じゃのめ見聞録  No.78

   隼人、この「都」の「南」を守った人たち


2007.1.30


 学研都市線の大住駅の大住というのは、鹿児島の大隅半島の大隅から来ているということを教わったのは、もう30年も前の学生の時でした。この京田辺市の大住と呼ばれる地域に横穴式墳墓が発見されて、それが九州の隼人一族の墓の様式であることがわかってきたという話でした。当時、不思議な感じがしました。なんで九州の南端の人たちの墓がこんな京田辺市にあるのか、うまくイメージできなかったからです。
 でも、この話に興味を持ったのはもう一つの理由がありました。それは私の母と叔父が、鹿児島の大隅半島の肝属平野(大隅隼人の拠点となった平野)で生まれ、戦後こちらで暮らしてきたからです。母も叔父もいわゆる「隼人」の末裔ですが、そのことと、昔この南山城にやってきた「隼人」との関係が、偶然にしろ興味深くて、なんで?と思ったものでした。
 ところで、京田辺市には甘南備山(かんなびやまー神の降りる山の意味)があって、平安時代には、京の朱雀大路を決める際にこの甘南備山を基点にしたという言い伝えがあり、これも興味深いものでした。その理由としては、「朱雀(すじゃく)」といわれるものが、古くは「隼(はやぶさ)」のことを言ったらしく、そこから都の「南」を守る人を「隼」の「人」、つまり「隼人」と関係させていたみたいです。甘南備山と朱雀と隼人の意外な接点。
歴史学が教えるところによると、朝廷は「お上」にすんなりとは従わない「南の勢力=隼人」をなんとかして支配下に置くために、彼らの一部を機内に集団移住させ、国を守るものの位置を与えようとしていたようで、その居住区の一つが京田辺市の大住あたりにあったようです。
 『古事記』に有名な「海幸山幸」の物語がありますが、もともとこれは南方の昔話で、それが南九州・日向神話に転用され、「山幸彦」は「朝廷」を、「海幸彦」は「隼人」をモデルに置き換えていったことが指摘されてきました。南方と貿易する海の支配者「隼人」を「朝廷」に屈服させるためにこういう神話までもが利用されていったことは興味深いところです。
そういえば、母や叔父にも、すんなりとは「お上」には従わない「荒々しい海」の気風があり、それでいて、身内を守る強い意気込みがありました。私なども、そんな「南の守人」によく「守られてきた」なと思っています。

                               京都新聞 2007.1.26