じゃのめ見聞録  No.81

   ハーディ氏の船は何を積んでいたのだろうか?


2007.4.01


 高校生の世界史の未履修問題が昨年「問題」になった。世界史を学ぶとは、一体どういうことなんだろうか。学生の頃私も、歴史を学ぶとは、日本史とか世界史と書かれた教科書をひたすら覚えることだと思っていた。でも成人してから改めて学んだ歴史は違っていた。特に世界史を意識的に学ぶことで私の得た最も大きな変化は、ヨーロッパやアメリカ、日本といった先進国の近代文明が、実はアフリカやアジア、南アメリカの長い植民地支配から得た収益で形成されてきたという当たり前の認識だった。世界史を学ばなかったら、でもこんな大事なことを今でも全く意識せずに世界を見てしまっていただろうなと思う。
このことを改めて思ったのは、同志社の「ブランド」を考える動きに接したことからであった。「ブランド」とは、「商標。銘柄。特に、名の通った銘柄」(『広辞苑』)と説明されていて、名が通るくらいの時間・歴史がもともと背景にあるものである。そういう意味では、同志社が「ブランド」になるためには、明治に新島襄が英学校を創立したときからの長い時間、歴史が必要であった。長い歴史をもつということは、並大抵のことではなかったのである。
 でも、そこで一つ気になることがあった。受験生の世界史の未履修問題も気になるが、実は私を含め、同志社に勤めるものが、同志社の歴史に結構「未履修」であることについてのことである。それは同志社の現実的な「はじまり」をどこに見いだすのかということへの認識にもかかわることであった。
 同志社の「はじまり」を考える時に、誰もが同志社は「寄付」によって生まれてきたことに注目してきた。それは当然のことであって、同志社設立の直接の資金になったものがハーディ氏からの寄付やアメリカンボード(アメリカ外国伝道教会)の寄付であったからだ。私は以前は、こういう「寄付」については、何も疑問には思わなかった。ハーディ氏は「お金持ち」だったので同志社に寄付をしてくれたのだと単純に思っていた。以前はその「お金」をハーディ氏がどうやって手に入れていたのか、気にすることもなかった。しかしある時に、ハーディ氏が「商船十数隻を保有する船会社のオーナーであった」という記述が目にとまった。そういう記述はなんべんも読んでいたはずなのに「目にはとまらなかった」のである。彼はなんでそんなにたくさんな船を所有することができていたのか?
そして、考えることがはじまった。ハーディ氏が「資本家」になったのは、そのたくさんな船で商売をしているからではないかと。当たり前の推理である。でも問題は、その先にあった。では、ハーディ氏のたくさんな船はいったい何を積んでいたのかと。たぶんハーディ氏のことをもっとも詳しく書いているように感じた井上勝也『新島襄 人と思想』晃洋書房によると、彼の船は地中海、東インド、中国、南アメリカの方まで行き、「穀物」を扱っていたようである。というのもハーディ氏は「ボストン穀物取引所の初代会長」になっていたからである。その他にも、彼は造船所を持ち、銀行の頭取にもなり、マサチューセッツ州の上院議員をしていた。
 そういう経歴の中で、彼の手元に集まった「資金」を大学や教会に「寄付」をしていたのである。同志社がその礎を築くことができた「寄付」もこの「資金」からである。しかし、この「資金」が実際にはどのように調達されたのかは、井上勝也氏の本を読んでもわからなかった。私にわかったことは、この当時の「地中海、東インド、中国、南アメリカ」へ出かけていった貿易船の多くは「植民地貿易」を行っていたということである。それはこの時代の世界史を履修したものならおよそ察しがつくところである。
もしもそうだとしたら、ハーディ氏の元に集められた「資金」は、当時の第三世界の人々が教育の機会を奪われる形で手に入れられていったものではないかということが推測される。もちろん、そんなことは「推測」にすぎず、実際のハーディ氏はそんな植民地主義と関係なくちゃんと第三世界の人々の過酷な労働に見合うだけの賃金を公平に支払って貿易していたのだと考えることもできる。しかし、世界史を履修した者は、後者の可能性を考えることはだいぶ難しい。
 私はこういうことを言って、ハーディ氏の名誉を傷つけようというのは全くない。当時の、熱心なキリスト者たちは、商売で儲けた資金を自分のためではなく惜しげなもなくキリスト教の布教のために使うことを使命のように考えていたからである。ハーディ氏はそういう意味では当時もっとも熱心なキリスト者であったことは言うまでもないことである。(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1920はそういうキリスト者たちの生き方をよく描いている)
私たちは、今、ハーディ氏のことをうんぬんというのではない。そうではなくて、彼の得た「資金」の出所を世界史にそって公平に理解することと、その「資金」からの「寄付」によって作られたところに同志社の「もう一つのはじまり」があるということを謙虚に理解することを考えたいのである。もし第三世界の人々の教育機会を奪う形で「資金」が調達され、その「資金」の「寄付」で同志社という教育機関が成立していったのだとしたら、今度は逆にそうした第三世界への「お返し」をすることを考える必要性が出てくるのではないか、そのことを考えたいのである。そういう歴史について考え、「お返し」について考えることが、同志社の言う「良心」であり「品位」であり、それを考え続ける長い歴史が、同志社特有の「ブランド」を形成してゆくのではないか。今回、「同志社ブランド」を見直す動きが出てきた中で、そういうことを少しだけ考えてみた。

(私は「ハーディ氏の船の積荷」のことが知りたくて、同志社の歴史の生き字引であるような宮澤正典先生におたずねしました。先生はすぐさまたくさんなハーディ氏にまつわる文献を書き出して紹介してくださいました。ありがとうございました。その時に、宮澤先生も言われました。「ハーディ氏の船の積荷を調べるのは難しいですね」。)

                                     「時事コラム」2007.3