じゃのめ見聞録  No.72

   記念日について


2006.9.20


 記念日というのは不思議なものだ。「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」俵万智という有名な短歌を思い出すと、なおさら記念日が不思議なものに見えてくる。誕生日にしろ、結婚記念日にしろ、それを「記念日」にするということは、何事も忘れやすい私たちに、せめて一年に一回は大事な出来事を思い出そうという仕掛けを作ることであろうか。
 確かに、記念日の根本には、それが一年に一回巡ってくる、という暗黙の了解がある。当たり前のことであるが、この当たり前というのが、どうも、わかりにくい。「記念日」は、別に一年に何回あってもいいではないか。でも、何回もあってはわずらわしい。一年に一回くらいでちょうどいい? いや、ちょうどいいのではなく、「暦」というものの作りでは、「記念日」は一年に一回しかめぐってこないようになっている。
先月の8月15日は、「終戦記念日」だった。これはわかりやすいけれど、若い人にはわかりにくくなっている。というのも、日本が正式にポツダム宣言を受け入れて連合軍に打電したのは8月9日であり、ミズリー号の艦上で降伏文書にサインしたのは9月2日なのだから、これらの日が「終戦記念日」となっていいはずなのに、8月15日にされてきた。もちろんそれは、この日に天皇のラジオ放送があったからだが、今では若い人たちは「15日」を戦争の終わった象徴的な日としてしかとらえてきていないと思う。なのに、「15日」でなければ「記念」をすることにならないとする雰囲気が毎年8月マスコミに流れていて、そういう「記念日」の設定の基準は、何かしら「わかりにくい」。
 いま「記念日」へのこういう思いを巡らせているのは、8月の終わりに小さなエッセイを読んだからだ。それは、地獄絵のようなインパール作戦を戦い、負傷し、生き残ってきた義父の書いたエッセイだった。そこには、戦友の位牌は、靖国ではなく一人一人の家庭で供養されるべきものであるという思いが綴られていた。あれほど無謀で理不尽な戦争に多くの若者を駆り立てた当時の軍部や関係者の責任を、義父は忘れるわけにはゆかないという。
 義父の「記念日」は、「15日」というような「終戦記念日」の一日にあるのではなく、有形無形に戦友の死を弔ってきた日々のすべてをさしているようだった。「弔う」とは、もともとは「とむらふ」といって、「問い・訪ねる」という意味をもっている。亡くなった人を「訪ね」、これでよかったのかと「問う」のである。それは一年に一回の「記念日」にこだわることではなく、もっと別のことであるような気が私にもしている。

                                京都新聞 2006.9.8 の原文