じゃのめ見聞録  No.67

   戦う家庭科の方へ
―未来の家庭科はどうなってゆくのか―


2006.4.1


  猛暑だったある夏に、コーラばかり飲んでいて太ったことがあった。その後の家庭科の教育実習の訪問に行ったとき、学生が自腹で缶入りの清涼飲料水を10本ほど買って、その中の糖分の比較の実演をしているのを見た。そしてびっくりした。そのときはじめてコーラに大量の砂糖が含まれていることを知ったからだ。家庭科では常識のことを私は全く知らなかった。私はそれからコーラを飲まなくなった。

 先日テレビを見ていたら、アメリカの家庭で、ポテトチップをかじりコーラのペットボトルをラッパ飲みにしている親子の様子が放映されていた。4人の親子は、まるまると太っていた。番組はNHKのBS放送で『「飽食国家」アメリカ 食育の模索と課題』と題されていた。ナレーションはこう言っていた。「いまアメリカの5人に1人は極度の肥満に悩んでいて、問題は国家的な規模において大変深刻なのです」「いまこそ、食生活の改善が切実に求められているのです」と。
 そして私は今年の1月に、NHKのBS長編ドキュメンタリー番組で、『世界を動かす砂糖産業』という前編後編の二回にわたって放映されたものを思い出した。前編「さとうきび現場の奴隷たち」、後編「肥満をまねく甘い産業」となっていた。この番組は、近代に入っていかに人々が「砂糖」に毒され、子ども時代から成人病を招いてきているか、その「砂糖産業」の企業責任も含めて追求していた。私はそういう世界に展開する「砂糖産業」のことも全然知らなかった。アメリカは、こうした人々をむしばむ「食生活」に大きな危機感を感じ、国家的な対策として「食育」を見直すことに全力を投球しはじめている。

 日本でも事情は同じであろう。そこで見直されなくてはならないのは「家庭科」の重要性である。いままで「家庭科」は、どうしても「社会科」と切り離され、社会的な施策と切り離され、受験科目から外されてきた。けれども、これからは「家庭科」の知識が個人や家庭を支えるだけではなく、社会を支えるもっとも重要な分野の一つになるように自覚され直してゆくだろう。そのためには、いままで蓄積されてきた「家庭科」の知識は、もっと情報化され、通信化され、「インターネットの中の家庭科」として、つまりいつでも「ケータイ」を通して利用できる「ポケットの中の家庭科」として、多くの人に共有されるものに変身してゆかなくてはならないだろう。そして「社会科」ともっと連動し、社会を再構築するための、まさに「戦う家庭科」になってゆくことを私はいま感じている。


  毎年の暑い夏は、冷蔵庫にコカコーラはなくてはならないものだった。そんな初夏のある日、家庭科の教育実習訪問で、実習生がコカコーラやキリンレモンやそのほかの缶ジュース類10本ほどを自腹で購入し、炭酸飲料水に含まれる糖分の量を比較・実演するのを参観したことがあった。その時はじめて、コカコーラが想像をはるかに超えた糖分量を有しているかまざまざと見せつけられた。びっくりした。まるで砂糖水を飲んでいることがわかったからだ。それ以来、暑い夏でも私はぴたりとそういう飲料水を飲まなくなった。

 この教育実習に感謝、と私は感じているが、そこではたっと考えてしまった。こんなことを家庭科の先生に言えばきっと笑われてしまうだろうと思われたからだ。「家庭科」では、こんなことは「常識」のことだからだ。いまさら、そんなことで「感謝」されてもね、という感じ。しかし、私がこの教育実習の参観をしていなかったら、いぜん暑い夏は大量の炭酸飲料水をがぶ飲みしていただろうということも事実であり、私はこのとき、この大事な「家庭科」というものと、自分たちの「実生活」がいかにかけ離れているかということをまざまざと感じてしまったのである。この「距離」のことをどう考えるといいのだろうか。

  私がこのコカコーラ体験のエピソードをここで書こうと思ったのは、二つ理由がある。一つは偶然にもNHKのBS放送で『「飽食国家」アメリカ 食育の模索と課題』という番組を見たからだった。その番組の冒頭で、アメリカのある家庭のリビングが映され、そこには太った母親と、太った娘が、ポテトチップスをかじりながら、コカコーラの大瓶をラッパ飲みしていた。びっくりした。一時前の私の姿がそこにあったからだ。「そんなにコカコーラをがぶ飲みしたら太るぞ!」「それはほとんどが砂糖なんだぞ!」と言ってやりたかった、が、私の声は届かなかったし、すでに親子は、限度を超えて太っていた。そして、ナレーションはこういっていた「いまアメリカの5人に1人は極度の肥満に悩んでいて、問題は国家的な規模において大変深刻なのです」「いまこそ、食生活の改善が切実に求められているのです」と。

 そこでわかることは、「食生活の改善」をもっと積極的に教える場が必要だということである。それは「家庭科」の出番である。しかし、私自身のことを考えてみてもわかることは、「家庭科」はちゃんとあるのに、それが「暮らし」と結ばれていないのである。それは、どう考えたらいいのか。「家庭科が必要だ」という問題ではないのだ。「家庭科」は存在するわけで、それと「暮らし」が結びつかないところが「問題」になっているのである。そこでの「現実的な結びつけ」がいま切実にというか緊急に求められているのである。きっといま、アメリカでも、日本でも、同じことが起こっているのである。

 そしてこの番組に触発されて思い出したもう一つのテレビ番組があった。それは、今年の1月に放映された、これまたNHKのBS長編ドキュメンタリー番組だった。それは『世界を動かす砂糖産業』という前編後編の二回にわたって放映されたもので、前編「さとうきび現場の奴隷たち」、後編「肥満をまねく甘い産業」というものだった。知らなかった、ということもあったが、なにかしら、恐ろしいものを見たという感想が残っていた。

 そこには私のよく知っているはずの「砂糖」というものが、全然知らない姿として立ち現れてきていたからである。そこでは「近代」の「産業化革命」が起こり、さとうきびから砂糖を精錬する技術が高まり、そういう砂糖を大量に手に入れるために、奴隷を使ってのさとうきび栽培が盛んになっていったという歴史過程が紹介され、そうして得られた砂糖が、過酷な仕事をさせられる労働者階級の疲れを癒すために、「甘い食品」として大量に流通し始めたという現実が紹介されていた。

 こうした「砂糖産業」で莫大な富が生まれ、そこに一握りの財閥が生まれてきたと同時に、そうした大量の砂糖を求めて暮らす労働者の「食のバランス」が、劇的に崩されてゆく状況も生まれてきていたのである。BSドキュメンタリーはさらに取材をすすめ、現在でも「奴隷制度」は残っていて、不法移民や難民を囲い込んで、その弱点につけこんで、さとうきび畑で、食事も教育も満足に受けさせずに日夜働かせているという実態も紹介していた。知らなかった! 「砂糖」というものが、そんな風にして作られていることを知らなかったし、「砂糖」がそんなふうな「政治的な産物」であったことも知らなかった。



 こうしたことから何を考えることができるだろうか。それは「食物」とか「食品」と呼ばれているものが、「栄養」や「調理」というレベルの出来事だけではなくて、大きく世界規模の「環境問題」としても存在するという事実のことであった。ここから何が見えてくるかというと、「食物」とか「食品」の問題を、ひとりの「個人」が口から食べる問題のように見ているだけでは、いけないということであった。そこには「世界規模」の「食料生産」の問題がからんでおり、つねに「食料」は「個体」や「体内」の問題を超えて「環境問題」としてあったということである。そう考えると、次に何を考える必要があるのかというと、「家庭科」が、「個人」が一人一人「個人的に考える」ものであるという視点を超えて、もっと「社会」が働きかける「共同の知恵」の広げの場でもあるということを見直すことであろう。


 なぜそういうことをあえて言うのかというと、すでに多くの人が感じて来ているように、「家庭科」が大事なことを教えているものであることはわかっているのに、それを受け取るかどうかは常に「個人の問題」にされてきていて、実際の「生活」で生かされるように結びつけられることは少ないのである。そこには社会の責任や企業の責任は、度外視されてきた歴史があったのである。

 おそらく次の時代には「家庭科」と「生活」はもっと結びつけれるような新しい発想の学問が形成されてゆくのではないかと私は思う。し、またそういう学問や発想が実際に生まれてこなければならないと私は感じる。

 時代はしだいに飲料水の不足、人口爆発や地球温暖化による食料不足や食料生産の低下、そして、糖分や塩分、脂肪のとりすぎによる児童期からの成人病の蔓延、そして医療費の高騰化などが広がりはじめており、こういう事態の進行は、まさに「社会」の崩れにつながってゆくのである。ここで求められるのは、「家庭科」がもっと「社会科」と連動する道を模索することである。いつからか「家庭科」は「家庭総合」という名称に変わってきたが、おそらく来るべき未来の家庭はもっと「社会・家庭」という新分野に進出し、従来の「家庭科」が推し進めてきた問題を、もっと「社会」の問題として受け止め、人々に周知徹底させるような社会施策がとらざるを得なくなってくると思われるのである。受験科目から「家庭科」が外されるというようなことが、この分野への無関心を助長させてきた。「社会・家庭」になれば、もっと多くの若者が「家庭科」の大事な知恵を真剣に学ぶ機会をもつことになるだろう。


 さらに「家庭科」はもっと「情報」と呼ばれる分野との連携も欠かせなくなるだろうと私は考える。「家庭科」の知恵が、いまではケータイやインターネットで、簡単に伝えられ、手にはいるようになってきているからである。そういう道筋をもっと自覚して「ケータイの中の家庭科」、あるいは「インターネットの中の家庭科」というものを創出してゆく工夫がいるように感じている。いわゆる「情報としての家庭科」である。

 私は、「通信教育」としても家庭科はもっと多くの人に開かれてゆくべきだと考えるものである。家庭科の蓄積してきた知恵は、学校や大学に来る人にだけ伝えられるのではなく、学校に来られない人にも、単位を与えるとか終了証書を与えるとか、そういうみみっちい発想ではなく、誰でもが、いつでもどこででも気軽にアクセスできて、その「知恵」を得られるような、ある意味での「社会」の崩壊を食い止める大きな施策の一環として、「通信」という技術を存分に使った「情報としての社会・家庭科」の形態を創造してゆく必要があると私は考える。それは「戦う家庭科の創造」である。

           『同志社女子大学 生活科学会通信 №47』 2006.6 の原文