じゃのめ見聞録  No.71

   『ゲド戦記』
  ―『さいはての島』はなぜ死の物語なのか―



2006.8.1

       

1  表のストーリー、裏のストーリー

ル・グウィン『さいはての島へ (ゲド戦記Ⅲ)』清水真砂子訳 岩波書店1977は、「死の物語」としてすでに日本でも早くから有名になっていた。著者自身が「『さいはての島へ』は死を扱っている」と書いていたからでもあるが、しかしこの物語が「死」を扱っているというためには、いくつかの条件が必要になるだろう。
とりあえずこの物語を簡単に要約してみる。
長い間「アースーシー」と呼ばれる世界の人々は平穏に暮らしてきたのだが、いつからかこの世界に異変が起こりはじめた。その前兆は、この世界に通用していた「魔法」が次第にきかなくなるところに現れてきていた。賢人の住むローク島では、その原因を求めて長い議論が交わされた。そして異変の訴えを持ってきた若人アレンと賢人ゲドの二人が、その元凶を求めて旅に出ることになる。
この世界の異変の出所についてゲドには心当たりがあった。それはかってゲドがこらしめた「ハフナーのクモ」という魔法使いが、「さいはての島」でこの異変を起こしているのではないかという心当たりだった。この「心当たり」に向けて二人は出発したのである。 しかし、心当たりは心当たりにすぎないゆえに、アレンには伝えられなかった。そのためにアレンは、道中ゲドの真意を図りかねていろいろ苦しむことになる。しかし、結果としてはゲドの予測どおり「ハフナーのクモ」が「さいはての島」で、悪い魔法をあやつっているのを知ることになる。そして二人は「クモ」のいる「黄泉の国」におもむき、「クモ」に戦いを挑み、彼を打ち負かすのである。話の大筋はこうである。
こういう物語が、ではなぜ「死の物語り」と見なされてきたのかと言うと、この物語の中に、黄泉の国と現世との間を自由にゆききできる、一人の魔法使いが登場し、彼との死闘が物語のハイライトになっていたからである。物語では、その「不死」を売り物にする魔法使いのために、人々が真摯に生きる努力をしなくなっていた。死なないのなら頑張って生きる必要もなくなる。そのために人々の生活は退廃の一途をたどってきた。そんな世界の現状を救うために主人公たちは、この元凶である魔法使いをやっつけにゆくというのがこの物語の大筋になっている。
このように要約すると、この物語はまさに誰が見ても「生と死」を扱っているように見えてしまうのだが、私はそういう話の筋立ての中で取り出される生と死のイメージは、本当はあまり「生と死」には関係がないように思われてきた。というのもそういう話の筋立ては、ある意味では「おとぎ話」であり、「ファンタジー」にすぎなかったからである。誤解を恐れずに言えば、今要約したストーリーは、「鬼が島」の「鬼」を退治に行く「桃太郎の話」と何ら変わりはなかったからである。
 つまり黄泉の国に出入りし、生と死をゆききする魔法使いが描かれたから、その物語は生と死を扱っているというのは、全くの表面的な理解の仕方にすぎない。私はそうした「鬼退治」のように展開されるファンタジーの方ではなく、作品を支えているもう一つのストーリーの方に「死」の主題が取り扱われているところを感じてきた。このもう一つのストーリーに注目すれば、この作品は確かに「死」を扱っているということがわかる。ではそのもう一つのストーリーとは何なのか。それは二つある。
ひとつは、この世界に「魔法がきかなくなってきた」という状況の設定であり、もうひとつはその元凶を打破するためにゲドとアレンの二人の旅が描かれたという、この二点である。そんな二点がなぜ「死」の問題と関係があるのかと言われそうであるが、実はその話の展開の方が本当は深く「死」の問題にかかわっていたのである。
まず「魔法がきかなくなる」ということから見てみる。

2  魔法がきかなくなってきた(世界の分裂というテーマ)

 もともと「魔法」というのは、それを信じる人々の間にしか働かないものであった。それを信じる人々というのは、そういう習俗を共有する共同体の中にいる人々のことである。 かって「アースシー」の多くの島は統一されていた。そしてその「アースシー」を統治する偉大な王たちがいた。しかし、ここ八百年もの間、王座は空席のままになっている。つまり、はじめ統一されていった「アースシーの世界」が今、たくさんの共同体に分裂しはじめていたのである。大賢人ゲドもそのことを予感していた。
おそらくうんと太古には、言葉や習俗のちがう人々が、無数の小さな部族に分かれたままで暮らしていただろう。そういう太古の時代には、獲場で他の部族に出合うこと自体が「死」を意味していた。他部族は、食糧の奪い合いの元になる「敵」であり、そういう「敵」に直面した時には、「戦い」と「死」しか残されていなかったからである。そしてそういう共同体同士が分かれる所、共同体のはて、そこに同時に人々の「死」があった。
しかし、時代が下るようになると、部族同士は協定を結び合い、少しづつ連合し合うようになる。そしてもっと時代が下るようになると、そこに偉大なる王が現れて、より多くの共同体を「統一」「統合」するようになるのである。
こうした理想の「統一」のメリットは、共同体同士の無益な軋轢を避けるところにあった。それが避けられると、殺し合いもなくなるはずであった。「アースシー」もかっては偉大な王たちがおり、「統一」されていたのだが、しかしなぜかここ八百年は、その王座に座る者がいなくなってしまっていた。そういう世界事情の中からこの物語ははじまっていたのである。

 ところで、こうしたかっての「統一」が、理想的な統一であるなら壊れることもなかっただろうと私たちは思う。おそらく初代の王たちは、いくら偉大な王であったとしても、言語・習俗の違う多くの共同体を「統一」するには、かなり無理をしなくてはならないところがあったのだろう。偉大な王は三代しか続かなかったのも、その辺に理由があるのかもしれない。無理な統一を図った共同体に、かっての「ソビエト連邦」や「ユーゴスラビア」があった。それは今いくつもの国に分立してきている。こんなふうに、かっては統一されていた大きな共同体がバラバラになりはじめるとどうなるか。そうなると各共同体の情報が、互いに正確には伝わらなくなってゆくのである。そんな中で魔法や呪文も効かなくなってゆく。それはどういうことなのか。
 「魔法」がきかなくなるのは、一つの共同体から「外」へ出るところであることがわかる。そして事実上、世界が多くの共同体に分かれはじめたという時には、そうした世界のあちこちで「魔法」が通用しなくなってきたことを意味していたのである。
すでにゲドは早くから、自分たちのよく知っている世界の外にいくつもの世界のあることを予感していた。それは二人が南の海まで旅をした時、アレンに向かってゲドが言った次の言葉が最も端的に物語っていた。

 そなたはこういう古いことわざを知っているかな、『辺境海域ではものさしもちがう』って。船乗りがよく使うが、もともとは魔法使いのものでな、魔法というのは、その土地土地と密接にかかわりあっているという意味なんだ。ロークでは正真正銘、呪文として通用するものが、イフィッシュへ行けば、ただのことばでしかないかもしれない。天地創造のことばにしたって、どこへ行っても残っているわけではない。ここでひとつ、あちらでひとつといった具合だ。魔法をかけるということは、実は、それが行われる場所の土や水や風や光が呪文と織りなされるということなんだ。

 世界は実に広い。海は果てしなくひろがって、とても知識のおよぶところではない。この世界の先にも、そのまた先にも、世界はいくつもいくつもひろがっているんだ。この無限の空間と時間に耐えて、なお、どんな所でも、いつの時代にも、意味をにない、力を持ち続ける人間のことばというものが、いったいあり得るものだろうか。セゴイが万物を創造する時に語った太初のことばと、いまだ語られず、今後も、万物がこの世から姿を消す日までは決して語られることのない終末のことばを除いては----。いや、わしらの住むこのアースシーの中にさえ、わしらの知っているこの小さな島々の中にさえ、さまざまなちがいがあり、なぞがあり、変化がある。その中でも最も知られること少なく、多くのなぞに満ち満ちているのが、この南海域だ。内海の魔法使いで、ここまでやってきたものはほとんどなかった。 

3  不死という観念の源

魔法の通用しなくなった原因は、こうして共同体同士の絆が失われてきたところにあることが暗示される。そしてそういう共同体同士が分かれる所、共同体のはて、そこに同時に人々の「死」があった。しかしそういうことを、そのまま子どもに伝えるのは難しいと作者は考えたのだろうか。もう少し、劇的な設定をして、この問題を子どもたちにもわかるように提示しなくてはと、作者は考えたように思う。そこで作者は物語の展開として、その魔法の失われてきた原因を、一人の魔法使いの仕業としてに設定しようとしたのである。問題はこの魔法使いの特異な位置、立場の設定にある。
作者はこの、元凶の源を、かって「ハブナーのクモ」と呼ばれた魔法使いに見ようとした。このクモなる魔法使いは、以前ゲドにこらしめられたことがあるのだが、今は力をたくわえて、とうとう生きたままで死者の国に出入りできる魔法使いになっていた。彼は死者の国と生者の国の間をゆききする人物として設定されたのである。この生者と国と死者の国を、ゆききすることができるという設定は、何をイメージしているのだろうか。 おそらく、どういうふうに設定しても、生者の国と死者の国をゆききするような人物の設定は、空想的、非現実的、マンガ的な人物にならざるを得ないところがある。ある人物が、いかなる理由で生者の国から死者の国へ行って帰れるようになったかを説明しても、その説明がたくみであればあるだけ、最もらしく感じられる分、不自然に見えるだろう。
しかし、もし「ハブナーのクモ」の「個人的理由」にとらわれずに物語の流れとして読めば、「破局」の問題はすでに「ハブナーのクモ」などが登場するずっと以前からはじまっていたことがわかるはずである。統一世界の分裂という事態である。「クモ」はこうした状況を巧みに利用しただけなのである。
おそらく考えられることは、この破局の実体である共同体同士の分裂を利用して、それらの共同体の「さいはて」―それは共同体同士の死の発生する場なのだが―に立って、さらに意図的に分裂を強化するようなうわさを流し続ける術(それはもう魔法とは言えない現実的な情報操作という術なのだが)を「ハブナーのクモ」は身につけたということなのであろう。こういうたくみな情報操作の一つとして、「死のイメージを操作する術」があった。そういう操作はおそらく誰でも(どんな魔法使いでも)できるものだけれど、あまりにもその効果は危険をはらむものだったので、誰も本格的にはしないですませてきたものなのである。
しかし、「ハブナーのクモ」はそれをやりはじめた。彼ははじめ「さいはての島」で、その辺の住民を相手にひっそりとやっていたにちがいない。けれどもその危険なイメージに人々が次々に感化されるのを見て、この情報操作の技をおもしろく、かつ頼もしく感じていったのだろう。そしてしだいにその効力は近辺から遠方の世界へと広がっていってしまった。ゲドらがその事態を正面から受けとめ出した頃は、すでに事態は大変深刻な広がりをみせていた時なのである。
ところで物語の途中には、ゲドとアレンが生と死の支え合いについて問答しあう有名な箇所があるのだが、私はしかしこういう問答を、あまり好意的に受け止めることができなかった。というのも、ここで語られる生と死の支え合いのイメージは、私たちのたどって来た「共同体のはて」というイメージを見えなくさせてしまうきらいがあったからである。私たちが見て来たように、「死」は共同体が分裂し、相互にゆききできなくなる、その境目に発生するものであった。そこでもしも「不死」というイメージが成立するとしたら、ゆききできなくなった共同体の間をふたたびゆききできるイメージの中からであった。「ハブナーのクモ」は、そうした世界の不和に便乗して、分裂し始めた共同体のゆききを目指すのではなく、「生者の国」と「黄泉の国」の間をゆききする「個体の不死」「個体のよみがえり」のイメージを流し始めたのである。それはある意味での、邪教的、個人宗教的な方向性をもつものであった。しかし本当の「不死」のイメージは、「個体の不死」のようなところに成立するものではなかった。個体はいつか死ぬ。しかし個体は死んでも「不死」に関与することはできている。それは共同体の共存、共和という事実の中にである。共同体が滅べば、個体なんぞ成立しようがなかったからである。

4  ゲドとアレンの二人旅は何のためなのか

ここから、アレンとゲドの二人の旅の意味がクローズアップされてくる。いったいなぜ年のいったゲドとまた若い少年のである二人が共に危険な旅に出なくてはならなかったのか、と。
物語のはじめに提示されたのは、ゲドはかってのように絶大な強さをもっているわけではなく、アレンは戦うためにはまだまだ力が足りないということであった。
しかしいかなる戦いにしろ、戦うためには二つの事がいる。 力(肉体)と 知恵(信頼)である。作品ではしかしゲドには知恵はあったが力は無く、アレンには力はあったが知恵が無いというふうに設定されていた。
そういう二人が長い旅をしたあげく、強大な敵と戦うことになるのだが、その過程でアレンはその若さゆえにゲドの知恵を疑い、不信の念を何度も抱くことになる。「この人についていっていいのだろうか」と。つまり「こころ変わり」である。ここにアレンの体験する「倫理の死」が現れた。
一方ゲドの方は、なんとかアレンの敵前まで連れてきたが、自分にはもう力がないことを自覚していた。肉体としての力の衰えの自覚である。それは「身体の死」への自覚であった。この懸念をアレンに悟られないようにとゲドは絶えず心掛けていた。
つまりアレンとゲドの二人の旅は「倫理の死」と「身体の死」の二つの死の体験過程を表していたのである。
二人はしかし力を合わせてこの「ハフナーのクモ」と戦うことで「二つの死」をもう一度挑戦してみることになる。それは「ハフナーのクモ」のように個人の「死」を拒むのではなく、死を受け入れつつも自分の生を未来に託すように、別な人に託すように行き切ることの中に「不死」を見いだすべきであることを体験し直すのである。

こういうふうに見てくると、この『ゲド戦記 』だけがなぜ二人で旅をする構成になっているのかもわかってくる。
この旅の様子は、読めばわかるように、およそ派手な「冒険」譚からかけはなれた物語になっている。ゲドの方は華々しく魔法を使う訳でもなく、アレンを特別にぐいぐい引っ張ってゆくわけでもなかった。事実アレンは物語がすすむにつれて、何度もゲドに不信の念を抱くようになる。初対面の時は尊敬のまなざしでいっぱいだったものが、一緒に旅をしはじめると次第に失望の念に変わってゆくのである。
こうして王子アレンの旅は、言ってみればゲドを疑う旅、ゲドに不信を抱く旅として設定されているかのように見えてくる。そして実際そうだったのである。
一方ゲドの方は、あの「クモ」のたれ流す「不死の情報」に真底に立ち向かうためには、単に「死を回避した生」を求めるのではなく、死の恐怖を深く体験しつつ、その上で死が再び生として生かされるような生のイメージを体験し直すことしか道はないと確信していた。そしてそういうことが実践できるのはアレンしかいないだろうと確信していたのである。彼はこう考えていた。

「星を見るには闇がいる」
「ろうそくのあかりが見たいなら、そのろうそくを暗いところに持ってゆくこと」

つまりゲドは、アレンが希望や力を見いすためには、あえて彼を「暗さ」の中に置かなくてはと考えていたのである。それが二人の旅であった。むろんその「暗闇」をゆくだけの体力がゲドの方に残されているかは、ゲド自身に自信がなかった。彼が力つきる時はアレンの生きようとする力を信じ、その力に頼るしかないと思われていた。ゲドの確信していたことは、死を受け入れない生のイメージは「災い」でしかないということであった。
  「死を拒絶することは生をも拒絶することになる」
 「誰だって何だってそうだ。永久に生き続けるものなどありはしないのだ。ただ、わ しらだけは幸いなことに自分たちがいつか必ず死ぬということを知っている。これは人 間が天から授かったたいへんな贈り物だ。」

そしてそういう死をくぐりぬける生を再び体験できる者はアレンしかいないとゲドは考えていた。
こういうふうに見てくると、アレンのゲドに対する不信や疑いの旅が、同時に彼を自立させる旅として仕組まれていたことがよく見えてくるのである。
ここでなぜゲドはアレンにそんな大役を求めたのだろうかと問うてみる。表向きの理由はハッキリしている。それはアレンがかってのアースシー全体を統治した王の後継者だったからである。その後継者を育てるために、ゲドが旅の伴に連れていったというのである。 アレンが選ばれたのには、しかしもうひとつの理由があったと私は思う。ゲドが選ぶ必要のあったのは、これから生きようとする人、あるいは生きなければならない人、つまり「少年」だったからである。作者がここで注目しようとしていたことは、このアレンという少年が、「若者」として旅立つ時にぶつかる仕組みについてであったと私は思う。私は、それがもう一つの「死」の仕組みなのだと感じてきたからである。そしてこの「死」は、始めに取り上げたどの死の光景とも違うものなのである。

注:この文章は、『児童文学の思想史・社会史』東京書籍1997に「児童文学と死」と題して書いたものの中の一部分である。