じゃのめ見聞録  No.68

   『ハウルの動く城』のメディア的構造


2006.5.1


1  「昔話」というメディア的構造

 アニメ『ハウルの動く城』が、先行する様々な物語を取り込み、下敷きにしてできていることは、作品を見られた方にはいろいろ思い当たる節はおありかと思います。ジョーンズ『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作に持っていることはもちろんのことですが、怪物となった男を好きになる娘の話というのなら『美女と野獣』に似ているとか、カカシの登場や心臓をもらう話は『オズの魔法使い』に似ているとか、暖炉の火や、灰の掃除をしている場面が『シンデレラ』に似ているとか、いろんなところへ出られるドアは『ドラえもん』に似ているとか、星の命をもらうところは『アンパンマン』に似ているとか・・・。カカシが重要な役割をすることなら、むしろ『古事記』との比較の方が大事だし、暖炉の火を持ち出すのなら、昔話の「火男」の方が大事だし・・というようなことにもなってきます。
 昔話というか、古い物語と、こういう「宮崎アニメ」の関連をいうのは、勝手な思いつきというのではなく、宮崎駿さん自身が、昔話と自分の作品との関係を示唆する発言をされてきているからです。ちなみに『千と千尋の神隠し』の映画のパンフレットにはこういうことが書かれていました。

 この映画は、よくある異世界ものの一亜流と受けとられそうだが、むしろ、昔話に登場する「雀のお宿」や「鼠の御殿」の直系の子孫と考えたい。パラレルワールド(異次元世界)等と言わなくとも、私達の先祖は、雀のお宿でしくじったり、鼠の御殿で宴を楽しんだりして来たのだ。

 『千と千尋の神隠し』が「雀のお宿」や「鼠の御殿」の直系の子孫だというのは、ある意味ではひどく意外です。誰もそんなふうな関連を意識して、あのアニメを見てはいなかったからです。もちろん、これは比喩なのだというふうに考えることもできます。このアニメは、現代版の「昔話みたいなもの」なんですよ、と言いたいがために、こういう言い回しをしているだけなのだと。もし、百歩譲って、そういうことなのだとしても、では宮崎駿さんは、なぜ比喩にしてまで「昔話」を持ち出す必要があったのか、ということが問題になってくると思われます。彼はいったい「昔話」という言葉で何をイメージしようとしていたのでしょうか。パンフレットにはさらにこんなふうなことも書かれていました。

 日本の伝統的意匠は多様なイメージの宝庫だ(略)。民俗的空間物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまでが、どれほど豊かでユニークであるかは、ただ知られていないだけなのである。カチカチ山や桃太郎は、たしかに説得力を失った。しかし、民話風のチンマリした世界に、伝統的なものをすべて詰め込むのは、いかにも貧弱な発想といわねばならない。子供達はハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。

 ここでは、宮崎駿さんは、確信犯的に、「昔話」を「民俗的空間物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術」までに広げて受けとめ、そういう世界の持つ「豊かな伝統」を現代の子どもに伝えなければという使命を意識されているみたいです。こういう問題意識は、今回の『ハウルの動く城』にも持ち込まれているのですが、ではいったい、こうした映画パンフレットで宮崎さんが訴えようとしていたことは、何だと考えればいいのでしょうか。
 「昔話」と一口に言っても、もちろんその中身は多種多様で、学問的にもさまざまな解釈が試みられています。でも共通しているところが一つあります。それは「お話」だということです。たとえば子どもたちは、「舌切り雀」の「お話」あるいは「絵本」を聞きながら、一気におじいさんとおばあさんと雀の居る不思議な空間に入ってゆきます。雀がおしゃべりをする異様な空間。そういう空間へ一気に誘うのが「昔話」です。
 こうした、今ここには存在しない場所に道筋をつけるのが「メディア(媒体)」であり、そういう意味では「昔話」そのものが、実は異空間へと道をつける「メディア(媒体)」であったことは指摘できると思います。なにも、新聞やテレビ・ラジオ・電話・インターネットだけが「メディア(媒体)」なのではなく、「お話」もまた巧妙に創られた「メディア(媒体)」であったわけです。
 大事なことは、こうした「メデイア」を通して広がる異空間に遊ぶ面白さと、いつかそこから「元のところ」「自分の身体のあるところ」へ戻ってくる、というところにあります。それは、日常生活の中で、「お話」をせがむ子どもたちに、いつまでも「お話」を聞かせ続けることができないことにも関係してきます。面白いからといって、夜昼となくそういう異世界に浸り続けることはできないのです。「さあさあ、今からご飯の支度をするんだからお手伝いしなさい!」というように、現にここにいる世界に、いつか必ず戻ってこなくてはいけません。
 こうした「異世界」「別世界」「遠くの世界」へつなぐものを、新しい言葉で「メディア」と呼ぶわけですが、古い言い回しを使って言えば、それは「魔法」といいうふうに言えるかと思います。
 宮崎駿さんが、「昔話」や「民俗的空間物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術」、そして「魔法」までをひっくるめて、そこに「豊かさ」があるということを言われるときには、ある意味ではそういう「メディア的構造」の豊かさを言われているんだと思われます。問題は、しかし、そういう「メディア的構造」が全面的に豊かなものを生み出しているのかどうかです。電気もないいろり端で、「お話」だけの「メディア」で育つ子どもたちと、あふれかえる「メディア構造」の中で育つ子どもたちとでは、おのずと「異世界」を生きる生き方が違ってきます。そういう「違い」は問題にしなくてもいいのかどうか? おそらく『ハウルの動く城』が構想されたとき、宮崎駿さんの脳裏にあったものは、そのことへの問題であったように私は思っています。そのことを、これから考えてゆきたいと思います。


2 「ハウルの城」の造形の新しさ

 「ハウルの城」は、寄せ集めの、張りぼての、ヤドカリのような「城」です。大砲のようなものをくっつけてはいても、実際に砲弾を撃てる大砲ではなく、単なる廃材を寄せ集めているだけの、見せかけのものにすぎません。自分を大きく見せかけているだけの、意匠にすぎません。実際の映像を見ても、その巨大な城の映像とは裏腹に、その「城」を支える足はあまりにも、細くひ弱な、鳥の足のようなものにすぎません。こんな細い足で、「城」が支えられるわけがないのですが、もし支えられるとしたら、その城が張りぼてか、見かけ倒しにしかすぎないか、そういうことだということです。実際、この城は最後には壊れて跡形もなくなります。
 この「城」が現代の若者の姿を暗示しているというのは、いうまでもありません。中身はひ弱なのに、髪の毛を染め、化粧をし、やたらと、ブランド品の衣服やバッグや時計やアクセサリーを身につけ、いかにも自分はすごいんだという「見せかけの格好」を現代の若者は生きています。この作品が、「ハウルの城」という「城」の姿を表題にもっているというのは、作者がこの「城」のイメージに強くこだわりたいところがあったからです。原作からアニメになって、この城のイメージは原作よりも重要な役割を担って登場しています。むしろ、この城の特異な造形を頭の中でイメージできたことで、宮崎駿さんは、この原作をアニメ化しょうと考えたくらいだと言ってもいいと思われます。それだけ、この「城」の造形は大事なものだったと思われます。
 では、どこが大事なのか。
 「ハウルの城」は、現代の若者の象徴の様だといいましたが、それは「現代の若者」を悪く言うだけのためではありません。この城の造形は、もう一つのイメージの造形にもなっていたのです。れは「メデイアとしての城」のイメージで、原作ではほとんど意識されていないイメージです。
 アニメを見られた方は誰でも気がつくのですが、「ハウルの城」には、奇妙なドアがあって、そのドアの横に付いてある四色の丸い取っ手を回すと、同じドアから別な次元の世界に出て行くことができます。アニメを見ている限りでは、アレッ、どうなってるんだとびっくりさせられる奇妙な、不思議なドアです。『ドラえもん』に出てくる「どこでもドア」に似ていると思った人がいるかもしれません。
 現実には、そんな「別の次元」に出られるドアなどは存在しないのですが、それに似たドアを想定すれば、それはテレビのようなメディアを考えることができます。チャンネルを回すと、そこに見たこともないような世界が見えてくる・・。ただ、「ハウルの城」のドアは、実際にその世界に出て行けるのに、テレビでは、その世界は「見る」だけで、そこへ入ってゆくことはできません。そういう「違い」はあるのですが、でも、基本的には、「そこにない世界」へつながる入り口であることでは似ています。
 私たちは、現実にはある地理上の一地点に存在しているのですが、でもそこに存在しない色々な世界につながって暮らしています。それが「メディア的な構造」であり、私たちは、この「メディア的な構造」を生きることで、等身大では決して見聞きすることのできない「世界」につながって暮らすことができています。ここでいう「メディア」とは「媒介」「媒体」の意味ですが、本来なら離れているがために、むすびついたり、関係したりできないものが、それによってむすびつけられ、関係させられます。そういう媒介の構造を、ここで「メディア的な構造」と呼んでいると考えてください。
 そうした「メディア的な構造」のもっともわかりやすい例は「電話」です。「電話」ができたときは、人はきっとえらく驚いただろうと思います。うんと遠くにいる人が、今自分の隣にいるかのように感じられて、おしゃべりができたからです。「メディア」とは「媒体・媒介」のことですが、まさに、遠くにいる人と、ここに居ある人との間を媒介し、その距離がないかのように、むすんでしまう仕組みのことでした。今の若者のことでいえば、ケータイ電話ということになるでしょうか。そこでは、「声」だけに限らず、お互いの「姿・行動」までもが、「映像」として瞬時に相手に伝えられていて、相手を電話以上に身近に感じることができるようになっています。
 もしも、「ハウルの動く城」が「若者の姿」を象徴しているのだとしたら、その姿そのものが、ケータイやインターネットとつながって生きている「メディア的構造」を生きる若者の姿と重なっているのは、わかりにくいことではないように思われます。もちろん、「ハウルの城のドア」は、そこから実際に地理的に離れた場所に出て行くことができるので、「電話」や「ケータイ」と同じではないのですが、それでも「ハウルの城のドア」と「メディア的構造」は、そんなに別なものでもないところは見ておかなくてはなりません。

3 「ソフィー」という娘の存在の仕方

 といっても、「どこでもドア」のようなものだけが、『ハウルの動く城』の「メディア的構造」になっているわけではありません。『ハウルの動く城』という作品の仕組みそのもののが、実は「メディア的構造」を意識させるものとして創られていたからです。そのことを次に見てゆきたいと思います。
 『ハウルの動く城』は、ソフィーという娘が90歳の老婆にさせられるところから始まります。理由もよく分からず、魔法使い「荒れ地の魔女」がソフィーを90歳の老婆にしてしまうものですから、見ている方は、あっけにとられてしまうのですが、主人公のソフィーは、それでめげるわけでもなく、前向きに生きてゆくので、その妙な設定に疑問を持ちながらも、しだいに違和感を忘れて物語の進行についてゆくことになります。
 ところで、娘が老婆になったり、老婆が娘になったり、というのは、まさに「魔法」の仕業だと思われがちですが、そうなんでしょうか。私たちは、しばしば若いときに歳を取ったような行動を取ることがあります。「おやじ入ってる」という言い方が若い人の間で流行ったことがありますが、それは「若いのにオヤジみたいなことをする」という時に使われていました。確かに、実際の若者の見かけがいきなり老婆になるということはありえませんが、私はそれはあり得ないことではないと思っています。坂口安吾の書いていた言葉にも次のようなものがありました。
 「私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。」『風と光と二十の私と』
 人は若いときでも、どーんと年を取ることがあるんだと思います。さまざまな理由から、たとえ若くとも、自分の先行きというか、自分の限界を思い悩んで、絶望してしまうことがあって、その時は、きっと人生のうんと先というか、端っこというか、崖っぷちまで行くことがあります。そういうときは、きっとうんと歳を取っている時なんだと思われます。
 ちなみに、東京のど真ん中で、ヤマンバギャル・ファッションを生きる娘たちは、わざと顔を黒く、髪の毛は白くし、老婆みたいな格好をしています。彼女たちは、年齢や性別の拘束から自由に生きたいから「ヤマンバ」のような格好をしているんだと言っています。そうした「老成ファッション」には、娘たちなりの主張があるみたいです。
 でも私はファッションや風俗として、娘が老婆に変身することと、『ハウルの動く城』を比較しようとしているわけではありません。そうではなくて、「若者」という次元に生きる者が、「老年」という次元に一気に結びつくのは「メディア的な構造」であることを指摘したいのです。普通の物語では、若者は若者であり、「魔法」にかからない限り「老婆」にはならないのですが、でも「メディア(媒体)」を使えば、自分が90歳になったときの有様を疑似体験することは可能です。ソフィーはまさにそんな疑似体験をすることになっているのだと思います。そして、そういう体験をすることによって、娘の時にはできなかった、図々しい行動や、割り切った行動をする自分を味わうことになります。ヤマンバギャルの行動も、そういう意味では似ているのかもしれません。ともあれ、ソフィーは「メディア的な自分」をしかたなく引き受けることで、損をする部分と得をする部分の両方を生きることになります。


4 「ハウル」という存在

 「ハウル」という主人公は、では、どうなっているのでしょうか。彼は普段は「美青年」でありながら、夜になると不気味な「怪鳥」のような姿を生きています。ソフィーが「若者」と「老婆」を行き来しているように、ハウルは「美青年」と「野獣」の間を行き来しています。こうしたハウルの存在の仕方も、「魔法」のせいなのですが、彼のような存在の仕方も、実は私たちの存在の仕方とそんなに遠いものではないような気がします。私たちの内部にも、人間性と獣生があって、残虐な事件が起こるたびに、マスコミは犯人を「人間とは思えない」とか「畜生のやることだ」とか形容してきました。そこに「獣的な行動」を見て取っていたわけです。確かに、「人間」は時と場合によっては、普段見せない顔つきになって、とんでもない動物的な行動をしてしまうことはあるものです。残忍な事件を見るたびに、私たちは、「人間」の内部に「野獣」の部分が眠っているということは、決して比喩ではないのだという気づかされます。
 ハウルがこういう野獣ならぬ怪鳥に変身するようになったのは、弱虫の自分を強く見せかけるために、魔法を学んだがためでした。つまり「メディア(魔法)」を使って、自分を必要以上に強く、荒々しく、かっこよく見せかける訓練してきた結果、そういうことができるようになっていたのです。しかし、そういう「見せかけの自分」がだんだんと固定化してきて、元の自分に戻れなくなってきているのです。その時にハウルはソフィーに出会うことになりました。
 「美女と野獣」という昔の物語は、まさに「野獣」になったものの中に「人間性」を見て取る物語群のことなのですが、『ハウルの動く城』という作品も、この「美女と野獣」というテーマをはらんでいます。でも、この「美女と野獣」というテーマが、女と男に振り分けられているのではなく、ハウルという男の中に存在したり、ソフィーという女の中に存在したりするように描かれているところが、この作品の面白いところです。
 ハウルも、ソフィーも、「メディア(魔法)」を通して、「異質な自分」を体験することになるのですが、ソフィーはそこから、「元の自分」に戻る努力をしてゆくのに比べて、ハウルの方は、しだいに「怪鳥」である自分から戻るすべを失ってゆくように見えます。そんな中で、ソフィーが「元に戻る」手助けをしてくれることになるのです。


5 火の精・カルシファー

 『ハウルの動く城』の、今ひとつの立役者は、火の精・カルシファーです。「火の悪魔」などと翻訳では呼ばれるので、誤解されてしまいますが、実態は「火の精」のようなやさしい存在です。でも、その「火の精」によって「ハウルの城」が動かされているのですから、不思議です。なぜそういう展開にならないといけないのか、観客にはすんなりとはわかりません。『千と千尋の神隠し』では、「釜爺」と呼ばれるクモ男のような人が、銭湯のお湯を沸かすボイラーマンのように登場していました。これはこれでよくわかる設定でした。けれども、『ハウルの動く城』では、なぜカルシファーが城を動かしているのか、見ている方にはよくわからないのです。
 こういう「わからなさ」は、しかし、カルシファーには限らないことは見てきたとおりです。このキャラクターも、他の登場人物と同じように、「一つの顔」を持っているだけではなかったからです。
 たとえばカルシファーは、アニメの中ではたえず「暖炉」の中にいます。チロチロ燃える「暖炉の火」のように描かれています。でも、あんなふうな「火」で「城」が動かせるということはあり得ないわけです。大きな城のようなものを動かすには、もっとすさまじい勢いの火が必要です。なのに、描かれているのは、ほとんど「暖炉の火」です。「暖炉」と「ボイラー(蒸気発生装置)」は違います。しかし、そんなことはアニメの監督・宮崎駿さんにはよくわかっているわけです。城の風呂のお湯もカルシファーが沸かしているのですから、どこかでボイラーのような仕組みを動かしているのは事実であって、それはただアニメの中では描かれていないだけなんだと。
 私は別に細かいことにこだわっているわけではないのです。アニメにリアリズムを求めているわけではないのですから。そうではなくて、私が注目しているのは、『ハウルの動く城』という作品の中心の一つに「火」があるということについてです。それはでもただの「火」のことではなく、「人を動かす火」とは何かという問いかけにつながるものです。「人」を動かすもの、それは「心臓」です。長い間「心臓の停止」が「人の死」とされてきたのですから、「心臓」こそが、人を動かすもので、そこに流れる温かい血が「心の火=ハート」と見なされもしてきました。
 アニメでは、カルシファーはもともと「星の精」であったことが途中でわかります。その「星の精」が流れ星のように落ちてきて、ハウルの心臓と入れ替わってしまったことがわかります。つまり、「星の精」の持つ不思議な力をハウルは手に入れたいと願い、その交換として「星の精」に自分の心臓をあげてしまったのです。
 そういう交換の契約をしたので、「星の精」はハウルの元から離れることができず、またハウルも彼を離すと心臓を失うことになるので、手元に置いておかなくてはならず、持ちつ持たれつで両者は暮らしていたというわけです。でも、その結果、「星の精」は、自分の力を張りぼての、まがい物の城を動かす原動力(火)のようなものとして使うことにさせられ、一方、ハウルの方は、「心臓」を「星の精」に渡したがために、「ハートのない男」として、どこか「魔物」のような姿を生きざるを得なくなっていったというのです。
 事態の解決策は、ハウルが「星の精」に星の力を返し、自分の心臓を「星の精」から引き取ること以外にありません。でも、そうすることは、ハウルの動く城から原動力を抜いてしまうことになるので、城は壊れてしまいます。そして、実際に物語の最後は、そういう展開になっているのは、アニメを見られたとおりです。
 ここで大事なことを繰り返して指摘しておくと、このカルシファーというキャラクターが、「火の精」であるとと同時に「星の精」でもあるという特徴を持っているところです。ここを見逃すと変なことになります。カルシファーはボイラーマンのようにして、水を湧かして城を動かしていたのではなくて、「星の精」の「力」を「火」のように使って、城を動かしていたからです。
 「星の精」の「力」、それは「魔法の力」なんですが、その力を使ってハウルは怪鳥になってゆきました。しかし作品の中で、カルシファーは怪鳥になったハウルに忠告するシーンがあります。そんなことを続けていると元に戻れなくなるぞ、と。大事なシーンです。カルシファーは「魔法・メディア」の力そのものですから、ハウルを怪鳥にするだけではなく、「城」を見かけ倒しにふくらますこともできますし、「どこでもドア」を使って城の住民を遠くの世界に瞬時に連れて行くこともできます。しかし、カルシファーのいいところは、そんなことでいいのか、そんな虚像を生きるだけでいいのかと、常にハウルに問いかけているところです。


6 「カカシ」の存在

 『ハウルの動く城』には、もう一つ不思議なキャラクターが登場します。それは「カカシ」です。作品ではこの「カカシ」が意外に重要な役割を果たしています。神話や伝説の中では、「カカシ」は、山と里の境界に立つ神様であり、二つの異なる領域をむすぶ神様でありました。媒介の神様といってもいいでしょうか。ですから、老婆になったソフィーをハウルの城に結びつけるのも「カカシ」でしたし、途方に暮れて泣きじゃくるソフィーに傘を差してくれるのも「カカシ」でした。最後の、ハウルの城の崩壊に立ち会って、破滅から救ってくれるのも「カカシ」でした。要するに、この物語のはじめと終わりの大変重要な場面で、決定的に重要な役目を背負って登場していたのが、この「カカシ」だったのです。
 最後の最後に、この「カカシ」は「隣の国の王子」が魔法にかけられて「カカシ」にされていたことが分かります。そして彼が王子として国同士の戦争を終わらせる立場にあったこともわかります。でも、「カカシ」にされてそれができなくなり、その魔法を解いてくれるものとしてソフィーに目をつけて、彼女の後をついて回っていたことも後になって分かります。しかし、映画の途中では、そういう「説明」はいっさいされませんから、なんでこんなところに「カカシ」なんか出てくるんだろうと不思議な感じがしていたと思われます。
 しかし、「昔話」や「古い物語」を知っている人は、「カカシ」を見たときに、そこに知恵者や、先導者を見て取ることができていたと思います。宮崎駿さんは、そういう「昔の物語」の大事なキャラクターを、あまり「説明」なしに、大事な場面であえて使っていたように私は思います。ただ『ハウルの動く城』という作品にそって、この「カカシ」の描かれ方を見ると、「カカシ」は「隣の国の王子」でありながら「カカシ」にさせられていたので、チャンスがあれば「元の姿」に戻ろうとしていたことがわかります。それは「ハウル」の描かれ方と違うところです。「ハウル」は「元に戻る」ことを意識しなくなっていたからです。


7 アニメの中の「戦争」について

 『ハウルの動く城』の中で、もっとも不可解なのは「戦争」の描かれ方です。多くの人が、ここで描かれている「戦争」がいったいどういうものなのか、「説明」することができないからです。とくに最後になって、王宮付きの魔法使いサリマンによって、「この馬鹿げた戦争を終わらせましょう」などといわれて、あっさりと「おわり」にできることを感じてしまうと、それまでの「戦争」はいったい何だったのかと思わされてしまいます。魔法使い同士の「お遊び」だったのかと。
 しかし、振り返ってみると、宮崎駿さんは、アニメで「戦争」を描こうとされたことは、それまでにもなかったように思われます。つまり『火垂るの墓』のように、アニメを使って戦争の悲惨さや残酷さを訴えるようなことは考えてこられなかった。アニメというのは、そういうふうに使われるものではないと、最初から思われている節があるからです。『紅の豚』の空中戦でも、ほとんどドタバタ活劇のようなものだったし、『ハウルの動く城』でも、戦うのは化け物たち同士のように描かれているのですから。
ただ、この作品に限って大事なことを指摘しておけば、「ハウルの城」には「どこでもドア」があるのですから、ある所で「戦争」が起こっても、ハウルたちは別な所へと瞬時に移動することができたはずなんです。そして事実、ハウルはそうやって、嫌な現実を避け、いつも違う場所へ「逃げていた」んだと途中でソフィーに告白しています。しかし、ソフィーを好きになってきてから、そういうことをやめて、「戦う」ことでソフィーを守ることをしはじめたというのです。つまり、そういうふうなものとして「戦争」が描かれているということです。
 実際の「戦争」も、実は「メディアの操作」で拡大されてきたことは歴史的な事実としてわかっています。奇妙なことですが、ひとたび「戦争」が起こってしまえば、一方に、家族や愛する者を守るためにその戦いに出て行かざるを得ない人々がおり、もう一方に、「メディア」で「戦争」を創り出す者たちがおり、その者たちは、「メディア」を通して「戦争」を拡大させたり、終焉させたりすることもできていました。『ハウルの動く城』では、「戦争」のもつ、そういうメディア的な構造も巧みに作品化されていて、『火垂るの墓』のような「戦争アニメ」では見ることのできない別な戦争の側面も見ることができるようになっているように私は感じました。


8 「メディア的構造」とは何か

 以上のことを踏まえて、改めて、『ハウルの動く城』における「メディア的構造」とは何かについて考えると、どういうことになるのでしょうか。「メディア的構造」というのは、基本的には「媒介の構造」ということでしたが、私たちは、その「媒介の構造」をへて、「異種の世界」に道を開き、そういう「見たこともないような世界」のことで、心を豊かにしたり、頭の中をいっぱいにすることができます。しかしまた、そうした操作で手に入る世界を、自分の世界と勘違いしたり、すり替えてしまうこともでてきます。その「すり替え」は、ある意味では楽しく快楽の部分がありますから、いったんそういう「異種の世界」に浸ると、「我を忘れる」ことが起こってしまいます。
 しかし、「メディア的構造」が見せる世界は、「昔話」を含め「虚像」である面があるわけです。そこは豊かな世界ではあるのですが、真実の半分の世界でしかないという側面をもっています。問題は、「メディア的構造」ではない状況とはどんなものなのかということです。それは「等身大」の「生身の身体」が生きる世界です。私たちは、「メディア的構造」と「等身大=生身の身体」の両方の構造を実は、行ったり来たりしながら生きているものなのです。
 宮崎駿さんは、現在ふくれあがる「メディア的構造」を生きる若者に対して、もう一つの次元、つまり「身の丈を生きる次元」、つまり「等身大=生身の身体」を生きる次元を大事にすることをどこかで訴えないといけないと感じてこられたと思います。それは、自分の創るアニメに子どもたちを誘うことで、そういうアニメの世界の面白さに夢中にさせてしまう状況を作ってしまうことへの反省にもつながっています。確かに、「雀のお宿」で遊ぶことの面白さ、日本の伝統の豊かさを子どもにも味あわせてあげたいのだが、それが「メディア的構造」であるかぎり、その豊かさに知らず知らずに絡め取られてゆく危険性もでてきている。
 今回の『ハウルの動く城』という作品は、「メディア的構造」で手に入れた「虚像」をヤドカリのように身にまとって動く「城」の描写から始まり、最後はその「虚像」がことごとくはぎ取られ、ハウルたちが等身大の自分たちの姿を確認し合うところで、物語が終わっています。そういう展開を見れば、『ハウルの動く城』は、まさにアニメという「メディア的構造」を通して、「メディア的」ではない世界とは何かということを問うた作品になっていることを私たちは見ることができます。そういう意味では、「メディア」を使って「メディア」を壊す試みをしようとしたある意味では、すごく実験的な作品になっていることを、私はこの作品に見たように思っています。

                 『昔話―研究と資料―34号』日本昔話学会2006年