じゃのめ見聞録  No.64

宮澤賢治が深い影響を受けたキリスト者斎藤宗次郎


2006.1.13


しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
                 (ヨハネによる福音書8章7〜8節)
                                
宮沢賢治の思い出

 おはようございます。私が高校時代にとても影響を受けた宮沢賢治の話を少しだけしたいと思います。宮沢賢治の事を知ったのは高校の修学旅行で青森に行った時の事でした。その時に花巻に寄りました。「雨ニモ負ケズ」を書いた卓上のつい立てを買って帰った記憶があります。帰ってから「雨ニモ負ケズ」の詩を、道を歩きながら、幾度も暗唱して口ずさんでいた事をよく覚えています。児童文化の研究をするようになりましたので、賢治の作品は集中して読むようになりました。その時に不思議に思ったのは、彼はとても熱心な仏教徒なのですけれども、彼の作品にはキリスト教の雰囲気があちこちにただよっていることについてでした。自分で宮沢賢治について『「銀河鉄道の夜」とは何か』という本を書いた時も、改めてそのことを感じました。これは不思議でした。彼は熱心な法華経の信者さんなのです。なのに、なんでこんなふうにキリスト教の匂いのする童話を書くのだろうと。
 いろんな人の説によると、彼はキリスト教に関心があったのだということが書かれているのです。でも、考えたらおかしいですよね。とっても熱心な仏教徒なのに、なんでそんなにキリスト教に関心があったのだろう。私も本を書いていた当時は、賢治が教養として広い関心を持っていた、科学にも関心があったし、詩にも芸術にも関心を持っていた、その一環としてキリスト教にも関心をもっていたのだと思って、それはそれで納得していました。

タイタニック号の沈没と『銀河鉄道の夜』

 ところが去年の夏に、宮沢賢治とキリスト教を関連づける大きな資料が発刊されました。その資料を通して、初めて具体的に賢治がキリスト教と関係していたところがわかってきました。これはうれしい資料でした。たとえば、キリスト教の雰囲気のただよう一番の作品は『銀河鉄道の夜』なのですが、そこでは、豪華客船の沈没にまるわるエピソードが大きく取り上げられています。その取り上げ方がとてもキリスト教の雰囲気を大事にしたものなんです。その豪華客船とはタイタニック号のことでした。タイタニック号が沈没したのは賢治が15才の時で、その事件は花巻の新聞にも載り、彼も強い印象を受けたのだと思われます。そして、このタイタニック号の沈没をモデルに「銀河鉄道の夜」が作られました。
 「銀河鉄道」を走る列車は、死者ばかりが乗る列車なのですが、その列車に、タイタニック号の沈没で死んだ姉弟と、その家庭教師の青年が乗り込んで来ます。主人公のジョバンニは、彼らと親しく話をしていくわけですけども、だんだん時間が経つにつれて、姉弟らは列車から降りなければならない時間がやってきます。その時、ジョバンニは別れが寂しくて、女の子達にもう少し乗っていたらどうか、と言う場面があります。でも、十字架が見えてきて、賛美歌(「主よ、みもとに」)の音楽が流れてきます。その時に、ジョバンニが女の子達にもうちょっとここに居てくれと言うわけですけれども、女の子は、実はあそこにお母さんがいる(女の子達のお母さんが亡くなっているわけです)んだ、そこへ行かなくちゃいけないと神様もおっしゃっているんだ、とジョバンニに言うのです。その時にジョバンニは、そんな神様は嘘の神様だい、というふうに言います。すると、女の子は、嘘の神様じゃない、あなたのいう神様の方が嘘の神様だわ、と言い返します。列車でのそういうやりとりと聞いていた家庭教師の青年が、ジョバンニに向かって、あなたの言う「本当の神様」というのは何なのですかと尋ねることになります。その時にジョバンニは考えて、「よく分からないのです」と答えてしまうシーンが描かれます。
 実は「銀河鉄道の夜」というのは、何度も書き直されているのです。始めの頃は、仏教の教えを広める使命を感じて、その手段として童話を書き始めるているのですが、作品を書き改めてゆく中で、しだいに仏教の色を薄めるようになってゆきます。そして他の宗教を否定することもしないようになってゆきます。そのきっかけになったのが、実は斎藤宗次郎というキリスト者との出会いであったことが、今回の資料で具体的にわかってきたことがあるのです。先ほどの「銀河鉄道の夜」の少女とのやりとりでも、結局は自分の信仰する神様を「本当の神様」と押しつける発言を慎んでしまって「よく分からないのです」というふうに、主人公に言わせているのも、この斎藤宗次郎との出会いがあったからなんですね。

斎藤宗次郎と宮沢賢治との出会い

 斎藤宗次郎というキリスト者も岩手県の生まれで、宮沢賢治より18才年上の人です。彼は内村鑑三の愛弟子として有名な方でした。内村鑑三は教会に属さないで、戦争反対、非戦を唱えていく独特なキリスト者でしたので、それに共感した人達もたくさんいたのですが、あまりにも強烈な非戦者、戦わないという人でしたから、お弟子さんたちは一人去り、二人去りしてゆき、その中でも最後まで彼についていった人が、この斎藤宗次郎という人だったといわれています。
 この熱烈なキリスト者・斎藤宗次郎と、熱烈な仏教徒・宮沢賢治とが、共に東北・岩手県の同時代に生まれていたんですね。そして、そんな個性的な二人が現実に出会っていたというのですから、驚かないわけにはゆきません。
 最初の出会いはどういうものであったのか、確かなことは分からないのですが、高等農林学校時代、友人を誘って週1回タッピング牧師の教会に通っていたという証言もあり、学生時代には友人たちのそれぞれの関心が共鳴し合い、キリスト教への関心に、つながっていたのだと思われます。ただ、賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれていますから、ずいぶん早くから、賢治は宗次郎のことを知っていたことはうかがわれます。
 こんど出版された斎藤宗次郎の日記を見て、賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せているところが日記に書かれていて、それにはびっくりしました。『春と修羅』は、妹トシが亡くなったことがきっかけで書かれているのですが、そのゲラを、宗次郎が読んで、深く感動した感想を書いているんですね。妹のトシさんは、東京の日本女子大学の家政学部、本校で言う生活科学部に入学しているのです。大正10年頃ですから、そんな時代に花巻から娘さんを東京の大学に行かせたお父さんはすごいですね。この日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵はキリスト者ですから、仏教を熱心に信仰する家からのキリスト教的な学校への入学は、父親の英断だったんだなと思います。でもトシは、東京で結核に倒れてしまい、賢治が駆けつけて彼女を看病しています。その後、トシは花巻で亡くなるのですが、その頃には賢治と宗次郎は、親しい間柄になっていて、詩集のゲラを見せる間柄になっていたというわけです。

斎藤宗次郎の日記『二荊自叙伝』から

 この斎藤宗次郎の日記と言いますのは、彼が生涯にわたって克明に書きつづった膨大な日記のことをいうのですが、今回、彼と賢治が親しく触れ合った大正10年から15年までの、4年間の日記が、はじめて活字化され、岩波書店から二巻本で去年の7月に出版されました。『二荊自叙伝』といいます。「二荊(にけい)」というのは二つの冠、いばらの冠の事を言います。自分のことを二荊、二荊と斎藤宗次郎は言っているのですけども、一つはイエスキリストがかぶっている冠の事、もう一つは自分がかぶっている冠のこと、それで「二荊」と宗次郎は考えていたようです。
 その日記で興味深いのは、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、話をしている場面が描かれているところです。宗次郎は、その農学校へ新聞配達をしていて集金に行くのです。そしたら「宮沢賢治先生がいた」と書いています。実際は宗次郎の方が年上なんですが、賢治のことを「先生」と書いています。宮沢賢治先生がいて、中に入ってお話をさせてもらったと。そこで賢治と何を話したかというと、宗教の話などではなくて、二人で音楽を聴いたりしているのです。宗次郎は、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と日記に書いています。さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しています。そういう関係でした。
 宗次郎は、僕は宮沢賢治と宗教の事で話をした事はないと後に回想しています。でも、この二人は静かに交わっていたんですね。宮沢賢治はつねに熱烈な仏教徒であったのですが、斎藤宗次郎と交わる中で、次第に自分の宗教だけを主張してゆくだけではいけないと感じていったからです。
 斎藤宗次郎と賢治の意外な接点を見てきた人に中には、「デクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイウモノニ、ワタシバ、ナリタイ」という雨ニモ負ケズのモデルは、実はこの斎藤宗次郎ではなかったかという人も出てきています。宗次郎がモデルと決めてしまうのはよくないのですが、キリスト者として花巻を歩いている、その姿を見ながら、こういう信仰者の生き方もあるのだということを賢治は肌で感じていたのだろうと思います。かつて斎藤宗次郎はお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに宗次郎が回想しています。そんな二人は、お互いの信仰のことでは話をしなかったというのですが、でも宗次郎は「共に、それぞれに与えられた信仰を堅く守り、互いに信仰を生活し居ることを理解し、その人格に深き尊敬を払った」と後に書いています。自分の信仰する宗教、それだけを主張する生き方というのは本当は良くなくて、別の宗教で生きている人の姿と共鳴しながら生きていくのが大事なのではないか、ということを、おそらく二人とも考えていたのだと思います。その「思い」が最も反映されていたのがあの『銀河鉄道の夜』だったのです。そこでは、二つの宗教が対立しないように注意深く配慮がなされていたのですから。
 今、私が斎藤宗次郎の日記を見ながら思った事は、時代はみたび、宗教対立の時代に入ってきているなあという感想です。とくに、イスラム教とキリスト教との激しい対立には、今までにない憎悪が生まれてきているのを感じます。そんな、悲劇的な対立があるのですが、でも、かつて宮沢賢治と斎藤宗次郎が出会い、宗教論争を交わすこともなく、共鳴し合うようにして互いの信仰を認め合った、そういう信仰のあり方があったということを、今の時代に見直してもいいのではないかなと思いました。
 残念ながら、同女の今出川図書館には、この『二荊自叙伝』は置いてないのです。田辺には置いてあるのですが、今出川でも買ってもらって、みなさんの目に触れることができればいいなと思っています。
                       2006.1.13 今出川での礼拝奨励にて
                               
( 付記 奨励の後、野崎康明先生から、斎藤宗次郎氏のお孫さんが、元学長、児玉実英先生の奥様であることを教えていただき、驚きました。こんな身近なところに「ご縁」があったんですね。さらに、朧谷寿先生から『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』山根知子という本をお教えいただきました。「無知」は恐ろしいものです。お二人の先生に感謝申し上げます。)