じゃのめ見聞録  No.82

アニメ『ゲド戦記』と原作『アースシーの物語』への「案内」
                         ・・・前半



2007.5.1


 もくじ

 Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ

  1 「歩く」主人公
  2 「二人で歩く」というテーマ
  3 「一番手を生きる者」を描かない 
  4 「二人目の父」「二人目の母」

 Ⅱ 原作『アースシーの物語』へ

  1 「案内」の問題
  2 『アースシー物語』への「案内」
  3 「アースシー物語」が「案内」しょうとしていたもの
  4 第2巻『アチュアンの墓所』
  5 第3巻『さいはての島』 ―「二つの世代」が補い合い、力を合わす姿―
  6 第4巻『テハヌー』
  7 原作をアニメ化することの問題点
  8 宮崎駿さんは『アースシー物語』をアニメ化できなかったのではないか
  9 『アースシー物語』はどこをアニメ化すると原作に近くなるのか




 Ⅰ アニメ『ゲド戦記』の方へ

1 「歩く」主人公

 アニメ『ゲド戦記』では、主人公はひたすら歩いています。アニメを見た人は、そのことにまず気がつくと思います。いわゆる「戦記もの」のアニメなら、物語がはじまると、主人公たちはすぐに「飛んでしまう」場面に出くわすのですが、このアニメ『ゲド戦記』には、それがありません。主人公たちは、馬の手綱をひきながら、ひらすら砂丘や海辺や荒れ野を歩き、また町の中を歩いてゆきます。そしてこういう「作風」をどう見るのかによって、この作品の評価も違ったものになってきます。
もし、「戦記」という言葉に魅せられ、このアニメ『ゲド戦記』には「戦い」のシーンがいっぱい見られるのだと思って映画館に行かれた方は、そんなに「いっぱい戦い」が描かれていないのを見て「不満」を感じるかも知れません。主人公はひたすら「歩いている」だけなのですから。
この「歩く人」を描くというアニメは、父・宮崎駿さんにはなかったところです。宮崎駿さんのアニメでは、基本的には主人公は「飛ぶ人」であり、描かれるのは「飛ぶアニメ」だからです。ですから宮崎駿さんのアニメには、常に上から物事を見ようとしてるところがあります。「飛ぶ人の目線」から世界を見ているところがあります。そういう意味では、宮崎駿さんが吾朗さんに贈ったといわれる「一枚のゲドの戦記のポスター」は、とても宮崎駿さんらしい挿絵だったと思われます。それは上からポートタウンの街を見おろしている挿絵だったからです。そうした父・駿さんと違って、新監督・吾朗さんのアニメは、決して上から見ようとしないものとしてできあがっていました。ひたすら「歩く人の目線」から見る世界を大事に描こうとしていました。
 ですからアニメ『ゲド戦記』では、「風景」はとても大事なものになっています。「風景」は、単なる「背景」ではなく、主人公が立ち止まって見つめたり、座り込んで見つめたりしているもので、まさに「暮らし」の中で出会える大事なひとときとして描かれています。ところが宮崎駿さんのアニメでは、「風景」は、常に「背景」にあったと思います。「飛ぶ主人公」にとっては「風景」は立ち止まって見つめるものではなく、飛ぶ人の背後へと消えてゆくものでした。描かれるべきものは主人公たちであり、風景は、その主人公のつねに背後にあるものでした。ところが吾朗さんのアニメでは、風景は、主人公の背後にあるものではなく、主人公の前に広がっているものとして描かれていました。その違いは、主人公の設定の仕方の違いからきていると私には思われます。
アニメのはじめの方に、壊れた石橋を少しだけ飛ぶシーンがあります。ほんの少しだけ飛びます。あのシーンを描くことで、吾朗さんは、私の主人公は簡単には飛ばないぞ、という意思表示をしているかのように思われます。(もちろん最後には主人公は「飛ぶ」のですが、それは最後の最後にとっておきの出来事として残されていたものでした。)

2 「二人で歩く」というテーマ

 アニメ『ゲド戦記』を見て、もう一つ気がつくことがあります。それは、この「歩く人」が、「二人連れ」だということです。何でもないようなことですが、それはこのアニメにとっての大事な「事実」です。「一人」で歩くのではなく「二人で」ひたすら歩くということ、これは決してどうでもいいことではないのです。
そもそもこの物語は「ゲド戦記」と題されているのですから、映画館に行った人は、まずは「ゲド」が主人公だと思っています。でも映画が始まるのは、父を刺して逃げる少年「アレン」の姿であり、その少年が「アシタカ」と名乗る男に出会い、共に旅をする姿を見ることになります。つまり「二人の旅」です。では『ゲド戦記』の「ゲド」はいつ活躍するのか? 
 しかし、物語の展開では、「アレン」が引き起こす出来事が多く描かれてゆきます。そして要所要所で「ゲド」が登場し、「アレン」を助けます。そういう作品の流れを見ていると、いつしかこの物語が「アレン」の物語であるかのように見えてきます。
そういう観客の反応は、でも間違っているわけではありません。アニメ『ゲド戦記』は、主人公が「一人」ではなかったからです。「ゲド」が主人公のように見えて、でも「アレン」も主人公のように見える。しかし、では「アレン」が主人公かと決めてしまうと、それはそうではないと感じる。これは「へんな感覚」です。「ゲド戦記」なのに「ゲドの戦記」ではなく「アレン戦記」のように見え、「アレン戦記」かと言えば、最後には「テルー」という娘さんが決定的な役割を果たしたります。最後の「テルー」の活躍ぶりを見ると、これは「テルー戦記」かと思う人もいるかも知れません。そして、あれっと思う人が出てくるかも知れません。「ゲド」はいったいどうしたんだと。「ゲド戦記」らしく、最後の最後は、「ゲド」が勇者になるのではなかったのかと。
 でも、アニメ『ゲド戦記』はそんなふうにはなっていませんし、そんなふうには終わってはいないのです。なぜそうなっているのかは、後で見る「原作・ゲド戦記」の思想に大きく関係しているのですが、原作のことを考えなくても、そもそもアニメの最初の設定で、「ゲド」と「アレン」が、延々と「二人」で歩いてゆく場面を描くことで、実は監督・吾朗さんは、そういうシーンにこのアニメのテーマをさりげなく提示しているところがあったのです。それは繰り返していいますが「二人で」というテーマです。
もちろんこの「二人で」というテーマは、「ゲド」と「アレン」の「二人」というだけではありません。アニメを見られた人はよくわかると思うのですが、「ゲド」と「アレン」の「二人」ではじまった物語は、いつしか「アレン」と「テルー」の「二人」の話を描いていることに気がつきます。そして、そうこうしているうちに、「テルー」と「テナー」の「二人」の話になっていることにも気がつきます。そしてまた「ゲド」と「テナー」の「二人」の話も決定的に重要な鍵をにぎっていることにも気がついてゆきます。
 そういうふうに見てゆくと、このアニメ『ゲド戦記』には、さまざまな「二人」の情景がが描かれていることに気がつきます。「二人で」と言ってしまうと、しばしば特定のカップルのことを思い浮かべるわけですが、そういうことではなく、この世界で生きるということは、「一人」で生きるということではなく、つねに「誰かと共に生きる」ことなのだ、ということへの監督の思いがこめられているのです。そのつねに「誰かと共に生きる」ことをここでは今簡単に「二人で」と言っているだけの、それは「対話の構造」と言い換えてもいいものなのです。そして、実はそのテーマは原作のテーマと深く関係していたのです。

3  「一番手を生きる者」を描かない 

 そもそも、この「二人で」というテーマは、実は「戦記もの」のアニメにはふさわしくないものなのです。「戦記もの」の物語では、主人公が「二人」というのは、迫力に欠けるところが出てきます。「戦い」が中心のアニメでは、やはり「めっぽう強い主人公」が「一人」いる方が「定番」であり、その方が「かっこいい」ものです。
そういうところから見ると、このアニメは「戦記もの」とくくってしまってはいけない面があります。「戦記もの」とは違った主人公のあり方が描かれているからです。そこのところは、しかと見つめてゆかないといけないところです。そこから見ると、このアニメ『ゲド戦記』には、絶対的に強いヒーローがいないことが、むしろ自然であることに気がつきます。
実際の所、「ゲド」は「魔法使い」でありながら、目を見張るようなすごい「魔法」や「必殺技」を使うわけではありません。一緒に旅をする「アレン」も決して「強い」わけではなく、町の下っ端の兵士に簡単にやられたりしてしまいます。そんな「アレン」を「ゲド」がたくましく支えてあげるのかというと、それはそうでもないのです。確かに「アレン」の危機をなんども救ってくれるのは「ゲド」なんですが、そんなにかっこよく助けるわけではありません。つまり大立ち回りをして「悪い奴ら」をやっつけてくれるわけではありません。そして最後には「ゲド」は「クモ」につかまってしまいます。
でも、最後の最後には、「ゲド」が「クモ」をやっつけるのかというと、それはそうではなく、「テルー」という娘さんが竜になってやっつけるように描かれているのですから、観客はどうなっているのかと思うことも出てきます。「ゲド戦記」というのだから、最後は「ゲド」が華々しい活躍をする「戦記」として終わるのではないかと思っていたのに、そんなふうには終わらないのです。「アレン」も最後の最後には「テルー」に助けられるわけですから、この作品には「一番強いもの」「一番強いヒーロー」がいないのではないか、ということになります。実際に、このアニメには「一番手」がいないのです。いわばみんなが「二番手」のような感じなのです。「二番手の力」を描いている、とでもいえばいいでしょうか(それが「二人で・の力」ということになるのですが)。
 振り返ってみると、宮崎駿さんたちが作っていた、1970年代から1980年代までのアニメの多くは、米ソの冷戦構造を背景にもっていることもあり、主人公たちは互いに戦い、誰が一番強いものであるかを競い合うストーリーを持っていました。なんだかんだ言っても、主人公は常に一番強いのです。『あしたのジョー』や『北斗の拳』などは、一番強くなるために、さまざまなものを犠牲にして、常にその「一番」を確保するためにがんばっていました。米ソの冷戦構造と国内の高度成長が背景にある中では、人々はどうしても「一番になる主人公」に共感を示しやすくなり、そこに自分を重ねてみることは自然にできていただろうなと思われます。
 ある意味では、それは手塚治虫さん、高畑勲さん、宮崎駿さんら、アニメ界の巨匠たちが、ほとんど家庭を犠牲にして、アニメーターとして「一番の位置」を確保しようとしのぎを削っていたことと関係しているようにも思えます。そういう意味でも、多くのアニメは、「一番になる主人公」を描かざるを得なかったように思われます。
 ところが見てきたようにアニメ『ゲド戦記』は、「一番の主人公」を描いているのではないのです。言ってみればあえて「二番手の主人公」を「主人公」にしているところが感じられます。たぶん、監督の吾朗さんは、そういう「二番手の主人公」を意図的に主人公にすえることでアニメを作ろうとされていたと思います。実際、「アレン」という主人公も、「ゲド」という主人公も、「一番強い」わけではありませんでしたから。しかし、そういう主人公の設定は、監督の吾朗さんが意図的に作りだしたものなのかというと、それはそうでもあり、そうでもない部分がありました。というのも、そこには「原作」をどういうふうに読み取るのかということに、大きく関係するところがあったからです。
もし、原作を「戦記もの」として読み取れば、主人公は「一人」にした方がすっきりするわけですが、アニメ監督の吾朗さんはそういうふうには「原作」を読み取らなかったのです。つまり監督は、多くの人が「戦記もの」として読み取ろうとしたのとは違った風に「原作」を読み取ったということなんです。そして実は、ここが大事なところなんですが、もともと原作には、そういうものを読み取らせるものがあり、むしろ「戦記もの」と読めば読み損ねてしまうものがあったということなんです。アニメ『ゲド戦記』を理解するには、そこのところをちゃんと見てゆかなくてはなりません。

4 「二人目の父」「二人目の母」

少し余談になりますが、ずいぶん以前に、柳田國男という民俗学者が「生みの親」と「育ての親」の区別について興味深い日本の風習のあることを紹介していました。昔は成人式を迎えると、それまでとは違った「新しい親子関係」を人工的に作ってゆく風習があったというのです。彼はそういう「新しい親」が、「仮親」とか「成り親」と呼ばれる習俗のあったことを、こんなふうに紹介していました。

 「親という漢字をもって代表させているけれども、日本のオヤは以前は今よりもずっと広い内容をもち、これに対してコという語も、また決して児または子だけに限られていなかった」
 「現在の日本の考え方によると、オヤははっきりと二通りの種類に分けられる。その一つはむろん生みの親、また実の親ともいっているもので、残りはまだ一括した好い名はないが、通例は義理の親、(略)もっと簡単な別の称呼としてはカリオヤ(仮親)がある。」
 「私が前に使ったオヤコナリという言葉なども、現在はもうほとんど耳にせぬようだが、文献の上にはいくらも現われ、また南の島々にはオヤコスルという語もある以上は、これを人間が出生の後に、第二第三のオヤコ関係に立つ場合の全部を引きくるめた名称として差支えない」
        『親方子方』(『柳田國男全集12』ちくま文庫)

 柳田國男はこの本のなかで、人は「生みの親」「育ての親」とは別に、成人式を迎える頃に新しい「第二の親」(「育ての親」を「第二の親」と呼べば、これは「第三の親」ということになるでしょうが)に出会う仕組みを作っていたというのです。要するに昔の親は、多くの人に「親」になってもらい子どもを育てようとしていたことがあったというのです。こういう発想は現代でも生かしうる大事な発想なのではないかと私には思えます。というのも、「子」を導く「オヤ」は、いつの時代にも「複数」いることが大事であって、そういう「複数のオヤ」がいなくなってきていることが、ある意味での現代の困った所なんだという気がします。
そういう目から見ると、アニメ『ゲド戦記』には、「二人目の親」に出会うというようなテーマが描かれていることに気がつきます。「アレン」は「ゲド」という「二人目の父」に、「テルー」は「テナー」という「二人目の母」に。それはおそらく「二人で」とか「誰かと共に生きる」というテーマと関係しているのですが、この辺もこのアニメ『ゲド戦記』を見るときの興味深いところです。


 Ⅱ 原作「アースシーの物語」へ ・・・(6月分へ続く)