じゃのめ見聞録  No.65

   いごもり・ひまち・とんどさん


2006.2.1


   先日、精華町・祝園神社では、有名な「いごもり祭」(京都府無形民族文化財指定)が行われたが、子どもの頃は、その「いごもり」という発音の意味がわからず「芋掘り」祭りがあるのだとづっと思っていた。「居籠祭」は、まさに「お籠り」の神事で、うんと古い時代には、月が欠けて見えなくなるのを恐れ、新しく出てくる月を待ち望む儀式としてあったようだ。旧暦ではひと月の終わりが、月の見えなくなる時で、その日を「つごもり」と呼んできた。「つごもり」とは「晦日」と書くが、実は「月が籠もる」という「月隠」の意味で、それが縮まって「つごもり」と呼ばれてきたものである。この「月の籠もり」に対応して、昔の人も寝ないで「籠もり」をし、新しい月の出てくるのを待つ、「月待ち」の行事を設けてきた。私の在所でも、それは「日待ち」の行事として残っている。昭和30年代頃までは、夜中の12時を回るまでは、寄り合いをしていたが、近年は10時頃には寄り合いを解散している。少し事情は違っているが、アマテラスオオミカミの岩屋戸への「隠れ」も、古代の「日待ち」「居籠」の名残だという人がいる。

 そんな「日待ち」の明け方に、私の在所では「とんどさん」と呼ばれる「火祭り」をしてきた。正月のしめ縄や餅を焼いて無病息災を願い、習字の紙を焼いて字の上達を祈願したものだった。日本の各地で「どんど」「どんど焼」と呼ばれる「火祭り」と同じであろう。「どんど」という呼び方も不思議な呼び方である。神社でするお囃子の音や、火がドンドン燃える様から来ているという説もあるが、私は、村境で行われてきたことに関係があるのではないかと思う。「どん」とは「どんつき」の「どん」であり、物事の「終わり」「はて」の意味があり、それが「村はずれ」で意識される。「終わり」は、でも「始まり」であり、村境で行われる小正月の火祭りは、「終わり」を「始まり」に転化し、点火する火の祭りになっていたのではなかったかと。

                                          京都新聞 2006.1.27