初この原作をアニメ化しょうとされたときは、まだ最初の第三巻までしか出ていなかったわけで、「戦記もの」のイメージで物語が読み取られる部分が強くあった時でした。しかし、原作者の許可がおりませんでした。
 その結果、作られてゆくのが独創的な『風の谷のナウシカ』であり『天空の城ラピュタ』でした。そして、これらはまさに「戦記もののアニメ」として作られていったものでした。宮崎駿さんは、子どもたちをおもしろがらせるには、まずは「戦記もの」のスタイルを持った作品をつくることが必要だと考えておられたと思います。実際にも、これら「ゲド戦記」やアニメが作られた1970年代や1980年代は、アメリカとソビエトとの冷戦構造のただ中で、社会情勢としても「戦記もの」はリアリティをもたざるを得ないものとしてありました。そんな中に生まれた『アースシー物語』は「ゲド戦記」として紹介されたのでいやおうなく「戦記もの」として受け止められてゆかざるを得ませんでした。


8  宮崎駿さんは『アースシー物語』をアニメ化できなかったのではないか

宮崎駿さんは、原作者の許可がおりなかったから「ゲド戦記」がアニメ化できなかったとされていますが、実際そうだったのでしょうか。今から思えば、宮崎駿さんは「戦記としてのゲドの物語」はアニメ化できても、『アースシー物語』の大部分は、彼にはうまくアニメ化できなかったのではないかという気が私にはします。というのも、原作の大部分は「戦記」として描かれているわけではなかったからです。ですから、「戦記」でない部分をアニメ化することは、宮崎駿さんにとってはとっても難しかったように私は感じます。この困難さに挑むには、この『アースシー物語』を「ゲド戦記」として読む人ではなく、「アースシー物語」として読む人によってしかアニメ化できないように私には感じられました。
そこに新監督・宮崎吾朗さんが現れたというわけです。おろらく課題は無意識のうちに吾朗さんに託されたのだと思われます。父・駿が手がけることの出来なかった領域を、新しい世界観を模索する監督に託されたのではないかと。まさに、ここにいみじくも「二人で」の課題が無意識に出ているのかも知れません。
 つまり、この「二人で」のテーマは、「アクション」や「スペクタル」が中心の「戦記」とは対称にあるテーマで、男性の考えやすいテーマではありませんでした。そういう意味でも、宮崎駿さんには扱いにくいテーマだったように思われるのですが、新監督の吾朗さんには、どこか女性的なテーマを扱える素質があったのではないかという気がしています。
 原作者が女性であり、格闘技を中心とする戦記ものを描いたわけではない『アースシー物語』は、ある意味での女性的な感覚を総動員して読み取らないといけない部分がたくさんありました。そういう感覚をたぶん吾朗さんの方がたくさん持ち合わせておられたのではないかと。むろん「女性的なテーマ」とか「女性的な感覚」という言い方も、きっと語弊があると思います。「二人で」というテーマは、すでに、言いましたように「対話の構造」とでも呼びうるテーマに関係しているからです。「戦い」でではなく、どこまでも続く「対話」の仕組みで、という意味でもあったからです。「対話の仕組み」を生きない女性もいますからね。
 そういう意味で、くりかして言えば、『アースシー物語』は、「戦記もの」ではなかった分宮崎駿さんにはアニメにすることが難しく、逆に、もともとこの原作が持っている性質から、宮崎吾朗さんの方がよりこの作品をアニメ化することができたのではないかと、言えるように私は感じています。

9 『アースシー物語』はどこをアニメ化すると原作に近くなるのか

 では『アースシー物語』のどこをアニメ化すると原作に近くなるのでしょうか。
 考えられることは、「戦記」的な部分はできるだけさけて、主人公たちを「二人」として描き出し、それぞれがお互いの弱さを補うように活躍するところを描く、というような工夫の中にではないでしょうか。実際にそういうことをしようとすると、「戦い」の場面では、「影」との戦いと「クモ」との戦いを選ぶしかないのですが、「二人で」のテーマの方は、「ゲド」と「アレン」、「テナー」と「テルー」、「アレン」と「テルー」の組み合わせて登場させる、というアイデアを考えることができると思います。でも、そう言うことをすれば、原作の各巻に分けられていた話を一つの話の中に繋いでしまうことになります。原作の物語に忠実な展開を選ぶか、原作のテーマに忠実な展開にするのか・・たぶん吾朗さんはいろいろ思案されたのだろうなと思われます。その結果、後者を選ばれたのでした。
でも、そういう目で見れば、このアニメ『ゲド戦記』は、巧みにこの『アースシーの物語』の大事な部分をつなぎあわせ、なおかつテーマも『アースシーの物語』本来の、「戦記もの」ではない、「二人で」のテーマとしてとらえ直し、それを「歩く」というテンポの中で表現しょうとしたことが見えてきます。もちろん、第1巻から第4巻までを一つにしようというのですから、うまく「説明」や「案内」ができていない部分が残っているのも事実です。特に最後の「テルー」が「竜」になる「理由」がわかりにくいと思った人は多かっただろうなと思います。「原作」を背景に抱えている時には、しばしば、こういうことが起こります。「原作」を読んでいれば「推測」できることが、それを読んでいない人にはなんでそうなるのかよくわからない、というようなことが。それでも、今回のアニメ『ゲド戦記』は、想像されている以上に「原作」に近づこうとしている作品になっているところはちゃんと「評価」されなくてはいけません。
 たしかに、「格闘技」アニメを求めていた人たちは、「ハブナーのクモ」と激しく戦う主人公を期待していたかも知れません。「生と死」の物語を描くという時には、そういう「相手」がやっつけられる展開を求めてしまいがちだからです。しかし、そういう展開は繰り返して言いますが、男の子たちが好んで求めてきた世界です。そうした「格闘技」の「生と死」ではなくて、一つの死が次の生を生むことにつながるという、そういう「世代をつなぐ」中にあらわれる「生と死」がもっと注目されてもいいはずなのです。そうした「世代」をつないでゆく物語は、男たちのスペクタクルアニメの中では描きにくいものです。それは男と女が共に生み出す「世代交代」の仕組みの中にしか現れ得ないし、そういうところを考えるアニメによってしか表現できないように思われます。「ハブナーのクモ」は「世代交代」しないで、自分だけが生きのびようとするものでした。つまり「一代限り」を永遠に続けようというやからです。それは「滅び」を受け入れないものたちの思考です。ある意味では、それは現代の「美や健康を追及することで滅びを受け入れない女」たちのあり方にも似ています。その底にあるのは、「一代限りの生命観」です。それは「命」を「一人の命」のレベルで考える発想です。つまり「一人」を生きる発想の世界観です。でも、そういう世界観を批判するところに『アースシーの物語』があり、それを引き継ごうとしたところにアニメ『ゲド戦記』の特徴と志があったのではないか、私はそう思っています。